水滸伝絵巻-graphies-

第百二十三回
汝の名は、神・中篇


 誰も、なにも言わなかった。
 呉用がやってきたのは、その時だった。
 彼は宋江の言葉を聞いたが、表情を変えなかった。しかし、その顔色からは、宋江からは何も知らされていなかったことが見て取れた。
 呉用は宋江に歩み寄り、静かに、その腕に手をかけた。
「宋江殿、あなたは、とてもお疲れだ。多くの仲間を失い、気が動転されている」
 集まった者たちは、二人の言葉に聞き耳を立てていた。
 その迫るような静けさが、呉用には却って不気味だった。

 呉用は花栄に目配せし、なお語ろうとする宋江を宿舎へと連れ戻した。
 花栄は、宋江が悩んでいることは気づいていた。宋江の、とにかく“戦”をすぐに終わらせたいという気持ちも分かる。
「しかし、無理だよ、宋江」
 花栄は、いつになく饒舌だった。
「気持ちは分かるが、“和議”だけはいただけん。悪くすれば暴動が起こる話だ。みな、仲間を何人も殺されている。納得するわけがないだろう」
 宋江は珍しく頑なだった。
「このままでは、死者が増えるばかりです」
「杭州は間もなく落ちる」
「そのために、また兄弟が何人も死ぬかもしれない」
 宋江は真剣な眼差しで、呉用を見た。
「呉用先生が反対なのは、分かっています」
 視線を卓に落としたまま、呉用は沈黙している。宋江の部屋は、裏庭に面した本営の奥まった場所にある。庭には痩せた楡の木が一本、立っているだけで、普段は静かだ。しかし、今日はその楡に蝉がいるらしく、騒がしい鳴き声をたてていた。
 その喧騒に負けぬよう、呉用は明瞭な声で言った。
「宋江殿のお考え、一理あります」
 花栄は驚くよりも、訝しんだ。
「先生、あんたまで何を言い出す」
「蘇州を失い、梁山泊軍が城外四十里まで迫っている。呂師嚢、方貌、癘天閏ら重鎮を続けて失い、杭州軍は動揺しているはずです。あるいは、彼らも和議を望んでいるかもしれません」
「だとしても、宋国は承知せんぞ」
「宋国にとっても、内乱が続いては国力を削ぐだけ。北方の遼国にも備えなければならない時です」
 呉用は顔を上げた。蝉の声が、一瞬、途切れた。
「そもそも、この反乱は、生辰綱の首謀者である朱面を断罪し、江南地方の税軽減と、住民の慰撫を行えば良かっただけの話です。今となっては、方臘軍を恩赦し、明教に対する弾圧をやめることも条件になるでしょう。しかし、梁山泊軍が勝利を続けている今なら、方臘軍と交渉できる余地はあります」
「呉先生」
 宋江の顔に安堵と喜びの色が浮かんだ。
「ありがとう。杭州の説得には、わたしが行きます」
「もちろん、宋江殿でなければ、杭州は信用しない」
 呉用は悠然と宋江に向かい会った。
「では、まず親書をお書きください。戴宗に杭州へ届けさせましょう」
 宋江が立ち上がった。
 その時、楡の木で鳴いていた蝉の声が、一瞬やんだ。
 しかし、三人はそれぞれの思いに忙しく、そのことに気づかなかった。


“鉄笛仙”馬麟は気配を消し、そっと窓辺を離れ、厩で待つ仲間たちのところへ戻った。蒋敬が尋ねた。
「どうだった、馬麟よ」
「杭州に“和議”を申し込むそうだ」
「ばかな!」
 集まった者たちは、騒然とした。
「本当か、馬麟」
「梁山泊優位の今なら、杭州も受け入れるのではないかと、呉先生が言っていた」
 不思議なことに、混乱はなかった。馬麟が“偵察”に行き、消息を伝えるまでの間に、全員が、宋江の言いだした“和議”について、自分なりの答を出していたのだ。
 やがて、魯智深が立ち上がり、去った。

 武松が立ち、燕順が立った。李逵が立ち、鮑旭が立った。馬麟と蒋敬が立ち止まり、孔明へ振り返る。孔明は少し悩み、やはり立った。
 頭領たちが無言のまま、ひとりふたりと、去っていく。
 静寂の中には、たったひとつの感情が渦巻いていた。
“怒り”だった。
 宋江のためではなく、方臘軍へのものですらない、激しい怒り。もし、それに目に見える形があるならば、天を焦がすほどの紅蓮の炎に違いなかった。

