水滸伝絵巻-graphies-

第百二十四回
嵐の日、その星は輝き(四)雷


 雷が空で青く光った。
 びしびしと飛沫が打ちつけ、風が唸る。
 銭塘江では、船がひとつ、またひとつと水中に引きずり込まれていた。
「ここで死んだら、みんな水鬼になっちまうぞ!」
 船頭たちは最後まで諦めなかった。
 侯健は桶で水を汲み出している。
“嘲風子”が、嵐に向かってなにか叫んでいた。
 呪いか、祈りか。
 水中で死んだ亡霊は、いつまでも水に縛りつけられ、生者を水に引きずり込むのだ。
 段景住はずぶ濡れで手摺りにすがり、彼の神に祈り続けた。
 聖典に曰く。
“天が微塵に裂ける時、諸星が散らされる時、諸大洋が溢れ出る時、墓があばかれる時、それぞれの魂は、既にしたこと、後に残したことを知る”
 段景住は大きく傾いた船の上で、その句の意味を真に悟った。
 今、天は裂け、星は隠れ、彼の命は消えようとしている。
 しかし、彼は天馬を見たのだ。
 天馬を求めて、梁山泊にやって来るまで、彼は人に嘲られ、見下される惨めな存在だった。

 さだめの星は、“地狗星”。あだ名もまた、“金毛犬”。
“いぬ”とは、身をかがめた卑しい獣。取るに足らない、小さな存在。彼の国では忌み嫌われ、石を投げられる。
 しかし、天馬は、かれの前に現れた。
(偉大なものの存在を信じ、その行方をどこまでも追いかけるのが──わたしの役目)
 彼は、そのために生まれ、生き、旅をして、ここに来たのだ。
「我は恐れず、我は憂えず──真主の導く道を歩みます」

 阮小七は、向かい風に破れかけた帆を上げた。帆綱を掴み、なんとか風に乗ろうとした。風を捕らえれば浮力がつく。両手で帆綱を握りしめ、阮小七は帆を操る。
 石碣村で育った阮小七は、帆船には慣れない。しかし、梁山泊で江南の連中から多少は教わって身についている。
 風が激しい。帆があおられ、思うように綱の位置を保てない。強風に綱を奪われそうになった時、“嘲風子”が綱を掴んでくれた。
「もう少し、こうだ」
“嘲風子”は帆の角度を調節した。むき出しの腕に、鋼のような筋肉が盛り上がっている。傾きながらも船が進む。老船頭も阮小七もずぶ濡れで、親子の水鬼のようだった。
 阮小七は、顔も知らない自分の父親が、こんな男だったのではなかいと思った。
 漁に出て、水に落ちて死んだ父親は、やはり、水鬼になったのだろうか。

 張横は、半分沈んだ艫のあたりで、喉まで水につかっていた。
 欄干に後ろ向きに両腕をかけ、ぐったたりと座り込んでいる。体が痺れて、動けなかった。
 動く気など、しなかった。
(順が死んだ)
 甲板をとめどなく波が流れる。
(順が)
 張横は、頭から何度も波をかぶり、銭塘江の泥くさい水を大量に飲んだ。船は一瞬も止まることなく揺れている。ふいに胃から悪寒がつきあげ、張横は魚の肉を嘔吐した。
 すると、一気に脱力した。欄干に掴まっている力も失せた。張横は生ぬるい水に身を任せた。妙な、幸福を感じていた。
 水中だと、義足の不自由さから解放され、体がふわりと軽くなる。頭まで水につかっても、苦しいとも感じなかった。
(死ぬのは俺だ、順じゃねぇ)
 寄せては返す、柔らかな波が心地よい。
 母親の懐に抱かれているような、むかし命拾いした不思議な“還童泉”へ戻ったような、穏やかな安らぎさえ感じていた。
 万物の気が流れこみ、すべて一体になり、無限に広がっていく。
 自分の存在が消え、はてしない水に融けこんでいく。

 眠かった。
 かすかな、甘い、金木犀の匂いがしていた。
 それは、彼がよく知っている場所で、誰かが──すぐそばまで張横を迎えに来ていた。

 折れた櫂にしがみついていた船頭の指が、空を突いた。
「竜巻だ!」

 東から、船団を追うように竜巻が近づいていた。先触れの風が帆柱をへし折り、阮小七と“嘲風子”は甲板に叩きつけられた。
「だめか」
“嘲風子”がひどく静かな声で言った。どこかの船縁が破れ、怒涛が船に流れ込んでくる。甲板はもう立っていられないほど傾いていた。
「沈む前に、水に飛び込め。すぐに船から離れろよ。まきこまれる」
“嘲風子”は、腰につけていた小羊の皮の浮袋を外すと、阮小七に押しつけた。阮小七は、“嘲風子”の顔を見返した。
「あんたは」
「“願い”をかなえるには、“生贄”がいるんでな」
 老船頭は軽く笑った。そして、何か言おうとした阮小七の胸を押して、傾いた欄干から銭塘江へと突き落とした。
「諦らめちゃ、いけねえよ」
 波音と風の向こうに、声が聞こえた。


