水滸伝絵巻-graphies-

第百二十七回
精衛の海に星は眠る



 山も、空も、夜の底に沈んでいる。
 世界は闇に溶け込んで、空と大地の境もない。
 寂寞の世界を、風が巡る。
 夜が明け、太陽が登るまで、ただ、星だけが世界を照らす。
 やがて、かすかに空が藍色を帯び始め、群青の中に峰々が白々と立ち上がる。
 それは、深い海の風景である。
 風が古松を擦る音が、遠い海鳴りのようだった。

 柴進は、海を見たことがある。
 有閑の風流人であった彼は、若い時分に詩を読んで、ふと思い立ち、山東の海辺まで旅をした。
 かつて、始皇帝が初めて海を見たという海岸である。
 青い空と、白い砂浜──海は、どこまでも広かった。
 若者は、その果てしない遠さに驚き、圧倒され、やがて、寂しさに包まれた。
 自分は、ちっぽけな砂粒である。
 足元で波に遊ばれている、一粒の砂と同じである。
 あまりに無力な存在であることを、海という無言の存在が、否応なしに突きつけてきた。
 海を睨み、波を見つめ、三日間、世界を眺め続けて、柴進は海を後にした。
 あの海は、潮騒は、今も心の片隅で白い波を打ち寄せている。

 苦しげな声が洩れた。
 刻々と移ろいゆく山頂の曙を眺めていた柴進は、石造りの回廊から部屋に戻った。“星の宮”と呼ばれる、金芝公主の聖殿である。
 寝台の帳の中で、妻の公主が泣いていた。
「どうした」
 声をかけると、公主は幼子が母を求めるように、柴進の腕にしがみついた。
「あなたがいないと、夜は怖くて眠れない……深い深い水の底に、引き込まれてしまう気がするの」
「また悪い夢を見たのだね」

「いいえ」
 美しい瞳から、一粒の涙がこぼれた。
「あれは、“本当にあった”こと──夢ではないの」
 柴進は公主を懐に抱き、髪を撫でた。長く艶やかな黒髪は、山中の夜気に冷えていた。
「眠りなさい」
 公主は素直に頷いて、柴進の腕の中で目を閉じた。
「そう、眠っていても……時は来るわ」
 睫毛を涙の雫で濡らしたまま、金芝公主は囁いた。
「また、“受難と蜂起の月”がやってくる」

 公主は眠り、ほどなく、鳥の囀りが聞こえ始めた。
 山に棲む多種多様な鳥たちは、いずれも人間より早起きだ。星と神秘に支配される方聖宮の夜が終わり、現実という朝がやってくる。
 鳥たちの声に混じって、遠雷に似た音が響いた。朝靄と静寂の底から生じ、峰々にこだまする虚ろな音の正体を、今では柴進も知っている。
(あれは“石大門”が開く音だ)
 柴進の心が波立った。
 公主と暮らし始めてから、もともと鋭敏な柴進の胸は、たびたび予感を感じ取る。
(誰か来た)
 重要な知らせを持った、誰かが。

 早朝、方聖宮の扉を叩いたのは、“国師”登元覚、その人であった。
 登元覚は睦州の祖士遠とともに、夜通しで山中を踏破した。そして、幇源洞に至ると、すぐさま婁敏中に面談して援軍のことを諮った。
 諮る──というより、それは懇願であり、時には脅迫の響きを帯びた。
 睦州を失うわけにはいかない──というのが、三人の一致した見解だったが、婁敏中は、自分では判断を下さなかった。
 折しも、方臘は梓洞にて三日間の瞑想に入り、正午に光明峰を下りることになっていた。
 正午、文武の重臣一同が拝謁の間に集まって、方聖王の出駕を待った。
 みな睦州の危機を思い、広間の空気は張りつめていた。
 中でも、登元覚は疲労のためばかりではなく、緊張した面持ちだった。
 方天定の守役として杭州にいた登元覚には、久しぶりの宮廷である。天上の亀裂からは陽光が斜めに差し込み、岩に穿たれた玉座の辺りを照らしている。時たま玉簾が細やかに光を反射するほかは、動きもない。
 ゆらゆらと形のない光が、波のようだな、と登元覚は思った。そんなことを思うのは、ようやく心に平静が戻りはじめていたからかもしれない。方聖宮の清澄な風には、どんな興奮した人の心も、明晰にする力があるのだ。
 もっとも、それは、却って登元覚に客観的な視点を与え、その心を沈ませた。
 杭州陥落、太子の殉教、烏竜嶺の危機……それらを、自分の口から報告せねばならぬのだ。さらにひとつ、気にかかることがあった。
 広間には、婁敏中、祖士遠、方杰らのほか、主立った臣が集まっている。その中に、初めて見る男の姿があったのだ。
 派手な金扇を手に、玉簾に近い上席に当然のように立っている。
(人品いやしからざる人物だが、明教徒らしくない)
 何者か──と、そばの者に尋ねる前に、奏楽が始まった。まもなく、玉簾の向こうに方聖王が着座した気配があった。
 一同が拝礼する。
 玉簾の両脇には、護衛の百華将軍と、伝奏者である老占星師の蒲文英が立った。