 蝉の声が、蜩の声に変わった。
 宋江が親書を書き終わるのを待って、花栄と呉用は部屋を出た。
 屋根のある廊下では、小者が灯をともして回っていた。
 宋江の部屋から離れるのを待ち、花栄は廊下の角で歩みを止めた。そして、親書を手にした呉用の涼しげな顔を一瞥した。
「何をたくらんでいる」
「なんの事でしょう」
「本当のことを言ってくれ」
「私は、時間がほしいのです」
 すでに呉用は、頭の中で筋書きをまとめていた。その場で小者を呼び止め、戴宗と朱仝のもとへ走らせた。
「あなたも、すぐに出かける支度をしてください」
「なにをする気だ?」
「わが軍は連戦し、疲れています。杭州決戦の前に、盧俊義軍と合流し、兵を休ませる時間が欲しかったのです。和議を申し入れれば、結果はともあれ、数日は交渉のために休戦できる」
「それだけか?」
「方天定ら杭州軍の首脳部の情報が足りません。彼らに会って人物が分かれば、今後の戦に有利になる」
「それから?」
「宋江殿の、心の安定をはかるためです」
 花栄は、ようやく納得したという顔をした。
「呉軍師に“婦人の仁”など似合わんからな。それでは、方臘の版図を乗っ取って、梁山泊が自立する……そんな夢は見ていないんだな」
 呉用に少しの間があった。そして、自分に言い聞かせるように答えた。
「不可能です」
「それならいい。しかし、万が一、方臘軍が和議に応じてきたら?」
「あり得ません」
「そうだな……」
 花栄は、再び廊下を歩き始めた。
 本営は、皋亭山の麓にあった、誰かの別荘を使っている。どこまでも続く回廊に、ぽつぽつと提灯がともっていくのが、寂しくもあり、美しくもあった。
「俺は、実際のところ、宋江の好きにさせてやりたいという気持ちもあるんだ。張順が死んだのが、あいつには、本当にこたえている」
 廊下の向こうから、朱仝と戴宗が足早にやってくるのが見えた。
「宋江は、がっかりするだろうな」
 呉用は答えず、二人に指示を与えようとした。しかし、呉用の前に立つなり、朱仝が先に口を開いた。
「魯智深たちが、杭州へ向かった」
 その一言で、呉用はすべてを悟った。
「みな宿舎へ引き取ったと思ったのだが、ひそかに集まっていたようだ」
 戴宗は目をそらしている。呉用は、変事があれば知らせるようにと、戴宗にみなの監視を命じていたのだ。
「戴院長、なぜすぐに知らせなかったのです」
「奴らの気持ちを思うとな……」
「みすみす死にに行かせるのも、“思いやり”ですか」
 戴宗は、どこか遠い空の方へ目をやった。
「この手紙を、杭州へ」
 呉用は戴宗に宋江の親書を渡した。
「急いでください。われわれも、すぐに追います」

 日は落ちた。西の空に、うっすらと残照が残るのみである。星は杭州の湿気にかすんでいたが、それでも強く輝いていた。
 城への道は、人家が並ぶ田園地帯だ。今は住む人もなく、灯もない。
 無人の町を、魯智深が行く。すこし置いて、武松が行く。李逵が、鮑旭が、項充が行く。燕順も遅れずについていく。王英と扈三娘を従えて。
 皋亭山から杭州城まで、およそ四十里。馬ならば四半時の距離である。
 たそがれの中、その顔はふてぶてしく、あるいは不敵で、逆光に沈む杭州城を睨んでいる。
 扈三娘は彼方の皋亭山へ振り返り、傍らの王英に寄り添った。
「いいのかしら、王英」
「親分が行くんだから、いいんだ」
「そうね」
 燕順は槍を杖にして進む。
「俺たちは“宋江の部下”じゃねえ、“兄弟”だ! やむにやまれず、袂を分かつ時もある! それでも、お互いの道を信じる! それが“梁山泊”だ!!」
 薄暮の中で、声が聞こえる。それは星々の呟きだ。
「宋国なんぞ、滅んじまえ!」
「方臘軍の奴らは皆殺しだ!」
 杭州城に着いた時には、すっかり夜になっていた。
 城には十三の城門がある。菜市門はそのうち、東側にある門のひとつだ。正しくは東青門、市場に通じるため菜市門と呼ばれるのである。
 その前に、魯智深が立っていた。禅杖を肩に、墨染めの衣が風にたなびく。
 あたりは暗く、互いの顔も分からない。
「方臘軍は出てくるか?」
「さぁな」
「汚い手を使ってくるぞ」
「その時は、大声で笑ってやれ」
 男たちは刃を掲げた。
「“一番槍”は和尚だ」
 武松が血気に逸る男たちを制した。
「最初に立ち上がった男だからな」
 武松は松明を持っていた。
 その炎を、樊瑞に移した。樊瑞は項充へ、項充は李袞へ、李袞は燕順に移した。
 炎がひとつずつ増えていく。
 扈三娘もその炎を受け取った。振り返ると、炎の列が銀河のようだった。
「まるで、星のお葬式だわ」