 沈みながら、段景住は祈り続ける。
(雨を降らせ、群星を率いる御方よ──)
 白き天馬は竜と化し、渦を巻いて杭州城へと駆け去った。船はばらばらに砕かれて沈み、辛うじて残っているこの船も、もう三分の一しか水面から出ていなかった。
 段景住は、空の彼方へ駆けゆく天馬へ、手を差し伸べた。
 回回の神が導くのは、必ず、今よりもより良い世界だ。
 天馬は、彼の魂を、彼方の国へ連れ去るだろう。そこは、永遠の楽園である。
 嵐も波も、届かない。
“金毛犬”段景住の魂は、切ないほどの幸福感に包まれた。
“雨を降らせ、群星を率いる御方よ──慈悲あまねき、慈愛ふかき真主よ。私の命を、犠牲として御身に捧げます”

“どうか、兄弟たちに救いを”
“大天使が喇叭を吹き鳴らし、永遠の来世に復活した時、また、彼らと会えますように”
“宋江様の願いが、かないますように”
 次に大波がきて、去った時、段景住の小さな姿は、その場所から拭い去られたように消えていた。

 侯健は沈む船から、ぶつかってきた別の船に飛び移った。
 その甲板もすぐ水に沈み、侯健は半ば泳いで帆柱まで辿り着くと、そのてっぺんによじ登った。吹きつける風と飛沫が顔を刺し、目を開けることもできなかった。
(俺は死ぬのか)
 侯健は自分の死体を仲間が見つけてくれるよう、帯を解いて、体を柱にしばりつけた。そのまま傾いた柱にしがみつき、じっとしていた。
(こんなところで、死ぬのか)
 その時、顔に当たる風がふと弱まり、侯健は閉じていた目を開けた。
 空が見えた。
 ぶ厚く渦巻いていた東の雲が、水平線のあたりで途切れて、その隙間に一粒の光が見えた。

(ああ、星だ)
 侯健は、星だと信じた。
(“あっち”で遇ったら、教えてやろう。施恩に)
 一緒に海の話をした施恩に、なにも面白い事を話してやれないのが、侯健は気がかりだったのだ。
 海は広くて、厄介で、星は、あの海の東の果てから昇る。嵐の中──でも。
(あの星は、どこから昇るんだろう)
 風が弱まったのは、一瞬だった。再び風波が激しくなり、水面が間近に迫った。もう乗り移れる船はひとつもなかった。この時、侯健はやっと気がついた。
(ここは、まだ“果て”じゃない)
 海の先、水平線の彼方にも、まだ、星の輝く世界があるのだ。
(俺は、まだ辿りついていない)
 侯健は帯を解こうとした。その前に帆柱が折れ、侯健は柱とともに水中に落ちた。手さぐりで帯を解き、どうにか水面に出たが、波をかぶり、再び水中に沈んでいった。
(いやだよ、俺は)
“本当の果て”が見たい。
 それは、こんな嵐の中で死ぬことではないはずだ。
 侯健は波間に顔を突き出して、水まじりの息を貪った。頭上を越えていく波の中で、必死に手足を動かした。
(こんなふうに終わるなんて、うそだろう)
 一着の服を縫い終わり、きちんと玉結びをするように、満足して、すべては終わるべきではないか。

(俺は、まだなにもしていない)
“地遂星”は──辿りつく星。やり遂げる星。侯健は諦めなかった。
 ようやく水面に顔を出し、岸へ向かって夢中で泳いだ。その頭上に、ふいに、巨大な波が覆い被さり、侯健は真っ黒な水中に呑み込まれた。
 抗っても、抗っても、波は後から押し寄せた。
 それが、日に二回、銭塘江から杭州へ向かって押し寄せる大潮であることを、侯健は知らない。
 巨大な波と、押しつぶそうする風に抗い、力尽きるまで、侯健は何度も沈み、何度も浮かび上がった。
 人より長い“通臂猿”の腕を、空へ伸ばし、なお泳ごうとしながら、やがて侯健は力を失い、水底へと沈んでいった。
 すぐそばを、砕ける波濤に乗るようにして、なにかが軽々と泳いでいく。
 張横だった。不自由な義足のはずなのに、張横は荒れ狂う波間を自由自在に泳いでいた。
 侯健は思った。
(──魚みたいだ)

 波の狭間に、かすかに段景住の声が聞こえた。
  アッ・ターリク
  慈愛あまねく、慈悲深き御方よ
  天と、夜に訪れるものに誓う
  夜に訪れるものは、何ぞ
  そは、闇をつらぬき輝く星
  もろびと、頭上に守護の天使を戴かざるものはなし

 北関門。
 統制を失い、兵法も陣形もなく、城へ向かって進むだけだった梁山泊軍の動きに、一筋の流れができていた。
 ついに、宋江が采配をとったのだ。
「騎兵をまとめ、散開しつつ前へ。歩兵は盾を掲げて、すぐ後に続きなさい」
 重装備の騎兵を矢よけに、軽装の歩兵を城壁へ迫らせようという捨て身の策だ。
 発せられた宋江の命令は、稲妻のように伝達された。金鼓が響き、全軍は、それを聞いた。
 即座に騎兵が秦明、黄信のもとに糾合された。昆山門から、魯智深、武松らも駆けつけてきた。
 秦明は、前進する騎兵の矢表に立つ。方臘軍の矢は精密だが、速度のある騎兵にはそう当たるものではない。
 ばらばらだった歩兵軍も、駆けながら部隊ごとに集結していく。魯智深、武松のもとへ。李逵のもとへ。李忠のもとへ。
 歩兵軍の勢いは、味方ながら凄まじい。騎兵軍を後ろから押し出していく。
 秦明は、矢よけになるつもりだった。道を作るべく、秦明はすべての梁山泊軍の先頭に立った。その横に、“九紋竜”史進が轡を並べた。

