水滸伝絵巻-graphies-

第百二十四回
嵐の日、その星は輝き(二)予感


 嵐が東の海上に現れる、少し前のことである。
“轟天雷”凌振は車に乗せた“獅子吼”を牽いて、杭州を見下ろす呉山に登った。
 山頂で“合図”を放つためである。
 西山に潜む水軍へ、銭塘江で待つ船団へ、そして、皋亭山の本隊へ。砲声が出撃の刻を報せる。
 相棒は、“混世魔王”樊瑞だ。

 彼はすでに、嵐の気配を感じ取っていた。空が荒れれば、奇襲をかけるのには都合がよい。
 樊瑞は闇に目をこらし、杭州城を凝視する。
 ほんの僅かな予兆も見逃さぬよう──。

 その頃、城内の船着場に並んだ運搬船は、まだしんと寝静まっていた。
 ようやく米袋の検品が終わって役人たちも引き上げていき、篝火のもとを巡回の兵士が交替で警邏しているだけだ。
 夜半、風が出始めた。
 すると、揺れる船から、三人の女が連れ立って岸へ上がってきた。手に手に灯をもっている。
 輸送船の者たちは、城内に泊まることは許されたが、上陸は厳しく禁じられている。
 見張りの兵が、女たちを詰問した。
「どうした」
「ちょっと、お手洗いに」
 灯火に白い頬を浮かび上がらせて、美しい女がはにかんた。
「揺れるんですもの、落ち着かなくって……ねぇ、姐さん」
 扈三娘が言うと、顧大嫂は大げさに胸もとを仰いだ。
「裾を濡らしちゃ、きもち悪いからね。そこらの厠を貸しておくれ」
 顧大嫂は、汗ばんだ襟を寛げている。若い方臘兵は、豊かな胸元から目をそむけた。そむけた先の孫二娘も、なまめかしい胸当て姿だ。
「すぐ戻るよ。ついてこないでおくれね」
 女たちは笑いさざめきながら、倉庫の方の暗がりに向かって歩いていった。
 あたりには倉庫が並んでいる。米を運びこんだばかりで、屋根の下には袋が山積みになっていた。
「どのへん?」
「このあたりでどう?」
 女たちが楽しげに囁き交わす。方臘兵は穢れを避けるように、夜空を走る雲を見ていた。そのために、気づくのが一瞬、遅れた。
 気配を感じて振り向いた時には、女たちは倉庫に灯を投げ込んでいた。油の匂いがして、米の袋がぱっと炎を上げる。酸っぱいような焦げた匂いを発しながら、米袋は次々に引火して、炎が倉庫の屋根まで噴き上げた。
「火事だ!」
 梁山泊軍が積んでいた米袋も、もちろん調べられている。火薬の主成分は白色の硝石で、米に混ぜてもわからない。硫黄は糠のように米にまぶした。袋には木炭を擦り込んで、泥汚れのように見せている。
 凌振が相当の苦心をした、“爆弾”だった。
 火は倉庫の柱から屋根に伝い、折からの風に乗って燃え広がった。すぐに方臘兵が駆けつけてきた。水を汲んでは倉庫にかけるが、瞬く間に近づけないほどの火勢となった。
 異変を聞きつけ、呉値も手勢を率いて駆けつけてきた。なにか胸騒ぎを感じ、軍装を解かずに仮眠していたところだった。
 見張りの兵は、腰を抜かして座り込んでいた。
「女が……!」
 倉庫の方を指さす兵士を、呉値の逞しい足が蹴りつけた。
「なにが女だ! ばかものが」
 この火勢は失火でない。敵が潜入したことは明らかだ。
 桟橋に並ぶ船からは、袁評事が茫然とした顔を覗かせていた。赤い火が、その善良な横顔を照らしている。
 ぐっすりと眠り込んでいた袁評事は、これも夢かと疑った。しかし、呉値の鋭い目と目が合うと、我に返った。
「船を出せ!」
 すでに船頭たちも起き出していた。彼らが恐れるのは船が延焼することだ。袁評事の命令を待つまでもなく、次々に纜を解き始めた。
「水門を開けてくれ!」
 船頭たちが叫ぶ。その一連の動きが、呉値の疑念を呼んだ。
「捕らえろ、梁山泊だ!」
 呉値は漕ぎだそうする船に槍を投げ、罪のない船頭を刺し殺した。兵士たちが弓矢を構える。その背面へ、解珍と解宝が襲いかかった。
「人違いすな!」

兄弟は素手で殴り掛かると、呉値を水に突き落とした。
 女たちが放火した騒ぎに乗じ、船に隠れていた梁山泊軍は、すでに全員が陸に上がっている。
 武器はないが、調達するのは簡単だった。
 桟橋には、水桶を提げた兵と、武器を掲げた兵が入り乱れている。杜遷は纜を縛る杭を引き抜き、片端から敵を殴り倒した。倒れた兵から、湯隆と穆春が武器を奪う。李雲は番所に踏み込んで、取り上げられた自分の刀を取り返した。
 火を投げたあと姿を消していた扈三娘たちは、武器庫からを担げるだけの武器を調達してきた。
「みんな、武器よ!」
 五百人の丸腰の梁山泊兵が群がっていく。
「ありがてぇ、姐御!」
 武器を手にした梁山泊軍の者たちは、打ち合わせ通り、三三五五、船着場から脱出していく。
 呉山から、凌振の砲声が轟いた。
 樊瑞の目が、杭州城の空を照らす火を捉えたのだ。
 凌振の号砲を聞いて、杭州城内の闇の中から、現れた者たちがいた。石勇、白勝、李立と鄒淵、鄒潤は、扈三娘たちより先に船から抜け出し、水中を泳いで城内へと散った。
 彼らは隠れていた物陰から飛び出すと、屋根を走り、路地に駆け抜けて、てんでに城内に火をつけた。
 しだいに強まる風にあおられ、火は、空の闇をなめるように広がっていく。
 石勇は屋根の一番高い場所に立ち、夜の街に点々と灯る炎を見ていた。