 報せは、すぐに“降魔太子”方天定のもとへ届いた。
「やぁ、あれは国師の仲間かな」
 方天定は、登元覚、石宝を伴って、自ら菜市門の楼閣に登った。
 篝火の中、ひとりの和尚が禅杖を担いで門を睨み付けている。
「梁山泊軍には、魯智深という荒法師がいるそうだね。あれがそうかな」
 石宝は案じた。
 杭州にも、すでに癘天閏、司行方が敗れたことが明教徒の密使によって伝えられている。
「梁山泊軍は油断なりません。また策を労するのでは」
 方天定は首を振った。
「彼らは捨て身で来ているよ。あの顔を見れば分かる」
「この距離で、顔が見えるのですか」
「うん」
 方天定は極めて普通のことのように答えると、傍らの登元覚へ振り向いた。

 登元覚は、もとは高徳の仏僧である。反乱前から方臘と知己があり、無一物にて旗下に馳せ参じた。その悟りの深さは“明使”呂師嚢と同列であり、“国師”として重んじられている。どちらも方臘に次ぐ高位である。ただ呂師嚢と際立って違う点は、呂師嚢の生涯の主眼が“教育”にあったのに対し、登元覚は“軍事”であった。
 方天定のために、聖なる王国、光明清浄世界を築き上げることこそが、登元覚の夢であり、唯一の目的だ。その実現にとって、梁山泊軍は最大の障害である。
「五台山の高僧、との風聞ですが」
「南少林寺の血が騒ぐかい?」
 登元覚の手で、錫杖の鉄環が音高く鳴った。
「どれほどの高みに達しているのか、ひとつ“問答”してみましょう」
 登元覚が言うと同時に、魯智深の大音声が轟いた。
「出てこんか! この“花和尚”魯智深が相手してやろう!」

 魯智深は片肌を脱ぎ、鮮やかな牡丹の刺青が露になった。
 方天定は笑い、登元覚はさらに渋面となった。
「たいした、“高み”だ」

 登元覚は門楼を降りていく。
 方天定は城壁ごしに梁山泊が掲げる松明の光を眺めた。
 数百人がいるようだが、隊列はなく、光の粒は八方に散っている。それは、星のように美しかったが、それだけだった。
「愚かだな」
 方天定は人ごとのように呟いた。石宝には、この夢見がちな少年の事が、今一つ理解できない。
「弓隊を配置しておきます」
「いらない」
 方天定はきっぱりと言った。その横顔から育ちのよい少年の面影は消え、ひどく鋭い“降魔太子”の表情が浮かび出た。
 方天定は、夜空へまっすぐに手を差し伸べた。
「篝火を!」
 城壁に篝火がいくつも灯され、菜市門周辺は白昼のごとく輝き渡った。

 城門が開き、吊り橋が下ろされる。
 城下の広場に、二人の和尚が対峙した。
 ひとりは墨染めの衣に数珠を巻き、手には六十二斤鋼の錫杖を突く。篝火に照らしだされる満開の牡丹こそ、“花和尚”の由来の刺青である。
 一方の“国師”登元覚は、生成りの直綴に黒檀の数珠をかけ、さっと黄金の袈裟を脱ぎ捨てると、諸手で渾鉄の禅杖を斜めに構えた。
「ふん、白坊主が出てきおったか」
 魯智深は登元覚を睨みつけた。
「わしもずいぶん坊主を見た。立派な長老もおるにはおったが、大方は箸にも棒にもかからぬ“ずくにゅう”よ。だがしかし、自分から人を殺したがるような下種は一人も見たことはない。この、魯智深の他には!」
 魯智深はいきなり登元覚に躍りかかった。
「その脳天に、わしの禅杖を百発くらわせてやろう!」
 自分も何か一言“説法”してやろうと構えていた登元覚は不意をつかれた。
 仏の教えは、死を前提にした救いである。迷えるものは輪廻して悟りを求め、菩薩となって蓮華の上に座することが至上である。
その“輪廻”を現世の修行で巡るのが明教だと、登元覚は理解している。
 銀に輝く錫杖が、魯智深の黒光りする錫杖をがっちりと受け止めた。魯智深の力に押され、登元覚の足が、ぐっと地面を踏み込んだ。
「荒法師よ、汝は“修羅”か、“畜生”か?」

 戦いに明け暮れる修羅道か、本能のままに生きる畜生道に堕ちたものかと、登元覚は問いかけた。
 武松は松明を掲げ、二人の和尚の戦いを見守っている。
「ここは、“地獄”さ」
 炎が燃え、剣が林と立ち並ぶ。人が、最後に辿りつく場所だ。

