水滸伝絵巻-graphies-

第百二十四回
嵐の日、その星は輝き(一)予感


 晴れていた。

 息苦しいほどの夏空だった。
 正午の太陽は灼熱に燃え、海面は鏡と見まごうばかりだ。
 風までが、銀色に輝いている。
(とても明るい)
“金毛犬”段景住は、日除けの下で目を細めた。
(真主よ)
 段景住は、遥かな神に呼びかけた。
(このように光が溢れているのに、なにゆえ、私は寂しいのでしょう)
 ゆるやかに、波が船を揺らす。棗椰子の枝に吊った小さな揺り籠、懐かしい母の子守歌が胸の奥に蘇る。
 目を閉じると、船頭が調子はずれの舟歌を口ずさみ、たしなめられる声が聞こえた。
 けだるい午後の海上は、それきり、また音もない。

 梁山泊軍の船団は、数日前から銭塘江沖の岩礁に隠れている。
 陸の梁山泊軍に呼応して、銭塘江側から杭州城に攻め寄せるためである。合図の砲声が聞こえれば、十数隻の船は全力で銭塘江を遡り、杭州城の南側を制圧する。
“杭州決戦”における、彼らの役割は重要だ。
 杭州は、西を湖に接し、南は銭塘江に面している。皋亭山に布陣中の梁山泊軍の本隊が、北東から東南方面を抑え、李俊ら水軍が西湖に陣取り、彼らが銭塘江を抑えれば、杭州城に逃げ道はない。
 呉用の狙いは、“降魔太子”方天定と、“杭州四聖”を、確実に討ち取ることだ。彼らを除けば、方臘軍に目ぼしい将はいなくなる。方臘の本拠地“方聖宮”攻めは、格段に容易になる。
 しかし、今は、海は静かだ。風もない。
 荒くれ者ぞろいの水兵たちも、昼寝のほかはすることがない。張横は編笠を目深にかぶり、近くの岩礁で釣り糸を垂れている。潯陽江の“船火児”に戻ったようだ。
 今日、明日にも戦が始まる。それなのに、穏やかに時が流れる。
 段景住は、水平線と空が交わるあたりへ目をやった。まだ礼拝の時刻ではないが、その眼差しは、祈りを捧げる時と同じだった。
 まだ人が誕生する前、神が“光あれ”と命じて生まれた、この世界。その最初の姿とは、このようなものではなかったか──と、段景住は思うのだ。
 人もなく、鳥も魚も島々もなく、世界には神と光と天地のほか、なにもなかった。
(ここは、“天地の涯て”)
 段景住は大陸のいちばん西から、沙漠や草原地帯を東へ東へと旅をして、この場所までやって来た。天馬を追って梁山泊に辿りつき、梁山泊とともに、ここまで来た。
 水平線は空と混じって、その先には、なにも見えない。
(慈悲あまねき、慈愛ふかき御方よ──)
 段景住は問いかけた。

“この場所が、わたしの旅の終わりでしょうか?”

「ひと雨ほしいな」
 皋亭山中腹の寺の本堂で、花栄は誰にともなく呟いた。
 空気はからからに乾いている。
 建物の中はまだましだったが、開け放した扉の外に広がる世界は、昼下がりの強烈な日差しに焼かれている。
 卓をはさんだ向こう側は、呉用が端然と座していた。この暑さも感じないのか、几帳面に襟を合わせ、背筋を伸ばし、神妙な顔で卓上に目を据えている。
 その先には、一碗の涼粉が置いてある。
 食欲が出るように、と、朱貴がわざわざ作った昼飯だから、味が悪いわけではない。しかし、呉用は一本たぐっただけで、箸を置いた。
 他に気になることがあるのだ。
(難航してるな)
 花栄は従卒を呼び、食べ終わった自分の碗を片づけさせた。彼は、何事も手早く処理する。食べることも、決断することも同様だ。一方の呉用は、“思考”がすべてに優先する。食べていても、寝ていても、何か考えが閃けば、他の事は忘却の彼方になるのだ。
(まあ、涼粉は、のびないからな)
 呉用は、杭州攻めの策を練っていた。
 練るというより、とりとめなく浮かぶ思考を吟味している。そうしていると、水面に散った花びらが流れに運ばれ、しだいに集まっていくように、自然と呉用の思考は定まるのである。
 とはいえ、花栄は些かの無聊を感じた。彼は常に家庭を持って暮らしてきたので、食卓の沈黙に慣れていないのだ。
「“宋国軍”が元気だそうだな」
 急須から冷めた茶を注ぎ、花栄は出涸らしを口へ運んだ。
「石勇が、あの男にしては珍しく怒っていたぞ。俺たちの連戦連勝の噂を聞いて、腹をすかせた野良犬どもが“宋国”の旗を掲げて群がっている。それは前からの話だが、杭州危うしと嗅ぎつけて、いよいよ酷い様相らしい。放火略奪、人さらい……明教徒には何をしてもいいと、朝廷のお墨付きがあるからな。俺たちも、足を引っ張られないよう注意がいるぞ。それとも──」
 花栄は、唇の端で冷笑した。
「先に、連中を“討伐”するか」
「機嫌が悪いのですね、花将軍」
「なんだ、聞いていたのか。ご機嫌さ、俺は」
 花栄は出涸らしを飲み干した。この暑さで、ひどく喉が渇くのだ。名茶の産地である江南は、出涸らしでも風味がいい。花栄は長い腕を伸ばして、呉用の茶碗にも注いでやった。
「茶くらい飲めよ。安先生がいなくなったら、その辺のヤブ医者が脈を診にくるぞ」
 呉用の表情が少し動いた。安道全の東京への召還命令も、呉用を悩ませている問題だった。
「安先生は老人です。病のため長旅は不可能……なんとでも行かない理由はつきます。しかし、宋江殿は、安先生の意志に任せると」
「不親切だな。決めてやった方が、老先生も気が楽だ。あんたも宋江も、あれこれと考えすぎなんじゃないのかね。この世のことは、花がぱっと咲いて、さっと散る。そんな単純なものさ」
「あなたも、そうなのですか」
「見えんかね?」
「なかなか散りそうにない“花”だ」
「ならば、嵐を待とうじゃないか」
 花栄は優雅に足を組み、扉の向こうへ目を戻した。
 青空に、真っ赤な花が映えている。百日紅だ。
 花栄には、百日も散らぬ花など無粋に見える。晴れ空も、雨の後ではありがたいが、こうも続けば鬱陶しい。
(いっそ、嵐も悪くない)
 しかし、空には一片の白雲もない。