(始まった)
 夜空に漂いはじめた炎の粒が、流れる星のようだった。

「──号砲だ」
 盧俊義は風まじりに、その音を確かに聞いた。
 急に強くなった風が、林冲の白衣をあおった。
 盧俊義は林冲、呼延灼らを率い、候潮門を攻めるべく進軍していた。候潮門は銭塘江に臨む城門である。日に二度、銭塘江が満ち引きする潮を聴くので、そう呼ぶのである。
 林冲の顔色は、夜のためばかりでなく、死人のようだ。
 盧俊義は、特に言葉もかけなかった。健康でも病でも、不幸でも幸福でも、死ぬ時がくれば、人は抗いようもなく死ぬ。
 潮が満ちては、退くように。
 盧俊義は、いつからか、そんな風に考えるようになっていた。
 そして、それは、さほど悪い考えではないように思うのだ。
 号砲とともに、候潮門へ、盧俊義軍は一斉に速度を上げる。
 呼延灼、劉唐、単廷珪、魏定国、陳達、楊春たちが、彼方の杭州城へ向け、河岸を駆ける。
 風が、彼らに力を与えてくれるようだった。


 北東の艮山門郊外にも、すでに花栄率いる軍が押し寄せていた。
 連れ立つのは、秦明、朱武、黄信、孫立、李忠、朱貴、朱富。誰ももう、なにも言わない。ただ、耳元の風の音を聞いている。

 杭州の空が、夜明けでもなく、赤く染まりはじめていた。
 李俊率いる西山の水軍にも、凌振の砲声は確かに届いた。
「船出だ!」

 船はすべて入江に集い、阮小二、阮小五、孟康のほか、上陸戦にそなえて穆弘、楊雄、石秀、馬麟、薛永、丁得孫も援軍に加わっている。
 張清と共旺を立て続けに失った丁得孫は、行方不明になっていた。咆哮しながら山中を彷徨っていたのを発見し、連れ戻ったのは、石秀だった。丁得孫は言葉を失い、獣のように唸り声をあげるだけだった。
 砲声とともに、彼らは全力で櫓を押し、西湖の水面へ漕ぎだした。


 杭州城東の菜市門には、朱仝、史進、そして魯智深、武松が、号砲とともにその姿を現した。
 魯智深たちには、二度目の菜市門攻めだ。史進は前回の出陣では、戦いに間に合わなかった。
 朱仝は、史進に先鋒を命じていた。
「思い切り暴れるがいい」
 魯智深たちには、それが不満だ。彼らが先に“目をつけた”門だ。歩兵部隊は抜け駆けしようと、我がちに前へ押し出して行く。
 朱仝は、今夜ばかりは軍令違反を咎める気はない。
 空には、雲、風。
 星は見えない。


「嵐になるな」
 李応は城外の林に潜んでいた。
 今夜の役目は、伝令たちの総括である。
 孔明、楊林、時遷、童威、童猛らを駒に、各陣の連携と援護の手配をする重任についている。戦いの内にいては激しやすいが、外からは情況を冷静に分析できる李応には適任である。
「杜興よ、今夜は荒れるぞ」
「旦那様の仰るとおり」
 天候の急変も気になるが、李応にはもっと気になることがある。
「“本陣”の動きは?」
 杜興は皋亭山の方を望んだ。
「そろそろでございましょう」
 杭州の空が燃えている。
 夜と炎が戦うような、それは、異様な夜空だった。

 風の音で、宋江は目覚めた。
 暑さは相変わらずだが、窓が風に揺すられて、かたかたと音をたてていた。
 雷の音も聞こえる。
 宋江は起きあがった。重苦しい夢を見ていて、これも、夢の続きのような気がしていた。
 窓の外が、ぼんやりと明るい。
 外に出ると、いつもは閑散とした裏庭に、いつの間にか大勢の人が整列していた。
 宋江はぎょっとした。
 いくつかの松明に照らしだされた人々の顔が、羅刹や鬼卒のように見えたのだ。列の中から、ひとりの書生が歩み出た。
「出陣の準備、整っております」
「呉用先生」
 それは夢の続きではない。
 呉用の背後には、呂方と郭盛がいた。欧鵬、登飛、蒋敬、燕順がいた。李逵は鮑旭、項充、李袞、蔡福、蔡慶を従えている。宋清、裴宣までが軍装だった。
 みなが真紅の旗を掲げていた。窓の外が燃えているように見えたのは、その紅の旗のせいだった。郁保四が掲げる帥字旗だけが、紅の波の中に、白くはっきりと浮いていた。
 武器や甲冑の触れあう音が、嵐のようだ。そして、夢の中で聞いたのは、雷の音ではなかった。
 砲声だ。西方で、凌振の砲が轟いている。
 人を分け、戴宗が駆けてきた。すでに甲馬は砂塵にまみれている。
「急いでくれ、もう杭州は燃えている」
 続いて時遷が転がるように戻ってきた。
「索超はん、関勝はん、もう北関門外に着くで!」
 李逵が頭の牛角を振り立てた。

「行こうぜ、宋江兄貴!」
 豆がはぜるように、李逵は笑った。
 宋江には、みなが、笑っているように見えた。松明の真っ赤な灯の中で、皆が宋江を見つめている。
「宋江殿、さあ」
 宋江の肩に、呉用が戦袍を着せ掛けた。
「我々は、あなたを必要としているのです」

 杭州城外。城を焼く火が、二十里の外まで空を照らす。
 黄昏のような明るさだった。その光に助けられ、梁山泊軍は着実に杭州城へ攻め寄せていた。
“降魔太子”方天定のもとには、矢継ぎ早に急使が駆け込んでくる。
 少年は軍装を整え、城内を見渡す楼閣に立っていた。傍らには、登元覚が控えている。どちらにも、動揺の色はなかった。
「やはり、運搬船か。同じ手でくるとはね」
「城内の被害は甚大です」
「そうだろうね」
 方天定とて神ではないから、確信があったわけではない。
 彼は、賭けたのだ。
 大量の兵糧を得て城内の飢餓を救うのもよし、梁山泊軍に攻めさせるのもよし──と。
 このまま膠着状態が続けば、杭州には不利になる。梁山泊軍が城に攻め寄せるなら、この一戦でかたをつけるつもりだった。
 無謀な賭けだが、登元覚は自分の命をなげうっても、方天定を勝たせる気だった。
「迎撃の準備はできております」
 登元覚は、方天定が、いつもの神秘的な微笑を見せると思った。すべてを見通し、それでいて寂しげな笑みである。
 しかし、少年は微笑まなかった。
「明日の朝日を見られたら、僕らの勝ちさ」
 無垢な瞳が、広がりゆく炎を睨んでいた。