 人々が凝視する中、魯智深と登元覚は五十余合も禅杖を交えたが、勝敗は決しなかった。
 方天定は感嘆した。
「あの和尚がいる限り、梁山泊は簡単には落ちないないかもしれないな」
 登元覚は死力を尽くした。城壁から、方天定が観戦している。
 その隣には、石宝の姿がある。白く高い冠と金色の星は、篝火を受けて燦然と輝いていた。
(呂師嚢は、なぜ石宝を後任にしたのか)
 登元覚は、年若い石宝を認めていない。軍事の才はあるかもしれぬが、修行に危ういところがある。信徒の扱いも甘い。
 呂師嚢ならば、方天定の両腕として不足はなかった。彼亡きあとは、登元覚一人で太子を支える覚悟だったのだ。
 登元覚が“一騎討ち”などを受けたのは、おのが“武”を改めて示すためでもあった。しかし、魯智深と禅杖を合わせた瞬間、なにかが激しく登元覚の心を揺さぶった。
(この坊主、強い!)
 石宝にも、それが分かった。
「弓兵では警戒されます。百華兵も敵に知られておりますから、暗器を使える兵を吊り橋に出しておきましょう」
 方天定は頬づえをつき、戦いを眺めながら少しだけ考えた。
「いま国師が殺されては、すこし困るね」
 許可を受けると、石宝は城門の前に並ぶ衛兵のなかに、飛刀を隠した兵をもぐり込ませた。
「国師が危うくなれば、あの荒法師へ飛刀を投げよ。それまでは敵に気づかれてはならない」
 石宝が指示を終えて門楼に戻ると、北関門から伝令がやって来た。
「梁山泊軍から使者が参りました」
 伝令は一通の書状を石宝に取り次いだ。石宝は差出人の名前を確かめ、眉をひそめた。
「宋江から?」

 宋江は星空の下を杭州城へ向かっていた。呉用と花栄が従っている。
 その馬前へ、戴宗が駆け戻ってきた。
「杭州へ書状は届けた。魯智深たちは、菜市門外で“一騎討ち”だ」
 敵も一人の和尚を出してきて、大きな戦闘にはなっていないという。呉用は宋江に伺いを立てた。
「我々も菜市門外へ向かいますか」
 宋江は首を振った。
「北関門へ回りましょう。落ち着いて話し合いたい」
「危険ではありませんか」
「危険だから、行くのです」
 星の光が、彼らの上に青白い色を投げかけていた。
 呉用は不安だ。
“和議”を求める、宋江の気持ちは本物だ。
 呉用は、それを利用しようとしている。そのことが、呉用を不安にさせるのだ。
(宋江殿が、思うように動いてくれたら、私はどれほど助かるだろう)
 しかし、この世でただ一人、宋江だけが、呉用の思い通りに動かない。天機から外れているかのように、宋江だけは、呉用が思いもかけない道へ進もうとする。
 そして、“天魁星”である宋江が軌道をはずれれば、星々は勝手に動きだす。
(その道を戻すのが、私の役目だ)
 宋江は北関門へと進んでいく。戴宗がちらりと呉用の顔を見た。
「俺は菜市門へ戻る。なにかあったら、連絡する」
 それだけ言って、戴宗は駆け戻っていった。
 乞食の“鶏尾”が、宋江の馬の手綱をとっていた。玉獅子はぴんと耳を立て、進むのを嫌がっているようだった。
 花栄が宋江と呉用の間へ馬を進めた。
「心配するな、呉先生」
 花栄は肩ごしに呉用へ振り向いた。

「宋江は俺が身を挺して守る」
 花栄の鞍には朱雁があり、箙には矢が入るだけ入っている。なにかあれば、花家伝来の宝弓は、方天定を射抜くだろう。
 そんな企てを胸に秘めながら、花栄は堂々と胸を張り、その身にまとう華麗さを微塵を失うことはなかった。

「和議を求めながら、なぜ攻めるのです」
 石宝は素朴な疑問を呈した。
「指揮系統が乱れているのか……でなければ、必ず罠があるはずです」
 宋江に会おう──という方天定を、石宝は押しとどめた。登元覚がこの場にいれば、彼も必ず止めただろう。
「納得していないんだよ、彼らは。あの怒りに燃えた顔を御覧」
 方天定は、魯智深たちが、宋江の“和議”に反対するものたちの独断専行であろうと推測していた。
「人間の感情として、当然のことだ」
“計略”ならば、彼らが攻めてくる必要はない。
 しかし、石宝は納得しなかった。
「この“一騎討ち”や“宋江”で我々の注意を引きつけ、別の城門を大軍で攻めようとしているのでは」
「何度も同じ手を使うかな?」
「でなければ、今更“和議”の話し合いなど、あまりにも荒唐無稽」
「僕はそうは思わない」
 方天定は門楼の階段へ向かい、なお止めようとする石宝へ振り向き、微笑んだ。
「すべてには──“意味”があるんだよ」
 星のように、篝火の火の粉が流れる。その眩い輝きの中で、少年の瞳は深い井戸のように黒々と澄んでいた。