 このところ蒲文英は夜を撤して天文を観察している。老齢の彼は、その疲労のため目は落ち窪み、白髪も生気がなかった。一方の百華は、ある程度は睦州のことを聞いたのだろう。剣に手を置き、いつも以上に険しく眉根を尖らせていた。
 燕青も、居流れる群臣の端に立っていた。
(せっかくの美人がだいなしだ)
“雲璧”の偽名を名乗る燕青は、今では奉車都尉の地位を与えられ、雲奉尉と呼ばれる身分である。特に決まった職務はない名誉職だが、謁見に列する権利がある。
 援軍を求める登元覚の来訪は、燕青たちには朗報だった。梁山泊軍は、すぐそこまで来ているのだ。援軍が必要なほどならば、梁山泊軍が優勢ということでもある。
(この“援軍”、出すわけにはいかない)
 燕青は、油断なく耳を澄ました。
 朝儀の進行役は、左丞相の婁敏中である。まず睦州へ梁山泊軍が迫ったことを蒲文英を通して上奏し、右丞相の祖士遠が睦州防衛の重要さを説く。続いて、金吾上将軍の方杰が、禁軍の兵を割いて、烏竜嶺へ援軍を出すべきだと意見を述べた。
 杭州を失った登元覚は、発言する立場にはなく、ただ彼らの言葉にじっと耳を傾けている。
 最後に、婁敏中が意見をまとめ、方臘の英断を促した。
「睦州は、この幇源洞の最後の守り。手元にあります方杰将軍麾下の御林軍三万のうち、一万を割き、烏竜嶺へ援軍に遣わしてはどうかと考えます」
 暫時の沈黙のあと、蒲文英が方臘の言葉を伝えた。
「猊下には、援軍は出さぬとの御意である」
 登元覚の顔に、明らかな動揺が現れた。
 しかし、彼は、自分がすでに“国師”の崇敬を失っていることを肌で感じ取っていた。ここまで、方臘から名を呼ばれることもなく、杭州の報告を求められることもなく、進み出て挨拶をすることすら許されていないのだ。
 登元覚の困惑と焦燥をよそに、蒲文英は言葉を続けた。それは、方聖公の信任あつい司天太監としての、老人自身の見解だった。
「ここ数日、老臣は光明峰の頂にて、星の動きに目を凝らしております。見まするに、南方の将星は輝きを失いつつあるというのに、宋江ら北の将星は未だ半分は鮮やかに輝いている。これは、すでに敵軍がこの宮に迫りつつあるという、天の警鐘でありまする」
 不吉な予言に、群臣の顔色が一様に曇った。その不安を収斂し、統御するために、柴進はあくまで沈着に口を開いた。
「いかにも。北方の郁嶺関にも敵軍が押し寄せ、先日、援軍を出したばかり。御林軍三万ですら、宮城の守りとしては心もとない。猊下の貴き玉体こそ、我等が総力をもってお守りせねばならぬもの。いったい誰が、猊下よりも烏竜嶺の方が大事──と申されるのか」
 ついに、登元覚は礼節も忘れて進み出た。ここにいる者たちは、方杰を覗けば軍事のことなど分からないのだ。
「猊下、拙僧の言葉をお聞きください。烏竜嶺こそ……」
 百華が素早く立ちはだかり、登元覚の前進を遮った。
「お控えください。猊下は、援軍はならぬと仰せです」
「ご再考を。太子をお守りできなかったのは、確かに拙僧の罪。しかし、もはや危急存亡のとき、敵に烏竜嶺を越えられては……」
 遮られても、登元覚はなお進もうとした。その前線を阻んだのは、今度は百華ではなく、冷やかな柴進の一言だった。
「守る?」
 その声は厳しく、責める色さえ帯びていた。
「本当に、太子をお守りする気があったのか?」
 登元覚は、憤怒の目で柴進を睨み据えた。柴進は、その怨嗟を正面から受け止めて、悠然と扇を揺らした。
(なにかが、おかしい)
 登元覚は言葉に詰まった。
 その機を逃さず、柴進は百華将軍に目配せした。百華は頷き、奥にある控えの間から、ひとりの百華兵を呼び寄せた。
 登元覚にも見覚えのある少女だった。杭州に配属されていた、方天定護衛の百華兵だ。重傷を負っているらしく、両脇を宮女に支えられていた。
「国師も御存知の、この娘は」
 百華兵の指揮官である百華が言った。
「杭州から脱出し、最近、命からがら幇源洞まで落ち延びてきた者です。さぁ、杭州陥落の時の事を話してごらん」
 少女は顔をあげ、痛みに耐えて頷いた。登元覚を睨んだ目には、深い恨みがこもっていた。
「登国師は、私の仲間の百華兵を太子殿下の身代わりにして、太子とは別の道へ、先にお逃げになりました。太子殿下は百華兵とともに脱出を図りましたが、すぐに敵軍に発見されてしまいました。私は仲間とともに戦い、太子殿下はいったんは逃れられましたが、ついには殉教されたのです。私の仲間も全滅しました」
 少女は自分も重傷を追いながら、なんとか宋国の追及を逃れ、ここまで戻ってきたのだった。柴進は少女を労り、それから、蒼白の登元覚へ目を向けた。
「なぜ太子は殺され、国師は無事なのか。敵が太子を追ったおかげで、国師は包囲から逃げおおせたのではないか?」
「なにを言う」
「杭州陥落、太子殉教は、明教の一大事。早急に自ら参内して報告すべきところを、今更、援軍が必要になったからと来るのも、解せぬこと」
「それは、烏竜嶺の守りが先決と……」
「その烏竜嶺も、すでに風前の灯火ということか」
 柴進は舌鋒をゆるめなかった。登元覚の来意を知ってから、柴進はあらゆる知恵と要素を動員した。蒲文英と会い、燕青を使って百華を動かし、彼ら自身も知らないうちに、この“芝居”を書き上げたのだ。
「そもそも、御林軍を分散させ、方聖宮の守りを脆弱にするのが、敵の狙いであろうことは、一目瞭然」
「そなた、いったい何者だ!」
 登元覚は怒りに震えた。しかし、柴進は僧のこめかみに浮いた青筋を一瞥したのみで、婁敏中が代わりに答えた。こんな場でも、婁敏中は事務的だった。
「こちらは主爵都尉の柯引殿、金芝公主の夫君でいらっしゃる。国師は、初対面でしたな」
「公主の? まさか」

 登元覚は柴進の姿を見返した。金扇が、腹立たしいほど華麗に揺れる。
「“降魔太子”方天定殿下は、我が義弟。妻も、その死を嘆き悲しんでいる」
 だが──と、柴進は、登元覚を慰めるように言葉を継いだ。
「むろん、方天定殿下のことは痛手だが、やがて“次の太子”が生まれれば、公主の哀しみも癒え、国師の罪も消えるであろう」
「次の太子……」
 登元覚は頭を殴られたような衝撃を受け、それから耐えがたい絶望感にとらわれた。金芝公主の教団における地位は、彼もよく知っている。
 その公主が夫を持ち、子供を生めば──。
 あれほど輝かしかった方天定の姿が滲み、模糊とした霧の彼方に消えてゆく。
 再び奏楽があり、玉簾の向こうで方臘の気配が動いた。
「猊下は瞑想にお戻りになります」
 登元覚が何か言う暇もなく、百華が告げた。

 方臘が去ると、謁見の間には気まずい空気が残された。
 登元覚は黙然と立ち尽くしている。一方の婁敏中は、あくまでも事務的だった。
「御意は御意だが、実際、烏竜嶺が落ちては困る」
 婁敏中は、柴進に発言を促した。
 周朝皇帝の子孫である身分を明かし、金芝公主の夫となってからは、婁敏中の中で柴進の重要度はいや増していた。柴進も、巧みにその期待に応えている。
「ならば、一万ではなく、半分の五千で猊下に諮ってみては如何」
 柴進が提案すると、方杰が名乗り出た。
「それがいい。俺が説得してみよう」
 すぐに行こうとする方杰を、すかさず燕青が追いかけた。
「俺も行こう」
 成り行きを見守るためである。
 謁見の間の奥には、小さな控えの間があり、方臘はここから出入りする。通常の者は立ち入れないが、方杰は甥の身分である。その方杰の“腹心の友”の地位を、燕青は手に入れていた。
 控えの間は、窓もない小部屋である。岩壁に穿った窪みに、小さな蝋燭が燃えている。薄暗い。岩窟まで方臘を追った方杰は、ほの白い人影を見て、足を止めた。
 蝋燭が放つ蜜色の光の輪の中、長椅子に身を投げるようにして、金芝公主が泣いていたのだ。
「かわいそうな、天定……救えなかったおねえさまを許して」
 しのびやかに咽ぶ公主を、星の宮付きの侍女になった銀泉がしきりに慰めている。
「公主様、もうお泣きにならないで。お体にさわりますわ」
 方臘の姿はもうなかったが、謁見の前に公主と会っていたのは間違いなかった。方臘は、今も“星の巫女”たる公主の言葉を重んじている。
 そして、それは、いまだ公主の熱烈な崇拝者である方杰も同様だった。
 長い黒髪が幾筋か額にかかって、雨に濡れた白百合にも似た儚げな美しさが際立っている。
「わたしは、弟を杭州へやるのは反対だったの。登元覚は、天定を必ず守ると約束したのに……とうとう、殺してしまったわ」
 公主は涙に濡れた顔をもたげ、方杰を見た。
「あなたまで、方聖宮を見捨てて、烏竜嶺へ行ってしまうの?」

 青みががった公主の瞳は、深い水をたたえた湖のようだ。吸い込まれそうだ──と、燕青は思った。方杰には、燕青の詩情はなかったが、その“深み”に足を取られたのは確かだった。
「いや、俺は……その」
 公主が結婚してからの方が、親しく話す機会が増えていた。“親友”の雲奉尉を訪ねて、聖殿に出入りすることもできる。結局、彼は、今も完全には諦めきれていないのだ。
「とはいえ、援軍のことは……睦州を、失っては」
「杰は、あの“受難と蜂起の月”を忘れてしまった。次はきっと、わたしが死ぬの。敵がここまで攻めて来て、おかあさまのように……!」
「そんなことは、決してさせない!」
 涙を流す公主の足元に、方杰は身を投げ出すように膝を落とした。
「公主は、この方杰が命に替えても、お守りします」

