水滸伝絵巻-graphies-

第百二十五回
黄金の花咲く森で・後編


 燕青は、待っていた。
 寝不足だ。
 太陽は東に登り、西の峰を照らしている。あの、いちばん高い“光の峰”の先端に朝日があたって、輝く槍の穂先のようだ。
 燕青は軒先に腰掛けて、睨むようにその輝きを見つめていた。
 方聖宮の地図は、頭の中にほぼ出来た。空白になっていたあの峰も、昨夜の百華将軍の警戒ぶりから、方臘の“梓洞”のありかと見て間違いない。
 とはいえ、山道は険しすぎるし、方杰が守っている石大門は難攻不落だ。凌振の火砲でも、ぶちぬくことは不可能だろう。そもそも、そこまでも辿りつけまい。
(梁山泊軍は杭州を落としたら、すぐに清渓県に向かうだろう。その前に、情報を伝えたい)
 問題は、どうやって脱出するか。抜け道が見つからなければ、道は石大門を通るひとつしかない。
「やっとお目覚めですか」
 燕青は座ったまま、肩ごしに振り向いた。
「いい夢でも見ましたか」
 燕青の視線の先には、ようやく起きてきた柴進の暢気な姿があった。
「今日は“非番”だ。ひさしぶりに、ゆったりと寝た」
 燕青の質問には答えずに、柴進は朝の風を深呼吸した。
 夜明け前に戻ってきた柴進は、寝たふりをしている燕青の部屋を覗いて、そしらぬ顔で自分の寝室へ戻っていった。
 銀泉たちに気づかれた様子はなかった。
 燕青は立ち上がり、従者らしく朝の茶を淹れ、朝食の果物を準備した。柴進は茶碗を取り上げ、燕青の方へ差し出した。
「眠そうだな」
「眠いのは、若い証拠らしいですよ」
「もう少し探ってほしいことがある」
「なんです」
 燕青は、おもいきり渋く淹れた茶を、自分で飲んで、眉をしかめた。
「彼らが、梁山泊内部のことを、どの程度まで知っているかが知りたい。たとえば、頭領の姓名、その容貌、来歴などを知っているのかどうか」
「我々が疑われていると?」
「そうでないことを願う」
「それにしては、ご機嫌ですね」
 燕青は、なにかはぐらかされている気がしたが、柴進の頼みとあれば断るわけにはいかなかった。
「では、頼むぞ」
 柴進は少し果物をつまむと、また寝室に戻っていった。
 最後まで、柴進は昨夜どこに行っていたのか、なにをしていたのか、なにか探りだしたのか──言わなかった。
 燕青は食器を片づけ、部屋を出ようとして、足を止めた。
 誰もいない居間に、甘い花の残り香がただよっていた。

 その夜も、柴進はいつの間にかいなくなっていた。
 燕青をまくとは、相当な腕前だ。
(さすが、宮城の天子の部屋まで忍び込んだ人だ)
 探すべきか、燕青は迷った。これが盧俊義なら、間違いなく、追いかけて後をつけただろう。
 しかし、燕青は、柴進を探さなかった。
(あの人に限って、危ない橋など渡るまい)
 その信頼を、燕青は後に後悔することになる。

 二回目になると、足掛かりの目星もつき、前夜よりも楽に崖が登れた。
 しかし、森は、やはり迷路には違いなかった。
 道はなく、同じような木、同じ灯籠が、果てし無く続いている。森が尽きると、その先は崖になっていた。底は深い谷になり、闇の中に下の方にある建物の光が小さく見えた。
 頭上には銀河が輝いている。星の海に浮かんだようで、柴進は、しばしそこに佇んでいた。
 西の方には、あの“光の峰”が思ったより近くに見えた。
 そちらへ向かおうとすると、背後から、またあの音が近づいてきた。星が触れ合うような澄んだ音色だ。
「“白鶺鴒”が飛んできたか」
 振り返ると、“白鶺鴒”が微笑んでいた。
「せきれい? 鳥のお話?」
 小首をかしげる姿は幼く見えたが、二十を越えていないということはないだろう。黒髪は、地に垂れるほどに長い。白い衣は明教徒のものだが、宮女たちとは明らかに違う上質の絹で、透けるような布地が幾重にも重ねられていた。
「あなたが名前を教えないから、そう呼ぶことにしたのだ」
「名前はないの。忘れてしまった」
 娘は無邪気に木々の間を歩き回る。そのたびに、あの“星の音”がした。小さな宝玉を綴った装身具が、触れ合って音をたてるのだ。髪や体に巻き付けるようにまとった宝玉の飾りも、他の明教徒にはないものだ。
「“白鶺鴒”」
 歌うように繰り返す声は、柔らかく、胸に染み込むようだった。

「川のほとりの小さな鳥……わたし、川がこわいのよ」
 こういう美しさを、柴進は詩の中にも見たことがない。巫山の女神も、洛水の神女も、これほど可憐ではなかっただろう。
 それは人の美というよりも、この山々の景観と同じ、天然の、純粋な美しさだった。自然が偶然に作りあげ、見るものがいなければ、人知れず消えていく。
 実際、花や月がそうであるように、彼女は自分の美しさをまるで理解していない。それゆえに、あまりにも無防備だった。
“白鶺鴒”は立ち止まり、微笑んで、柴進の手をとった。
「来て」
 なんの恐れも衒いもなく、“白鶺鴒”は柴進の手を引いた。連れて行かれたのは、小さな石の四阿だった。そこは木立が途切れていて、屋根の中央が開いた四阿からは、夜空が見える。
 天然の石を切り出した卓上には、美しい菓子がつまった重箱が並べてあった。蜜の入った果汁には、氷のかけらが浮いている。冬に切り出し、洞窟にでもしまっておいたものだろう。すべてが、ここでは見たことのない贅沢なものだった。
 明教には、女の聖職者も多くいる。宮女たちは、その中でも身分の低い少女たちだ。彼女は、おそらく非常に位の高い巫女なのだ。
「どうぞ」
“白鶺鴒”は小さな餅菓子をつまみ、柴進の口元へ差し出した。思わず口を開けそうになったが、手に受け取って自分で口に運んだ。
“白鶺鴒”は、そんな柴進をふしぎそうに見守っている。
「この森から出たことは?」
「森の外は、闇の世界。こわくて、行けない」
「あの高い峰に登ったことは」
「光明峰は、永遠の世界に通じているけど、道はないの。越えられる人はいない──」
 喋っていることは奇妙だが、その声は心地よく、表情や物腰は目を離せないほど可憐だった。
「聞こえる? ほら、星が歌っている……」
“白鶺鴒”は顔を仰向け、目を閉じた。
「星の光だけが、距離も、時も、越えていくの」
 明教は、太陽と月と星をあがめる。太陽は方角を、月は時刻を示し、そして、星は運命を示す。
「君は、星の声が聞こえるのか」
「質問ばかりね」
 純白の裾が軽く舞い上がったかと思うと、“白鶺鴒”は袖が触れあうほど柴進の近くに立った。
「あなたには、聞こえないの?」
 小柄な“小鶺鴒”の顔は、座っている柴進が少し仰向くと、間近にあった。厳粛な儀式のように手をさしのべ、“白鶺鴒”のひんやりとした指が柴進の顔を包んだ。
 星の光のせいなのか、青みがかった、ふしぎな目だった。
「人には、“同行する者”がいて、いつか出会うの。その姿は、鏡に映ったようにそっくりなの」
 四阿の中は、清らかな光に満ちていた。
 彼女が体にまとう宝石を綴った飾りが、ふれあって澄んだ音をたてている。
「出会うと、どうなる?」
「目覚めるの」
“白鶺鴒”の澄んだ瞳に、柴進の姿が映っていた。
 柴進の目にも、彼女の姿が白く映っているだろう。
 お互いの目の中に、永遠に互いの姿が映っている。
 それほど長い時間ではなかったはずなのに、悠久の時を感じた。
「わたしの“同行する者”、それは──あなた?」
 囁いたのは、女か、星か。
 遠くの空を、星がひとつ流れていった。

