水滸伝絵巻-graphies-

第百二十四回
嵐の日、その星は輝き(三)乱れ星


 魯智深は、闇の中を走りながら、空を見上げる。

 闇と炎、そして、嵐。
 よく知っている風景だ。
 武器を掲げて、走る人々。
 これも見飽きた光景だ。
 稲妻が、びかびか光る。
 人の命は、一瞬の雷光にすぎないと、誰かが言った。
 五台山か、相国寺か、それとも前世で聞いたのか。
 闇の中を、魯智深は走った。
 空は赤く、雨は、まだ降っていない。


“毛頭星”孔明は馬で嵐の中を駆けていた。
 梁山泊軍は各地に散って、どこでなにが起こっているの分からない。
 自分がどこを走っているのかも、よく分からない。
 耳元で、風が唸っている。
 彼は百十人ほどの老弱兵を連れている。炊事兵など雑務係も混じっている。みな、手には銅鑼など鳴り物を持ち、背中には先が枝分かれした松明を差していた。
 賑やかに行進すれば、杭州の城壁からは、一部隊に見えるだろう。
 こうして杭州の城壁に接近しては、退く。それを延々と繰り返している。
 神出鬼没の“梁山泊軍”を創り出し、敵を混乱させるのが目的だ。
 孔明は嵐に向かって駆けている。
「見ているか、亮」
 孔亮を失ったのも、吹きすさぶ嵐の中だった。
「見ているとも」
 自分の声か、孔亮の声か。
 孔明にとっては、どちらも同じ声なのだ。


 北関門の戦場で、燕順は戦っていた。
 激しい戦闘が繰り返され、清風山以来の手下も散り散りになった。
 欧鵬も関勝も、姿も見えない。
 見えるのは敵ばかりで、燕順の体力は限界だった。体の芯から崩れ落ちそうになるのを気力で支え、燕順は槍を振るった。
 戦うかぎり、人は、虎にもなれると信じている。
 限界を越えた者だけが、虎にも、鬼にも、神にもなるのだ。
 周囲は敵兵で満ちていた。
 燕順は馬ごと体当たりして、なまくらになった槍を敵のみぞおちに抉りこんだ。抜く間もなく、次の敵が襲ってきた。
 燕順は戦った。
 戦いながら、燕順は、梁山泊のことも、宋江のことも、鄭天寿のことも、王英と扈三娘のことも、もう、なにも考えることができなくなっていた。


 杭州城内では、石勇と李立が家々に火をつけて回っていた。
 城外でなにが起こっているのか、知る術はない。
 ただ、自分の役目を果たすだけだ。
 屋根を走り、坊門を越え、まだ火の気のない路地へ火種を投げ込んでいく。
「火事だ!」
 そう住民に教えてやるのも忘れなかった。
 杭州城の西は、もう大火事になっている。
「暑くてたまらん!」
 李立がぼやく。二階家の棟の上に、李立は腕組みをして立っていた。
「水は怖くても、高いところは平気なのか」
 石勇が問うと、李立はもっと高い獅子面の鬼瓦の上に登って見せた。
「ここには、水鬼はいねぇから」
 燃え広がる炎を眼下に、“催命判官”は笑う。

「燃えろ! なにもかも燃えちまえ!」

 空で、また雷光が閃いた。
 林冲が目を開けると、そこには、不可思議な世界が広がっていた。
 夜なのに、明るい。
 湿った風が吹いているのに、空は灼熱に燃えていた。
 矛盾した光景の中に、息絶えた者と、戦う者たちが入り交じり、沈黙と怒号が交錯していた。
 林冲は、あたりを見回した。
 彼は、戦場の片隅にある高台にいた。
 林冲と、その麾下の白衣兵は、盧俊義の護衛として戦場の後方に残っていたのだ。
 盧俊義のもとでは、本隊から駆けつけた連絡役の楊林が本隊の戦況を報告していた。
「敵は石宝、登元覚を迎撃に投入し、北関門の本隊は苦戦しております。戦死した頭領は、索超どの、登飛どの──」
「こちらでも、誰か死んだようだ」
 劉唐たちが駆け込んだ侯潮門から、混乱した歩兵たちが逃げ出してくる。
 思わず口にしそうになった悲嘆の言葉を、楊林は呑み込んだ。“講談師”楊林は感受性の強い男だ。それでも、報告を続ける顔に、苦痛は隠しきれなかった。
「侯潮門から撤退することになれば、北関門へと、呉軍師が」
 盧俊義は戦場を見渡した。火事のために視界はあるが、やはり真昼のようにはいかない。ここからは、どちらが敵でどちらが味方かも、よく分からない。
「あい分かった」
 煮え立つような戦場で、盧俊義は、あくまで平静だった。


