水滸伝絵巻-graphies-

第百二十五回
黄金の花咲く森で・中編


 二人は、抵抗しなかった。
 多勢に無勢だ。彼らに弁明の余地も与えず、兵士たちは二人を馬車に押し込んだ。縄こそかけられなかったが、窓のない護送用の馬車である。
 燕青が帯びていた剣は取り上げられた。
 壁ごしに聞こえる兵士の言葉から察すると、睦州に向かっているようだ。睦州が間諜を警戒しているという話は難民たちもしていたが、すぐに目をつけられるとは、なにか彼らに関する情報が流れているのか。
(目立ちすぎたか?)
 兵士たちの耳を警戒し、柴進と燕青は沈黙したまま、目だけで語った。
『大胆にいこう』
 以心伝心──燕青にも、異存はない。
 どうせ、いずれは敵と“接触”するのだ。
 柴進の扇までは取り上げられなかったので、息苦しい馬車の中にも風がある。
 実際、この一本の扇が、“小旋風”柴進の武器なのだ。
(大いに、“風”を起こしてもらおう)
 柴進のこういう所を、燕青は無条件に信頼している。何事をなすにも人より巧みな“天巧星”の燕青には、珍しいことだった。

 やがて、馬車の轍が平地を踏んだ。どこかの建物の門前らしい。ひそひそと話す声がして、門が開く音がした。役人口調の数人の気配がやって来て、柴進たちを“護送”してきた関所の守将を叱りつけている。
「貴人をお招きせよと命じたのに、手荒なことを!」
「しかし、彼らは明教徒ではなく……」
「いい訳すな。もうよい、戻って関所をしっかり守っておれ」
 守将が恐縮して去る足音、それが消えるのを待たず、馬車の扉が開かれた。暗闇に閉じ込められていた二人の目を、金色の光が刺す。
 もう夜だ。光源は、馬車を取り囲む提灯の光だった。昼のように明るかった。その光を背景に、恰幅のよい人影が立っていた。

「貴人よ、どうぞ外へ。あばらやへお運びいただき、恐悦至極にございます」
 目が慣れると、初老の役人が慇懃に腰を折っているのが見えた。明教徒らしいが、散髪ではなく髷を結っていた。衣冠は全体的に白っぽかったが、形自体は宋国の定めに則っている。
 まず、燕青が下りた。あたりには、五、六人の役人が、やはり丁重な態度で控えている。燕青は、従者らしく柴進に肩を差し出した。その肩に手を置いて、踏み台に足をおろし、柴進は悠然と提灯の光の中へ降り立った。
 鷹揚だが、尊大ではなく、気品に満ちた完璧な所作だった。後周世宗の裔である柴進にとって、生まれながら身についている風格である。やや顔をもたげて、取り巻く一同を見渡すと、その威風に気押されたように、初老の役人が、一歩さがった。
「こちらへ──」
 腰をかがめ、役人は門へいざなった。その場所は、睦州府の門前だったのだ。

 歓待の理由が分からぬまま、二人は湯を使って旅塵を落とし、供された真新しい衣装に着替えた。
 案内されたのは、奥まった座敷の宴席だった。野菜中心の精進だったが、調理は手が込んでおり、食器や盛りつけも美しい。豆腐を使って肉料理風に作ったものや、さまざまな菓子、控えめながら酒の銚子もついていた。
「貴賤を弁えぬ下役の御無礼、どうぞご寛恕くださいますよう」
 二人を出迎えた初老の役人は、睦州を治める右丞相の祖士遠であると名乗った。ほかにも、参政の沈寿、僉書の桓逸、元帥の譚高といった人物が同席していた。
 燕青は、丞相自らのもてなしと聞いて心密かに驚いた。右というから、もうひとり左もいるのだろうが、丞相といえば、つまり宋朝における蔡京である。
 しかし、柴進は彼らの歓待も当然であるかのような顔をして、祖士遠の酌を受けている。
「今や末世、人心の乱れは是非なきこと」
 この部屋の中で誰が最も高貴かは、一目瞭然だった。
 柴進の品格は、生まれ持った血によるものだ。天子や王都尉など、天下一流の風流人と一緒にいても遜色ない。
 そして、それが理解できるほどの知性を、祖士遠も備えていた。
「貴殿は如何なる御身分の御方に候や。願わくば御尊名を聞かせ賜わらん」
 祖士遠は精一杯の敬語を動員し、柴進に敬意を表しした。対する柴進は、すでにこの“丞相”が、もとは地方の中堅役人程度であろうと見抜いている。

「私は山東の一書生、柯引と申す白衣の者。この者は、族弟にして弟子の雲璧」
 どちらも、あらかじめ決めておいた偽名である。
「我が柯家は九流三教の学問を専らにし、こと天文地理には数多の秘伝を有する家柄」
「して、辺鄙なる睦州の地に御来駕を賜った訳は」
「王気に感じて」
「王気」
 祖士遠はおうむ返しに聞いた。並んでいる役人たちも、さらに顔色を神妙にした。
 燕青は心の中でにやりと笑った。
(はじまったぞ)
 柴進は扇を手に、流れるごとく語り始めた。
「知りたくば教えよう。昨年の重陽、泰山に邪を避けた折りのこと。そぞろに南方を眺むれば、紫金の雲気が天を貫くばかりに立ち登る。尋常ならざることと、その気を訪ね、はるばる千里の山河を越えて参った」
「も少し、詳しく……」
「東方の王気は既に衰え、再び復する望みもない。この江南の地に立ちのぼる紫金の雲気、これこそ天命に感応したもの。その勢いは日ごとに強まり、ほどなく天の紫微宮にも達しよう」
「その意は」
「いわずもがな」
 柴進は小気味よい音をたてて扇を閉じた。
 紫微宮とは、すなわち天の玉座である。江南に王気が立ちのぼるとは、方臘が天子の位につくという予兆にほかならない。
 燕青は、笑いをこらえるのに必死だった。柴進が、これほど芝居上手だとは思わなかった。
 祖士遠と役人たちは、互いの顔を見合せている。紅潮した顔で頷き、やがて末席の年若い譚高が立ち上がり、柴進に向かって深々と拝礼すると、急ぎ足で部屋を出ていった。

 柴進と燕青は、その夜はそのまま睦州府に泊まり、翌朝、再び車上の人となった。見送りに出た祖士遠の言葉によれば、これから清渓県へ行くのだという。
「政務のため貴人にお供できませんこと、平に御容赦を」
 祖士遠はじめ役人たちの態度は、さらに丁重になっていた。
 その理由を、いまは燕青も理解している。
 昨夜、祖士遠が語ったところでは、過日、方臘が自分を助ける“貴星”の訪れを予言したのだという。
『彼方から、貴人の星を迎えよ。星は降り注ぐ黄金の雨となり、闇は、永遠に消え去るだろう』
 そこで、四方に触れを出し高貴そうな男を探したが、これといった者が見つからない。そんな折り、やって来たのが柴進だったというわけだ。
 燕青は感心した。
「“予言”も、案外ばかにならないな」
 清渓県は、方臘の宮廷がある幇源洞を擁する県だ。いかにして潜入するか──が懸案だったが、方臘の方から招いてくれるとは思わなかった。
(方臘の命運も尽きたらしい)
 その“貴星”が、梁山泊の“天貴星”とは、方臘も夢にも思っていないだろう。
 移動は、また馬車だった。
 前よりは快適な車だったが、窓は閉じられ、外の様子は窺えない。
 お供についた桓逸、護衛の兵たちの態度は丁重だった。柴進はもとより、燕青にも細やかに気を遣い、途上の休憩の時には果物などを勧めてくれた。
 礼儀というより、本当に親切な人々に見えた。
 しかし、燕青は警戒を怠らなかった。
(これが、連中の手さ)
 親しげな顔で近づいてきて、巧みに明教に取り込み、利用するのだ。
 宣州城の戦いで、石臼で頭を割られて死んだ鄭天寿──あの気のいい男を殺した敵が、こんな“優しい”わけがないのだ。


