水滸伝絵巻-graphies-

第百二十四回
嵐の日、その星は輝き(四)雷


 触れ回る薛永の声が、遠く聞こえた。
「湧金門が落ちた!!」
 石秀は開かれた湧金門の前で、李雲の方へ振り返った。
「生きてるか、李雲」
 李雲は刀を投げ捨てて、塀にもたれかかっている。両手が、血で真っ黒に汚れていた。その色あせた唇が、呟いた。
「……“生きて歌わず、死して服なし”」
「なんだい?」
「墨家だ」
「いかすじゃないか」
 意味は知らんが──と、石秀は船着場の方へ目をやった。李俊たちも、続々と上陸し、湧金門は梁山泊軍によって完全に掌握された。
(張順も喜んでいるだろうぜ)
 石秀は、李雲に手を差し出した。湧金門には守備を残し、あとは城内の制圧だ。狙うは、太子・方天定だ。
「肩を貸そうか?」
「無用」
 静かに答えて、李雲は立った。
「人を殺すものは殺される──それが、掟だ」


 湧金門から、北関門から、梁山泊軍は陸続と杭州城に入城した。目指す先は、いずれも太子宮である。
 しかし、梁山泊軍が到達するより前に、太子宮の十二ある大小の門がすべて押し開かれた。逃げまどっていた住民たちが、安全な太子宮になだれこんでいく。
 正面口である南門は、鄒淵、鄒潤が見張っていた。そこに、北口を見張っていたはずの白勝が転がるように駆けてきた。
「たいへんだ、裏門から逃げられた!」
「誰が」
「ほ、方天定」
 白勝は呂律がまわらない。
「でっかい坊主が、冠をつけた子供を連れて逃げた!」
 住民に混じって門前にたむろしていた白勝は、登元覚らしい僧が、黄金の甲冑の少年を連れて裏口から抜け出したのを目撃したのだ。
「石勇が本陣に報せに行った。俺たちはどうしよう」
「決まってる、追いかけるんだ!」
 三人は北に向かって大雨の中を駆け出した。

 城内は大混乱に陥っていた。梁山泊軍のためだけではない。火事と嵐だ。雨が火を下火にしていたが、人々の恐慌は簡単には収まらない。
 逃げまどう住民の間を、梁山泊軍の伝令が駆け抜けていく。
「方天定が逃げた!」
 その報せは、石勇らによって城内外の梁山泊軍を駆けめぐった。すべての門には、梁山泊軍の見張りがついている。登元覚が通れば報せがあるはずだった。
 魯智深は登元覚を追って城内を北に向かった。途中、『和尚』としきりに呼ぶ声がして、見ると、路地から湯隆が飛び出してきた。
「しくじった! 坊主め、城壁を乗り越えて逃げた!」
 湯隆は白勝らとともに太子宮を見張っていて、登元覚が密かに脱出したのを追いかけた。城門は梁山泊軍が見張っているはずだから、逃げられる心配はないと踏んでいた。しかし、登元覚たらが向かったのは、城門ではなかった。
「竜巻が、北西の城壁を崩しやがった。そこを乗り越えて逃げたんだ。俺ひとりじゃ、止めようもねえ」
「お前は本隊に報せろ、わしが追う」
 魯智深は禅杖を肩に駆け出した。狙いは、方天定より、登元覚だ。
「勝負をつけるぞ、ずくにゅう!」


 時遷が“方天定脱出”の報を侯潮門へ届けた。ほかの隊も動けるものは、すでに追手に加わっている。
 呼延灼は、盧俊義に指示を仰いだ。
「守備の兵を残し、追いますか」
 盧俊義は答えない。なにかもっと、大切なことを考えているようだった。呼延灼も、心得ている。
「このまま門の守備を続行します」
 すでに他の軍が追っているのだ。落としたばかりの杭州城が手薄になることが、呼延灼には気がかりだった。
(とくに、この南側だ)
 南側の銭塘江は、阮小七、張横らが制圧する予定だったが、船が見えたという報告はない。嵐で転覆したとの情報もある。
 通常、城攻めは一つは敵の逃げ道を作っておくのが定石だ。死に物狂いで抵抗されるより、逃げてもらったほうが戦が楽になるからだ。
 しかし、今回、呉用はその逃げ道まで封じようとした。
 強敵である方天定と、石宝、登元覚を確実に討ち取るためだ。わざと逃げ道を作っても、狡猾な方天定は見抜くだろう。実際、方天定と登元覚は、竜巻が崩した北西の城壁から逃げたという。
 呼延灼は、そのことに疑問を抱いた。
(彼らは、なぜ北へ逃げたのか。銭塘江を渡り、南へ逃げるべきではないのか)
 北方は宋国軍の勢力が優位になっている。南方こそ方臘軍の本拠だ。
 侯潮門からは、住民が逃げ出していた。焼け出された住民や、宋国を恐れる明教徒たちである。梁山泊軍は、住民は逃げるにまかせていた。彼らも、南へ逃げていく。
 風雨の中を、着の身着のままで逃げていく明教徒たちの一角に、呼延灼は目を止めた。
 頭から白布の斗篷をかぶり、女のようだが、武術に心得のある者の身ごなし、足使いだった。
「検めよ!」