 謁見の間に戻った方杰は、厳しい顔で登元覚に告げた。
「御林軍から援兵は出せない」
 登元覚は、すでに諦めていたようだった。
 結局、方聖宮からは援軍を出さず、睦州の祖士遠が部下から精鋭五千を選び、夏侯成という若い将軍に引率させて烏竜嶺へ派遣することに決まった。婁敏中の独断である。
「とにかく烏竜嶺を守るのだ。その間に、何か手を考えておこう。敵を動揺させ、打撃を加える方法を……」
 一同が謁見の間から下ると、燕青は方杰に声をかけた。公主の言葉が気になったのだ。
 援軍を阻止するのに、公主が助け船を出してくれたのは、ありがたかった。柴進が何か入れ知恵をしたのだろう。
「彼女が言っていた、“受難の蜂起の月”というのは、なんだい」
 方杰の肉付きのいい顔に、普段はない陰が落ちた。
「いやな話だ。明教が邪教として弾圧され、仲間が次々に捕らえられた事件だ。捕まった信者は、残らず銭塘江のほとりで、ひと月にわたって虐殺された。串刺しにされたり、生きたまま皮を剥がれたり、焼き殺されたり……処刑は毎日つづき、何千もの明教徒が殉教したのだ。方一族も根こそぎ捕らえられ、生き残ったのは、方聖公、三大王、太子、公主、俺と、祖父の六人だけだった」
「それが、“受難”か。では、“蜂起”とは」
「その処刑の最後の日、それまで平安を願う教団だった我々は、武器を手にして、宋国に反旗を翻したのだ」
 花石綱から始まった江南の荒廃によって明教は成長し、山中で自治を始めて、やがて宋国に邪教と敵視されるようになった。宋国の弾圧に抵抗するために戦が始まり、この大叛乱に発展した。そのきっかけが、“受難”と“蜂起”だったのだ。
「戦には勝ち続けたが……六人いた血縁も、すでに“三大王”方貌殿下と“降魔太子”方天定殿下が死んで、もう残りは四人きりだ」
 方杰は、重い溜め息をついた。
 今後増えるとしても、それは、公主と柯引の子供になる。そう思えば、この単純な男も、心からは喜べないのだ。

 その頃、烏竜嶺の麓でも、ひとつの溜め息が漏れた。
 ただし、さほど重いものではなかった。
「足手まといにさえ、ならなければよい」
 溜め息の主は、梁山泊の軍師“智多星”呉用である。
 話題は、枢密使・童貫のことだった。
 天子の覚えめでたく、朝廷内に絶大な権勢を誇るこの宦官大臣は、山ほどの褒美を携えて梁山泊軍へやって来た。
 援軍というわけでもなし、目的が“漁夫の利”であるのは明らかだ。梁山泊軍の勝利が間近とみて、慰問の名を借りて自分も同行しようというのである。
 宋江は、自分の宿舎を明け渡し、丁重に童貫をもてなしている。
 呉用はあくまで童貫の存在を無視する心づもりだ。花栄は、賓格扱いを当然のように受けている童貫の態度が気に食わない。
「我々は命を張って戦ってきた。死んだ者さえある。今さらノコノコとやって来て……そうだ、いいことを思いついたぞ」
 花栄は木陰に置いた粗末な卓に、呉用と向かい合って座っていた。
「梁山泊での招安戦、あの時の聞参謀に倣ってはどうだ。童貫を、方臘軍の囮に使う」
 かつて、梁山泊に官の大軍が押し寄せた時、敵の軍師“探花”聞煥章は上官の童貫を囮に使い、梁山泊軍を翻弄した。花栄はその事を言っているのだ。

 呉用は、あの時の熾烈な戦いを思い出し、青空へ少し遠い目を投げた。もう、前世ほど遠い昔の事に思えるが、まだ数年──記憶は、今も鮮明だった。
「童貫も、物覚えはよいようだ」
 呉用の視線が向いた先には、裴宣と、ひとりの青年──というには、まだ幼さの抜けきれない若者の姿があった。

 凛々しい甲冑姿の若者は、童貫が伴ってきた呼延灼の息子の威児だった。梁山泊の二世の中でも一番の年長で、呼延灼から武人としての資質を受け継いでいる。
 ずっと呼延威は長く待ち望んでいた初陣をついに迎えて、その頬は誇らしさに輝いていた。
 しかし、呉用も、花栄も知っている。
 彼は、童貫の“人質”だ。
 呼延灼の息子を手元に置いておけば、梁山泊軍から見捨てられたり、わざと危地に陥れられる恐れはない──狡猾な童貫は、そう見抜いているのである。

 そんな童貫の思惑は、もちろん“鉄面孔目”裴宣にも分かっている。彼の探ったところでは、童貫は花栄の息子の望春や、徐寧の遺児である晟児も連れ出そうとしたようだ。
 望春はあいにく病気、晟児は父親の喪中──ということで、それぞれの母親が辞退した。呼延威だけが、自ら望んで来たのである。
 裴宣は若者の身を案じたが、梁山泊で別れて以来の少年が、数年の間に立派な武人に成長したことへの感慨も深かった。
(子供の成長は、実に早い)
 肩幅のあるがっちりとした体格は、呼延灼にそっくりだった。相当に武芸の鍛練も重ねているのだろう。意志の強そうな顎をしている。
(小魚や関鈴のいい仲間になるだろう)
 梁山泊の二世たちの中でも、呼延威は頼りにされる存在だった。
 ただ、“軍神”呼延灼に似ているのはそこまでで、思慮深げな眼差しは、女兄弟の中で大切に育てられた少年特有の優しさを帯びていた。
 その、どことなく老成した目が誰かに似ているな──と裴宣が思っていると、呼延威は懐から小さな袱紗を取り出した。
「姉上からです」
「私に?」
 事務的な書類にしては、美しい布の袱紗だった。派手ではないが端正な折り目の布が、呼延威の長姉である剣娘の爽やかな人柄を、裴宣に風のように思い出させた。
 袱紗を開くと、中には一対の青い組紐飾りが包まれていた。双剣用の飾り紐だ。
 裴宣は袱紗の中をあらためたが、書き物などは入っていない。
「なぜ私に」
「御礼だそうです。姉上が、自分で編んでいらしたものです」
“礼”と言われても、裴宣には心当たりもない。
 戸惑う裴宣を前に、呼延威は少年らしい快活な笑みを浮かべたままだ。
 彼は、この梁山泊でも有名な“堅物”に、強い好意を抱いていた。
 それは、あの“青州戦”以来の感情である。父親の呼延灼がまだ官軍だった時、青州へ賊討伐に出陣したまま、朝廷の“裏切者”となった。東京に残っていた彼ら一家も、間もなく捕らえられるだろうとの風聞があり、ある夕刻、ついに役人の一団が荒々しく屋敷の門を叩いた。
 幼い呼延威は、姉たちと虜囚の車に押し込められた。双子の姉たちは泣き、彼も泣きたいほど怖かったが、じっと暗闇の中で我慢していた。
 長姉の剣娘は、気丈だった。妹たちを力づけ、弟を慰め、自分は眉ひとつ曇らせることはなかった。やがて、情況が奇妙なことに気づいたのも彼女だった。
 馬車は東京を出て、何日も旅して、いつか見知らぬ土地についた。最初はいかめしかった“役人”も、東京から離れるほどに優しくなった。
 しかし、顔は怖かったし、物腰は乱暴で、やはり生きた心地はしなかった。父親が山賊になったので、これから“梁山泊”に行くのだ──と聞かされた時は、よけい恐ろしくなった。
“梁山泊”は、夜叉より怖い山賊の巣窟と聞いていたのだ。
 だから、とうとう“梁山泊”に着いた時には、剣娘すら初めて心細げな顔をした。それに先立ち、“万一の時は”──と、妹たちに自害の作法を教えていたほどだった。
 呼延威は、旅の途中で小刀を手に入れていた。それを懐に隠して、勇気をふるって最初に馬車から飛び下りた。
 真っ青な空と、はてしない水が見えた。
 東京では見たことのない、広々とした風景だった。船着場があり、そこに、一人の清々しい容貌の人が立っていた。

