水滸伝絵巻-graphies-

第百二十八回
魔対魔


 魯智深は昏倒した武松を抱え、安全な場所に運び、横たえた。
 墨染めの衣に血が染みて、骨の白さか痛々しかった。
「眠れ、武松よ。いまは、この魯智深にまかせるがよい」
 魯智深は禅杖をとった。深い憐れみは、怒りとなった。

「許せぬ!」
 弱きものを苛めるもの。人の心の善なる部分を、あざ笑い、もてあそぶもの──。
「この魯智深が、成敗してくれる!」
 魯智深は禅杖を脇にはさみ、崖の上に立つ魔性の男に向かった。それを、夏侯成が阻んだ。さきほど魯智深に馬を倒され、徒歩である。山刀で梁山泊兵を薙ぎ払い、血の海の中を魯智深めがけて辿り着いた。魯智深は、巨大な獣だ。山の主だ。この山を征服するには、その心臓を抉りだし、天に捧げなければならない。
「この山は、俺のものだ」
 夏侯成は、崖を登ろうとする魯智深の足を狙った。山刀の動きを察し、魯智深は崖から飛び下りた。着地するなり、左手で夏侯成の鼻を殴りつけた。
「善哉!」

 血まみれの拳を握り、魯智深は夏侯成の顔を見据えた。怒れる巨大な阿羅漢の姿であった。続いて禅杖の乱打が襲う。虎や野猪にも恐れられた“狩人”が、魯智深に恐怖した。これほど強く、巨大で、容赦のない“ケダモノ”を夏侯成は見たことがない。
 夏侯成は逃げた。
 山腹には、真夏の葉を繁らせる林があった。夏侯成は一目散に逃げた。あたりは戦場で、両軍が戦っている。魯智深の目が、ほかの敵へ逸れることを、夏侯成は期待した。しかし、魯智深は夏侯成を追いかけた。林に逃げ込んでも、魯智深は追い続けた。夏侯成は根に転び、草で身を切り、岩の角にぶつかり逃げた。首筋に、魯智深の熱い息を感じた。
“狩人”は、狩られる動物の恐怖を、絶望を知ったのだ。
 夏侯成は山を逃げ続けた。彼の命は、まだ生きることを諦めていなかった。この先に崖があるのを知っている。藤蔓が垂れていて、身軽な彼ならば登ることができる。
(逃げきれる)
 巣穴に駆け込む兎のように、夏侯成は逃げた。その足が、松の根につまづき、夏侯成はもんどりうった。立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。四つん這いになり、枯れ葉の中を這いずった。ひどくゆっくりと、魯智深の荒い息づかいが近づいてくる。木の幹を背に、夏侯成は身を固めた。聖句は、頭に浮かばなかった。
 夏侯成は見た。脳天へ振り下ろされる禅杖の刃を見つめ、負けた獣の“諦め”を──知ったのだった。
 肉が砕ける音が、深山に虚ろに響いた。

“狩人”夏侯成の命は、彼が多くの獣をほふった深山の森に捧げられ、山に再び静寂が戻った。
 梢を揺らす風の音に、魯智深の荒い息が混じる。やがて、それも収まった。
 魯智深は、古い松の巨木の根本に立っていた。禅杖は夏侯成の脳天を割り、その勢いで背後の木の幹にめりこんでいた。それを引き抜き、魯智深は肩で息をついた。
 静かだった。
 魯智深はあたりを眺めた。
 たった一人、薄暗く深い松林の中にいた。
 夏侯成の死体を残し、魯智深は歩きはじめた。禅杖を担いで、さらに深い森の奥へ進んでいった。
 道もない、薄暗い山中だったが、魯智深が迷うことはなかった。
 鬱蒼とした林の中に道はない。
 しかし、魯智深には見えた。
 人がつくった道ではない、天然の道が、いく筋も、あらゆる方向へ伸びている。
 根を踏み越え、枝をかきわけ、どこまでも進むことができた。真っ暗な森の奥へ、魯智深はどこまでも進んでいく。
「思うままに生きよ!!」
 松の梢に、魯智深の声が響いた。
 思うままに生きよ。
 来るところからきて、行くところへ行け。
 それは自分の声のようでもあり、懐かしい智真長老の声のようでもあり、天地の声のようでもあった。
   行く者よ
   行ける者よ
   彼岸へ辿り着く者よ
   悟り、めでたし!