 呼延灼の声に応じて、単廷珪と魏定国の部隊が動いた。
 それを敏感に感じ取り、女たちは牽いていた馬に飛び乗った。かぶっていた白い斗篷を脱ぎ捨てると、その下は、色鮮やかな百華の甲冑であった。
 中にひとり、小柄な子供が混じっていた。
「方天定だ!」

 夜明けとともに、風雨はおさまりつつあった。
 雷が遠ざかっていく。
 しかし、銭塘江は依然として茶色く濁り、なぎ倒された柳や、船などが絶え間なく流れていた。
 川沿いの道を、単廷珪と魏定国は方天定と百華兵たちを追った。
 呼延灼も侯潮門の警備を盧俊義に任せ、追跡に加わった。時遷は報告のため本隊へと急いで戻っていく。
 百華兵を追いながら、魏定国たちは戸惑っていた。
 方天定を守っているのは、全員が美しく若い娘たちだ。髪には華を飾っている。ひどく現実離れして、夢をみているような気さえした。
 呼延灼は、三人の娘を持つ父親である。
 女兵たちが、その華のごとき容貌とは裏腹に、赫思文を討った手練であることは、頭では分かっている。
 娘たちは、勇敢だった。呼延灼たちの追撃に果敢に挑んだ。可憐な女兵たちは、屈強な戦士であった。呼延灼たちが距離を詰めると、およそ半分が馬を止め、反転して戦いを挑んできた。残りは方天定と逃げていく。残った半数が決死の覚悟を決めていることは、呼延灼にはすぐに分かった。
 しかし、呼延灼はためらわなかった。
 呼延灼の鞭が、女兵を馬上から叩き落とした。
(弱きものを、力づくで捩じ伏せるのが、“威”)
 それでも、顔を狙わなかったのは、勇敢な兵に対する敬意であり、せめてもの父の情であった。

 娘たちを犠牲に、方天定は逃げた。百華兵の半数が倒れ、また残った半数が倒れた。方天定はひとりになり、死にゆく乙女たちに、祝福を送った。
 純粋な娘たちは、欲望にかられる男を、汚れた世界を嫌悪している。現世を憎み、相当の修行を積んでいる。それが清浄な乙女のまま、光を放って死んでいくのだ。これ以上の喜びがあるだろうか?
(あとは僕に任せればいい)
 彼女らの望んだ、世界を作る。
(そのために、僕は、生かされている)
 父の方臘は、聖公となった時、瞑想の中で神の預言を受けた。
『まず我が子の光を宇宙に捧げよ』
 幼子だった彼と姉は、父によって殺されかけ、“奇跡”によって救われた。刀が振り下ろされようとした時、神は方臘の信仰心篤いことを祝福し、“汝に太子と公主を与える”と告げたのだ──と云う。
 方天定の右足の傷は、その時に斬られたものだ。その傷により、彼は“教祖”摩尼の真の後継者であると見なされている。摩尼も右足が不自由だったのだ。
 すべて、後に、姉と登元覚から聞かされた話である。
 彼の記憶は、その前後が抜け落ちていた。父の出家にともない、離縁されたという母親は、顔すらも覚えていない。明教になじめず市井に隠れたとも、反乱の首謀者の妻として宋国に捕えられたとも聞いている。
 夜明けだ。

(僕が光明清浄世界の王となれば、きっと会える)
 方天定は太陽に朝の祈りを捧げた。
 彼は降魔太子として、この世の闇をうちひしぎ、光明清浄世界を創世する。
 そこでは、すべてが自由自在で、心は軽く、誰も苦しまず、哀しみも、ない。
 輝かしい世界に向かって、少年は馬を走らせた。

 杭州郊外の荒野で、関鈴はまだ関勝の足にしがみついていた。
 関勝はその丸い背中を見下ろしていたが、ふいに関鈴を抱き上げた。片手で持てるほどの軽さと、子供らしい体温に、関勝は戸惑った。
 石宝も、その配下も、とっくに姿をくらませていた。杭州や、梁山泊軍がどうなっているかも分からない。
 関勝には、もっと、知らねばならないことがあったのだ。
「おまえの名は」
「か、関鈴」
「わしは、お前の父を知っているか?」
 しゃくりあげながら、関鈴は頭を振った。
「では、祖父を?」
「あなたは、僕のこと、なんにも知らないんです」
 関鈴は、拳で頬の涙をぬぐった。
「僕の母は、あなたの副将だった赫思文おじさんの、元の妻です」

「赫思文の」
 赫思文が、下野した関勝に従うために妻を離縁したことは知っていた。その後のことを、聞いたかもしれなかったが、関勝は覚えていなかった。
 赫思文の元の妻は、後に関姓の家に嫁いで、この少年を生んだのだ。
 彼は、関勝にも、赫思文にも血は一滴も繋がっていないけれども、二人の存在がなければ、この世に生まれ得なかった子供であった。
 それは不思議な感覚だった。
 すべての時と、すべての命が、繋がったような感動を覚えた。
 それは、どんなことにも動かなかった“武神”関勝の心が、嵐のごとく震えた一瞬であった。