 やがて馬車は清渓県の役所に入った。
 馬車から出ると、睦州より涼しく、空気が澄んでいるのを感じた。四方には緑の山影が見えている。
 馬車は、素朴な門の前に止まっていた。
 ここが、すなわち方臘軍の“朝廷”のはずだった。
 もとの県衙で、当然、睦州府に比べると規模は小さく、作りも質素だ。もっとも、華美を嫌う明教では、それは問題にされないだろうし、山深い清渓県のほうが、睦州より防衛力に優れていることは確かだった。
 ここは清渓県の名のごとく、山と渓谷が複雑な地形を成し、外界から隔てられているのである。
 すでに報せが届いているらしく、門前では役人たちが一行の到着を待っていた。ここでも、役人たちは明教徒と宋国の官僚の中間のような服装だった。
「左丞相、婁敏中閣下がお待ちです」
 睦州から送ってきた桓逸とは、ここで別れた。
 祖士遠の所とは違って煩雑な挨拶や宴会はなく、柴進と燕青はすぐに役所の奥へと導かれた。
 婁敏中という男は、祖士遠より難しい人物に違いないと燕青は予想した。方臘の寵臣ならば、権勢を争いそうな“貴星”を敬遠することは考えられる。
(気を引き締めていこう)
 燕青の前を行く柴進は、相変わらず悠然と構えている。
 盗み聞きを畏れて、昨日から二人は殆ど会話らしい会話をしていない。しかし、燕青は柴進が少しも恐れていないのが分かる。方臘が待ち望む“貴星”の役を、ここでも完璧に演じきるだろう。
(俺も、完璧な従者を演じないと)
 偽姓の雲は、燕青が自分で選んだ。名の璧は、柴進が選んでくれた。
 燕青はこの上なく神妙な顔をつくって、行儀よく柴進の後についていった。

 奥まったその部屋は、薄暗く、質素というより粗末だった。
 書類を積み上げた棚が並び、机がいくつかあるだけだ。黴臭い田舎の役所──そんな雰囲気で、実際、しめっぽい部屋の中には、黴と墨の匂いが漂っていた。
 奥に置かれた机のあたりに、わずかだけ日が差し込んでいる。

 そこに、ひとりの男が背中を丸めて座り、なにか熱心に書いていた。痩せて小柄、白髪まじりで、はじめは相当な老人かと思った。しかし、顔を上げると、まだ初老程度の年頃のようだった。
 目が細く、顔色も悪く、どちらかというと貧相な人物。それが、左丞相・婁敏中だった。
「ああ……」
 張りのない声で呟いて、婁敏中は身振りで柴進に椅子を勧めた。
 灰色の粗末な衣冠を身につけ、敬虔な聖職者にも、熱血な革命家にも見えなかった。古書の間から取り出してきたような、生真面目で融通のきかない、田舎の読書人そのものだ。
 脂気のない指の下では、書きかけの紙がカサカサと乾いた音をたてていた。その上に丁寧に文鎮を置き、婁敏中は柴進の方を見た。
 目が悪いのか、しきりと目を細める癖がある。
 神経質そうな眼差しには知性があったが、それは生まれ持ったものや、教育のたまものというよりも、深い苦悩から一滴一滴しぼり出し、熟成されたような苦悩の色を帯びていた。
「君は、十三人目の“貴星”だ。今度こそ、本物だといいのだが」
 その言葉は敵意でも皮肉でもなく、ただ事実を述べた、というふうだった。
 燕青は、落ち着かないものを感じた。
 相手が“狂信者”なら、話を合わせておけば安泰だ。“革命家”なら、活動を支持してやればいい。
 この男は、どちらでもないようだ。
 しかも、腹心になればなるほど、方臘の言葉なら何でも鵜呑みにするような気がしていたが、この男はそうではない。燕青たちに道の様子を見せないよう指示したのも、この男に違いなかった。
 燕青は、柴進の出方を待った。
 柴進は、婁敏中には無関心な態度を維持している。
「私も天文を見る者ですので、自分のことは占わない。ご期待に添えれば幸甚ですが、自ら星を名乗るのは、いささか僣越に思われますな」
「同感だ」
 婁敏中は、あっさりと同意した。
 柴進に対し、特に敵愾心があるわけではなさそうだった。
(そうか。これは、関門──試験なんだな)
 方聖公の御前へ辿りつくため関門、なのだ。婁敏中は、柴進を値踏みしている。おそらく、すでに何人もの“貴人”が、この関門を突破できずに、葬られていったのだろう。
(なぜ、そうまでして探すのか)
 それは、方臘が、“貴星”の来訪を望んでいるから──にほかなるまい。
(ならば、この人はうまくやるだろう)
 燕青の信頼は揺るがなかった。事実、柴進は早くも“攻勢”に転じていた。
「丞相には、星の動きよりも、気になる動きがあるようですな」
「気になる動き?」
「たとえば、杭州陥落後の、宋国軍の動きなど」
「杭州は落ちない」
 柴進は、黙って婁敏中の色の悪い顔を見返している。やがて婁丞相が手で促した。
「続けたまえ」
「山間部にある清渓県へ入るには、南北の二つの道がある。どちらから来るか……。私は、宋国軍は二路に別れ、それぞれ南北の関を越えようとすると予想している。旅上、見聞したところでは、主力である梁山泊軍は二路に別れて進軍するのが常だ」
「関の守りはかたい。兵力を分散するだろうか」
「彼らは中原の兵。江南の地理にくらく、間道を知らない。正攻法でくるでしょう。睦州に到る郁嶺関と烏竜嶺に、こちらの兵力を分散させようと考えるのは、敵も同じだ」
 婁敏中が考え込んだところへ、柴進は畳みかけた。
「宋の気が衰えているとはいえ、こちらの国力が衰えては、宋国を滅ぼしても共倒れ。戦での消耗は避けるべきでしょう。丞相は、その後の新たな国作りのことはお考えでも、戦のことはお暗いのではありませんかな」
 柴進の言葉は無礼だったが、婁敏中は怒らなかった。いかにも、と素直に頷いた。
「山東は孔夫子の故郷。経世済民の学にも覚えがおありと見受けるが」
「いささか」
「わしは、宋賊を滅ぼした後に、周の聖天子の世を再現したいと望んでいる」
「まさに、天意」
 婁敏中は溜め息をつくと、部屋の一角に向かって声をかけた。
「お聞きになられましたな、司天太監」

