水滸伝絵巻-graphies-

第百二十八回
魔対魔(三)


 その朝、薊州二仙山の峰々は、しんと静まり返っていた。
 紫虚観も、静謐に包まれていた。
 大勢の道士が集まっていたが、息詰まるような静けさだった。
 夜明け、公孫勝は峰から降りた。その姿は白い朝靄に包まれ、最初、喬道清にも、馬霊にも、公孫勝とは見分けがつかなかった。理由のひとつは、その峰が、公孫勝が座していた峰ではなく、羅真人の峰であったからだ。
 いつの間に移動したのか、公孫勝は羅真人の峰より降り、その背には羅真人を負うていた。
 二仙山に鐘が鳴り響き、集まってきた全山の道士たちに、公孫勝は厳かに告げた。
「時は満ち、これより、あらゆる法力は人の世界から失われるであろう」
 道士たちは驚愕した。
「なんと仰る、公孫一清。それはまことか」
「森羅万象の理は、完全に人より離れた」
 その途端、公孫勝の背中から一陣の風が起こって、空へ立ちのぼったかと思うと、白い衣だけが音をたてて大地に舞った。
“羽化登仙”
 修行を積んだ道士が、肉体を脱ぎ去って仙人となることである。
 二仙山のあちこちから、さらに道士たちが集まってきた。雲のごとく──と見えたのは、喬道清たちがまだ会ったことのない、白髯白眉の長老たちだった。
 彼らは無言で公孫勝のまわりに集うと、羅真人の衣を拾い上げ、公孫勝に着せ掛けた。公孫勝の龍杖を受取り、羅真人の払子を持たせた。
 そして、一斉に公孫勝を拝礼した。
「公孫真人──」

 二仙山の新たな主となった公孫勝を、すべての道士が拝礼する。
 背後には、朝日が燦然と輝いている。しかし、公孫勝の顔には、なんの感情も浮かばなかった。それでも、喬道清は尋ねずにはいられなかった。
「梁山泊は」
 公孫勝の答えはなかった。
「我々にできることは」
「──ない」
 戦いは続くだろう。
 人間という幼子は、自然という親の懐から飛び出した。
 神は去り、森羅万象の理は人を助けず、これより人は、その智慧のみで生きてゆかねばならぬのだ。
 喬道清は諦めなかった。
「なにか希望はないのですか」
 公孫勝は沈思し、その払子で地に“鬼”の一文字を書いた。
「“鬼”とは、“巨大な頭”──あるいは魔となり、あるいは魁となる。人を越えた、巨大な存在──それが、希望だ。唯一の」
 魁は、時の先を進むもの。
 善なるもの、邪なるもの、聖なるもの、魔なるもの。
 その境を越えてゆくもの。
 前人未到のその道を、はじめて進む、挑戦者である。
 天魁の星を持つ宋江──彼が、一体どこへ辿り着くのか。そもそも、どこかへ行き着くことができるのか。
 その答えは、まだ、誰も知らない。

 梁山泊軍の本陣で、裴宣は兵の出陣準備を進めていた。
 戴宗が、宋江と呉用が合流したとの報せをもたらしたのだ。出陣準備を急ぐ裴宣に、助手の杜興が疑問をぶつけた。
「裴鉄面、貴殿が指揮を?」
 宋江は花栄、秦明とともに山越えの軍を率いて行き、呉用も関勝、李応とともに援軍に出た。この東の本陣に残っているのは、裴宣、蒋敬、呂方と郭盛、蔡慶、蔡福の兄弟、宋清のみである。兵力はおよそ五千。それを指揮するには、杜興にはどの頭領も役者不足に思えた。
 裴宣も、もとは飲馬川で首領を務めた男だが、やはり文筆の人である。裴宣自身、それは弁えていた。
 間もなく、呼延威が重い足どりで二人のもとへやって来た。
「劉光世将軍は、体調不良のご様子です」
 若者がもたらした報告を、裴宣は予想していたようだった。
「なにか指示は?」
「ありません」
「泥酔して前後不覚、というところだね」
「はい──いえ、それは」
 しつけのよい呼延威は、上官の失態を恥じる様子で口をつぐんだ。裴宣は書きかけの帳面を閉じて、立ち上がった。
「それでは、もっと“上の方”に御出駕を願おう」
 裴宣は自ら童貫のもとに赴くと、丁重に今日の出馬を要請した。
「劉将軍は体調ご不良、童枢密閣下にご出馬いただけば、今日の戦勝も間違いないことでしょう」
 すべて、呉用の深謀遠慮である。
 童貫が名目上でも、この作戦の指揮官となれば、梁山泊軍の足を引っ張ることはない。童貫とて、烏竜嶺を落としたいのだ。ただ、どうしても自分自身の手柄が欲しい。そのために梁山泊軍の邪魔をする可能性かあるのなら、手柄などくれてやればよい──。
 劉光世では足手まといだが、童貫の軍人として戦略眼は確かである。
(“敗家子”劉光世の深酒まで読んでいたのなら、智多星の神眼おそるべし、だ)
 裴宣は密かに感嘆し、一方の童貫は、当然、渋った。
(“書生”め)
 童貫と梁山泊を、“一蓮托生”にしようというのだ。これでは呼延威を人質にした意味もない。
(さりとて、烏竜嶺は落とさねばならぬ)
 そこへ、童貫の従卒が急ぎ足でやってきた。
「王稟将軍が戻られました」
 王稟は、童貫の腹心で、盧俊義軍へ使者として派遣されていた男である。童貫の愁眉が開いた。
「よいところへ戻った。これへ呼べ」
 王稟は、趙譚に比べると年も若く、容貌も優れていた。軍人らしい体つきで、動作も機敏だ。しゃれた口髭がどことなく軽薄な印象を与えたが、その口振りは謹厳だった。

