水滸伝絵巻-graphies-

第百二十九回
ならずもの達の凱歌(二)



 蝉がどこかで鳴いていた。
 姿は見えない。しかし、青空の下、深い森のさらに奥から、何十匹、あるいは何百匹という蝉の声が響いていた。
 その声は、時雨か、波のように絶え間ない。短い夏を惜しむのか、落ち着かぬ焦りに満ちている。
 それなのに、森には、却って不思議な静寂がある。このどこまでも連なる山々に、声のみ聞こえる蝉のほかには、なんら生き物の気配がないせいだろう。人も住まず、山の名さえなく、黒ずんで見えるほど深い緑の木々だけが、数千年とも知れぬ静寂なる生命を営んでいる場所なのだ。
 空は、森が吐き出す水蒸気にやや霞み、世界の輪郭をぼんやりと滲ませていた。特に峰もなく、低い谷もない──曖昧な風景だった。もし、茫々と広がる海を、いずれかの神なる手が気まぐれに凝固させたなら、このように見えるのかもしれない。
 蝉の声が、永遠にも思われる潮騒を繰り返す。
 と、何の気配を感じたのか、ふいに蝉たちが飛び立った。
 幹から、葉陰から飛び出した蝉たちは、一斉に青空へ向ってその緑色の姿を現したが、次の瞬間、五匹が同時に地に落ちた。さらに一匹が、遅れて落ちた。
 蝉時雨が、ぱたりと途切れた。
 先に落ちた五匹の体は、矢によって完全に両断されていた。最後に落ちた一匹は、まだ生きていた。片羽だけを鏃に削がれ、蝉は、金切り声をあげながら枯れ葉の中を転げ回った。飛ぼうとして落ち、落ちてはまた飛ぼうと繰り返す。
 しんとした山には、風もなく、生き物の気配も、蝉時雨もなく、ただ、飛べぬ蝉の悲鳴だけが、いつまでもいつまでも響きわたった。



「──戻ってきた」
 欧鵬は空を見上げて、腕を伸ばした。その先へ、金色の鷹が舞い降りた。

 欧鵬が雛から懐で育てた鷹だ。梁山泊を出て以来、何度か山に離そうとしたのだか、どうしても欧鵬の後をついてくる。
「嬉しそうだな、旨いものにありついたか」
 尋ねた欧鵬の臂のあたりに、鷹は片方の羽を欠いた蝉を置いた。そして、促すように欧鵬を見た。
 通りがかった張青が笑った。
「孝行息子だ、オヤジに“ご馳走”を獲ってきた」
 昼下がり。杭州の北──昌化県郊外の陣営は眩しい陽光にさらされている。轅門には、梁山泊軍副先鋒、“玉麒麟”盧俊義の旗がたなびいていた。
 空はよく晴れ、西方には緑の山影が見えている。しかし、鍋を提げた張青の気持ちは晴れず、梁山泊軍の先行きも、模糊として見通せなかった。

 杭州で宋江隊と別れた盧俊義ら十八人の頭領と三万の軍勢は、北路から歙州をめざして進軍している。
 杭州が陥落し、“降魔太子”方天定が戦死した後、一帯の方臘軍残党は、西方の歙州、さらに本拠地の清渓県を目指して撤退していた。そのため、盧俊義軍はさしたる抵抗も受けず、ここ昌化県までやって来た。住民たちの叛乱も殆どない。
(“順調”──ってわけさね)
 張青は、提げてきた鍋をちらりと見た。蓋のあいだから、作りたての料理の湯気が洩れている。
 彼が向う先は、盧俊義の陣屋である。無人になった民家を使っている。その正堂に、張青は鍋を提げて入っていった。
 部屋からは、不機嫌な声が聞こえている。

「その態度はなんだ、報告するぞ」
 脅しつける声が、さっきから蝉時雨のように続いている。
 給仕をしていた孫二娘は、手拭いで首筋の汗をぬぐった。そして、夫が入ってくるのに気がつくと、平然と鍋を受け取った。
 部屋の中央に据えられた方卓には、四人の男が座っている。主人の席には盧俊義、左右には朱武と呼延灼。客の席にいるのは、“役人”だ。ずっと文句を言っているのは、もちろん、この客人である。
(ぴいちくと、うるさいこと。菜っ葉でもつまめばいいのにさ)
 孫二娘は鍋の料理を皿に移し、卓の真ん中に置いた。