 雷が遠ざかっていく。
 突風が川岸の柳の木を根こそぎ薙ぎ倒していた。
 濡れた地面に、死んだ魚の群のように柳の葉がはりついている。
 泥を撥ね上げ、方天定は南西へ逃げた。百華兵たちが梁山泊軍を足止めしている間に、どこかで銭塘江を渡れば、逃げきれることは分かっている。
(梁山泊軍が銭塘江をおさえなかったのは失敗だ)
 馬上から振り返ると、百華兵の首が瓜のように飛ぶのが見えた。なにか不吉なものを思い出しそうになり、方天定はさらに逃げた。
 夜が明け、少年は、希望を抱いていた。
(僕は、僕の光明清浄世界を創るんだ。こんなところでは、死なない)
 そこには、父がいて、母がいて、姉がいて、とても温かく、穏やかだ。
(ひとつの家で、いつも一緒で、楽しいんだ)
 争いもなく、悩みもない。
(ああ、それはどんなに幸せな世界だろう)
 五雲山のふもとまで逃げていくと、方天定の馬が突然に足を止めた。
「どうした?」
 馬は耳をぴんと立て、なにかを拒絶するように首を垂れている。腹を蹴っても、鞭を当てても、ぴくりとも動こうしなかった。
 近くには、小さな船着場があった。草の間には、粗末な漁船が腹を上にして捨て置かれている。船の周囲には、割れた茶碗や、壊れた土人形が散乱していて、ささやかな家庭の暮らしがあったのが想像できた。
「分かったよ、ここで河を渡れと言うんだね」
 方天定は川岸へおりていった。
 小船は少年の手には重かったが、なんとかひっくりかえして、水へ押し出した。近くで魚がはねたような音がした。
 顔をあげた瞬間、船縁にかけていた手を、水中から突き出した腕が掴んだ。
「水鬼!」
 方天定は悲鳴をあげて、腕を振り払おうとした。まるで体温のない冷たい腕は、がっちり手首を掴んではなさなかった。
 方天定は水中に引きずり込まれた。波の向こうに、匕首を口にくわえた恐ろしい形相の鬼が見えた。血の気のない全身が青白い。

 方天定は夢中で腕を振りほどき、岸の上へ這い上がった。馬はまだそこにいた。手綱を握り、鞍に這い上がろうとした。その足に、水から這い出した水鬼がすがりついた。
 水鬼はなにかを呟いていた。
「……杭州……杭州」
 片足の鬼は、呪詛のように繰り返す。ぼたぼたと水滴を散らしながら、水鬼は方天定を馬から引きずりおろし、抵抗する少年の頭上に匕首を振り上げた。
「あっ」
 叫んだ方天定の鼻先に、ここにはない金木犀の香りが鮮烈に蘇った。
 山の中の小さな家。庭先の金木犀。刀を振り上げる父。そして、金色の花の降り散る中に、瓜のように転がった丸いものは……。
(おかあさまの首!)
 封印されていた幼い記憶に、方天定は声にならない悲鳴をあげた。
 同時に、匕首が少年の首を落とした。
 軽々と、瓜をもぐように。

 その人影は、呼延灼の視界を人間離れした速さで横切った。
「張横!」
 張横に間違いなかったが、聞こえないのか、まっしぐらに駆けていく。尋常ではないものを感じ、呼延灼は後を追った。
 首を手にぶら下げたまま、張横は方天定の馬に乗って杭州城へ駆けていく。その前方から、時遷の急報で、本隊から応援が駆けつけてきた。宋江と花栄の姿もあった。
 花栄が張横に気づき、道を遮るように声をかけた。
「どうした、張横。なぜここにいる。その首は」
 異様な形相のまま、張横は花栄の横を駆け過ぎた。ぶらさげた少年の首からは、まだ鮮血が滴っている。
 宋江が、そこに立っていた。
 馬が止まった。張横は馬から降り、口には血まみれの匕首をくわえ、手には生首をさげたまま、宋江の方へ歩いていった。
 裴宣と宋清が、宋江の左右を固めた。それは、彼らがよく知っている張横とは思えなかった。
 義足をひきずり、ぎこちなく、操り人形のようだ。一歩一歩、張横は宋江へ向かっていく。全身から水が流れ落ち、目は血走り、水鬼そのものの姿だった。
 やがて、人々が見守る中、張横は宋江の前に立った。宋江も馬から下りた。

 宋江は、張横の目を見つめ、喜びと、それから深い哀しみを表した。
「──張順さん」
 張横の動きが止まった。
 目から血の色が消え、ゆっくりと宋江に焦点が結ばれた。
「張順さん、わたしに、会いに来てくれたのですね」

 宋江は、血まみれの“張順”の手を握りしめた。
 宋江を見つめ返す目は、まぎれなもく、凛々しい張順のものだった。
「ありがとう、張順さん」
 張横の手から、ぼとりと方天定の首が落ちた。膝をつき、張横は呻いた。
「……順よ」
 それきり張横は気を失い、昏倒した。

 雲が飛び去り、少しずつ青空が見え始めていた。
 阮小七は、たったひとりで銭塘江沖の海に浮かんでいた。
 羊の浮袋を抱き、流木のように、ただ空と波の間に浮いている。
 あれほど苦労して遡った銭塘江を、引き潮とともにあっという間に流れ戻って、沖合まで流されたのだ。
 周囲には、なにもなかった。
 船も、人も、水鳥もなく、ぽかんとした広い場所で、阮小七は空を見ていた。