「閣下に喫緊のご報告を申し上げます。桐盧県の本営にご不在と聞き、こちらに急行致しました」
「後で聞く」
「御意」
 王稟は頭を垂れた。
「ご命令を承ります」
「王稟は、わしの名代として出陣せよ。梁山泊軍と協力し、烏竜嶺を落とすのだ。しくじるようなことがあれば、ただではすませぬ」
 それだけで、童貫の“腹心”を自負する王稟は、すべての情況を呑み込んだ。
“官軍”が烏竜嶺を落とし、童貫の栄誉を輝かせる──それが自分の役目だと、瞬時に理解したのである。うまくやれば、自分の株を上げる絶好の機会である。
「またとない名誉。非才ながら奮励努力致します」
 裴宣は、心の中で感嘆した。
(しつけのよい忠犬だ)
 裴宣は王稟に向かい、丁重に出馬の礼を述べた。
「まずは、ゆるりとお支度を。宋先鋒が、烏竜嶺の砦へ降伏を求める使者を送ります」
 童貫は意外な顔をした。
「降伏とな? 睦州が落ち、交渉可能と考えたか。烏竜嶺は、応ずるまい」
「かもしれません」
 裴宣もそう思う。
 しかし、それは宋江の強い意志だ──と、戴宗が伝えてきたのだ。

 使者には、蒋敬が立った。
 浮かない顔で、ひとり歩いて山道を登っていく。
 歩きながら、蒋敬は陶宗旺の無残な死体を思い出していた。一歩ごとに、仲間たちの死に顔をひとつひとつ、思い出した。死顔を見なかった仲間は、生きている時の、なにげない顔を思い出した。
(わからずやの孟康とは、ずいぶんと喧嘩もしたな)
 それでも、蒋敬は、烏竜嶺の者たちが降伏することを願った。
 死人の数を計算するのなど、もう、うんざりだ。死体になれば、敵も味方もおんなじで、実際、区別のつかないことだって少なくはない。
 蒋敬は、とぼとぼと山路を歩いていった。路傍には、方臘軍の小砦や見張り台が、いくつか放棄されて残っている。決戦に備え、方臘兵はすべて砦に引き上げたようだった。
 蒋敬は、声が届くぎりぎりの場所まで進んだ。砦は静かだ。人の気配はあったが、静かだった。
「この砦は囲まれた。降伏せよ。兵の命は、宋江殿が保証すると約束している。ひとりでも、ふたりでも……」
 諦めて、降伏せよ──と言いかけて、蒋敬の声は途切れた。
 また、陶宗旺や、孟康や、死んだ仲間たちの顔を思い出したのだ。
 そして、呂師嚢の悲痛な瞳を。
 その瞳は、戦の中で抵抗することもできずに死んでいった、無数の光明乙女たちの顔に変わった。
(ああ、わしには分からない。いったい、なにが正しいのか)
 烏竜嶺の動きはない。やがて、立ち尽くす蒋敬の前で砦の門が開き、純白の軍が粛然と現れた。朝日の中で、その軍勢は、いつもより白く輝いて見えた。
 武器が、氷柱のように透明な光を放っている。

 それは死にゆく軍だった。その意志が、彼らを、亡霊のように輝かせているのである。
 静寂──と思ったのは、一瞬だった。
「蒋敬殿、さがられよ!」
 呂方と郭盛が先鋒隊を率いて山道を駆け上がってきた。蒋敬は反射的に傍らの名も知らぬ木の陰に飛び込んだ。岩場に生えた、彼の体を隠すだけの幅しかない頼りない木の陰で、蒋敬は、もう誰の顔も思い出せず、ただ戦いの始まる音を聞いていた。

 烏竜嶺が徹底抗戦に出るのは、梁山泊軍全軍の──宋江以外のすべての者の、予想通りの展開だった。
 烏竜嶺の東に残留していた梁山泊軍は、呂方、郭盛の紅白の騎兵を先鋒に、蔡慶、蔡福が歩兵を率いた。山裾には童貫も出馬し、その手勢の五百は王稟が指揮を取った。彼らは梁山泊軍にぴったりついて、山道を攻め上る。
 対する方臘軍は、景徳が手勢を率いていた。
「白将軍、お先に参ります」
 景徳は、見送る白欽に別れを告げた。その顔は、清々しく輝いている。
 彼らは睦州から杭州へ援軍に出て、敗れ、この小さな砦に籠もっていた。狭い山頂に兵がひしめき、食糧はもちろん、寝る場所すら事かいて、すでに生きる気力も失っていた。その虚無から、彼らは今朝、死という希望によって再び蘇ったのである。
 自ら望んで、あるいは流れに身を任せて、明教に投じた若者たち──彼らは、ひとり残らず、今日、この山にて命を終えるのだ。

 烏竜嶺の動きを察知し、西側でも梁山泊軍が動いた。
 凌振が威嚇の砲を打ち、関勝を先鋒に、秦明と花栄が山道を押し進む。睦州側の道は、東の道より起伏が少ない。睦州で得た軍馬を加え、梁山泊軍は騎兵の数を増やしていた。
 馬はあったが、“鉄笛仙”馬麟は徒歩だった。険しい渓谷で生まれ育った彼は、山では徒歩の方が敏捷に動くことができるのだ。凹凸のある山路を足で進むと懐かしく、心が浮き立つ。
 漢人に故郷を奪われ、なにもできなかった無念さから、彼は、長いこと思い出にさえ背を向けてきた。それなのに、思えば、黄門山も、梁山泊も、水のほとりの山──だった。
(これが最後の戦いだ)
 終わったら、馬麟は帰る。
(あの渓谷の故郷へ)
 家はない。誰もいない。それでも、彼は帰りたいのだ。家もなく、誰もいない渓谷に、異境で死んだ同族の少女・心月の遺髪を葬って、それから──。
(それから、俺は)
 馬麟は進んだ。一歩一歩、砂礫を踏んで、戦場の、その彼方の、未来を目指して。