 魯智深は、登元覚を攻め続けた。
 心の奥底から浮かび上がる荒々しい感情に身をまかせれば、無尽蔵の力が湧いてくる。
 登元覚も死力をつくした。南少林寺の奥義を究めたと自負している。
(このわしと互角とは、恐るべき荒法師)
 登元覚が明教に投じると決めた時、彼は寺の僧たちを連れて行こうと試みた。しかし、長老は明教を認めなかった。登元覚を押しとどめようする長老と戦い、これを倒し、登元覚は方臘軍に身を投じた。その時、はじめて殺生戒を破ったのだ。
 悔いはなかった。
 以来、数多くの仏僧、道士を葬ってきた。嵩山や武当山の長老もいた。明教を邪教として、かたくなに認めなかったからだ。
(動きを読むのだ)
 登元覚は魯智深の動きに集中した。相手の意を読めば、動きが見切れる。わざとこちらの隙を作り、裏をかくこともできる。が、登元覚は愕然とした。
(読めぬ!)
 魯智深の動きは淀みない。登元覚は、そこに、なんの“意”も読み取れなかった。
(わしが“見えて”おらぬのか?)
 その一瞬の隙に、魯智深が登元覚の禅杖を叩き落した。
 はっとした時、吊り橋に控えていた方臘兵より、飛刀が魯智深へと放たれた。
 魯智深は、その方を見ることもなく、飛刀を禅杖で叩き落とした。
「まだわしの説法が聞き足りないか!」
 魯智深は一喝した。そして、自分の禅杖を投げ捨てると、素手で登元覚に殴り掛かった。

 拳が鳩尾に抉り込む音が、鈍く響く。
 今にも飛び出しそうな李逵を、鮑旭が押さえた。
「手出しならねぇ」
「ちぇっ」
 李逵は足踏みしたが、いつもの魯智深とは、どこか違うのを感じて踏み止まった。湖で拾ったこの牛角をつけてから、目が四つにでもなったように、世界がよく見える気がする。
 鮑旭が、足踏みする李逵の頭を、ちらりと見た。
「その角、“張順兄貴”が贈ってくれたのかもしれねぇ」
 李逵は妙な顔をして、頭の角に手をやった。
「おいら、まだ、張順が生きているって気がするんだ」
 魯智深の顔は、真っ赤な篝火に照らしだされ、金色に輝いている。
 李逵は思った。
「羅漢みてぇだ」

 魯智深の拳が、脚が、登元覚を攻めたてる。
 吊り橋の兵には、項充、李袞が飛び道具を手に睨みをきかせた。
 登元覚も攻められるばかりではない。
 南少林寺で鍛えた拳だ。登元覚は禅杖の扱いよりも、素手での戦いに長けていた。腰を落とし、力強い拳を繰り出す。
 登元覚はこの拳で数多くの求道者を殴り殺した。魯智深の拳は、かつて五台山にて仁王像を打ち砕いた拳である。阿羅漢を殺し、僧の和を乱し、仏像を破壊するという三逆を行った拳である。人を殺し、酒を盗み、昼となく夜となく恣に飲んで四つの戒を常に犯す身である。
 なお一杯の酒を加えれば、神をも打ち殺すであろう。
 誰もが息を飲み、素手と素手の戦いを見守っている。登元覚は巨漢である。魯智深よりも上背がある。しかし、その登元覚が、武松には魯智深より遥かに小さく見えた。
 魯智深は相手を打ち負かす気もなく、殺すことも考えていなかった。
 無心であった。
 相手が無心なら、こちらも無心でなければならない。
 しかし、登元覚は無心に達することができなかった。
 思わず見上げた城壁から、さっきまであったはずの方天定の姿が消えていた。
(いずこへ?)
 振り向いた時、登元覚には、魯智深が仁王のように巨大に見えた。仏法の守護者、怒れる金剛力士である。
 そして、この時、登元覚は初めて生きながらにして、“地獄”を見たのだ。