 魯智深は腹の底から笑った。



 鄭彪は、カッと鮮血を吐いた。
 さらなる精気を集めようとして、強い力で全身を殴られたような衝撃を受けたのだ。
 背後の包道乙は、無言である。鄭彪は、虚空を睨む。
 嵐が収まり、わずかずつ霧が晴れていく。仰ぎ見た目に、はるか上空を飛ぶ、鳥の姿がキラリと見えた。
(鶴?)

 鳥影は、すぐ乱雲に紛れて消えた。
 空が、再び曇りはじめた。
(なにかが来る)
 鄭彪は、包道乙に呼びかけた。
「天師!」
 応じて、包道乙は素早く地に蓮華座を組んだ。
 物言わぬ怪人が法衣を脱ぐと、その皮膚は、顔面以上に傷で埋めつくされていた。積年の苦行の証、ありとあらゆる種類の傷痕であった。
 導引すると、引き締まった肉体が、何倍にも膨れ上がった。そう見えた。
 包道乙は導引を続け、“気”を吸いこんでいく。蓄えられた内功が急速に密度を増し、渦巻き、沸騰して、出口を求める。包道乙の背中はせむしのように膨らみ、激しく動いた。
 その背に、鄭彪は短剣を突き立てた。
 流れ出たのは、血ではなく、“気”であった。蝉の幼虫が背を破って羽化するごとく、その裂け目から、色もなく、形もないものが溢れ出た。凝縮して濃厚な気は、短剣を伝って鄭彪へと乗り移り、さらに天へ向かって立ち上がり、巨大無比なる大魔神へと変化した。
 それは、人間がいまだかつて見たことのない終末の光景、世界を覆う暗黒の巨大神の姿であった。
 虚空に立ち、人間界を見下ろして、鄭彪は哄笑した。鄭彪と巨大神は一体である。
 包道乙は、さらに導引に集中した。世界に満ちる気を残らず集め、純正な精気に錬製して鄭彪に与えてやるのだ。
 鄭彪こそ、彼が見いだし、育てあげた、最高の“魔物”であった。
「思う存分やるがいい」
 包道乙の身体を足下に踏み、暗黒にそびえたつ巨大な魔神。
 その両眼は炎であり、世界のすべてを焼き尽くそうと、人の世を睥睨している。



 樊瑞の身体が、小刻みに痙攣していた。
 岩陰に隠れていた凌振は、空気が薄くなったのを感じた。頭が痛む。吐き気がした。砲弾を放った時、衝撃で、頭の中で星がはじけることがある。それと似ていた。
 凌振は、両手でしっかりと火砲に抱きついた。
(わしには、火砲がついておる!)
 その傍らで、樊瑞が歯を噛みしめ、異様な唸り声を発した。凌振はぎょっとして、樊瑞の顔を窺った。
「魔王よ、どうした」
 樊瑞の両耳から、たらたらと鮮血が流れ出していた。

 樊瑞は、目を閉じた。額からこめかみにかけて、猛烈に痛み、自分でも激しく痙攣しているのが分かった。
(これはなんだ)
 目を閉じても、魔神の姿は脳内に鮮明である。燃え上がる火に包まれ、手には黄金の杵を握っている。その武器にも、妖炎がまとわりついていた。
(この力は)
 樊瑞は、魔神が彼の気を吸い込もうとしているのを感じた。“樊瑞”をその体内に取り込んで、己の力に加えようと目論んでいる。
 樊瑞は、抗った。その幻影に全霊をもって抵抗した。しかし、抗えば抗うほど、魔神の姿は巨大になる。天を覆うほどの掌で樊瑞を掴み、呑み込もうと嘲笑う。あまりにも邪悪で、無慈悲な力だ。
 再び風が荒々しくなり、山全体が唸り声をあげて揺れていた。
 樊瑞は己れに念じた。
(閉ざせ)