 客は料理を一瞥し、じろりと孫二娘の顔を睨んだ。孫二娘は、紅を引いた唇で、にっこりと笑った。

(くわばら、“母夜叉”が笑った)
 朱武は渋い顔の奥で声に出さずに呟いた。その独り言は、この無意味な宴席の暇つぶしであり、また、客人に対する皮肉でもあった。やや、同情を込めた皮肉である。
“客人”は、勅使である。王稟というらしい。年若く、瀟洒な風采で、いかにも“童貫のお気に入り”──つまりは、梁山泊の敵対者だ。
 なるほど、恩賜の報奨を届ける安撫の使いといいながら、いかほどかの品物を持ってきて、あとは椅子にふんぞり返って座っている。吐く言葉は、安撫ではなく、文句ばかりだ。
 盧俊義の態度が悪い、接待が悪い──その真意は、上によい報告をしてほしければ、軍資金を一つかみ錦にくるみ、“手土産”に寄越せ、ということだ。
 盧俊義は、見事に他人事のような顔をして座っている。
 朱武は代わりに穏当な挨拶をして、今は慎み深く卓上の箸などを眺めている。呼延灼は簡潔すぎるように思われる軍事的な報告をしたあとは、寡黙な男を貫いていた。
 王稟は、すべてが不満のようである。
「それそも、なんだ、この料理は。これが勅使をもてなす料理か」

 王稟の難癖に、張青の太い眉が動いた。
「野草ではないか、馬の餌か。わしは馬ではないぞ」
 張青は律儀な男だ。お言葉ですが──と断ってから、今日の料理の説明をした。
「こちら、摘んだばかりの新鮮な野韮の炒めもの。東京では却って貴重かと」
「下郎、ではこの怪しげな肉はなんだ」
「こちらは狢の丸焼き。こちらは命懸けで捕らえた、大蛇の煮込み。百年の長寿が授かるとも言われる珍味で」
「この臭い濁り酒は」
「手前が醸しました特製の酒。行軍の馬車に甕を載せまして、じっくり震動を与えておりやす。そこで生まれる極上のまろやかさ……高貴な方の舌にも、お分かりになりましょう」
 王稟は黙り込んだ。
 東京からはるばるとやって来て、途上では美酒美肴を堪能してきた。ところが、やっとたどりついた埃っほい陣営では、野草と獣肉、どぶろくで“歓待”され、さっきから酒一杯、料理一箸も口に入れていなかった。腹は減り、喉もからからに乾いている。そんな“苦行”には、王稟は全く慣れていなかった。
「盧副先鋒も」
 こんなものを食べているのか?と難詰しようと、王稟は盧俊義に舌鋒を向けた。その目の前で、孫二娘は匕首を振るって狢の丸焼きを切り分けた。その大きな一片を、盧俊義は匕首に刺したまま頬張った。
「あんがい、旨い」
 そして、自らもう一切れ狢を切り分け、王稟に向って差し出した。
「行軍中の食事など、こんなものだ。野趣があって面白かろう」
 王稟も武人のはしくれである。勇気を試されていると感じ、眉をひそめたまま、箸をとった。しかし、さすがに狢は食べかねて、野韮だという料理をつまみ、口に入れようとした時、張青が慌てて止めた。
「いけねえ、そいつは毒がある草だ。兵のやつが韮と間違えたな」
 王稟は卓に箸を投げ捨て、席を立った。そして、そのまま後ろも見ずに部屋を出ていった。
「報告するぞ!」
 王稟の捨て台詞を聞きながら、呼延灼は漸く濁り酒の杯に手を伸ばした。
「──悪くない」
 酒の味のことか、居丈高な使者を追い返してやったことについてか。おそらく、酒の味についてだろう──と、張青は自画自賛した。
(雑穀の屑で、こんな酒を醸せる奴は、そうはいねぇ)
 盧俊義は狢が気に入ったようで、もう一切れ頬ばっている。張青は残念そうに言った。
「狢は、冬の方が旨いんですがね」
 王稟への“もてなし”は、いじわる、いたずらというだけでは──ない。
 食料も酒も、実際に足りていないのだ。