 杭州城、北関門。
 城壁にさらされていた赫思文と張順の首は、炎熱と烏のために骨ばかりとなり、それすらも、すでに跡形なかった。
 今はただ、篝火が燃えているだけだ。
 北関門にかかる吊り橋をはさんで、宋江と方天定は対峙した。
 方天定は篝火の燃え盛る門楼に、宋江は闇の中にいる。
 その立っている場所のごとく、年齢も容貌も、まるで異なる二人である。
 その夜、杭州の空は静かで、二人の声はよく響いた。
「戦をやめたい。戦いは、人を苦しめるだけです」
 宋江の停戦の申し出を、方天定は穏やかな微笑をたたえて聞いていた。
「停戦は、善いことだと僕も思う。方聖公に取りなしてもいい」
 少年の穢れのない微笑みには、無尽蔵の善意がこめられていた。
「宋将軍は、人が死ぬのが辛いのだね。そう、“和議”は、あなたを、その苦しみから永遠に解放してくれる」
 方天定は微笑みながら、右手を宋江の方へ差し伸べた。
「“条件”はひとつだけ。あなたをはじめ、梁山泊軍の将兵が、みな明教の信者になるのだ」
 呉用は宋江の方を見た。その顔は苦痛と苦悩に満ちている。一方の方天定は、神のごとき迷いのない笑みを浮かべている。
「酒肉財貨への欲を断ち、親子兄弟夫婦の情を断ち切って、光を宇宙に捧げれば、その果てに、あなたの望む世界がやってくる」
 その頭上には、夏空に散る星々が妖しく瞬いていた。

「できるかな?」

 魯智深の姿が真っ赤に燃える。
 あまりの気迫、力、技に登元覚は寒気を感じた。
 自分が、いったい何と戦っているのか、登元覚は見失いつつあった。
 篝火に照らしだされて戦い続ける白と黒の僧形は、光と影そのもののようだった。
 炎が燃えさかり、見守るものたちの顔も真っ赤だ。
 武松は腕組みをして、それを見ている。なにかが心の水底から滲み出すように、武松は笑った。
 天孤星“花和尚”魯智深。
“孤”とは、一個の瓜のごとく、ただ一人取り残された子。ひとりだけ、衆から離れ、抜きんでたもの。それが“花和尚”魯智深という男である。
(かなわぬ!)
 登元覚は逃げた。
 すかさず、吊り橋の方臘兵が援護に動き、城内からも貝応屓率いる部隊が打ち出してきた。
 貝応屓は登元覚の副将のひとりであり、城門の陰で、出撃を今かと待っていた。
 登元覚の声が響く。
「あの坊主を討ち取れ!」
 城門に向かって駆けながら、登元覚は魯智深がすぐ背後に迫っているような恐怖を覚えた。人ではない、圧倒的なものである。
「ばかな、摩尼光仏のほかに神はない」
 登元覚は、聖句を唱えた。
「必ず殺せ!」
 貝応屓が吊り橋を駆け抜けていく。彼はもとは在家の仏徒である。鰐口を盾に、鋼鉄の撞木を武器にしていた。
 真っ先に武松が飛び出した。

“行者”武松は『天傷星』だ。“傷”とは、人がものに強く当たって傷つく様だ。衝突せずにはいられない。
 同じ僧形でも、魯智深とは違う。
 かつて彼が望んだように、雲のごとく──孤独に生きていくことは出来ぬのだ。
 吊り橋上の飛刀兵を、項充、李袞の飛び道具が鮮やかに倒していく。
 李逵が倒れた方臘兵を踏み越えていく。燕順、王英、扈三娘は離れずに進む。
 貝応屓と武松が、吊り橋の中央でぶつかった。貝応屓は馬上から撞木を振り回し、武松を遮ろうとした。
 武松の肩を撞木が打った。同時に武松は戒刀を捨て、撞木を掴むと貝応屓を馬から引きずり落とした。
(ここは地獄だ)
 武松は笑いながら貝応屓を捩じ伏せ、首を落とした。
 ここは地獄だ。
 罪人しかいない世界だ。
 自分の罪も知らず、償いもなく、戦い、殺し続ける者どものうごめく世界だ。
 いま、武松にははっきりと見えた。
(帰ってきたんだ)
 いつの間にか遠ざかっていた、“この世界”に。
 青白い満月に照らしだされた惨劇、果てしない殺戮の夜に。

 武松は、ふと施恩の視線を感じた。
 しかし、貝応屓の首を手に、振り返っても、もう誰もいなかった。

 東方から、攻め太鼓が轟いている。
 城内に逃げ戻った登元覚が打たせている。すぐに伝令が北関門へ馳せつけてきた。
「菜市門で戦闘が始まりました」
 報告を受け、方天定は小首をかしげた。
「宋将軍の言う“和議”とは、不思議なものだな」
「わたしは……」
「ならば、彼らを止めてもらおう」
 呉用が馬を進めた。
「宋江殿、戻りましょう」
 花栄の手は、すでに朱雁に置かれている。
 方天定が、片手を挙げた。
「その通り。決裂ならば、戦うしかない」