 杭州落城。
 その報は、梁山泊軍、方臘軍双方の早馬によって四方に飛んだ。
 方天定は討ち取ったが、石宝と登元覚、杭州二十四将軍のうち王勣、晁中、温克譲は落ち延びていた。
 梁山泊軍は住民を安撫し、宋江は浄慈寺で戦没者の供養を行った。
 裴宣と孟康は、登飛に腕をついでやった。
 彼らはどちらも、登飛のような男が死ぬことを、不思議に思った。登飛の死に顔は、目をあけて、いまにも立ち上がりそうに、猛々しかった。
 劉唐は見つからなかった。正しくは、どれが劉唐の遺体か分からなかったのだ。
 索超は愛用の金燦斧とともに葬られた。
 李逵は、鮑旭の死体の前で、大声で哭いた。鮑旭のために泣いたのは李逵だけだったが、その泣き声は、何十人分の泣き声にも負けなかった。
 侯健と段景住の死体は、あがらなかった。銭塘江を河口まで浚い、ようやく段景住が身につけていた頭巾の切れ端と、いつも懐に持っていた教典が上がっただけだった。侯健については、どれだけ探しても、針一本、見つからなかった。
「どこまでも泳いでいったのさ」
 阮小七がそう言った。“嘲風子”が一緒だから、迷って水鬼になる心配はない。
「きっと、東海竜王の水晶宮で遊んでいるさ」

 柩は杭州城外に葬られることになり、葬列が陣営を出た。
 途中、葬列は湖のほとりの祠に立ち寄った。
 真新しい金華太保の祠である。
 張順に関しては、朝廷から特別の沙汰があった。方天定の最期について報告を聞いた天子は、ことのほかその“奇跡”を喜ばれたということだった。
“張順の至誠が竜神の心を動かし、兄の身に憑依して霊異を示した”
 道教に傾倒する道君皇帝には、これ以上ない喜ばしい出来事である。お抱えの道士たちも、口を揃えて、聖天子の徳あればこそ起こった奇跡、と褒めそやしたのだという。
 結果、張順は“金華太保”の神位に封じられ、湧金門外の西湖の岸に祀るべく勅が下された。
「分かってねぇな」
 祠の前で、水軍の仲間たちは言い合った。阮小七には、張順の気持ちが分かる。
「あいつは、“宋江兄貴”のためになるなら、匕首で竜神をおどしつけても、やっただろうぜ」
 李逵は張順ばかりがちやほやされることが不満だ。
「おいらだって、死んでもタマシイがあるんなら、宋江兄貴のために帰ってくるんだ」
 真新しい祠の石段に小さな青蛙がいて、暢気な声で、けろりと鳴いて、波間へ跳んだ。長い足を自由に動かし、泳ぎさる。
 傍らには金木犀の木があって、早いつぼみをつけはじめていた。

 郁保四に先導され、葬送の列が湖畔を行く。
 位牌に続き、宋江が好漢たちの先頭に立っていた。
 晴れた日だったが、風があって、さほど暑さは感じなかった。
 歩きながら宋江は、失った兄弟たちのこと、張順のことを思い出していた。
 別れがこれほど辛いなら、出会わないほうがよかったと、考えるべきだろうか。
(いいや)
 張順の、あの爽やかな笑顔を思う。
 たとえ、どれほど辛いにしても、また会いたい。そう、宋江は思うのだ。

 天損星──“損”とは、ひとつが欠けること。
 たった一人を失っても、これほど哀しい
 空にどれだけの星があっても、名もない星でも、それは、たったひとつの星だ。
 星だろうと、輪廻する魂だろうと、神だろうと、彼は、“浪裏白跳”張順。
(わたしの、大切な弟──)
 ひとり離れて歩いていた宋江のとなりに、どこにいたのか、盧俊義がやって来た。
「逃げようとしても、それは、もう出来ぬことだ」
 自分が考えていたことを唐突に口にするのは、昔からの盧俊義のくせだ。
 燕青以外のものは大抵が戸惑うが、今の宋江には、盧俊義が言いたいことが分かった。
「あなたでなくては、だめなのだ」
 盧俊義は、はじめて、それを認めた。
 自分は万能だと思っていたし、他の誰かにできることが、自分には不可能だなどとは想像したこともなかった。
 それを認め、もうひとつ、盧俊義には受け入れねばならないことがあった。
 彼は生まれてから、生涯を自分のためだけに生きてきた。やりたい事しかしなかったし、やりたい事は、なんでも思った通りにやってきた。
 やりたくない事は一切やらなかった。自分がやりたくない事は、価値がない事だと疑ってもいなかった。
 今、盧俊義は、たとえやりたくなくても、できるかどうか分からなくても、やらねばならぬ事があると認めざるをえなかった。
“助けておくれ”
 それが、あの少年への答であることに、盧俊義は気づいてしまったのだ。
「宋江殿。私は、あなたを助けよう」
 宋江には、救いはない。
 群星を導き──救おうとする宋江だけは、誰も救うことができない。
 それでも、みなの先を、誰よりも先を進まなければならない。それが──“天魁星”、星々を導く星の宿命なのだ。