(本当に、なにもないな)
“通臂猿”侯建は、失望していた。
 甲板の日陰に座り、ちらりと空に目をやったが、すぐに自分の仕事に戻った。
 破れた帆を、丁寧に繕っていく。
 彼はどこにいても“仕立屋”で、この仕事に誇りを持っている。着物でも、帳でも、甲冑でも、仕立て上げた時の満足感は格別だ。
 侯建は帆のほつれ目を、端から端まで縫い終わり、綺麗な玉結びを作って仕事を終えた。
 しかし、なぜか、虚しかった。
(“辿りつく”ってのは、案外、つまらないものだ)
 侯建は、誰よりも“海”を見るのを楽しみにしていた。彼は江州の山奥で生まれ、谷川伝いに潯陽江に辿り着き、その岸で大人になった。いつも河が流れていく彼方を眺めていた。
 この先には何があるのかと、憧れていた。
 今、彼はその憧れの“河の終わり”に辿りついた。潯陽江から繋がる長江の、その最後の河口を見たのだ。
 それなのに、まるで肩すかしを食らったようだ。河の先には、ただ、海が茫然と広がっているだけだった。
(潯陽江だって、海と同じくらい広かった)
 向こう岸が見えないほどだった。それでも、風はもっと心地よかったし、岸辺には柳が美しかった。人々は陽気に歌い、賑やかに船が行き来していた。
 ここは、空と海と太陽のほかは、なにもない。
(こんなもんかな)

 侯建は、縫ったばかりの帆布の上に寝ころんだ。
 目を閉じれば、波の音だけは同じだ。

 卓上を、蠅が歩いていた。
 呉用が見ていると動きを止め、せわしく両手を擦りだした。まるで拝んでいるようだ。
 卓上には、半分ほど残った涼粉の碗と、彼の羽扇が置かれている。
 花栄が羽扇に手を伸ばした。
「それで、先生。杭州攻めの策は立ったかね?」
 花栄は蠅を叩きかけたが、呉用と目が合うと、笑って襟元へ風を送った。
 呉用の顔色はかんばしくない。方天定が手の内を読んでくるのを警戒し、いつも以上に慎重になっているのだ。
 いろいろな状況と情報が、もつれた釣り糸のように彼の頭脳の内で交錯している。それをほどいて、杭州という大きな魚を釣り上げたいが、その糸口が見つからない。
 花栄は羽扇を使いながら、暢気に庭を眺めている。
「解兄弟が偵察から戻ったようだぞ。なにかいい話があるかもしれん」
 花栄に言われて、呉用は扉の向こうへ目をやった。外は開けた石畳の庭で、陽炎の中を人々が行き交っている。
 呉用は、その間を縫うようにやって来る解兄弟に、ようやく気づいた。
「さすが“小李広”、百歩先の柳も見分ける」
「俺は本を読まんからな。親父から『論語』と『六韜』は叩き込まれたが」
「見識のある父上だ」
 間もなく、解珍たちが報告にやって来た。しかし、特に目新しい情報は得られなかった。
「相変わらず、どの城門も警戒はかなり厳しい」
「食料の搬入はどうです」
 呉用は最もそれを気にしている。
 杭州城は百万ともいわれる民を擁していた大都市である。戦以前は、毎日、城外から大量の米や野菜、油や柴といった生活物資を搬入していた。
 方臘軍も、周辺の諸城にそれを義務づけていたが、梁山泊軍の包囲以来、途絶えている。
 梁山泊軍が輸送船に偽装して城内に潜入するのを警戒し、一切、入城の許可を出さなくなったのだ。
 それを知らずにやって来た輸送船は、暫く周辺に停泊しているが、やがて諦めて帰っていく。解兄弟の報告も、それを証明するものだった。
「今日も南門外の范村の岸辺に、三十隻ばかりの糧秣船が足止めをくらっているのを見た。富陽県の輸送船で、杭州へ献納する軍糧として、米五万石を積んでいるようだ」
 その間も、蠅はうるさく飛び回る。
 花栄は目障りな虫へ、羽扇でさっと風を送った。
「どうだ、呉先生。城内では米が不足しはじめている頃だろう。使えんものかな、その船を」
「無理でしょう。輸送船に偽装するのは、我々が既に何度も使った手ですから」
「それさ。連中が我々をそこまで買ってくれているのなら、まさか、また同じ手でくるとは思わんだろう」
 花栄は実際、何か深い考えがあって言っているわけではない。
「なんでもいい、ひとつ風穴を開けてくれ」
 花栄はついに蠅へ羽扇を振りあげた。呉用は蠅を叩く寸前で、花栄から自分の羽扇を取り返した。
「見直しましたよ、花栄」

「そりゃ光栄だ。ご褒美はあるのかね」
「もちろん」
 不穏な気配を感じ取ったのか、蠅が逃げるように窓から出て行った。

 釣り糸が一本、水の中に垂れていた。
 餌は、昨日の晩飯の残りの魚だ。餌をつつこうと寄ってきた小魚が、人影に驚いて逃げてく。
 阮小七は水を蹴り、たくみに釣り糸をかわして水面へ浮かび上がった。
 顔を出すと、真夏の太陽が照りつける。
 かなり深く潜っていたので、水中は暗く、涼しかった。浮かび上がった上の世界は、光と熱の別世界だ。
 阮小七は立ち泳ぎして、大きく息を吸い込んだ。

「どうだい、“太公望”」
 目の前の岩礁には、張横が腰掛けている。釣り糸を垂らしていたのは、張横なのだ。
 阮小七は岩に上がって、波間を漂う竹のびくを覗き込んだ。
「今夜のごちそうはなんだ?」
「うどんでも喰え」
 びくの中はからだったが、言ったそばから張横は妙な魚を釣り上げた。
 銭塘江のように海と河が交わる場所には、多種多様な魚が棲んでいる。梁山泊育ちの阮小七には、見慣れない魚も多い。
「なんだい、そいつは」
 張横が針からはずした魚は、白と黒の斑模様で、おちょぼ口を尖らせ、体は提灯のように丸かった。
「こいつは河豚だ。ぱんぱんに腹をふくらませて、怒っていやがる」
「食えるのか」
「食えるが、運が悪いと死ぬ」
 張横は河豚を海に投げ捨てた。阮小七も、河豚の名は珍味として聞いている。
「うまいんだろう」
「そりゃあ、死ぬ奴がいるほどだ」
 阮小七は張横をからかった。
「“船火児”よ、あんたは死ぬのが怖いらしいな」
「ああ」
 張横は仏頂面で、また釣り糸を波間に落とした。
「弟に会いてぇからな」
 彼らは長江から海に出て、ずっと銭塘江に潜んでいる。長く陸上との連絡はなく、“湧金門の悲劇”は、まだ船まで伝わっていなかった。