 そして、戦いは突然に始まった。
 突然、路の両側の薮と岩場から方臘軍の伏兵が飛び出した。すぐに関勝が迎撃に出た。伏兵を率いるのは、“流星”石宝。砦の守りに“賽温候”白欽と僅かな兵だけを残し、千人に満たない手勢とともに出撃したのだ。
 白欽は、兵を石宝と景徳に等分しようと提案したが、石宝は断った。特別な理由はない。勝つために策を弄する意味を、彼はすでに見失っていた。
 死兵となった石宝と、梁山泊軍の戦いが朝日の中で始まった。
 呉用は、石宝らが清渓県へ逃げようとすると予測していた。それゆえ、退路を塞ぎ、殲滅する単純な戦法をとったのだ。兵力は梁山泊軍が十倍ある。戦いは長くはかからぬ、と呉用は予測していた。
 関勝は、石宝に挑んだ。石宝も、関勝へと突き進む。石宝の周囲は、方臘兵が取り巻いている。彼らは関勝の敵ではなかった。関勝に続き、花栄と秦明、朱仝が石宝ひとりを敵として武器を構えた。
 関勝には、石宝が、かすかに笑ったように見えた。


 富春江でも、水戦の始まりを告げる銅鑼が鳴り響いていた。
 李俊が指揮する梁山泊の船団が、烏竜嶺下の水砦の焼け跡を目指し、上流から漕ぎ寄せる。下流からも、阮小五、阮小七率いる船団が遡る。
 ふたりの兄弟は待っていた。この時を。

「兄貴、見ていてくれ」
 阮小二が上陸を果たせなかった、墓場となった、あの岸に、この朝こそ船をつけるのだ。
 岸辺から矢が飛んできた。竹矢来や板で防ぐ。敵には、もう投石機も、火筏も、ろくな船さえないのである。阮小二と、孟康が、命懸けで、それらを焼いた。
「進め!!」
 水夫たちの声が響く。阮小七が舳先に立った。誰よりも早く、あの岸に上がりたい。阮小二の死体を探し、取り戻すのだ。腕の一本でもいい。石碣村の、あの家の、槐の木の傍らに葬るのだ。水夫たちの声が、舟歌となった。
「漕げ、漕げッ!!」
 阮小五はひたすら櫓を押す。その側の水面に影が過った。と思うと、水中から弩の矢が飛び出した。烏竜嶺水砦の生き残りの水兵が、水中から決死の反撃を試みたのだ。
 阮小五は櫓で矢を防いだ。しかし、あちこちで、水夫が射られ、河に落ちた。
 上流では、李俊が狙われた。主将と見て、攻撃が集中したのだ。水中から飛び出した複数の矢が、李俊を襲った。後方にいた童兄弟は、間に合わなかった。そばにいた許船頭がとっさに水桶を掴み、身を挺して李俊をかばった。二、三本は防いだが、一本が深々と許船頭の刺青をした腿に刺さった。
 童威が銛を掴んで波間に投げると、血煙が広がって、弩を握った方臘兵の死体が浮かび上がった。水夫たちも櫓を離し、槍や銛を投げ始める。その様子は、まるで漁と変わらない。みるまに富春江が朱に染まった。

“玉爪竜”成貴は、渋い目で富春江を眺め、烏竜嶺へ目を移した。
 山へ登るか、河へ降るか。逃げ道はふたつ。その行き先は、どちらも死だ。
 成貴は頷き、厳かに宣言した。
「水賊に戻るぞ!」
 成貴は明教徒の白衣を脱ぎ捨てると、荒れ狂う富春江へ飛び込んだ。

 烏竜嶺の東では、梁山泊軍が敵の矢を盾で防ぎつつ山を駆け上っていた。たび重なる出撃で、馬もこの山道に慣れてきている。
 先頭には、呂方と郭盛、その後ろに、“腹心”王稟がぴたりとついている。
 王稟は自尊心の強い男だが、先陣は梁山泊軍に譲っていた。
 呂方と郭盛は、馬二頭を並べて進んだ。呂方が先に出れば、郭盛も出る。それをまた呂方が追い抜く。

 呂方は温侯・呂布の剛毅な人柄に憧れており、謙譲を美徳としない。好敵手の郭盛に対しても、常に一歩、いや半歩でも先んじようと気を張っていた。が、実際は、郭盛に一目置いていた。重厚な人柄の郭盛が、時として一歩譲ってくれているのも気づいていた。
 互いに勝つためではなく、常に相手より強くありたいと願う。
(ゆえに、我等は真の“好敵手”なのだ)
 前方に景徳率いる方臘軍が現れた。二人の速度が同時に速まる。その勢いに気押されたのか、方臘軍は道を逸れて山道へ逃げ込んだ。
「追うか」
「捨ておけ」
 二人はそのまま駆け抜けた。呂方が振り返ると、王稟は逃げたのが方臘軍の将と見て追撃するのか、部隊の速度を落としていた。
「手柄など、奴にくれてやる!」
 呂方は前へ視線を戻した。この一瞬に、郭盛に先んじられていた。
「郭盛には負けられぬ」
 呂方は勇躍、馬を飛ばした。
 対影山の二人の英雄、彼らは鏡に映った影のように不可分の存在だ。二人だったからこそ、切磋琢磨して武芸を磨き、世に知られるほどの男になれた。一人ならば、ここまでは来られなかった。
(俺はお前を助け、お前は俺を助ける)
 これほど、戦いがいのある“戦い”はない。
「郭盛、前ッ!」
 ふいに呂方は叫んだ。
 路傍の小砦が内側からどっとくずれて、その中から巨岩が転がり出てくるのが見えた。隠れていた方臘兵が、材木を梃子にして押し出したのだ。岩は山道を塞ぎ、轟音とともに郭盛へと襲いかかった。

 郭盛は、流れる時が止まったように感じた。彼の人生のすべてが、飛ぶように脳裏を飛びすぎていった。父のこと、母のこと、孤児となり、各地の親戚の間を漂泊し、“英雄”薛仁貴の芝居だけが喜びだった。行商人になっても、武芸への憧れを捨てきれず、寸暇を惜しんで稽古に励んだ。
 強ければ、人を祐けられる。弱いもの、虐げられているものを──。
 瞬間、郭盛の眼前に岩が迫った。郭盛の後ろには、呂方が、梁山泊の兵士たちが続いていた。郭盛は──前に出た。

 あっという間のことだった。岩は山道を転がり落ち、郭盛を馬もろとも押しつぶした。そして、岩は、郭盛と馬の体によって勢いを削がれ、進路をそれて、呂方の眼前で崖から転げ落ちていったのだった。
 呂方の叫びが、山道に響きわたった。