 郁保四に先導され、葬送の列が湖畔を行く。
 位牌に続いて先頭を歩く宋江のとなりには、盧俊義がいた。
 少し遅れて、呉用が行く。
 結局、呉用は、北関門での戦いを、少し離れた高見から、ただ見ていることしかできなかった。
 葬列は進んでいく。旗が流れ、紙銭が舞う。
 その日、杭州の人々は、久しぶりに人の泣き声を聞いたのだった。

 何者の耳も、笑い声だけ聞いて、泣き声は聞かぬ、というわけにはいかない。
 安道全は、怪我人の治療を投げ出して、湖畔に降り、肩を落とした。
 瀕死の怪我人、断末魔の呻き声、「助けてくれ」と泣く顔が、かつてなく胸にこたえる。
 それは、歳のせいかもしれないし、なにかもっと、深い絶望かもしれなかった。
「先生、治療は?」
 阿虎が安道全を呼びにきた。
「宋江さまも、みなを心配して見に来ているよ」
 その言葉にも、安道全は反応しなかった。
 張横は正気を失って眠ったままだ。林冲も昏睡している。その他、この治療棟だけでも何千という負傷者がおり、瀕死の者も何百といる。
 死んだ者は荷車に山積みにして郊外へ運ばれ、埋められ、あるいは焼かれていく。
 兵士もいたし、火事で焼け死んだ住民もたくさんいた。女や子供も、兵士と同じくらい死んでいた。火傷を負った母親は、死んだ赤子を離さなかった。
(医者の一人や二人では、無理なのだ)
 救うのは、神でも無理だ。そして、今、たとえ一人を救っても、戦が続けば、また人が死ぬ。
(この国自体が、病んでいる。病巣を取り除かなければ、病は治らぬ)
 ふと浮かんだその考えに、安道全の枯れはてた胸が騒いだ。
(わしには、できる)
 彼ならば、匙一杯の毒薬で、一本の鍼で、政を放棄し、奸臣に権力を与え、この国を腐敗させている、一人の男の命を、取り除くことができるのだ。
 安道全は、蝉の声にじっと耳を傾けた。
 それは、彼の魂の声でもあった。

「わしは、行くぞ」
「そうだよ、はやく治療を……」
「東京へ行く」
 阿虎はぽかんとして、もう一度、なんだって?と尋ねかえした。
「だって……だって、梁山泊の人たちは?」
「行かねばならぬ」
 安道全は老人とは思えぬ勢いで、腰掛けていた石から立った。
 振り向くと、葬儀から帰ったばかりの宋江が立っていた。その顔を見て、安道全は我が心の疚しさにうろたえた。
 そして、波立った彼の心を、掌でいたわるように鎮めたのも、宋江だった。
「お行きなさい、安先生」
 静かな声が、安道全には託宣のように聞こえた。
「あなたは“神医”だ。“病”を、治してあげなさい──」

 その日のうちに、“神医”安道全は梁山泊軍を離れた。
 薬嚢を背負った阿虎ひとりを連れ、東京へと去っていく安道全を、宋江は西湖にかかる橋のたもとで、その痩せた背が見えなくなるまで見送った。
「それでも、我々は、進まねば」
 宋江の声を聞いたのは、天と水と、西湖に遊ぶ魚だけだ。
 それでも、進み続けること。
 それだけが、希望。
 空に輝く、たったひとつの、小さな星だ。
 見失うことはあっても、永遠に消えることはない。

 宿舎で、関勝は久しぶりに愛読の『春秋』を手にとった。
 何気なく開くと、その間から一枚の落ち葉が床にこぼれた。
 茶色の葉脈の浮いた表面に、まだ、わずかに赤い色が残っている。
 穏やかな笑顔が、関勝の脳裏に浮かんだ。
 これは、いつかの秋、赫思文が美しい落葉を見つけたと、関勝に手渡したものだ。
 関勝は、関心を払わなかった。
 無意識に本の間にはさみ、そのままずっと、忘れていたのだ。
 ひどく元気な足音がして、扉の隙間から関鈴が顔を出した。
「お呼びですか?」
 関鈴は遠慮なく、直立不動でおどけてみせた。
「ご注文は、酒でありますか、肉でありますか」
「一緒に来なさい」
「どこに行くんです? そうだ、ねぇ、僕が泣いたことは、小魚兄さんには言わないでくださいね。だって、きまりがわるいでしょう」
 関勝は、おしゃべりな関鈴を厩に連れて行き、一頭の白馬を見せた。悲しげな目をして、うなだれている。
「この馬を、お前に与えよう」

