水滸伝絵巻-graphies-

第百二十六回
憤怒ノ河、慟哭ノ嶮・中篇



 三日目の朝。早朝。
 呉用には、珍しく気分のいい朝だった。戦いは順調だ。進展が早い。
 宋江と呉用の意志も、ぴったりと合っているのを感じる。
(まさに、善く戦う者は、“險勢”“短節”。疾きこと流矢の如く、撃つこと機を発するが如し)
 桐盧県に布陣して、次の攻撃目標である睦州を攻略してしまえば、もう方臘を捕らえたも同然だ。
(かくなる上は、くだんの“烏竜嶺”を一日も早く)
 石宝らが逃げ込んだという“烏竜嶺”への道筋は、戴宗らがすでに偵察を終えて戻ってきている。道筋に敵軍の姿はない。一気に攻めるべく、出陣の準備は整っていた。
「──先生」
 本営の門を、阮小二が魚を提げて入ってきた。
「門出には魚がいるだろう」

 阮小二は、朝日の中に見事な魚を掲げてみせた。
 呉用は、むかし晁蓋の屋敷で、阮小二が同じように大きな魚を持って来たことを思い出した。“北斗の党”結成の日だ。あの時は、朝ではなくて、夕方だったかもしれない。
 阮小二が義理堅い男なのは相変わらずだ。
「ありがとう。“鶏尾”を白勝の柩とともに南竹山にやったので、そのうちに母上の便りもあるでしょう」
「達者ならいい」
 阮小二は出てきた宋清に魚を渡し、水軍の停泊地へ戻った。
 川辺には軍馬が引き出されていて、出陣に備えて水を飲んでいた。
 関勝と関鈴も、それぞれの馬に水を飲ませている。関勝が、幼い“息子”にあれこれと教えてやっている様子が微笑ましい。
「あの関勝が“子持ち”とは」
 以前なら、阮小二も羨ましく思っただろう。本気で小魚を養子にしようと思った時もある。しかし、いつの間にか、そんな気も起きなくなっていた。
 水軍の連中は、船の整備をしたり、荷物を積んだり、たむろして博打を打ったりしている。その間を、汚い子供たちがうろついていた。方臘軍は民間人を手先に使う。子供でも警戒しなければならないところだが、水軍の連中はおおらかなのだ。相手にもそれが分かっているから、恐がるでもなく阮小二にも飛びついてきた。
「おいちゃん、虫を買ってくれ」
 洟をたらした汚い子供だ。手には生きた蝉を掴んでいる。
「これから戦だってのに、虫なんか」
「じゃあ、魚をくれよ」
 年かさの子供に聞くと、彼らは一帯の山の住民で、砦に大勢の兵が入ってきたので、麓へ逃げてきたという。
「崖を崩したり、木を伐ったり、ひどいんだ。山には神様がいるんだから、きっとバチがあたるぞ」
 阮小二は、魚を届けた本営で、数人の樵か炭焼きらしい男たちを見たのを思い出した。呉用は、彼らから烏竜嶺の情報などを集めていたのだろう。
 阮小二は、“魚をやるより、釣り方を教えろ”という格言を思い出し、富春江を指さした。
「河には魚がたくさんいる。獲ってみろ」
「とり方なんか、しるもんか。船だってないし、泳げないし」
「なら、教えてやる」
 阮小二は、出陣も間近というのに、嫌がりもせずに相手をしている。それを船の上から眺めて、阮小七は半分あきれ、半分は感心していた。
「なあ、五の兄貴よ」
 近くでは、阮小五が縄を巻いていた。
「俺は前から思っていたんだが、“太歳”だの、例の星……“天険”だの、どうにもシックリこないじゃないか。二の兄貴は、“お人好し”の部類だからな」
 阮小二は、ふたつの“星”を持っている。あだ名の“太歳”そして、天が与えた“天険星”。
“太歳”は、人々が最も恐れている凶星だ。普段は土中に隠れているが、普請の時などうっかり掘り起こしたら、大変なことになる。現れれば、必ず厄災を起こす祟り神なのだ。そして、“険”は、すなわち“剣”だ。山ならば切り立った峰、鉄なら刃。鋭く尖って、まっすぐなもの。触れば、必ず怪我をする。
 なるほど、ふたつの星の意味は共通しているが、寡黙で、自分からは容易に腰を上げない阮小二には、不釣り合いだと阮小七は思うのだ。
 阮小五は、頷かない。
「ぴったりじゃねぇか」
「どこがだよ」
「おめぇはチビだったから、覚えてねぇだろうがな。昔の兄貴は、そりゃあ恐ろしかった」
「そうなのか」
 阮小七は思わず聞き返した。
 彼らは兄弟だが、阮小五は早くからグレて家に寄りつかなくなっていたし、阮小七も成長すると闇塩の商売がてら妓館に入り浸っていたから、“一家の歴史”について話したことはなかった。