 真紅の旗を押し立てて、梁山泊軍が進む。純白の旗を掲げ、方臘軍が走る。
 空には雲が飛び、遠雷か、砲声か、低く轟く。
「雷も応援しておるわ」
 凌振は砲を子母砲に変えた。連続して撃てる子母砲の音は、杭州の敵を震撼させ、仲間を鼓舞する。
 火薬は少しばかり調達できた。粗悪品だが、空砲を打つには事足りる。
 樊瑞は風を読んでいた。砲声が風に乗ってより遠くへ響くように。聞き逃す者が、ひとりたりともいないように。
 風は、しだいに北よりに変わりはじめた。

 向かい風の中を、呼延灼が、花栄が、史進がゆく。
 武松は劉唐と争うように駆けた。
 巨大な杭州城が彼方に見える。空が真っ赤だ。風が熱い。
 掲げた紅の旗が、さらに赤く燃え上がる。
 赤は血であり、命の色だ。喜びと怒りの色であり、生きている証の色だった。
 武松は二振りの戒刀を握りしめている。
 いまや自分の一部となった刀だ。その鍔が、幾多の人の血を浴びた刃が、がたがたと震動していた。
「杭州城!」
 誰かが叫んだ。
「杭州城へ!」
 そばを走る劉唐の髪が、燃えるように赤かった。

 梁山泊軍本隊の先鋒部隊も、北関門に向かっていた。

 すでに戦端は開かれ、気配を隠す必要はない。馬蹄を轟かせ、杭州城の北へ迫った。その眼前へ、白い軍勢が颯爽と立ちふさがった。城外の出城で警戒にあたっていた“流星”石宝麾下の精鋭である。冠に金色の星が輝く。
 梁山泊の先陣は“急先鋒”索超。手には金燦斧がきらめいている。
 その刃に、さっと紅の影が過った。
 一頭の馬が、索超を越えて走り出たのだ。関勝だった。
「関将軍、なぜ軍規を乱される!」
 索超は猛然と砂塵を蹴った。
 関勝の“抜け駆け”は、索超には意外な事だった。二人は特に親しい間ではない。性格の違いというより、関勝が宣贊、赫思文を藩屏として、常に人を遠ざけるところがあったからだ。それでも、索超は関勝を五虎将筆頭として尊重してきた。
(苦手な男だ!)
 索超は関勝を抜き返そうとした。しかし、通常の馬では赤兎には追いつけない。それは関勝軍も同じだった。押し寄せる敵へ、関勝は単騎で突出していく。
 索超は苛立ち、遠ざかる背に向け、叫んだ。
「関将軍! くそッ、落とし穴に気をつけろ!」
 前を行く関勝が振り向いた。その目を見た時、索超の脳裏に、ふいに宣贊、赫思文の姿が浮かんだ。
(この男を死なせてはならぬ!)
 索超は馬を躍らせ、猛然と関勝の背へ食らいついた。
(ならん!)
 索超は関勝を追った。
(死なせはせぬ!)
 その時、赤兎が嘶いた。首を伸ばし、抗うように声を放ち、そして、脚を止めた。
 関勝は赤兎を鞭打った。
「赤兎よ、なぜ進まぬ!」
 しかし、馬は動かなかった。索超は関勝の傍らを駆け抜けた。
「先鋒は、この索超が承った!」
 梁山泊軍は紅の旗を立てている。喪の白でもなく、黒でもない、燃え上がる炎のような真紅の旗だ。
 迎撃する方臘は純白の旗を白波のごとく掲げている。
 まるで、生と死がせめぎあっているようだった。

 嵐は、銭塘江外の海上に荒れ狂っていた。
 梁山泊軍の船団は隠れていた岩影から漕ぎだして、銭塘江を遡る。
 杭州城にあがった火の手が、灯台がわりだ。風がびしびしと叩きつけ、船がきしむ。
 水手たちは全力で櫓を押した。“嘲風子”は船首で櫂を操っている。踏みしめた足元を、船縁を越えた波が洗った。
 川船は底が平らなため、横波に弱いのだ。
 向かい風の中を船は進む。阮小七も全力で櫓を押したが、波に阻まれ、遅々として進まない。
「張横はどこだ」
 風はますます強くなり、船縁に波が白く砕けた。甲板がうねって、歩くことも難しい。
 櫓が重い。油断すれば波にさらわれそうだ。風が全身を叩き、塩辛い水しぶきが胸を洗う。目を開けているのも骨が折れる。
(なんて嵐だ)
 まるで、立ちふさがる大軍のようだ。
 こんな舟など、大海に落ちた木の葉のようだ。
 風が唸りをあげている。
 風と波、怒鳴り合う声のあいだに、凌振の大砲は鳴り続けている。
 阮小七は全身で櫓を押した。
 押しながら、阮小七はすべてを忘れた。目も見えず、耳も聞こえない。櫓の感触だけが、掌に鮮明だった。

 迎撃に出た杭州方臘軍は、北関門外に布陣していた石宝が最も早かった。
 方天定は梁山泊軍本隊が北から来ると予想して、迎撃の体勢をとっていたのだ。
 風の中を、銀色の軍は整然と突撃してくる。
 索超の目は、先頭を来る男に釘付けになっていた。冠に輝く金の星、両手には流星鎚と劈風刀。尋常の者ではないことは一目で分かる。
(あの男が、“流星”石宝か)
 方臘軍で、“一番強い”と聞こえた男だ。
 索超は大斧を振り上げ、馬の腹を蹴った。
 流星鎚の攻撃範囲は一丈もない。索超は大斧の長柄であることを生かし、石宝の正面へ巧みに距離を保って打ち込んだ。流星鎚を撥ね返し、息継ぐ間もなく斬り込みながら、石宝の隙を誘おうとした。