(やはりな!)
 後方の王稟は、彼は明教徒との戦いに慣れている。
 最後の最後、彼らがどんな手を使って玉砕するか、身に沁みている。蜂は刺せば針を失うし、毒蛇は噛めば次の毒がたまるまで無力になる。そのように、明教徒は最期の時は捨て身になり、温存していたあらゆる手段を駆使してくる。
 だから、王稟は先陣を譲っておいたのである。
(だが、これだけのようだ)
 度重なる戦闘のすえ、烏竜嶺にはこれしか“奥の手”も残っていなかったらしい。郭盛が岩を受けたおかげで、後続の梁山泊軍の被害は最小限に抑えられていた。が、その脇腹を衝くように、逃げたはずの景徳軍が戻ってきた。呂方の軍は混乱している。王稟はすかさず飛び出すと、景徳を主将と察して攻めかかった。
 王稟は一騎討ちと見せ、砂と山椒を炒った目つぶしを食らわせた。景徳がひるんだ隙に、王稟すかさず槍で敵の馬の首を突いた。景徳は鞍から投げ出され、叫んだ。
「卑怯な」
 景徳は敵の姿を見極めようとしたが、目つぶしで視力を奪われていた。
 王稟は、馬上から景徳の足を突いた。景徳は刀を抜き、倒れたまま十合ほど応戦したが、最後は、深々と胸を突かれて果てた。

 西の斜面の戦いは、石宝を中心に熾烈を極めた。
 梁山泊軍の狙いは、石宝ひとりである。実際、石宝は孤立していた。わずかの手勢は倒れ、いま、彼と梁山泊軍を隔てているものは、両軍の積み重なった死体だけである。流星鎚と劈風刀を両手に構え、石宝を悽愴たる風の中にいる。
 誰が石宝を殺すのか。それが、梁山泊軍全員の関心であった。
 殺伐とした戦場で、馬麟は笛の音を聞いていた。灰色の峰が、すぐそこに見えている。あの峰の彼方に、馬麟は自分の行くべき場所があると信じた。いかにこの戦場が醜く、汚れているとしても、そこにあるのは美しい渓谷、懐かしい風、月夜の祭──故郷。
 彼の故郷は深い渓谷の底にあり、空が狭く、太陽と月がともに空にある時、同胞はみな渓谷の上に出て、太陽と月に祈る。永遠の平穏を願う。
 平生、馬麟はおだやかな人柄である。人と交わることも少ない。鉄笛仙のあだ名のごとく、どこか浮世離れしている男であった。
 その馬麟が、石宝を取り巻く最前線の包囲に加わっていた。今、彼は、故郷へ戻るために戦っていた。滅びた一族の魂が、彼に力を与えていた。
 馬麟は、前を行く大きな背中へ目を向けた。“錦毛虎”燕順の背だ。足を引きずり、槍を杖がわりにして、山道を登っていく。
 清風山の仲間は──もう、ひとりも残っていない。
 梁山泊に合流した山の中でも、清風山の者たちは、抜きん出て仲が良かった。まるで、家族のようだった。
 今は、燕順ただ一人だ。
 馬麟の胸で、銀細工がちりちりと鳴った。彼の故郷の、唯一の形見だ。
「──親分」
 馬麟は、燕順の背に呼びかけた。
「石宝は、“親分”にまかせた」
 燕順が振り向いた。そして、燕順にしては珍しく、無言のまま頷いた。

 馬麟は静かに微笑んだ。
 太陽と月──“明”。
“地明星”は、“鉄笛仙”馬麟の星である。
 暗い渓谷に暮らしていても、人の本能は明るさを求める。
 どれほどの後悔、苦悩、悲しみの中に沈んでいても、自分には価値がないと嘆いていても──本当は強さを求め、光の中を歩みたいのだ。

 石宝は、山上の砦に向かって徐々に追い詰められていた。足取りは重く、その動きは緩慢だった。しかし、まだ誰も、石宝の後方に回り込むことができないでいる。流星鎚がそれ許さないのだ。背後をとろうとして、頭を砕かれた梁山泊兵が何人も倒れ、流れ出た血で石宝の足はすべった。
 石宝には、もう自分がどこに向かっているのか分からない。逃げ込む場所も、帰る場所もないというのに、なぜ戦っているのだろうか。
 美しい笛の音に、石宝は無感情の瞳をもたげた。ひとりの男が、自分の頭上へ襲いかかるのを見ても、すぐには、その意味を理解することができなかった。
 自分が、もうすでに死んでいるような気がしたのだ。

 身軽な馬麟は、垂直に近い山の斜面を回り込み、石宝の背後から攻めかかった。
 帯に挿した鉄笛が、風をはらんで鳴いた。砦にいた白欽が、加勢に駆け下ってくる。しかし、馬麟はかまわず石宝に斬りかかった。その背中を、白欽が投げた槍が、唸りをあげて貫いた。
 

馬麟は、石宝にぶつかるようにして倒れた。
 倒れながら、なお攻めようとする馬麟の喉へ、石宝の撥風刀が振り下ろされた。
 馬麟の血と、彼の胸を飾っていた銀の細工が、音を立てて飛び散った。