「つきあうぜ!」
 黄信は、秦明から一馬身も離れない。
 梁山泊軍は再び攻勢に転じ、城門へ向かって進んでいく。核になっているのは、宋江率いる八千の軍。それが魚の群の頭のごとく、全体をひとつにまとめて進んでいた。
 秦明、史進、花栄が宋江の前を守り、黄信、孫立、朱仝、呂方、郭盛が宋江の左右を固める。
 みなが自然とひとつの塊になり、方臘軍を押し退け、前進の足を緩めない。
 杭州城へ。
 吊り橋は上がり、城門は閉じられている。
 魯智深は走りながら武松に言った。
「ところで武松よ、どうやって渡る?」
「俺もいま聞こうと思った」
 まわりで手下たちがどっと騒いだ。
「梯子ならあるぞ!」
 手下たちは、梯子を掲げた。昆山から捨てずに担いできたのだ。“笑面虎”朱富は朱武の命令を受け、置き去りだった攻城具も回収していた。
「雲梯、衝車も到着だ!」
「でかした!」
 魯智深は禅杖を一閃させた。李逵が攻城具を担いだ歩兵たちを先導する。戦場に散り散りになっていた、欧鵬、燕順らも合流してくる。朱武の目が、素早く戦場の旗を見渡した。
「関将軍はどうした?」
 朱武の問いに、傍らを駆け抜けながら史進が応えた。
「御乱心だ!」
 関勝は行方もしれない。史進の姿も戦場へ消えていく。

 梁山泊軍は勢いに乗った。風の中を駆けていた。
 方臘軍は城壁上と、門の前に集まっている。城外の方臘兵は、すでに捨てられた死兵である。それを鮑旭の闊剣が、麦を刈るように倒していく。

 肉を断ち、骨を切り、闊剣が動くたび死人が増えた。狂ったように敵を斬り伏せ、勢い余った闊剣が鮑旭の手からふっ飛んだ。前後から方臘兵が鮑旭へ斬りかかる。その兵の頭を、飛んできた斧が二つに割った。李逵が斧を投げたのだ。鮑旭は方臘兵の頭から斧を引き抜くと、背後の敵を肩から斜めに斬り下げた。
 斧は、思ったより軽く使えた。ざっくりと肉を斬る感覚が腕に響く。鮑旭は闊剣を左手に握ると、李逵の斧を右手に再び前進をはじめた。左右に十文字に斧を振るえば、面白いように道ができる。
 その姿は、李逵の“天殺星”が乗り移ったかのようだった。
 李逵がどこかで怒鳴っていた。
「おいらの斧を返せ!」
 鮑旭は苦もなく堀の際に到達した。渇水期で、堀の水は深くない。さらに底には死体が折り重なって倒れていた。
 鮑旭は迷わず堀に飛び込み、死体を踏んで渡っていった。死体は、敵のも味方のもあった。まだ生きているものもあったが、断末魔の声も、泣き声も、鮑旭の耳には届かない。
 聞こえるのは、しゃれこうべの歌だけだ。
 夜空いっぱいに、歌が聞こえる。
「大合唱だ」
 死体を踏み、鮑旭は進んだ。足元に動くものがあれば斧を一閃させた。
 地暴星“喪門神”鮑旭。あだ名は、“死神”。
“暴”とは、むき出しの荒々しさ。突如、襲いくる嵐のようなもの。ふいに現れ、あらゆるものを打ち壊す、制御できない力である。
 どんな強い奴も、いい奴も、あくどい奴も、死神の前では平等だ。誰も逃げきることなどできない。
 城壁上では、方臘軍が石や丸太を準備している。梁山泊軍が近づけば落とすつもりだ。李袞が梯子を担いでいる。堀の壁にかけ、よじ登るのだ。上がれば、城門はすぐだ。項充よりも、李袞よりも、鮑旭の足が速かった。
 項充の声が、耳のすぐ後ろで聞こえた。
「梯子をかけろ!」
 それより早く、鮑旭は落ちていた槍を壁にひっかけ、柄を踏んで堀を登った。出た先は城門前の空き地である。薄暗かった。
 そこに、誰かが立っていた。模糊とした白い影は、幽霊か死神か。正体を確かめようと鮑旭は足を止めかけた。その懐へ、白い影が音もなく飛び込んできた。
 その影めがけ、鮑旭は斧を打ち込んだ。白い影もまた刀を抜いた。
「石宝だな!」

 死神の正体を見切ると同時に、鮑旭の右手が斧を掴んだまま地面に落ちた。石宝の劈風刀に肩口から斬られていた。しかし、鮑旭はぐっと息を詰めると、左手の闊剣で石宝の正面へ一太刀浴びせた。闊剣が流星鎚に当たって火花を上げる。弾かれた闊剣をさらに振り下ろそうとして、鮑旭は一瞬、石宝を見失った。
「どこへ行った」
 咄嗟に鮑旭は体をねじった。その脇腹から首にかけて、石宝の劈風刀が斜め一文字に斬り上げてきた。