 一方の石宝は流星鎚を自在に泳がせ、冷静に索超の打撃をあしらう。無駄な動きは微塵もない。索超は隙を見いだせなかった。臨機応変な動き、巧妙で柔軟な攻めは石宝の最も得意とするところである。却って、索超の虚を狙う。察して、索超は動きを変えた。全身に力を巡らせ、猛烈な打撃を繰り出す。本来、大斧は打撃武器である。あらゆる武器、技を力で叩き伏せ、当たれば敵は鎧ごと両断される。全力で打ち込みながら、攻撃の速さを失わないのは、索超ほどの鍛練を積んだ者だけだ。
 この時、すでに関勝も追いついてきて、石宝率いる精鋭部隊へ突入していた。
 石宝配下の方臘軍と、関勝隊、索超隊が入り乱れる。石宝を守ろうとする方臘兵を、関勝は端から青龍刀で薙ぎ落とした。
 無数の方臘兵を討ち果たし、関勝は石宝へ迫らんとする。
 索超は、石宝との戦いに集中した。石宝はいつしか守勢に転じている。索超は冷静だった。全身の力を斧に注ぎ、攻め続けた。神経は戦うほど研ぎ澄まされ、石宝のわずかな動きにも感応する。流星鎚を避け、劈風刀を受け、ついに一瞬の隙を掴んだ。石宝が、迫り来る関勝に気を取られた一瞬のことだった。
 索超は裂帛の気合を放つと、大上段から金燦斧の風を唸らせた。石宝はすんでで手綱を絞ったが、白馬のたてがみが、ばっさりと削がれて散った。風に舞う白毛の中で、石宝は飄然と索超から馬を離した。
 関勝が来る。
 石宝は、関勝を見て、逃げたのだ。
「待てッ!」
 索超の馬が激しく嘶いた。周囲には、石宝配下の方臘兵や、自分の部下たちが戦っている。その中を、索超は真一文字に駆け抜けた。
 索超は、我を忘れた。
 戦場を鏃のように駆け抜ける。誰よりも、速く。誰よりも先へ。戦場を切り裂く、この姿を、人々は“急先鋒”と呼んだのだ。
 肩ごしに振り返った、石宝の冠の星が金に輝く。
 索超の星に、色はない。無心の星だ。
 天空星──“空”とは、突き抜けて、なにもないこと。
 果てしない空。一点の曇りもない心。
 索超は、石宝を追った。
 その背後を、さらに関勝が追っていた。関勝が何か叫んでいたが、その声は索超には聞こえない。
 索超は猛然と石宝を追い、流星鎚の攻撃圏ぎりぎりまで距離を詰めた。長柄武器の斧なら届く。索超は瞬時にその距離を計り、もう一馬身、馬を進めた。
(よしッ!)
 索超は鞍を挟む腿に力を込め、大斧を夜空に振り上げた。

 刹那、石宝が振り向いた。
 上体をねじるように振り返り、その勢いで流星鎚を旋回させ、手を離した。
 避ける間も、馬を止める暇もなかった。

 流星鎚は銀色の軌跡を描き、“急先鋒”索超の顔面を直撃した。

 杭州城は、西側の湖に寄り添う縦長の城である。空から見れば、水辺に置かれた一個の瓜の形に見えるかもしれない。
 その四方から、蜜を求める蟻の群のように、梁山泊軍が押し寄せていた。
 索超は、即死だった。
 索超は顔を朱に染め、地上に落ちた。馬だけが勢いのまま駆け去っていく。
 索超を倒した石宝は、馬を返すと、そのまま東へ──梁山泊軍が進んでくる方角へ向かっていく。
 関勝は、石宝を追った。
 関勝軍も一斉に続く。
 ひしめく梁山泊軍の中を、石宝は遮る者を倒しながら駆け抜けていく。どれほどの敵を倒そうと、石宝の狙いは、常にひとつ。“宋江”なのだ。

 その頃、杭州城でも動きがあった。
 城門が開き、城内から僧形の登元覚が手勢を率いて現れた。梁山泊軍の目が石宝に向いた隙をついたのである。
 騎兵千騎あまりが馬間を詰め、梁山泊軍を蹂躙すべく吊り橋を駆け抜ける。彼らが城を出たあとも、城門は開き、吊り橋は下りたままだ。
“鼓上蚤”時遷は、先鋒隊と本隊の間の連絡役を任されていた。
 宋江への報告を終え、戻った時、索超の死を目の当たりにした。
 続けて、石宝が城から離れ、関勝が追い、彼らにつられて両軍が東へ動き、城門が開いたのを見た。
「関将軍! 城門が開いたで!」
 時遷は関勝を追い、大声で告げた。しかし、関勝は振り返らない。
(なんでや、城門を襲う好機やないか)
 関勝の目には、石宝の白い背しか映っていない。索超にあれほどの血を流させながら、石宝の身には血の一滴もついていなかった。
(あの男を血に染めねばならぬ)
 関勝は石宝を執拗に追った。自分の隊の指揮は抛棄していた。かつてなら、このような情況でも宣贊、赫思文が関勝軍を統率した。いま、彼らはいない。石宝軍は、関勝を阻もうと間断なく突撃を繰り返す。関勝隊は、関勝を守ろうとその矢面に立つ。石宝軍も、関勝軍も、次々と倒れていった。
 石宝は、敵軍中に帥字旗がないことに気がついていた。
(宋江はいないのか)
 ならば、彼がここにいる必要はない。石宝は、はじめて背後を振り向いた。そして、表情が見えるほど間近に、関勝が迫っていることに気がついた。
 石宝は、怯んだ。
 そして、逃げた。
 北関門の戦いは、すでに登元覚に主導権が移っている。
 登元覚は城門を守り抜くだろう。石宝は、すでに梁山泊軍の統率に乱れがあることを感じ取っている。
 索超を討たれ、関勝は独走し、宋江がいない。
 石宝は、関勝を振り切ろうと馬腹を蹴った。いまここで、関勝と死闘する意味はない。
 石宝は戦場に視線を走らせ、退路を探った。大軍同士の乱戦だ。逃げ道はいくらでもある。しかし、その冷静な眸の前に、一匹の“赤目の獅子”が立ちはだかった。

