水滸伝絵巻-graphies-

第百二十三回
汝の名は、神・中篇


 篝火が一層、燃える。
 夜が深まるとともに、闇も濃くなり、わずかな光が数倍の明るさを発揮していた。
 関勝と石宝の腕前は、二十合を交え、互角であった。
 石宝は関勝を相手取って、よく防いだ。“武神”関勝、存在そのものが“大刀”である男の刃を二十回まで受けるのは、並大抵のことではない。
 石宝は、圧倒的な力にさらされていた。
 流星鎚を弾き返す、関勝の気迫。人も馬も、大刀さえ一体となり、人間と戦っているとは思えなかった。これほどの強い殺気は、野獣でさえ持っていない。
 憎悪とも、殺意とも違うものが関勝の全身から確かに放出されていた。
 関勝は流星鎚など見ていない。ただ斬り込んでくる。
 石宝は疑念を抱いた。
(これは、人か?)
 それとも、鬼神か。

 石宝の疑問を切り裂くように、関勝が喚いた。
 雄叫びであった。同時に刃が石宝の胸をかすった。
 石宝は反射的に身を引くとともに、馬を返した。
 石宝は全速で西の方角へ向かって逃げた。
 関勝は追った。
 それを確かめ、石宝の目に暗いかすかな笑みが過った。
(あれは、死にゆく巨大な獣だ)
 まとう炎は、憎悪でも殺意でもなく、その苦しみと──怒りなのだ。
 ならば、止めを刺してやるのが、狩人の慈悲であろう。
 夜空の下、関勝は石宝を追った。
 関勝には、分かっている。石宝は、わざと逃げたのだ。
 必ず計略がある。
 部下たちは、石宝配下の精鋭部隊と交戦中だ。苦戦する部下たちを、関勝は顧みなかった。
 戦場を抜け、関勝は星空の下を単騎で駆けた。
 石宝の白い甲冑が、前方の小さな集落の中に逃げこんだのが見えた。
 関勝は速度を上げた。
 風が聞こえる。
 月もなく、闇の中に、馬蹄の音だけが響く。
 背後には、誰もいない。
 赤兎についてこられる馬はいない。
 関勝は走り続ける。
 それなのに、誰かがいるような気配を感じた。
(宣贊、赫思文!)
 振り返ると、白い馬が見えた。方臘軍かと思ったが、単騎だった。
 白馬は飛ぶように速かった。
 それほど速い馬を、関勝は赤兎のほかには、一頭しか知らない。
 そして、闇夜に白く輝く馬は一頭きりだ。
 宋江の天馬──“照夜玉獅子”だった。

 玉獅子は宋江を乗せたまま、赤兎に追いついた。長く首を伸ばし、赤兎の横に鼻を並べた。二頭の馬は、並んで駆けた。赤兎は何度か抗うように首を振り、やがて、少しずつ速度を落とし、やがて、止まった。
 夜空へ向かって、赤兎は哀しげに嘶いた。
 前方の集落の土塀の陰で、きらりと流星鎚が銀色に光った。
「帰りましょう、関将軍」
 宋江が、ささやくように言った。

 石宝は、去っていく赤と白の馬を見送り、構えていた流星鎚を収めた。
(まだ死ぬ時ではないようだ)
 特に残念にも思わず、石宝は汗を拭った。
 そして、不思議そうな眼を、自分の濡れた掌に向けた。
(私は、なぜ汗などかいている)
 石宝は月のない夜空を見上げた。
 太陽は隠れ、星は遠い。なにものも、一条の光も、熱も、彼の心に投げかけることはない。
 満天の星空も、闇と同じだ。
 心にも、体にも、一片も熱も残っていないはずなのだ。

 登元覚は城門を守っていた。
 扉は、まだ開いている。
 その前に、登元覚は禅杖を握り、佇立していた。
 眼前に伸びる吊り橋を、怒れる羅漢が大股で近づいてくる。
 その歩みは緩慢に見える。しかし、登元覚は感じていた。
 巨大な影は既に彼の頭上にのしかかり、杭州城まで呑もうとしている。
 誰も手だしできず、誰も止めることはできなかった。
 吊り橋は狭い。一人ずつ打ちかかる方臘兵を、魯智深は打ち倒すことさえしない。僅に体を開いただけで、勢いあまった方臘兵をかわしていく。
 それを、背後に続く鮑旭、李逵たちが餌食にした。
「──見える」
 それは、異形の群、悪鬼羅刹の行進である。
 呂師嚢の言葉は本当だった。
 あの者たちは、光明清浄世界の破壊者である。
「あの者の背後に、燃え盛る炎が見える」