 この時、はじめて燕青は部屋の隅に置かれた屏風のかげに、一人の老人が座っていたのに気がついた。長い白髪の、神秘的な老人だった。
「お探しの貴人は、この方でしょうか」
 老人は、方臘がもっとも信頼する司天太監の蒲文英だと、婁敏中が紹介した。
 その漆黒の目は、柴進の顔に据えられている。目の前の柴進を見ているのに、遥か彼方の星空を望むような眼差しだった。そして、すでに驚きと喜びに輝いていた。
「この御仁の相、まさしく、この上なく貴い方の相である。百年近く生きたわしすら、いまだかつて見たこともない。これは、あるいは……」
 老人は、恐れるようにその先の言葉を呑み込んだ。
「天に二つの北極星が現れ、猊下は貴星の訪れを予言された。伴う者は──影の兄弟。運命の扉を開く者。昨夜、天文を見たところ、星はすでに睦州の地に入っておった。迷える王、片翼の預言者は、そなたにより迷いを断ち、両翼を得るであろう」
 老占星官は祈りを捧げ、婁敏中に向き直った。
「すぐにも……と言いたいが、深夜ゆえ、早朝、発って、拝謁を」
 膝でも痛むのか、婁敏中は大儀そうに立ち上がった。
「では、そのように」
 粗末な官服の袖を合わせると、婁敏中は柴進に向かって深々と頭を垂れた。すきま風に、押さえた紙がかさかさと音をたてていた。
「ようこそ──方聖宮へ」

(拍子抜けだな!)
 燕青は、やや失望していた。
 こんな長い旅を苦労してきて、最後が、あまりにも呆気なさすぎる。期待していた“冒険”を取り上げられた気分である。
 遥か彼方、鉄壁の向こうにあると思っていた敵の本拠地、睦州清渓県幇源洞──その中枢“方聖宮”へ、まさか歓迎されて行くとは思ってもみなかった。
(いったい、どんな裏があるんだ?)
 自分たちは幸運に恵まれているとか、天が梁山泊軍に味方しているのだ──と考えるほど、燕青はおめでたい男ではない。
 しかし、その“裏”がなんなのか、燕青の頭脳をもってしても、予想もつかない。
 本当に、方臘が“貴星”を待ち望んでいるとしか、考えようがないのである。
 今度の旅は、馬車ではなかった。山が険しく、馬が途中までしか登れないのだ。柴進は担ぎ輿に揺られ、燕青は徒歩で山道をついていく。
 険しい道は、苦労して切り開いたものだろう。粗削りな鑿の跡に、苦労のほどが忍ばれた。
 道は急勾配の登り、あるいは絶壁を下る階段を繰り返し、どんどん深山へ入っていった。絶壁に掛け渡された吊り橋や、崖に穿たれた杣道もある。綱にすがらなければ歩けないような斜面もあり、その時は、柴進も輿を下りて歩いた。
 とても大軍が進軍できる道ではないし、方臘の姿を見た者が、近年は殆どいないというのも頷ける。
(方臘め、自分はこんな山の中に隠れていたのか)
 中原に乱が起これば、中華の天子たちが四川の山中へ蒙塵するのはままあることだ。しかし、初めからこんな所に身を潜めているならば、方臘という男は相当な臆病者だ。
 午前中は、まだそんなことを考える余裕があった。しかし、昼をすぎ、空に暮色が出る頃には、歩くのが精一杯だった。
 ようやく行列が動きを止めた時には、足が棒のようになっていた。
 先の道幅が急に狭くなり、両側の岩が張り出している。そこが天然の関門になっていて、兵士たちの一団が駐屯していた。見慣れた方臘軍の白い甲冑を見ると、ようやく“敵地”の実感があり、かえって燕青は地に足がついたような気になった。
 大将らしい男が、柴進の輿に歩み寄っていく。どうやら、ここが方聖宮の入り口らしい。
「方将軍、こちらが」
 柴進の輿に同乗している、婁敏中の声がした。
 方将軍というからには、方臘の一族だろうか。まだ若く、武人らしい体格だった。

「道中、お疲れでしょう。どうぞ」
 方将軍は路傍に立って、柴進の輿に拱手した。配下の兵士たちも、規律正しく、身ごなしからはよく訓練されていることが分かった。
 再び、一行が動き始めた。
 燕青は、この方将軍とやらと目が合ったら、にっこり笑ってやろうと思っていたが、無骨そうな武人は輿の中を覗くこともしなかった。
(しつけがいいな)
 通りすぎると、背後で重い音がした。振り返ると、そこには巨大な岩壁がそそり立っているだけで、いま通ってきたはずの道もなく、兵士の姿もひとり残らず消えていた。

 輿は、なお山道を進んでいった。
 険しさは減ったが、周囲は聳え立つ岩の峰である。燕青は、空気が急激に変わっていくのを感じた。ひんやりとして、清々しい気に満ちている。
「山を下りたら、千年も時がたっているんじゃないだろうな」
 そして、それは、ひとつの峰を越えた時、ふいに眼前に現れた。
「お……」
 思わず、声が漏れた。

 紺碧と赤金が混じる広大な空を背景に、切り立った山々が視界の限り続いていたのだ。
 大小の岩を重ねた峰は、光を浴びて、銀細工のように輝いている。繊細な稜線があり、雄大な岩塊があり、長い年月が風雪で彫りあげられた美術品さながらだった。
 岩肌には千年の松が梢を伸ばし、白雲が峰の間を流れる。どこかで猿の声が聞こえた。
 なにもかも忘れ、燕青は思い切り風を吸い込んだ。
 空気の味が、まるで違う。
 清澄で、深く吸い込むと頭の芯まで冴々とする。
 風までが輝いているようだ。
 仙界、天外境、桃花源──どんな言葉でも表現できない。外界の戦乱とは、まるで無縁の、仙人が住む世界だった。
 一行は、崖の上に出ていた。視界はどこまでも開けているが、宮殿などは見当たらない。
 訝しんでいると、一行は、そのまま目の前の崖の方へ進んでいった。そこに、洞窟の口が開いていた。
 洞窟は、入口こそ狭かったが、中は広い隧道になっていた。どこにも窓も松明もないのに、ほのかに明るい。よく見ると、こまかな岩の亀裂から、光が入るようになっていた。
 隧道を抜けると、再び視界が明るく開け、彼らは、すでに宮殿の中に立っていた。
 巨大な岩山の中に部屋や回廊が穿たれ、山そのものが、“方聖宮”だったのだ。