 心を、魂を。なにも感じぬように、己れの内に閉じ込めよ。かつて、“混沌子”のもとで、孤独であり、すべての人間を拒絶していたように。
 魔神はいない。己もいない。
 なにも思わず、なにも感じず──。
(心よ、閉じよ)
 どこからか、遠く、小さな声が聞こえた。一瞬の青空が見えた──しかし、すぐに嵐に消えた。



 薊州の空は、紺碧に澄んでいた。
 しばらく風が絶えていた山に、にわかに一陣の凶風が吹いたと思うと、上空より一羽の鶴が息絶えたまま落ちてきた。
 馬霊ははっと顔をあげ、鶴のもとへ駆け寄った。鶴には外傷はなかったが、体中の骨がばらばらに砕かれていた。羽毛が雪のように散る。
 喬道清の声が聞こえた。
「──感じる」
 二仙山の崖で、喬道清は深い瞑想に入っていた。
「おそるべき力、まるで」
 そこまで言って、喬道清の言葉は途切れた。たった今、千里を隔てて、かすかに捉えたその“力”を、表現する言葉を見つけ出すことができない。
 邪法には違いない。しかし、あまりに強大すぎる。
(人が、これほどの力を操ることができるだろうか)
 馬霊の閉じた第三眼も、なにかに感応し、痙攣していた。
 もっとも、この“感応”は、彼らの能力だけで引き寄せた現象ではない。
 二仙山の二つの峰から、すさまじい波動が生じているのだ。それは、喬道清ほどの修行を積んだ道士には、二つの巨大な炎に見えた。透明な炎の中に、稲妻が輝いている。

 地から聳え立ち、天を衝く山は、世界に満ちる気に通じる。霊峰とは、特にその力の強い山が、そう呼ばれるのだ。二仙山こそ、それら霊峰の最高峰だ。
 いま感じた邪悪なる気は、たしかに南方──方臘の領土より伝わり来た。方臘の領域内には、この二仙山に匹敵するほどの霊峰があるのだろうか。
 喬道清は、心臓を掴まれたような不安を覚えた。
「勝てぬかもしれぬ」
 梁山泊は、勝てないかもしれない。
 これほど、邪悪で、無慈悲で、巨大な力を相手にして、いったい、誰が勝つことができようか。
 峰のひとつがゆらぎ、また、稲妻が光った。
 羅真人の峰だった。
 喬道清は、老仙人の生命に異常を感じた。
 高齢の羅真人は、この前の冬に体調を崩し、回復していないのだ。飲食を断ち、何十日も行を続け、肉体は極限まで削ぎ落とされているはずだ。
(肉体を極限まで失えば、精神も極限まで研ぎ澄まされる。おのれは消え、“目”だけが残る。それは、強く、鮮明で──宇宙の果まで見通せる)
 喬道清すら、いまだ至れぬ境地である。
 稲妻が、絶え間なく閃いている。命そのものが燃え上がっているようだ。
 そして、目を転ずれば、対する公孫勝の峰は、恐ろしいほどの静寂を発しているのである。



 静かだ──と、呉用は思った。
 明るい日差し、ゆったりと流れる大河。鳥の囀りさえ聞こえて、ここが戦場であることを一瞬、忘れてしまいそうだ。
 呉用は、富春江を遡る船の上に立っていた。
 床几があったし、座るように勧めてくれる者もいたが、呉用は立ち続けていた。
 落ち着かないのだ。
 富春江を埋めるように、船が舳先を並べている。その船団の中核をなす一隻に、呉用は李俊とともに乗り込んでいた。