『ようこそ──あなた方を歓迎します』
 それが、“鉄面孔目”裴宣だった。
 風が吹いた。
 その声を聞いた時、子供心に、この人は信頼できると直感した。
 誰も──父すら頼ることのできなかった姉は、もっと安堵したに違いない。
 裴宣は姉たちが車から下りるのに手を貸し、旅の疲れを労り、驚かせたことなどを丁寧に詫びた。
 その後も、一家が梁山泊に落ち着くまで、何くれとなく面倒を見てくれた。
 今回、これまで弟の出陣にずっと反対していた姉が、ついに彼の出陣の意志に同意した。その理由は、彼が既に戦場に耐えうるほど成長したこともあるし、“梁山泊への援軍”という大義名分も一因だったに違いない。
『梁山泊には恩がある』
 呼延剣娘は、今も、たびたび言っている。
 まだ腑に落ちない顔をしている裴宣に、呼延威は自分の佩剣を掲げて見せた。
「御覧ください、ほら、僕も」
 その柄にも、同じ組み方の、赤い紐飾りが揺れていた。
 裴宣は、ようやく得心した。
(賢いひとだ)
 剣娘は裴宣を信頼し、この一対の組紐飾りに、“弟を頼む”という心を託したのに違いない。
「姉上はご息災か」
「はい。韓家の老父母や、彭家の姉妹の世話を焼いて、毎日、忙しくしております。下の姉たちは、揃って聞探花に預けられましたので、僕がこうして出陣すれば、だいぶ楽になるでしょう」
「君が帰る時には、姉上に何か返礼を贈ろう」
「お礼のお礼は、おかしいでしょう」
「しかし、礼をされるようなこともしていない」
 呼延威は、思わず紅顔を綻ばせた。
(姉さんとこの人は、まったく似たもの同士だな)
「そのことは、いつか直接、本人にお聞きください。あの人は見かけによらず頑固ですから、なかなか言わないかもしれませんが」
 真夏の日差しが、若者の目に生き生きと煌めいていた。

「あれは見どころのある若者だ」
 童貫が窓の外に目をやり、呼延威を顎で示した。
「武学での試合を見たが、なかなかなものだった」
 対座するのは、宋江である。朝廷という堅苦しい場所ではないせいか、童貫は寛いだ様子を見せていた。
 以前は健康のために酒も飲まなかったが、老年になって体力も衰えてきているのを感じる。疲れを、酒で紛らわせることも覚えていた。
 宋江は御酒を相伴しながら、裴宣と親しげに話している呼延威の姿を眺めた。
 しかし、特に何か言うこともなく、趙譚が間を取り持った。
「童閣下には、きっと引き立て、栄達させてやろうというお心づもりだ。父親の呼延灼もさぞや喜ぶであろう」
 宮廷の作法としては、立ち上がって大仰にお礼を述べるところである。
 それでも、宋江は、やはり黙っている。
 童貫は居心地の悪さを感じた。
 宋江は悦びもせず、かといって反発もしない。人間の目から、なんの思惑も読み取れないなど、童貫には初めてのことだった。
 宋江の気持ちを探るため、童貫は話題を転じた。
「宋先鋒の快進撃をお聞きになり、天子も竜顔ことのほか麗しく、わしに数多の褒美をお託しなされた。更なる吉報を、首を長くして待とうとの仰せ。この烏竜嶺も、近日には落ちるであろうな?」
 彼は朝廷という“魔界”に住まう、宋国最大の“魔物”である。天子の心さえ操って、今日の栄達を掴み取った。自分以外は、天子はもちろん、蔡京さえ凡人──と侮っているのに、いま、宋江を前にして、得体の知れない不気味さが拭いきれない。
(はたして、宋江とはこのような男だったか?)
 童貫が宋江に会ったのは、招安が成就して以来のことである。
 あの時は、“精彩のない平凡な小男”と、見下していた。小役人あがりで、人がよいだけが取り柄、なぜ梁山泊の首領になれたのか、まるで理解できなかった。わざと凡庸を装っているのかとも疑ってみたが、それも全くの杞憂であった。
 軍師である呉用のことはある程度は認めているから、よほど配下が有能なのだろう、くらいの気持ちでいたのだ。
 今回は仲間が多く死んだと聞いて、宋江もかなり意気消沈しているだろうと思っていた。しかし、恨み言もいわず、かといって功を誇りもせず、挙措はきわめて平静だ。
 童貫は、宋江の真意を目で探りとろうとした。
 姿形は変わっていないが、なにかが、決定的に変化したような気がするのだ。
 宋江は、あくまで沈黙と落ち着きを保っている。その態度を“不敬”と見たのか、腰巾着の趙譚が口を挟んだ。
「閣下は、烏竜嶺のことをお尋ねであるぞ」
 宋江は、趙譚を一顧だにせず、ゆっくりと童貫の顔に視点を合わせた。
「──烏竜嶺の陥落を御覧になりたいのですか」

 その底も無いような目に見つめられ、童貫は、理屈ではなく、ぞっとした。
 一方の趙譚は、この宋江という男は“本物の愚鈍”だと、心中で思う存分ののしった。
「よいかな、閣下が仰りたいのは……」
 童貫が、趙譚を手で黙らせた。
「宋先鋒の考えを聞こう」
「もちろん、烏竜嶺は越えねばなりません」
「日数はどれほどかかるか」
 宋江は答えなかった。ただ何かが、闇夜に飛ぶ烏の影のごとく、その双眸の奥を過っただけだった。それは、童貫にすら、捉えられない影だった。
 そこに呉用がやって来たのは、童貫にとっては、ある意味救われた心地がした。
 呉用は童貫に問われるままに、烏竜嶺越えについて端的に答えた。
「烏竜嶺を正面から越えるのは困難です。一帯も一様に険しい山地ですが、現在、迂回して越える路を探っております。見つかれば、動きもありましょう」
 趙譚が今度は呉用にかみついた。こういう場では、出来るだけ自分の存在感を示しておかなければならないと信じているのだ。
「裏道とな。わざわざ閣下がおいでなのだぞ。もっと華々しく、正面から」
「黙れ、趙譚」
 童貫が一喝した。
 童貫は、梁山泊のことを、よく知っている。あの苛烈を極めた招安戦では、十節度使に官の大軍を率いさせ、奇才“探花”聞煥章まで隠居所から連れ出して、万全の体勢で臨んだのに大苦戦した。童貫一代の栄華も尽きるかと、密かに覚悟したのも事実である。
 だから、梁山泊の恐ろしさも、手強さも、骨身に沁みて知っているのだ。
(わしに、梁山泊を使いこなす力量があるかどうか)
 自分は万能と自負している童貫が、それだけは自信がなかった。
 だから、童貫も多少の頭は下げてやるつもりだった。
 彼にも、彼の痛い腹があるのだ。
 北方の新興国・金国と同盟し、北方の脅威である遼国を討つ約束がある。一度は和議したとはいえ、遼国は年ごとに莫大な財貨を求めてくるし、燕雲地方の奪還はいまも宋国の悲願なのだ。精悍な金国と力を合わせれば、遼国を討ち滅ぼせる可能性は十分にある。
 しかし、そのために準備した兵十万を、火急の方臘討伐に割いているのが現状だ。
 宋国がなかなか兵を出さないものだから、金国からは違約を疑われ、矢の催促だ。また天子には、すでに方臘の乱はほぼ鎮圧したと奏上してある。だいぶ以前に、数千の明教徒と、方臘の一族を捕らえて処刑した。方臘の妻の劭氏、次男の亳、二弟の肥など……その事を、今さら最近のことのように大げさに報告し、方臘は滅亡寸前──と偽っているのである。
(宋江には、さっさと方臘を討ってもらわねば困る)
 童貫は、自分を賢いと思っている。人を操ることができる。それは、相手が何を求めているのかが、手にとるように分かるからだ。
 しかし、今、彼には、宋江が求めているものが見えない。
 童貫の落ち着かぬ心を知ってか、知らずか、宋江は静かに告げた。
「烏竜嶺は落ちるでしょう。どうぞ腰を据え──最後まで、御覧ください」