 建物は、すべて山を削り、くり抜いて作られていた。
 連なる山が、その内部に幾つもの宮殿を隠して、岩を刻んだ階段や、隧道、石橋で繋がれているのである。
 外からは、岩山にしか見えないだろう。
「猊下がお待ちだ。このまま拝謁を」
 心の準備をする間もなく、二人は婁敏中に先導されて方聖宮の奥へと進んだ。
「猊下が瞑想場の梓洞を出られるのは、きわめて稀だ」
 やっと方臘を満足させることができて、婁敏中も安心しているようだった。
 中に入ると、そこは普通の寺か道観のような感じだった。壁や天井は石だったが、木の柱も使われている。床にも、滑らかな石畳が敷きつめられていた。
 その奥、一段高くなった場所に磨崖仏を思わせる岩窟が穿たれ、玉の簾が垂れていた。玉簾に遮られ、その中は伺えない。
 天井には斜めに岩の亀裂が走り、太陽の光がふんだんに降り注いでいる。
 外の暑さも感じられず、湿気もなく、清潔で居心地のよい場所だった。
 兵士の姿はなく、司天太監の蒲文英と、何人かの重臣らしいものたち、白い衣装の美しい宮女たちが静かに並んでいるだけだ。
 どこからか、たえなる音楽がかすかに聞こえる。
(まるで、芝居の“神仙界”だな)
 燕青は、皮肉な表情を現さぬように苦心した。
 婁敏中が、降り注ぐ光の中へ進み出る。
「猊下、お望みの“貴星”が参上いたしました」
 二人の宮女が歩み寄り、両側から御簾を開いた。

 邪教・明教の教祖“方聖公”に、ついに会う時がやってきたのだ。
 しかし、音楽が消え入るように絶えても、沈黙は続いていた。玉簾の向こうには、ひとりの男が座っていた。

 背の高い、壮年の男のように見えた。十二旒の宝玉を垂らした銀の冕冠をかぶり、その顔は隠されている。冕冠は明教特有の高さのある冠で、黄金の太陽が象眼されている。白銀の龍袍には、金色の炎が縫い取られていた。
 広間は静寂に包まれている。ずいぶん長く思われる時が経過したが、誰もが慣れているようで、頭を垂れ、待ち続けていた。
 柴進も軽く頭を垂れて、待っている。
 彼は道中、婁敏中と語り、少なからぬ情報を手に入れていた。
 婁敏中は方臘を充分に尊重している。しかし、親しい間柄ではないようだった。方臘は殆どの時を瞑想して過ごし、その言葉は司天大監の蒲文英を通して伝えられるという。そのことに、婁敏中も不満は抱いていない。
(だとすれば、方臘は孤独だな)
 蒲文英は、方臘は“迷える王、片翼の預言者”だと言った。
(つけいる隙は、充分にあろう)
 高貴な人の孤立感──というものを、柴進はよく知っている。
 そして、多くの書を読み、詩を作り、書画に親しんできた。その教養が、他人の感性に共感する、という想像力を培っていた。
 商家で育った燕青は、人の意を酌むことにたけている。彼らの能力は似ているが、本人すら意識していない部分まで探り当てることにおいては、やはり柴進の方が勝っていた。
 方臘は、まだ語らない。
 御簾越しに、柴進を凝視している視線を感じた。敵意もなく、好意もなく、ただ見ている──そんな視線だ。
 空を鳥が飛びすぎたのか、広間の床に、さっと翼の影が過った。
 それを機に、柴進は、自ら口を開いた。
「方聖公よ、なにを悩まれておいでか」
“朝廷”の礼儀には反するが、方臘が、それを望んでいるように感じたのだ。
 人々が、はっと息を呑むのが分かった。
 玉旒の触れ合う音がして、囁くような声が聞こえた。
「なぜ、人は我が導きに抗うのか」
 それが、彼らが最初に聞いた方臘の言葉だった。

 不思議な声だなと、燕青は思った。
 ひどく静かで、抑揚がなく、個人的な感情というものが混じらない。それなのに、人をひきつける声だ。どこか懐かしい、いつか、どこかで聞いたことがあるように錯覚させる声だった。
「猊下には、人々が明教に従わないことをお嘆きか」
「嘆くのではない、解せぬのだ。光を讃え、身を清浄にして、なぜ闇を駆逐しようとしないのか」
「彼らは恐れているのです」
「闇を?」
「光を」
「なぜ」
「あまりにも強い光を浴びた時、人は、思わず目を閉じるもの」
 沈黙が続いた。
 方臘が沈思しているのが伝わってくる。
「我は予言す──北方の星は光を放ち、南方の星は輝く。南北の星は戦うさだめ。戦いは、最後に輝く、ひとつの星が燃え尽きるまで続くだろう」
 再び音楽が始まった。
 その場にもいる者たちは、神妙な顔で聞き入っている。
 燕青は芝居に飽きて、そっと視線をさまよわせた。
 どこからか、かすかに甘い匂いがしていた。
 燕青は、玉座の傍らに立っている護衛士に目を留めた。甲冑に身を包んでいるが、若い女だ。猊下の前で帯剣しているということは、信頼あつい近衛の将校なのだろう。

 年は燕青と同じか、少し上。なかなかの美人に見えたが、視線は鋭い。忠実な番犬の目が、柴進にぴたりと据えられていた。
(彼女も、この“芝居”には関心がないらしい)
 女将軍は、身分も高いようだった。方臘の予言を言祝ぐ音楽と聖句の唱和が終わると、みずから婁敏中へ尋ねた。
「杭州の詳報はありましたか。北軍の様子は」
「いまだ確たる報告がございません」
 その間に蒲文英が御簾のうちに入り、方臘の言葉を伝えた。
「これより猊下は梓洞に戻られ、瞑想に入られる。柯引殿は星客殿にすまいして、末永く聖業を補佐するようにとのお言葉である」
「星客殿に?」
 女将軍が怜悧な顔に難色を現した。
「聖公宮の内苑に入れるのですか」
「猊下の御意でございます」
 御意といわれて、女将軍も口をつぐんだ。
 御簾が閉じられ、玉飾の音が遠ざかっていく。
 燕青はほっとした。
 期待したほど面白い芝居ではなかったが、どうやら無事に幕をおろしたようだ。
(ここは方臘の夢──作りものの、素晴らしき“光明清浄世界”か)
 この空虚な世界の中で、柴進たちを睨んでいる女将軍の鋭い眼差しだけが、ただひとつ現実味を帯び、妙に鮮やかに燕青には感じられた。

 夜明け前に、礼拝の声で目覚める。
 冷水で身を清め、果物の朝食。昼は野菜と粥で、夜には野菜に豆腐と茸などがつく。
 昼間は仕事と、礼拝、明教の講義。
 それが、方聖宮での柴進と燕青の日課だった。
 与えられた住居は、清雅な庭に面した続きの三部屋で、無駄なものは一切なかったが、簡素というわけでもなく、静謐な寺のような雰囲気だった。
 方聖宮は、内苑と外宮に大きく分かれる。
 外宮は官吏たちが働く役所、厨房、倉庫など“世俗”の世界。内苑には方臘が住み、聖殿と精舎、高位の出家者と光明乙女たちの宿舎のみがある“聖域”である。山の高低差を利用して、外宮の雑役棟から、内苑にむけて次第に高度を増していくようになっていた。
 柴進らに与えられた星客殿は、内苑の中程にやや孤立してあった。建物の背後には、切り立った崖がどこまでも続いている。
 柴進は中書侍郎に任じられ、仕事は、おもに婁敏中の相談役だ。
 方臘は宗教的な指導者であり、思想だけでは、組織はまわらない。現実的な人事や経理、政治を行っているのは、婁敏中を頂点とする“臣下”たちだった。
 理想と現実──その隙間へ、“小旋風”柴進は、文字通り、小さな旋風のように、滑り込んだのである。
 二、三日も出仕すると、柴進はすっかり彼らの尊敬と信頼を勝ち取った。