 船は荒い飛沫を蹴立てて、滔々と流れる大河を遡行する。風に、七色の軍旗がひるがえる。『宋』の旗でも、『童』の旗でも、たなびく旗は勇ましかった。
(宋国の力は、まだ侮れぬ)
 今は、彼らを利用し、目的を達することだ。
「“大海は芥を選ばず”──」
 呉用の隣で、李俊は風を読んでいる。
 漕ぎ手も多く、船足は速い。呉用は、もっと速く──と思う。
 呉用の視界いっぱいに、宋国軍と、梁山泊軍が入り交じって行軍している。
 船団に同行するのは、関勝、李応、朱仝、燕順、馬麟と一万の兵である。先頭の船に乗り込んだ“錦毛虎”燕順の背中がちらりと見えた。燕順も手摺りに依るようにして、船上に立っている。その眼差しは、きっと呉用より険しいに違いない。
 宋江に同行した王英と扈三娘のことを、燕順は案じているのだ。
 李俊は船団の指揮に余念がなかった。いながらにして、全体の動きを把握している。
「右岸から距離をとれ」
 彼は、全船にそう厳命していた。船を寄せられる限界まで、烏竜嶺から距離をとり、左岸ぎりぎりを進むのだ。
 船には、童貫の腰巾着の趙譚が同乗している。趙譚は名代とし、少しでも“威張る”隙を窺っていた。
「こんなに岸に寄って大丈夫なのか。水深が浅すぎて、座礁したら誰が責任を取る」
 李俊は振り向きもせず、顎で軽く前方の波間を示した。
 水面に二つの頭が浮き沈みする。童威と童猛が、泳いで水先案内を務めているのだ。十分な水深がある場所を探り、船団を導いていく。趙譚は鼻白んだ。
「ふん、アヒルのようだな」
 童威と童猛は手に水深を測る棒を持ち、水中を慎重に進む。一度、潜った河である。烏竜嶺を河岸から奪う作戦で、失敗し、阮小二と孟康が死んだ。ほの暗い水底には、まだ沈んだ船の残骸と、いくつもの死体が漂っていた。
 亡霊がさまよう波間を、二人は水に棲む魔物のように進んだ。
 岩場が多い。難所にさしかかると、李俊は船団の先頭に出て、自ら舵を取った。僅かな操船の誤りが、死を招く。右手には、黒々とした烏竜嶺が見えていた。そのふもとで、河は大きく湾曲する。それに伴い、流れも急になっていた。
 漕ぎ手の腕にも力が入る。彼らは、劉光世が連行してきた江南の河に慣れた者たちだ。岩肌ぎりぎりを擦り抜け、進んだ。
 無理やりに連れてこられた船頭たちだが、彼らの腕は確かだった。
 当初、趙譚は“童貫の名代”として、自分で船団の指揮を握ろうとした。しかし、船頭たちは誰も言うことをきかなかった。
 その船頭たちが、なぜか李俊の指揮には従った。中でも、頭格の船頭は、子分のように李俊のそばを離れなかった。藍染めの褌をつけ、背中一面に竜門を登る鯉の刺青をほどこしている。許という姓で、元は富春江の漁師だったという。方臘軍が煩わしいので河を下って逃げたが、今度は宋国に捕まったのだ、と、来歴を自嘲まじりに語った。
「なにごとも、水の流れのまま──」
 日に焼けた顔で、許船頭はむっつりと言った。眠たげな大きな口が、背中の鯉とそっくりだった。
「それで、その“宋江の旦那”ですがね」
 許船頭は、周辺の地理に詳しい。宋江が山を越えて東管に出て、そこから睦州へ向かうなら──と、離れて久しい故郷の地図を頭の中に思い浮かべて説明した。
「道はひとつだ。山越えの途中で、富春江に流れ込む渓谷を渡るだろう。渡れる浅瀬はいくつかある。ただ、この河はおおむね流れが速い。山のあいだを流れるんで、水に勢いがつくんだな」
 しかし、合流するなら、富春江からその支流に入るのが間違いないと言うのである。
 そばで聞いていた呉用が尋ねた。
「その河の名は?」
「卞水」
 国都・開封を流れる大河も卞河である。呉用が不審な顔をすると、許船頭は察して首を振った。
「卞水って河は、他にもあります。浅くて、流れの速い河を云うから」
「なるほど」
 右手にそびえる烏竜嶺が、のしかかるように近づいていた。近づくほど、風が出て、空が灰色に曇り始めた。