 鮑旭の胴体は二つに断たれ、均衡を失った足が空を踏んだ。腕を落され、胴体を断たれ、血を噴きながら、鮑旭は石宝を睨み、その方へ歩こうとして、あおむけに崩れ、自分が踏んできた堀を埋める死体の中へ転がり落ちた。
 闊剣を握った左手が、わずかに動いて、それきりだった。
 荒ぶる死神、“地暴星”──鮑旭は、死体の中にこときれた。
 その死に顔は、奇妙なほど、静かだった。

 鮑旭が絶命したのを確かめると、石宝はすぐに城門のそばを離れた。
(あの牛角をつけた男がいるなら、宋江も近くにいるはずだ)
 梁山泊軍の別の部隊は、吊り橋のところに雲梯をかけようと奮闘していた。城壁からは方臘軍の石や矢が振る。
(蟻のようだ)
 夜明け前の嵐のなか、夢中で戦うものたちが、あわれな蟻のようだった。
 感情をもたない男の胸が、珍しく、かすかに騒いだ。
 梁山泊軍と方臘軍の間には、悪い因縁がある。平安を求め、人の理想の世界を創造しようとする明教の教えの邪魔をするのは、必ず“梁山泊”である。
 呂師嚢を殺し、明教が清めた城市を穢し、欲望のままに生きている。
“明使”を継いだ石宝は、方臘軍にあっては“南離大元帥”の地位にある。『南離』とは、“南方へ移り、悪しき因縁を断ち切る”意味である。
(この因縁、わたしが断ち切る)
 梁山泊は──宋江を殺せば、それで終わりだ。

 東の空は、わずかに白み始めていた。
 その頃、薛永は湖岸の草むらに潜んでいた。
 湧金門外の戦いを見届けて、結果を報告するのが彼の役目だ。
“勝利”か“敗北”か、報告は二つにひとつ。
 水上で、梁山泊軍と方臘軍戦船が衝突を繰り返している。炎があがり、喚声が渦巻いている。
 薛永にできることは、待つこと、見守ることだけだ。
 心細い時には寄り添い、思わず撫でた太白もいない。
 薛永は耐えた。みなと一緒に、戦っている方がどれだけましだったかもしれない。しかし、これも必要な“戦い”なのだ。
(頼む)
 遠く水上の戦いを見守りながら、薛永は祈る。
(頼む、勝ってくれ!)
 それは、嵐の彼方、天の遥かにいる、なにものかではなく、彼がよく知っている、仲間への、期待であり、鼓舞であり、願いであった。


 同じ頃、穆春は城内の路地を湖をめざして走っていた。
 さっき砲声が聞こえたのが西の方角だ。不案内な道を、穆春は必死に走った。解珍、解宝、杜遷が一緒だった。
 城内に潜入した彼らは、ひととおり火を放ち終えると、内部から援護すべく各地に散った。
「兄ちゃん、待っとれ!」
 穆春は運河沿いに西へ走った。
 やがて城壁まで辿りついたが、湧金門近くには兵士が入り乱れていて近づけない。穆春がうろついていると、解宝が口笛を吹いた。駆け寄ると、無言で城壁を指さした。
 城壁の上が少し暗くなっている。かつて張順が見つけた死角だった。城壁の番兵は、湖の方に気を取られいる。
 すぐに解宝が煉瓦に槍を立てかけ、足場にして登りはじめた。解珍も続く。二人はわずかな煉瓦の凹凸を足掛かりにして、鍛えられた指の力で城壁を登っていった。

 嵐が気配を消してくれたが、同時に体を飛ばされないよう、通常の何倍もの力が必要だった。
 張順が取ろうとした湧金門を、彼らは今夜、必ず落とすつもりだ。
 穆春も槍を足場にして手を伸ばしたが、最初の窪みに届かずに足を滑らせた。その足が、なにか力強いものに支えられ、穆春をぐっと押し上げた。見下ろすと、杜遷の肩を踏んでいた。天にも届く“摸着天”の肩だった。
 すでに解兄弟は城壁上に辿りついている。解珍は肩に巻いていた縄を落とし、穆春がそれを握った。引き上げかけた時、篝火の光が兄弟の姿を照らしだした。
「やはり来たな!」
 この死角が梁山泊軍に狙われると見て、駆けつけてきた杭州二十四将のひとり、崔幾である。十余人の方臘兵を連れていたが、崔幾は自ら解兄弟に斬りつけた。
 解宝が綱を握る兄をかばって、崔幾に殴りかかった。武器は城壁の下だ。殴ると見せて、相手が槍を繰り出してきたら、掴みとって奪うつもりだった。
 獣を脅かし、飛び出してきたところを捕らえるのが猟師たちの得意な手だ。
 一方の崔幾は漁師出身の男であった。解宝がかかってくると見ると、懐に隠していた投網を投げつけた。網は掌のように広がって、解宝の体をからめとる。動きを封じ、魚用の鋭いさすをつき出した。
 穆春が城壁に躍り上がり、解宝に槍を投げた。続いて杜遷が登ってくる。杜遷は途中で奪ってきた武器を針山のように背負っていた。
 解珍が城壁の下へ手を伸ばす。その手が、杜遷が背負っていた刺股をとった。
 崔幾は投網を捨て、解珍へ斬りかかる。その足元へ、解宝は投網ごと体当たりした。体勢を崩した崔幾の胸板を、解珍の刺股が抉った。
 解珍が弟を網から救う間に、穆春と杜遷は崔幾の配下を斬り散らし、城壁から叩き落とした。
 城壁の兵は、それだけだった。後は殆どが水上に出て戦っている。城壁から身を乗り出し、穆春は湖に向かって思い切り手を振った。
「兄ちゃん! 兄ちゃん!」