 しかし、幸いこの北路軍には、張青と孫二娘夫婦のほかにも、孫新と顧大嫂夫婦、李立といった腕利きの“料理人”が揃っている。それもあるいは、荒廃した山間部を進む盧俊義軍が食料難に見舞われるかもしれない──と予測した、“鉄面孔目”裴宣の深謀か。
 王稟一行が、砂塵を巻いて帰っていく。
 その横では、近隣の飢民が粥の炊き出しをもらっていた。雑炊と野草を炊いた粗末な粥だが、人々は茶碗を両手で抱え、うまそうに呑んでいる。この炊き出しは、顧大嫂が中心になって行軍中ずっと続けられているものである。
 輜重を集めた倉庫の前では、黄信と孫新が“恩賜の品々”を検品していた。大仰な箱の中身は、宝剣、錦衣、幾ばくかの御酒である。
「腹の足しにはなりませんな」
 孫新は残念そうに言ったが、はなから予想していたことである。
「それで、補給は?」
 尋ねられた黄信も、一貫して難しい顔だ。
 敵地を進んできたのだから兵站は途絶え、今のところ味方からの補給を受けていない。この駐屯中に期待したが、やって来たのは、贅沢品を携えた使者だけだった。盧俊義軍は、一切の略奪をしない。それどころか、占領地の住民に積極的に炊き出しを行なっている。求められれば、布や薬も与えた。その甲斐あって、住民の抵抗は殆どない。
 代償として、盧俊義軍の携えてきた物資は、春の雪が溶けるように減っていく。
(これもまた、“戦い”だ)
 黄信はそう納得している。
(いたずらに、人が死ぬよりも、よい)
 盧俊義は“手柄”をとる気などはない。民は安撫し、極力、戦を避けていた。
 炊き出しに集まる住民も、杭州周辺の激戦地から離れるごとに減っている。戦乱や飢饉がなければ、江南の田舎は山や河の恵みがあり、食料が豊かなのだ。
 炊き出しが目的ではなく、どこからかやってきた見慣れぬ人々の見物に来たような住民もいた。今しも、山の方からやってきた一団が、炊き出しを受ける人々を遠巻きに眺めていた。頭に白布を巻いているので、明教徒なのだろう。しかし、彼らの日に焼けた素朴な顔に敵意はない。
 やがて、盧俊義が現れた。駐屯中は盧俊義は退屈なのだ。細かな仕事は、すべて軍師の朱武に任せている。
「どうだ、なにか“いいもの”はあったか」
 盧俊義は王稟の荷を眺め、孫新に尋ねた。
「そうですな、酒が少々……」
「この剣は」
 盧俊義は黄金づくりの宝剣を取り上げ、手近な枝に向ってさっと振るった。
「なまくらだな」

 盧俊義の膂力に耐えかねたのか、立派な宝剣はぽきりと折れた。盧俊義は宝剣を投げ捨てると、集まっていた住人たちのところへ行った。鍋をのぞき、人々に気さくに声をかけると、瞬く間に人の輪ができた。
 盧俊義軍は、朱武の発案で『宋』の軍旗を立てず、軍装もまちまちで、どこの軍とも判然としないような格好で進軍している。無駄な衝突を避けるためだ。明教徒たちにも、彼らが敵なのか味方なのか、はっきりとは分からないに違いない。それでも、粥をもらった人々には、『この人が施主だ』とだけは、分かっているのだ。
 黄信は、その様子をなんの気なしに眺めていた。
 山東で生まれ育った黄信には、住民たちの言葉が一言も聞き取れない。ここまで来ると、言葉、風俗、建物や料理も、山東とはがらりと変わる。まるで、別の国に来たようだ。
 しかし、盧俊義は談笑している。
「副頭領には分かるのか?」
 黄信は彼らに近づいた。住民たちは盧俊義を取り囲み、笑ったり、拝んだりして騒いでいる。口々になにかを唱えているようでもあった。盧俊義は笑って頷いている。
 住民たちの意味不明な方言の中から、黄信はひとつの単語を聞き取った。彼らは、たびたび“ローシュン”と繰り返している。
「そうとも、わしは“盧俊義”だ」
 盧俊義は、そう言って、また頷いた。
 住民たちは粥を食べ終わると、ひとりひとり盧俊義を拝んで帰っていった。
 黄信は盧俊義に声をかけた。
「副頭領は、彼らの言葉がお分かりになりますか。なんの話をしていたのです」
「知らん」
 盧俊義はにべもなく答えた。
「このあたりの民の言葉は、まるでわからんな!」
 そして、燕青か楊林がいたら助かったのだが──と呟きながら、またどこかへ歩いていった。

 蝉は倦むことなく、鳴き続けている。
 李立はあたりの木立を見上げた。
「蝉も、揚げたらけっこうイケる」
 欧鵬は、木陰に座って、相棒の鷹がくれた蝉の死骸を手にしている。蝉の羽は、なにかで引き裂かれたように不自然にちぎれていた。
 李立はぼやいた。
「鷹なら山でたらふく食えるが、人間はな。このまま補給がねぇと、どうなるか」
「いずれ天から降ってくるだろう」
「“摩雲金翅”は予言者か?」
 鷹を肩に欧鵬が仰いだ空は、どこまでも青く、雨すら降りそうにない。