 烏竜嶺を通らずに、睦州に抜ける路を探して山地を越え、関所の両側から挟撃する──呉用が新たに立てた策の実現のため、二組の頭領が深山の偵察に当たっていた。
 ひと組は馬麟と蒋敬、もうひと組は王英と扈三娘である。王英の組には、燕順が強引に加わっていた。
 解兄弟でも見つけられなかった間道である。そもそも、存在するかも分からない。彼らは捜索範囲を広げたが、一日じゅう歩き続けても、一向に収穫は得られなかった。
 その日、灯ともし頃。帰還した扈三娘が宋江のもとに報告にきた。頬のあたりに、終日の山歩きの疲れが淡い影を落としていた。
 それでも、今日は予定していた地域が探りきれなかった。燕順の身体を気づかうと、どうしても距離を稼げないのだ。
「宋首領にお願いがあります」
「なんでしょう、あなたが“お願い”とは、珍しい」
「親分を、諭していただけないかしら……探索は王英と私に任せて、しっかり養生するように」
 宋江は風の抜ける野外に座って、みなが黄昏の下で夕飯を食べるのを眺めていた。
「分かりました、言ってみましょう」
 扈三娘は少しほっとした顔をしたが、すぐに奥の建物へ目を向けた。そこは昨日まで宋江が宿舎にしていた建物で、今は童貫一行が陣取っている。開いた窓から、賑やかな宴会の声が漏れていた。
「こんな時に」
 扈三娘は眉をひそめたが、宋江は気にしているふうもない。
「かまいません。山上の砦も、こちらが油断していると思うでしょう」
 宋江の穏やかな言葉に、扈三娘の肩の力が抜けた。宋江と話していると、自然と素直な気持ちになる。
「宋頭領は、怒ることってないのかしら」
「もちろん、あります」
「うそ」

 まるで“親戚のおじさま”に甘えるように、扈三娘はかつての令嬢の顔を見せて笑った。
「うらやましい。私、梁山泊に来た頃は、いつも“なにか“に怒っていた。ずいぶん、みんなを困らせたわ。今も時々、王英に腹が立つ時があるの。ヘンなことを言ったり、やったり……でも、だいぶ気にならなくなった。親分の聞き分けが悪くても、王英がなにか失敗しても」
「それは、心が満ち足りているからでしょう」
 宋江は、西の空高くに輝く明星を見上げた。
「そうなのかしら」
 扈三娘も星を見た。真っ赤な戦いの星ではなく、清らかな銀色の星だった。
 黄昏は、穏やかで、人々の喧騒も夢の中で聞くように、あいまいな優しい輪郭を帯びている。世界の境もあいまいになり、天も地も山々も、人も、ひとつの大きなものに溶け込んでいくようだ。どこからか、綻ぶような流れの音が聞こえてくる。
 扈三娘はふと、自分が、とてつもなく大きな水の中の一滴だという幻想を抱いた。この世は尽きることのない河の流れで、命はその波間で日々に消え、日々に生まれる。
 おちついて、ゆったりと、流れ行く大河──深く、はてしないものに、命は、ただ身をゆだね、満ち足りて流れていけばいい。
「──幸せそうだ」
 宋江が、扈三娘を見上げていた。
「ええ」
 扈三娘は、われしらず微笑みを浮かべていた。
 運命に身を委ね、仲間とともに生きていることに安堵する。それが、こんなに心地よいとは思わなかった。
 厳格な父親に抗い、どこまでも運命に逆らって生きようとした少女の時代は、完全に終わりを告げたのだ。
 今は、思う。
“自分は、このままでいいのだ”──と。

 次の日も、王英と扈三娘は燕順をいたわりながら、夜明け前に山に入った。
 涼しいうちに、距離を稼ごうという考えだ。
 山地は広く、馬麟の組と打ち合わせて、地域を分担して探索している。その日は、まだ入ったことのない東の山を登ってみることにした。
 わりあいに緩やかな山で、樹木も多い。朝露が下草を潤して、土が豊潤な自然の匂いを放っていた。
 王英は足どり軽く先に進み、扈三娘は燕順を気遣いながら、抜かりなくあたりにも気を配る。小鳥の声、藪に咲く小さな花にも目が止まる。
 燕順は、岩場を登るのにも息があがる。扈三娘が、杖に手頃な松の枝を拾ってきた。
「使って、親分。仙人だって、杖を持っているんだから」
「楽しそうだな!」
「今日は、なんだかいい事がありそう」
 太陽が稜線から顔を出す頃、三人は視界の開けた崖に出た。青い山々が眼前に広がっている。朝もやが、白く雲海となり、谷底にゆったりと満ちていた。

「ねぇ、王英。海って、こんな感じなのかしら」
「わかんねぇ、見たことねぇもの」
「私は、兄様の書斎で絵を見たわ」
 扈三娘の兄の扈成は文人肌で、さまざまな書画を集めていた。その中に、波立つ果てしない水を描いた一幅があった。
 扈三娘は胸に清澄な風を吸い込んだ。
「山の中にも、海があるの」
 燕順はひとり離れて、あたりの地形を調べている。やがて、藪の向こうから二人を呼んだ。
「湧き水がある、飲めるぞ!」
 行ってみると、岩の間から、澄んだ水が勢いよく流れ落ちていた。扈三娘は喉を潤し、手拭いを濡らして汗を吹いた。
「あら」
 湧き水の回りは灌木の藪になっていて、見ると、人がどうにか抜けられるくらいの隙間があった。王英も気づいて、二人は並んで薄暗い藪の奥を覗き込んだ。
「道ってほどじゃないけれど……」
「通れそうだぞ」

 王英が先頭に立った。
 刀で枝を切り払いながら、足場の悪い藪の中を進んでいく。道があろうがなかろうが、行けそうだと目星をつければ、王英は躊躇はしない。
 扈三娘は燕順を気づかって、やや後方に遅れてついて行く。
 小柄な王英は、藪を進むのには都合よかった。枝に顔や手を切られるのも頓着せずに、どんどん進む。
 森の中はしんとしている。足元には落ち葉が積もり、歩くたびに靴がめりこんだ。頭上には、あらゆる植物の枝と蔓が、網の目に絡みあっている。
 小虫がプンと唸って飛びすぎた後には、風もない。
 王英は、急に不安になった。
 藪の中に立ち止まり、声をあげて、扈三娘を呼ぼうとした。だが、我慢した。
 どこに方臘軍がいるか分からないから、大きな声を出すのは御法度なのだ。たった一人で藪の中に取り残されて、“ちびの王英”より、もっと小さな何かになってしまったようだった。
 扈三娘たちは、なかなか追いついてこない。
(迷ったのかな)
 王英は刀で藪を払った。すると、藪の奥にひっかかっていた物が舞い上がり、枯れ葉か蛾か、白いものがぺたりと王英の顔に貼りついた。
(わっ!)
 ぎょっとして手で払うと、それは古い紙銭──死者に供える銅銭型の切り紙だった。改めて足元を見れば、枯れ葉の下にも白いものが落ちている。足で探ると、茶色く朽ちかけたものや、破れたものや、まだ新しそうなものもあった。
 こんな人気もない山奥に、なぜ、紙銭が落ちているのか。
(親分と扈三娘はなにしてるんだ?)
 ついに声を上げかけた時、近くの藪で生き物が動く気配がした。
 王英がやって来た方角とは反対側だ。
(獣か、まさか方臘兵か)
 気配は、複数ではない。さほど大きくもないようだ。慣れた様子で、カサカサと笹藪の中を近づいてくる。
「だれだッ」
 叫んだ途端、藪が騒いで、“気配”は一目散に逃げ出した。藪の向こうに、ちらりとその姿が見えた。獣ではない。
 王英は追いかけた。山家の人でも、方臘兵でも、捕まえて山越えの路を聞き出すつもりだ。幸い、藪を透かしてちらつく背中は、方臘兵の“白”ではない。木立に紛れる黒か茶色か、毛皮みたいな薄汚れた色だった。
(山には“野人”がいると聞いたぞ。気をつけねぇと)
 王英は敏捷だった。相手が獣人ならば、王英だって虎のはしくれだ。すぐに追いつき、薄汚れた背中に飛びついた。そのまま落ち葉の中に突き倒すと、弱々しい悲鳴があがった。人間の、老人のものだった。
 老人は王英の体の下で、痩せた手足を狂ったように動かしている。
 捕まえてはみたものの、王英にはどうしていいか分からない。とりあえず暴れる老人を抑えていると、扈三娘が藪を分けて追いついてきた。
「王英、お年寄りに手荒なことをしてはダメよ」
 はぐれたかと思ったが、今の騒ぎで王英の居場所が知れたのだ。
「だって、俺を見て逃げたんだ。あやしいぜ」
「誰だって、逃げるわ。こんな山の中で人に遇ったら……」
 扈三娘は枯れ葉の中から、老人を助け起こした。毛皮と見えたのは、つぎはぎだらけのボロを身につけてるせいだった。老人はなすがまま、扈三娘に抱き起こされた。その間に、燕順も足を引きずるように合流してきた。
 幸い、三人の格好は軍人らしくない。老人はやや安堵したようだった。
「驚いた……方臘軍かと……」
 ようやく三人の顔まで見る余裕がでたのだろう。老人は扈三娘を見て、喜びの目を見開いた。
「“三お嬢様”……!」