「あの頃、“短命二郎”と呼ばれていたのは、兄貴の方だ」
「どうりで妙だと思っていたが」
 そんな簡単なことも話さないほど、一時期、兄弟の間は疎遠だったのだ。あの、生辰綱を奪う夏までは。
 若い頃、“短命二郎”と呼ばれていたのは阮小二だ。それが、父親が湖で死んで、母親と弟たちを養うことになり、人が変わった。喧嘩沙汰は一切やめて、漁師仕事に精を出し、真面目で地味な男になった。
「はじめは食えなくて、弟も何人も死んだしな……そのたび、陰気くさくなっちまって」
 それでも、村の人々はやはり彼を恐れて“立地太歳”と陰口を言った。乱暴に迷惑していた者たちは、“ばちがあたった”と笑い、一家が飢えても手を貸してはくれなかった。大人しいそぶりをしていても、地中深くに埋まっている太歳のように、うっかり掘り起こせばどんな厄災をもたらすかしれない──気をつけろ、と。
 しかし、結局、凶星は現れなかった。阮小二は黙々と船を出し、魚を捕り、家族を養い、罵られても、笑われても、なにも言い返さなかった。
 かわりに、悪くなったのは阮小五だった。なにかに反抗するように暴れ、荒れ、いつしか彼が“短命二郎”と呼ばれるようになっていた。
「兄貴が不甲斐なくッて、むしょうに腹がたったんだ」
 きっと悔しかったのだ。一家の不幸、自分の無力が。不甲斐ないのは、自分の方だということだ。
「しかし、兄貴が人に頭をさげたのは、あの時だけだな」
 ようやく暮らしが上向いて、阮小二は嫁をもらった。しかし、初産が難産だった。三日苦しみ、施す手がなくなった。産婆の礼金は銀一両、拝み屋は三両、医者は十両。隣の家の物持ちに阮小二は頭を下げた。隣の男は、昔、迷惑した意趣返しに、さんざ悪態をつき、ようやく一両、投げてよこした。しかし、嫁は死に、赤ん坊は泣き声も上げずに死んだ。
「あの時だけだ」
 阮小五は呻くように言った。阮小七は、意外そうな顔をした。
「なんだ、知らねぇのか」
「なにを」
「五の兄貴が面倒を起こすたび、兄貴は頭を下げて回っていたぜ」
「なんだと」
「バカな弟ほど、カワイイんだろう」
 阮小七は軽く笑い、それから怒ったように言った。
「二の兄貴は、自分のためには、頭は下げねぇ」
 あの出産の時だけだ。
 父親が死んだ時、阮小七は物心ついていなかったので、阮小二を父親がわりに育った。銭塘江で何かと世話を焼いてくれた老船頭の“嘲風子”、彼にぼんやりと死んだ父親の面影を重ねてみたこともあったが、実際は、顔も知らない。
 阮小七は、自分の父親がどんな男だったか、阮小五に聞きたい気がした。
 しかし、口には出さなかった。
「昔話とは、五の兄貴も歳をとッたな」
 そこへ、阮小二がぞろぞろと子供を引き連れてやって来た。
「おい、小七。魚籠はないか」
「ねぇよ。行軍中だもの」
「葦かなんかで編むか……」
「二の兄貴よ」
 阮小七は、別の事を聞いた。
「この戦が終ったら、どうするつもりだ」
「村に帰って、お袋を引き取る。お前たちに嫁をとらせて、あとはまた漁師暮らしだ」
 阮小二は当たり前のように答えた。
「面白みのねぇ話だな」
 阮小七はそう言ったが、石碣村の風景、梁山泊の水のにおい、日干し煉瓦で建てた木陰の家の手触りを思い出したのも事実だった。
 阮小二が去ると、阮小七は次兄のいかつい顔を眺めた。
「石碣村に戻ったって、五の兄貴はまた賭場通いだろう。なにしろ、持っている星が“罪”だ。つまり、生まれついての“ろくでなし”ってことだからな」
「兄貴に向かって、なんて口をききやがる。おめぇだって、なんだっけ、失敗の“敗”か?」
「俺は、何かに“勝つ”気などねぇ。それに、この敗の字には“ぶち壊す”って意味もあると聞いたぜ」
「学があるな」
「呉先生が講釈してくれたことがあったろう」
「こむずかしい話は、燕みてえに頭の中をシュッと通りすぎちまう」
 阮小五の言いぐさが気に入って、阮小七は笑った。
 束の間の休憩だ。兄弟でこんな話もできる。
 川風は心地よく、富春江は美しい。
(梁山泊より、景色がいいな)
 しかし、ここに住みたくなるかは、この先の戦しだいだ。
 阮小二は葦を刈り、地べたに座って魚を獲る籠を編んでいる。子供たちに取り囲まれて、丁寧に作り方を教えてやっていた。
 しかし、籠が仕上がる前に、銅鑼が鳴った。
「船出だ!」
 だらしなく寝ていた水夫も、博打を打っていた水兵も、いっせいに飛び上がり、船に向かって駆けだしていく。
 立ち上がった阮小二に、子供たちは口を尖らせた。
「なんだい。おいちゃん、いっちまうのかい。嘘つき、籠はどうするんだよ」
「帰ってきたら……」
 教えてやる──と言いかけて、阮小二はやめた。子供に嘘をつくのはよくない。
 作りかけの籠を子供に預け、阮小二は船上から手を振った。子供たちは岸辺につらなり、つまらなそうにしていたが、すぐに元気よく手を振りだした。
 阮小二は、河が蛇行し、風景が変わるまで、その小さな影を見守っていた。
 阮小七が、冗談めかして言った。
「また子供が持ちたくなったか、兄貴」
 阮小二は川風の中で笑った。
「お前たちの、ガキの頃を思い出したのさ」

“烏竜嶺”──それは、眠る黒竜の背である。

 富春江の急流に臨み、屹立して連なる峰は剣の林のように険しい。その色は、不気味に黒ずみ、侵入する者を威嚇していた。
 梁山泊軍が目指す睦州は、この天険の向こうにあった。
 人が越えられる道は一本きりで、それも胸をつくような山道である。頂上には古くから小さな砦があり、睦州へはそこを越えるしかない。その道のほかは、すべて険しい崖になっており、登ることは難しい。また岩山のため樹木が少なく、上から登っていく様子が、砦から丸見えになってしまう──。
 以上が、解珍、解宝の兄弟がもたらした“烏竜嶺”の偵察結果だった。
 梁山泊軍は、烏竜嶺の麓に布陣している。
 その本営で解兄弟の報告を受けた宋江は、二人に尋ねた。
「他に道はないのですか」
 解宝が首を振った。
「土地の者に聞いた話では、遥か昔、天下を統一した始皇帝が命令して、道なき山を十万人の人夫に切り開かせたものだそうだ。睦州に通じる道は、ほかにはない」
「ほかに、どこか砦へ登れそうな裏道はありませんか」
「それも調べたが、どうにか登れそうに見える崖には、方臘軍が障害物や罠をしかけ、抜かりなく見張りを置いている」
「では、この道を行くよりない」
 落胆した様子の宋江に、呉用が告げた。
「桐盧県からの撤退の様子では、方臘軍の残存兵力は、さほど多くないでしょう。ただ、あの天険に、石宝らが入ったとなると、油断ならない」
 呉用は戴宗や杜興を四方に走らせ、石宝、登元覚らが烏竜嶺に入ったことを、ほぼ確かめていた。
 野営地からも、烏竜嶺の峨々たる灰色の山容が仰ぎ見られる。竜の背のようにも、並んだ牙のようにも見える。宋江は呉用に尋ねた。
「砦の様子は?」
「道は岩を崩してふさがれ、厳しく守りを固めています。李逵をやってみましたが、上から切り株や岩を投げ落としてくるため、近づくことはできません」
 二人は、涼しい野外で話をしていた。
「そうですか……」
 宋江は後ろ手を組み、南の方へ目をやった。特になんの予兆もなく、宋江と呉用が、同時に言った。
「では、河から」
 すぐに童威、童猛の兄弟が呼ばれ、川筋の偵察が命じられた。ふたりはすぐに褌一本になり、水に飛び込んだ。
 蛟と蛤の兄弟は、張順ほどではないにしろ、息が長い。岸辺に方臘軍の見張りがうろついていることは分かっているので、泳いで上流へ向かうと、黄昏の波にまぎれて水砦に近づいていった。
 烏竜嶺の山裾は、そのまま富春江の水中に落ち込んでいる。湾曲する流れは急だが、岸辺は山を削ったような湾型の地形になっていた。
 そこに、方臘軍の水砦があり、大小合わせて五百隻ほどの船が停泊している。
 出陣命令に備えて船の整備などをする船溜まりらしいが、上等の戦船は数えるほどだ。おそらく、これまでの梁山泊軍との戦いで消耗してしまったのだろう。兵隊は数千いそうだが、漕ぎ手や工兵が多そうだった。
 水砦の防備もさほど手強そうではないし、水中にも侵入者を防ぐような仕掛けはない。
 方臘軍は、ここまで敵が来るとは予想していなかったのだろう。さかんに槌音が響いているのは、急いで防柵などを建てているのか。

 黄昏が河を染め上げて、金色の波が輝く。
 その光の波に顔だけ浮かべて、兄弟はしばし時を忘れた。
 戦のない時に、こんな美しい河を泳げたら、どんなに素晴らしいかと思ったのだ。