 季節は、江南の辺境にも、国都・東京開封にも等しく巡る。太陽も東から昇り、西へ沈むが、その空の色は──同じというわけではなかった。
 東京の空は晴れていても、どことなく霞んで見える。それは、この百万都市を動かしている夥しい炊事の煙、馬車が蹴り出す砂埃──あるいは無数の住民の息のためか。
 開封城北辺の高台にある宮殿の空も、例外ではない。ただ、金の瓦や瑠璃の柱の輝きが、ぼんやりとした空の色より際立って、なんとなく人の目を空から遮っていた。
 天子の医者──“太医”安道全は、宮殿の東北にある庭園の、薬草苑に住んでいた。もとから小さな庵がある。ただ風景のひとつとしてあった茅葺きの庵に手を入れて、そこに助手の少年“阿虎”とともに滞在している。
 ほかには、特に近づく者もない。木々と、小川と、風になびく様々な薬草に囲まれて、安道全は殆どをこの庵で過ごしていた。日課は、朝と夜、天子の脈をとることだけだ。
 今は昼下がりで、暇な時間だ。
 安道全は部屋にいて、窓辺に置いた木の椅子に腰掛けていた。やや背中を丸め、自分の掌を見つめている。窓は半分開いていたが、光は、彼のもとまでは届かなかった。

 掌には、ひとつの美しい玻璃の小瓶が握られている。
 青空を切り抜いたような藍色に、金の唐草模様が浮かんでいる。異国のものだ。
 繊細で──美しい。
 それなのに、見つめる安道全の老いた目には、怯えと、苦悩のほかには何もなかった。
 扉の外で、声がした。この時刻には珍しい。宦官特有の、すこし甲高い細い声だった。
「安太医様、お上がお呼びでございます。おつむりが、少々お痛みになるとおっしゃって……」
 しばらく、安道全は返事をしなかった。
 天子御不快のため──と、安道全は朝廷に召還されたが、彼の見立てでは、天子はなんら病ではない。しかし、健康というわけでもなかった。
 美食、怠惰、歓楽過多と運動不足からくる、安道全が常々“ぜいたく病”と揶揄していた病である。だから、食事の内容を変え、散歩の時間を増やすだけで、すぐに睡眠の質がよくなり、倦怠感が減り、精神面も安定した。
 至極簡単な養生の基本にすぎないが、高価な薬石や、祈祷ばかりを“治療”としてきた天子には、まるで魔法のように感じられたのだろう。
『さすが“神医”、霊験あらたかなり』
 天子は喜び、感嘆し、いまや安道全への信頼は磐石である。
 また宦官の遠慮がちな声がした。
 天子の寵愛する神医であり、気難し屋でも通っている。大臣たちも安道全には一目置いて、千金を積んで診察を懇願してくる者も少なくないのだ。
 安道全は、立ち上がった。
 昨日、酒宴があったので、天子の頭痛はそのせいだろう。二日酔いの薬湯を呑ませればよい。
 安道全は、脇部屋にいるはずの阿虎を呼んだ。
「阿虎よ、薬嚢をもってついて来い」
 返事はなかった。覗いてみると、薬棚の並んだ脇部屋はからだった。引きだしのひとつが半端に開いて、薬草が少しはみ出している。何気なく調べると、たっぷりあったはずの当帰が半分に減っていた。当帰は、おもに婦人に処方する薬草である。
 この頃、阿虎は安道全に黙ってこっそりと出かけることが多い。買い物に街へやっても、なかなか帰ってこなかった。安道全は知らぬふりをしているが、釣り銭をごまかすこともある。
 東京の街は賑やかで、浮ついていて、誘惑は星の数ほど多い。
「──ならずものめ」
 安道全は小瓶を柱の上に隠し、ひとり庵を出ていった。



 王稟が去った翌日、盧俊義軍にひとりの男が戻ってきた。
 足音もなく、気配もない。その小柄で痩せた姿は、夜明け前の闇にほぼ溶け込んでいた。

 その男──“石将軍”石勇は、疲れていた。疲れ果てているといっても過言ではない。服は綻び、手足は汚れ、擦り傷が無数にあった。それでも、その血色の悪い顔はいつもながら石像のようで、どんな感情も浮かべていない。
 ただ、絶え間なく機敏に動いている足が、彼が“難しい任務”を完遂したことを告げていた。
 後方に聳えている山々から、石勇は帰ってきたのだ。
 偵察したのは、今後の進軍路である。
 駐屯地から次の攻略目標である歙州へは、山越えの道をとることになる。その道を探るため、朱武は手段をつくしたが、なかなか目星をつけることができなかった。
 地理に通じているはずの明教側の役人や軍人たちは、とっくに姿を消していたし、住民は言葉がまるで通じない。昌化県城内に、言葉の通じる者が全くいないわけではない。文字が書ける者ならば、意志の疎通が可能だった。しかし、書物に親しんだ読書人たちは、西郊の彼方に連なる山岳地帯のことなど知らない。
 そこで、石勇が実際に山に踏み込んだのである。何日も山中をさまよって、彼はひとりの猟師に出会った。肉食しない明教徒に迫害され、山に隠れているのだという。以前は毛皮を売りに北方に行くことがあったとかで、言葉が通じた。
 彼が言うところでは、山中にひとつの関所があり、道はその麓に通じているという。山で方臘兵を見たかと尋ねると、猟師は少し首をかしげるようにして、『この頃は見ない』と答えた。盧俊義軍の進軍と時期と、方臘軍が消えた時期が一致していた。
 石勇は猟師を駐屯地へ伴いたかったが、軍に関わるのを嫌がって、猟師はまた山奥へ消えていった。