 その時、石宝は燕順を眼前に捉えていた。相手が手負いで、槍を杖にしているのが分かった。

 顔面は蒼白で、動きも鈍い。石宝は燕順に背を向け、馬麟に止めを刺そうとした。
 しかし、一瞬、石宝は異様な殺気を感じ、ぎょっとして振り向いた。

 眼前に、一匹の巨大な猛虎が牙を剥いていた。
 燕順は槍で石宝の首を狙った。燕順は駆けた。痛みは消え、体が風のように軽かった。

 刃が石宝の首に触れ、燕順はさらに踏み込んだ。風を感じた──その刹那、撥風刀が槍の穂先をはね飛ばし、流星鎚が横殴りに燕順の頭を砕いた。

 骨が砕ける音がして、燕順は、大地に倒れた。
 石宝の首筋が、焼けるように痛んでいた。
 異民族の装束の男にやられたのか、赤鬚の男の槍にやられたのか、石宝自身にもはっきりと分からなかったが、杭州戦で赤目の男──登飛に受けた噛み傷が、ぱっくりと口を開いて、血が流れだしていた。
 白欽が、撤退を促した。
「砦で籠城を」
 空には、方臘軍の銅鑼が鳴り響いている。東の斜面だ。白欽は、その銅鑼の緊迫感に、景徳が討たれたのだと直感した。
「石宝将軍、砦へ。私は東へ掩護に回ります」
 手短かに言って白欽は去り、戦野にひとり、石宝が残された。
 砦の門は、すぐ背後にある。数歩歩けば、砦の中だ。門を守る数人の兵が駆け寄って、石宝を守ろうとしていた。
 しかし、石宝は動かなかった。
 死傷者が隙間もなく埋めつくす狭い山道に、石宝はたった一人で立っている。その虚ろな視線の先には、やはり、ひとりの男が立っている。
 関勝だった。
 その背後では、梁山泊軍のすべての目が、石宝を凝視している。彼らは、なぜか、関勝より前に出ることができなかった。関勝の前には、馬麟、燕順が倒れている。
 関勝の双眸には、怒りはなく、深い、憐れみがあるだけだった。
(かくも、“正義”は人を害する)
 戦場を、死体の群れを、烏竜嶺の峰を、関勝は見た。
 そして、関勝は背を向けた。
 血にまみれた白衣の男に、すでに活路のない孤独な男に、関勝は、背を向けたのだった。

 石宝は、数人の方臘兵に手を引かれるようにして、砦へ入った。
 方臘軍が去ると、梁山泊軍は、無言で薪を運び始めた。
 薪は、砦の門を、土塁を取り囲んで、高々と積み上げられていく。
 李応は兵を収めるかたわら、自ら馬麟と燕順を後方へ運んだ。馬麟はすでに息絶えていた。懐から落ちかけた笛を、懐の奥へしまってやった。
 燕順は、まだ少し息があった。
 李応が手を握ると、目を閉じたまま、燕順は力強く握り返した。どこにそんな力が残っているのか、それは別れを告げ、俺はもう行くぞ──と、あの力強い、大きな声で言っているように思えた。
 

燕順は、最期まで、うめき声ひとつ、もらさずに逝った。

 梁山泊軍は、烏竜嶺山頂の砦を包囲した。
 朱仝は、孤立した砦を見上げ、はてしない空虚を感じた。
 李応は、勝利を前にしても、少しも喜びを感じなかった。
 希望が欲しいと、二人は思った。
 この戦いの果てにも──なにか、ほんの少しでも、明るいものが。

 東側の斜面の方臘軍も、ほぼ壊滅状態だった。
 緒戦で将の景徳が斬られ、梁山泊軍の攻撃は、睦州近隣の良民だった方臘兵たちの純粋な殉教の精神を吹き飛ばすほど激しかった。方臘軍は統制を失い、もともとが死兵であるから、ただやみくもに戦うだけだった。
 梁山泊軍の被害も大きかった。巨岩に押しつぶされた、郭盛とその手勢。呂方は、しばし、茫然自失となった。王稟は景徳の首を取ると、もう手柄は十分とばかり、さっさと後方へ退いていた。
 梁山泊軍は頭上から勢いに乗って突撃してくる方臘兵の捨て身の攻撃を受け、死んだ多くが相討ちだった。倒れた兵は、血と泥にまみれて、どちらがどちらの兵士か一目で見分けることは難しかった。
 呂方は、画戟を振るい、山頂を目指して進んだ。
(郭盛よ!)
 まるで、自分が“半分”になったようだった。呂方は悲壮な眼差しで山頂へ続く道を見た。その視界に、純白の将が飛び込んできた。山道を駆け下りる白装束の将は、郭盛ではなく、白欽であった。
 白欽は名乗りをあげた。
「我こそは、“賽温侯”白欽なり!」
 呂方は、落雷に打たれたように怒りを発した。

 呂方は馳せた。白欽も少しも速度を緩めず、いきなり槍を突き出した。呂方は馬上で腰をひねると、白欽の槍を軽くかわした。白欽の槍が空を刺し、その脇へ呂方は画戟を繰り出した。白欽はすかさず柄を回して防ごうとする。
 呂方の画戟に、白欽の槍がからんだ。押せども離れず、ついに二人は武器を投げ捨てた。暴れる馬上で、二人は素手で掴み合い、殴り合った。
 彼らは、共に“温侯”呂布に傾倒している。呂布は後漢末の英雄である。誰よりも強く、そして、最期まで、戦うことを諦めなかった。自分の強さを疑わず、生き延びる執念を恥とも思わず、息が止まる瞬間まで、“戦った”。
 二人は馬上で拳をふるい、殴り合い、戦い続けた。その戦いの激しさに、ついに白欽の馬が道を踏み外した。横手は崖だ。
「方聖公──万歳!」
 白欽は叫ぶと同時に、呂方の袖を掴んだ。

 呂方は馬から引きずり落とされ、白欽ともつれあいながら、鋭い岩が連なる崖を、どこまでも滑り落ちていった。

 烏竜嶺をめぐる戦いは、夕刻前に幕を下ろした。
 水辺では、李俊らにより“浙江四竜”の始末が行われていた。主将の成貴と謝福は、富春江に飛び込んで逃げようとしたが、水兵たちに寄ってたかって捕らえられ、江南水賊の“作法”通り、簀巻きにして水中に投じられた。
 擢源と喬正は兵に混じって逃げおおせたが、許船頭は李俊に請け負った。
「心配ご無用、草の根を分けても探し出し、旦那のお仲間の無念を晴らします」
 許船頭は足に矢を受け、藍染めの布で傷を縛っていた。
 李俊はただ頷いた。そして、それがもう決まっていることであるかのように、許船頭に向かって言った。
「“伝言”は?」
 許船頭は驚いた顔をしかけたが、すぐに感情を抑えた様子で、低く答えた。
「“太湖四獣”から──“船の準備、整いました”」