 太陽は、まだ一番高いところで輝いている。
「それで、宋江には内密なのだな」
 秘密にもたれた軍議の席で、花栄は特に声をひそめることもしなかった。
 それが、なにか彼の心情、かすかな抵抗のようなものを含んでいるのを呉用は敏感に感じ取ったが、あえて反応はしなかった。
 皋亭山の梁山泊軍本陣の一角で、その軍議は内密のうちに始まった。招集されたのは花栄と李俊、盧俊義だけで、宋江の姿はなかった。
 人選をしたのは、呉用である。作戦のあらましを説明した。
「──敵の軍糧船を使い、このような手筈で杭州を攻めたいと思います」
 誰にも異存はなかった。ただ、誰もが思ったが、言わなかったことを、盧俊義が最後に口にした。
「宋江殿は傷つくだろうな」
 総帥たる宋江に無断で、梁山泊軍を動かそうというのである。宋江が戦を望まなくても、情況は、あとには退けない。杭州を落とさないわけにはいかないのだ。
 このまま、ずるずると戦が長引けば、いつか方臘軍に反撃される。そうなれば、宋江は、もっと大きな打撃を受けるだろう。
 そんなことは、ここにいる全員が分かっている。
 しかし、やはり盧俊義には、ひっかかるものがあるのだ。
「わしは案外、あの人が好きなのかもしれんな」
 花栄は無造作に頬杖をついている。
「みなそうさ。だから、こうして気を揉んでいる」
 軍人出身の花栄とすれば、将が戦わないので配下の方が頭を悩ませ、かつその将を気づかうなど、前代未聞だ。
 花栄は、ちらりと李俊の方を見た。李俊は、黙りこんでいる。何かに対して、諾とも否とも意志を現さないのが李俊という男である。暑ささえ、さして感じてないような顔だった。
「杭州軍には知恵者がいる。乗ってきますか」
 李俊の問いに、呉用は迷うことなく答えた。
「信じさせます」
 花栄が愉しげな笑みを浮かべた。
「呉先生のその顔、久しぶりに見たな」
 呉用の羽扇が、風を起こした。
「では──始めましょう」

「おい、もう底が見えたぞ」
 阮小七は、瓶の底に腕を突っ込み、残り少ない酒をすくった。
 段景住は水瓶を調べている。
「まだ待つようなら、どこかで水を買わないといけない」
「酒も頼む」
 そう言って、阮小七はふっと笑った。自分も酒をもらおうとやってきた侯建が、阮小七に尋ねた。
「なんだい、なにか面白いことでもあったかい」
「梁山泊で頂戴した、御酒の味を思い出してね」
「ああ」
 侯建も酒をすくって飲んだ。
「盗み飲みだろう。後に泥水なぞ混ぜて、和尚の頭から湯気が出ていた」
「暑い夏だった。あれより旨い酒は、いまだに飲んだことがない」
「東京の宴会で飲んだはずだが」
「酒も女も、盗み飲みってのが格別なんだ」
「小七さん、あんた、つくづく宮仕えには向かないな」
「ありがとうよ」
 阮小七は甲板に四肢を伸ばして、日差しを思い切り浴びた。
「暑くないかい」
「暑いのがいいんだ」
 阮小七は退屈している。銭塘江も泳ぎ飽きたし、毎日毎日、張横が釣った魚ばかり喰っている。
「陸の連中はなにしている。杭州攻めの合図はまだか」
 彼らは、凌振の火砲を合図に攻め寄せることになっている。隠れている岩場からは杭州城も見えているが、まだなんの動きもない。
 水鳥が、遠くを飛んでいくだけだ。
 阮小七は目を閉じて、船を伝ってくる波の動きに身をまかせた。
 この波が、張横は苦手らしいし、侯建と段景住は慣れるまで船酔いに苦しめられた。阮小七だけは、平気だった。
 眠りかけると、舳先の方に地元の船頭たちが集まって、何かしきりに話している声が耳に入った。
 阮小七も、少しは南方の言葉を覚えた。船頭たちは、何かがくる、と言って騒いでいるようだ。
「なにが来るって?」
 体を起こすと、“嘲風子”と呼ばれる老船頭が、芭蕉扇を使いながら、阮小七の方を見ていた。

「嵐の匂いだ、かすかだが」
「水平線までからりと晴れて、どこにも雲なぞありゃしない」
「そうだろうとも」
“嘲風子”は、江南にきてから雇った男だ。肌は真っ黒に焼け、目は水母のように濁っている。愛想よく、頷いた。
「そうだろうとも。嵐の姿が見えた時、あんたは、とっくに嵐の中だよ」