 石勇は夜明け頃、梁山泊陣に辿り着いた。荒野の彼方から、悲しげな獣の遠吠えが聞こえた。獣ではなく──“中箭虎”丁得孫の慟哭であることを、今では梁山泊軍の誰もが知っている。心を閉ざし、獣となって、闇をさまよっているのである。「好きにさせろ」──と、盧俊義が言った。
 遠吠えを聞きながら帰陣した石勇は、一杯の湯冷ましを飲む間もなく、朱武を訪ねた。山中の猟師の話を告げると、朱武はわずかに眉根を寄せた。
 朱武も、ありえることだとは思った。戦いが続き、方臘軍には軍事経験者が激減している。偵察の目も、南路の宋江軍に多く向いているだろう。盧俊義軍の動きを掴んでも、大規模な迎撃行動をとれるだけの兵力が、この僻地の山間にあるとは考えにくい。しかし、念には念を入れた。
「その猟師、信用できるか」
 朱武に問われて、石勇はやや考える様子を見せた。賞金稼ぎだった石勇の人間の本質を見抜く目は、梁山泊軍の中で卓越している。
「信用できる──と思う」
 そして、猟師がくれた三羽ばかりの小鳥を朱武に渡した。いずれも矢で射落とされたものである。明教徒は肉食をしない。
 朱武は鳥を手にすると、盧俊義を訪ねるべく宿舎を出た。
「副頭領には、滋養をとってもらわねば」
 ちょうど日の出で、昇ったばかりの眩しい光が、西方の山並みを照らしはじめたところだった。
「あの峰だ」
 石勇は腕を伸ばして、もっとも高い鋒を指さした。

「その関の名は──“郁嶺関”」



 朱武は、しばしその遠い峰を眺めた。そして、地上が明るくなるほどに、南の方から一段の白い人々が来るのに気づいて、表情を強張らせた。
 白い衣をまとっているなら、明教徒に違いない。しかし、軍のようではなかった。布衣、裸足、長髪をなびかせる修行者たちのようだった。
 先頭には、ひとりの長老が杖を手にして歩いている。背後には、二十人ほどの明教徒が従っている。
 彼らは朝日の中を、梁山泊軍の轅門に立った。口々に、聖句らしいものを唱和している。まもなく、盧俊義がひとり寝間着姿で現れた。
 普段ならば、燕青が上着を持って追いかけてくるところだが、方臘の宮殿へ潜入すべく柴進と旅立ったきりである。

 爽やかな朝日の中に、白い寝間着姿で立った盧俊義は、そのすぐれた容貌とあいまって、神聖な雰囲気をまとっていた。
 不思議な祈りの声が高まり、明教徒たちはひとりひとり、盧俊義の前に跪いて礼拝し、背負ってきた籠を置いた。さらにまた、別の団体がやってきた。彼らも盧俊義に礼拝し、牽いてきた荷車を置いて言った。
 朱武が調べると、籠にも、荷車にも食料が詰められていた。野菜や穀物、芋類に果物──朱武には、彼らがなぜそんなことをするのか、まるで分からない。
 ただ、ひとつだけ聞き取れた言葉があった。
“ローシュン”
 それが、明教徒の言葉で『光』を意味することを朱武は覚えていた。
「仲間に炊き出しをほどこしたことを、感謝しているのでしょうか」
 やがて、明教徒たちはまた潮が引くように去っていった。
 あとには、大量の食料が残された。膨大な“供物”を前に、盧俊義は何事もなかったかのように、朱武から報告を聞いた。
 もう夏の太陽はすっかり昇り、炊事係の李立が起き出してきた。忽然と現れた食料の山を前に、李立は赤い目をこすった。食料不足が気になって、昨夜はよく眠れなかった。そして明け方、天から食い物が降ってくる夢を見た。
「俺は、まだ夢を見ているらしいぞ」
 盧俊義は悠然として、手近な籠を覗き込んでいる。
「瓜ばかりだな!」
 張りのある声が、李立の夢を醒ました。