 侯潮門外は、死闘であった。
 どちらかが全滅するか、もしくは共に全滅するまで終わらない戦いだった。
 楊春は陳達を助け、部隊をまとめて抗戦しようと試みていた。しかし、敵の数が多すぎる。歩兵たちは散り散りになり、方臘軍に蹂躙されるままになっていた。
 騎兵軍は、歩兵をかまう余裕はない。
 楊春にも敵が迫り、馬が槍を受けた倒れた。楊春は陳達をかばったまま、方臘軍に取り囲まれた。一度に襲いかかってくる敵を、左右に払って、二三人を斬り伏せた。陳達も一人を斬ったが、そこまでだった。二人は刃の輪に取り囲まれた。その一角を崩したのは、ふいに射込まれた矢であった。ばたばたと敵が倒れる。
「あれは──援軍だ!」
 朱貴と李忠が、歩兵を率いて到着したのだ。李忠の隊が突っ込んで、友軍を救い出していく。
 朱貴は弓矢を手に、林冲の姿を探した。
(林冲よ、死ぬな)
 降りしきる雪の中を、梁山泊にやってきた傷ついた男。
 思えば、いつ死んでもおかしくない男だった。
 いつも、死に向かって歩いていた。
(あれほどの男が)
 楊志と戦い、王倫を斬った林冲は、陰鬱な朱貴の人生に燦然と現れた彗星だった。
(わしの命をやる、生きていてくれ)
 呼延灼、単廷珪、魏定国、陳達、楊春──朱貴は戦場を駆け回ったが、林冲は見つからなかった。
 ついに見つけた時、林冲は、城門のすぐそばまで迫っていた。
 冷恭は、強かった。それは、不愉快な強さだった。彼は一万余りの軍を率いている。数は梁山泊軍とほぼ互角。しかし、半分以上が弱兵であった。杭州軍の精鋭は、北関門に投入されているからだ。それを梁山泊軍に向かって突撃させた。餌食になるのは分かっている。彼らは次々に林冲の刃にかかった。そうして、疲れさせるのが、冷恭の目的だった。最後に残った練達の兵で、逆襲し、討ち取るつもりだ。
 杭州軍は密集し、防壁を作る。突撃を繰り返す梁山泊軍の前に、一人また一人と倒れていった。
 冷恭は薄笑いを浮かべ、死んでいくものたちを傍観している。
「退くな、その場所で戦え」
 まるで自分の冷酷さを誇り、人が死んでいくのを喜んでいるようだった。
 嵐が地上の熱を払い、杭州城は燃えて、明るい。
 光と闇の、そのはざまを、林冲は冷恭だけを目掛けて進んだ。
 槍を手にした方臘兵が、林冲の正面にいた。死を恐れぬはずの方臘兵が、林冲の殺気に色を失った。
 林冲は、頭を抱えて地面につっぷした兵の上を飛び越えた。
 朱貴は侯潮門へ駆ける林冲を追った。
(やはり、林冲は)

 これこそが、“豹子頭”林冲──宋国最強と言われた男だ。
 人には耐えられぬ苦しみと哀しみの果てに、なお戦う男の姿だ。
 戦う人々のあいだを、一筋の吹雪のごとく、一片の氷雪のごとく、林冲は征く。誰も、その身に触れることもできない。ただ、倒れていくだけだ。まるで、自ら蛇矛にかかって死んでいくかのようだった。
 朱貴は、手を合わせたくなるような感動に震えた。これこそ、彼が求めた林冲だ。梁山泊で、はじめて林冲という男に出会った時から。
 これこそが、“天雄星”──林冲の真実の姿なのだ。

 夏の夜明けは早い。
 みな体力も気力も限界だった。
 林冲には限界などないようだった。馬が先に膝を屈した。林冲は馬から降り、一瞬、崩れかけた身を蛇矛で支えた。
 侯潮門の防衛軍は崩壊している。
 冷恭を隠す方臘兵は、もう一人もいなかった。冷恭はあたりを見回し、城内に引き返そうと踵を返した。
「開門!」
 しかし、門はいつの間にか閉じられていた。門は副将の張道原が守っているはずだ。
「張道原、なぜ門を開けぬのだ!」
 林冲は一歩一歩、進んでくる。朱貴は援護のための矢をつがえた。
 城壁は静まりかえっている。
 その時、城壁の姫垣から、扈三娘の顔が覗いた。続いて、顧大嫂、孫二娘の姿も見えた。孫二娘は、槍に刺した張道原の首を掲げた。
「返事しようにも、もう無理さ!」
 彼女たちは放火を終えると、城内から援護すべく住民に混じって侯潮門へ忍び寄っていたのである。侯潮門周辺には、焼け出された住民たちがひしめいていた。
 扈三娘は手を振った。
「林教頭!」
 その声も、林冲には聞こえなかった。
 耳元で風が哭いているだけだ。
 冷恭の馬が林冲の殺気に応じて狂奔し、冷恭は馬から振り落とされた。
 林冲は立っている。
 朱貴は、二人の距離がふいに縮まったかと思うと、冷恭の槍が空へ飛ぶのを見た。その目を地上へ転じた時には、すでに冷恭は蛇矛の一撃を受けて死骸となっていた。
「林冲!」