“火眼俊猊”登飛。
 鉄鏈を頭上に回し、咆哮とともに石宝へ襲いかかった。

 白毛を逆立て、咆哮する獅子の姿を、関勝も見た。
 登飛が来たということは、“宋江”が本隊を率いて到着したのだ。
“宋江が来た”
 そのことが、一瞬、関勝を我に返らせた。
 ここは、杭州城外。方臘軍と梁山泊軍が入り乱れる真夜中の戦場である。
 空を赤く照らす火は、杭州城を焼く炎。梁山泊軍の目的は、城門を奪うことである。
 関勝は杭州城の開け放たれた城門へ、赤兎を向けた。
 血で汚れたまま、磨かれずにいたはずの、大刀の切れ味が鋭かった。赫思文しか触ることを許されなかった大刀である。関勝は、その刃の血が何者かによって拭われているのに気がついた。巨大な刃が、鮮やかに敵を斬り伏せる。
 一振りの大刀をもって、一城を斬り伏せる気迫であった。

 時遷にも、もう情況の把握は不可能だった。ただ、宋江の本隊が到着したことは分かった。東から、梁山泊軍の新手がなだれこんでいる。燕順、欧鵬、蒋敬が騎兵部隊を率いていた。夜戦の同士討ちを避けるため、目に鮮やかな錦旗を立て連ねている。時遷は叫びながら走った。
「城門や、城門を狙うんや!」
 李逵、項充、李袞率いる団牌部隊も、脇道から戦場へ乱入してきた。
「城門はおいらがいただきだ!」
 李逵は乱戦の中へ斬り込んだ。
 その正面に、登元覚の騎兵軍が体当たりする。肉体と肉体がぶつかる鈍い音がして、歩兵部隊が将棋倒しに崩れた。倒れた梁山泊の歩兵の上を、馬蹄は容赦なく踏み越えていく。項充は馬を避けた。避けながら飛刀を放ち、騎手を倒した。鮑旭は馬甲の胸に斬りつけたが、弾き返され、蹴り飛ばされた。李袞は敵の馬上へ跳ぶと、飛槍で方臘兵の喉笛をかき切った。
 押し寄せる騎兵の圧力に、団牌兵たちは密集し、団牌を立てて馬蹄に耐える。踏みつぶそうとする方臘軍と、押し返そうとする団牌兵がせめぎあう。項充は飛刀を手に、李逵を探した。
(鉄牛、どこだ)
 李逵は、すぐに見つかった。最も激しい戦いの中に、李逵の兜の牛角が躍っていた。李逵は棹立ちになった馬を叩き伏せ、落馬した方臘兵を二本の板斧で三つに刻んだ。
 梁山泊軍は攻めた。燕順ら騎兵も戦いの中へ飛び込んでいる。
 燕順は、すでに満身創痍だ。しかし、その強さは衰えていなかった。槍が敵を馬から突き落とすごとに、傷の痛みが消えていく。

 登飛は放たれた猛犬のように、倒れた馬から地上へ飛んだ。周囲は死体で満ちている。どれも登飛が殺した石宝配下の精鋭だ。登飛は馬上で五十人を殺し、徒歩になってまた五十人あまりを殺した。鉄鏈にからみついた肉片は、その牙で齧り取った。味方さえ、登飛には近づかなかった。

 戦野の彼方に、杭州の城門が開いている。虚ろな黒い口を開いた、巨大な獣だ。登飛の足が大地を蹴った。登飛もまた、獣になった。彼の指は戦いの中で次々に失われ、もう三本しか残っていない。腕につないだ鉄鏈を自在に操り、白いものを見れば打ち倒す。敵を求める赤い目が、火を噴くように燃えていた。
 怯む方臘兵の頭頂へ、登飛は鉄鏈を打ちつけた。瀕死の敵を捨てて前進した。
“俊猊”は竜の子であり、獅子。その星は“地闔星”、闔とは門を閉じること、蓋をすることである。登飛は、門を閉じ、蓋をしても、飛び出してくるもの──赤い目の野獣であった。目に入るものを殺し尽くした。大地を覆う死骸を踏み、血の河を越え、喉を伸ばし、絶叫した。
 石宝の護衛は全滅し、彼を守る壁は崩れた。石宝は独りだった。
 雷雲が、杭州の上空に近づいている。
 稲光の閃光が、石宝の淵のような眸に光った。
 鉄鏈が飛ぶ。石宝の流星鎚が放たれた。流星鎚と鉄鏈が激しくぶつかり、二本の鎖が絡み合った。登飛は全身で鎖を引いた。石宝も両手で鎖をたぐる。登飛は鎖を解こうとあがいたが、二本の鎖はしっかりと絡み合っている。鉄鏈は登飛の腕に装着されていて、容易に外すことはできない。
 じりじりと、石宝は登飛を引き寄せた。猛獣など恐れていないことを、確かめるかのようにたゆみなく鎖を引いた。
 登飛は、声のない叫びを放った。叫ぶとともに左手で腰の刀を抜き、右手首を鉄鏈ごと断ち切った。束縛から解かれた登飛は飛んだ。後ろへ体勢を崩した石宝へ飛び掛かり、全身で体当たりして突き倒すと、喉笛めがけて牙を剥いた。

 失った血を補うべく、登飛の牙が石宝の喉に食い込んだ。その背中から、石宝の劈風刀が突き出していた。

 登飛はまだ食らいついている。背中に出た刃の先が、ゆっくりと天へ伸びていく。石宝は登飛に地面に押さえつけられたまま、劈風刀を柄まで抉り込んだ。最後まで、登飛は石宝にむしゃぶりついたままだった。
 石宝は登飛を押し退け、蹴り飛ばした。
 立ち上がった石宝の戦袍の裾に、血が花弁のように散っていた。