 城門の前で、楊春が叫んでいた。
「劉唐がやられた!」
 二つ目の城門を抜け、一つ目のこの城門から逃げ出してこられたのは、飛び込んだ歩兵の三分の一もいなかった。どの城門にも弓兵がいて、狭い通路を容赦なく狙い撃ちしてきたのだ。
「陳達を助けてくれ!」
 蛇の冷血を持つはずの楊春が、取り乱していた。陳達の姿が、どこにもないのだ。
「誰か、陳達を」
 しかし、その悲痛な声も、交戦中の騎兵には届かなかった。
 城門前には、梁山泊軍の歩兵たちが集まっていた。彼らの任務は城門の奪取で、この場合の指示は受けていない。まだ、城内で何か起こったか分かっていない者も多かった。
 城門から逃げ出してきた歩兵たちは怒り狂っている。
「やられた! ちくしょう、奴ら、きたねぇ罠を!」
 混乱する歩兵部隊の指揮を取るのは、楊春しかいない。
「どうする、“白花蛇”の旦那!」
 開いたまの城門の中からは、逃げ遅れた仲間の悲鳴が続いている。

 城門の異変に気がついたのは、単廷珪が早かった。
「なにがあった」
 騎兵軍は乱戦中だ。単廷珪は侯潮門へ小魚を偵察に走らせた。すぐに報告があった。
「劉頭領の歩兵部隊が、城内で壊滅した模様です」
「罠か」
 侯潮門外の梁山泊歩兵軍は混乱を極めている。城門の奪取は不可能に見えた。単廷珪は呼延灼に次の指示を仰ごうとした。
 そこに楊林が駆けつけてきて、北関門の戦況および、索超と登飛の戦死、呉用からの命令を伝えた。
『戦況不利とあらば、北関門へ集結せよ』
 仮面の下の、呼延灼の表情は窺い知れない。

 その時、陳達は、城内でまだ、生きていた。

 茫然と鉄格子にしがみつき、怒り狂い、喚いていた。
 彼は見たのだ。
 第一と第二の城門の間には、数百人の梁山泊兵が閉じ込められた。方臘軍は、逃げ場のない彼らの上に、驟雨のように矢を射かけ、さらに城壁から油をまいて、火をつけたのだ。
 陳達の目の前で、仲間たちは射られ、焼かれて、一人残らず死んでいった。
 陳達が握りしめている鉄格子が、燃えるように熱かった。掌が焼けていた。しかし、陳達は手を離すことができなかった。
 逃げようとして、たくさんの仲間が、鉄格子の前で折り重なるように燃えているのだ。
 門楼上には、杭州二十四将の一人、冷恭が立っていた。
 冷恭は、涼しげな顔で惨劇を見物していた。
 彼はまだ年若く、戦乱の中で発心して、明教の信者となった。感情を捨てることで、あらゆる悩み、苦しみから解放されたと信じていた。
 すでに彼は感情を失い、人の愚かさを笑う心も、憐れみも、なにひとつ残していなかった。
 兵卒が報告してきた。
「鉄格子の外側に、まだ敵がいるようですが、死角で矢があたりません」
「ああ、そう」
 冷恭の声は、日常の会話となんら変わるところはなかった。
「火が消えたら、鉄格子をあけて、掃除すればいい」


 銭塘江の波音が、地鳴りのように響いていた。
 風に、水辺の柳の葉が雪のように散っている。
 緑の吹雪のような風の中、林冲の白馬が動きはじめた。ゆっくりと、足を戦場へと運んでいく。
 影の如く控えていた林冲麾下の白衣兵も、林冲について盧俊義のもとを離れていく。
(頼りない“護衛”だ)
 盧俊義は、林冲の痩せた背中を見送った。
 林冲と白衣兵が、急にその速度をあげた。
 白衣兵たちが遅れまいと更に激しく砂塵を蹴立てる。鋭い刃が絹を裂くように、一直線に戦場を駆け抜ける。開いたままの侯潮門に突入しようとているのは明らかだ。
「無茶だ」
 単廷珪は呻いた。
 魏定国は、なにか激しい衝動に魂を揺すぶられていた。
(嵐のせいか?)
 魏定国は呼延灼に指示を促した。
「将軍、我々は」
 呼延灼は、後方の盧俊義の方へ振り返った。騎兵だけでは門は奪えない。歩兵が失敗したのなら、ここで無理に攻める必要はない。呉用も、それを見通して、いざという時は北関門へ合流せよと言っているのだ。
 盧俊義の旗は、風に狂ったようにはためいている。
 その旗は、動かない。
 呼延灼の心の奥底で、なにかが、嵐のようにうごめいている。
 最初に打ち出してきた侯潮門軍と梁山泊軍の戦いは続いていた。そこに新手が加われば、撤退しても、数に勝る敵に背後を襲われることになる。
 さらに、混乱する歩兵部隊、城内に取り残された陳達、城門に向かった林冲は──。
 魏定国は焦れた。
「呼延将軍、ご指示を」
 馬が、前足で激しく地面を掻きたてている。
「将軍! 陳達や林冲を見殺しになさるおつもりか!」
 呼延灼は、石像のように戦場を睥睨している。
 林冲と、その率いる白衣の兵は、侯潮門へと進んでいく。
 単廷珪が猛然と馬腹を蹴った。沈着にして慎重、その愛する“水牛”の名で揶揄されることもある男である。それが、今、火牛のごとく林冲の後を追いかけた。
 魏定国は驚愕した。単廷珪ほどの男が、命令を待たずして動いたことに目を疑った。
 単廷珪は、彼方を行く林冲の姿を追って、気がつくと自分でも驚くほどの速さで駆けていく。
 しかし、衝動にかられても、単廷珪の冷静さは損なわれない。僅かな水流の変化も見逃さない注意深い目が、城門から這い出してくる人影を捕らえた。