 それは煩悩の火か、護法の焔か。登元覚がかつて殺した、すべての僧侶、道士の霊、その怒りが、灼熱の光背となっているのか。
「矢を放て!」
 城壁から魯智深に向け、数十本の矢が同時に放たれた。すかさず項充と李袞が飛び出して、団牌で盾を作った。弾かれた矢が吊り橋に散る。
 魯智深は左右を払った。
「のけぃ!」
 再び歩き始めた魯智深へ矢が放たれる。魯智深は両腿を踏ん張り、錫杖を風車のごとく回して矢を叩き伏せ、なお進んだ。
 そして、登元覚まで五十歩残して立ち止まり、仁王立ちした。そのまま魯智深は微動だにせず、登元覚を睨みつけ、一喝した。
「そもさん!」

“さぁ、どうする”
 禅宗の問答の問いかけである。臓腑まで響く問いであった。
 その時、折しも朱仝が五千の歩騎を率いて菜市門外へ押し寄せた。
 登元覚は、即座に答えた。
“さぁ、どうする”
「門を、閉じよ!」

 その夜、皋亭山の梁山泊陣は、深夜になっても落ち着かなかった。
 戴宗はあちこちへ走り回っている。
 轅門で、同じく汗だくの楊林と行きあった。
「“錦豹子”、宋江さんはいたか? 呉先生は?」
「見つけました、そら、あそこに。ご帰還です」
 戴宗は楊林が指さす方に目を凝らした。ほどなく、轅門に掲げられた篝火の光の中に、宋江、花栄、呉用らが関勝とともに現れた。
 戴宗は報告した。
「朱都頭が菜子門に到着すると、敵は城内に……」
 それ以上、戴宗は話しを続けるのをためらった。
 楊林が、宋江が馬から降りるのを手伝った。宋江は疲れ果てている様子だった。呉用が気づかって声をかけた。
「大丈夫ですか、宋江殿」
 そこに、わっと騒ぐ声が近づいてきて、魯智深たちが帰ってきた。
 みな真っ赤な顔をして、血を浴びていた。彼らの顔は、怒っているようにも見え、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
 男たちは興奮し、わけのわからないことを喚きながら門をくぐり、三三五五、陣内に散っていった。

 星空の下を歩いて、呉用は真っ暗な宿舎に戻った。
 呉用にも従卒はついているが、身の回りのことは自分でする主義だ。余人が彼の宿舎に立ち入ることは殆どなかった。
 部屋は暗く、湿っていた。
 窓をあけ、呉用は竹の寝台に腰を下ろした。
(戦をやめることなど、不可能だ)
 なぜ、宋江にはそれが分からないのだろう。
 一瞬で戦いが終わる方法などがあるのなら、呉用こそ教えてほしい。
 疲れ、目を閉じようとした呉用の視界に、ふわりと緑がかった光が映った。点滅する淡い光は、窓から迷い込んできた、蛍だった。

 呉用は、じっと小さな光を見つめた。
 儚く、もろい光だった。蛍の命、そのものだった。
(不可能だ)
 呉用は心の中で、もう一度、確かめるように繰り返した。
 方臘軍と梁山泊軍は、あまりに異質だ。それなのに、すべてが“互角”なのだ。彼らは、はじめて互角の敵に出会ったのだ。
(それが分かっただけでも、今夜のことは収穫か)
 ふわりと闇に緑の光が流れて、蛍が窓から出ていった。
 あんなに小さな光だったのに、部屋は一層、闇を増したようだった。
 息をつき、呉用は寝台に横たわった。
 戦いは、明日も続く。
 戦いは、終わるまで続くのだ。
 分かっているのに、かくも体が重いのは、もしかしたら彼もまた、宋江の言う“和議”を、どこかで望んでいたのかもしれなかった。