「しぶとい野郎だ!」
 野太い声が、蒼天に弾けた。
 声の主は、無精髭の山賊たちだ。
 運河に面した白壁の美しい街は、戦火と略奪で見る影もなく荒れ果てている。そこに山賊の集団が昨日から居すわっていた。
「食い物をどこに隠した! どうしても言いたくねぇんなら、てめえの脳味噌をグツグツ煮込んで喰っちまうぞ!」
 山賊が、捕らえた住民を殴り倒した。倒れた住民は裸に剥かれ、手足の骨が折れていた。
「まぁまぁ、待ちな」
 山賊の頭目が割って入った。右頬に大きな瘤があり、“駱駝隊長”と呼ばれる男である。立派な甲冑を着ているが、小柄な駱駝隊長には不格好なほど大きかった。どこかで死体から剥いできたものなのである。
「よしよし、見上げた野郎じゃねぇか。根性がある」
 駱駝隊長は膝を折り、えびのように体を丸めて呻吟する住民の頬をぺちぺち叩いた。
「仲間のために、どうしても言いたくねぇんだな。分かるよ。それが、義理人情ってもんだ。それなら、俺にも考えがある」
 駱駝隊長は立ち上がり、思い切り住民の腹を踏みつけた。
「目ン玉をくり抜いて、よく焼けた石を詰め込め!」
“ねずみ”と呼ばれる眠そうな目をした副隊長が、竹筒を持って駆けつけてきた。これで目玉を抜くのである。“ねずみ”は竹を握ったまま、倒れたまま動かなくなった住民の顔を覗き込んだ。
「隊長、こいつ、おっ死んじまった」
「よし、次!」
 駱駝隊長は縛り上げられた住民から、若い娘を連れて来させた。副隊長は不満げだった。
「可愛らしい娘ッ子だ。目玉を抜いたら、もったいねぇ」
「そうだな。おめぇの言う通りだ。そんなら、膠だ!」
 手下どもがニヤニヤしながら娘の服を脱がし始めた。裸の肌に膠を塗りつけ、その上に布を貼り付けるのだ。乾いてから思い切り引き剥がせば、貼りついた皮膚がべろりと剥ける。
“ねずみ”は親切そうな顔をして、娘の体にすり寄った。
「悪いことは言わねぇから、嬢ちゃん、食い物のありかを吐いちまいな。真っ白な体が真っ赤になりたくねぇだろう? そら、あの旗を見てみなよ。“宋国”って書いてあるだろう。兵糧を出すのは、良民のお役目だ。悪いようには、しねぇから」
 山賊どもは、そのへんの戦場から拾ってきた官軍の旗を立てていた。彼らの名目は“義勇軍”だ。実際、“駱駝隊長”は兵卒として宋国軍にいたこともあるから、あながち嘘ではないと自負している。もっとも、従軍して覚えたのは、略奪と拷問ばかりだ。
 今回も方臘の乱に乗じて一旗上げようと、最近、福建から手下を集めてやって来た。しかし、江南一帯では、すでに他の“官軍”も“忠勤”に励んでおり、思ったように略奪できず、軍糧が尽きてしまった。
 住民どもは、連年の不作で、とか、方臘軍に奪われてとか、言い訳をして出し惜しみをしているが、ちゃっかりどこかに食糧を隠しているのはお見通しだ。
“ねずみ”が未練たらしく言った。
「早く喋っちまいな。生皮を剥かれるのは、そりゃあ痛いよ」
 娘は恐怖で口もきけない。手下たちが裸にした体を押さえつけ、隊長の命令を待っていた。駱駝隊長はちょびヒゲをねじり、涙に濡れた娘の顔を一瞥してから、重々しく手を振った。
「膠を塗れ!」
 悲鳴をあげる娘を抑えつけ、手下たちはよってたかって娘の全身に膠を塗った。更に布を貼っていると、偵察に出ていた手下が慌てた様子で戻ってきた。
「隊長、いい話だ!」
 裸に革胴だけつけた手下は、ひとりの流民風の男を連れていた。顔つきを見て、流しの野盗の類だと、経験豊富な駱駝隊長はピンときた。
「ほほう」
 一見、人がよさそうだが、油断ならない面構えだ。耳寄りな情報を持ってくるのは、大抵がこういう奴なのだ。
「さぞ豪勢な話だろうな。先に礼を言っておくぜ」

「米五万石、悪くはあるまい」
 男は、変装した“八臂那咤”項充だった。

 心底の分かりにくい項充には、適任の役目であった。
 杭州に米を献上する船が足止めをくっている──そう聞くと、駱駝隊長の目の色は即座に変わった。
 今夜の飯にもことかく彼らの行動は速かった。捕らえた住民をそのへんの建物に閉じ込めると、山賊たちは砂塵を巻いて“出陣”した。
 駱駝隊長の胸算用は抜かりない。
(方臘軍の糧秣を頂戴すれば、懐は潤う上、手柄にもなる。湖州の劉将軍は話の分かる男と聞くから、手土産がありゃ配下に入れてくれるだろう)
 朝廷が派遣してきた劉光世将軍が酒色に目がなく、“敗家子”──ドラ息子と陰口を言われていることは、敵も味方も周知の事実だ。その配下に入れてもらえば、甘い汁が吸い放題に違いない。
(俺様も運が向いてきた!)
 項充が案内した川岸には、雑草が人の背丈ほども繁っている。
 その向こうに、大きな船が何隻も見えていた。情報が確かなことが証明されると、項充は駱駝隊長に切り出した。
「分け前のことを相談したい」
「もちろんだ、心配するな。面倒は見てやるぞ。手下は多ければ多い方がいいからな」
 すでに手下にしたかのように、隊長は項充の背中を叩いた。そして、それきり項充には構わなかった。
 目は輸送船に釘付けである。二、三十隻の大型船が舳先を並べて停泊しており、遠目にもはっきり分かるほど、どの船も喫水線が下がっていた。
 駱駝隊長率いる山賊部隊は草に隠れ、船団のすぐそばまで近づくと、一斉に武器をかざして飛び出した。
 手下たちは、戦場で拾った旗を手あたり次第に振り立てる。どこかの県、どこかの将軍の、本物の宋国軍旗だ。
 駱駝隊長も、とうに戦死した将軍の旗を手にしている。
「もっと勢いよく振れ!」
 こちらの数を多く見せ、相手を混乱させようという兵法だ。