 そして、道は開かれた。
 烏竜嶺を包囲した梁山泊軍は、死傷者を収容し、休息して兵糧を使った。烏竜嶺を取り巻いていた方臘軍の小砦は取り壊され、本砦の柵にも薪や柴、可燃物が積み上げられた。
 夕刻、梁山泊軍は動きはじめた。
 先頭を騎馬で進むのは、枢密使・童貫である。
 童貫は武装し、王稟に愛用の槍を持たせていた。彼はすでに老人だが、鍛練は続け、筋肉はいまだ鋼のように強靱だった。
 戦場の血腥い風に吹かれながら、童貫は勝利を味わっていた。どんな悲惨な戦場も、彼が生き残ってきた“朝廷”という名の戦場に比べれば、その陰惨さは足元にも及ばない。
 烏竜嶺の上を、太陽がひどくゆっくりと傾いていく。
 梁山泊軍も、もう急いではいなかった。
 関勝は、関鈴を連れてきていた。
「昔、金魚を飼っていたことがある」
 関勝は山道を進みながら、ふと思い出したように話しはじめた。
「ある日、痩せた、汚い野良猫が現れて、その金魚を喰ってしまった」
「ひどいな。怒ったでしょう」
「わしがどうしようかと思って見ていると、痩せこけた猫は、日溜まりで満足げに毛繕いを始めた」
 関鈴は、関勝がなぜそんな話をするのか分からなかったが、素直に相槌を打った。
「それで、その猫をどうしたんです」
「それから毎日、餌を与えた」
「どうして」
「もう金魚を喰わぬように」
 関鈴は笑った。
「へぇ、猫は喜んだでしょうね」
「そうでもなかった。懐かない猫で、毎日、餌だけ食べ、居眠りをして、数年はいただろう。ある冬、急に餌を食べなくなり、それきり姿を消してしまった」
「恩知らずな奴だなぁ」
「半年ほどして、厩の奥の桶の下で、骨を見つけた。猫は誰にも救いを求めず、死期を悟って、死んだのだ」
 目前に、烏竜嶺の砦が見えた。
 丸太が門を打ち破り、梁山泊軍が雪崩込む。抵抗する方臘兵は、もう一人もいなかった。そして、大人たちに続いて砦の中に入った関鈴は、関勝が、なぜ突然、猫などの話をしたのか、なんとなく分かった気がした。
 砦の中で、関鈴はたくさんの死体を見た。もちろん今までも、戦場でたくさんの死体を見てきた。
 しかし、烏竜嶺の砦の中にあるのは、すべて、自殺した方臘兵の死体だった。刺し違えて死んだもの、崖から身を投げたもの、井戸の中にも死体があった。
 死臭の漂う砦の中で、頂の本砦は、しんと静まりかえっていた。
「──火を」
 誰かが、言った。

 烏竜嶺の砦で生きているのは、ひとり“流星”石宝だけだった。
 梁山泊は砦に入り、建物をひとつひとつ制圧し、死体を放り込んで、火を放つ。黄昏が始まった時には、残っているのは、彼のいる本砦の建物だけだった。その周囲には、薪が山と積まれていた。
 燃え上がる眼下の建物を眺め、石宝は自分の居室にしている狭い部屋に戻った。
 まもなく、焦げ臭いにおいがし始めた。梁山泊軍が、本砦に火を放ったのだ。
『この世界には絶望も希望もなく、後悔も期待も、喜びも悲しみも、魔物が人に与えた穢れに過ぎぬ』
 方聖公はそう教える。
『炎よ、光よ。我らの穢れを消し去りたまえ』
 祈りの言葉も、今の石宝には虚しく思えた。

 そして、ふいに、暗唱したいくつもの聖句ではなく、少年の頃に、家塾で覚えたひとつの詩を思い出した。

   戍鼓斷人行  戍鼓に人行は断え
   秋邊一雁聲  秋邊に一雁の声あり
   露從今夜白  露は今夜より白く
   月是故郷明  月はこれ、故郷のあかり
   有弟皆分散  弟は有れど、みな分散し
   無家問死生  家の死生を問う無し
   寄書長不達  書を寄せど長く達せず
   況乃未休兵  況んや、乃ち未だ兵を休めざるをや

 そして、石宝は、愕然とした。
 命を失う時になって、はじめて、彼は、自分がほんとうに望んでいたことを知った。
 家族の行方を探せばよかった。
 家族を弔い、あの荒れ地に、もう一度、家を建てればよかった。
 傷ついた金木犀に水をやり、妹が好きだった花を、また咲かせてやればよかった。
 生きて──誰かを、愛せばよかった。
(もう遅い)
 煙が立ち込め、足元から熱が伝わってきた。木が弾け、壁がくずれる音がする。
 懐で、何かが囁いていた。かさかさと、乾いた、ささやかな音がした。
 石宝の指が、一枚の葡萄の枯れ葉に触れた。
“あなたが、わたしの、ひかりです”
 荒野に見捨ててきた、ちいさな命のことを思った。
 あの少女は、今日の朝を迎えただろうか。明日の朝を、迎えることができるだろうか。
 真っ暗な闇の中に、声が聞こえた。
「生きなさい。そして、幸福を感じなさい。私のぶんまで」
 そのために、わたしの光を解放しよう。
 その光が、おまえたちを照らすように。