 童兄弟の報告を受け、宋江と呉用は上陸作戦を決行することにした。
「敵が防備をかためる前に、急ぎましょう」
 まず招集されたのは、李俊を総帥とする水軍の頭領たちである。
 江南出身で船にも詳しい孟康が、地元の漁村などにまぎれて集めた情報を補足した。
「兵隊は、四、五千人ってところか。頭は“玉爪竜”成貴とかいう奴。もとは銭塘江の船頭……まぁ、水賊だ。たいして知られた男じゃねぇ。水軍としちゃあ、梁山泊より格下だ」
 李俊は、具体的な策の提示を呉用に求めた。
「どう攻めます。水砦のあたりは流れが速い。流れに乗って攻められたら、下流にいるこちらに不利だ」
「考えてあります」
 呉用はひとつの“策”を披露した。
「その敵船を、動けなくしてしまえばいい」
 水練に長けたものを選び、夜陰に乗じて水砦に近づき、水中から船底を鎖でつないでしまう──後周の将軍、張永徳が南唐を攻めた時の奇策である。下蔡鎮の渡し場に停泊する敵船団の船底を、決死隊が鎖でつなぎ、動きを封じて勝利した。
「その上で突撃をかけ、岸を制圧。後続の大型船に兵を乗せて待機させておき、それを上陸させて水砦を奪います。できれば、そのまま山塞まで」
 見た目には険しいが、山頂の砦と水砦の間には、登れるような道もあるに違いない。
 阮兄弟の目が輝いた。
「そいつは威勢のいい作戦だ」
 水軍の野営地に戻り、早速、“決死隊”を募ることになった。
 指揮は、すでに水路を知っている童兄弟。それに従う百人を選ぶのだ。命懸けの仕事である。水練にたけ、器用で、心身の屈強な者でなければならない。
 童威が集まった男たちに呼びかけた。
「たとえ息が尽きても浮かび上がらず、最後までやり通す自信のある者だけ前に出ろ」
 ほぼ全員が前に出た。その中でも、杭州で斃れた張横、張順兄弟の配下は志願して譲らなかった。いずれも長江で産湯を使ったという連中で、泳ぎに長じ、死んでも意をまげない男ばかりだ。
 彼らの中から、特に潜水に優れた者が百人選ばれた。
 次は先鋒の突撃部隊だ。こちらは杭州で病床に伏す穆弘配下の兵が名乗りを上げた。彼らは水上戦にも、陸上戦にも経験を積んでいる。阮小二の配下と合わせ、選ばれた精鋭千人が二十隻の戦船に分乗することになった。
 いずれも心強い面構えの強者だった。彼らが、李俊ら居並ぶ頭領たちに尋ねた。
「それで、どの親分が奇襲部隊の指揮を?」
 阮小七が言った。
「李俊はだめだ、総帥だからな」
 阮小二が頷いた。
「俺が行こう」
 阮兄弟が突撃部隊を率い、李俊が後続の上陸部隊の指揮をとることになった。大型の船に、一万の歩兵を満載していく。
「小五と小七は、李俊につけ」
「なんだって?」
 当然、阮小二と一緒に突撃をかけるつもりだった阮小五は不満を露にした。阮小二は李俊と童兄弟だけでは、後続の一万の歩兵を速やかに上陸させるのが難しいと言った。
「上陸隊は船数が多い。ぶつからないよう接岸するには、操船に慣れた船頭の数がいる。張横たちがいないからな……」
 そう言われては、阮小五にも反論のしようがない。
「じゃあ、兄貴と交替だ。俺が突撃をやる」
「お前はだめだ」
 阮小二は、弟の気性を本人よりよく知っている。
「すぐにカッとなるからな」

 翌日、孟康は陣中からありったけの鎖を集め、船底を繋ぐように細工していた。水中で手早く作業ができるよう、鎖にあらかじめカスガイをつけておく。孟康は鼻唄まじりに作業を続けた。その鼻唄に、鎖を運んできた杜興が耳をそばだてた。
“峠を越えて、私を捨てて行く人は”
「聞き慣れぬ歌ですな」
「あ?」
「いや、いまの鼻唄が」
「歌ってたか?」
「異国の言葉のようでしたな」
 孟康は作業を続けながら、機嫌の悪い顔をした。
「歌ってねぇよ」
「いや、たしかに」
「うるせえな」
 孟康は足元に積まれたカスガイを杜興に向かって蹴りつけた。杜興は飛びのいて避ける。鬼面が眉をひそめた。
「付き合いにくいお人だ」
「あ」
「いかがした?」

「思い出した……」
“私を捨てて行く人は、十里も行かずに足が痛む”
 杜興は元は商人だから、異国の言葉にも聞き覚えがある。
「高麗の女の歌ですな」
「商売女さ、俺にぞっこん惚れていた」
「それは艶福」
 杜興は素直に誉めた。なるほど、孟康は性格はよくないが、色白ですらりとして、才気もある。よく言葉の通じない女なら、惚れることもあるかもしれない。
「性格のよい女でしょう」
「だろうな。小遣いを貰ったことは何度もあったが、花代を払ったことは一度もねえ」
「それでは、“商売女”とは呼べませんな」
 孟康はふんと笑い飛ばして、それきりもう杜興など相手にしなかった。
 そして、間もなく、百本の鎖が出来上がった。

 夕刻、童兄弟は百人の男とともに富春に潜り、波もたてずに河を遡っていった。水の中はもう暗い。はぐれぬよう縦列になり、前を泳ぐ者の足にぴったりとついて進んだ。息継ぎは、水面から口だけを出して行う。水砦が見えるところまでくると、すっかり夜になっていた。
 彼らは、最後に一息おおきく息を吸い込むと、巨大な魚のように川底へ消えた。

 夜更け。富春江は波も立てずに流れ去る。
 その下流に、ひとつ、またひとつと黒い頭が浮かびあがった。波間に漂い、仲間が戻ってくるのを待ち受けるのは、童威と童猛の兄弟だった。
 任務は首尾よく完遂された。敵に発見されることもなく、一人も欠けることなく全員が梁山泊の陣営に戻ってきた。
 水からあがると、やっと童猛はほっと息をついた。そして、あたりの葦原を見回した。
「どうした?」
 童威も警戒の目で葦原を窺った。
「誰かいたのか」
「いいや……」
 童猛は首をかしげた。
 誰かの視線を、感じたような気がしたのだ。しかし、誰もいなかったし、ここはもう梁山泊軍の陣営だ。水鬼かと、童猛は鳥肌だった。
「はやく戻ろう」
 攻撃は、夜明けに始まるはずだった。