 山賊どもは大きな旗なら一本、小さな旗なら両手で二本、さらに背中にも旗を突っ込んでいる。膏薬売りの幟、墓場の幡も混じっている。銅鑼や金鼓を打ち鳴らす。彼らは無頼漢の集まりで、進軍が金鼓、撤退が銅鑼という軍の決まりも知らないのだ。
 しかし、相手も素人だった。岸辺に停泊していた輸送船の甲板は、すでに大騒ぎになっていた。
「襲撃だ!」
 水夫たちが岸を指さし、叫んでいる。
 輸送船を率いるのは、袁評事と呼ばれる土地の有力者だった。えびす顔の壮年で、温厚な紳士である。明教を信じているというほどではないが、献上米は土地を保護してもらう“税金”だ。
 袁評事は騒ぎに気づいて、船室から顔を出した。
「なにごとだ?」
「敵襲です、旦那!」
「なんと」
 船団は川岸に係留している。敵はすぐそこまで迫っていた。袁評事は林立する雑多な旗に目をこらした。
「山賊か?」
 ならば、狙いは積み荷の米だ。しかし、目の利く船頭が首を振った。
「宋国軍です」
「すぐ逃げろ!」
 袁評事は悲鳴をあげた。
 山賊ならば、おとなしく積み荷を渡せば、命までは取られない。情けがあれば、褌くらいは残してくれる。しかし、宋国軍は褌まで剥いだ挙げ句、首を集めて手柄にするのだ。
「急げ、急げ!」
 船は次々と錨を上げると、先を争って逃げ出した。
 漕ぎ手に加え、人足たちも予備の櫓をとった。山賊たちは岸伝いに船団を追いかける。船が五、六隻も並べばいっぱいの狭い水路だ。遠い船には矢を射かけ、遅れた船には長い鉤を突き出した。船縁にひっかけて、引き寄せるのだ。
「跳べ、乗り移れ!」
 駱駝隊長は手下どもを叱咤した。
 相手は丸腰の素人だから、二、三人でも乗り移ればこっちのものだ。しかし、輸送船の船頭たちも必死である。互いの船腹をぶつけながら、対岸ぎりぎりに寄って逃げていく。甲板には、矢を防ぐ竹束や板も備えていた。
 ただ、積み荷を限界まで積んでいるため、船足は上がらない。
 袁評事は米袋の陰から船頭たちを励ました。
「頭を下げて、漕げ、漕げ! このまま西湖に出れば逃げられる」
「しかし、旦那。方臘軍は西湖に船を浮かべちゃならねえって」
「そうだった」
 許可なく船が西湖に入れば、敵味方の区別なく攻撃すると、杭州から通達されいる。
 しかし、今は逃げるよりない。船団は間もなく、水路が二つに別れる場所へ辿り着いた。右は別の鎮へつながる狭い水路、左は西湖に繋がる水路で、川幅は徐々に広くなる。
 袁評事は悩んだ。
 右に行って、左岸の“宋国軍”を振り切るか。このまま進んで西湖まで逃げるか。
 決めないうちに、舳先の水夫が右の運河を指さした。
「あっちからも誰か逃げてくる!」
 似たような民間の船だった。水路をふさぐようにして、十隻ほどが勢いよく漕いでくる。白旗を立てているところを見ると、同じく杭州に米を献納にきて、足止めをくっていた船だろう。
「助けてくれ!」
 舳先の船頭が後ろを指さし、叫んでいた。横にいる太った女は女房らしい。
「あんた、山賊だよ! 宋国軍だ!」
 袁評事の肝のあたりが、きゅっと絞め上げられるように縮まった。
 女は声をかぎりに叫び続ける。
「大軍だ! 水路をあけとくれ! 西湖に逃げなきゃ!」
 袁評事も、もう迷っている余裕はない。このままでは、挟み打ちになる。
「西湖へ逃げろ!」
 二つの船団は入り乱れ、櫓をぶつけ、船縁を擦り合いながら、西湖に向かった。
 駱駝隊長は躍り上がった。
「お宝が増えやがった!」
 駱駝隊長は手下を励まし、草の繁る岸辺を追った。彼方には、西湖の広い水面が見えてきている。袁評事も漕ぎ手を励ました。
「あと少しだ!」
 湖心まで出れば、船のない敵を振り切れる。“宋国軍”の足も鈍っているようだ。袁評事は安堵したが、再び湖に目を向けると、わずかな希望も吹き飛んだ。
「封鎖されている!」
 水路の出口に、船が横並びに待ち構えている。駱駝将軍は汗を拭き、ニヤリと笑った。
「俺様の兵法に恐れ入ったか!」
 輸送船が湖に逃げることなど、お見通しだ。“ねずみ”に周辺から船を集めさせ、先回りさせていたのである。
 輸送船団は団子のように密集したまま、西湖へ押し出される形になった。
“ねずみ”の船が、先頭の輸送船へ体当たりする。
「つかみどりだ!」
 袁評事は天を仰いだ。彼は明教の信者ではない。現世利益の道教信者だ。道教には、あらゆる神が揃っている。
「誰でもいい、お助けください!」
 応じるように、見張り台の水夫が声をあげた。
「方臘軍だ!!」
“宋国軍”の背後に、草原を覆う雲のように白い旗が揺れていた。幻ではない。
 しかし、駱駝隊長は動じなかった。遠目に見ても、白旗の数は少ない。城外にいる方臘軍は、素人同然の民兵が殆どだ。杭州軍の本隊は、梁山泊軍とやらが城内に押し込めてくれているのだ。
「相手は雑魚だ、片づけておけ!」
 迎撃は手下に任せ、隊長は湖の方へ振り返った。“ねずみ”たちは鉤を船縁をひっかけたり、縄を投げたり、泳いで船によじのぼろうと奮闘する。船頭たちは棹や櫓を振り上げて、その頭や手を死に物狂いで叩いている。
「素人相手にだらしねぇぞ!」
 駱駝隊長は拳を突き上げ、頬の瘤が大きく揺れた。その頭頂が、鈍い音をたてて潰れた。
「ぎゃっ!」
 頭を砕かれ、駱駝隊長は仰向けにひっくり返った。その後ろには、流星鎚から脳漿を滴らせ、ひとりの男が佇んでいた。
 ようやく船に乗り込んだ“ねずみ”は、その男を知っていた。
「げえ、石宝!」

 叫んだ口へ白羽の矢が飛び、鏃が後頭部まで抜けていった。
“流星”石宝は皋亭山の梁山泊軍に備えるため、城外に出城を構えたばかりだった。早速、付近に宋国軍の動静ありとの急報を受け、駆けつけてきたのである。
 岸辺の山賊たちは、逃げる間もなく殺戮された。船上にいた賊も、射殺されるか、船頭たちに湖に叩き落とされた。
「ありがたや、ありがたや」
 袁評事は、船上から石宝に手を合わせた。間近に見るのは初めてだが、流星鎚を使う英雄・石宝の噂は聞いている。
「ありがとうございます、流星将軍!」
 船上には、賊にやられた水夫たちが倒れている。幾人かは死人も出ていた。それでも、宋国軍に襲われた被害としては軽微なものだ。袁評事は彼らを救護し、駱駝隊長の手下は生死に関わらず湖に捨てた。
 石宝は湖岸に立ち、副将を呼んだ。
「罠ではないな?」
「船上には死傷者が多く出おります」
「梁山泊の水軍は?」
「西方の山中に引き上げたまま、特に動きはございません」
 石宝は無表情のまま、湖に浮かんでいる輸送船団を見渡した。
「太子は申された。“輸送船に死人が出れば、入城を許可せよ”と。“情深き”宋江ならば、そのような策略は使わないからだ、と」
 実際、城内には軍糧が不足している。住民たちも飢え始めている。
 この米は、多少の危険を侵しても欲しいものには違いない。
 石宝は、馬上より杭州城の水門の方を指さした。
「許可する──入城せよ」