 北郊外の林のなかで、“険道神”郁保四が低く唸った。
 朱仝は、はっとして顔を上げた。
 また雷横のことを考えていた。
 夜空に戦鼓が鳴っていた。
 朱仝は呉用の意を受けて、五千騎を従えて林のなかに待機していた。宋江を守るための伏兵である。
 すぐに楊林が駆け込んできた。宋江たちから離れて闇にひそみ、北関門の様子を見張っていたのである。
「出番ですぞ!」
“小烏龍”が促すように羽ばたいた。
 朱仝は馬腹を強く蹴り、隠れていた林から出た。出しなに、戴宗と鉢合わせした。
「ちょうどいい。菜市門で戦闘開始だ、援軍がいる!」
「我等は宋江殿を守らねば」
 呉用は、菜市門では大きな戦闘にならないと見て、宋江の護衛に重点を置いていた。そして、杭州城の守りは堅い。敵も当然、梁山泊軍の奇襲を警戒する。独断専行した魯智深たちが菜市門に迫るとは、呉用も予想していなかった。
「あいつらは本気だ」
 呉用が予想しなかったものを、戴宗は見た。魯智深たちは、策も命もかなぐり捨てて、戦っている。そして、敵はそれに応じたのだ。
「取れるかもしれん!」
 あの勢いならば、吊り橋を押し渡り、城門を奪うことができるかもしれない。
「俺は行くぜ!」
 史進が馬を躍らせた。

「俺は、はなから和尚の方へ行きたかったんだ!」
 こっちが重要な任務の“本隊”だと説得されて、仕方なく従ったが、今やあっちが“本 隊”だ。
「悪いな、朱仝!」
「まて、史進!」
 史進は駆け去っていく。
 朱仝は悩んだ。
 呉用からの命令は、“護衛”であり、“交戦”ではない。“交渉の決裂”を前提に、宋江を安全に帰還させることが至上目的なのだ。
(しかし、ここで杭州を落とせれば)
 朱仝らしくない考えがよぎった。
 ここで杭州城を落せば、遠からず“宋江の願い”はかなう。方臘軍は江南支配の最大の足場を失い、窮地に陥る。あとは、防壁を失った方聖公を攻めるだけだ。
(しかし、宋江殿の身の安全は)
 ここで菜市門へ向かえば、宋江たちが危地に陥る。
 逡巡する朱仝の視界へ、巨大な人影が飛び込んできた。
「──朱仝よ、行け」
 闇の中、星明りだけに照らされた、その人は、神託のごとく朱仝に告げた。
「あなたは」