「陳達か」
 陳達は血だらけで、左右によろめき、今にも膝を折りそうだった。そして、そのすぐ後を追うように、方臘軍が現れた。
 馬蹄の轟きが嵐を圧する。侯潮門軍の本隊だった。尽きることなく湧きだしてくる。
 陳達が倒れた。
 鉄格子が上がり、方臘軍が梁山泊兵の死体を踏み散らしながら押し寄せてくる。
 陳達は倒れたまま刀を振り上げた。何かを叫んだ。
 冷恭は、陳達など視界に入れていない。
 方臘軍は、そのまま陳達も、なにもかもを踏みつぶす気だ。
 陳達は騎兵の群を睨み、両手で刀を握りしめた。踏みつぶされる一瞬に、一太刀でも浴びせようと身構えた。
「来やがれ……!」
 同時に、横手から楊春が駆け込んできた。楊春は陳達の襟を掴み、その身を鞍に引き上げた。
 冷恭の軍は楊春を一顧だにせず、林冲に向かって駆け抜ける。
 副将の張道源が、侯潮門を守っていた。
 三重の城門が、ひとつずつ、再び閉じられていく。

 呼延灼の鞭が上がった。
 その鉄鞭は大きく空に弧を描き、侯潮門を指し示した。
(勝たねばならぬ)
 呼延灼の信念は揺るがない。
 勝利とは、“梁山泊”の勝利である。
 杭州を落すことである。
 その信念が、撤退は不利と判断した。
 彼らは、侯潮門と銭塘江の間に背水の陣を敷いている。連環馬軍は足が遅い。打ち出してきた侯潮門軍は精鋭だ。呼延灼らを蹂躙するか、追い抜くかして、北関門の主戦場へ向かう計算だろう。
 この全軍で、侯潮門軍と交戦し、北関門への援軍を壊滅させる。
 そこに宋江の勝機が生まれる。
 それが、軍神の導いた答えであった。
 すぐさま魏定国が飛び出していく。連環馬軍は再び連結し、漆黒の鉄壁となる。呼延灼は、その中央に位置を占めた。
「楊林よ、盧頭領にもご出馬願え」
 命じたが、その時、すでに盧俊義の旗は前方へ進軍を始めていた。
 嵐は、通りすぎる気配もなく、杭州の空に止まっている。

 北関門へ。
 楊林は侯潮門からの返報をもって走った。
 呼延灼は、決死の戦いを挑むつもりだ。呼延灼は軍神だ。盧俊義もついている。戦うからには、勝算があるはずだ。
(どれほどの犠牲を払っての、“勝算”か)
“講談師”楊林は、ずっと梁山泊の物語を書き継いでいる。招安からは連戦で走り書きのようになっているが、いつか不朽の大著にするつもりだ。東京では、蕭譲が“続き”を待っているだろう。
 しかし、もう長いこと、続きは送られていなかった。
 これは、いつも彼が話していた“遠い昔の物語”ではない。自分も登場人物の一人であり、死んでいくのは、彼のよく知っている者たちなのだ。
 彼らの死を、文字などで、どうして言い尽くせることかあろうか。
(それでも、わしは、書かねばならぬのか)
 楊林は目頭に涙を浮かべたまま、梁山泊本陣へ駆け込んだ。
「報告!」
 宋江は、呉用とともに後方にいた。呉用のほか、蔡慶、蔡福、郁保四、戴宗、裴宣、宋清と八千の護衛がその周囲を固めている。
 戦いは続いている。杭州の焔に照らしだされた、影絵のような死闘である。
「劉唐どの戦死。呼延灼将軍は、背水の陣を」