 朱貴の声に、林冲は、振り返ろうとしたようだった。
 肩ごしに、やや首を傾けて、どこかの空を仰いだと思うと、林冲はまた静かに目を閉じ、戦場の泥土の上に崩れた。
 雨がぽつりと、その瞼に落ちた。

 明け方、激しい雨が降り始めた。
 梁山泊軍は、ついに城門に到達した。
 馬上に座した宋江の前に、杭州城の城門がそびえ立っている。
 報告が矢次早にやってきた。混乱のために、同じ報告も繰り返された。
「侯潮門で“赤髪鬼”劉唐戦死!」
「銭塘江で船が転覆しているぞ!」
「鮑旭がやられた!」
 宋江は、門を見上げ、その門をくぐれずにいた。
 真っ赤な血の川にのまれて、消えていく人々の姿が脳裏をこびりついている。
 あれは張順、雷横、共旺、索超、劉唐──みなだったのだ。
(誰か)
 宋江は、救いを求めた。
 この門は、地獄の門だ。これをくぐれば、もう、誰も、引き返すことはできない。
 宋江は呪った。
 自分の上に輝く、星々を導くという天魁星を、宋江は呪わずにいられなかった。
 そして、行き交う梁山泊兵の中を、真っ直ぐに向かってくる一人の男に目を止めた。
 その顔を見知っている者が叫んだ。
「石宝だ!」
 気づいた時には、すでに宋江と石宝の間には、数十人の壁しかなかった。
 花栄は咄嗟に箙に手をやった。いつもは必ず一本、残す矢を今日に限って射つくしていた。
 石宝が駆けだした。十数人を走りながら斬った。裴宣、戴宗、宋清が身構え、郁保四は旗竿を掲げた。
 呉用は反射的に身を翻し、宋江の前に立ちふさがった。石宝の流星鎚が飛び、それを青竜偃月刀が弾きとばし、大地に深く突き立った。
「関勝!」

 どこから現れたのか、全身を紅に染めた男が石宝の横に迫っていた。戦場を縦横無尽に駆け回り、敵を殺し尽くした関勝が、帰ってきたのだ。

 湧金門外の湖で、方臘軍の船が燃えていた。
 風のため消火が間に合わないのが災いした。しかし、将の呉値は諦めることなく、全船へ最後の指令を送った。
『航行可能な船は、敵船へ体当たりせよ』
“城の防衛かなわぬ時は、一片でも多くの光を解放せよ”
 方天定からの真の命令である。それは、ひとりでも多くの敵を殺せ、という意味だ。
「銅鑼を鳴らせ!」
 梁山泊軍の船は、小船であることを生かして、湧金門めざして炎の間を縫ってくる。方臘軍の船は消火もせず、退避もせず、梁山泊軍を阻もうと死に物狂いで船を操る。
 呉値の乗る旗艦は、湧金門のすぐ前に陣取っている。
 いざとなれば城内に引き返して、城壁から防衛することになるだろう。
 そう命じようと振り向いた時、銅鑼を打っていた従卒が倒れた。背後に、匕首を掴んだ男が立っていた。
“弃命三郎”石秀だ。船から飛び込み、湖を泳いで旗艦まで登ってきたのだ。混乱する戦場は半裸の船頭や水夫も多く、ひそかに甲板に上がった石秀に気づく者はいなかった。
「いつの間に!」
 その背後には、今しも水から上がった“混江竜”李俊が立っていた。
「今ですよ」

 李俊は呉値の腹へ匕首を突き立てた。
 石秀と李俊は戦場の方臘兵を斬りまくっている。梁山泊軍の決死の水兵たちも闇にまぎれて上船している。
 呉値は腹を抑えて倒れたまま、そばに落ちていた撥を握った。そして、力を振り絞り、銅鑼を打った。
「湧金門、通すものか」
 それが、呉値の最後の言葉となった。
 呉値が打った合図は、船から船へ伝わっていく。
『全船、湧金門に自らを沈めよ』