「調べましたよ」
 燕青は朝日の差す卓に、濃いめに淹れた茶を置いた。
 さすがに連夜の外出となると、柴進も眠たげだった。金扇を使う手も物憂げだ。
「なにをだね」
「あなたが調べろと言ったんですがね」
 燕青の皮肉まじりの眼差しに、柴進は鷹揚に労いを返した。
「ご苦労、それで?」
「さすがに、ここは辺境ですよ。山東の梁山泊のことは、うわさ程度にしか知られていません。そのうわさも、てんでバラバラです。“宋江と三十六人のならず者が太行山で旗揚げした”とか、“鉄天王”晁蓋がその三十六人の内に入っていたり。うちの旦那も、盧俊義だか李進義だか、名前なんかも混乱している」
 燕青は、自分が“一丈青”という渾名の美少女になっていることは言わなかった。
「穆弘は“穆横”なんて名前になってる。知ったら、さぞ怒るだろうな」
「私のことは?」
「言いにくいな」
「言いなさい」
 燕青は卓の皿から瓜をとり、ぱりぱりと齧った。
「“黒旋風”鉄牛の相棒に、“小旋風”という凶悪な野郎がいて、二人で山で追剥をしていたそうですよ」
 柴進は思わず茶にむせそうになった。
「それは、たいした“情報”だ」
「とはいえ、尻尾を出さないようにしてくださいよ。女のカンは、こわい」
「忠告、心に留めておこう」
「やっぱり、“女”ですか」
 燕青は瓜のへたを投げ捨てた。
「驚いたな、俺より手が早い。相手はとんだ破戒尼だな。それとも、罠では?」
「私が、“追剥”に見えるかね」
「我々の正体は知られようがない……つまり、罠ではないということか。お相手は、美女でしょうね」
 燕青は二つめの瓜をとったが、齧りもせず、手の中でぶらぶらと弄んだ。寝不足にされたお返しに、少しからかうつもりだったのに、調子が狂った。
「ついに、“女神”を見つけたということですか」
 最も愛する女の姿に見えるという、金大堅が彫った女神像のことだ。しかし、柴進は少し考え、否定した。

「違うな。あの女神は、もっと怜悧で、寂しげで、理知的だった。とても遠くを……どこにあるか分からないような、遠くを見ていた」
「それで、その彼女は、なにか秘密を洩らしてくれたんですか。方聖宮から逃げる抜け道とか、方臘の弱点とか」
「いや、なにも」
「そして、今夜も逢い引きに?」
「そうだな」
 柴進はあの峰の方を眺めた。
「小鳥が待っているのでね」

 夕刻、燕青は精舎での学習を終えると、星客殿には帰らなかった。
 なんとなく帰る気になれず、気晴らしに歩きたかった。ぶらぶらと山道を歩いていくと、いつの間にか、あの峰に続くと思われる道にきていて、百華将軍が現れた。
「本当に、散歩がお好きですね」
 その態度はそっけなかったが、燕青は懐かしい人に再会したような気分だった。
「夕日が見たくてね」
 星客殿は西側が高い山になっているから、夕霞を見るには適していない。百華はすぐには返事をしなかったが、断らなかった。
「約束ですから、案内しましょう」
 百華が少し前に立って歩きはじめると、かえって燕青のほうが驚いた。この前の言葉は、皮肉でも警告でもなく、“約束”だったらしい。
(さすが明教徒は嘘をつかないな)
 少し光がかげりはじめた空を、白い鳥が群を作って飛んで行く。百華将軍について岩場の道を登っていくと、やがて遠くまで峰が見渡せる広々とした場所に出た。

 重なり合う薄紅の雲の彼方に、太陽がゆっくりと沈んでいく。昼間、あれほどぎらぎらと輝いていた太陽も、淡い霞に包まれて、優しげだ。
 二人は、しばらく黙って夕日を見ていた。
「ほら」
 百華が遠くの峰を指さした。
「あそこに、細長い岩が立っている」
 灰色の稜線の上に、細長い岩塊が立っているのが見えた。長い歳月に岩が削られ、硬い部分が残ったものなのだろう。
「子供を抱いている、母親みたいに見えるでしょう」
「本当だ」
 百華はじっと遠い岩を見つめている。彼女も燕青と同じ、みなしごに違いなかった。
「あんた、俺が嫌いだろう」
「ええ」
「なぜ?」
「顔がきらい」
「まいったな」
 世界は静かで、茜色の光に包まれ、どこまでも続いていた。
 天と地と、二人のほかは──なにもない。
 燕青は、すべてが信じられない気持ちだった。なにもかも、夢かもしれない。
 今までの敵は、勇敢な異民族の遼国、男伊達が多かった田虎軍、きちがいじみた王慶軍──敵として不足はなかった。最高の強敵となった方臘軍は、彼ら以上に凶悪な、狂信者の群だと信じていた。
 それなのに、なぜ、その“一味”の女将軍と並んで、夕日など眺めているのか。
 燕青は懐から柑子を出して、半分に割って片方を百華に差し出した。百華は黙って受け取り、二人は甘酸っぱい実を食べた。
「あそこにも宮殿があるのかい」
 そこからは、あの一番高い峰も見えた。
「夜になると、火が灯ることがあるね。まわりは切り立った崖なのに、どうやって行くんだい」
 燕青は何げなく聞いただけだったが、百華の顔が、また冷たい女将軍の顔に戻った。
「道はありません。雲に乗って登るんです」
 柑子の皮を谷間に投げて、百華は来た道を戻っていった。
 黄昏の底にひとり残り、燕青は孤独を感じた。
 誰かに遇いたかった。彼の心を、分かち合ってくれる──誰かに。
 燕青は、風の音に耳を澄ませた。
 世界は、こんなに美しく──空虚だ。