「劉唐さんが」
 宋江が出陣以来、初めて言葉を口にした。
 呉用は、その時、宋江の顔に浮かんだ哀しみほど──深い哀しみを、かつて一度も、誰の上にも見たことはなかった。
“赤髪鬼”劉唐と宋江の付き合いは特に長い。呉用も同じだ。運城県でのこと、晁蓋のこと、生辰綱を奪ったこと、ともに梁山泊へ逃げたことが、次々に脳裏に蘇る。
(“北斗”が欠けた)
 それでも、軍師・呉用は感傷にひたる隙はなかった。
 関勝たちは厳しい戦いを続けている。城内からは続々と新手が打ち出してくる。どこにいたのかと思うほど、杭州城の方臘軍は尽きることがなかった。
 杭州城内にどれだけの兵力があるのかは、まったく分かっていない。
 もともと杭州は二十万戸、人口百万を擁する大城だ。女子供も戦力とする方臘軍なら、百万の兵がいるということだ。
 北関門の戦いは熾烈を極めていた。梁山泊軍は奮戦したが、方臘軍の壁はぶ厚く、容易に城門まで近づけない。
 空では、炎と風雲が争っている。
 呉用は、認めざるを得なかった。
「撤退の銅鑼を打ちましょう。この作戦は、失敗です」
 撤退を──口では言ったが、呉用は失敗とは思っていなかった。呉用の真の目的は、“宋江を出陣させること”だった。でなければ、梁山泊軍は崩壊すると思った。いま、その目的は達せられたのだから、呉用は撤退もやむなしと考えたのだ。
「索超と登飛の遺体を収めて、ひとまず、今日は」
「この兵を動かさないのですか」
「これは宋江殿を守る部隊です。蔡福、銅鑼を!」
 銅鑼が打たれた。続けて打とうとして、蔡福の鉄腕が動きを止めた。呉用は咄嗟に照夜玉獅子の手綱を掴もうとした。
 その手を擦り抜け、照夜玉獅子は宋江を乗せて駆けていく。
「宋江殿、どこへ」
 その答は、呉用が一番よく知っていた。

 北関門の戦闘は激しさを増す。
  嵐が止む気配もない。
 数万の軍勢が夜の嵐の中で戦っているのだ。
 その中でも、関勝軍は凄まじかった。最前線まで突出し、敵の中で孤立していた。
 関勝の部下は質が高い。宣贊と赫思文が選び、入念に訓練した兵だ。関勝直属の部隊には、宣贊、赫思文の生き残った部下たちが加わっている。
 鉄の統率を誇り、無駄のない戦い方ができる軍だった。
 それが関勝の狂気に駆られ、果てしない戦場に投げ込まれていた。彼らは関勝とともに常に過酷な戦場にあった。しかし、こんな戦いはなかった。戦いというよりも、殺し合いだ。
 ここが地獄であるならば、関勝こそ、その地獄の主であった。

 大刀は、よく斬れた。
 方臘兵は片端から大刀の餌食になった。
 すぐ背後に、気配があった。
 振り返った関勝の視界に、へたな戦い方をする少年兵の姿がよぎった。この戦いから関勝の隊に入った、関鈴だった。
 関勝は、少年兵に構わなかった。
 関勝の姿に、敵が怯む。逃げかけた方臘兵を両断し、関勝は次の敵を探した。勇敢な方臘兵が、自らを励ますように奇声を発し、関勝に攻めかかる。それを横殴りに斬った。鈍い音がして、骨が折れた。切れ味が鈍っていた。
 関勝は大刀に目をやった。血と脂にまみれ、刃が輝きを失っていた。
 もう一度、大刀を振り下ろし、頭蓋骨を打ち割った。
 駆けてきたのは、関鈴だった。
 関鈴は、あらい息をつきながら、首に巻いていた布を破り、力いっぱい関勝の大刀を拭った。手が震えて、自分の指を切りそうだったが、なんとか拭った。
「まだ、斬れます」
 真っ赤に上気した顔で、必死に言った。感情を押さえようとする様子が、かえって関鈴の幼さを強調していた。
 関勝は、憐憫は感じなかった。
「見よ」
 見届けよ、と関勝は再び赤兎を馳せた。
(我が怒りを、哀しみを)
 再び戦場の人となり、戦いながら、関勝は地上に転がるひとつの死体に目を止めた。
 石宝に倒された、索超の骸であった。
 関勝は、索超を飛び越え、走った。