 石宝が首筋に手をやると、ぬるりと滑って、掌が血に濡れた。石宝は登飛の胸から劈風刀を引き抜くと、もう一度、胸を貫き、そのまま戦場へ去っていった。

 登飛は、死んでいなかった。
 自分で断った手首から、血が流れ出していた。
 登飛はおぼつかない動きで、腕を動かし、生暖かい血をすすった。
 血は熱く、濃厚な命の味がした。
 登飛は自分の腕に食らいついたまま、息絶えた。
 彼方には、城門が、どこまでも暗い口を開けていた。

 関勝は登元覚隊と戦っていた。
 登元覚配下の僧兵である。その壁は厚く、七、八十人を倒しても、まだ城門に到達することができなかった。
 登元覚は馬上で蓮華座を組み、口に明教の聖句を唱えて、死にゆく人々を睥睨している。
 いかな関勝とて、五千の人をひとりで倒すことはできない。部下たちは戦場に散り散りになっていた。鉄の統率で知られる関勝隊には珍しいことだった。衝動にかられた関勝の動きについてゆけずに、主を見失ったのだ。
 関勝は単騎で戦い続けた。無数の敵を相手にしても、誰も関勝に傷ひとつつけられるものはいない。ただ、関勝は思うように進めぬことに苛立った。
 さしもの大刀も、血と脂にまみれていた。
 北関門外は激戦である。
 二人の元帥を投入していることからも分かるように、方天定は杭州方臘軍の主力をここに集中していた。宋江を討ち取れば、梁山泊軍は崩壊する。そして、梁山泊軍以外に恐れるべき宋国軍はいないと分かっているのだ。
(宋江よ、はやく来い)
 石宝が、登元覚が、方天定が、宋江の到着を待っていた。

 皋亭山を下りた宋江たちが到着した時、梁山泊軍の先鋒部隊は、北関門に迫るべく奮戦中だった。
 北関門が見える頃、偵察に行っていた戴宗が駆け戻ってきた。
「索超がやられた!」
 宋江は、玉獅子の石像のように座っている。戴宗は続けて言った。
「登飛も死んだ。石宝と、登元覚の精鋭が城の北側に集中して、戦場はひどい有り様だ」
 報告する戴宗の顔が、惨状を物語っていた。
 索超、登飛の二将を討たれ、各部隊は統率を失っている。関勝は独断専行し、それにつられて、欧鵬、燕順、李逵たちも、てんでに城門へ肉薄している。
「まるで……昔の梁山泊のようだった」
 呉用も、誰も、宋江に指示を求めなかった。
 戴宗は、救いを求めるように宋江を見上げた。
 宋江は無言で戦場へと進んでいく。
 戦の声が、夜の熱気を震わせている。
 呉用は思った。自分は、間違っているのかもしれない。
 しかし、同時に、一度始まったこの戦いは、決着がつかぬ限り終わらないことも分かっている。
 梁山泊軍は四方から杭州城に攻め寄せている。敵が北関門に敵の主力を集中させてきたのなら、他の城門攻めに有利になる。どこかに、綻びが出るはずだった。
 この道のほか、道はないのだ。

“急先鋒”索超、“火眼俊猊”登飛、北関門に死す。
 その報は、東の昆山門、南の侯潮門にはまだ伝わっていなかった。
 花栄は吹きつける風の中、勇躍、昆山門へ攻め上げた。付き添う軍師は朱武である。
 昆山門は杭州城の東北の城門で、予測したとおり、その防備は手薄だった。
 方臘軍は、魯智深たちが攻め寄せた菜市門を警戒している。あの一戦で、梁山泊軍も地形を知悉しているからだ。
 斥候たちも、菜市門の城壁上に多数の兵士が立って警戒していると報告していた。
 昆山門は静かだった。篝火の数も少ない。
 梁山泊軍本隊に攻められている北関門が近い。予想どおり、援軍を差し向けているのだろう。
 あたりは、杭州城を焼く焔に照らされ、黄昏時ほどの明るさがある。
 花栄と秦明が陣頭に立ち、黄信と孫立が両翼を担う。朱仝に続く魯智深、武松らの歩兵部隊は、李雲から預かった攻城具を牽いてきていた。
 昆山門の城壁上では、見張りたちが慌てふためいている。近づくと矢がぱらぱらと飛んだ。盾をかざし、歩兵が吊り橋に向かう。日に焼けた肩に堀を越えるための長梯子を担いでいた。
「いちばん勇敢な奴は誰だ!」
 全員が“一番乗り”を狙っている。平坦な道を先を争い押し寄せた。その足元が、忽然と崩れた。数十人の歩兵がまとめて罠に転がり落ちた。穴の底には、先を切った竹とさかもぎが植えられていて、歩兵たちは落ちたはしから串刺しになった。
 武松は梯子に引っ掛かり、なんとか落ちるのを免れた。足元に、鋭い槍で顔を貫かれた歩兵が死んでいた。それを踏んで、武松は穴のふちに手をかけた。朱富は足が遅くて幸運だった。朱富は武松の腕を掴んで穴から引き上げ、下を覗いた。
“笑面虎”の顔から、笑いが消えた。
 落とし穴の底は、血で池になっていた。まだ生きているものも、体中を竹や槍に貫かれ、助け出すすべがなかった。脇腹を刺された兵は死にきれず、痛みに泣きわめいていた。
“鬼臉児”杜興が昆山門に着いたのは、そのわずか後だった。李応は、斥候の報告に気になるところがあれば、杜興を確認に走らせていた。阿鼻叫喚が、杜興に遅かったことを教えたが、彼は告げないわけにはいかなかった。
「菜子門の兵は人形だ!」
 杜興は混乱する梁山泊軍の中に朱武を見つけ、駆け寄った。
「城壁の兵は甲冑を着せた藁人形、警戒が厳しいように見せているだけでした」