 瓜はみずみずしく、うまそうだった。
 盧俊義を手頃な瓜をひとつ取り上げると、腰の宝剣で器用に切った。甘い汁が、ぽたぽたと土にこぼれる。
 そのまま熟れた果肉にかぶりつこうとする盧俊義を、朱武が止めた。
「お待ちを。毒瓜かもしれませんぞ」
 杭州の毒水のこともある。盧俊義は頷くと、瓜を朱武に差し出した。
「私が……食べるので?」
 朱武は瓜を受け取ると、まわりにいた陳達、楊春……と見回した。皆が慌てて目を逸らす中、薛永と目が合った。
 薛永は瓜を受け取ると、息を止めるようにして、一口かじった。
「どうだ、薛永」
 薛永は瓜を呑み込むと、ほっと息を吐きだした。
「すごく、おいしいです」

 朱武は食料を収めると決めた。
「歙州へは山間を行軍することになる。山道は起伏が多く、足からの衝撃により胃腸を壊す兵士が多い。瓜は消化しやすく、甘みはすぐに栄養になる。水代わりにもなるし、行軍食にはちょうどよかろう」
 梁山泊軍は歙州へ向けて進軍を始め、“供物”も輜重車に積み込んで西へ進み、数日で山脈の麓に着いた。
 石勇が情報を掴んできた“イク嶺関”の『イク』とは、日の出の意味である。つまり、歙州からみて東──ということだ。この山々を、西へ越えていけば、歙州に出る。
 まもなく、梁山泊軍は山裾の平地に陣地を造り、郁嶺関攻めの準備を進めた。
 その間、張青は食べた瓜の種を残しておいて、陣営の一角に畑を作った。
「この手の瓜は、水があれば育つのが早い。一月もすれば食えるようになる」
“菜園子”の二つ名は伊達ではない。十字坡の追剥“古夜叉”に娘婿として見初められる前は、寺で作男をしていた男である。
「悪くねぇ」
 久しぶりに土に鍬を入れながら、張青は呟いた。そばの日陰で休んでいる妻の孫二娘が、その呟きを聞きとがめた。
「おや、昔は“寺の菜園番なぞ男の仕事じゃねぇ”とお言いだったと思ったけどねぇ。それなのに、十字坡でも、梁山泊でも、家にいるより畑にいる方が多くてさ。結局、あんたは作男さね」
 張青は無視して種をひとつひとつ埋めていく。
「“古夜叉”のおとっつぁんに勝ってれば、追剥になぞ、ならなくてすんだのに。まさか、まだ入り婿したのを恨んでるかい」
 いつもの“夫婦喧嘩”である。もっとも、張青が相手にしないから、喧嘩にもならない。寡黙な張青と気の強い孫二娘の、いつもの夫婦の会話なのだ。
 孫二娘は団扇を使って、寄って来る虫を打っている。張青がまた呟いた。
「そういう事は言ってねぇ」
「じゃあなにさ」
「おめぇに、菜園番の女房がつとまるかと思ってな」
 孫二娘の手が止まった。虫が、ぷつんと頬に当った。
 孫二娘は足元から湿った土をひとつかみして、張青の背中に投げつけた。

 掘り返したばかりの土が薫る。今日も蝉が鳴いていた。
「おや、珍しい二人連れだこと」
 孫二娘は手についた土を払った。
「軍師と将軍が連れ立って、お散歩かい?」
 畑の横を通り抜け、朱武と呼延灼が軽装で陣を出て行くところだった。朱武は笠をかぶり、愛用の竹の杖を手にしている。呼延灼は平服に脚絆を巻いて、どちらも山歩きの格好だった。
「張青よ、瓜が実るまで悠長にはしておらぬぞ」
 朱武はそう言って、西方に広がる山へ向った。万が一、敵に遭遇した時のため、朱武も呼延灼も武器を隠し持っている。さらに念のため、道案内に石勇、陳達と楊春を護衛に連れていた。
 進軍を始めるまえに、朱武は郁嶺関を自分の目で見るつもりだった。
「埋伏が一番の懸案。地形を確かめたい」
 傍らにいた石勇が、わずかに視線を動かした。表情も変わらぬほどの微動だったが、朱武はその意まで捉えた。
「おまえの報告が不十分なわけではない。わしが、自分を納得させたいのだ」
 宋江率いる南路軍は、烏竜嶺を越えて睦州に駐屯することになっている。盧俊義率いる南路軍は、郁嶺関を越えて歙州に入る。その時点で両軍は連絡をとり、期日を合わせて、南北から清渓県を挟撃する計略だ。
 食糧が乏しいのも気がかりだった。もう武器類の補給も期待できない。
「可能なかぎり迅速に歙州を落とし、宋江殿たちと合流したい」
 それが朱武の切願である。だから、自分の目で郁嶺関を確認し、地形なども可能なかぎり把握しておきたかった。
 呼延灼も自ら同行を申し出た。林冲が病のため、戦闘の指揮は呼延灼がとることになっている。呼延灼も、決戦となる清渓県攻めに備え、可能な限り兵を温存したいと考えていた。
 石勇の話では、地形はさほど険しくはないという。石勇が出会った猟師の言う通りならば、砦の方臘兵はすでに歙州へ撤退したのかもしれない。
(道さえ見つけることができれば、山越えは難しくないかもしれぬ)
 しかし、それが自分の希望からくる楽観でないことを確かめるため、呼延灼は郁嶺関がどのような要塞か、自らの目で確かめるつもりだった。