 その頃、すでに烏竜嶺の方臘軍も、河の異変に気づいていた。
「富春江を、敵の船団が遡上中」
 急報を受け、“流星”石宝は山頂の櫓に登った。見下ろすと、旌旗が川面を埋めていた。色とりどりの雑多な旗が、春の花園を思わせた。
 そんな幻想とは裏腹に、烏竜嶺の現状は厳しかった。登元覚が死に、五千の援軍も失い、水軍も先の戦いで致命的な打撃を受けていた。梁山泊軍の船の通行を阻止しようにも、兵は足りず、軍船も、水砦も、機能しない。
 水軍の将“浙江四竜”は、燃え落ちた水砦の補修を急がせていたが、材木を切り出そうにも、人手が足りない。人民を連行しようにも、近隣の村は逃散してもぬけの空だ。その空き家などを取り壊し、ようやく少々の材木を集め始めたところだ。
 兵たちは、石宝の指示を待っている。
「ご命令を、流星将軍」
 風が烏竜嶺の峰を吹き抜けていく。
 石宝の命令は、なかった。
 彼には、下すべき命令が、もう何もないことが分かっていたのだ。
 勝つために、なにをすべきか。なにと、どう戦えばいいのか──。
「命令は、ない」
 石宝は、静かに言った。
「それぞれ、戦い、光に殉じよ」
 その目は空を見つめている。
 雲間から射し込む光が、ひどく眩しく、美しかった。



 烏竜嶺の河岸は、元は銭塘江の水賊だった“浙江四竜”が守っている。
 梁山泊軍に相討ちに近い被害を受けて、水砦は焼け落ち、船も水兵も燃えた。まだ焦げ臭い河岸に立つ“四竜”筆頭、“玉爪竜”成貴のいかつい顔は、銭塘江を荒し回った頃の荒んだ顔に戻っていた。
「宋国の援軍か。船は、官軍の戦船と、商船の改造が半々と見える」
 かつては、銭塘江を行き来する船のすべてが“獲物”だった。小さな船影だけで、それが太った熊か、痩せた狐か見分けるのはお手の物だった。
 彼らは、“南船北馬”の言葉があるように、北方の水軍を見下している。しかし、金陵水軍など江南の水軍には苦しめられた。
「うかつには手出しできん。もっとも、その手も、今は出しようもないが」
“錦鱗竜”擢源と、“衝波竜”喬正は、近隣の村へ水夫を連れて出かけている。家屋敷を打ち壊し、水砦を再建する材木を調達するためだ。五百隻からあった船も、殆ど焼けた。投石機もない。
「船がなければ、我らは足がないのと同じだ」
 成貴は敬虔な明教徒である。死ぬ時が来れば、死ぬだけだ。ずいぶん沢山の異教徒を殺してきたから、体内の光も相当に増えているに違いない。
“玉爪竜”成貴は水砦の焼け跡に兵を集めた。槍を並べ、矢を揃えて、敵の上陸を阻み──玉砕するためである。
 河がざわざわと波立っている。嵐の予兆だ。風と、押し寄せる船団が水を騒がす。いつもは美しい碧の水をたたえた富春江は、打ち続く戦の灰塵と風を呑み込み、灰色に濁っていた。
 成貴は敵の船団が近づいてくるのを見守っている。鉈で切ったような細い目は、なんの感情も現さない。
(水の上でくたばると思っていたが、どうやら陸で死ぬようだ)
 しかし、覚悟したのは束の間だった。
 こちらへ向かってくると予測していた敵船団が、針路を変えずに直進していく。船をぎりぎり対岸まで寄せ、烏竜嶺から最大限の距離をとっていた。
「まさか」
 自問して、成貴は気づいた。対岸近くは水中に岩が多く、難所で、大きな船が通行することはできない。さらに、河を遡っても、どこかで上陸しなければ睦州へは進めない。この先は方臘軍が制圧しているから、上陸時に襲撃されるのは避けられない。
 だから、今まで梁山泊軍は遡行を敢行しなかったし、方臘軍も敵の目的はこの水砦への上陸──と決めて警戒していた。
 今、宋江らが裏道から山を越え、睦州に迫ろうとしている。
(その軍と呼応すれば、上陸は可能!)
 成貴は悔やんだ。死ぬことばかり考えて、それを見落としていた自分を呪った。
 その時、漕ぎだしていく船に気づいた。焼け残った船を集めて出陣していくのは、“戯朱竜”謝福だった。謝福は“四竜”の中でも気が荒い。この前の戦では火筏部隊の指揮をとり、兵士たちを全滅させている。
 謝福は小舟の上で弓を握った。兵士たちも火矢を点火する。しかし、小舟の船足は遅く、そのはるか彼方を、船団は水面を滑るように進んでいく。
「放て!」
 風の中、火矢は次々に河へ落ちていく。風がなくても、届くまい。
 謝福は摩尼ではなく、銭塘江の竜神に祈りをこめて弩を放った。その矢は風にまかれて舞い戻り、謝福の髪をしたたかに焼いた。