 その夜。燃え上がる烏竜嶺の砦の上を、一粒のちいさな星が流れた。
 指さして、関鈴は呟いた。

「ねぇ、父上。ほら、涙みたいだ」

 夜空を焦がした火も、曙には収まり、烏竜嶺の上の空は青かった。
 その紺碧に、白い煙が立ちのぼる。
 弔いの香のようだった。
 梁山泊軍の死傷者も多かったが、烏竜嶺の方臘兵は、全滅だった。
 熱の下った宋江は、無言で烏竜嶺陥落の報告を受け、それから、あの古い廟に詣でたいと言った。
 許船頭が小舟を出し、宋江は呉用を伴って、再び渓谷を遡って行った。
 松林のほとりで船を降りると、あたりには両軍の兵士の死体が置き去りにされ、鳥獣が食い荒らすままになっていた。宋江は、連れてきた兵士たちに死体を埋葬させ、弔うように頼んだ。
 宋江は呉用と許船頭を連れ、あの小さな烏竜神廟に香華をたむけた。
 許船頭は、富春江に身投げして竜神になったという廟の神のことを、よく知っていた。
「この神様は、杭州あたりでは有名だ。しかし、この頃は、口に出す者はおりません」
「なぜですか」
 宋江が尋ねた。
「劭一族は、杭州の名門でした。しかし、その子孫は、絶えました。この方の末裔の、一人の娘が、方臘に嫁いで……反逆者の妻として、銭塘江のほとりで一族とともに処刑されましたので。数年前のことです。女子供も……それは、むごい光景でした」
 許船頭は無骨な顔に悲痛な表情を浮かべ、崩れかけた廟に手を合わせた。
「“ご先祖”が加勢してくれたのなら、方臘の命運も尽きたのかもしれませんな」

 薄暗い松林を戻りながら、一行は無言だった。その重さに耐えかねたように、呉用が言った。
「私の“用”の字は、自分で選んだのです」
 呉用は誰にともなく言葉を続けた。
「私は本を読むだけの、世には無用の人間だと思ったからです。親がつけた立派な名前は、捨てました」
「人は、何かの役に立つために生まれてくるのではありません」
 宋江は、足元の野の花へ目をやった。
「この花も──私が見て、ただ、美しいと思う、それだけです」
 振り返った宋江が、呉用には別人のように、強く見えた。
「信じようではありませんか、呉先生」
 なにを──かは言わず、宋江は先へ進んだ。
 宋江には、聞こえていたのだ。
『進め、宋江!!』
 燕順の大きな声が。

 見えていたのだ。
『梁山泊にきて、良かった』
 扈三娘の笑顔が。

 胸の奥から温かい黄金の泉が湧き出るように、彼らの記憶が宋江の心に溢れる。
 宋江は、歩きだした。
 真夏の明るい光の下を、漆黒の木陰を踏んで、宋江は歩いていく。
 鳥が鳴く。蝶が舞う。風がそよぎ、河が流れる。
 どこまでも流れゆく河のほとりを、豊かに繁る森の小道を、そうして、宋江は進んでいった。

 その朝、方聖宮にも凶報は届いた。
 烏竜嶺の砦を焼く火は、睦州を越え、山伝いに狼煙となって方聖宮まで届いたのである。
 方杰がすぐさま方臘に報告した。
 数日前、彼らは、もうひとつの凶報も受け取っていた。
 北側の守りである郁嶺関にも、敵軍が迫ったという報告である。
「敵は、ほどなく方聖宮に押し寄せましょう。防備を、堅固に」
 方杰は楽観的な男だが、緊迫した表情で方臘に報告した。ただ、その心中には、いざとなれば金芝公主だけでも守って落ち延び──と、起死回生の策を秘めていた。
 実際、そのように緊迫した報告が次々にあがってきても、方臘は特に命令もなく瞑想にふけり、婁敏中も新国家の法律の推敲を続けている。
 燕青には理解できない。
(さすが、明教徒は超越しているな)
 もしくは、現実から目をそらしているのか。
(それとも、“幻想”の方が、彼らには現実なのか)
 人というのは、なんとか生き延びるために、食べたり、寝たり、気を煩わせたり、働いたりするのだから、“死”を目的とする明教徒の事が理解できないのは当然のことかもしれない。
 とはいえ、ここ最近、活発になった動きもあった。光明峰の工事である。
 新しい神殿でも作っているのかと思ったが、敵の侵攻に備え、なにかの防御施設か、方臘を逃すための抜け道を作っている可能性もある。
 燕青は、再び諜報活動を開始した。烏竜嶺が落ち、郁嶺関にも梁山泊軍が迫ったとなれば、いよいよ彼らの出番である。
 工事現場には、案の定、百華がいた。その美しい顔に愛想がないのは相変わらずだが、燕青を見ても、前ほどは嫌そうな顔もしなかった。
「なにしに来たの」
「新しい神殿を見に来たんだ」
 燕青は、かまをかけた。
「神殿? 違うわ。あなた、少しも学習が進んでいないわね」
「ごめん」
「いいこと、明教は摩尼仏の時代から、布教において絵画や音楽など、芸術を重視している。民衆は目に見えるものを信じるから、そうやって教化を進めるのよ」
「なるほど、それで?」
「だから、ここに、方聖公の徳を讃える像を造っているの。蘇州の彫り師は腕がいいから、きっと素晴らしい出来でしょう」
 燕青は呆れてしまった。
(余裕だな)
 それとも、方臘は“終末”を感じ取って、自らの人生の記念碑を建てようとしているのだろうか。そんな燕青の考えを、百華は敏感に読み取ったようだった。
「猊下は自身の死など恐れていない。明教が続くことのみ望んでおられる」
(ああ、そうか)
 百華が珍しく親切に教えてくれたのも、方臘とともに死ぬことを覚悟しているからだ。燕青は、いくらか投げやりな気持ちになった。
「見てもいいかい、俺の教化も進むかもしれない」
 百華は少しためらった。
「私も、まだ見ていない」
「一緒に見よう」
 二人は並んで、石工たちが行き来する断崖の方へ歩いていった。
 磨崖仏は三体あった。中央の見上げるほど大きい仏像には、まだ筵を張った足場が組まれ、作業が続けられている。両脇の仏像は、やや小さい。作業は終り、筵も取り払われていた。百華が感嘆した様子で言った。
「右は太子・方天定殿下。左は、亡くなられた夫人の劭氏……美しい方だった」
 夫人だという仏像は、ほっそりとした顔が金芝公主によく似ていた。
「この三体で、過去と現在、未来を象徴しているのよ。光は、そのすべてを貫いて宇宙に満ちる……」
(異教徒がこの山に土足で踏み込んだ時、この“記念碑”が、その愚行を高みから睥睨するというわけか)
 燕青がそんなことを考えていると、石工頭がなにか号令をかけ、中央の足場が一気に崩れた。
「完成だわ!」
 土埃の中で、百華が喜びの声をあげた。
「ああ──なんて……ほんとうに生き写しだわ」
 燕青は、この女戦士の心をとらえている男を見上げた。そして、言葉を失った。
(これは……)
 燕青は驚愕を隠せなかった。百華が仏像を凝視していなかったら、きっと不審に思われただろう。
(なんということだ)