 索超の手は、まだ金燦斧を握りしめていた。頭を潰され、踏みにじられ、力尽きても、まだ、まだ戦い続けているようだった。

 城門に陣取る登元覚のもとへは、城内の方天定から定期的に伝令が来ていた。
「敵軍は、城門に攻撃をしかけております。昆山門、侯潮門、その他のすべての門にも敵影が」
 登元覚は、耳を疑った。
「確かか」
 たとえ二路に別れていた全軍が合流しても、梁山泊軍は負傷者も多く出ている。動かせるのは、五万か、せいぜい五万数千。この戦場に半分の三万を投入すれば、分散して城門を窺うまでの兵力はない。
(近隣をうろついていた宋国軍を吸収したのか?)
 湖州をはじめとした江南各地に、十万以上の宋国軍がうろついている。梁山泊の優勢を聞きつけて、山犬のように“おこぼれ”を求めて杭州へ集まっていることは、登元覚も知っている。
 登元覚が逡巡する間にも、伝令の報告は続いていた。
「また、西山の偵察からの報告が途絶えております」
 西山の偵察とは、梁山泊水軍の動きを見晴らせている者たちだ。
 登元覚は数珠を揉んだ。
「太子は、いかがなされている?」
「城内の消火に努めておいでです」
 登元覚は、いやな予感がした。
 杭州を焦がす焔、この嵐。闇と光が戦う夜に、なにかが、起こる気配が満ちていた。

 李逵の斧が、また方臘兵をまっぷたつにした。
 いま、撤退の銅鑼が鳴ったようだが、空耳だろう。でなければ、雷だ。
「威勢がいいぞ!」
 吊り橋はおりているし、城門はまだ開いている。殺していい敵は、山ほどいる。いくら殺しても怒られない。“天殺星”の李逵にとって、こんなに楽しい場所はない。
「あれ、宋江兄貴」
 李逵は、宋江が戦場に向かってくるのに気がついた。李逵は殺戮に夢中になり、城門を破ることも忘れて、戦場を好き勝手に暴れていた。いつの間にか、また本陣の方へ戻ってきていた。
「やっぱり銅鑼じゃなく、雷だ」
 李逵は喜んで宋江の方へ駆けだした。両手に取ったばかり首を提げ、満面の笑みを浮かべて、死体の中から躍り上がった。
「ほら、兄貴! 見てくれ!」
 宋江は八千の護衛部隊を連れている。呂方、郭盛が先導し、蔡慶、蔡福が宋江の両脇を固めていた。
「宋江兄貴! 待ってくれ」
 宋江は聞こえないのか、そのまま戦場へ紛れていく。
「どこへ行くんだ、おいらも行くぞ!」
 李逵は宋江を追いかけた。
 郁保四が宋江の旗を掲げている。巨人が掲げる幟旗は、だれの頭より高いところではためいている。


 杭州二十四将軍のひとり廉明が、散り散りになった配下を集め、石宝のもとへ戻ってきた。石宝の副将として出陣した男である。
「あの新手を率いるのは、宋江です」
「ありがたい」
 石宝には吉報である。
「宋江を討つ。各自、みずからの判断において突撃せよ」
 命ずるなり、石宝は単騎で飛び出した。
 その動きは、まさに夜空を切る流星であった。

 宋江を探していた李逵が、石宝に気がついた。
「白いのが、宋江兄貴を狙っているぞ!」
 李逵は喜び勇んで、また駆けだした。
「あいつを殺して、宋江兄貴にほめてもらおう」
 しかし、李逵は徒歩である。すぐに石宝を見失った。
 次に気づいたのは、燕順だった。
(あれが、索超、登飛を殺した奴か!)
 呂方、郭盛が左右から画戟を突き出す。石宝は、その間をすり抜けた。
 その時まで、だれひとり、石宝がそこまで接近していることに気づかなかった。
 宋江率いる八千は、石宝の精鋭部隊と戦っている。敵は数百にすぎないが、手強かった。蔡慶と蔡福は処刑刀を構えた。宋江を守るには、自分たちが全力を尽くすほかはない。
「流星鎚と、劈風刀を」
 兄の“鉄臂膊”蔡福が言った。弟の“一枝花”蔡慶も頷いた。
「左右から、同時に」
 兄弟の読みは当った。
 石宝は手綱を離すと、片手に流星鎚を回し、片手で劈風刀を水平に構えた。二つの武器を同時にふるって、確実に宋江を殺すつもりだ。
 宋江は、剣も抜かずに待っている。穏やかな目で、石宝を待っていた。
(ああ、本当に)
 石宝は感動した。
(“光”が多い)
 石宝は流星鎚で蔡兄弟を牽制すると、宋江めがけて劈風刀を振り上げた。続けて、カンと金属の弾ける音かじた。その小手を、一本の矢が打ったのだ。
「“小李広”花栄、推参!」
 続いて、秦明と黄信が部隊を引き連れ斬り込んできた。