 なにも知らず、烏竜嶺山麓の水砦は寝静まっていた。
 山頂の砦に入った登元覚らからの命令により、柵を修理したり、河側の監視は怠りない。

 水砦を預かるのは、“浙江四竜”と呼ばれる男たちである。
 都総管に“玉爪竜”成貴、副総管には“錦鱗竜”擢源。“衝波竜”喬正が左副管、“戯朱竜”謝福が右副管に任じられている。
 彼らは、もとは銭塘江を根城にして、水上を行き来する輸送船を襲って派手に稼いでいた水賊である。それぞれが一派の頭で、その頃は獲物をめぐって角突き合わせていた竜である。しかし、方臘の乱が起こってからは商売は立ちいかなくなった。そこで、いちばん勢力があった“玉爪竜”成貴を中心に、銭塘江から富春江に縄張りを持つ“九竜”、九派の水賊が談合し、まとめて方臘軍に身を投じた。
 もちろん、新興の勢力に力を貸して、甘い汁を吸う──そんな心づもりだった。九派が揃えば万を越える勢力になる。数十万の方臘軍の中に入っても、勢力を張れるはずだった。
 ところが、誤算があった。
“甘い汁”を吸うために、瓜を食ったり、精舎で聖句を習ったりしているうちに、本当に明教信者になる者が現れたのだ。
 もっとも気の荒いはずの“玉爪竜”成貴が皮切りだった。“錦鱗竜”擢源、“衝波竜”喬正、“戯朱竜”謝福が同調した。
 そして、方臘軍の名を借りて宋国、明教関係なく沿岸を略奪していた“叛徒”の五竜を粛清し、浙江水軍を一手に掌握したのである。さらに、狂信者特有の苛烈と、賊の残酷さをもって、教義に反する部下がいれば、ささいな罪でも処刑した。
 ゆえに、残った手下も敬虔な明教徒であり、賊上がりだから水上戦には自信がある。江州と銭塘江では東西に遠く隔たり、彼らは“混江竜”の名さえ知らない。
 梁山泊軍なにほどのものぞ──と、士気高く待ち構えている風があった。

 見回りに出ていた部下が、岸辺をうろついていた怪しい男を捕らえてきたのは、夜明け頃のことだった。
“玉爪竜”成貴は顔の長い、骨格のいかつい男だ。鉈で切ったような細い目で、鋭く男を睨み据えた。明教徒は長髪だが、水中では不便なため、この水砦の男たちは将も兵も短髪のザンギリ頭だ。体には文身を散らしている。
 その前に引き据えられたのは、しゃれた旅装をまとった三十がらみの男である。よく肥えて、目つきはどこか卑屈である。成貴は場数を踏んでいるし、骨相学の知識もあった。顔つきを見れば、どんな性格、どんな仕事か掴めるのである。
「何者だ? その情けない面は、間者ではないな」
 間者ならば、顔は地味だが、胆の据わりが目に現れているはずだ。
「幇間か、小商人か……?」
「ご明察、つまらない旅の商人です。道にまよって……」
 震え上がる背中を、男を捕らえてきた見張りが小突いた。
「嘘をつけ、しきりと河を窺っていただろう」
「本当です、本当です。わしはただの商人で」
「では、なぜ慌てて逃げようとした」
「それは……実は、見てはいけないものを見てしまいましたので……」
 男はしきりに揉み手をして、媚びるように成貴を見上げた。成貴の口調が、子供をあやすように和らいだ。
「なにを見たのだ? 正直に言え。言えば、命は助けてやるぞ。次第によっては、褒美もやろう」
 その背後には、禍々しい拷問具がずらりと並び、鈍い光を放っていた。

 夜明け前、まだ暗いうちに船は漕ぎだした。
 いずれも快速の小型船だ。櫓音を合わせ、黒い流れを西に向かって昇る。崩れる白い波濤に浮かぶ姿は、軽捷だが、静寂に包まれている。
 やがて、夜明け。流れが黒から灰色、群青へと色を変え、水面に後方からさっと光が差した。
 心が騒ぐような朝焼け雲が空を彩り、さわやかな風が川面を吹く。
 その風に、一斉に七色の攻旗が立った。彼方には、すでに烏竜嶺の険、山麓の水砦が見えてきている。急流を漕ぎ登る百隻の船から、一千の突撃兵の凱歌が唸りをあげた。
 軍鼓が轟く。

 水砦へ突撃をかける船団の先頭には、阮小二が立っていた。
 七色の攻旗が、河に花が咲いたようだった。
 後続の船団には、やや距離をとって上陸部隊がついてきている。阮小五、阮小七、孟康と童兄弟が分隊の指揮をとっていた。
 水手たちは掛け声をそろえ、両舷からありったけの櫓をつき出して漕いでいる。
 阮小五の船が先頭にいた。
 阮小二の突撃隊が防衛戦を突破したら、すぐに続いて上陸するのだ。遅れれば、突撃部隊が孤立する。
「遅れるな!」
 風が胸の刺青に、びしびしと水飛沫を投げつけていた。
 最後尾の旗艦には李俊が立ち、全体を見渡している。万が一、上陸に失敗すれば、反転して流れに乗って退避する手筈になっている。
 作戦上は、そこまで考えていたが、李俊は成功を疑っていなかった。油断はしない。しかし、水砦にずらりと並んだ敵船は、いまだ一隻も動いていない。甲板に水兵が右往左往しているのは見えるが、動けないのだ。
 童兄弟たちが繋いだ鎖は、船と船を結びつけているだけでなく、橋を水砦の柱に打ちつけてある。無理に船が動き出せば、柱が折れて、水砦が崩れることになるのだ。
 孟康が考えた仕掛けであった。

 次第に足を速める船上で、皮肉屋の孟康は面白くもないという顔をしている。
(万にひとつも間違いのねぇ作戦とは、味気ねえこった)
 太陽が登り、あたりの景色がよく見える。山影が水に映って美しい。まるで水中にも別の世界があるようだ。
 その美観にも、孟康は心の中で毒づいた。
(景色がよくっても、意味もねえ)
 とにかく、何にでも文句が言いたいのが性分なのだ。
(河のほとりの山だったら、飲馬川の方が殺伐としたぶん、マシじゃねぇか)
 北の果ての飲馬川、そして、このあいだ死んだ登飛のことを思い出した。
 登飛が死んだと聞いた時、孟康には、特に感じることもなかった。“赤目の獅子”を、なんとか人間に教育しようとしていた裴宣には、多少の感傷はあったかもしれない。しかし、二人が登飛について思い出話をするようなことはなかった。
 飛沫が霧のように白く広がり、涼しい。
 登飛が、どんな生まれで、どんな暮らしをして、あんなふうになったのかも、誰も知らない。聞こうともしなかったし、今も特に知りたいとも思わない。
(俺だって、言いたかねぇし、聞かれもしねぇ)
 親に疎まれ、丁稚に出た船工場でも苛められ、どこへ行っても除け者だ。もっとも、そんなことは苦にもならない。
 人間はひとりで生まれ、死んでいくのだ。
 辛気臭い歌は嫌いだが、威勢のいい舟歌も耳障りだ。捨てた女の、恨み歌の方が、まだましだ。
 高麗の妓生の槿花は、この世界でただひとり、孟康を好いた人間だ。さんざん孟康に尽くして、文句も言わず、ただ絹が欲しいと何度もねだった。孟康は生返事をするだけで、簪ひとつやらなかった。最後に見たのは、身投げした海からあがった、白い顔。枯れて落ちた木槿のように、白い布に包まれていた。
 最後まで、女は恨み言ひとつ言わなかった。
 この世に残していったものは、忘れかけた歌だけだ。
“私を捨てて行く人は、十里も行かずに足が痛む”
(十里どころか、何千里も離れているのに、俺の足はちっとも痛くはならねぇ)
 船団はどんどん進む。風が荒々しい音をたてて吹き抜けていく。
 孟康は、珍しく爽やかな気分になった。
(そうだ、ひとつ、お前が最後まで知らなかったことがある。絹はあった。お前がほしがった、赤と緑の絹。お買い得だと、商人の口車にのせられた。だが、途中の港で買った名も知らん女郎にねだられ、投げるようにやっちまったのさ)
 歌声が風とまじって、不思議に響く。本当の歌なのか、空耳なのか、耳の奥で響いている。
“私を捨てて行く人は、十里も行かずに足が痛む”