 燕青が星客殿に戻ると、もう柴進はいなかった。
(“小旋風”ともあろうものが、明教の小妖精に誑かされたか)
 そう考えようとしたが、どうしても信じられない。柴進は、“宋国第一美女”李師師にさえ心を動かされなかった。
 燕青は、夕食を運んできた銀泉に、柴進は婁敏中と“残業”だと言い繕うと、夜陰にまぎれて自分も星客殿を忍び出た。
 尾行こそしなかったが、柴進が行く方角は確かめてある。崖の上を進み、崩れた監視小屋を見つけ、燕青は崖を登っていった。
 あたりには、肌に染み込みそうな濃厚な芳香に包まれている。ここ数日でさらに盛りとなった桂花が、枝から溢れるほど咲いているのだ。
 燕青は、まとわりつく香りの風の中を、ゆらめく灯光の波の下を、歩いていった。
 そして、ほどなく、二人を見つけた。
 漆黒の影に隠れて、燕青は、しばらく二人を見ていた。好奇心は失せていたし、責める気持ちも起こらなかった。
 その光景が、あまりにも美しかったからだ。

 金色の花咲く森の奥で、石の四阿に腰を掛け、壮年の貴人は扇を揺らし、白衣の佳人は豊かな黒髪をその肩にあずけている。
 二人はなにごとか言葉をかわし、男は頷き、女は微笑む。
 丸く浮かんだ灯籠の光が、二人を闇から隔てるように輝いていた。
 それまで、燕青はまだ、心のどこかで、思っていたのだ。
 柴進は、女を利用して、情報を得ようとしているのではないか?
 女は、柴進の正体を見抜いていて、逆に利用しようとしているのではないか?
 そんな疑いが、二人の姿を目の当たりにして、消え失せた。
(“小旋風”柴進の恋──こいつは、事件だ)
 燕青は、乾杯でもしたくなった。
 ここに楽和がいないのが残念だ。楽和なら、もっと気の利いたことを言ってくれるに違いない。
 甘い香り。金の花。
 この上なく高貴で、優美な二人の姿。風は歌い、星は瞬く。
 こんなにも愛情にあふれ、平和で、幸福に満ちている。
 それなのに、悪い予感しかしなかった。

(とにかく、脱出だ)
 燕青は決意した。
 方聖宮の情報は、可能なかぎり集めた。
 結論は、ここには攻め込めないということだ。包囲も不可能。もし、知らずに梁山泊軍が攻め寄せてきたら、甚大な被害は避けられない。
 柴進はもう頼りにならない。いや、まずは柴進を“救わねば”ならない。
 燕青は密かに準備を進め、脱出の機会を窺った。機会は、あんがい早く訪れた。
 教えてくれたのは、馴染みの宮女の銀泉だった。
「今夜は“沈黙の日”です。絶対、お部屋から出てはいけません」
「なんだい、それは」
「“封印の書”を祀る儀式です。みんな無言の行をして、星の託宣を受けるんです」
 毎月、摩尼が死んだ二十六日の夜に、方聖宮だけで行われる明教の秘密の儀式だという。
 明教の教祖・摩尼光仏は、西方の皇帝の怒りにふれて捕らえられ、獄中で死んだ。その直前に一通の遺書をしたためたが、内容は失われ、明教最大の謎とされていた。
『封印の書』と呼ばれる遺書には、摩尼の最後の予言が記してあるはずだった。
 その内容を、方臘は瞑想によって知ろうとしているのだという。
「時を越えて、星が授けてくれるんです。でも、まだ、一度も御告げはないんです」
 燕青は明教徒の荒唐無稽さに呆れたが、素直な銀泉は、疑っている様子もない。

「逃げるなら、今夜です」
 夕刻、燕青は柴進をつかまえて宣言した。
「“星の声を聞くため”に、方聖宮の人々は夜明けまで外出を禁じられ、山は沈黙に包まれるそうです。方臘は梓洞で深い瞑想に入り、明教徒たちも室内で祈りをささげる。武器は宇宙の気を乱すということで、方杰も近衛兵をつれて方聖宮から離れるらしい。石大門の警備も手薄になるでしょう」
 なんとかして石大門を開くか、崖を下り、岩壁を乗り越えて──と、燕青は考えている。
「とにかく、方聖宮から出るんです。あとは、道なき道でもなんとかなる。縄や食料は、準備しました」
 柴進の沈黙が気になって、燕青は先手を打った。
「女は無理です。連れては行けません」
 柴進は、しばらく光の峰に消えていく夕日を眺めていた。
 遠からず、梁山泊軍は方臘を滅ぼすだろう。その時、彼女がどうなるかを、柴進も燕青も考えていた。
 燕青は、慰めるつもりで言った。
「そもそも、彼女は明教の巫女だ。ついてくるとは思えない」
「お前は、ほんとうに話が早いな」
 夕日が扇の金に反射して、その眩しさに、燕青は思わず目を細めた。
「ならば、聞いてみよう」
 その言葉を、柴進がどんな顔をして言ったのか、燕青には見ることができなかった。