 秦明の肩がぐっと上がって、狼牙棒が渦を巻いた。

 石宝隊も集結している。霹靂火が一喝すると、方臘兵は雷に打たれたように怯んだ。その緩んだ一点へ、秦明は狼牙棒を振り下ろした。
 石宝は秦明を配下に任せ、自分はあくまで宋江を狙う。
 しかし、再び石宝を止めた男があった。颯爽と馬を乗り入れたのは、いましも矢を射た花栄であった。
 朱雁を仕舞い、槍を取った。

「俺は槍の腕も自慢でね」
 花栄の背景に巨大な稲妻が走り、銀槍が光を放った。
 衆に優れ、特別の力をもつ者を、人は“英雄”と呼ぶ。華やかさを“英”といい、雄々しさが“雄”である。“天雄星”林冲が陰の英雄ならば、“天英星”花栄こそ、太陽のごとき英雄であった。
 李逵が追いついてきて、声をあげた。
「まぁた“騎兵”か!」
 途中ではぐれていた項充、李袞と手下の団牌兵とも合流し、勢いづいて駆けつけたのに、せっかくの出番を横どりされてはたまらない。
「おいらにもやらせろ!!」
 李逵の前を、史進が軽やかに駆けぬけていく。石宝隊の中に突っ込み、瞬く間に二人を倒した。徒歩の李逵は、石宝を見つけても、すぐに見失ってしまう。
「あの男を殺せなかったら、二度と兄貴に顔を合わせねぇ!」
 李逵は騎兵に負けずに斬り込んだ。敵味方の騎兵が入り乱れている。李逵は踏まれそうになると、敵味方おかまいなしで馬を倒した。
 項充と李袞が、李逵を守るだけでなく、李逵が殺しかけた味方も救わねばならなかった。李逵を止められる数少ない男も、ずっと姿を見ていなかった。
「鮑旭はどこだ?」
 あたりは死人であふれているのに、“死神”の姿はどこにもない。


 鮑旭は、しゃぶっていた“夜食”の骨を吐き捨てた。
“喪門神”鮑旭は、思う存分戦って、腹が減っていた。戦場から離れた廃屋で、鮑旭は夜食の最中だった。
 鍋に肉が煮えている。
「いいんですかい、“死神”の旦那」

 手下が何人かついてきて、遠慮がちに鍋をつついていた。
 鮑旭は肉を喰い続ける。
 破れた屋根に吹きつける風の向きが変わった。
(西風か)
 鮑旭は、次の肉をすくった。

 風の向きとともに、石宝は戦いの流れも変わったのを感じた。
 宋江率いる八千の新手の投入、そして昆山から花栄たちが合流し、梁山泊軍の士気がぐっと高まった。
 折悪しく、方天定の身を案じた登元覚が城内に戻っていた。ただ軍はそのまま残り、城門を死守している。それを確かめ、石宝は再び宋江を狙った。
 副将の廉明が石宝を援護すべく従っている。石宝を崇拝する勇敢な明教徒である。糾合した配下とともに、秦明らの中に捨て身で飛び込む。
「いまのうちに!」
 配下を犠牲に、石宝は梁山泊騎兵軍を突破した。
「見つけた!」
 その前に、李逵が斧を両手に仁王立ちした。
 石宝を守ろうと急行する廉明を、鮑旭の闊剣が一刀で二つに断ち切った。廉明が倒れ、石宝を守る陣が崩れた。李逵はぐっと体を沈め、体当たりして石宝の馬を倒した。
 石宝は、すぐに立ち上がり乱戦の中に紛れ込んだ。
「かくれんぼうか!」
 李逵は斧を両手に躍り上がった。
「鉄牛様が鬼だ!」
「まちな、旦那」
 鮑旭が止めた。
「やつは、いずれ必ず戻ってくる。あんたの“宋江兄貴”から離れるな」
「そうだった!」
 李逵は宋江を探した。梁山泊軍が密集した中央に、宋江の旗が立っている。
「いたいた!」
 李逵は親を見つけた小犬のように駆けだした。


 その時、魯智深、武松らの歩兵部隊も続々と昆山門から移動していた。騎兵は街道を先行し、あっという間に見えなくなった。
 歩兵の指揮は朱武がとっている。
「遅れをとるな、近道を行くぞ!」
 歩兵たちが田舎道を走っていると、やはり近道を走っていた時遷と行き会った。時遷は本隊と昆山門を攻める部隊との連絡役である。
「昆山門もあかんのか」
 朱武が撤退してきたということは、戦況に利なし、とうことだ。朱武は時遷に北関門の様子を尋ねた。
「この部隊が合わされば、勝ち目もあるかもしらん。侯潮門もやばいそうやけど、まだ撤退してこんようや」
「よし、急ごう」
 朱武はみなを急がせた。しかし、朱貴は“侯潮門”の名を聞き漏らさなかった。
「林冲が気がかりだ、侯潮門へ行かせてくれ」
 朱武は難色を示した。朱貴は、梁山泊軍でも貴重な弓兵五百を率いている。騎射のできる精鋭は花栄麾下だが、朱貴が鍛えた歩兵も堅実な腕をもっているのだ。
 朱武は、呉用が最終的に北関門に兵力を集中しようと考えていることを知っている。
「林冲ならば、心配あるまい」
「だが」
 自分からなにかを求めることのない朱貴が、珍しく諦めなかった。しかし、軍師である朱武は、あくまで手勢を減らしたくない。“打虎将”李忠が一喝した。
「構わん、行け!」