 烏竜嶺の西は、いまだ嵐が吹き荒れていた。
 その中を、戴宗は宋江を探して駆けていた。もはや、駆けるのが目的なのか、宋江を探すのが目的なのかも分からない。

 人々を惑わした霧も、戴宗の視界を眩ますことはできなかった。巨人がいかに大きくとも、神行法には追いつけない。
 視界は飛ぶように流れていく。神行法で走っている時は、いつもそうだ。戴宗には、それでも風景を見分けることができた。
 山を登り、林を抜け、戴宗は走った。もうどれくらい走り続けているのだろうか。普通の人間ならば、疲れ果て、倒れているだろう。
(ところが“神行太保”は、果てし無く走り続けることができる)
 戴宗は、宋江が見つかるまで、もしくは、自分の命が尽きるまで走るつもりだ。
(いや、待てよ)
 戴宗は、はたと気づいた。宋江は“普通”の人間だ。戴宗のように走り回れるわけがない。
(しまった、もっと近くにいるはずだろう)
 戴宗は急いで梁山泊軍が敵に襲われた地点へ戻った。そこでは、まだ凄惨な戦いが続いている。敵の攻撃を避けながら、戴宗は岩の窪みや木陰、藪の中を探し、松林の間を走リ回った。
 松林は、どこまでも続いていた。鬱蒼とした古松の枝が青々と天を覆っている。分け入ると、途中に頭を割られた方臘軍の将の死体があった。それを飛び越え、さらに進むと、渓流の岸に行き着いた。
(ここまでか)
 流れが早く、泳いで渡るには骨が折れそうだった。
 戴宗は引き返そうとしたが、なぜか迷った。迷いながら四方を見回していると、下流で川幅が広くなり、水面からちょうど渡れそうなくらいの石が点々と頭をのぞかせているのに気がついた。
(行ってみるか)
 戴宗は下流へ走ると、濡れた石を踏んで河を渡った。
 その先にも、松林が続いている。あまり気持ちのよい場所ではなかった。どことなく冷気が漂っている。地面には、細く尖った松の枯れ葉が厚く降り積もっている。
 ここまで来ると戦いの喧騒も消え、森には戴宗の足元のほかは音もない。かさかさと枯れ葉を巻き上げながら、戴宗はさらに進んだ。
(まさか、ここまでは)
 宋江の足では無理──と、また引き返そうと振り向いた時、右手に続く木立の向こうに、なにか建物らしいものがあるのに気がついた。
 行ってみると、小さな廟の残骸だった。
 扉は朽ちていたが、中には祭壇が残っているようだ。崩れかけた屋根の隙間から薄日がさして、床に積もった埃の上に入り乱れる足跡を照らしだしていた。獣の足跡の中に、ま新しい人の足跡がある。
 戴宗は廟の中へ飛び込んだ。上から差し込む光の片隅に、横たわる背中が見えた。
「宋江さんか!」

 宋江の丸めた背中が、ゆっくりと動いている。戴宗は安堵した。宋江は怪我もなく、ただ眠り込んでいるのだ。
「おい、起きてくれ」
 戴宗が揺り起こすと、宋江はぼんやりと目を開けた。
「おや、戴宗さん」
 宋江は周囲を見回した。
「ここはどこですか」
「そいつは、こっちが聞きたい」
「この方が……」
 宋江は、祭壇に佇む色あせた神像を指さした。書生風だが、その顔は風雨のためにすっかり崩れ、目鼻も分からなくなっている。
 戴宗は、足元に落ちていた篇額の埃を拭った。かろうじて『烏竜神廟』と読めた。遠い昔に忘れられ、詣でる者も絶えた神なのだ。
「この神様は、“劭秀才”というらしい。唐代の人ですな。科挙に落第して、河に身投げして死んだ。どうにも霊験は期待できませんな」
 戴宗は神像に軽く一礼すると、宋江を急かして外に出た。
 すでに辺りは真っ暗である。
「急ぎましょう。梁山泊軍がたいへんなことに……」
 言いかけて、戴宗はぎょっとした。日が暮れるには、早すぎる。
「しまった!」
 途端、二人の眼前に天を衝く金色の魔神が立ち上がった。