 その夜に限って、“白鶺鴒”は現れなかった。
 柴進は、ひとり四阿に腰掛けた。

 空には、星祭の夜にふさわしく、星が煙るように輝いている。
(迂闊だった)
 冷静なつもりだったが、やはり少し動揺しているらしい。
“白鶺鴒”は星を祀る巫女なのだから、今夜の儀式で中心的な役割を果たすのは間違いない。そうそう抜け出しては来られないだろう。
 枝につるされた灯籠が、いつものように花を照らし、金色の銀河のようだ。
(最後の夜か)
 この夢のような世界も、今夜で終わりだ。はじめから、夢だったのかもしれない。
 彼女を、こんな所に、一人で残して行きたくなかった。ここはいつか戦場になり、方臘は討たれ、官吏も宮女も、すべて捕らえられることになるだろう。
 宋江ならば、“白鶺鴒”を保護してくれるかもしれないが、それまで彼女が生きているかもわからない。それに、燕青が言うように、もし本当に何か神秘的な感応力があるのなら、彼の“正体”について、なにか感じ取っているはずだ。
 裏切りを、許すだろうか。
 いくら考えても答えはなかったし、どれほど待っても、“白鶺鴒は”現れなかった。

 連日の疲れと寝不足で、柴進はいつの間にか眠っていた。
 夢を見た。滄州の野、雪、深い井戸──彼方の光。
 目覚めると、膝にもたれて“白鶺鴒”が眠っていた。一瞬、夢かと思ったが、その重みと体温は現実のものだった。彼が敵であることも知らず、梁山泊軍が迫っていることも知らず、安心しきって眠っている。
 空の星は容赦なく巡り、夜明けまで間がないことを告げていた。
「目覚めなさい、“白鶺鴒”」
 頬に触れると、柔らかな睫毛がかすかに動いた。

「どうしたの?」
“白鶺鴒”は衣擦れの音をたて柴進の膝に登ってくると、子猫のように背中を丸めた。
「わたし、今夜はとても疲れたの。ねむい」
「一緒に行くのだ、私と」
 首をもたげ、“白鶺鴒”は柴進の顔を見つめた。
「どこへ?」
 その笑みは、この世のすべての風波から隔たり、世界が善良であると信じていた。
「星の彼方へ?」
「そうだ、私が連れていく」
 柴進は“白鶺鴒”を抱き上げた。羽のように軽かった。
 たとえ、身分や年や運命が、どれほど隔たっていても、魂が、なんの違和感も戸惑いもなく、一瞬でぴったりと重なりあってしまうことがある。
(それが理解できない者は、我が身の不幸を憐れむがいい)
 妻を失った林冲が、なぜあれほど憔悴したのか、今なら分かる。この、か弱く可憐なものを失うなら、一国を失った方が痛みは少ないに違いない。
 しかし、いくらも行かないうちに、木々の間から宮女たちが駆け出してきた。
「狼藉者!」
 殳をもった宮女たちは、星客殿あたりにいる宮女とは違う、あきらかに訓練を積んだ兵士だった。百華将軍が指揮をとっていた。
「離れなさい、柯中書」
 百華はすでに剣を抜いていた。片手の剣を柴進に突きつけ、左手を“白鶺鴒”に差し出した。
「こちらへ、公主様。お探ししました。星壇にいらっしゃらないので」
 柴進は“白鶺鴒”を地面に下ろした。
「公主だと」
 百華は歩み寄り、“公主”の腕を掴んで柴進から引き離した。
「この御方は、金芝公主様。猊下の姫君にして、星の聖女──明教において、猊下の次に尊い御方です」

 人々が謁見の広間に集まっていた。
 婁敏中、蒲文英ら高官と、誰が報せたのか、方杰も駆けつけてきた。
「狼藉者はどこに? 公主は?」
 婁敏中は困り果てていた。頭の中に政治しかない婁敏中には、これは対応しきれない問題だった。
 蒲文英は、公主の神聖な身が穢されたことを憂えている。
“金芝公主”の称号は、“降魔太子”とともに、教主・方聖公に継ぐ位である。“降魔太子”が現世の王になるべき者なら、“金芝公主”は霊界の女王なのだ。
「しかし、貴星と巡りうのも、なにかの運命やもしれぬ」
 燕青もすぐに星客殿から駆けつけてきた。銀泉がこっそりと教えてくれたのだ。
『金芝公主様は、明教で最も神聖な聖女様です。それが、森で、あの御方と──』
 それ以上は、銀泉も恥じらって口にしなかった。
 燕青の“悪い予感“は適中した。予想以上だ。
(よりにもよって、なぜ方臘の娘と)
 天下の貴人“小旋風”柴進が、反逆者の首領の娘と“逢い引き”して捕まるなぞ、楊林の筆だってためらうだろう。
 しかし、当の柴進は、落ち着いていた。
 人々の非難と困惑の中で、平然と立っている。その袖には、金芝公主がぴったりと寄り添っていた。その場所のほか、自分のいるべき所はないと信じているかのようだった。
 方杰が手をだした。
「さあ、公主、こちらへ」
「杰はきらい。声が大きくて、いや」
 公主はつんと顔をそむけた。方杰の狼狽ぶりからすると、彼が、この美しい従姉妹に長年、報われぬ思いを抱いてきたことは明らかだった。苦手な“勉強”に励んでいたのも、その恋のためだったのだ。
 方杰は、ぐっと大きな口を結んだ。
 すぐに宮女が方臘の訪れを告げ、そのまま広間は水を打ったように静まり返った。
 婁敏中が事情を説明したが、冠に隠れ、方臘の表情は窺えない。張りつめた空気の中で、公主ひとりが無邪気だった。
「お怒りにならないで。時が来たのですわ」
 蒲文英が方臘の言葉を代弁した。
「しかし、公主よ。“清純な乙女”でなければ、“封印の書”の託宣を受けることはかないませんぞ」
「それなら、もう心配ないわ」
 蒲文英が顔色を変えた。
「託宣がございましたと?」
「だから、星壇を抜け出したの」
 玉簾の奥で、方臘の体が動いたのが分かった。
「“封印の書”は、なんと」
 公主の目が、星のように輝いて、玉簾の向こうを見据えた。その姿は、星の巫女の名にふさわしい神々しさをそなえていた。
「“方臘よ、最後のひとりになった時、お前はそれを知るであろう”」