「小唄でも歌いたくなるな」
 そんなことを言い出したのは、陳達だった。
 実際、山は朱武が思っていたより険しくなかった。道はないが、慎重に進路を選べは馬も通れそうに見える。
 石勇がつけた僅かな印を辿り、一行は山を越えていった。
 時たま、鳥や獣の声が遠くに響く。蝉だけは、絶え間なく頭上で鳴いている。
 その騒々しい蝉時雨れの中で、朱武も、呼延灼も、“静けさ”を感じ取っていた。
(兵というのは、騒々しいものだ)
 朱武の達観である。
(少人数でも、存在すると慌ただしいような気配を感じる。まして、大軍の気配を隠すのは難しい。ゆえに、埋伏は慎重に地形を選ぶのだ)
 しかし、この山々は“静か”で、大軍の気配を感じない。人家すら見渡すかぎりどこにもなく、人が通ったらしい跡もなかった。
 そのため、いくつか峰を越え、ふいに眼前に郁嶺関が見えた時には、朱武は蜃気楼でも見たような不思議な感覚にとらわれた。

 郁嶺関は、切り立った峰の頂上にあった。狭い場所に、乗っかるようにして建っている。頂上あたりには高い木がなく、その姿は天空に露になっている。
「いかが」
 朱武は、隣に無言で立っている呼延灼に尋ねた。若い頃から書物に親しんできた朱武の視力は、老いてなお猛禽のような目を持つ呼延灼には及ばない。
 呼延灼は、しばらく無言で、建物の様子、峰の地形、その周囲の空の色などを注意深く観察した。
「さほどの要害ではない」
 呼延灼はそう判じた。
「兵は千人も入れまい。崖が険しく、急な出兵にも対応できない」
 朱武の見立ても同様だった。
「おそらく、見張り台のようなものでしょうな。昼時というのに、炊煙も上がっていない」
「すでに無人かもしれぬ。我々の進軍を知り、かなわずとみて撤退したのだ」
 朱武は目を細め、さらに郁嶺関周辺の地形を吟味した。斜面を森が覆っているが、地形自体は単純な起伏が続き、伏兵を潜ませておくような難所は見当たらない。
 呼延灼は、彼方の山並みを見つめている。
 二人の視線が、やがて郁嶺関を通り越し、その先の稜線に集まった。そこだけ、連なる峰が谷のように低くなっている。目を凝らすと、その谷に向かって一筋、山を覆う木々がまばらになっていた。
「あれが、山越えの道か」
 猟師が言ったという、“砦の麓に通じた道”に違いない。
 朱武は、もう一度、石勇を偵察に出すことにした。
「注意して関に近づき、詳しく様子を窺うのだ。できるか」
 石勇は、無言で出かけていった。
 その間、陳達と楊春は石に腰掛け、弁当を使った。どこかの山間で、獣の遠吠えがした。
「狼か?」
 楊春が顔をあげると、陳達は干し肉を齧りなから、首を振った。
「あいつさ──“矢に当った虎”」
 遠吠えは何度か凝り返し、谷間に消えた。やがて、石勇が帰ってきた。
「道は葛折りになっている。隠れながら近づいたが、その先は土地がひらけて、砦からは丸見えだ」
「近づけないか」
「弓で狙われれば、避けようがない」
「人の気配は?」
「見たかぎりでは、人影はなかった。砦の中までは、分からない」
 朱武が、呼延灼に振り返る。
「いかが、将軍」

「──うむ」
 呼延灼は、西を睨んだ。
 谷に続く“道”は、歙州へ続いている。郁嶺関は、この道を見張る監視所なのだ。その関が無人ならば、堂々とこの道を行けばよい。
「おそらく、攻防戦は歙州になる」
「しかし、もしも、あの砦に兵が隠れていれば?」
「まず歩兵を偵察をかねて先行させる。山間では、騎兵よりも臨機応変に対応できよう」
 朱武が、ようやく頷いた。
「弁当を喰ったら帰るぞ。帰ったら、忙しくなる」
 朱武がそう言った時、楊春の目が機敏に動いた。陳達は饅頭を吐き出し、刀を握った。
「敵か」
「いや……」
 石勇の手も懐の縄票に伸びている。敏感な石勇が感じなかった“気配”を、楊春は感じ取ったのだ。楊春は手を伸ばし、梢から背中に落ちてきた一匹の蛇を掴んだ。陳達はほっと息を吐き出した。
「なんだ、蛇か。驚かせやがる」
 楊春は首筋を掴まれて暴れる蛇を、そっと傍らの草に置いてやった。
「蛇どの、こちらこそ驚かせて悪かった。早くどこかへ行くがいい」
 蛇が慌てて逃げていく。その様子がおかしくて、珍しく朱武が笑った。
 樹上に潜む、蛇よりもかすかな気配には、気づく者はいなかった。