 呉用、李俊ら梁山泊の船団は、烏竜嶺を遠目に河を遡り、山裾を巻いて湾曲する流れを進んだ。その先は、童威たちも見たことのない景色である。
 河の水が、急に冷たさを増したように感じた。
 そこからは、許船頭が案内役だ。童兄弟は甲板に上がり、冷えきった身体を拭った。
 船団は縦列になり、富春江上流の支流へ入った。あたりは険しい山並みが続いている。人家もなく、方臘軍の姿もない。支流に入り、さらに遡上するうちに流れは渓谷となった。鋭い岩の間を緑色の水が流れる。川岸は狭かったが、流れは急だ。難所が多く、時には人夫が岸辺にあがり、綱で牽いて船を引き上げなければならない場所もあった。
 川幅も狭まり、やがて、大型の戦船はそれ以上は進めなくなった。風が強まり、船はひどく揺れていた。小刻みに震える船室で、呉用は、李俊、関勝らと諮った。
「見張りを残して上陸し、宋江殿たちを探すほかありません」
 呉用の決定に対し、関勝は慎重に意見を述べた。
「山は広い。はたして、合流できるか」
「私に考えがあります」
 ほどなく、やや開けた河原を見つけると、梁山泊軍は上陸を敢行した。
 呉用自身も、関勝、李応、朱仝、燕順、馬麟と一万弱の兵とともに陸に上がった。李俊と童兄弟は船を守って残る。趙譚は迷ったが、船に残った。小人特有の予感があった。
(この戦い、簡単には行くまいぞ)
 失敗した時、自分が一緒にいなければ、すべて呉用とやらの責任にできる。風は吹き荒れ、山の様子も不気味である。実際、損得の計算を抜きにしても、趙譚は上陸などしたくなかった。
 呉用たちは岸辺を川沿いに進んでいった。山間を流れる河である。江南の渓谷の民であった“鉄笛仙”馬麟が先行し、軍が進める道を探しながらの行軍となった。
 馬麟は笛を吹き続けている。行軍の列は、長く、切れ切れに続いている。はぐれる者がいないように、自分の居場所を教えているのだ。
 関勝は、不穏な空気を感じとっていた。呉用も同じだ。山は、妙な気配に覆われている。なにか尋常ならざる空気──巨大な天災が起こる前のような、本能に訴える危機感だった。
 李応は呉用の側につき従い、彼の指示を待っている。
「そろそろ、どうかね」
 李応は強い弓と、特別な矢を携えていた。呉用は少し、あたりの深山に目をやり、耳を澄ませ、頷いた。彼らは河を離れ、やや高い場所まで登ってきている。見回しても、宋江軍の気配も、方臘軍の姿も見えない。
 しかし、呉用は確信をもっていた。
「お願いします」
 李応は天に向かって弓を引き絞ると、合図の火矢を続けざまに打ち上げた。
 呉用は、この火が、宋江たちに届くと信じていた。
 矢につけた火薬が音を立てて空で弾け、青い色の光を放つ。凌振ならば、この音と光で、必ず梁山泊の合図と気がつくだろう。
 火矢は空へ駆け上り、また、音をたてて大きく弾けた。