 夜が深まる。
「逃げるぞ、宋江!」
 花栄は箙の矢を引き抜き、方天定に向かって放った。百発百中の“小李広”の矢が、石宝の流星鎚で叩き落された。“鶏尾”が宋江の馬の口を取り、三人は逃げた。すぐに朱仝が来るはずだ。
 方天定は石宝に追撃を命じた。
「菜市門から国師の軍が出せれば挟撃できるけど、あの太鼓を聞くと、その余裕はなさそうだ」
「それもすべて計算づく、伏兵があるのでは」
「流星将軍は心配性だな」
 方天定は微笑した。不思議な、神秘的な笑みだった。
「出撃を命じる。宋江を、殺せ」
 北関門から石宝配下の精兵三千が打ち出した。驃騎であり、足が速い。すぐに宋江らの背後に迫った。
 呉用も、この展開を想定していなかったわけではない。話し合いが決裂して、万が一、敵が襲ってきたら、すぐに朱仝が駆けつける手筈になっていた。朱仝は打ち出してきた敵を撃退できる充分な手勢を率いている。石宝か方天定が出てきたら、伏兵となった史進が襲いかかるはずだった。
(朱仝はまだか)
 朱仝は現れなかった。前方には、ただ、真っ暗な闇が広がっているだけだ。
 東の方角か聞こえる喚声が、夜の風を震わせている。
(菜市門で戦闘が?)
 方臘軍が、数百人の“梁山泊軍”を本気で迎撃するとは思えなかった。奇襲か、囮と警戒し、まずは出方を探るはずだ。
 呉用には、方臘軍の動きが読みきれない。油断なく裏をかいてくるのに、時に思わぬ単純な反応することかある。
 それは、宋江に対するものと同じ種類の“不安”の種をはらんでいた。
(私に何かが欠けていて、彼らの心が見通せないのか?)
 背後に石宝の軍が迫る。
 その時、呉用は豁然と悟った。
(違う。我々は、“互角”なのだ)
 呉用が時間を稼ぎ、方天定の様子を探ろうとしたのと同じく、彼らもまた、宋江を“見よう”とした。和議の話し合いに応じるふりをして、宋江や呉用を値踏みし、あわよくば、討ち取るつもりだったのだ。
(菜市門で戦闘が起こったのは天祐だ)
 でなければ、挟撃されただろう。しかし、それも時間の問題だ。魯智深らが倒れれば、その軍は、こちらへ向かってくる。あるいは、朱仝はその対応にあたっているのか?
 方臘軍は吊り橋を渡り終わり、着実に彼らの背後に迫ってくる。
 花栄が振り向いて馬上から五本の矢を放った。五人の敵が違わず落ちた。倒れた仲間をを飛び越えて、石宝軍の勢いは衰えることがない。
「朱仝はどうした!」
 花栄は自分に問うように叫んだ。
 敵の馬蹄の響きが背後に迫る。あたりがほのかに明るいのは、追手が掲げる篝火だ。呉用は遼国戦以来の愛馬“小獅子”の背に伏しながら、徐寧の姿を、赫思文の首を、張順の死を思った。
(そうか、私も、いつか死ぬのか)
 不思議なことに、呉用はそのことを実感したことがなかった。
“小獅子”はもう立派な大人で、呉用には構わず軽快に駆ける。
“鶏尾”の脚も速かった。宋江の馬の尻を鞭打ちながら、ついてくる。
 疾走しながら放たれる花栄の矢は、流れ星のようだった。
 無人の集落を抜け、宋江たちは野原に出た。その時、やっと前方に軍勢の気配がした。呉用は、敵ではないかと訝った。
 呉用は懐に手をやった。しかし、懐には羽扇と銅鏈があるだけだった。
 前方の軍勢が見る見る近づく。
 目のいい花栄は、星明りでその人の姿を見極めた。
「朱仝め、やっと来たか!」
 思わず安堵の声を上げたが、花栄はもう一度、目を凝らした。
 その時には、呉用も気がついていた。
「いや、あれは」

 たなびく長髯、紅の馬。青竜偃月刀を掲げている。
 間違いなく、それは“大刀”関勝であった。
 それでも、花栄には信じられなかった。
「あれは、本当に関勝か?」
 脇目もふらず花栄らの傍らを駆け抜け、関勝は背後に迫る方臘軍へと突入した。
 大刀が風を起こして、まず最初の首が飛んだ。続けざまに左右の敵を斬り落とす。従うのは、青い旗を立てた千騎ほどの関勝隊だ。鋼の統率を誇る。それが、隊列を乱していた。関勝の勢いが、あまりに激しすぎるのだ。
 追手が掲げる松明が、その姿を照らしだす。
 関勝は戦っているのではなく、ただ敵を殺していた。
 その姿は篝火のためだけでなく、人馬ともに紅蓮に燃え上がっているようだった。
 宋江が、呼んだ。
「関将軍……!」
 その声も、もう、聞こえない。

 石宝は、城から打ち出した方臘軍の後方にいた。
(“赤い男”)
 湖畔の葬儀で対峙してから、二度目の邂逅である。あの時は、得体のしれぬ恐怖を感じて、石宝は馬首を返した。
 それまで、石宝には、敵はなかった。入信以来、何百という戦いに出て、数多の強敵と戦ったが、いまだ一度も傷を負ったことがない。敵は、すべて殺してきた。石宝は、“敵”と思ったことすらない。それは、害虫と同じようなものだった。
 彼の部下である純白の方臘兵が、たった一人の男によって、倒れていく。
 そのさまを、石宝は凝視していた。
(この男は、私を殺すかもしれぬ)
 しかし、今日は前ほどの恐怖を感じなかった。
(闇が深い。とても。私と、同じほどに)
 そして、さらに石宝は思った。
「彼もまた、私に殺されることを望んでいるのではないか?」

 石宝の馬が、駆けた。
 白馬である。
 倒れ伏した仲間を踏み越え、戦場にひとり屹立する紅の男へ迫った。
 石宝は流星鎚と劈風刀を両の手に、関勝の前に立ちふさがった。

“南離元帥”にして“明使”、人呼んで“流星”石宝。文武兼具の方臘軍最強の男である。数多の光を解き放ち、その双眸は深い闇をたたえている。
 関勝もまた、非情の目で石宝を一瞥した。偃月刀から、今しも斬り伏せた方臘兵の血潮が滴る。
 彼我の“英雄”はともに語らず、一瞬、眼を合わせただけだった。
 月もない暗い夜だった。


※文中の「癘天閏」は、正しくは癘天閏です。
※文中の「朱面」は、正しくは朱面です。
※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「貝応屓」は、正しくは貝応屓です。




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