「え?」
 扈三娘は戸惑ったが、すぐに老人が“人違い”をしていることに気がついた。扈三娘が老人を安心させようと微笑み返すと、老人は両手を合わせ、喜びの涙を浮かべた。
「“三お嬢様”、よくぞ、ご無事で。あの嵐の後、ずいぶんと、みなでお探ししました」
 哀れな老人は、少し惚けてしまっているのだった。それでも、人違いの相手も自分と同じ“三お嬢様”らしいと知って、扈三娘は不思議な縁を感じた。
 老人についた枯れ葉を払ってやりながら、扈三娘は優しく尋ねた。
「こんな所で、いったい何をしているの?」
「もちろん、旦那様方のお墓参りでございます」
「こんな山の中に、お墓があるの?」
「お忘れですか。それ、この先に一族の皆様のお墓が」
 老人は、薄暗い木立が続く斜面を指さした。
「そこには大旦那様のお墓、隣には大奥様。この先を下ると、五の旦那様と、性悪のお妾……上の方の斜面には、二の若旦那の早く亡くなった坊っちゃまが眠っていらっしゃる。賢いお子だったのに、川に落ちて」
 老人は木立の奥を次々に指さした。扈三娘は驚いた。よほど古い墓なのか、覗いても、墓らしいものは見えない。
「ずいぶんたくさん、お墓があるのね」
「この山は風水がとてもよいので、山全体が宏家の墓地になっております」
 老人は宏家という富裕な家の召使だったという。宏家はこの深山で薬草を採って富をなし、特に梅の古木に生える霊芝は宝石をしのぐ高値になった。
「しかし、ある夏の嵐の夜、山崩れでお屋敷も梅林も土砂に埋まって……ほとんどの人が亡くなりました。生き残った者も、山をおりて、別の土地へ移りましたが、わしは、ご主人様たちのお墓を守るため、残ったのでございます」
 老人は淡々と言いながら、枯れ葉を踏んで急な斜面を登っていく。王英たちには、ただの荒れ果てた山肌だが、老人には、そこにはっきりと亡き人々の姿が見えるらしい。
「これは若旦那様。お優しい方でござった。これは、そのお妹の三お嬢様……崖崩れのあと、お嬢様だけご遺体が見つからず、墓には掘り出した簪を収めてございます」
 あの湧き水のあたりまで、一族歴代の墓があるのだという。古い墓はすでに土盛りもなく、いちばん新しい墓も、もう何十年も前の崖崩れの死者のものだという。
 自分に似ていたという“三お嬢様”の墓は手入れがいいのか、松の根本に小さな土饅頭の名残が見えた。
「わしは、今も廃屋となった屋敷の納屋に住み、草の実などを採って生きております。隣の山に方臘軍が来てからは、前ほど自由に動けませんが、皆様のお墓まいりは欠かしません」
 扈三娘は、どこまでも続く森を見渡した。
 山中には、どれくらいの人が眠っているのか。
 死んだ人々は土に還り、その上に木が育ち、実がなって、鳥たちが種を運んでいく。その種が、また木となって、森はどこまでも永遠につながっていく。
(立ち並ぶ木が、まるで、むかし生きていた人々のよう)
 老人は懐から紙銭を出して、木々の間に撒きはじめていた。
「焼くと火事になりますから、昔から、風に散らす習わしです」
 扈三娘は岩影に山百合が咲いているのを見つけ、一輪つむと、亡き令嬢の墓に手向けた。
「おじいさん、今日は誰の命日なの?」
「死んだ人は何代にもわたって、何百人もおりますから、毎日が誰かの命日。薬草を採り集めては、紙銭に換えて供えております」
「まぁ、こんな山の中にも、お店があるのね」
 老人は、隣の峰を指さした。
「あの峰に、東管へ下りる切り通しがありますので、年寄りの足でもなんとか街へ行けますわい」
 老人は、方臘軍が来てからは紙銭などは禁止になったが、昔の知り合いに頼んで薬草と交換してもらっている──と話し続けた。しかし、もう扈三娘たちは聞いていなかった。
「道があるの?」
 扈三娘は、老人を驚かさないように聞いた。
 あの解兄弟も、烏竜嶺からここまで離れた山は探していない。
 老人は誇らしげに答えた。
「宏家の者が、代々、苦労して岩を穿った道ですから、ほかの者は知りません。だからこそ、宏家はこの深山と街を行き来して、莫大な富を築いたのです」
 顔色を変えそうになる王英を、燕順が目で制した。老人は紙銭をまき終えると、一仕事を終えた人の清々しい顔をした。
 その目は、宏家に仕えていた頃の、若々しい眼差しだった。
「さて、お嬢様。お屋敷へ帰りましょう」
 扈三娘は、老人の背に優しく手を添えた。
「そうね。でも、その前に──私が新しい着物をあげるわ」

 扈三娘たちは、老人を梁山泊陣営へまで連れ帰った。
 老人は特に怯えることもなく、宋江から衣服や食べ物を与えられ、嬉しそうだった。そして、“三お嬢様”の命令ならば、喜んで東管まで案内すると請け負った。
 東管は山を越えた所にある小さな城市で、そこから街道を西に向かえば、睦州はすぐだという。
 呉用は詳細な情報がほしかった。
「道幅は?」
「人夫が薬草の駕籠を担いでいくにも、馬に積んでいくにも十分ですが、駕籠や馬車は通れません。険しいので」
 扈三娘はすっかり老人を信用している。彼女もかつては富家の令嬢であったから、さまざまな使用人の顔を知っている。ぶっきらぼうだが正直なもの、にこかやだが裏で物を盗んでいるもの、見たままの篤実者もいる。
「このおじいさんは、嘘を言う人ではないわ」
 老人は山を知りつくしている様子だし、人間も信用できると思われた。呉用は一応、老人を陣営で休ませている間に、王英を道案内に項充と李袞をやって、老人が住んでいるという廃屋を確認させた。
 しかし、東管へ降りるという切り通しの場所までは分からなかった──という報告だった。
 呉用は危ぶんだが、宋江はすぐに山越えの軍を編成するように裴宣に命じた。