 静寂が流れた。
 やがて、足音が近づいてくる気配がした。人々はぎょっとした。なにか運命の足音のように思われたのだ。
 現れたのは、石門を守っている方杰の部下だった。
「密偵が戻りました」
 婁敏中が肩を落とし、溜め息をついた。
「忙しい夜だ」
 玉簾の前に、長旅に日焼けした密偵が膝をついた。
「“降魔太子”方天定殿下が、杭州にて光化なされましたことを報告いたします。杭州は陥落。それがしは、城門に晒された太子殿下の御首を、確かに」
 これほど時間がかかったのは、杭州の陥落だけでなく、太子・方天定の死亡を確認していたためだった。
 方天定は、彼らが目指す“光明清浄世界”の王となる少年である。明教徒にとっては、杭州の陥落よりも、方天定の死の知らせの方が大きな衝撃をもたらした。
 人々は一斉に聖句を唱えた。
 光明清浄大力智慧──その声は流れ、峰々にこだまして、四方に響いた。
 柴進は、公主が自分の腕を強く握りしめたのを感じた。つぶやくように、珊瑚色の唇がささやいた。
「また、減った……ひとり」
 方天定は、金芝公主の弟だった。
 やがて、簾の向こうで、方臘が片手をあげた。再び静寂が場を支配し、みな息を呑んで方臘の“予言”を待った。
「次の“太子”が必要だ」
 銀の龍袍に包まれた腕が動いて、立ちすくむ金芝公主を指さした。
「金芝公主よ、そなたが次の“太子”を生むのだ」
 蒲文英の老いた顔が輝いた。
「おお、その御子こそ、真の光明清浄世界の王」
 待ったをかけたのは、方杰だった。
「その相手は? 柯中書は新参の方。明教徒でもなく、身元も不確か」
 婁敏中は、この“問題”が決着すれば、それで良かった。余計なことを──という顔で、一応、柴進に向かって尋ねた。
「本籍はいずこ。ご先祖の姓名、官職は。お屋敷、墓地などお教えください。人を確認にやりましょう。確かと分かれば、誰も反対するものはない」
 方杰の嫉妬からくる時間稼ぎにすぎないことは分かってたが、燕青たちも、さすがにそこまでは手を回していない。答えずにいると、公主がにこりと微笑んだ。
「わたし、いいことを思いついた」
 公主はいかにも楽しげに、玉座の方へ踊るような足どりで進み出た。
「繍楼から、鞠を投げて決めましょう。わたし、前からやりたかったの」
“鞠投げ”は、伝統的な婿選びの方法だ。富豪の娘が、楼上から絹の飾り鞠を投げ、集まった男たちの中から婿を選ぶのである。もちろん、鞠を獲った男が婿だ。
 方杰が色めいた。
「やりましょう!」
 方杰は体力には自信がある。いくら色男でも、柴進のような“年寄り”に勝つ自信は充分にあった。
「いいでしょう、おとうさま」
 金芝公主の声は、美しく、柔らかく、誰にも逆らえない響きを帯びていた。
 方臘の返答はない。
“芝”とは、すなわち不死の霊薬。方臘に永遠の生命をもたらすもの──かつて、方臘自らがそう予言した。
 公主の言葉は、星の言葉。すなわち“宿命”。
 答えは、すべて、『諾』であるからだ。

「逃げましょう」
 とりあえず星客殿に戻ることを許された柴進に、燕青は有無を言わせず告げた。
「“鞠投げ”には、宮廷内の男が全員あつめられる。その隙に脱出するんです。方杰は躍起になっているから、関門の警備も手薄になるはず。衛兵が残っていても、方杰から脅されて逃げるとでも言えば、却って歓迎されるかもしれない」
 燕青はひとりで喋った。柴進は椅子に座ったままだ。
「金芝公主は、あなたを逃がそうして、“鞠投げ”なんて言いだしたんです。きっと、薄々は気づいているんだ。その気持ちに応えるべきでしょう」
「逃げる」
 ようやく柴進が口を開いた。
「なにからかね」
「運命から、とでも言えば満足ですか」
 そうだな──と、柴進は指を組み、鷹揚に頷いた。
「梁山泊軍の目的は、方臘の乱の鎮圧だ。方臘を、捕らえるか、殺す。方臘は宋国の大反逆者、その家族も大罪人だ。“公主”を名乗れば、よくて斬首、おそらく凌遅。一寸刻みにされる彼女の髪に、私がこの手で花を挿し、末期の酒を飲ませるのか」
 沈黙が流れた。
 燕青にだって、残酷なことを言っていることは分かっている。
 しかし、これが現実だ。
「支度します。道に迷った時のため、食料は多めにあったほうがいい」
 燕青は準備のため、その場を離れた。
「鞠投げは正午です。それまで、休んでいてください」
 もう、夜が明け始めていた。

 あの光の峰の方から、繍楼を築く音が夜通し聞こえた。
 燕青は準備を済ませ、朝方に少し眠った。
 夢かうつつか、わっという喚声を聞いた気がして、目覚めると、太陽はもう高く昇っていた。
 燕青は急いで身繕いすると、寝台の下に隠した装備を担いだ。
 星客殿の中は、しんとしている。燕青は誰もいない居間を通り抜け、奥の寝室の扉を叩いた。返事はなかった。
 居間の扉は開け放たれて、燦々と夏の日差しがさしこんでいる。燕青の影だけが、黒々とからっぽの寝室の床に伸びていた。
「それでこそ、“小旋風”柴進だ」
 なぜ──とは、燕青は思わなかった。
 柴進が、女のために梁山泊を裏切ったりはしないことも、分かっている。
 ただ、燕青は、尋ねたかった。
『方臘を、殺せるのか』
 愛する女を裏切って、その父親を殺すことができるのか──と。
 ここに来てから、燕青の心は、ずっと波のように騒いでいた。その、寄せるべき岸辺のない波が、凪いでいく。
 燕青は装備を寝台の下に投げ込み、部屋を出た。
(俺が決着をつけよう)
 燕青は荷物から携えてきた琴を出すと、壁に叩きつけた。中から転がり出たのは、愛用の軽弩だった。分解されていた部品を組み立て、燕青は星客殿を後にした。
 今日も、山々は雄大で、美しい。
 ちっぽけな人間の心など、歯牙にもかけず、雲は流れる。
 こんな場所にいるから、自分も神仙にでもなった気がして、おかしなことを考えるのかもしれない。あらゆるしがらみから解き放たれ、空でも飛べる──と。
 燕青は、あの“光の峰”を目指し、まっすぐに道を歩いていった。いつも百華に遮られた道だった。