 敵の船は動かない。
 襲撃に気づいた方臘軍の水砦から、数隻の早舟が漕ぎだしてきて、ぱらぱらと矢を射かけてきたが、こちらも盾の備えをしている。
 風が唸る。舟歌が嵐のようだ。
 孟康はふいに、哀れな槿花の歌に、さらに続きがあったことを思い出した。
(なっだっけ?)
 槿花があの細いがよく通る声で、いつも歌っていた歌の最後は。
“──空には、たくさんの星が”
 それから?
 思い出す前に、前方で動きがあった。

 宋江たちは、残りの兵を率いて陸戦の備えをしていた。
 指揮は秦明と花栄がとることになっている。
 水砦が襲われれば、山頂の砦にも動きがあるはずだ。石宝たちが水砦を救うべく麓の方に降りていけば、手数になった登り道の封鎖を攻め崩す。挟撃された敵は睦州へ逃げていくだろうから、追撃して、睦州まで攻め込めればと、呉用は考えていた。
 花栄は差しそめた曙光に向かって、弓の弦を確認していた。その眸が、ふと有明の鳥を追うように空に向かい、いぶかしげに細まった。
「あれはなんだ」
 秦明は狼牙棒を杖につき、花栄の視線を追った。
「雲か」
「いいや、秦明。違う」
 花栄は目がいい。その時には、それが雲でも、鳥の群でもなく、今しも立ちのぼりはじめた黒煙であることを見抜いていた。
「宋江、呉先生!」
 叫んだ時には、黒煙は富春江方面の空に広がり、吶喊の声が聞こえた。

 阮小二は見た。
 彼は先頭の船の舳先に立っており、前方の視界を遮るものは何もなかった。
 右手前方には、烏竜嶺の険。その麓の水砦。河は山を巻くように左から右へ湾曲している。ちょうど山裾に隠れ、上流は見通せない。
 山嶺で金鼓が鳴り響いた時は、さほど気にしなかった。こちらの襲撃はとうに気づかれているからだ。山塞から兵が下るか、と思っていると、上流に鯨波があがった。朝日を蹴散らすような吶喊である。
 その時、湾曲する急流に乗り、川面を埋めるほどの筏が押し寄せていた。白兵戦の予想は、すぐに消えた。筏は松の木を括った簡単なもので、乗り手は少ない。ザンギリ頭の半裸の方臘軍水兵だ。阮小二の声が殺気に尖った。
「気をつけろ!」
 同時に、筏上の方臘兵が次々に河に飛び込んだ。瞬間、筏に積んでいたものが火を噴き、黒煙が濛々と吹き出した。五十あまりの火筏はたちまち炎の波となり、急流と追い風に乗って梁山泊軍へ突進してくる。

 どうするかと、考える暇もなかった。
「突っ込めッ!」
 すでに水砦は指呼の間だ。阮小二は叫んだ。一瞬ひるんだ兵の気持ちが、その声でぐっと強く引き絞られた。
「船を進めろッ!!」
 梁山泊軍の船団は、突撃と上陸に備え、縦列に密集して進撃している。そこに前面から火筏が突っ込めば、延焼して全滅の恐れがあった。その危険を少しでも減らすため、快速の突撃部隊は死力を絞り、もうそれ以上は無理と思っていた速度を増した。
 火筏が到達するより早く、水砦に突撃をかける。多少の被害は出るだろうが、後方の船団の半分でも上陸できれば──。
(勝機はある!)
 阮小二は冷静にそう読んだ。船は手足だ。どの船が、どれくらいの速度で進み、どれくらい素早く動けるかは把握している。
 阮小二率いる先頭集団は焦げ臭い風の中を突っ切った。火筏の鼻先を擦り抜けたのは、十数隻の早船だった。孟康の船も素早く舵を山側へ切った。
「よけろ、うすのろ!」
 突撃部隊後方の船は、火筏に気づくのが遅れ、舵を切るのも遅れた。その横腹へ、火筏が突っ込んでいく。ばちばちと激しく爆ぜる音が響いた。火筏は船上に藁束や柴草を積み、油をかけて燃やしている。筏そのものも、水砦の補修用に伐採していた松脂をたっぷり含んだ松の古木だ。さらに藁束、硫黄、焔硝などを積み込んでいた。それが順次引火して、大小の火柱が四方へ噴き上がる。梁山泊軍の船から水手や水兵たちが河に飛び込んで逃げたが、その上にも容赦なく炎が降った。直接には衝突しなかった船も次々に延焼していく。なんとか消火しようとしていた兵も、爆発に巻きこまれ火達磨になって水に落ちた。
 阮小五、阮小七がいたのは、孟康とほぼ並んだ上陸部隊の前方である。孟康の船が河側へ動いたので、衝突を避けるため必然的に対岸方面へ舳先を向けた。その前は炎の海だ。黒煙が渦巻き、見通しはない。
「兄貴は!」
 風が一瞬、煙を払った。阮小二たちは早くも水砦に到達しようとしている。阮小七はすぐに後方の船へ腕を振って合図した。
「迂回しろ、迂回して上陸だ!」
 阮小五は自ら舵をとった。
「こうなりゃ全員で突撃だ!」
 もう一度、阮小二の船の方へ目をやった。決死隊の半分が間もなく水砦に到達する──はずだった。
「ばかなッ!」
 阮小五の異様な声に、阮小七も振り向いた。鎖で繋いでいたはずの敵の戦船が、動き出していたのである。船上には、鉤や槍を掲げた兵を満載していた。
 童兄弟が愕然と同じ声を放った。
「確かに鎖でつないだはずだ!」
 驚かなかったのは、李俊だけだった。
 火筏の奇襲は、敵がこの襲撃を予想していたということだ。この朝駆けは、見抜かれていた。
(撤退を)
 命じようとした時、後方の上陸部隊から飛び出した一団の船があった。

 ひるがえるは、真紅の旗である。染め抜かれた文字は『張』。張横、張順麾下の水兵たち。中でも先頭をいく紫旗を掲げているのは、張順を信奉し、敵船を繋ぎに行った男たちだった。
 彼らは、後方集団から抜け出すと、僚船を焼いてなお流れ下ろうとする火筏へ体当たりした。
「食い止めろ!」
 火筏の流れが止まった。その隙に、後続の上陸船は進路を山側に変じて再び遡上を開始した。炎に包まれる張家隊を横目に、先頭を切ったのは群青の旗を掲げた穆弘配下の兵だった。彼らの仲間、五百人が突撃隊の中にいる。
 李俊は、進めとも、退けとも命じなかった。