 朱武も、それ以上は止めなかった。
 朱貴はその場で仲間と別れ、南へ向かった。見えぬうちから、河がごうごうと鳴っているのが耳についた。
 風は横殴りに吹きつける。
 朱貴は“地囚星”である。彼は学問を知らない。しかし、やはり朱貴は囚われ人だった。
 朱貴を捕らえているは、はるか昔に梁山泊のほとりで出会った、ひとりの男。今もなお、林冲という男であった。
 なんの面白みもなかった朱貴の人生に、林冲は、突然現れた“英雄”だったのだ。

 登元覚が城内に戻ると、方天定は高楼から稲妻を眺めていた。
「強敵だろう?」
 方天定は振り返り、少し笑った。
「たった今、西湖に敵の船団が現れたと報告があったよ」
 登元覚が最も懸念していた報せだったが、少年は、すべてを知っていたかのように、笑みを曇らせることはなかった。
「すべての船を、迎撃へ」
 雷が青く空を切り裂き、湖に落ちたようだった。

「雷が鼻先にバチッときたぞ、気をつけろ」
 孟康は船を覆う幕の下から顔をだし、鼻先の汗を拭った。
 彼らは方臘軍の見張りを始末し、西山の入江を漕ぎだした。船体を黒い布で覆って、目立たぬように杭州城へ忍び寄る作戦である。
 波の向こうに、杭州城の火が見える。仲間は首尾よくやっているらしい。
 戦鼓が風の中に乱れ鳴る。
「気づいたようだな。ふん、構わねぇ」
 迎撃は計算のうちだ。発見されるまでに、どこまで近づけるかが問題だった。あとは、一気に攻め寄せて、戦って力づくで突破するまで。
 穆弘は船を覆っていた布をとらせた。
「派手にいこうかのう!」
 戦船が次々に姿を現す。黒い幕の下には、極彩色に塗り立てた戦船が隠れていた。西山に潜んでいた李俊率いる梁山泊水軍である。
 この船団が、呉用の最後の切り札なのだ。
 折しも風が追い風に変わり、船足が上がる。李俊と穆弘が、隣り合う戦船の舳先に立っていた。
「ひとつ“闘船”といこうかのう」

 荒波は、穆弘に潯陽江を思い出させる。
“江州三覇”の残る一覇、“船火児”の張横も銭塘江を漕ぎ上っているだろう。水軍は二つに別れ、張横、阮小七率いる小船団は海路から杭州南方の銭塘江制圧の任務を負っている。
「今日は、“太歳”の旦那が代役ぢゃ」

 阮小二は海鰍船隊を率いている。
 馬麟の鉄笛が一声、風に散った。
「船出ぢゃ!」

 杭州城の水門から、続々と迎撃の船が出てくる。
 指揮をとるのは、船着場から駆けつけてきた呉値である。潜入し梁山泊軍を追跡したが、その行方は知れない。そのうちに、西湖に敵船ありと急報を受けたのだ。
 城内には、梁山泊軍が攻め寄せて以来、周辺のすべての船が係留されていた。そのすべてが、迎撃に動員されていた。
 大型の戦船ばかりで、江南の兵士たちも水慣れしている。西湖の波は、晴れも嵐も知り尽くしているのである。
「敵は寄せ集めの軍にすぎん、落ち着いて封殺せよ」
 呉値は向かい風を受け、敵を待ち受ける戦法をとった。少勢の敵が大軍の懐に突っ込んでくれば、包囲して殲滅するのが定石である。
「十分敵を引きつけ、先鋒隊が交戦。後続は左右に開いて鶴翼を成せ。同時に別動隊は速やかに風上に回り、敵船団に放火せよ」
 呉値が予測した通り、梁山泊の船団は追い風に勢いをつけ、がむしゃらに突っ込んでくる。