(方臘を殺す)
 それだけを考え、燕青は歩き続けた。
 方臘さえいなければ、明教徒は求心力を失い、反乱は瓦解する。戦いは終わる。
 乱が終われば、方臘の娘まで厳しく追及されることはないだろう。彼女の存在自体、世間には知られていないのだから、柴進と逃げることもできるだろう。
(俺がやったと悟られないよう、密かに、方臘を殺してしまえばいいだけだ)
 男たちは、みな繍楼に集まっている。宮女たちも、準備や見物のために集まっている。銀泉が、繍楼は森の北側の崖に作られ、自分たちも見に行くのだと言っていた。
 賑やかな声が、谷にこだましている。
 方臘は公主の父親だから参加することはないし、そんな賑やかな場に姿を見せもしないだろう。
(方臘は、あの峰のどこかにいる)
 この道から、あの森を通り抜けて、峰に行くことができるはずだ。
 誰にも遮られることなく、燕青は進んだ。光明乙女たちの宿舎を通りすぎ、台地の脇を抜けて行くと、道はしだいに険しく細くなり、やがて道もなくなった。
 わずかに踏まれたあとのある岩場の彼方に、あの峰が聳え立っている。
 その場所は、すぐに見つかった。峰のふもとにそびえる、大きな梓の木が目印だった。白い崖に洞窟が口を開けていて、そこが梓洞なのは間違いなかった。
 そのまま近づこうとして、燕青は岩影に隠れた。そっと岩から目だけ出し、洞窟の口に座る人影に向け、軽弩を構えた。
 軽く喉を貫けるほどの距離しかない。
 しかし、燕青は、引き金を引けなかった。
 梓の枝がおとす日陰にひとり座っていたのは、百華将軍だったのだ。

 ゆったりと緑の葉を揺らす木に背中を預け、剣を抱いて座っている。その横顔は、燕青が知っている女将軍とは、別人のように優しかった。
(なんだ)
 洞窟の奥へそそがれた眼差しは、孤独で、凛と美しく、胸に抱いた小さな宝物を守ろうとする少女のようだ。
(あんたも、手に入らないものに、掴まっているんじゃないか)
 方臘という男の、どこがいいのかは知らない。しかし、百華は、この男を守るために、その夢を守るために、自分のすべてを捨てたのだ。
 燕青は、掌の軽弩に視線を落とした。
(女は強いな)
 こんな頼りない武器では、とても、太刀打ちできそうにない。

 北の崖に、人々が集まっていた。
 方杰は腕を伸ばしたり、足を叩いたりして、鞠を受け取る準備に余念がない。見回しても、柴進の姿はなかった。
(逃げたか)
 恋敵がいないと知って、方杰はいっそう意気込んだ。
(この期に及んで逃げるような男に、従姉妹を渡さずに良かったぞ)
 方聖宮内の男は出家者だから、みな独身だ。さすがに婁敏中の姿はなかったが、官吏から小者、石大門の兵士たちまで、多く集められていた。
 もっとも、彼らはもとより方杰と争ったりするつもりはない。彼らが集まったのは、これは神聖な儀式だと思っているし、噂は聞いたが見たことのない“公主”の姿を見てみたいという気持ちが主だった。
 方聖宮にいるのは出家者だけで、恋愛や結婚には縁がない。それが却って“婿選び”という未知の行事に引きつけられる原因だった。あたりは、ひそやかながら、浮き立った興奮に包まれている。
 その注目の“金芝公主”は、急ごしらえの手摺りの前に鞠を抱いて立っていた。

 繍楼は森のはずれに作られ、その真下は崖である。その崖下に、人々は集まっていた。山中だから、近くの岩場から見渡せる場所である。広場をとりまく山道や橋、岩棚などにも人々が集まって、祭のように賑やかだった。
 柴進は、崖下の広場の、人々が集まっているあたりからは少し離れて、岩壁を背にして立っていた。
 なんのために来たのか、自分でも把握していないのが、我ながら滑稽だった。
 燕青は、この機会に逃げろと言った。公主が、そう望んでいると。たしかに、これだけの人が集まっている。逃げられる可能性は、充分にあろう。
(それが、梁山泊のためには──正しい)
 この情報をもって、梁山泊軍に戻り、方聖宮攻めの方策を練る。そして、方臘を討ち取り、方聖宮を滅ぼして──。
 戦乱の世に生きて、その悲憤慷慨を、詩に昇華できた古の人は強いと思った。この一瞬の場面を切り取り、言葉にする力は、柴進にはない。
 燕青のみを連れ、敵地に乗り込もうなどと言いだしたのは、彼自身である。人は、また柴大官人の酔狂、“冒険好き”が始まった、と思っただろう。
 しかし、彼はそんな意地や矜持や反骨で、ここにやって来たのではない。
『我等、もとより、命を求むるものにあらざるなり』
 そう言って、彼のために死んでいった数多くの名もなき者たちがいた。柴進のために死に、“鶏狗”と呼ばれたものどもは、たった一人も残っていない。
 名もなく、由来も知らず、どこで、どのように死んだのかも分からない。
 いまは、彼も同様だ。名を隠し、なんの力も後ろ楯もない。それでも、自分にも、ただこの身ひとつ、この命ひとつで、梁山泊を、誰かを、救うことができるのではないか──と。
 柴進は、繍楼の上の公主を見た。
 黒髪が太陽に照り映え、白い衣が輝き、身にまとう宝石は星のようだった。
 いつも夜しか会っていなかったから、白日の下で見るのは初めてだ。どこか別人のようにも見えた。
 公主は、柴進を見ていなかった。
 顔を上げ、しっかりと目を開いて、遠くを見ていた。
 自分が無事に逃げたか彼方の山を見ているのだ──そんな甘い幻想は、柴進は抱かなかった。
 金芝公主は、もっと遠くを、山の彼方を、雲の果てを、時の流れる先を見つめている。誰も見たことのないような、遠いところだ。
 柴進の心を、一陣の旋風が吹き抜けた。
(あなただったか)

 金大堅が彫った不思議な女神、あの、寂しげに天涯の彼方を見つめる人は。
(あなたか)
 その瞬間、公主は手摺りから身を乗り出すように、空へ、鞠を高く投げ上げた。


 わっと喚声があがった。
 方杰が駆けだしていく。
 鞠は風に乗り、高く高く、空へ、どこまでも飛んで行った。柴進がいるのとは反対の方へ飛び、岩に当たり、斜面を転がり、谷底へと落ちていく。
 人々の視線は一斉に鞠に集まり、方杰が急斜面を駆け下りていく。
 公主の瞳が、柴進を見た。柴進だけが、公主を見ていた。
 声が聞こえた。
 あの、囚われた高唐州の井戸の底で、柴進は、頭上に見える微かな光に手を伸ばし、宋江たちに向かって、叫んだ。
『ここにいる』と。
 いま、その声が聞こえた。
 孤独な公主が、声もなく叫んでいる。
『わたしは、ここにいる』