 出陣は、翌朝、まだ暗いうちに──と決められた。
 方臘軍に動きを察せられないためである。
 山越えは、宋江が十二人の将と、一万の兵を率いて行く。選ばれた将は、花栄と秦明、魯智深、武松、戴宗、李逵と樊瑞、項充、李袞、凌振。道案内の老人には、王英と扈三娘が付き添った。
 桐盧県の陣は童貫に任され、敵に異変が伝わらないよう、通常通りに烏竜嶺を警戒する形を見せる。
 まだ暗いうちに、山越えの軍が轅門に集まった。
 兵は軽装で、迷彩の戎衣を身につけ、刃のたぐいも布で包む。連れて行く馬も数頭だけで、枚を噛ませ、鈴もはずした。
 燕順は一緒に行こうとしたが、宋江が説得した。
「かえって足手まといになっては困ります」
 そこまで言われて、ようやく諦めたのである。
 みなは、燕順が意地を張っていると思っていたが、扈三娘だけは“親分”の気持ちが痛いほど分かっていた。
「心配しないで、大丈夫よ」
 出陣前、王英がいないところで、扈三娘は燕順を慰めた。
「睦州が落ちたら、宋江様に頼んで、童枢密から退役の許可をもらうつもりなの。兄が東京にいるはずだから、頼るつもりよ。だから……」
 扈三娘は、燕順の渋い顔を見つめて、頼んだ。
「それまでは、こどものこと、王英に言わないでね」
 扈三娘も、睦州攻めは大きな山になると踏んでいる。敵も死に物狂いでくるだろう。
「王英が知ったら、私を守ろうとして、きっと無茶をするでしょう」
「ここから、東京へ帰れ!」
「それは私も考えたけど、王英が心配だから、睦州までは一緒に行くわ」
 燕順は、それ以上は言わなかった。
(できた女房だ)
 王英にはもったいないくらいの、賢い女だ。すべて自分の胸におさめて、きちんと始末をつけるつもりだ。
(梁山泊に来た頃は、勝気なばかりの“お嬢様”だったが、すっかり変わった)
 そこへ、王英がいつもの調子でやってきた。
「なんだい、親分。こんな所でシンミリとして」
「王英!」
 燕順は、大きな手で王英の肩を掴んだ。
「いいか! いつまでも俺や女房を頼りにするな! 一人前の、でかい男になれ!」

「親分、そいつは無理だ。俺はなんてったって“ちびせい”だぜ」
「なんの話だ!」
「ほら、例の星……扈三娘は“かしこい星”で、親分は“つよい星”だろ。おれは、“ちっこい星”なんだよ。鄭天寿が言ってた」
 燕順は怒鳴りつけた。
「あきらめるな!」
「おかしな親分だ」
 王英は口を尖らせ、馬の手綱を取った。
「でもさ」
 王英は、少し真面目な顔で言った。
「扈三娘は、めざといから、どんな小さな星でも見つけるんだ」
「のろけやがって!」
 燕順が拳を上げると、王英は馬に飛び乗り、いつものように笑って陣を後にした。


 未明、密かに桐盧県の陣を発した軍は、老人の案内で山に入った。
 湧き水から、墓地のある斜面を越え、埋もれた屋敷を通り過ぎる。
 切り通しまでの山中には、方臘兵の出没はないと聞いていた。それでも、梁山泊軍は山中で目立たぬように細心の注意を払った。
 足音も声もひそめて、粛々と山を越えていく。
 呉用が心配していた問題の“切り通し”は、確かにあった。
 もともとあった亀裂を鑿で広げた隙間で、藪や蔦の蔓が絡み合い、老人が指さしても、すぐには見分けられないほどだった。
 小柄な老人が身をかがめ、なんとか抜けられる程度である。それを馬が通れるくらいに山刀で切り開き、通った後は、また藪や倒木を押し込んで隠した。
 ひとり、またひとりと、暗い岩窟の道へ呑み込まれていく。
 空はもう、黄昏だった。昼とも、夜ともつかない時刻だ。
 暗い隧道を通り抜けながら、扈三娘は、まるで、過去と未来を繋いでいる道を進んでいるような気がした。
 自分に似ていたという“三お嬢様”も、この道を歩いたことがあっただろうか。傍らに、その人の、美しい白い横顔が見えるようだ。
「不思議な道……」
 扈三娘は一歩ごとに、自分が別の誰かの人生を歩いているような幻想にとらわれた。
 山崩れで死んだ“三お嬢様”の、あったはずの人生か。これからある、自分の“別の人生”か。
 ならば、それは幻想ではない。睦州を落とせば、扈三娘は東京へ行って子供を生み、かつては想像もしていなかった“別の人生”を歩むのだ。
(それは、どんな人生かしら。もう戦いはたくさん。穏やかで、平和だといい。若くして死んだ“三お嬢様”も、きっと、そんな未来を夢みていたことでしょう)
 隧道の闇は、どこまでも続いて見えたが、百歩も歩けば通り抜けていた。
 隧道の先は森が開け、星が見えた。
 扈三娘はほっと息をつき、暗い隧道へ振り向いた。
 美しい“三お嬢様”が、その出口に佇んで、見送ってくれている気がしたからだ。



 風が澄んでいた。
 胸に吸い込むと、血の隅々まで精気がゆきわたるような風だった。
 切り通しを抜けた先には、小牛嶺と呼ぶ峠に砦がある──と、老人は夜空の下を指さした。
 その名の通りの、小さな牛の背中に似た、なだらかな山だという。
 兵力は四、五百足らずとのことだったので、宋江は夜を待ち、李逵隊を送った。
 李逵は樊瑞、項充、李袞ら歩兵を連れ、夜陰にまぎれて砦を囲むと、獣の群のごとく襲いかかった。抵抗は、申し訳程度しかなかった。彼らは、完全に油断していた。
 烏竜嶺から、北東にいくつもの峰を隔てているのだ。方臘軍は、兵力も、監視の目も、烏竜嶺に集中していた。
 李逵隊が小牛砦の方臘兵を殲滅するまで、月が動くほどの時間もかからなかった。逃げた者が東管に駆け込むことを恐れて、砦は団牌兵が包囲している。誰ひとり、項充の飛刀から逃れることはできなかった。
 砦の先は、一本の道が峠を下って東管へと続いている。
 宋江は老人に礼を言って、ここから帰らせることにした。老人は褒美の品々を背負い、名残惜しそうに扈三娘に別れを告げた。
「どうぞ、ご無事で。いつまでも、お屋敷で待っております」
 老人は夜の闇をおそれもせず、星あかりの下を帰っていった。
 宋江とともに、戴宗も忠義な老人を見送った。
 老人はこの“長旅”の疲れも見せず、却って元気になったようで、足どりも軽い。振り返って扈三娘に手を振る顔は、心なしか、血色よく艶々として見えた。
 しかし、そんなことは戴宗の念頭からすぐに消えた。花栄がやって来たからだ。
「東管を過ぎれば、睦州へは一日か。問題は、烏竜嶺の動きだな」
 花栄はこれから攻める睦州の軍より、烏竜嶺の石宝らを警戒している。
「呉先生のお手並み拝見──だ」
 小休止をとっていた梁山泊軍が、再び闇の中へ紛れ込んでいく。兵たちは、特に若くて足腰の屈強なものを選抜している。
 梁山泊軍は注意深く山中の道を進み、夜中すぎ、ついに眼下に東管の灯を認めた。

 東管は、深い眠りについていた。
 山裾に埋もれた、小さな街だ。城壁も土塀程度で、守将の伍応星という者が、手勢二千を率いて駐屯している。
 伍応星は、宗旨替えした元僧侶だ。まだ二十代の若さだが、近年、悟りに達したとの評判だった。“無”に達したと云うのである。
 この夜も、軽く瞑想をしてから眠った伍応星は、夜明け前、時ならぬ吶喊に浄土の夢を醒まされた。
「敵襲です!」
 従卒が急を告げると、伍応星は手早く軍装を整えた。
「敵はどこから? その数は?」
「東から小牛嶺を越えてきたようです。数千、いや万はいるかと。夜目にも、旗が林のごとく」
「では、すでに城壁にかかっていような」
「東の壁を突き崩し、また門に梯子をかけて、続々と城内へ侵入しております」
「かくなるうえは」
 伍応星は即座に決意した。
「睦州へ撤退だ」