 巨大仏の顔──“方臘の顔”は、盧俊義と見分けがつかないほど酷似していた。

 梁山泊軍は睦州に駐屯した。
 童貫も方聖宮攻めを見届けるべく、睦州に本営を置いた。その手勢がまず行ったのは、城内での虐殺と略奪であり、梁山泊軍は、まず彼ら官軍と衝突しなければならなかった。この騒ぎは、童貫が収めたが、ふたつの陣営の間に流れる空気は険悪だった。
 不満の中心は、童貫の腹心である趙譚と王稟だった。
 烏竜嶺陥落を祝う大宴会もないし、贅沢な酒や美食もない。女もいない。略奪をして回っても、住民は敬虔な明教徒ばかりだったので、ろくな財宝が得られなかった。
 ならば功績を増やそうと、王稟は自ら討ち取った景徳のほか、さらに人をやって鄭彪など大物の首も集めた。
「朝廷は方臘軍の将の首に賞金をかけている。“鄭魔君”の首は、高くつくぞ」
 睦州に旨味がないと悟ると、趙譚も首を集めはじめ、二人は競うように童貫に報告した。童貫も、昔はそんな連中を快く思ったものだが、今では却って耳障りに感じることが多かった。
 童貫は二人を黙らせるべく、次の命令を与えた。
「至急、東京の高太尉に、増援を要請せよ」
「なんと、宋江をお助けになるので?」
「早急に方臘を討ち取り、兵を北に回さねばならぬのを忘れたか」
「そうでした」
 東京への使者は、旨味のある任務である。命令を受けた二人は、今度はどちらが行くかで争いはじめたが、童貫は趙譚を使者に選んだ。
「王稟、お前は残れ。報告があるのだろう」
「あ、いかにも」
「盧俊義軍の様子はどうだ」
「それですが、盧俊義は非礼にも恩賜の品々を蔑み、閣下の慰撫を嘲笑うかの傲岸な態度をとって、たびたび私を辱めました。そのくせ、投降した明教徒には不要な温情をかけております」
 王稟は憤ったが、童貫には、さほど重要な情報ではない。
 この大宋国の目下の敵は方臘だが、本当に恐ろしいのは金国だ。厳しい風土の中で育った彼らは精悍で、冷徹である。巧言令色は通じないし、財貨や見せかけの情で、動かすこともできない。
 いまは遼国を共通の敵として同盟関係にあるが、ともに遼国を討つ──という約束を、宋国はすでに何度も違えている。方臘の乱鎮圧に大軍を投入し、余剰の兵力がないためだ。金国の怒りは激しく、その矛先がいつ宋国に向かうか分からない。
(女真人は、飼い馴らせぬ野生の獣だ)
 与える肉がなくなれば、主人を食らう。その印象が、ふと、梁山泊と重なった。
 童貫はずっと、方臘が滅びた先のことを考えていた。その時、梁山泊をどう処置するか。
 王稟は“報告”を続けている。
「あれほど傲慢な態度を見せるからには、盧俊義が衷心から宋国のために戦っているとは思えません。帰順した明教徒を配下に収め、あるいは……」
 その様子を、呼延威が若者らしい潔癖な眼差しで見つめていた。彼の父親の呼延灼も、盧俊義軍にいるのである。童貫は若者に向かって手を振った。
「お前は出ていろ」
 呼延威は一礼して、童貫の前を退った。

 やりきれない気持ちを抱いたまま、呼延威が向かったのは裴宣のところだった。
 裴宣は戦後処理に忙しかったが、呼延威を優しく部屋に招き入れた。
 呼延威は勧められるまま椅子に座ったが、鬱々として言葉がでない。裴宣は事務をとりながら、何気ない様子で言った。
「官軍が、思っていたのと違うかね」
「いえ……」
 呼延灼の息子なのだから、薄々は感じていただろう。しかし、知っていることと、実際に、その渦中に入ることは、天と地ほどの違いがある。
 知ってしまえば、もう、知らなかった自分に戻ることはできない。
 裴宣は、若者には、希望を持っていてもらいたいと思っている。枯れ葉は散っても、若葉には、風雨に耐えて、生き生きと、強く育って欲しい。
「私は、すでに、この帳面の中の人間だよ」
「は?」
 自分の帳面を示してみせた裴宣に、呼延威は首をかしげた。
「ここに書いてあるのは、死んだ者の名前ばかりだ。彼らが生き返ることはないし、失われた風景も、二度と同じには戻らない。このあとの白紙の頁にも、私は死者の名前を書くだろう。しかし、君の帳面は、まだ、すべてが白いままだ」
 裴宣は微笑んだ。
「君たちが生きるのは、まだ存在しない未来だ。なにも、案じることはない」

 ただ、覚えておいて欲しいと、王英と扈三娘の名を記しながら、裴宣は思った。
 古い帳面に書かれた人々のことを──誰かに、覚えていてほしい。
 彼らは、確かにこの世に存在し、生きていた。
 すでに名簿に書かれた文字にすぎぬ彼らにも、命があり、心があり、愛や夢があった──そのことを。


 宋江は睦州の住民を慰撫し、投降した兵は故郷へ帰らせた。
 烏竜嶺をめぐる戦いで、梁山泊軍は約半分の兵を失い、行軍に耐えられる兵はどうにか一万を残すだけだった。
 呉用は睦州で盧俊義軍が来るのを待ち、兵を合わせて、清渓県を攻めるつもりだった。
 その頃、世間に、ある噂が広がり始めた。
『盧俊義が明教に投じ、宋国に反旗を掲げた』──と。



※文中の「登飛」は、正しくは那托です。
※文中の「擢源」は、正しくは赫思文です。
※文中の「郁嶺関」は、正しくは撲天鳥です。




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