 阮小五らは、石秀を送りだした後も水門に向かって漕ぎ寄せていた。阮小二は、周囲の方臘軍の船が急速に沈み始めたのに気づいた。
「栓を抜いたな」
 船底の栓を抜き、水を入れて沈没させる気なのだ。動ける船は、梁山泊軍との戦いをやめ、湧金門へ向かっている。そして、やはり次々に沈んでいった。
 西湖の水深はそれほどはない。大型の戦船を何十隻も沈められれば、梁山泊軍の船は航行できない。湖から湧金門に近づけなくなるのだ。
 杭州水軍は水門周辺にぶつけるように密集し、水路を塞ぐ。
 阮小五は舵取を握り叫んだ。
「構わねぇ、突っ込め!」
 湧金門の周囲は、方臘軍の船がひしめき、水も見えないほど密集している。風にあおられて城壁にぶつかり、砕けた船体の上に、さらに別の船が乗り上げる。
 穆弘もそれを見ていた。
「遅れをとるな!」
 穆弘たちの戦船も戦いをやめ、突っ込んでいく。
 天究星は、穆弘の頭上の輝く星だ。究める星──行き止まりの穴の奥の奥まで、腕を突っ込み、貫く星だ。
「行くでや!」
 あとは賭けだ。穆弘は刀を引っさげ、甲板から潰れた敵船の上へ飛び移った。敵兵が残っていれば斬り伏せ、沈みかけた船は水を蹴って駆け抜けた。そのまま湧金門まで走るつもりだ。穆弘の配下は、水陸両方の戦いの訓練を積んでいる。水に落ちても泳げるように、甲冑はつけず、身軽なままだ。全員が遅れずに穆弘についてきた。
 船上に残る方臘兵も、ひとりでも梁山泊兵を倒すべく最後の力を振り絞る。
 水門へ船を渡っていく穆弘の前に、方臘兵が押し寄せた。上将と見て、五人がかりで倒すつもりだ。一人が弩を放ち、矢を払った穆弘の前後左右から四人が一度に襲いかかった。
「さえぎるものなし!」
 穆弘は刀で左右の敵を斬り、前の敵の胸を足を振り上げて蹴った。後ろまでは手がまわらない。がッ、と鈍い音がして、刀が穆弘の背中を突いた。
 やられた──と誰もが思った。しかし、穆弘は倒れなかった。刀を背に回し受け止めたのだ。穆弘は振り向きざまに、大上段から方臘兵を首から胸まで斬り下げた。
 城壁から穆春の顔が覗いていた。
「兄ちゃんッ!」
 穆春は城壁から船の上へ飛び降りた。続いて解珍、解宝たちも飛び降り、戦いに加わった。杜遷は両手で敵を捕まえては投げ飛ばす。
 石秀も旗艦から船づたいに水門へ向かった。
「ついてこい!」
 石秀は湧金門の入口を塞いでいる戦船に飛び移った。ほぼ無傷の戦船で、方臘軍の水兵たち二十人ほどが乗り込んでいる。すぐに石秀は囲まれた。石秀の足が速すぎて、誰もついてこれていなかった。石秀を取り囲む方臘兵を、倒したのは孟康だった。
「楊雄、あんたの“弟”はここだ」

 孟康が叫ぶと、どこかの船から楊雄がやって来た。来るなり、楊雄は無言で残りの兵を薙ぎ倒す。
「雄さん、来てくれると思ったぜ」
「“再会”は後だ」
 孟康は後を楊雄に任せると、石秀の腕を掴んで船の艫の方へ向かった。船は舳先を湖に向け、艫を水門に突っ込むようにしている。
「水門を開くのが先だ」
 孟康は船上の松明をとって、甬道の奥を照らした。水門には、頑丈な鉄格子がおりていた。孟康は鉄格子を調べ、眉をしかめた。
「おい、石秀。どうやって門を開ける」
「他の奴に聞いてくれ。俺は今、手が離せん!」
 石秀は孟康に背を向けて、追ってくる方臘兵と戦っている。
「こいつは、内側からしか開かない」
 城内に潜入していた穆春たちは、こちら側に飛び降りて戦っている。
 鉄格子の向こうには、船着場が見えていた。この鉄格子一枚が、張順の命を奪ったことを、孟康たちは知らない。今、再びこの鉄格子が彼らを阻む。
「くそっ」
 孟康は刀を鉄格子へ振り下ろした。火花が散っただけだった。掴んでみても、びくともしない。
「おい、誰かいねぇのか!」
 鉄格子の向こうの船着場には、方臘兵の姿もない。おかしい──と気づいた時、向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。
 手には血刀を提げている。目を凝らせば、その回りには方臘兵の死体がいくつも転がっていた。方臘兵がいないのではなく、何者かが倒していたのだ。
(誰だ?)
 頭巾をかぶり、顔が見えない。その頭巾を、風がとばした。篝火に、金の髪があらわになった。
……
「“青眼虎”!」

 血刀を手に、李雲が風の中を歩いてくる。
 その目は、いつもほど青くは見えなかった。
 李雲の後には、王英、孫新、張青らも続いていた。女房たちとは分かれ、湧金門の援軍にやって来たのだ。三人がかりで鉄格子の鎖を上げはじめた。
 水門を守ろうと、方臘兵が駆けつけてくる。それを、李雲はまるで無駄のない動きで斬り伏せた。
 孟康も、誰も、李雲が人を殺すのを見るのは、初めてだった。
 李雲は“大工”だ。仕事ぶりは精巧だった。
 それと同じその正確さ、丹念さ、精密さをもって、李雲は一太刀で敵を倒した。
 李雲は戦っても敵を殺さなかった。一度も、敵将を討ち取る手柄は立てていない。だから、李雲の腕前は誰も知らず、李逵より強い──というのも、弟子の朱富の贔屓目だと半ば思われていた。
 しかし、李雲は本当に強かった。
 いつもは死なぬ寸前で止め、急所をそらし、殺さずにいただけだ。それだけの、技量と冷静さを持っていた。
 空で、風が唸り声をあげていた。空が震える。
 李雲は、今、自分が斬った敵を見た。中年の、平凡な容貌の明教徒だった。それでも、李雲はその男を忘れないだろうと思った。
 この男だけではない。
 今夜、殺したすべての人間のことを。