「それで、これからどうします」
 深夜、燕青と柴進は、奥の間にある柴進の寝室で声をひそめて相談した。
 星客殿には数人の宮女が仕えており、常に身辺に控えている。茶を運んだり、果物を切ったり、かいがいしく世話してくれるが、見張りの役目を兼ねていると燕青は見抜いていた。
(あの女将軍の差し金だな)
 方臘の身辺を警護する女──“百華将軍”。宮女たちによれば、もとは民間の娘で、若くして方臘軍に加わり、杭州城攻めで功があったという。方臘の身辺警護を担い、百華兵と呼ばれる女兵だけを配下にしている。
 忠実な方臘の番犬は、まだ燕青たちを信用していないのだ。
 廊下で、人の気配がした。柴進は、燕青に笛を吹くように命じ、その音にまぎれて話をつづけた。
「私はこのまま朝廷内部の様子を探る。お前は、できる限り方聖宮の情報を集めるのだ。地形、宮殿の配置、出入りの道や軍備も知りたい」
 燕青は頷き、笛を吹きながら部屋を出た。
 居間の扉をふいに開くと、宮女がお茶をもって立っていた。
「俺の笛を聞きに来たのかい」
 宮女は茶を卓に置くと、頬を真っ赤にして逃げるように帰っていった。
 燕青は声もなく笑い、月に向かって、また何節か笛を吹いた。
 絶境の月に、笛の音が冴々と響きわたる。
(おや)
 燕青は夜空の一点に目をとめた。

 赤い光がともっている。星かと思ったが、たった今、灯った火のようだ。
(あんなところにも、建物があるんだな)

 翌日、柴進が出かけていくと、燕青も活動を開始した。
 柴進は、燕青は従僕ではなく、族弟であり、弟子と紹介している。その立場に燕青生来の如才なさも手伝って、人々は彼に対しても丁重だった。さらに、柴進が婁敏中に申し入れ、昼間は明教の学習をするよう手配した。
 内苑には、出家者たちがさらに高度な修行を行う精舎がある。初心者の燕青は、その中でも、もっとも初級の授業に編入することになった。
 同学は、ほとんどが出家したばかりの年若い光明乙女たちだった。
「せいぜい情報を集めるがいい」
 柴進は、きわめて上品な顔で命じた。
 実際、純真な少女ばかりが集められた教室で、燕青が乙女たちの親愛を集めるのに大した時間はかからなかった。
 方聖宮内で働く宮女たちは、さまざまな情報を持っている。燕青は宮殿の位置や役割、内苑に兵がいないことなどを聞き出したが、どうしても分からないことがあった。
「外に出る道?」
 宮女たちは講義の合間の休み時間に、“雲お兄さま”のまわりに集まって顔を見合せた。
「さぁ、分かりません」
 燕青たちと同じように、振り向くと道が消えていた──と宮女たちは言った。
「方将軍なら、御存知でしょう」
 詳しく聞き出そうとした時、年かさの班長宮女がやって来て、燕青に教室を変わるように伝えた。
「あなたがいると、宮女たちの学問にさわりがあります。隣の教室へ移ってください。高貴な方の個人講義なのですが、ご一緒してもよろしいそうです」
 班長宮女は、残念がる少女たちをたしなめた。
「百華のおねえさまのご命令です。さあ、席にもどって、聖句を百遍、暗唱なさい!」

 口の軽い少女たちとは引き離されたが、組替えは、燕青にとって幸運だった。
“個人授業”を受けているのが、あの方杰将軍だったのだ。
 来る時に、門を守っていた武人である。方臘にとっては“叔父の孫”にあたる人物で、一族では甥の世代になる。豪傑らしく、いかにも気さくだ。年頃が同じなので、燕青と打ち解けるのも早かった。
「同学ができて嬉しいぞ」
 方杰は親しげに燕青を迎え、講義が終わっても会話が続いた。
「俺は、どうも、学問は苦手でな……しかし、方一族としては高度な修行が求められているんだ。なんとか励んでいるが、槍や刀の方が楽だな」
「俺もそうさ」
 燕青も得意の相撲や弩の話をして、二人は大いに盛り上がった。
 方杰は方臘の一族で、旗揚げの時から行動をともにしている。聞き出したい情報はいくらでもあった。
「猊下はどんな御方だい?」
「いい大伯父だ。杭州にいた頃は、いつも小遣いをくれて、武術の学費もすべて出してくれた。豪傑肌で、頼まれれば嫌とは言わない。付き合いのいい人だったが……最近は、あまり話すこともない」
「それは寂しいな」
「いや、会っても、話が難しくてな……」
「分かるよ」
 燕青は、方杰が自分が神秘的なことを感じたり、高尚な台詞を言ったりする才覚がないことに対し、強い劣等感を持っていることを即座に見抜いた。
「俺も、うちのご主人の言うことが、十分の一も分からない」
「俺は軍務の方が性に合ってる。方一族だが、血が違うんだ」
「軍務こそ重要な仕事じゃないか」
 燕青は持ち上げた。
 方杰は金吾大将軍、つまり禁軍の総指揮官である。幇源洞全体の防衛を担っているほか、“三大王”方貌亡きあとは、外部の軍からの報告の処理や援軍要請の対応にもあたっているのだ。
「方聖宮内に兵隊はいないようだが、防備はどうなっているんだい」
 燕青はさりげなく水を向けた。

「軍事に興味が?」
「ご主人が案じていたのでね」
「方聖宮の守りは万全だ」
 方杰は受けあった。
「そもそも、方聖宮への侵入は不可能なのだ」
「ほう」
 燕青が感嘆すると、方杰は自分が誉められたように喜んだ。
「石大門を見せてやろうか」
「ぜひ、方将軍」
 二人は教室を出ると、武芸の話を続けながら内苑をあとにした。外宮を通り抜けると、あとは岩場だ。ほぼ垂直にそそりたった絶壁の間の道は、燕青にも見覚えがあった。確かに、来る時に通った道だ。
 やがて、方杰は岩壁の方へ歩いていった。行き止まりと見えたが、岩と岩が重なりあい、その隙間に道の入り口が隠されていた。
「驚いたな!」
 燕青は大げさに声をあげた。方杰は薄暗い隧道を慣れた足どりで進んでいく。巨大な岩盤の中に、道が蟻の巣のように張りめぐらされていた。道だけではなく、見張り穴や武器庫、兵の詰め所までが造られていた。
 岩を穿った階段を登り、二人は岩壁の上に出た。
「あれが“石大門”だ」
 城壁のようになっている岩塊の上に立ち、方杰は指さした。そこからは道の先が見渡せた。道の行き止まりには、巨大な岩壁がそびえている。
「あの大岩は一枚板で、仕掛けで開くようになっている。それから、これは」
 崖の上には、巨大な丸石がいくつも並べられていた。岩を球形に削り出したものだ。
「この石を、この足元の溝に落とすと、石大門の外に飛び出し、坂道を転がり落ちて敵を押しつぶす」
 石は門の両側に何十個も準備してあった。大きさは道幅と同じだという。燕青は、演技ではなく、ぞっとした。
「こんなものが転がってきたら、逃げ場がないな」
「その通り。さらに、油と火矢の準備も万端だ」
 燕青は、広々と続く天地を眺めた。この美しい、雄大な風景が、そのまま堅牢な“城砦”になっているのだ。
 燕青の驚く様子に、方杰は満足げだった。
「この場所は、古代に弾圧された民が逃げ込み、何百年もかけて、少しずつ作り上げたものだ。その遺跡を我々が見つけ、苦心してここまで整備した。ほかにも、こういった仕掛けがたくさんある」
 方杰は分厚い掌で、丸石の腹を叩いた。
「攻め込むことなど、万にひとつも不可能だ」