 翌朝は、少し曇っていた。
 昨夜の疲れか、陣内には緩慢な空気が漂って、これという動きもなかった。
 空気が変わったのは、昼過ぎだった。
「盧俊義隊、到着!」
 伝令の声が響き、ついに徳清県の処置を終えた盧俊義隊が、呼延灼隊と兵を併せて続々と皋亭山の梁山泊本陣へ到着した。
 先触れがあったので、石秀や馬麟らは馬で一行を迎えに出ていた。
「雄さん!」
 石秀は、軍勢の中に楊雄の姿があるのを確かめ、馬を寄せた。
 馬麟は欧鵬を探し、見つからず、怪我人を乗せた荷車の中でようやく再会を果たした。
 盧俊義は軍営が見えてくると、無意識に宋江の姿を探していた。
 呉用はいたが、宋江の姿は見えなかった。
 それが、盧俊義に妙に寂しい気持ちをかきたてた。
 宋江は、盧俊義が轅門に着く頃に現れた。どこか疲れた足どりだったが、馬上の盧俊義と目が合うと、安堵したように笑った。

 久しぶりの合流だった。
 東京の残留組、海に出ている阮小七、張横ら、方聖宮の探索に赴いた柴進、燕青のほか、すべての顔ぶれが揃った。
 悲喜こもごもの再会である。
 馬麟と蒋敬は、負傷した欧鵬の看病に忙しくなった。
 魯智深は李忠と酒を飲み、朱仝は雷横の遺体が徳清県の寺に安置されたことを確認した。
 呼延灼は、宋江への報告を済ませると、外に出た。もう午後も遅かった。夜は、小宴が設けられることになっていたので、それまで僅かな時間があった。
 呼延灼は安道全のもとへ向かった。
 安道全は負傷者用に割り当てられた建物の中で、朱貴に付き添われた林冲を診察していた。
「病なのか?」

 林冲は憔悴しきった様子だった。呼延灼が声をかけても、顔を上げることもなかった。
 安道全は、真剣な顔で診察している。
「呉先生が呼んでいる」
「“軍神”みずから、お使いか。わしも偉くなったものだ」
「湖州で、朝廷からの書類を預かってきた。宋江殿宛のものだが、内容は、あなたに関わることだ」
 安道全は不審そうな目を上げた。
「わしは今、忙しい」
 無愛想に言って、仕事に戻った。
 安道全は疲れていた。もう、ずっと疲れている。
 用件を伝え、呼延灼は部屋を出た。
 建物の中には、大勢の負傷者がいた。
 呼延灼は、病床の並ぶ部屋を通り抜け、軽傷者が治療を受ける廊下を巡り、人々が診察を待つ庭を歩いた。
 その中に、我知らず、呼延灼は見慣れた男たちの姿を探した。
 しかし、どこにも、韓滔、彭己の姿はなかった。

 索超は、砂塵の舞う陣営の中を歩き回っていた。
 幾度かあたりを見回し、やがてぼんやりと立ち止まった。
「どうした、迷子か」
 誰かに肩を叩かれ、振り向くと、花栄だった。
「俺でがっかりした、という顔だな」
「楊志がいるかと思ってな」
「そんなわけはないだろう」
 花栄は笑った。索超は、笑わなかった。
「楊志は、本当に、病などで死んだのか」
 花栄は、ようやく索超に正面から向き合った。そして、索超と楊志が、友人という言葉はややそぐわないが、ある種の友情を持っていたことを思い出した。
「索超よ。楊志は、立派に戦って死んだ。少なくとも、俺はそう聞いている」
「……そうか」
 索超はまた歩きだした。
 炎天下、陣営を行き交う人々が、影絵のようだ。
 踏みしめる地面が、夢の中のように頼りなかった。
「本当に楊志は死んだのだな……」
 こんなに大勢の人がいるのに、楊志ひとりがいないことが、これほど胸に堪えるとは、索超は思ってもいなかった。