 朱武は愕然とした。
(はかられた)
 方臘軍は、彼らが菜市門ではなく、この城門にくると読んでいたのだ。
 だから、城内から落とし穴を掘って、攻城具のような重量のあるものが通れば、踏み抜くように準備していた。
 陥穽に落ちた兵士の声が、地獄の嵐のようだった。

 嵐が、荒々しさを増していた。
 阮小七ら梁山泊軍の船団は、叩きつける風に抗いながら、銭塘江を遡り、杭州を目指していた。漕ぎ手たちは全身の力で櫓を押している。それでも、向かい風に変わった嵐に押し戻されずにいるのが精一杯だった。
 舳先に白波が砕け散る。
 水しぶきが雨のようで、かなたの炎もかすんで見えた。
 百戦錬磨の漕ぎ手たちも、経験したことのないほどの嵐だった。
「水神の怒りだ」
 阮小七も櫓を押していた。風が耳元で唸る。見えない手で全身を押さえつけられるような圧力を感じた。
 風がまた強くなり、傾いていた別の船が沈み始めた。
 漕ぎ手たちが喚いている。
「神の魚を喰ったせいだ!」
 張横は漕ぎ手に混じって櫓を押している。
「あの男を水に放り込め!」
 張横は怒鳴り返すこともなく、黙々と漕ぐ。阮小七は、張横が睨んでいる波の彼方へ目をやった。
 遠い炎を睨んでいるのだ。杭州城を。
 轟々と唸る風が横合いから吹きつけて、船は大きな波をかぶった。波がひくと、何人かの漕ぎ手が流されていた。
“嘲風子”が叫んでいた。
「いざとなったら浮くものを抱いて飛び込め!」
 空には雲が渦巻き、水上には白い波が小さな船を呑み込もうと牙を剥いている。
 侯健は桶を手に、水夫とともに水を汲み出していた。甲板にたまった水を汲み、捨てる作業を繰り返す。
 段景住は欄干にすがり、身動きもせずにいた。
「段さん、大丈夫か」
 侯健が呼んでも答えなかった。
 空には雲が渦巻き、水上には白い波が荒れ狂っている。
(いいえ、あれは)

 迸る水しぶきを浴びながら、段景住は“天馬”を見ていた。
 荒れ狂う波は、疾走する億万匹の白馬の群だ。
 疾走する、神の馬たちだ。
 敬虔な胡人の魂に、なにものかの声が響いた。
『迎えに来たのだ』


 はかられた──そう悟った時、“神機軍師”朱武の中で、なにかが猛然と動いた。
「北関門へ!」
 朱武は躊躇しなかった。
 朱武は呉用を信頼している。宋江が出陣したと疑っていなかった。敵は“宋江”へ兵力を集中しているはずだ。
 秦明に撤退の指揮を任せ、花栄が先行を名乗り出た。
「ついて来られる者から、ついてこい!」
 史進率いる驃騎兵が後に続いた。
 城壁上の方臘兵が、先程とは全く勢いの違った矢を射ていた。風に乗せて飛距離を伸ばし、その狙いは確実だった。
 朱仝と孫立は、混乱する兵をまとめようとしていた。最も苦心したのは、突出した歩兵の回収だった。仲間を罠に嵌められた歩兵たちは怒り狂い、穴を避けて城門へ迫ろうとした。そこにも、また陥穽があった。
 秦明は深く息を吸い込み、声を放った。
「全軍撤退! 速やかに北関門の本隊に合流せよ!」
 秦明の声は“霹靂”である。平生は寡黙であるが、戦場にては、その一言は一瞬で兵の耳に浸透した。
 秦明は一喝するや、黄信を連れて花栄を追った。秦明が進み、その後に南斗の旗を掲げた部隊が連なると、敵には恐怖を、味方には安堵を与える。
 散り散りになった兵たちが、自然と秦明を追い始めた。
 あとは、朱仝、孫立の仕事である。
「陥穽があるぞ、地面を槍で突け!!」
 一番城に近づいていた魯智深が引き返すべく禅杖で地面を一撃すると、土煙をあげて地面が崩れ落ちた。迎えに来た朱仝の目前だった。
 蹄が落ちる寸前で、朱仝は飛んだ。
「北関門へ!」
 朱仝の馬は落とし穴を飛び越え、闇の彼方へと駆けた。

 銭塘江が騒いでいる。
 風がひどい湿気を含んでいた。息苦しいほどだ。まもなく雨が来るだろう。
 盧俊義軍は候潮門を攻めていた。火災の火元となった船着場に近く、空は明々と燃えていた。
 梁山泊軍が門外に到達すると、すぐに城門が開かれた。出てきたのは兵ではなく、火のついた人間たちだった。城内に燃え広がった火が、逃げまどう住民の退路を断ったのだ。人々は、そのまま堀へと落ちていった。
 呼延灼は怯まなかった。焦げた悪臭の中を進んだ。予想通り、住民に混じって方臘軍が打ち出してきた。歩兵を中心に四千以上の数があった。住民の悲惨な姿で怯ませ、虚を衝こうという戦法だ。そんな手を使うということは、兵力が北側に振り分けられ、ここには不足しているのだろう。
 双鞭が夜空を突き、打ち合わされて十字を描いた。“突撃”の合図である。
 梁山泊軍騎兵が動く。
 その時、劉唐の部隊は、騎兵軍の後方にいた。