 その夜、燕青は柴進に見聞したことを報告した。
 宮女たちに聞かれないよう、奥の寝室の扉を締め切り、寝台の中での密談だ。宮女たちは“二人の関係”を誤解しているだろうが、怪しまれないためには仕方がない。
 柴進は、石大門のしかけを興味深そうに聞いていた。
「そんな仕掛けがあるのならば、正面から攻めるのは無謀だな」
「石門をあける方法を探りましょうか」
「あの険しい山道では、そもそも大軍が進むのは無理だ」
 柴進は軽く溜め息をつき、燕青に肩を揉むように頼んだ。
「お疲れですね、“柯中書”」
「宮仕えには向かないようだ」
 生真面目な婁敏中や官僚たちに混じって政治を語り、さらに超人的な“貴星”も演じるとなれば、さすがの柴進も骨が折れるようだった。
「どこか裏道はないか、もう少し踏み込んで調べてみます」
 燕青は丁寧に肩を揉みほぐしながら、気になっていることを尋ねた。
「どうです、猊下の“正体”はあばけましたか?」
「あれきり、まるで姿を見ない。朝廷を回しているのは、婁敏中だよ」
「あの平凡そうな男が」
「実際、実に平凡な男だ」
 婁敏中は、実際、なんの特長もない男だった。
 柴進は、潜入前に蒋敬から明教についての講義を受けている。精舎で学んだ時の話が主だったが、その際に聞いた明教の高官たちの印象と、婁敏中では大きな隔たりがあった。
 呂師嚢のような“崇高さ”は、まるで感じられない。政治には熱心だが、方貌のような軍事的な才覚もない。隔絶された山中にいるとはいえ、外界の情報には驚くほど疎かった。
 呂師嚢や方貌が信徒を使って、緻密な情報網を作り上げていたのとは対照的だ。
「方臘軍の強さは、方貌や呂師嚢といった、個人の才覚によるものだったのかもしれん」
 外の廊下に人が立った気配がして、二人は会話をうちきった。
 ここに来てから、耳も鼻も以前より鋭敏になったようだ。廊下から、星客殿に仕える若い宮女の声が聞こえた。
「柯中書様、婁宰相がお呼びです」
 燕青は忠実な従者らしく応えた。
「こんな時刻に? 中書様はお疲れだ」
「ご相談したいことがあるとのことです」
 柴進はすぐに身支度をして、宮女について出かけていった。
 ここでは、どこへ行くにも宮女がついてくる。見張りのためだけでなく、岩山を削って作った方聖宮は、細い道が複雑に入り組んでおり、その道も多くが岩の中に隠れて外からは見えない。山の風景もどこも似ている。空中橋や桟道もあり、夜などは簡単に迷ってしまうのだ。
 柴進すら、なかなか道を覚えられない。
(万が一、梁山泊軍が方聖宮の内部まで攻め込めたとしても、この橋や桟道を落としてしまえば進めなくなる。孤立し、身動きできないところを、矢や投石で襲われたら……)
 知れば知るほど、絶望的だ。
 内苑と外宮の境界あたりの岩場には、いくつかの役所が散らばってある。もう夕飯時だというのに、役所の各部屋にはまだ灯がともっていた。下役の者たちが、茶や食べ物の盆をもって行き来している。彼らは柴進の姿を見ると、立ち止まり、礼儀正しく挨拶した。にこやかで、親しげで、少しも卑しさがない。上辺だけ繕うのではなく、心から柴進に礼をつくしているのが感じ取れた。
 柴進も鷹揚に挨拶を返す。すると、一様にこの上なく名誉だという、嬉しげな顔をするのだ。
 その顔を見ると、柴進は複雑な気分になった。方聖宮は、あまりに平和で、穏やかだ。外部の方臘軍とあまりに違う。ここは明教の原初の姿で、外部へ広がっていくほどに、独自の進化をして、激烈に変化していったのか。
 方臘に関しては、もとは杭州の大富豪で、花石綱で破産し、山に入って明教信者を集め、やがて大反乱を起こした男──それくらいしか知られていない。
(方臘は、はじめから反乱者、革命家ではなかったのか)
 そんな思いに囚われた。

 渡るたびにひやひやする最後の空中橋を渡り、柴進は婁敏中の役所に着いた。
 この建物は、方聖宮ではいちばん大きな区画を占めている。これも岩山をくりぬいて作った建物で、簡素で無駄がなく、整然として清潔だった。粗末な扉の間や窓の隙間からは、役人たちがまだ残って仕事をしている様子が見える。監視する上役もいないのに、怠けている者はひとりもなかった。
 方臘の“朝廷”の役人たちは、みな温厚で、真面目で、仕事熱心だった。中でも、婁敏中は休むことがない。
 婁敏中は県衙と宮廷内に仕事場があり、月の半分ずつをそれぞれの場所で過ごしていた。その執務室の前につくと、宮女が“柯中書”の到着を告げ、帰っていった。
「遅くに、申し訳ない」
 部屋に入ると、机の向こうで婁敏中が座ったまま謝った。
「どうしても気になって……ご意見をうかがいたい」
 ここも、黴くさい紙のにおいと、墨のかおりに満ちている。小さな蝋燭の下で、婁敏中は書き物をしている最中だった。
 婁敏中は食事の時間もとらない。今も脇に置かれた皿の上に、夕食なのか夜食なのか、瓜と堅果がいくつかあったが、手をつけた様子はなかった。
 自分に余暇がないように、婁敏中は他人にも仕事以外に費やす時間はないと考えているようなふしがあった。
「新しい国の法律の草案だ……どうだろう」
 婁敏中は柴進に数枚の紙を差し出した。
「犯罪への処罰ですな。殺人、暴行には、同等の罰を。窃盗は労働で償わせる……食料の窃盗は別ですか。多寡にかかわらず?」
「それが苦慮するところだ、意見を聞きたい」
 篤実な目が、柴進の顔へ注がれた。柴進は、いくつか意見を述べた。
 柴進はすぐに気づいたことだが、方臘の朝廷内には、圧倒的に文官が不足していた。内政ができる人材がいないのだ。投降した宋朝の文官などは、優先的に制圧した州県に配置しなければならない。
 婁敏中が柴進をかっているのは、つまりはその教養、見識で、彼を補佐することだった。柴進以外に、税制や法律について対等に話ができる相手がいないのだ。
「国とは、法だ。法がいちばん大切だ。国と民の関係は、法と税との交換だから、その均衡が保たれていれば、国が乱れることはない」
「ご高見です」
 婁敏中は、方臘が予言した“光明清浄世界”を作ろうと苦労している。理想の王国を作るには、あまりにも地味な作業に思えた。紙の上を筆が走る音がしばらく響き、やがて止まった。
 疲れたように、婁敏中は眉間を揉んだ。
「すこし休まれては?」
 婁敏中は筆を置き、冷めきった茶を飲んだ。
 窓の外に吊るされた灯籠に、虫をねらった蝙蝠が二三羽、いそがしく戯れていた。
「私は貧しい塾の教師でね……四十まで清廉潔白に生きてきた。子供もなく、妻とふたりで、貧しいながら、正しく毎日を生きていたのだ」
 珍しく、婁敏中が仕事以外のことを口にした。
「あの年」
 いいかけて、婁敏中はためらった。しかし、その訥々とした口ぶりからは、不幸を自慢したり、誇るのではなく、ただ話したいのだという、痛切な気持ちが伝わってきた。