 去っていく索超の背中を、道端に座った少年が見送っていた。
 徳清県から着いたばかりの、あの生意気な少年兵だ。
 裴宣の事務房の前にいて、小魚が用事を済ませるのを待っていた。
 やがて、建物から小魚が出てきた。その顔は少し強張っていたが、少年兵は気づかなかった。曲げた膝に顎を乗せ、行き場所を失ったような表情が、索超とどこか似ていた。
「人って、死ぬと、なにもなくなっちゃうんだなぁ」
 小魚は、物憂げに陣営を眺めている少年兵の顔を見下ろした。いつもの“生意気”のようではなかった。
 小魚は、がむしゃらな少年から、思慮深い青年に成長しつつあった。
「そんなことはないよ」
 花栄が索超の言葉にできぬ思いを感じ取ったように、小魚も友達の言葉に何か深い思いがあることを汲み取った。
「俺は、今でも……」
 こみあげる感情に口ごもったが、小魚は勇気をふるって言葉を続けた。
「俺は、今でも、死んだ友達のことを覚えている。必ず、ずっと覚えているよ」
 少年はちらりと小魚の方を見たが、慰められた様子はなかった。
「それは、ちゃんと付き合いがあったからさ。僕があんたの友達を知らないように、知らない人には、やっぱり最初からいないのと同じだよ」
「それでも、いたんだ」
 小魚は、静かだが強い口調で言った。
「“小狗”なんて、ひどい名前で呼ばれてたけど、頼りになる兄貴だったんだ」
 小魚は、あの“陳橋の変”以来、感情の薄い子供になった。その小魚の感情の波に気づいて、少年兵は驚いたように目を上げた。
 小魚は、その目をしっかりと見返した。
「お前の名前、聞いておくよ」

「いつか、みんなに、話せるようにかい?」
「ああ。生意気だけど、勇敢な奴だったって褒めるつもりだ」
 二人の少年は明るく笑った。
「僕の名前は、“関鈴”さ」
「女の子みたいな名前だな」
「男ばっかり四人兄弟の末っ子だからね。両親は、可愛い女の子がほしかったんだ」
 関鈴は、晴々とした顔をして、飛び上がるように立った。
「関勝って人、どこだい?」
「親戚なのか?」
「違うよ。でも、有名だからね。神様なんだろ? 見てみたいよ」

 小魚は、たった今、裴宣から預かってきたばかりの書類をめくった。
「奇遇だな。お前は関将軍の隊に配属されている」

 小魚と関鈴が去ると、入れ違うように呼延灼が事務房にやってきた。
 裴宣は梁山泊軍の人事を一手に担い、もともと人の出入りは多い。しかし、軍務一辺倒の呼延灼が出入りする事はかつてなかった。
 部屋の中では、裴宣が楊林とともに、届いたばかりの戦死者名簿を整理していた。
 頭領はもちろん、部将から兵卒まで名簿を朝廷へ送り、家族への通知と恩給支給の手続きを行うのである。
 裴宣たちが作業する大きな机の背後の壁には、戦死した頭領たちの位牌が並べられていた。行軍中であり、金大堅も鄭天寿もいないので、木札に名前を書いただけの簡単なものだ。
 それでも、裴宣の心尽くしだろう。ささやかに野の花や線香が手向けられていた。
 韓滔と彭己のものも、隣り合って並んでいた。
 呼延灼は、その木札を二度、確かめた。間違いなく、二人の名だった。
  “百勝将”韓滔
  “天目将”彭己
 それは、墨汁で書かれた文字の列にすぎなかったのに、そこに二人が拱手して直立しているかような衝撃を、呼延灼に与えたのである。
 楊林は名簿を見ながら、新しい木札を書いている。席次準に並んだ名簿に、真新しい黒い印がついていた。
 並べられていく新しい位牌を、呼延灼は眺めていた。
  梁山泊第十五位頭領 天立星“風流双槍将”董平
  梁山泊第十六位頭領 天捷星“没羽箭”張清
  梁山泊第十七位頭領 天暗星“青面獣”楊志
  梁山泊第二十五位頭領 天退星“挿翅虎”雷横
  梁山泊第三十位頭領 天損星“浪裏白跳”張順
  梁山泊第四十位頭領 地傑星“醜郡馬”宣贊
  梁山泊第四十一位頭領 地雄星“井木干”赫思文
  梁山泊第六十三位頭領 地狂星“独火星”孔亮
  梁山泊第七十八位頭領 地捷敏“花項虎”共旺
  梁山泊第八十五位頭領 地伏星“金眼彪”施恩
  梁山泊第八十七位頭領 地空星“小覇王”周通
 並べ終わり、扉の方に振り向いた楊林は、ようやく呼延灼に気がついた。
 楊林が声をかける前に、呼延灼は湖州から預かってきた事務関連の書類を裴宣の前に置いた。
「将軍みずから、恐れ入ります」
 裴宣は立ち上がり、丁寧に礼を述べた。わざわざ呼延灼が届けるような書類ではなかった。さっき小魚も来たところだ。しかし、裴宣はなにも問わず、茶を勧めた。
「干し梅でもいかがです。お疲れでしょう」
「ひとつ尋ねたいのだが」
「どうぞ」
“鉄面孔目”裴宣は文官ながら、つねに簡潔に話す。それが、軍隊式の会話に慣れた呼延灼の警戒心を解いたのかもしれなかった。
 呼延灼は重い口を開いた。
「わしは、書物は兵法しか読んだことがない。“威”とは、よい意味ではないのか」
 裴宣は、すぐに呼延灼が言っている意味を悟った。壁に並んでいる位牌には、みなの星の名も書かれている。
“天威星”は、呼延灼のものとされる星だった。
“軍神”呼延灼が、石版の不思議や宿星の神秘を信じているとは思えなかったが、そのことを尋ねているのは確かだった。
 裴宣は率直に答えた。