 わっという喚声に弾かれ、侯建は振り向いた。
「なんだ?」
 水兵たちが張横のまわりに集まっていた。満潮になり、馴染みの岩場から船に戻っても、張横は釣りを続けていた。
 その釣竿が、半月のようにたわんでいる。
「でけえな」
 居眠りしかけた張横の腕に、その当たりは突然にやって来た。竿を上げようと張横は腰を浮かせたが、糸に引かれるように前へのめり、段景住が急いで腕を支えた。
「魚に釣られる、あぶない」
 段景住は冗談を言ったわけではない。張横も腕には相当の力があるが、これほどの強い当たりは経験したことがない。
「海に落ちたら、たいへん」
 張横は片足が義足になっている。かつてはなかなかの泳ぎ手だったが、片足を失ってから泳ぐことはできなくなっている。
 それでも、水を怖いと思ったことはなかったのに、張横は欄干を乗り越えるようにして見た水に、なぜだかぞっとするような恐怖を感じた。
「小七、手伝え」
 阮小七は取り合わなかった。
「弱音を吐くなよ。“船火児”の旦那なら、竜だって釣り上げちまうだろうに」
 阮小七は笑いながら波間を覗き、ぎょっとした。

 船の真下を、巨大な影が横切ったのだ。
「なんだ、あれは」
「南海の魚は、もっと大きいね」
 老船頭の“嘲風子”だった。
「魚なのか?」
“嘲風子”は頷いた。袖無しの上着から出た腕には、荒波を思わせる紋様が藍色で刻まれている。“嘲風子”は、杭州より、ずっと南方の生まれなのだ。
「やつらは、泳いでいる人間を丸飲みするくらい大きい。網にかかった魚の腹を裂くと、時たま人が丸ごと出てくるよ」
“嘲風子”は上下の歯を打ち鳴らした。魔除けのしるしだ。船頭たちは、水中には魔物がいると信じている。
「それなら、今夜の飯の心配はないな」
 阮小七は平気な顔で、欄干から体を乗り出した。
「草魚も、そうとうでかくなる。おとなしい奴だ」
 銭塘江の水は、やや茶色に濁っている。魚は深く潜ったようで、影は見えない。
 阮小七は草魚と言い、侯建は紅豚ではないかと予想した。
「色が白っぽかったろう」
「おい、手伝え!」
 張横が怒鳴った。張横は釣り竿を手に、義足で甲板に踏ん張っている。
 魚は恐ろしく暴れていた。
 暴れれば暴れるほど、釣り針が喉深くに食い込むことを、その魚は知らないのだ。
「勝負だ」
 張横は竿を握り直した。

 輸送船が、杭州城へ向かって漕いでいく。
 どの船上も、慌ただしかった。櫓を漕ぐ者以外は、甲板の血を洗い流したり、怪我人の世話に奔走している。
 途中の水路から合流した船でも、小柄な男が布を手に甲斐甲斐しく働いていた。
「具合はどうだい?」
 李雲に声をかけたのは、船頭に変装した王英だった。
 漕ぎ手の中には、変装した解珍と解宝、鄒淵、鄒潤の姿もある。隣の船で米袋を調べている人足は杜遷、石勇、李立だし、白勝と穆春、湯隆は水を汲んでは汚れた甲板を洗っていた。後続の船には、孫新と顧大嫂、張青と孫二娘が、それぞれ船頭とその女房に扮して乗り込んでいる。王英も、もちろん扈三娘と一緒である。
 粗末な身なりをしていても、扈三娘の美貌は隠しきれない。王英は鼻の下を長くしたまま、李雲のそばに腰をおろした。
「まだ痛むかい」
 徳清県の水庫で負傷した李雲は、米袋によりかかって座っている。足はまだ腫れているのに、朱富が止めるのもきかず、自ら志願して来たのである。
「いいや、痛みは感じない」
 金髪が目立たぬよう、頭は布で覆っている。王英は、李雲が強がりを言っているのだと思った。
「こっちにも怪我人が出ているから、痛がっても怪しまれないぜ」
「痛くないのだ」
「ならいいけど、無理すんなよ」
 王英は別の怪我人を見に行きかけて、急に振り向いた。
「“青眼虎”、あんたの道具は?」
 李雲の腰には、いつも携えていた工具はなく、一振りの刀が差してあった。
「“天下の方円”を計るのに、大工道具は役に立たぬ」
 李雲の答は、無学な王英には意味が分からなかった。王英は李雲の顔を見返して、おかしそうに笑った。
「あんたの目、本当に青いなぁ!」
 そして、鼻唄まじりに去っていった。
 どこか寂しげだった李雲の目が、ふと和んだ。
 王英は、どんな時でも愉快な男だ。扈三娘に愛されるのも、道理だろう。
 米袋にもたれたまま、空を眺め、李雲は低く呟いた。

「──“墨子曰く、我に天志あるは、匠人の矩あるがごとし”」
 青空を見つめる目が、なにかを静かに決意している。
 天志とは、天の意志。矩とは、物差し。
“天下の方円を計りて、あたるものは是なり。あたらざるものは、非なり──”

 銭塘江では、張横と魚の根気比べが続いていた。
 竿を握る張横の腕はだるくなり、指先がしびれている。魚は釣り糸いっぱいまで潜り、姿は見えない。
 しかし、細い釣り糸を通して、張横は感じる。
(奴は、まだ諦めていない)
 巨大な魚は、姿をひそめ、時々、思い出したように身をよじった。
(むだだ)
 張横は、見えぬ魚に呼びかけた。
(おまえは、もう、逃げられやしねぇ)
 太陽が傾いていく。
 魚の力が弱くなった頃合を見て、張横は慎重に糸をたぐりはじめた。
 ゆっくりと魚影が水面ににじんでくる。
 珍しい魚だった。鱗が白銀に光り、すらりとして美しい形をしていた。
 船に引き上げようとすると、最後の力をふりしぼって尾びれを撥ね上げ、激しく暴れた。
 自分が死ぬことに、最後まで抗うつもりだ。
 結局、魚は侯建と船頭たちによって、大きな網で甲板にすくいあげられた。
「人を呑むほどは大きくないな」
 侯建が巻き尺で大きさを測って言った。
「船の影と重なって、あんなに大きく見えたんだろう」
 張横は濡れた顔をぬぐいもせず、じっと魚を凝視している。魚は大きな口を開閉して、何か訴えているようだ。
 船頭たちは遠巻きにして、近づかない。その中から、老船頭“嘲風子”が進み出た。
「こいつは、水神だ。水へ帰さにゃ」
 阮小七は迷信なぞ相手にしなかった。曰くありげな“嘲風子”も、ただの人のよい老船頭だと思っている。
「銭塘江の主かい? なら、味もいいんだろうな」
「目を見てみなよ」
 阮小七が近づくと、魚は尾を振り、透明な目玉をギョロリと剥いた。怒り狂う、人間のような目付きだった。
「たしかに、気味の悪い魚だが」
「こういう魚は、水の使いだ。殺めては、呪いがかかるよ」
 どうする、と、阮小七は張横へ振り向きかけた。魚をどうするかの権利は、釣り上げた張横にある。
 すると、阮小七の目の前で、張横はいきなり包丁を魚の白い腹へ差し込んだ。
 暴れる魚の頭を片手で押さえ、張横は無言のまま、魚の腹を切り裂いていく。裂け目から、真っ赤な塊がどろりと流れた。
“嘲風子”の南海の話を聞いていた人々は、息を飲んだ。
 もちろん、それは人ではなかった。
 絡み合う血まみれの腸にすぎなかったが、誰もが、そこに人間が倒れているような幻覚を見て、魚が息絶え、動きを止めても、やはり、近づこうとする者はいなかった。
 そこへ、水などを仕入れに行っていた段景住が帰ってきた。
 補給は竜王幇が便宜を図ってくれているので、最寄りの浜で受け取れるのだ。戻ってきた段景住の顔色が悪かった。
「どうした?」
 侯建が尋ねると、段景住は悲しげな目を張横の方へ向けた。段景住は、新しい情報も仕入れてきたのだ。
「梁山泊軍、杭州を包囲している。まもなく、戦が始まるだろうと……それから」
 段景住は、濡れた目で張横を見つめて言った。
「張順さん、湖で……亡くなりました」