 動き出した敵船から、矢が驟雨のように降った。
 動けないふりをして、阮小二らの船が充分近づくのを待ち構えていたのである。
 水上戦になった。
 水砦の指揮は“玉爪竜”成貴がとっている。いかつい顔は常に表情が薄い。しかし、眼底には喜悦が見えた。彼は方臘軍の水軍総管として、この後方の基地に配属され、打ち続く戦いを遠望していたのみである。送り出した船は、一隻も戻ってこない。
(それは、いい)
 死ぬのは名誉だ。
(殺すのは、もっと功徳になる)
 いま目の前の網に、魚や海老や蟹がひしめくほど飛び込んできた。ぴちぴちと跳ねて、ずいぶんと威勢がいい。
 成貴は、忽然と雄叫びをあげた。
「一匹のこらず、料理してやれ!」
 水賊の血が騒ぐのだ。
 動き出した戦船の指揮は、“錦鱗竜”擢源と、“衝波竜”喬正がとっている。擢源は小作りのぱっとしない中年男だ。体中に傷がある。銭塘江では手口が汚いことで有名だった。喬正は浅黒い顔の若者で、恐れを知らない。三十までには死にたいと望み、たびたび自ら死地に飛び込んでいくのだが、今まで怪我ひとつしたことがない。
 筏部隊を指揮していた“戯朱竜”謝福も上流から小船で戻ってきた。ひょろりとした美丈夫だが、口に摩尼光仏を讃える聖句を唱え、敵も味方も、物でも壊すように平気で殺す。火筏に乗せた手下も、殆どが溺れるか焼け死んだが、些かも気にしていない。居残っている手下を見つければ、かえって不愉快そうに舌打ちをした。

 阮小二は、怒りの塊のような男だった。昔の話だ。ささいな事で血が昇り、血反吐を吐かせるまで人を殴って、それが正しいと疑わなかった。この怒りこそ、正義なのだ、と。
 今は、そんな怒りではなく、ただ熱い血潮が阮小二の全身を駆けめぐっていた。この熱は、燃え上がる船の熱風か、胸の炎か。その滾る熱に突き動かされ、やがては一体となり、阮小二は船上に戦っていた。
 もう水砦の門や堤防が見えている。進路を阻んでいる戦船からは、矢が飛んでくる。それをかいくぐり、阮小二は船を体当たりさせた。衝撃が舷側を駆け抜けて、船板が悲鳴をあげた。舳先には、鋼の衝角が装備されている。それが敵船に食い込んで、がっちりと固定される。あとは、飛び移り白兵戦だ。敵兵が繰り出す鉤や槍の戦をかいぐぐり、阮小二は飛び移る隙を待った。後続の船も続々と体当たりしてくる。群青の旗を掲げた穆家軍だ。気が荒く、腕もたつ。その船も旗も焼け焦げのないものはなかったが、闘志はそれ以上に燃えている。
「とびうつれ!」
 火筏で分断された後続の上陸兵はまだ来ない。待ってはいられぬ。この突撃に命をかけて出陣してきた梁山泊軍の男たちは、次々に敵船に鉤を投げ、あるいは飛び移っていく。縄を切られ、もしくは船縁で待ち構えていた方臘兵に斬りつけられ、たちまち何人もの男が河へ落ちた。それでも、次の男が行く。落ちていく仲間の脇を、綱を掴んでよじ登る。矢の雨の中、船縁から船縁へ飛ぶ。登る途中で頭上の鉤に引っかけられ、生け捕りになる者もあとをたたない。
“錦鱗竜”擢源は信心深い男だ。異教徒が異教徒のまま死ぬのはよくないと考えている。
「仲間にしてやれ」
 捕まった梁山泊水兵を抑えつけ、その髪を切り、裸に剥いたうえで白布を巻き付ける。蓑虫のように身動きもならない男に、刀をつきつけ、聖句を唱えるように迫った。
「言ってみろ、“光明清浄大力智慧”! 光が増える!」
 梁山泊軍の水兵は、目を怒らせて唾を吐いた。その胸へ、方臘兵が正面から斬りつける。
「言ってみろ、“光明清浄大力智慧”! 唱えれば助けてやるぞ!」
 何度も斬りつけ、真っ赤な蓑虫となって絶命した男を、擢源は富春江に投げ捨てた。
「異教徒め!」

 その時、孟康は火を免れた五六隻の突撃船とともに、水砦への進路を逸れて止まっていた。
(なんてザマだ)
 作戦は失敗だ。
(なぜ、退かねぇ?)
 阮小二は突っ込んでいく。張家軍、穆家軍は言わずもがなだ。
 孟康は視界を巡らせた。河の中心あたりでは、方臘軍の火筏と梁山泊軍の船が団子になって燃えている。
 童威と童猛の船隊が、長い鉤棹を使って燃える船を一隻ずつ取り除き、流れのままに沈ませている。炎の帯の中に通じた、わずかな水路を阮小五、阮小七らの船隊が進む。残った筏が爆発を繰り返し、火柱が立つ。それでも船は果敢に進む。
 李俊は後方にいて、迂回する水路が確保されるのを待っていた。前方に無傷でかたまっている船隊が、孟康の船であることは緑色の旗で分かる。
 水砦への進路に火筏はない。しかし、五百隻の戦船が待ち構えている。その戦場では、血みどろの戦いが続いていた。
 李俊の視界の中で、孟康の船隊が動いた。
(退いてくるか)
 しかし、その動きは、後退ではなく、前進だった。水砦に向かって、全力で漕いでいく。水手も水兵も力を合わせて櫓を押した。
 川中には、まだ火筏がぼうぼうと炎と黒煙を放っている。
(ふざけやがって!)
 孟康は、何も考えていなかった。
 ただ、なにか猛烈に腹が立っていた。腸か煮えくりかえる。生まれてから一度も感じたことのない怒りの炎だ。

(ふざけやがって!!)
 ねじ込むように水砦に体当たりした船、次々に斬り死にしていく決死隊の知った顔。
 まるで、自分が戦い、殺され、死んでいくようだ。その熱気、無念、悔しさが、ひとつになり、爆発するように膨れ上がる。砂粒のようにちっぽけな、蛆虫のようにくだらない、少なくとも孟康にはそう見えていたものが、強く、巨大なものとなり、このくだらない世界に満ちていく。
 孟康は叫んだ。
「あの船の腹に突っ込め!」
 指さすのは、水砦から漕ぎだした戦船の群である。炎の中を、兄のもとへ向かおうとする阮兄弟の船を狙っている。
 孟康の船隊は、その背後へ襲いかかった。