「“威”の字義は、戈で女を威嚇するさま……弱きものを力づくで屈伏させ、捩じ伏せることです」
 呼延灼は、表情を動かさなかった。
 しかし、その無骨な仮面の下で、何かの感性が動いたことは、やはり鉄の仮面をもつ裴宣には敏感に感じら取れた。
 それでも、老将軍が誰の姿を思い浮かべたかまでは、裴宣にも分からなかった。

 西湖の彼方に日が傾く。
 日没の礼拝を控え、方天定は雷峰塔で瞑想していた。
 武装は解き、簡素な白衣に身を包んでいる。
 目を閉じていると、感覚はさらに鋭敏になる。心に翼が生えて、湖を、彼方の山を越えていくような感覚さえある。その万能感が、多感な少年には快楽だった。
 しかし、いま感じるのは、不穏な空気、雑然とした五色の旗が発する雑多な感情の波ばかりだ。
 方天定は、階段を登ってくる人の気配に瞑想を中断した。
 登元覚であることは、すでに方天定には分かっている。
「太子よ。宋江から、返答はくるでしょうか」
「こないよ」
 方天定は屈託なく答えた。
 夕日を眺める横顔は、あどけない少年そのものだ。それなのに、登元覚には、自分より、ずっと年上のように感じることがある。
「僕は見た」
 方天定は登元覚の方へ振り向いた。
「僕は見た。宋江の光──とても大きくて、強い。見たこともない濃い光が、彼の中に閉じ込められている」
「では、仲間に?」
 方天定は首を振った。
「彼の哀しみは、あまりに深い」
 湖を渡る風が、二人の間を吹き抜けていく。
 方聖公は、“降魔太子”方天定こそ、来たるべき光明清浄世界の王となる少年であると予言していた。
 登元覚は、それ以前より、方天定は生まれながらの天人であると見抜いていた。
 方臘と登元覚は同郷で、方天定が生まれた時から知っている。神秘的な子供だった。二歳で初めて寺に遊びに来た時、無邪気に笑う幼子に、戯れに、“煩悩とは何か”の問いを投げかけた。すると、方天定は笑みを収め、大切そうに手に持っていた桃の実を、ぽとりと落とした。
 その時の澄みきった瞳、どこか哀しげな崇高な眼差しを、登元覚は忘れない。
 彼が堕落した仏教を捨て、明教の教主となった方臘のもとへ馳せ参じたのも、方天定のためであった。
 方天定の無垢な言葉は、経文よりも登元覚の心に響くのだ。
 しかし、その役割は少年の身にはあまりにも重く、時に痛々しく感じるほどだった。
「哀しみは消えない。薄まるなら、それは本当の哀しみじゃない。苦しみから逃れるためには、心ごと、手放してしまうしかないんだ」
「……母上のことを?」
 方天定は自分の裸足の右足に視線を落とした。臑に大きな刀傷があった。この傷のため、歩く時、わずかに足を引きずる。
「そう。僕は、父を恨んでもいない」
 方天定が、珍しく方臘を“父”と呼んだ。しかし、そこには肉親の情はなかった。
 湖を染め、夕焼けが黄金に燃え上がる。
 夕焼けの色が、方天定の頬に少年らしい活気を添えた。