「あの年、飢饉になって、私は初めて罪を犯した。役人が堤防の修繕をしなかったので、大水になり、すべての田畑が流されて、何百里もの範囲で米が一粒もとれなかったのだ。わずかな食料を喰い尽くし、木の皮まで喰い尽くした。妻の体は飢餓のために革袋のように浮腫んで、嘔吐と下痢を繰り返し、起き上がることもできなくなった。私は、隣村の地主の蔵の打ち壊しがあると聞いて……出かけていった。山ほど米があるというのだ。自分に盗みができるかどうか、不安だった。しかし、こぼれた米を見た時、私は夢中でかき集め、夜通し走って家に戻った。妻は、死んでいた」
 婁敏中は目を閉じた。
 柴進は、もう六十には届くだろうと思っていた婁敏中が、見かけよりもずっと若いらしいことに気がついていた。
 再び話しはじめるまで、長い時間がかかった。
「私は妻を葬り、盗んだ米を喰って、訴状をもって東京へ行った。天子に訴えるつもりだった。そして、這うようにして辿り着いた東京で、私は、食べ物が山のように捨てられているのを見た」
 その顔に涙はなく、乾き果てた笑みがあった。
「だから、飢えて食べ物を盗むのは、罪ではないと思うのだ」
「仰るとおりです」
 婁敏中は、何か重荷を下ろしたように、また書類に顔を落とした。
「正しい国を作りたい。欲望を排除し、みな同じ服を着て、同じものを食べ、同じこと考える。平等で、争いがなく、とても、平和だ」
 その猫背はますます丸くなり、目は紙に触れそうなほど近い。こまかく震える指先で、婁敏中は草案に筆を入れ続ける。
「明教だけでは弱い。大義名分がほしい……天命が宋国より去り、我等にあると、人々に知らしめるような……」
 柴進は、同情と賞賛を同時に感じた。
 この男は、村塾の教師が器だった。清廉に、ささやかに生きるべきだった。それが、なんの運命のいたずらか、“一国”を担うことになってしまった。
(この国のあやうさは──そういうことか)
 方臘の夢、婁敏中の夢──“理想の国”を作るというのは、夢よりも、遥か遠くの、幻のような話に思えた。

 柴進が、婁敏中の“夢”につきあっている間も、燕青は積極的に活動した。
 誰とでも友達になり、訪ねて行って、あれこれとおしゃべりをする。みな、洒脱な燕青を好いてくれた。役人も、宮女たちも、雑役の者も親切だった。
(そもそも、彼らは“善人”なんだ)
 明教の教えを信じて、出家までするくらいだから、素直で純真な若者ばかりだ。
 だからこそ、燕青は早くここから抜け出したかった。
 仙境のような風景も、毎日みていれば、慣れてしまう。いくら新鮮でも、野菜と果物、豆腐の食事では物足りない。善人しかいない世界は、居心地が悪かった。
 繁華街の雑踏、酒や肉があふれた宴会、猥雑な芝居や祭──燕青は、まだそういった刺激が恋しい年頃だった。
 なにより、この親切な人々が、最強の敵だということに、混乱するのだ。
 鄭天寿や、曹正や王定六たちを、野良犬のように殺した方臘軍の仲間だということが、信じられなくなるのが恐ろしかった。
 一日も早く、この“魔境”から出るために、燕青は情報収集に励むのである。
「怪しいのは、あの峰です」
 その夜は、涼しい風が吹いていた。
 軒端に立って、燕青は夜空の一角を指さした。
 宮女の監視も前ほど厳しくなくなっていた。燕青が見ているのは、内苑の一番はずれにある峰である。
「方聖宮のだいたいの配置は調べました。しかし、あの峰については、誰も口を閉ざして語らない。というより、知らないんです」
 柴進も夜空を見つめた。
 星空に溶け込んでいるが、そこに一帯で最も高い峰が聳えていることは日々に見て覚えている。その麓は孤立した台地になっていて、道はない。
「今夜は峰に灯がついているな」
「方臘が瞑想している“梓洞”かもしれません。今夜、調べてみましょう」

 その夜、夕食が終わり、方聖宮が静寂に包まれる頃、燕青はひとり星客殿を忍び出た。
 睦州で取り上げられた燕青の剣はそのまま返されることはなかったが、衛兵の反撃などは警戒していない。方聖宮には、戦いや暴力を想起させるようなものは何もないのだ。
「雲璧様、どちらへ?」
 燕青が星客殿を出ると、すぐに宮女が追いかけてきた。監視というより、燕青を慕って声をかけてきたのが、はにかんだ目つきで分かる。
 燕青は丸顔の宮女に優しく答えた。
「散歩さ。今夜はいい風が吹いている……ご主人様のお呼びがあったら教えておくれ」
 さらりと言って、燕青は歩きだした。宮女が慌ててついてくる。まだ十五、六の、可愛い顔をした娘だった。
「夜に出歩いてはなりません」
「なぜ」
「ええと……危険な場所があるからです」
「それなら一緒に行くかい?」
 宮女が戸惑っているうちに、燕青はさっさと闇にまぎれてしまった。
 めざすは、あの峰である。紅の炎がいい目印だ。
(迷える王、片翼の預言者──今夜こそ、あんたの正体を暴いてやる)
 外では人々が飢えに苦しみ、戦いで血を流しているというのに、ひとり瞑想にふけっている男に、燕青は怒りを感じる。
 星客殿の前の道から、宮女たちの宿舎がある一帯を抜けていくと、あの峰の下に出られそうだと、ちゃんと目星はつけてあった。
 あと少しで峰の下の台地にさしかかる頃、石が転がる音がして、振り向くと、あの宮女が小さな提灯を持ってついてきていた。
 燕青と目があうと、宮女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「迷子になったらいけないと思って……お邪魔でしたら、すみません」
 燕青は笑って、おぼつかない足どりの宮女に手を出して助けてやった。
「いいさ。一緒に歩こう」
 燕青は宮女の手を握る指に力をこめた。夜の中でも、娘の頬が真っ赤になったのが分かった。
「迷子になると困るだろう。きみ、名前は?」
「あの、銀泉です」
「かわいい名前だ。金泉もいるのかい」
「いいえ?」
「もっと先へ行ってみよう」
 燕青は銀泉の手を握ったまま、あの峰の方へ足をむけた。銀泉が手をひっぱった。
「いけません」
「なぜ? 暗くて、静かそうじゃないか。二人きりで、ゆっくり話せる」
 燕青はふいに立ち止まると、少女の手を引き寄せた。銀泉が驚いて逃げていけば、あの“光の峰”に近づける。
 しかし、銀泉は逃げなかった。かわりに、燕青の背後から冷やかな声が割り込んだ。
「私でよければ、案内しましょう」