 美しい富春江は血と炎で汚れ、烏竜嶺には怒号と悲鳴がこだましていた。
 阿鼻叫喚の戦場である。
 阮小二隊の戦いも続いている。江南の水の男は、みな義兄弟のちぎりを結び、その絆は時として血よりも濃い。ひとり生き延びようとする者はない。次々に倒れていく仲間の血飛沫の中を、阮小二は進んだ。ひしめく敵と味方の船を駆け抜け、飛び越え、遮るものを斬っては水中に落とし、阿修羅のごとく擢源の旗艦をめざした。
 それは、現れた“太歳”の姿であった。
 阮小二の厚い胸板の奥で、禍つ星がギラギラと赤い光を放っている。太歳を掘り起こした者は、必ず、死ぬのだ。
 戦船と戦う孟康の船が視界の端に映った。背の高い孟康の姿が舳先に見える。燃え盛る河を横切ろうとするのは、弟たちの船団だ。心強い援軍だ。
 阮小二は旗艦に向かって、船縁を飛んだ。身が軽かった。風が翼を与えたようだ。阮小二は船から船へ飛び、そのむきだしの胸に、火箭が当たり、真っ赤にはじけた。


 ちょうど船と船の間を跳んでいた阮小二は、そのまま糸が切られたように水に落ちた。
 すでに旗艦の舷側である。その向こうには、水砦の門が見えていた。阮小二は水面に浮かび上がった。胸は焼けただれ、刀は水中に落としていた。船縁によじ登ろうと手がかりを探していると、頭上から鉤が何本も突いてきて、阮小二の肩や、裸の二の腕に食い込んだ。そのまま阮小二は生け捕りにされ、船上に引き上げられた。
 ぐったりと首を垂れている。しかし、“大物”と見て、擢源は舌なめずりした。
「仲間にしてやれ!」
 背後から腕を掴まれて引き起こされ、刀が阮小二の喉元に押し当てられた。あたりには、髪をざんばらに切られ、白布でがんじがらめに巻かれたまま膾に刻んで殺された顔見知りの水兵たちが倒れていた。
 方臘兵が腕を掴んだ瞬間、阮小二はさっと体をかわして背後の敵兵の鼻面を一撃し、同時に眼前の敵の腹へ猛烈な蹴りを放った。前後の二人が倒れた時、阮小二は敵兵の刀を奪い、立ち上がろうとする相手の首に叩き下ろした。
 そのまま周囲にいた十人あまりを薙いだ。相手はすでに半死半生、と油断していた方臘兵を真っ向から刀で斬り下げた。力任せに刃を骨まで叩き込み、息の根を止めた。

 苛烈な戦いぶりだった。船上に、真紅の霧がたちこめているようであった。

 童兄弟が燃え続ける火筏を一隻ずつ押し流して、炎の狭間に水路が現れつつあった。その細い道を、阮小五たちは船に水をかけながら進んだ。燃えやすい帆は捨てている。水手たちは火の粉を浴びながら全力で漕いだ。
 敵の戦船は水砦を離れ、孟康の隊が捨て身で足止めしようとしている。
 水門の前に陣取っているのは一番大きな旗艦だけだ。その甲板に、はげしく動いている人影がある。顔までは、まだ見えない。集散する敵の間に見え隠れする。それは、地上に現れた太歳だ。阮小五には懐かしい兄であり、阮小七には、初めて見る兄の姿だった。
 阮小七は、あれこそが兄の“本当の姿”なのだと疑わなかった。幼児の彼をおぶって小魚を捕りに行っていた兄は、家族のために地中に潜った、かりそめの姿であった。
 いま、凶星は蘇り、ぎらぎらと光を放っている。
 しかし、敵の数が多すぎる。船上で阮小二は孤立無縁だ。船が、自分が、空を飛べないことを、阮小七は歯噛みした。
「急げ!」
 船は立ちふさがる敵の戦船と矢を交わし、槍を突き合わせ、遅々として進まない。

 空に星が光っていた。真昼の星だ。

 それは阮小二の目にちらつく、幻の銀の星々だった。血の気は失せ、息をするのも忘れていた。胸は焼けただれ、腕にも脇にも鉤で刺された傷、刀傷が無数にあった。
 痛みも疲れも不思議と感じていなかった。ただ胸がはげしく騒ぐ。ひとり倒すたび血がたぎる。なにかが、体の奥から滾々とわき上がってくるのである。
 阮小二は取り囲まれていた。敵は百人以上もいたが、狭い船上では一斉に襲いかかれない。柱や欄干など障害物をたくみに使い、阮小二はひとりひとり倒していった。突き出される槍の穂先を断ち落とし、返す刀で背後の方臘兵を斬り伏せた。体が燃えるようだったが、心の中は冷静だった。
 昔、随分と人を殴った。かたわになった奴もいた。許してやればよかったと、阮小二は後悔した。些細な事に腹をたて、あんなに殴りつけることはなかった。世の中には、もっと、絶対に許せない奴らがいるのだ。
 誰かが、がなりたてている。
「生け捕りにしろ! 生皮を剥いで、聖句を唱えさせてやる!」
 阮小二は取り囲まれた。もうひとりも仲間は残っていなかった。勇敢な張家兵も、義理にあつい穆家兵も全滅していた。

 阮小二は帆柱を背に、全身を赤く染め、取り囲む方臘兵を眺め回した。どの顔も、味気のない顔だ。何を喰い、何を考え、どう生きてきたか、なにひとつ見えない顔だ。
 じりじりと包囲が狭まる。阮小二の視界の彼方には、たなびく兄弟の旗がかすんで見えた。阮家の黄色い旗だった。
 阮小二は刀を掲げて一声おめくと、敵兵がひるんだ一瞬に、帆柱にとりついた。血刀を帯にさし、血まみれの両手両足で帆柱を登っていく。
 登るほど、河が、山が、炎が、仲間の旗が美しく見えた。風はここでは澄んでいる。てっぺんの帆桁につかまり、阮小二は深く息を吸い込んだ。
「矢で射落とせ!」
 擢源が命じ、兵士たちが弓を構える。帆柱に、阮小二の足に、体に、矢が立った。次に、帆柱を切り倒せという命令が飛び、巨大な鋸が運ばれてきた。擢源には、このすでに死にかけた男が、耐えがたく、うとましいものに見えていた。
「生きて捕らえろ、必ず聖句を言わせてやる」
 帆柱に鋸が当てられた。落ちてきたら捕らえようと、兵卒たちが網を広げる。
 阮小二は、帆柱をたよりに立ち上がった。
「貴様らごときが、この阮小二を殺せるものか」
 河が美しい。
 空が青く、太陽がきれいだ。
 兄弟たちは、もうそこまで来ている。
 阮小二は、この美しく無情な世界へ、声を放った。
「この体内の血は、最後の一滴まで、俺を知る者たちのものだ!」
 阮小二は腰の刀を抜くと、空を見たまま、さっと自分の首を払った。


 阮小五は、その瞬間、阮小二と目が合ったように感じた。
 天地へ、眼下の敵へ、味方へ、弟たちへ、ここにはいないすべての人間へ、見せつけるように、阮小二は刃で自らの首を切ったのだ。
「兄貴──兄貴ッ!!」
 それは、阮小七の生涯ただ一度の悲鳴、絶叫だった。