 いつの間にか陽が傾き、長い午後が終わりかけていた。
 船団は杭州城に向かって漕ぎ去り、残された岸辺には、駱駝隊長らの死屍が累々と連なっている。
 静まりかえった空の下に、項充は隠れていた草むらから這い出した。
(さすがだ、呉軍師。一石二鳥だ)
 人々を苦しめる賊を千人ばかり始末した上、杭州城へ味方を潜入させた。
(そうだ、もう“一鳥”あるのだ)
 項充は、駱駝隊長が閉じ込めた住民たちを逃がすため、草を分けて歩いていった。
 草むらは静かだった。うめき声ひとつ聞こえない。息の残った者たちも、方臘軍が残らず止めを刺していったからだ。
 夏草が血で濡れている。
 善人と悪人で血の色が違うはずもないが、項充はなにか薄汚いようなものを感じて、血がつかぬよう用心して歩いた。
 死体などは見慣れてしまい、哀れとも思わないが、熱気に混じった生臭い血の匂いは、気分のいいものではない。もう虫が集まりはじめている。
 項充は顔を高くあげ、かすかに吹いている風を吸った。
「あやしい風だ」
 湿って、熱い、心が騒ぐような風だった。

 沈黙が、銭塘江に潜む船を覆った。
 妙な沈黙だった。
 広大な空と海がさらに果てし無く広くなり、この小さな船の上だけが、実際に存在しているような、頼りなく、心細い沈黙だった。
 なにか“とてつもなく大きなもの”が、どこかから自分たちを見下ろしている──そんな気がして、段景住はそっと空を仰いだ。
 甲板では、そんな不吉な気配の元凶である怪魚を、張横が“料理”していた。
 休みなく包丁を動かし、鱗を剥ぎ、骨から身を削いでいく。真っ白な切り身が、積み上げられた。
 張横は包丁で魚の肉を切り取ると、まだ動いているような新鮮な白身を口に入れた。
 しかし、誰も声をかけるものはいなかった。
 張横は、黙々と魚を喰い続けた。
 夕焼けが始まり、空が西から静かに染まっていく。紅の夏空は、血のようだ。
“嘲風子”が、嗅ぐように空を見上げた。
「お若いの。まだ、港に入っちゃならんのだね?」
“嘲風子”は阮小七に確かめた。
「そうだ、敵に見つかるからな。合図があるまで、隠れている」
「水桶の底を確かめておかなきゃならんな」
“嘲風子”は何かぶつぶつと呟きながら、船底の方に降りていった。
 風を読むという老船頭は、竜王幇の紹介だがら身元は確かだ。人当たりのいい老人だが、どことなく得体の知れないところもあった。
 その日、阮小七は夕飯を喰う気にもならず、早めに寝た。
 張横も、誰も、張順の話はしなかった。
(あのしっかりした男が、簡単に死ぬわけはない)
 阮小七は寝返りを打った。阮小七が悔しくなるほど、不可能などないような男だった。
 鼻の先に魚の生臭い匂いがこびりついていて、なかなか寝つけず、ようやくうとうとしたのは、二更に近い頃だった。

 船着場に、火が燃えていた。
「まだかい?」
 顧大嫂は汗を拭きながら、扈三娘に声をかけた。
 杭州城内の船着場に停泊する輸送船の甲板である。陸上では、方臘軍による米袋の検査が行われている。麻袋に筒を差し入れて、ひとつひとつ中身を確かめていく。米以外が混じっていないかも入念に調べられていた。昼間から、延々とこの作業が続いている。
 安全が確認された米袋は、ひとまず倉庫に積み上げられる。
 米袋は五十隻あまりの船に満載されているのだから、今夜中には終わりそうもない。
 指揮をとっているのは、杭州二十四将のひとり、呉値である。もともと慎重な男だが、梁山泊軍には手痛い目にあっている。張順の弔い合戦にも迎撃に出て、あやうく火砲と李逵の餌食になるところだったのだ。
 その時は危うく逃げたが、梁山泊の恐ろしさは骨髄にしみている。
「しつっこいねぇ」
 顧大嫂は呉値の神経質そうな横顔を眺めて言った。
「男ってのはさ、何事も鷹揚でなくっちゃ。おや、あんた顔色が悪いね」