 石秀は、海鰍船の舳先で目をこらしていた。
「見えるか、石秀」
 楊雄の問いかけに、石秀は面白そうに首を振った。
「ないな」
 石秀は、城壁に梁山泊軍の旗を探していたのだ。仲間が内側から水門を奪っていれば、旗が立つ。それがないということは、城内に潜入した連中も、陸門を攻めている軍も、いずれも城門を取れていないのだ。
 となれば、この水軍が一番手柄だ。
「やる気が出るぜ!」
 石秀は胸板に風を浴びながら、今度は敵船を見渡した。
 敵船の数は、梁山泊軍の数倍はある。水戦の本場だけあって、頑丈な戦船ばかりだった。陣形も整然として、この嵐のただ中で、動きにも乱れが見えない。向かい風にあおられて城壁や僚船にぶつからないよう、巧みに距離を保ったまま、梁山泊軍を待ち受けている。
「先頭を行こうぜ、雄さん!」
 言ったそばから、石秀の目の前に別の小船が飛ぶように割り込んできた。小船には、凌振と樊瑞が乗り込んでいる。合図の砲を打ち終え、呉山から下りてきたのだ。童威、童猛の二人が櫓を操っている。
 船には、火砲が据えられていた。
 凌振は太った体を暴風壁に、火砲を守るように立っている。掴まっていなければ、波立つ湖に放り出されそうだった。
(わしは泳げんのに)
 船は揺れ、八人の屈強な兵が砲架を押さえていた。
 火砲には、最大量の火薬と、最大の砲弾が詰められている。
 樊瑞は船尾に立って、風と波を読んでいた。
 自然の姿──あるべき姿を明らかにするのが樊瑞の地然星である。その研ぎ澄まされた感覚が、船が安定する一瞬を捕らえた。
「今だッ!」

 砲声が嵐の音を掻き消した。
 同時に砲身に亀裂が走り、砲架を押さえていた兵士たちが吹っ飛んだ。砲尾から吹き出した爆風に凌振も飛ばされ、樊瑞に腕を掴まれた。
 その目は、砲弾を追っている。
「いい弾筋だ!」
 追い風に乗り、砲弾は敵の右翼中央あたりに着弾した。包囲用に小型の船が多く、大波を受けて引っくり返る。
 穆弘は、丁得孫の縄をぶつりと切った。船底に身を横たえ、唸り続けていた男が起き上がる。すでに理性を失っている丁得孫に、穆弘は方臘軍の船団を指し示す。
「虎よ! 行け! 張清、共旺を殺したのは、あいつらぢゃ!」

 咆哮が湖面を揺るがせた。
 鶴翼の右羽が折れ、方臘軍の包囲が乱れる。その虚を衝いて、穆弘、李俊の船団が襲いかかった。
“没遮闌”穆弘の得意は、水上の白兵戦である。水陸両方の戦いに熟練し、船上で馬さえ操る。また船の舳先には銛が打ち込まれ、敵船に体当たりすれば、深く食い込んで離れない。乗り移れば、陸上と同じように戦えるのだ。
 梁山泊船団に襲われる右翼を援護しようと、左翼軍が梁山泊軍の背面に回り込んできた。それが、却って火矢を準備していた方臘軍の奇襲部隊の動きを封じた。
 全体の指揮は、“混江竜”李俊がとっている。李俊はすぐに部隊を左翼に向けた。
 梁山泊軍は小型船が多く、機動力に勝っている。船を寄せ、敵船に焙烙弾を投げ込んだ。焙烙弾は割れればすぐに発火する。飛び火する前に離れ、また次の船に放り込む。海賊たちの戦い方だ。
 穆弘が右翼、李俊が左翼と戦う間を、阮小二、阮小五の海鰍船隊が突き進む。彼らの目的は交戦ではなく、水門の奪取である。
「湧金門へ!」

 力の限り櫓を押して、船団は西湖をおし渡る。風も波も、後ろから容赦なく背を突いてくる。気を抜けば、もしくは運が悪ければ、木の葉のように引っくり返る。その猛烈な自然の力に、阮小二は抗わない。
「波に乗れ!」
 波に乗り、風に乗って、進むのだ。阮小二は後続の阮小五の船へ目をやった。
(こらえろ)
 阮小五は応戦したいだろう。方臘軍の船を沈めたいと、歯噛みをしているはずである。しかし、今は戦わず、城を目指すのが彼らの役目だ。
 阮小五の船も、しっかりと風に乗っていた。
 あたりには飛沫と、煙が渦巻いて、暗い。みなが口々に叫んでいた。
「杭州の炎を目指せ!」
 敏捷な魚の群のように、海鰍船は方臘軍の水軍の間をすりぬけた。
 攻撃の要は、“湧金門”。
 張順、殉難の場所である。
 石秀は、嵐へ叫んだ。
「張順の霊よ、迎えにきたぜ!」


※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「登飛」は、正しくは登飛です。
※文中の「運城県」は、正しくは運城県です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「金燦斧」は、正しくは金燦斧です。
※文中の「共旺」は、正しくは共旺です。
※文中の「没遮闌」は、正しくは没遮闌です。




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