 阮小二の体は、真っ赤な血潮を散らしながら、真っさかさまに落ちていった。
「阮小二!」
 なぜ、自分がその瞬間にかぎって、振り返り、それを見たのか、孟康には分からない。
 その時、彼らは方臘軍の戦船と戦っていた。火筏の間を抜けようとする阮小五たちを待ち構えている、五百隻の敵船団である。こちらは数隻の少勢だ。それでも、火筏が突入した時に水へ飛び込んで逃げた味方が、数人ずつ水から上がって合流してきた。ありったけの矢を放ち、槍先を並べて敵を突き、あるいは敵船に乗り移って善戦した。死者が増えただけだとしても、それを皮肉る気持ちは孟康にはない。
 憎いのは、方臘軍だ。彼らが本気で応戦していないのは分かっていた。彼らの目的は、対岸ちかくにいる阮小五たち無傷の梁山泊水軍と、下流に控える李俊の本隊なのだ。
 火筏が燃え尽きるか流されて水路が確保できれば、彼らも進むことができる。数に劣り、下流に位置する梁山泊水軍を一掃する好機を前に、数隻の孟康たちなど蠅ほどにしか見ていないに違いない。
(ふざけやがって)
 生臭い風が吹き荒れていた。あるいは、その風は孟康の体内に吹き荒れているのかもしれない。ならば頭の中で轟くのは、心臓のきしみか、打ち鳴らされる長鼓の響きか。
 孟康は、なにかに突き動かされた。阮小二の姿かもしれない。矢を受け、槍を受け、河へ落ちていく兵士たちの阿鼻叫喚のせいかもしれない。
 阮小五たちは、敵が舌なめずりして待っていると分かっているのに進んでくる。
 李俊率いる梁山泊水軍本隊は、急流を降る火筏に阻まれて、下流で足止めをくっていた。このまま火が収まれば、孤立した阮小五らはなぶり殺しだ。
(ふざけやがって!)
 孟康の狂ったような目が、鋭く辺りを睨め回した。
 そして、止まった。
「見つけたぜ」
 孟康の視線の先は、阮小二が死んだ旗艦の後尾、水砦の門と接するあたりである。旗艦は水砦の水門ちかくに停泊し、水中には柵が巡らされている。その柵に、一隻の火筏が不発のまま引っかかって浮かんでいた。
「船を出せ!」
 孟康は舳先に立って舵を切った。方臘軍の白矢を浴びて、針山のようになった孟康の船が動きだす。
 火筏を操船していた方臘兵は逃げたのだろう。人影もない筏の上には、藁束や柴、可燃物が山積みになっている。火筏を爆発させれば、文字通り、旗艦の尻に火がつく。
 旗艦は敵船団の最後尾だ。阮小五たちを狙っている方臘軍の戦船も、自分の後ろに火の手が上がれば、阮小五たちを待ち受けるどころの騒ぎではない。
(吹っ飛ばしてやる)

 船は、“船大工”孟康自ら改造した“特製”だ。流線型で足が速い。怪しい動きに気づいた方臘軍の横矢をかいくぐり、船縁から突き出す槍襖の隙間を抜けて、飛ぶように漕ぎ進む。火矢を浴び、矢よけの藁束が燃え上がったが、船足は少しも落ちない。孟康は掴んだ木切れに火を拾い、舳先で笑った。

 その時、“玉爪竜”成貴は水門脇の望楼で指揮をとっていた。
「なんだ、あの小船は」
 一隻の船が火の玉となり、方臘船団の最後尾を擦り抜けて、こちらに向かって突っ込んでくる。
「なんて速さだ」
 その船が目指している先に、成貴は漂着した火筏の姿を捉えた。
「あの火筏に突っ込むつもりか!」
 あんな所で爆発が起これば、旗艦が沈み、水砦への水路が封鎖される。味方の船団は退避することができず、梁山泊水軍を分断して叩く計画は水泡に帰す。敵本隊が遡上してくれば、正面きっての総力戦になってしまう。
(この船団が、わが軍の最後の船だ。失うわけにはいかん)
 成貴はすばやく計算した。この五百隻よりほかに、もう船はない。しかし、大型の戦船は敏捷に動くことはできない。
「あれを使うぞ。宋軍から奪った“長首”を出せ!」
 傍らの部下が難色を示した。
「しかし、親分」
「“提督”だ」
「しかし、提督、あれは滅多に当りませんぜ」
「“めくらの猫が死んだネズミに行き当たる”と言うだろうが!」

 不発の火筏は、孟康の目前だった。
 その柵の向こうには、もう桟橋が見えている。その桟橋から、一本の長い柱が斜めに立ち上がった。尖端には、なにかが取り付けられている。
(“火砲”か)
 もっとも、凌振のものとは違う。火薬を詰めた砲弾を、木組みの仕掛けで投げる投石機の一種である。方臘軍が宋国軍から接収したものか。孟康は笑い飛ばした。
「“まぐれ”でもなきゃ、当たりゃしねぇ」
“船大工”の孟康は玄人だ。旧式の“火砲”は射程が短く、照準も甘いことを知っている。炎の塊となった孟康の船は、空中を飛ぶようにして進む。たまりかねた水手たちが水中に飛び込んでいく。
「くらえ!」

 孟康は長身を大きくたわませて勢いをつけ、松明を投げた。松明は流星のように飛んだ。筏に積まれた藁束がぱっと赤色を放つ。硝煙をまぶした藁束はたちまち火の玉となり、筏全体が燃え上がった。
(ざまぁみやがれ!)
 孟康の脳裏に、なにか爽やかな風のような歌声が、駆け抜けた。
“青い空には──”
 それは、一瞬のことだった。
“青い空には──”
 誰かが叫んだ。
「孟の親方、危ねぇッ!」

 飛んでくる砲弾が見えた。孟康は水に飛び込もうとした。しかし、遅かった。鉄の砲弾は青い空を横切り、孟康の頭を直撃した。
(アバヨ)

 孟康の頭は砕け散り、首のない体は、そのまま暫時、一本の旗竿のように立っていた。

 孟康の船が燃えながら富春江に沈んでいく。
 残された水面では、爆発した筏の火柱が旗艦に飛び火し、方臘軍は大混乱に陥っていた。擢源は旗艦の消火に務めたが、水面には油が流れだしていて、水門を守る柵が次々に燃え上がる。水砦内に退避することもできず、ついに擢源は旗艦を捨てて、隣の船へ移乗した。他の方臘軍の船団も延焼を恐れ、攻撃を諦めて上流方面へ退避するよりなかった。
 ほぼ時を同じくして、阮小五たちのもとへも、李俊から“全軍撤退”を告げる早舟が漕ぎ上ってきた。

 孟康の体は、ゆっくりと沈みながら、美しい富春江を流れていった。
 黒煙も風に拭われ、空が青かった。

  “私を捨てて行く人は 十里も行かずに足が痛む
   青い空には、たくさんの星
   私たちの胸には、たくさんの──夢”
 しなやかな手で長鼓を打ち、切なく歌う高麗の歌姫の声も、いまは黄泉の彼方に響く。
 この世に響き渡るのは、歌声ではなく、戦の喧騒。
 憤怒と慟哭の声。
 河を七色の旗が流れ去る。
 その色だけが、まるで別世界の花園のようだった。




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