 柴進は、岩影から歩み出た。
 公主の瞳に、星ではなく、涙が光った。
 両手をのばし、彼女が笑ったのか、泣いたのかは分からなかった。柴進は人波を分けて走った。
 繍楼から鳥が飛び立つ。しかし、それは鳥ではない。公主は両手をさしのべて、繍楼の手摺りから、白鶺鴒のように、空へ舞った。

 宮女たちが悲鳴をあげた。
 柴進は、地面寸前で滑り込むように公主の身を抱き留めた。
 宝石を綴った飾り紐の糸が切れ、光の雨となって飛び散っていく。
 顔を傷だらけにして戻ってきた方杰が、鞠を抱いたまま、茫然として二人を見ていた。

「わかりました」
 方杰は、さっぱりとした顔で言った。
「そこまで公主がお望みなら、自分は潔く身を引きます」
 方杰は出て行き、あとには柴進と燕青、婁敏中だけが残った。
 森の奥の聖殿だった。
 奥の部屋では、金芝公主が休んでいる。聖殿は、公主の宮殿にふさわしく華麗に造られていたが、人気もなく、ただよう空気は寂しげだった。普段、彼女に仕えるのは三人の老宮女だけで、それも夜にはいなくなる──“星の声”をかき消さぬよう、この森の夜は、静寂に守られてきたのである。
 それらのことを、柴進は今日、はじめて知った。
 今、この森は、もう聖域ではなくなった。宮女や医者が出入りして、四方から人声や足音がしている。婚礼の支度をするように──と方杰の大きな声も聞こえた。
 小さな部屋で、柴進と婁敏中は向かい合って座っている。
「かくなるうえは」
 婁敏中はいつもの目を細める癖を見せて言った。
「お身内があれば、危険が及ぶ。急ぎ方聖宮に引き取りましょう」
 その言い方は、いつもの婁敏中と変わらなかった。彼にとっては、公主の結婚も、“国作り”の事務作業のひとつにすぎないようだった。
 燕青は、いやな感じがした。地味で、平凡で、現実的な相手は、厄介だ。
「身内はおりません」
 婁敏中は無言で頷いた。
「新しい国には、たしかに太子が必要だ。その父親の身元は重要だ」
 柴進は泰然と座っている。婁敏中も淡々と言葉を続けた。
「あなたの人品、教養、並みのものではない。君子は怪力乱神を語らず……まっとうな士大夫は、明教には投じないのだ」
「でしょうな」
「山東出身の信者たちを調べたが、柯家なる学者の家は、誰も聞いたことがない。書物にもない」
 婁敏中は、自分の“仕事”については周到だった。
「本当の目的は?」
 婁敏中は卓に両肘をつき、組んだ両手の指を揉みほぐすよう擦り合わせた。その細い目には、敵意はなく、なにかを期待するような色があった。
 柴進は懐の奥から、錦の袱紗に包んだものを取り出した。婁敏中は意外そうな顔をした。
「これは?」
「御覧なさい」
 袱紗を開いた婁敏中の顔色が、さっと変わった。
「“丹書鉄券”」
 宋の太祖が、滅ぼした周室の末裔を保護する旨を刻んだ札である。塾の教師をするくらいの教養があれば、当然、知っているものである。
 柴進はこれを高唐州で、叔父の屋敷を奪った殷天錫の足元に叩きつけた。それから、李逵が暴れて大騒ぎになった。その時、隠れて見守っていた叔母の侍女が、混乱の中で拾い上げ、大切にしまっておいたものだった。
 柴進が落草した後、密かに梁山泊に届いた。叔母からの手紙はなかったが、どこにいようと、何をしててようと、柴進が誇り高い柴家の後継者であると、叔母が認めた証拠であった。
 しかし、そんなことは巷間には知られていない。柴進も、誰も、世宗の末裔が梁山泊の賊になったなど、喧伝してはいないのだ。
「私の本当の姓は“柴”……周の柴世宗の裔。宋国の追及を逃れるため、仮に柯姓を名乗っている」
「なるほど。柴は薪木、柯は小枝……その貴い血筋の方が、なぜ我が国土に」
 婁敏中は問うたが、それは、思った以上の“切り札”であったことに驚いたにすぎない。彼は、すでに、柴進の真意を察しているのが目つきで分かった。
「宋国は我が柴氏の不倶戴天の敵──私は、“明教”を試しに来たのだ。力を借りるに足るかどうか」

“光明清浄大力智慧”
 婁敏中は、はじめてその声明を心からの真実をもって唱えた。
「あなたこそ、真に我等を救うもの──貴い星よ」

“流星将軍、お助けください”
 その声から逃れ、石宝は馬を駆けさせた。
“われわれは、いつ救われますか”
 出会う傷ついた者、苦しむ者たちが、みな、石宝に救いをもとめた。
(いつ救われる?)
 石宝は荒野を駆け続ける。
(そんな時は、永遠にこない!)
 憎しみは薄れ、怒りは癒える。しかし、哀しみは、永遠に消えない。
 夕暮れの廃墟をすぎ、遠くの木立を眺めて駆けた。
 夕焼けに、高い木立の影が、どこまでも続く。
 まるで、遠い過去に通じる道のようだった。
 そして、彼が辿り着いたのは、川のほとりの荒野の果て──焼け落ちた集落だった。
(ここは、私の故郷)
 故郷は、ある日、突然、宋国軍に襲われ、滅びた。
 役人の圧政をたびたび上訴していた父は、反乱の首謀者として殺され、村は宋国軍に蹂躙された。村の男は、一人残らず広場に集めて殺された。
 石宝は母に姉の服を着せられ、他の女たちと寺の倉庫に閉じ込められた。そして、明日は“処分”されるという夜、自分ひとりだけ逃げた。
 母が逃がしてくれたのだ。
 母親の肩に乗って、必死で天窓に手を伸ばした。それでも届かず、母親は彼の足を自分の頭に乗せた。優しい母の頭を踏んで、ようやく窓に指が届いた。
 母は妹も逃がそうとしたが、小さな妹は、どうしても天窓に手が届かなかった。
 そして、他の誰も、狭い天窓からは出られなかった。
 連れていってと泣く妹の声を振り切り、その妹の口をおさえる姉を置いて、彼は自分だけ逃げた。母を、祖母を、叔母たち、乳母や侍女たちを残して。
 村に戻ると、川は男たちの死体で塞き止められ、家々は燃え尽きていた。
 何日か森に隠れ、あの寺の倉に戻ると、もぬけのからで、靴ひとつ残っていなかった。
 村は消え、人々も消えた。まるで、はじめからなかったかのように。