 関鈴は馬の顔を下から覗き、不満そうに口をとがらせた。
「元気がないなぁ」
「これは、赫思文の“茉莉花”だ」
 赫思文が愛した白馬“茉莉花”は、主人の死を知っているようだった。あれ以来、餌を食べなくなっていた。
 関鈴が鼻を撫でてやると、“茉莉花”はうるんだ瞳で関鈴をみつめ、ゆっくりと尾を振った。関鈴は神妙な顔になった。
「両親は、僕を赫思文おじさんの養子にするつもりだったんです」
 関鈴は、茉莉花の暖かな鼻に頬を寄せた。
「僕、これからどうしようかなぁ。母上には、お前はもうあげた子だから、帰って来るなと言われたんです。どこまでも赫おじさんについていけって。そりゃ、家に戻ったって、追い出されやしないだろうけど……」
 強がっているが、心細いのが関勝には分かる。
 母親は、そうまで言わなければ、赫思文がこの子を受け入れないと分かっていたのだ。少年は、母の覚悟を感じている。そして、それほど自分を理解していた妻よりも、赫思文は、関勝を選んでくれたのだ。
「赫おじさんに、会ってみたかったなぁ。会って、なにを話すかまでは、考えてなかったけど」
「赫思文は、喜んだだろう」
「そうだといいな」
 関鈴ははにかんで、“茉莉花”に新鮮な草を食べさせると言って、手綱をほどいた。もうすっかり自分の馬のように轡を取り、厩を出て行く。
 関勝も、少年のあとについて行った。
 夏草の繁る荒れ地からは、西湖が見える。
「張順は、本当に神になったのだろうか」
 関鈴は、馬が好きそうな草を探している。
「母上が言うには、偉大な人が、志半ばで無残に死んだ時だけ、神様になれるんですって。関王様だって、あんなに強かったのに、戦にまけて首を斬られるなんて、どんなに悔しかったろう。だから、神様になってほしいなぁと皆が思って、神様にしたんじゃないかな」
「お前は心の優しい子だ」
 関勝は風を感じて、背後へと振り返り、西湖の穏やかな風景に、梁山泊を見た。
 梁山泊が懐かしい。
 あの頃、関勝は、本当の意味では梁山泊に“いなかった”。ともに戦いはしたが、真実の意味では、梁山泊の兄弟ではなかったかもしれない。
 今、梁山泊が、狂おしいまでに懐かしい。
 あの場所へ、あの時へ、戻れるものなら、命に替えても戻りたい。
(われら三人、同年同月同日に生まるることあたわずとも、同年同月同日に死なん)
 それは、三人がともに生き続けるための約束だったと、赫思文がそう言っていたと、宣贊があの不器用な口調で、ぽつりと言ったことがある。
(そうだ、我々は、生き続ける)
 三人が再び出会う、“その日”まで。
 関勝は瞑目し、心の奥に、宣贊の、赫思文の名を呼んだ。
 百八人の兄弟たちの顔を、ひとつひとつ思い浮かべた。
(わしは、まだ“梁山泊”にいる)

 梁山泊のために、戦っている。
 ゆっくりと息を吐き、そして、再び目を開けた時、その男“大刀”関勝は、真に武神となったのである。
 馬は優しく睫毛を伏せて、関鈴に鼻を預けている。
「赫思文は我が兄弟。お前は、わしの息子になればよい」
「すごいや、僕には、お父さんが三人いるんだな」
「四人だ」
 関勝は、宣贊の名を教えた。
「豪華すぎるや!」
 関鈴は茉莉花の首に抱きつくと、声をあげて、のびのびと笑った。

 炎天下の道を、柩が運ばれていた。
 渇ききった土に、陽炎が立つ。
 荷車に乗せられた柩には、喪服の母子が付き添っていた。
“金鎗手”徐寧の妻である李氏と、一人息子の晟児だった。
 潤州を落とした梁山泊軍が丹徒県に駐屯していた時、その陣営から三通の手紙が出された。
 徐寧と、張清、董平が出した手紙だ。徐寧はしばしば手紙を書いて、何通かは東京の家族の元に届いた。しかし、最後の一通となった丹徒県からの手紙は、どこで間違いが起こったものか、母子のもとには届かなかった。
 李氏は、夫が秀州で死んだという報せだけを受け取った。そして、息子の晟とともに、戦乱の中を夫の柩を迎えに赴いたのである。
 李氏は自分で柩の中の夫を確かめ、息子には、絶対に亡骸を見せようとしなかった。
 柩には、徐寧が教えた金鎗班の人々が付き添い、晟児とともに荷車を押してくれた。
 東京の、あの懐かしい家へ帰るのだ。
 やつれた母の横顔を見て、晟児は、これからは、自分が母を守っていかなければならないと殊勝に思った。
「賽唐猊は、僕が受け継ぎます」
 蝉のうるさい木陰で休息した時、晟児は母を励ますつもりでそう言った。武学の友人たちも、次々に出征している。晟児も初陣を迎えていい年齢になっていた。
 しかし、李氏は怯えたような鋭い目を息子へ向けた。
「いいえ、あの甲冑は、お父様と一緒に葬ります」
「でも、徐家の家宝でしょう。僕が受け継ぎ、方臘を討って父上の仇を……」
「いけません!」
 梢の蝉が鳴き止んだ。
 いつもは穏やかな母の、悲鳴のような叫びだった。