 牽き出した馬に飛び乗ると、伍応星は西の門から睦州めざして走り出た。
 一方の梁山泊軍は、さしたる抵抗も受けず、夜明けとともに東管を制圧した。それなりの戦闘を覚悟していた花栄には、物足りないほどだった。
「拍子抜けだな!」
“撤退”に際して、伍応星は特に命令を残さなかった。そのため、東管の方臘兵は、梁山泊軍と戦ったもの、戦わずに逃げ散ったもの、伍応星について睦州へ撤退したものが同じくらいの数だった。
 抵抗は無益、なすがままに──それが、伍応星の悟った“無”というものなのだった。
 それでも、途中、伍応星は山道に慣れた兵を呼び、命じることは忘れなかった。
「お前は、ここから山を越えて烏竜嶺へ行け」
 すでに真夜中すぎ。
 疲れ、眠たげな人間たちに反して、夜空の星は、いっそう輝きを増したようだった。


 その朝、未明。
“賽温侯”白欽は、いつものように烏竜嶺の砦より偵察に出た。宋朝の高官が桐盧県へ援軍にきたという間諜の報告があり、警戒をさらに強めていた。
 夜は白々と明け、東の山の端がほんのりと染まりはじめている。
 夏の早朝、特に山の朝となれば、清々しいものだ。そのひんやりとした朝靄が、真っ白な波となって、山肌を洗っていく。
 その波間に、色鮮やかな旗が立っているのが見えた。
(あれは?)
 昨日はまではなかった旗である。しかも、夜のうちに生えたかのように、断崖にぽつんと立っている。一本や二本ではない。
 始めは訝るようだった白欽の顔が、やがて蒼白となった。
「なんだ、あの旗は!」

 見渡せば、山いっぱいに五色の旗がたなびいているのである。梁山泊軍の旗に違いない。旗は視界の続く限り、はためいている。目のよい兵を呼んで遠見させても、やはり、睦州方面、桐盧県方面にどこまでも果てずに旗が見えるという。
「いつの間に!」
 白欽は、すぐに石宝のもとへ走った。

 朝日の中、呉用もその旗を眺めていた。
 宋江を送り出した呉用は、山中に隠密の小部隊を数多、放った。彼らは梁山泊軍の旗を持ち、険しい崖を登り、尾根を伝って、可能なかぎりの場所に梁山泊軍の旗を立てたのである。人馬がたやすく行き着けない難所でも、木に幟を結び、岩に旗棹を差した。
 睦州側でも、宋江が放った身軽な兵が、同じく旗を立てているはずだ。その打ち合わせは、あらかじめ呉用と宋江の間で、できていた。
 呉用は、馬麟と蒋敬に命じて、布陣するのに適した場所には、特に多くの旗を立てさせていた。また烏竜嶺の正面には、石宝の“宿敵”関勝が緑旗を連ねて、その存在を誇示している。それらはすべて、烏竜嶺から睦州への援軍を出させないための牽制だった。
 もし睦州からの援軍要請があっても、この旗波を目にすれば烏竜嶺は警戒し、安易に軍を出すことはないだろう。烏竜嶺を失えば、宋国の大軍がいつでも幇源洞へ進めるからだ。
 呉用には、烏竜嶺軍に宋江の背後を襲われるのが一番、怖い。
 ならば──と、呉用は考えたのだ。
 宋江が烏竜嶺を迂回して山越えすれば、睦州は烏竜嶺へ援軍を求めるだろう。その時、烏竜嶺の方臘軍は判断を迫られる。
 砦の陥落を覚悟して、睦州へ兵を割く、あるいは完全に撤退して、防衛線を睦州に後退させるか。あるいは、睦州を見捨て、あくまで砦を堅持するか。
 呉用は、その二つの道を考えている。
(烏竜嶺、動くか、動かぬか)
 足止めできればよし。烏竜嶺の軍が睦州へ兵を割くか、撤退すれば、ここに残る二万の全軍で烏竜嶺を越え、背後を襲う。
 どんな不測の事態にも、呉用は臨機応変に対応し、梁山泊の有利に導くつもりだ。そのために、彼は宋江と離れ、ここに残ったのである。
 烏竜嶺の要害がなければ、方臘軍と梁山泊軍の力は互角だ。睦州軍、烏竜嶺軍を打ち負かせば、もう方聖宮への障害はない。
 ただ、烏竜嶺に籠もるのは、石宝、登元覚の二大元帥──どちらも一筋縄ではいかない敵だ。
(こちらの思惑に、気づかぬともかぎらない)
 呉用が宋江と兵を分けたのも、石宝が苦手とする関勝をここに残したのも、すべてが最終的に烏竜嶺を落とすためだ。
(あとは、宋江殿を信ずるのみ)
“張順の死”以来、宋江は、どことはいえぬが変化を見せた。
 呉用は楽観はしなかったが、宋江が速やかに睦州を落とす予感があった。

 その頃、烏竜嶺の砦内では、またしても、石宝と登元覚の対立が露わになっていた。
 白欽の報告に続いて、伍応星がよこした兵が、東管に梁山泊軍が出現したことを告げたのだ。
 登元覚は、自分の予感が的中したと焦っていた。
「睦州が危ない。敵は裏道を越えたのだ。すぐに全軍で睦州の救援へ」
「いや」
 石宝は同意しなかった。
 もとより、彼は方聖宮が援軍を出さなかったことが不服なのだ。
「国師の申されるよう、敵が裏道で山越えをしたのなら、それは大軍ではない。本隊は、まだ桐盧県にいると考えられる。あの、ことさらな砲声は、我々を烏竜嶺から引き離す罠。この砦を失えば、宋国の大軍の侵入を阻む手段がなくなる。睦州は、自力で持ちこたえよう。万が一のことがあっても、侵入した敵が少勢ならば、反撃の余地は十分にある」
 石宝は、呉用の考えを正確に読み取っていた。
「へたには動かず、この砦を守るべきである。御心配なら、まずは物見を睦州へ」
「手遅れになる。睦州が敵の手に渡り、そのまま皇居に迫ればどうするのか」
「方聖宮には、まだ三万の御林がある」
「敵が少勢だという確証はない」
 石宝との対立というよりも、それは登元覚の意地であった。方聖宮では、かつての“国師”の栄誉も消え去った扱いをうけた。しかし、それで節をまげる登元覚ではない。
「わし一人でも、行く」
 そこまで言っても、石宝はなんの反応も見せなかった。登元覚は、この男の体内には、血というものがないのではないかと疑った。
 方聖公の唱える、光明清浄世界など──石宝は、信じても、求めてもいないのではないか。
「石宝よ、お前は“死神”だ。敵も味方も殺す」
 石宝の虚無の目に、はじめて笑みに似たものが浮かんだ。
 登元覚は、もうその意味を追及する気も、詰る気もない。
「“明使”石宝よ、この砦は、そなたが死守せよ」
 そう言い捨て、登元覚は烏竜嶺を西へと下った。睦州からの援将・夏侯成と五千の兵が従った。
 夏侯成は、もとは猟師で、周辺の山に詳しい。そのために援軍の将に抜擢された男である。体は屈強で、若者らしい純朴さを備えていた。
 彼は、まだ猟師だった頃、彼は山で雌の鹿を殺した。そばの藪には、生まれたばかりの子鹿がいた。彼はその子鹿を育て、やがて山に放した。数年後、しかけた罠に鹿がかかって死んでいた。額に白い毛のある鹿は、彼が育てた子鹿であった。
 間もなく“狩人”夏侯成は明教徒となり、それ以来、人間のほかは殺していない。
 夏侯成は登元覚を先導し、猟犬のごとく間道を睦州へと駆けた。
「東管に現れた敵は、本街道を進むはず。この間道を抜ければ、我々は必ず先を越せましょう」



※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。
※文中の「郁嶺関」は、正しくは郁嶺関です。




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