 燕青の背後、峰に近い方の岩に、あの女将軍──百華が立っていった。その手には、剣を握っている。内苑で剣を持っているのは、彼女だけだ。
「おもどり、銀泉」
 百華は厳しい口調で銀泉をおいやると、燕青を正面から睨み据えた。
「宮女たちは、みな清浄なる光明乙女。神聖な十二歳で出家し、一切純善人となった者。そして、訓練を積んだ百華兵です。侮らないよう、忠告しますわ。外の御方」
 燕青は心の中で安堵した。あの“光の峰”を探ろうとした彼の行動を疑っているのではなく、うぶな娘に悪戯をしかけた邪な男──に怒っているのだ。
「星客殿に帰りなさい」
 睨んでくる、挑戦的な目が美しかった。この仙境で、やっと生きた人間に会った気分だ。燕青は軽く笑った。
「どうやって? もう道が分からない」
「ついて来なさい!」
 百華は煩わしそうに眉をひそめると、燕青を追い越し、山道を飛ぶような速さで歩きはじめた。
「鉄の華だな」
 その姿は、まるで似ていなかったが、もう一人の、年上の美しい“鉄の女”を思い出させた。
(李師師は、まだあの風流天子の相手をしているんだろうな)

 一度だけ唇を重ねた時の紅の甘さが、ふいに舌先に蘇った。こんな危うい岩場の上で、その香りは腹立たしいくらい艶やかで、鮮明だ。
 燕青は足を速めると、女将軍のすぐ傍らまで追いついた。
「あなたも明教の尼さんなんだ。そんなに美しいのに」
「魂の清浄のことなら、光栄です」
「清浄な乙女といったって、百華兵も兵士だろう。戦って、人を殺して……」
「私たちが殺すのは、汚れた男」
 百華将軍がようやく燕青へ顔を向けた。冷たい、軽蔑するような眼差しだった。
「覚えておいて。私はただの樵の娘。杭州へ薪を売りに行き、そのまま朱面の部下に捕まった。ほかの娘たちと一緒に、“生きた花石綱”として東京の宮廷に送るため。それを救ってくれたのが猊下です。以来、私は同じ境遇の娘たちを救い出している。明教では男も女も平等、誰も私たちを支配することはできない」
 一息に言って、百華は肩で息をついた。星明りに照らされた顔が、傷ついた少女のようだった。
「散歩がしたければ、次は私に言いなさい」
 言えるものなら──という強気な一瞥を残し、百華将軍は去っていった。
 燕青は笑った。
 なんとなく眠れる気がせず、柴進と何か愉快な話がしたくなり、そっと奥の部屋を覗いた。
 小さな灯がついていた。
 しかし、柴進はいなかった。
 布団の中に着物をつめこんで寝ているように偽装して、寝台は、もぬけのからだった。

 気持ちのよい夜だった。
 寝室の窓は、裏の崖に面している。そこから忍び出て、ごつごつした岩が続く崖の上を歩いていた。
 風があり、爽やかだった。昼間の疲れが、肌をなでる風に洗い流されていくようだ。
 柴進は、解放された気分だった。
 なにから──といえば、非現実的な現実から、である。
 星明りが特別に明るい夜で、足元は確かだった。澄んだ空には、星がきらきらと輝き、甘いかおりが漂っている。
 それは、ここに来てから、いつも、どこかに感じていた花の香りだ。今夜は風向きのせいなのか、いつもより強く感じる。
(どこかに、花園でもあるのか)
 柴進は何気なく香をたどっていった。方角を見失うことはなかった。青白い星々の間に、あの峰にともる光が金色に輝いているからだ。
 左手を谷にして崖の上を歩いていくと、やがて右手に切り立った崖が現れた。あの峰は、ここからは崖に遮られて見えない。この崖が、“光の峰”の麓にある台地に違いなかった。
(登れるか?)
 崖の上はわずかな空間しかないが、岩壁にはりつくように古い見張り小屋の残骸があった。岩を積み上げた壁が崩れて、ちょうど階段のようになっている。苦労して屋根まで登ると、岩の隙間に木の根が長く垂れていた。
 それを掴んで、足場を探しながら登っていくと、それほどの苦労もなく崖の上に出ることができた。崖の上は森になっていて、奥の方にかすかな光が見えていた。
 花の香は、その方から強烈に漂ってくる。
 柴進は、少し迷った。
 あの光は、人工の灯である。
(見つかったら、星に導かれた──とでも言えばいい)
 甘い香りに誘われるように、柴進は暗い森へ踏み込んだ。

 そこは、不思議な世界だった。
 空気までが、甘い蜜色に染まっていた。木々の間に、ちいさな吊り灯籠が提げられて、金色の光を放っているのだ。
 見上げると、満点の星だった。

 星でないことは、すぐに気づいた。
 花園ではなく、ここは金木犀の森だったのだ。まだ季節ではないはずなのに、山中では秋が早いのか、どこまでも続く森が、星と見紛う金色の花を満開につけている。
 どこかで、かすかな歌声が聞こえたようだった。
 明教の礼拝の歌とは、異なる調べだ。歌声はすぐに途切れ、梢を風が過ぎていった。
 枝が触れ合い、さわさわと鳴り、金色の花が散る。
 星が触れ合うような音が聞こえた。
 柴進が止まると止まり、歩くと、聞こえる。振り返っても、誰もいなかった。
 ふいに立ち止まり、背後の木の後ろを覗いた。
 やはり、誰もいなかった。
 ひそやかな笑い声が、反対の木陰から聞こえた。
「かくれんぼうか」
 柴進は追うのをやめ、帯にさしていた扇子を抜いた。
 こんな場所では、気儘に木々の間を逍遥しがら、白楽天でも吟じるのがふさわしい。
   江南憶 最憶是杭州 山寺月中尋桂木
 まるで、今夜の風景を見ていたかのような詩だ。
 柴進はそぞろ歩き、疲れると木にもたれ、花を見上げた。
「呉酒一杯春竹葉──」
 吟じながら、すばやく背後へ腕を伸ばした。
“呉娃雙舞醉芙蓉”
 その句とともに、掴んだ──と思った瞬間、それは指の間を擦り抜けて、向こうの木陰へ逃げていった。黒々とした幹の間に、白い薄絹の残像だけが残っていた。
(鳥?)
 くすくすと笑い声が聞こえた。小鳥が楽しげに囀るような声だった。
 柴進は、待った。
 やがて、むこうの木陰から、そっと白い顔が覗いた。
 枝につられた灯籠が、柔らかな光を放っている。
 柴進には、木陰から現れたその姿そのものが、光を放っているように見えた。
 風が吹き抜け、花が散る。
 長い黒髪と、霞のような白衣の裳裾が揺れた。
 そして、星よりも美しく輝く瞳が、じっと柴進を見つめていた。



※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。
※文中の「郁嶺関」は、正しくは郁嶺関です。
※文中の「朱面」は、正しくは朱面です。




back