 董平の妻であった程麗芝は、七月のある朝、前後して二通の手紙を受け取った。
 身を寄せた母親の実家は、叔父の代になっていたが、ほどほどに裕福で、家族は善良な人々だった。
 小さな離れで、麗芝は落ち着いた暮らしを送っていた。
 涼しい窓辺に、二通の手紙が置かれてあった。
 一通は、董平が丹徒県から出した手紙だった。簡単に近況を綴り、二人の未来については、ささやかな希望をいくつか控えめに記していた。封筒は汚れて破れていたし、急いで書いたのか文字も乱れて、まるで董平らしくない手紙だった。
 麗芝が珍しく董平の手紙を読んでいるので、小間使いの朱児は興味をひかれた。
「旦那様は、なんと?」
 答えずに、麗芝はもう一通の手紙を開いた。
 裴宣の筆による、董平戦死の報告だった。

 その朝、朱児は、女主人が珍しく月琴を抱いているのを見た。
 董平が別れに際して贈ったものだが、一度も手にしたことはなかった。
 麗芝は細い指先で、月琴をつまびいた。その唇から、声が漏れた。朱児は、歌を口ずさむのだろうと思った。しかし、聞いたのは、嗚咽であった。
 東昌府の、あの早春の朝の惨劇以来、朱児ははじめて、女主人が涙を流すのを見た。
「お嬢様……」

 塞き止められていたものが溢れるように、涙は、止めどなく流れ続けた。
 その日より、ほどなく。程麗芝は出家して尼となった。

 瓊英は、眠っていた。
 風の音に目を醒まし、瓊英は安氏に聞いた。
「旦那様は? お帰りになったのでしょう? どこにいるの?」
「いいえ、奥様……」
 葉清の妻は、いたましげに言葉を濁した。
 寝台の横には窓があり、その桟には血のついた玉の鴛鴦の飾りが置いてあった。
 張清が独松関という難所で死んだという報告は、玉の鴛鴦飾りとともに昨日、届いた。
 瓊英は、取り乱さなかった。
 まるで何も聞いていないかのように、張清の死に関しては、一言も話さなかった。
 安氏の懐で、赤ん坊がぐずっていた。
 耳の大きな、美しい顔だちの赤ん坊だった。瓊英と張清の、よいところを集めたような、子供だった。
 ぐずっても、瓊英は子供を抱こうとしなかった。
 ぼんやりとした目をして、精気にあふれた“瓊矢鏃”の面影は微塵もなかった。
 安氏が慰めるように話題をかえた。
「坊やに乳名をつけましょう」
「いいえ。だって、名前は、もう決まっているもの」
 かたくなに言う瓊英の横顔は美しいが冷やかで、心を閉ざしていた母親の白玉夫人にそっくりだった。

 その手紙は、瓊英の心痛を案じた葉清が、寺に願掛けに行こうと門口に立った時に届いた。
 旅塵にまみれた飛脚は、葉清が張清のもとへやった遣いだった。戦乱で江南と山西との街道が通れなくなっていたため、先に湖南の董平の妻のもとへ回り、やっと帰ってきたのである。
「奥様、旦那様の手紙が……!」
 葉清が手紙を届けると、瓊英は喜びよりも、ぎょっとした顔をして、ためらってから震える指で封を切った。
 瓊英は、どこかで、戦死の報など信じていなかった。
 しかし、張清本人ではなく、この手紙が届いたことで、なにか、張清の死が疑いようのないものになるような気がしたのだ。
 瓊英は、恐れるように手紙を開いた。丁寧で優しい張清の文字だった。
“もうすぐ帰る”
 その文字が、まっすぐに瓊英の目に飛び込んできた。
“もうすぐ帰る。子供の誕生に間に合うように……”
 瓊英は貪るように手紙を読んだ。そして、泣きながら叫んだ。
「ほら、名前はもう、決まっていたのよ」
 瓊英の異様な声に、葉清が驚いて駆けつけてきた。瓊英が発狂したと思ったのだ。
「節、節──おいで!」
 瓊英は燃えるように目を輝かせ、子供を呼んだ。
 わけがわからないまま、安氏が子供を瓊英のもとへ連れてきた。
 風が吹いて、窓辺のさるすべりの花が雨のように散った。
「帰ってきたの。お前のお父様は、お前が生まれるのに間に合うように、急いで帰ってきてくれたのよ。ちゃんと、私たちの家が分かったの……」
 瓊英は、子供と手紙をともに胸に抱きしめた。

「だから……これからも、ずっと一緒よ」

 林冲は病んでいた。
 安道全が去った後は、朱貴がつききりで看病した。
 安道全は、腕や指、舌の痺れ、視界の歪みなどの症状が、前からあったはずだと言った。
 脳の病で──治らない。
「すまん、林冲。気づかなかった」

 林冲は静かに眠る。
 朱貴は枕元にうなだれて、安道全の言葉を反芻していた。
 その中に、希望を見いだそうとした。
“症状は、これから、徐々にひどくなる。次に発作があれば、麻痺が全身に及び……やがて、人形のように、立つことも、ものを持つことも、話すこともできなくなろう”