 焦土の中を歩いていくと、土塀の残骸があった。
 そのそばに、焼け焦げた木が立っていた。その木を見た時、胸の奥からはげしい悪寒が突き上げた。こみあげる叫びをかみ殺し、石宝は刀を引き抜くと、背後に向かって斬りつけた。
「あっ」
 少女の声が、石宝の動きを止めた。刃の先に、幼い少女が立っていた。妹が蘇ったのかと衝撃をうけたが、無論、そんなはずはない。
 そんな錯覚をするほど、この少女が後をついてきたのに気がつかないほど、彼は動揺していたのだ。
 眼前の少女の顔は汚れ、ぼろぼろの服をまとっていた。難民の子供に違いなかった。
 石宝は剣を収めた。
 少女は一瞬、全身にあびた殺気に青ざめたが、勇気を振り絞るように石宝を見上げ、笑った。
「“流星将軍”」
 その声は、石宝がかつて聞いた、どの声とも違って響いた。
 はるか昔、彼がまだ“流星”と呼ばれる以前、親しい者たちが呼びかけた声だ。この場所で、そんなふうに自分を呼ぶものの出現に、石宝は恐れを感じ、背を向けた。
 少女は臆することなく、石宝についてくる。
「ここは、どこですか?」
「私の家だ」
「なにもないのに、分かるのですか」
「この木が……」
 石宝はざらざらとした幹に触れた。屋敷の土壁が火を遮ったのだろう。半分は死に、半分はまだ生きていた。しかし、もう花をつけることはない。
 少女は、石宝の絶望を察知することはできず、ただ嬉しそうだった。
「私、星珠です。助けていただいた……覚えていらっしゃいますか」
 石宝は覚えていなかった。
 それでも、星珠はこの上なく幸せそうに、小さな鉢に植えられた葡萄の苗を差し出した。ひよわな茎に、青葉が数枚ついていた。

「まだ、こんなに小さいですけど、きっと、いつか沢山の葡萄がなります。これを、流星将軍に」
 石宝は戸惑った。
 この娘が、だれで、なぜ、こんなことをするのか、彼にはまるで理解できていなかった。自分には、光の使者が福音を与えるような価値はない。
 沈黙の中、ふたりの距離は永遠ほど遠かった。
 その静寂の中に、ふと、金色の花が降った。
 見上げると、半分だけ生き残った木の、痩せた梢に、色あせた──それでも小さな花がついていた。
「これは……妹が、とても好きだった花だ」
 おとなしい子で、いつも四阿で琵琶を弾いていた。石宝がうまいな──と誉めると、はにかんで笑う。最後に見たのは、泣き顔だった。
 石宝は、星珠に別れを告げた。
「葡萄は、君が育てなさい。葡萄は光に満ちている……人の中に、光などない」
 闇は光、光は闇──それは正しい。人は、闇の力を、光と見間違えているだけだ。
 石宝は、少女に、花の咲く木に、悪夢に背を向け、行こうとした。
 戦場が彼を待っていた。
「いいえ」
 その腕を、思わず握りしめ、星珠ははげしく首を振った。
 少女の瞳は、屈することなく石宝の顔を見返し、金色の星のように輝いていた。
 なぜ、こんな苦しい世界を、たった一人で彷徨って、生きてこられたのか。死んでしまったほうが楽だと分かっているのに、荒野を歩き続けてきたのか。
「流星将軍──あなたが、私の光です」

 燕青は、柴進とともに、金木犀の森に移った。
 小さいが美しい聖殿が、柴進と公主の新居となった。
 甘い香りにつつまれた森は、人の迷いも苦しみも、すべてを忘れさせてしまいそうだった。
 金色の花の下に、柴進は公主を抱いて座っていた。
「わたしには見えるの。その人の本当の心が。本当ののぞみは何か、真実はなんなのか……星が、私に教えてくれる」
「ならば、私の心も見えるだろう」
 公主は答えず、目を伏せて、柴進の胸に顔をうずめた。
「時は川のように流れていく。わたし、川がこわいの。時が、川のように流れていくのが……」
 柴進は袖を広げ、公主の細い肩を包んだ。
「私が、あなたを守ろう。海が枯れ、石が砂になるまで──」
 それは、彼の、心からの誓いだった。
「だから、何が起こっても、きっと私を信じるのだ」


 燕青は、静かにその場を離れた。
 同じように木陰に佇んでいた百華を見つけ、声をかけた。
「俺たちは、まるであの二人に妬いているみたいじゃないかい」
 百華は燕青をちらりと見て、行ってしまった。
(俺って奴は、よほど“天子の女”が好きらしい)
 その国が滅びでもしない限り──絶対に手に入らない、貴重な女だ。
 森を出て、燕青は空を仰いだ。

(あ、白鶺鴒)
 近くに川があるのだろう。かわいらしい鳥だった。
 鳥の姿を目で追えば、どこまでも空が広がる。
(ああ、ここはいいな)
 どこまでも続く空。物言わぬ山々──悩める者が無心に仰げる偉大なものが、これほどあるのは、幸甚だ。
 もう、ここから脱出できない。
 このままでは、梁山泊軍との連絡はつかない。
 なにより、柴進が本心で方臘とともに宋国を滅ぼすつもりがないと、誰が断言することができるのか。
 ならば、その時、梁山泊は──?
「──どうとでもなれ」
 燕青は、どこまでも青い空に、流れる雲に、うそぶいた。
 この世界に、愛より重要なものがあるのか?

 森に黄金の花が散る。
 その風景は、高貴で神秘な一副の絵だ。
 あんなに愛し合っているのに、二人は、なにひとつ互いの“真実”を知らない。
 白い鳥が群をなして、雲のあいだを、峰のきわを、飛んでいく。
 この世のすべては、天上の創造物か──いたずらか。
 言葉もなく、燕青は見守るしかない。
 真実はひとつだけ。
 黄金の花の咲く森で、二人は、出会ってしまったのだ。





back