 顧大嫂は扈三娘の顔を覗き込んだ。戦塵にまみれても、扈三娘の肌の白さは些かも損なわれない。しかし、今夜は、夜のためばかりでもなく、青白いようだった。汗を浮かべて、手巾でしきりと口元をぬぐっている。
「船酔いじゃ、なさそうだね。月のものは来ているのかい?」
 顧大嫂は遠慮なく言った。扈三娘は妹も同然なのだ。扈三娘も、この世話焼きの“姉さん”の目はごまかせないと分かっている。
「まだ、王英には言わないで。遅れているだけかもしれないし、心配するから」
 扈三娘は気丈に言ったが、やはり不安は隠せなかった。顧大嫂は頷いて、腰にさしていた芭蕉扇で扈三娘へ風を送った。
「戦が終わったら、お祝いしようね。燕順親分も喜ぶよ」
 船室から、孫二娘が顔を出した。一応、明教徒の布は巻いているが、胸元を大きくはだけ、涼しげだ。
「なんの祝いだい?」
「なんでもないよ」
「“お調べ”はまだ終わらないのかねぇ」
「夜中までかかるだろうさ」
 桟橋では、孫新が方臘軍の役人と交渉を始めていた。
「もう船は出せないから、今夜は、ここで泊まらないと」
「では、絶対に船から上がるな」
 許可は出たが、船に兵たちが乗り込んできて、隅から隅まで調べ上げ、朴刀から作業用の鉈、斧、包丁まで取り上げていった。
 ひとりの兵士が、横になっている李雲の腰の刀を見とがめた。
「お前はなんだ?」
 王英が慌てて駆け寄った。
「この男は、用心棒なんだ。昼間、宋国軍にやられて」
「武器は預かる」
 方臘兵は李雲の刀を取り上げていった。張青がぼやいた。
「包丁まで取り上げられて、晩飯はどうする」
「ほら、瓜の差し入れだ」
 白勝と杜遷がたくさんの西瓜をもらってきて、それぞれの船に配った。杭州の城内には畑が作られ、西瓜などでかろうじて飢えをしのいでいるのである。
 白勝は、積み上げられた米袋の方を窺った。
「まだ終わりそうにないな」
 彼らの目的は、城内に潜入し、夜陰に乗じて騒ぎを起こすことである。こうやって役人や兵士が集まり、検品の作業が続いていれば、動けない。
「瓜があったって、包丁もねぇし」
「なんとかなるって」
 王英は自分と扈三娘のために、一番大きな西瓜を選んだ。
「西瓜じゃ力がでねえけど、喰おうぜ!」
 王英はもらった西瓜を欄干にぶつけて割り、真っ赤な果肉にかぶりついた。
「うめえや」

 その夜、阮小七は腹をすかせたまま寝たが、真夜中に目覚めたのは、空腹のためではなかった。
 今にも、“合図”がある様な予感がして、阮小七は蒸し暑い船室から、甲板に出た。
 星月夜で、あたりには妙なほの明るさが漂っている。
 甲板では、あちこちに半裸の男たちが手足を伸ばし、思い思いに鼾をかいていた。
 見上げると、月の上を薄い雲が走っていた。風がある。そのなにかすかな空気の震動を感じて、阮小七は耳を澄ませた。
「砲声か?」
「いいや、あれは遠雷だよ」
 甲板の暗闇の中に、“嘲風子”が立っていた。肌があまりに黒いので、気づかなかった。
 ひどい生臭さに、阮小七は鼻をおさえた。
「なんの匂いだ?」
「こいつ」
 指さす先には、張横が食い残した魚の死骸が、ぼんやりと白く浮かんでいた。“嘲風子”がしたのか、水草や果実、複雑に切った紙きれなどが腐肉の上に乗せられていた。
 魚のことより、阮小七はさっき聞いた音を確かめようと、耳に神経を集中した。
「“嘲風子”よ、あんたには聞こえなかったか? 」
「聞こえたよ。あれは、あんたたちが待っている“合図”じゃないな。雷だ。東南から、嵐が近づいている。東風のうちに、船を近くの入江に移した方がいい。風向きが変われば横波を受ける。風にあおられ、岩場にぶつかれば木っ端みじんだ」
 老船頭が、すでに逃げ込めそうな近場の入江に目をつけているのは明らかだ。確かに、夜の嵐に紛れれば、方臘軍に見つかる危険は低いだろう。しかし、阮小七の胸騒ぎは続いている。それは、嵐を恐れるためではない。“活閻羅”は、死など恐れてはいない。
「聞こえるか?」
「なにが」
「その入江に、杭州城の砲声は届くか?」
「風向き次第」
「ならば、だめだ」
 闇の中に、“嘲風子”の白い歯が見えた。呆れたように、もしくは阮小七の答が分かっていたかのように、笑ったのだ。人のいい男──と思っていたが、老船頭が笑ったのは、はじめてだった。
「水神の魚を喰ったんだから、生贄を出さなきゃ収まらんか」
 突風が吹き、船が足元からうねるように揺れた。
「後悔するよ」
 老船頭“嘲風子”の落ち着きはらった態度が、阮小七の癇に触った。
「迷信を信じるのは、臆病者さ」
 阮小七は魚の死骸に歩み寄ると、悪臭を発する肉塊を手掴みで水に次々と投げ捨てた。
 風はどんどん強くなる。波に打たれ、船がきしみはじめている。どの船でも、水夫たちが忙しく動き始めた。
 風の中で、阮小七は、“嘲風子”と睨み合った。まるで、老船頭が、不吉な嵐であるかのように思えた。

 東の空で、雲が金色に光った。雷だった。続いて、砲声のような雷鳴が響く。
「お若いの。錨をあげるなら、今のうちだよ」
「だめだ」
「みんな死ぬよ」
 波がうねり、阮小七は足をすくわれた。阮小七も水については素人ではない。水上で遇う嵐の恐ろしさはよく知っている。そして、宋江は、この船団を、彼と張横に預けたのだ。
(合図は、まだか!)
 雷鳴が近づいてくる。風が水面を巻き上げて、霧のような飛沫が舞った。
「よせ!」
 阮小七は、錨を上げようとする“嘲風子”に殴りかかった。その時だった。
「見えたッ!」
 頭上から、侯建の声が聞こえた。侯建は、激しく揺れる帆柱の上にしがみついていた。
「両方だ、雷、炎、両方、見える!」
 杭州方面は靄っているが、きらりと見えたのは、星ではない。
「炎だ! 杭州が、燃えている!」
 阮小七は“嘲風子”へ振り向いた。
「錨を上げろ、“嘲風子”!」
 そして、雷鳴とは違う音を風の狭間に聞いた。
「きたぜ、砲声だ!」
“轟天雷”の“獅子吼”である。鋼の獅子が、力の限り吼えているのだ。
 仲間たちに、戦いの始まりを告げている。
 阮小七は、転がっていた櫓を、“嘲風子”の胸におしつけた。
「漕げ!」
 稲光は、まだずっと南の空だ。
「まだ“嵐のど真ん中”じゃない」
 阮小七は、叩きつける風を背にして立った。

「嵐に追いつかれる前に、杭州城へ攻め寄せろ!」


※文中の「八臂那咤」は、正しくは八臂那咤です。




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