 黄信は、回廊の壁に向かって立っていた。
 騎兵の宿舎は火事を免れた廟だが、どことなく焦げ臭い匂いがする。方臘軍が明教を持ち込んでからは、参る者もいなかったのだろう。なんとなくうら寂しい場所だった。漆喰を塗った壁ははげかけて、たくさんの落書きがあった。人々が願いや、恨み言などを書きつけているのだ。消えかけたふるいものから、まだ新しいものまであった。
 黄信は何気なく、その中の一文字に目を止めた。人々の願いに埋もれるように、“殺”と一文字、鋭利な刃物で刻んであった。誰かが、誰かを呪ったものか。黄信はいやな気持ちがした。
 もともと気味のいい文字ではないが、ことさらに気になるのは、黄信の星である地『刹』星が、すなわち“殺”であるからだ。もしくは、不吉な疫病神のことである。
「あてにならんな」
 自分は人殺しも好きではない。人に迷惑をかけるような事もない。
 不服そうな独り言を、通り掛かった花栄が聞きつけた。
「なにがあてにならんのだ」
 黄信は、自分の星のことを話した。
「『刹』には、“片をつける”という意味もあったはずだ。幕を引き、始末をつけるんだ」
「そうなのか」
「“鎮三山”黄信。あんたは、最後まで生き延びるのかもしれないな。その時は、始末を頼む」
 花栄は笑って、黄信の元を離れた。
 なんの──と、黄信は聞きたかったが、尋ねる前に、花栄は行ってしまった。

 それから、花栄は呉用のところへ行った。用があったわけではないが、一人ではいたくなかったし、呉用もそうだろうと思った。
「先生は、『六韜』は読んだだろうな」
「ええ」
「人の主たるには、“ただ民を愛するのみ”だ。それ以外は、なにもない。なぜ、宋江が我々の“主”なのか、答えは、それだけだ。宋江だけが、ほんとうに、我々を愛してくれている。なんの期待もせず、見返りも求めずに。そんな人間は、宋江のほかには、いないんだ。張順には、それが分かっていた」
「それは、古い書物の中の話です」
「分からないか。じゃあ、ひとつ、分かりやすい“たとえ”を言おう。呉先生、あんたが死んで、心から泣いてくれるのは、宋江だけだよ」
 だから──と花栄は、いたわるように言葉を続けた。
「誰かに泣いてほしければ、宋江より、後に死なない方がいい」
 霊魂とか、奇跡とか、花栄は信じてはいない。
 しかし、触れることのできない星の光が、確かに輝いているように、それだけは疑いようのないことだ。
 その光を見失わないことだけが、希望だと、花栄は思った。
 明るい昼も──嵐の中でも。

 郁保四は魚を釣っていた。
 雨上がりの西湖のほとりに腰を下ろして、郁保四は釣り糸を垂れている。時々、餌を変え、釣り針を投げる位置を変える。
 郁保四は、魚が欲しいと言った宋江の願いを叶えようと懸命なのだ。
 釣り糸を上げると、勢いよく小魚が跳ねた。それを大きな掌にそっと包み、郁保四は木陰の宋江のところへ走った。
 郁保四の手は、大きくて、肉厚だ。がっしりとした二つの掌の間で、黄色がかった魚が必死で跳ねている。
 宋江は、嬉しそうな、誇らしげな郁保四の顔を見上げ、また小魚に目を落とした。
「逃がしてあげましょう」
「……む」
 宋江にそう言われ、郁保四は哀しそうに背中を丸め、小魚を水に落とした。
 宋江は青々とした山の風景を眺めている。どこかで鳥の声がした。戦がなければ、世界はこんなに美しいのだ。
「もう一度……」
 宋江は呟いた。
 郁保四は釣り竿を手に、次の“命令”かと耳をそばだてた。
「もう一度だけ、皆に会いたい」
 郁保四は、困ったようにあたりを見回し、釣りをやめ、宋江のそばに戻った。
 郁保四は、命じられたことしかできない男だ。宋江が魚が欲しいと言えば、魚を釣る。宋江が満足する魚が釣れるまで、何日でも釣り糸を垂れるだろう。
 しかし、愚鈍な郁保四にも分かるのだ。
 もう、“彼ら”に会うことはできない。たった一度と願っても、もうこの世にいない者たちに、会えることは二度とない。
“険道神”郁保四。険道神とは葬列の先頭に立ち、弔いの先導をする神である。
 しかし、今は歩みを止めた。これ以上、宋江が悲しまないよう、葬式が出ないよう、郁保四は、石像のように立っている。
 身じろぎもしない郁保四に、宋江が尋ねた。
「二本の旗を掲げることはできますか」
 郁保四は駆け去ると、すぐに宋江の帥字旗と、替天行道の旗を両手に掲げて戻ってきた。宋江は、誉めた。
「すごい力だ」

 郁保四は、額に大粒の汗をかいていた。
 宋江は、晁蓋が遺した替天行道の文字を見上げた。

 天にも、地にも、道はない。
 答えをくれる者も、どこにもいない。
「それでも……進まなければ」
 どこかへ、辿りつかなければ。
 どこに辿り着こうとも、受け止めなければ。
(願いはいつも、ひとつはかなう)
 だから、宋江は願うのだ。
 もう一度、皆に会いたい。
「安心してください──張順さん」
 雨があがり、嵐のあとの空は青かった。
 こんなに明るく、狂おしいまでの青い空は、きっとまだ、誰も見たことがないだろう。



※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「登飛」は、正しくは登飛です。
※文中の「金燦斧」は、正しくは金燦斧です。
※文中の「地刹星」は、正しくは地刹星です。




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