「美しいな」
 夕方の風に髪をなびかせる少年は、生まれたての神のようだった。
「すべてを手放しても、美しいものを、美しいと思う気持ちだけは、失いたくない」
 そして、思い出したように、傍らの台から螺鈿の蝶を象嵌した木箱を取った。中には、杭州の選りすぐりの宝石が詰まっていた。
 方天定は一粒の翡翠を手にとった。
「宝石は、うちに光を秘めている。でも、それを取り出すことはできない。たとえ眼に見えないくらい小さく砕いても、光は、無数の破片に閉じ込められたままなんだ。光を失った宝石は、ただの石ころさ」
 方天定は翡翠を戻し、螺鈿の箱を登元覚に手渡した。
「猊下に戦況を伝える使者を送るだろう? その時、これを姉上へ届けておくれ」
 登元覚はためらった。
 財貨を集め、装飾品を愛玩することは、明教では禁忌である。
 それを察し、方天定は微笑んだ。
「いいんだよ。彼女は、“特別”だ」

 孫二娘が関鈴を呼んだ。
「坊や、あんた、関将軍に付いたんだってね。今日はどんなご様子だい?」
 食堂まわりは夕飯の支度で賑やかだ。関鈴も鍋を提げて、夕食をもらいに来たところだった。
「まだ会ってないよ。僕は下っぱだからね」
「会いたいだろう。官軍の兵隊にとっては、あの人は“神様”らしいから」
「神様なんか、いるかなぁ」
 関鈴は疑うように小首をかしげて、孫二娘に鍋を渡した。
「むかし、廟会に行った時、神様の芝居を見たよ。その時、母上が仰ってたっけ。普通の人には耐えられないくらいの苦しみや、怨みを抱いて、余りにもむごい死に方をした人だけが、神様になって不思議な力が使えるんだって。生きながら神様になるなんて、どんなむごい目にあったんだろう」
 関鈴は冗談のつもりだったが、孫二娘は笑わなかった。
「自分の目で確かめるんだね。おばちゃんが手を貸してやろう」
 孫二娘は飯をよそった鍋とともに、酒壺を関鈴に差し出した。
「関将軍に届けておくれ。急ぎの注文なんだけど、あたしは手が離せないから」
「ずいぶん重い酒壺だなぁ。神様って酒豪なのかい」
「頼むよ、坊や。あとで美味しい肉饅頭をあげるから」
 孫二娘は関鈴を厨房から押し出した。張青は渋い顔で竈に薪をくべている。
「ひでえ女だ」
「だったら、あんたが届けな」
「勘弁してくれ」
 張青は腰を伸ばして立ち上がり、肉の煮える鍋の様子をたしかめた。
「赫将軍がいてくれりゃあ……いや、そもそも、こんな事にはならなかったか」

 関鈴は鼻唄まじりで関勝軍の軍営の方へ戻っていった。
 兵は大部屋に雑居だが、関勝には独立した小さな建物が割り当てられている。ちいさな庭もある隠居場のような建物だ。
 門番に来意を告げて、関鈴ははじめてそこに入った。
 もう薄暗く、窓から仄かに灯が漏れていた。
 関鈴はいたずらを思いついた子供の顔で、そっと窓に忍び寄った。
 窓は半分開いている。
 その昔、刺客が関羽を殺そうと窓から様子を窺ったが、灯火のもとで春秋を読む姿に感銘を受け、自分の正体を明かして詫びたという。
(やっぱり『春秋』を読んでるのかな?)
 関鈴はわくわくしながら、背伸びして窓から部屋の中を覗いた。
 そして、思わず叫びそうになり、口を押さえた。

 異様な音と、匂いだった。
 部屋にあるのは蝋燭が一本きりで、その僅かな光のもとで、ひとりの男が卓に向かって無心に肉を貪っていた。
 骨つきの羊の腿を両手に掴み、肉塊を食いちぎる。血の滴る肉を呑み込むと、脂まみれの手で碗を取り、酒を喉に流し込む。再び肉に食らいつくと、軟骨を噛み砕く音が異様に響いた。
 部屋には、骨と酒瓶が散乱していた。
 壁にかけた青龍刀には、赤茶けた血がこびりついたままになっている。
 どれだけの肉を喰い、酒を飲んだのか。それなのに、まるで酔わず、飢えは少しも満たされていないのが見て分かった。
 関鈴は窓にはりついたまま、動くことができなかった。
 これは、見てはいけないものだ。
 逃げようと思いながら、動けずに、関鈴は母の言葉を思い出していた。
“人には耐えられぬ苦しみを受け、むごい死に方をした者だけが、選ばれ、神になれるのだ──”と。