「分かっているな、野郎ども」
 劉唐は円陣を組んだ手下たちを睨み回した。長い付き合いの奴も、新顔もいる。どちらも修羅場をここまで生き残り、傷だらけの、ふてぶてしい面構えになっていた。
「分かっているな。今夜の大一番、俺に命を張ってもらうぜ」
 吹きすさぶ風に赤毛が乱れる。燃え上がる炎のようだった。
「行こう」
 男たちが武器を握り、無言で駆けだす。
 すでに呼延灼、単廷珪、魏定国の騎馬軍が突入を始めている。林冲は動かなかったが、もう、誰も林冲にかまわなかった。
 迎撃の敵軍には騎兵があたり、その隙に歩兵が城壁へ迫る。単純な作戦だ。盧俊義軍の兵力は、他の部隊に比べて最も少ない。
 危ない橋を渡ることになる、と盧俊義は覚悟していた。
 呼延灼らは、連環馬の武装である。迎撃の敵を容赦なく蹂躙する。衝撃が夜空を震わせ万里に響いた。その音を聞きながら、劉唐ら歩兵も部隊ごとに戦場へ突入した。彼らは交戦を避け、城壁にとりつくのが任務である。部隊は二つだ。劉唐、そして、陳達と楊春が率いている。劉唐の部隊は新兵が多いから、陳達は自分の隊で城門を抜いてやろうと意気込んでいた。
 案の定、劉唐の部隊は騎兵が戦っている方へ迷い込んでいた。呼延灼らに追われた敵の散兵が、それに気づいて襲いかかる。
「なにをモタモタしてやがる!」
 陳達は劉唐隊を救うべく、自分の部隊の進路を変えた。劉唐隊はうろたえ、完全に足が止まっているように見えた。方臘軍の騎兵たちは、急行する陳達・楊春の部隊の方を主力と見た。即座に陣形を立て直すと、彼らに矛先を転じて向かってきた。
 劉唐は、この時を待っていた。
「いくぞ、野郎ども!」
 劉唐隊の動きが急変した。一丸となり、機敏に戦場から脱出していく。劉唐は駆けながら、陳達に向かって片手を上げた。
「“跳澗虎”の旦那、あとは頼んだ!」
「抜け駆けたぁ、きたねぇぞ!」
 方臘軍を食い止める陳達たちを尻目に、劉唐は城門へと邁進する。跳ぶように走った。新兵たちも必死で劉唐についてくる。
(いじらしいじゃねぇか!)
 城門はまだ開いている。吊り橋は下りたままだ。警備兵の姿もまばらだ。侯潮門の兵はみな迎撃に出ているのだ。

「この大博打、俺の一人勝ちだ!」
 劉唐は吊り橋を駆け抜けた。
 捕らえた杭州兵を締め上げて、この城門のことは調べがついている。侯潮門の城門は二重であり、ひとつを抜いても、次があるのだ。
 これは、罠だ。そんなことは、お見通しだ。
「ついてこい! 俺は勝てる博打しかしねぇ!!」
 劉唐は朴刀を振り上げ、叫んだ。
(俺は嘘をつくし、汚ねぇ手も使う。しかし、借りは必ず返す)
 宋江には、まだ返していない義理がある。
 宋江は、路傍の石ころだった劉唐を拾い上げ、星にしてくれた。天“異”星──人とは異なる赤毛のせいで、生まれてこの方、人並みの暮らしには縁がない。
 風が横殴りに吹きつける。その風に抗いながら、“天異星”劉唐は大きく跳んで、城門に足を踏み入れた。
(いいぞ!)
 劉唐はうろたえる方臘兵を二三人も斬り散らし、門内へ駆け込んだ。門番兵が奥へ奥へと逃げていく。その先に、捕虜が言った通り二つ目の城門があった。
 その門が開いているか、閉じているか、運命はそこにかかっている。
 劉唐は暗い甬道を駆け抜けた。
「見ろ!」
 城門は開いていた。手下どもが勢いづくのを背中で感じた。足が早まる。劉唐が先頭だ。もう城はとれたも同然だ。
「みんな続け!」
 陳達たちが続き、騎兵軍が続くだろう。
 しかし、手柄は劉唐がひとりじめだ。
(最高だ! たまらねえ!)
 あの菜市門の野戦の時。劉唐は、魯智深たちには加わらず、暗闇に潜んでいた。捕らえた方臘兵とよく似た手下を連れていた。手下には聖句を覚えさせ、白い軍装と鑑札を身につけさせて、城内へ撤退する方臘軍に紛れ込ませた。
 潜入は守備よくいって、連絡も矢文で一度とった。そいつが侯潮門の警護についたと報せてきたので、劉唐はこの門攻めに志願したのだ。呉用が策を練っているなら、劉唐だって考えている。たった一人の内通者など、呉用は相手にしないだろうが、不可能に思える骰の目も、賭けなければ当たりはしない。
(俺はやっぱりツイてるぜ)
 城門は、方臘兵たちが逃げ込むと閉じ始めた。劉唐は思い切り大地を踏みしめ、閉じかける門へ滑り込んだ。
「俺の勝ちだ!」
 城門を抜けた──刀を突き上げた劉唐の先に、もうひとつ、あるはずのない城門が飛び込んできた。
「聞いてねぇぞ!」
 その門に、ひとつの首が釘付けにされていた。潜入させた手下の首だった。侯潮門の城門は、二重ではなく、三重だった。あの捕虜は嘘をついたのだ。

「戻れッ!」
 劉唐は叫んだ。
 いま、その門はぴたりと閉じられ、ふたつの門の間は井戸の底のように三方を城壁で囲まれている。ぐるりと取り巻いた姫垣から、無数の矢が劉唐に狙いをつけていた。
「ハメられた、引き返せ!」
 劉唐の足が、たたらを踏むように方向を変えた。劉唐の背中を追ってきた手下たちが続々と飛び込んでくる。
「来るんじゃねぇ!」
 劉唐は叫び続けた。
「戻れ、戻れッ!」
 劉唐は手下たちを押し返し、来た道を戻ろうとした。その頭上へ、二番目の城門の内側に吊るされていた鉄格子が、唸りをあげて落ちてきた。巨大な鋼の格子だった。
「劉唐!」

 劉唐を追ってきた陳達は、劉唐が、手下たちとともに鉄格子に直撃されるのを見た。
 劉唐の体は巨大な鉄格子の下敷きになり、押し潰され、大地に深く食い込んだ。
 骨も肉も砕け散り、その肉塊が劉唐だと分かるのは、格子に絡みついている赤毛のためだけだった。


※文中の「共旺」は、正しくは共旺です。
※文中の「登飛」は、正しくは登飛です。
※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「火眼俊猊」は、正しくは火眼俊猊です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「金燦斧」は、正しくは金燦斧です。




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