「む、この音は」
 凌振は、隠れていた岩影から這い出した。
 外に出ると、路にばらばらと死傷者が横たわっていた。あとは、茫然とうろつく兵の姿がちらほらあった。花栄も秦明も、魯智深もいない。片腕となった武松が、近くの岩陰に気を失って倒れていた。
 樊瑞は耳をおさえ、苦悶していた。両耳から、血が流れ続けていた。樊瑞だけが、まだ、別の異常な空間にいるようだった。
 凌振は、今こそ撃つ時だと思った。
 あの音は、梁山泊軍の合図。しかも、陣に残っているはずの軍だ。それが、なぜか烏竜嶺を越えてやって来たのだ。幻覚かもしれない──と、凌振は耳を疑った。
 その耳に、また火矢の弾ける音が聞こえた。間違いない。自分が調合し、筒に詰め、矢に装着した特製の火矢である。この風向き、音量から、距離も計れる。
 凌振は確信した。
「援軍が来た!!」
 凌振は火砲を引きだし、空砲を撃った。その音が、周辺にいた、まだ恐怖にとらわれている兵士たちを正気づかせた。兵たちは蘇ったように動き出し、集まりはじめた。やがて、少し離れた谷間で方臘軍と戦っていた梁山泊軍も戻り始めた。夏侯成が敗れ、統率を失った方臘軍は梁山泊軍の反撃を受けて勝機を失い、撤退したのだ。
 花栄と秦明も散兵を糾合し、前後して戻ってきた。
「宋江は見つかったか?」
 花栄の問いに、凌振は首を振った。
「だが、じきに援軍が来る!」
「本当か」
 集まった梁山泊の兵は、すでに二千までに減っていた。それも負傷している者が大半だ。援軍が来る以上の朗報はない。
 秦明が言った。
「集まれば、なんとでもなる」
「また合図だ」
 凌振が指さした。今度は、はっきりと青い炎が見えた。花栄の顔に、希望が浮かんだ。
「青い光──呉先生か!」
 梁山泊軍、来たる。
 小さな光は、全員の頭上に星のごとく煌めいた。



 背後の森に、巨大な魔神が立ち上がる。両手には金剛の杵を握っていた。その尖端には、ちらちらと炎が燃えていた。
「くそ、あれは幻だ!」
 戴宗はそう自分に言い聞かせながら、笑う魔神から目が離せなくなっていた。
 空に浮かんだ巨大な顔も、戴宗を凝視している。巨人は戴宗を掴もうと、笑いながら腕を伸ばした。

(やられる!)
 戴宗は目を閉じようとした。
 その時、戴宗は空に炎が弾けるのを見た。魔神の頭上に青い星が輝き、散った。さらに砲撃の音が耳朶を打った。
「梁山泊の合図だ!」
 仲間は、すぐ近くにいる。
「宋江さん、走るぞ!!」
 我に返った戴宗は、宋江を背負って駆けだした。走ると、風景が“見えた”。いつものように、景色が飛び去っていく。
(魔神め、追いつけるか)
 振り返ると、背後に魔神が迫っていた。
(夢ならさめろ!!)
 それは魔神のようでも、白い方臘軍のようにも見えた。かと思うと、真っ白な怒涛に変じた。駆けても、幻影はぴったりと後をついてくる。宋江が重くて、思うように走れない。少しでも足を緩めると、再び視界を闇が覆った。彼らを捕まえようと真っ黒な波が踵に迫り、今にも闇に呑み込まれそうだった。
「くそっ、どの神でもいい、助けてくれ!」
 戴宗は走った。火矢の弾ける音、その光に向かって走り続けた。やがて、彼方に軍勢が見えた。視界に明るさが戻り、その姿がはっきりと見えた。
 まず関勝の姿が飛び込んできた。赤い巨大な馬、青龍刀を掲げた長髯は見間違えようもない。その横の白い書生は、呉用だった。
(御利益あった!)
 戴宗の足が自然と速まる。風に色とりどりの旗が勇ましく翻っている。この色のない嵐の中で、その色だけが鮮明だった。
「烏竜神君、悪口を言ってすまなかった! ありがとうよ!」
 が、感謝したのは早計だった。戴宗の前には、碧の水をたたえた谷川が滔々と流れ、梁山泊軍と彼らを隔てていたのだ。先ほど渡った渓流が、ここでは深い淵になっていた。
 しかし、戴宗の足は止まらなかった。
「ままよ、戴宗!!」
 戴宗は宋江を背負ったまま、渓流の中へ駆け込んだ。水しぶきが激しく飛び散り、そのまま水面を駆け抜けた──と思った瞬間、戴宗の足が波間に沈んだ。戴宗は叫んだ。

「烏竜神君よ──俺を救えッ!」



※文中の「卞」は、正しくは卞です。
※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。
※文中の「擢源」は、正しくは擢源です。



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