 梁山泊軍本営の、もっとも奥。無人の庭に面した、小さな離れ。
 部屋の中は暗かった。
 真っ暗だった。
 蝋燭は燃え尽きかけていた。
 燃え尽きかけた蝋燭は、部屋を照らすこともできず、ただ灯心を燃やし、消えるのを待っているだけだった。
 真っ暗な部屋の中に、呻吟が生じた。
 人とも獣ともつかない声だった。食いしばった歯の間から漏れる、押し殺そうしても、止めようのない、苦しみの声だった。
 何かが床に倒れ、苦悶しながら、のたうち回る音がした。呻吟は果てし無く続き、やがて、静寂が訪れた。耐えがたいほどの静寂だった。
 その時、大きな音を立てて、窓が開いた。
 光の中から、李逵が顔をつきだした。
「宋江兄貴!」
「……どうしたのだね」
「なんでもねぇ!」
 部屋の中は真っ暗で、李逵には、宋江の姿も見えない。しかし、李逵は宋江に向かって嬉しそうに笑った。
「へへ、にあうかい?」
 李逵は、何度でも湖で拾った兜を見せにくる。宋江も、何度でも言う。
「ああ、ぴったりだ。よく似合う」
「今夜は宴会だ!」
 窓を開けはなしたまま、李逵はまた駆けていった。
 部屋の中は、真っ暗だ。
 窓から見える、四角く切り取られた外の世界は、遠い光に満ちていた。

 空が、どこまでも蒼かった。

 蝉が鳴いている。
 安道全はふさぎこんでいた。
「どうした、“神医”が胸の病か?」
 燕順の声に、安道全は我に返った。診察しながら、つい別のことを考えていた。
 安道全は燕順の包帯を巻き終えた。
「治りが早いな、親分」
「毎日、肉をたっぷり喰っているからな。扈三娘は料理上手だ!」
「いま、薬をだすから待っておれ」
 安道全は薬箪笥に向かった。
 慣れた手で薬草を量りながら、考えるのは、やはり別のことだった。
 呼延灼が湖州から預かってきた書類は、安道全を東京へ召還する命令書だった。
 天子が小疾を患ったため、安道全に急いで東京へ来て診察するように、と云うのである。
 呉用は、理由をつけて拒否するべきだと主張した。これからの杭州攻め、方聖宮攻めは激戦になる。安道全がいなくなれば、さらに死者は増えるだろう。
 盧俊義は、安道全が自分で決めればよいと言った。
 宋江は何も言わなかった。
 もう日も落ちたというのに、まだ蝉たちが騒いでいる。
 燕順は上着に腕を通しながら、窓の外へ目を向けた。
「あんなに鳴いて、哀れなもんだ。どうせ、明日にも死んじまうのに」
 夕暮れは、夏でも寂しい。
 本営に行っていた阿虎が、荷物を抱えて急ぎ足で帰ってきた。
「秀州から薬種が届いたよ。現地のお医者から、安先生への手紙もある」
「読んでおけ」
 燕順が帰り、安道全は薬研の前に座った。落ち着いて考え事をする時は、薬研を押すのが一番だった。
 阿虎は荷物を片づけると、灯心を切り、丁寧に手紙の封を破った。
「徐寧という人が、秀州で亡くなったって書いてある」
 薬研が止まった。阿虎は手紙を読み続ける。
「“最期まで苦しんで、真夜中、急に息を引き取りました。意識が戻ることはなく、臨終の言葉はありません。家族は間に合わなかったので、遺体は仮の柩に収め──”」
 薬研は回転をやめ、蝉は鳴き、蝋燭は燃え続ける。
 遠く、酒宴の声が聞こえた。
「……先生?」
 阿虎は安道全に呼びかけた。
 しかし、答える声はなく、灰色の闇が忍び寄る。その曖昧な闇と光の中に、安道全は身じろぎもせず座っていた。
 力を失い、石に戻った神のごとく──。



※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「彭己」は、正しくは彭己です。
※文中の「弃命三郎」は、正しくは弃命三郎です。
※文中の「共旺」は、正しくは共旺です。




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