 その頃、関勝は石宝を追っていた。
 石宝の配下もまだ百人近くが残っている。彼らが石宝のもとに集い、石宝を逃がそうと最後の抵抗を試みていた。
 関勝は石宝を執拗に追う。方臘兵は次々倒れた。
 関鈴は遅れまいと関勝についていった。疲れ果て、心臓がとびだしそうだった。馬が、倒れた。関鈴は鞍から放り出され、毬のように地面を転がった。兜がはねとび、頭を打った。視界が歪んだ。
 関勝はそのまま去っていく。呼ぼうとしても声が出なかった。
 白いものが迫ってくる。方臘兵だ。
 関鈴は逃げた。逃げたつもりが、足がもつれて、相手の方へ転がって倒れた。
 関鈴は叫び続けた。這って逃げた。方臘兵は、すでに死んだも同様の少年兵に、慎重に狙いを定めた。
 それを、背後から関勝の大刀が斬り伏せた。
 死んだ方臘兵のすぐそばに、関鈴も倒れていた。首のあたりに血が飛び散っていた。硬く目を閉じ、関鈴は動かなかった。
 大刀の動きが止まった。
 敵も、誰も、関勝に刃を向けるものはなかった。
 関勝は、魂を失った神像のごとく、そこに立っていた。それは暫時にすぎなかったが、関勝には、永く感じた。
 その時、関鈴が食いしばっていた口をわっと開け、生まれたての赤子のような叫びをあげた。
 傷は薄手で、浴びたのは関勝が斬った敵の血だ。
 しかし、関鈴は声を放ち、涙を流して、狂ったように泣き続けた。

 関勝は、力が抜けていくのを感じた。
「もう泣くな」
 そう言って、離れようとした関勝の足に、関鈴は両手でしがみついた。
 溺れた子が親にしがみつくように、迷子が親に出会ったかのように、関鈴は関勝の足を抱いたまま、わんわんと泣き続けた。

 竜巻が、杭州城を南東から北西へと横切っていった。
 それから、激しい雨が降り始めた。
 城内は、火災と、嵐、さらに竜巻によって多くの家が倒壊し、人々は逃げまどった。

 方天定のもとには、登元覚の腹心と百華兵が集まっていた。
「湧金門が破られました」
 登元覚が最も新しい情報を告げた。
「北関門からも、敵軍が。この太子宮を目指しているようです」
 方天定は落ち着いていた。
 城が落ちれば、梁山泊軍の次の“目標”は、自分だということを、少年は十分に理解していた。
 太子宮では、脱出の準備が進んでいた。大きな混乱はなかったが、庭には、誰が落としたのか瓜がひとつ転がっていた。
「かたづけて」
 庭に出た方天定は、瓜を一瞥し、不機嫌に命じた。
 登元覚は落ち着いていた。今や、彼の使命は杭州城の死守ではなく、方天定を命に代えても守ることである。
 方天定は、甲冑ではなく、明教徒の子供のかっこうである。頭から白い斗篷をかぶり、同じように一般の明教徒に変装した女兵に尋ねた。
「井戸に毒を入れたかい?」
 その言葉に、登元覚が顔を曇らせたのを、方天定は見逃さなかった。
「彼らは、いずれ明教を捨てるから。だったら、早く光を解放してもらった方がいいだろう?」
 登元覚は、それ以上は追及しなかった。
「では、私は影武者と逃げ、敵の目を引きつけます。百華兵は、命を捨てて太子を方聖宮へお連れせよ」
 登元覚は百華兵たちに念を押すと、方天定に別れを告げた。
 太子宮の周辺には、焼け出された住民が救いを求めて集まっていた。みな怯え、泣き叫んでいる。
「うるさいよ」
 斗篷の下で、方天定は嗤った。
「泣いたり、怒ったり……うるさいだけだ」
 天は、応えはしないのだ。
 無力なのが悔しいなら、強い力を得るほかはない。神にも等しい力を得れば、すべての望みがかなうだろう。
 登元覚が去っても、急報は続いた。
「梁山泊軍が太子宮に向かっております」
 城内に侵入した梁山泊軍が太子宮を包囲するであろうことは分かっている。すでに船着場から潜入していたのなら、見張りもついているだろう。
「国師は?」
「すでに裏門から出られました」
「頃合いだ」
 雨はますます激しくなり、雷は空を震わせ轟いている。人々の泣き叫ぶ声、戦の気配──まるで、この世の終わりのようだ。
 方天定は、微笑み、命じた。
「すべての門を開け」


※文中の「崔幾」は、正しくは崔幾です。
※文中の「共旺」は、正しくは共旺です。
※文中の「弃命三郎」は、正しくは弃命三郎です。
※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。




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