 梁山泊軍は進軍を開始することになった。
 まずは、歩兵三千が偵察も兼ね、軽装で山越えを敢行する。進軍路が確保できれば、騎兵と輜重が後に続くことになる。
 砦に人の気配はなく、山間にも方臘軍の気配はない。しかし、朱武は万全を期した。
 朱武は前日、“鼓上蚤”時遷を偵察に出した。身軽な時遷を先行させ、歙州までの道筋を確認させるためである。
「まかしとき!」
 時遷は相棒のネズ公を懐に、十分な食料を背負って出かけて行った。
 朱武の仕事は,それだけでは終わらなかった。人選が最も大きな問題だった。
「まず、戦に慣れた歩兵を千ずつ三つに分けて先行させ、偵察とともに進軍路を確保する。その将には」
 朱武は自問自答した。誰がふさわしいか──と、同行する頭領たちの顔を思い浮かべた。盧俊義は人事には口を挟まないから、人選は朱武の一存になる。
(林冲と呼延灼は騎兵を率いて後続だ。孫立と黄信には、盧俊義を擁する中軍の護衛を任せたい)
 朱武は決めかねた。統率力があり、慎重で、かつ勝負勘のある頭領がいい。
 さっきから、しきりと脳裏に浮かんでくる“顔”がひとつあった。しかし、朱武は敢えて見えないふりをしていた。
 この時、朱武は屋外の木陰にいた。孫新がしつらえた休憩所のような場所で、名も知らぬ立派な木が枝を広げて、その下に大きな卓が据えてあった。李雲が作った間に合わせの食卓である。はす向かいでは、顧大嫂が干した瓜の皮を刻んでいた。
「和え物にするんですよ」
 朱武の視線に気づいたのか、顧大嫂が顔を上げずに言った。
「漬け物にしても、歯ごたえがいいですしね。瓜ってのは、重宝なものですよ」
 なるほど、と朱武は生返事をした。顧大嫂の丸々とした肩の向こうを、史進が石秀と連れ立ってぶらぶらと歩いていく。
(また、鄒淵たちと博打でも打つつもりだな)
 その退屈そうな顔こそ、朱武が敢えて無視し続けている“顔”である。
「だめだ。史進では、まだ危うい」
 応えるように、背後から陳達の欠伸がきこえた。
「慎重だな、朱武の兄貴よ」
「この山越えは、しくじれぬ」
「つねづね“史進は化ける”と見込んでいたろう」
「あれは、実は“微”の星だ。大将の器とは、言い切れん」
“天微星”とは、石版が示した史進の星だ。朱武は、すべての頭領の星を暗記していた。
「大器晩成という言葉もあるが……」
「俺の見方は、ちと違う」
 朱武が振り返ると、ごつごつとした幹にもたれて昼寝していた陳達が、むくりと起き上がるところだった。行軍中で鬚をあたる余裕もなく、やけに虎に似て見えた。
「史進の凄えところは、武芸十八般ができるとか、兵隊の指揮がうまいとか、そこじゃねぇ。俺は、前からそう思ってる」
「ではなんだ。暢気なところか」
「近いな」
 陳達は虎鬚をしごいて、抜けた毛を日向に投げた。
「あいつは、人の懐につっこんでいく。信じるとか、疑うとかいう前に、頭から、相手の手の内に飛び込んじまうんだ。敵だろうと、味方だろうと、お尋ね者の武芸者だろうと……」
「賞金首の山賊だろうとも──か」

 朱武の脳裏に、初めて史進に会った夜のことが鮮明に蘇った。追剥に出た陳達が史進に捕まって、朱武は楊春とともに命懸けの“勝負”に出たのだ。
 死ぬときは三人ともにと誓っているから、自分たちにも縄を打って役人に突き出してくれ──と、史進の義侠心に訴える芝居を打った。
 屋敷の門前で土下座して、松明がじりじりと熱かった。
 結局、勝負には、ならなかった。
 四人は意気投合した。朱武は史進に一目置き、史進は役人が屋敷に押しかけると、あろうことか自分の家に火を放った。少華山の山賊が、三人から、四人になった瞬間だった。

 陳達の向こうでは、楊春が寝ているのか起きているのか、目を閉じている。木陰の青さが、楊春の蛇じみた容貌をさらに引き立てていた。
「史進がいるから、俺たちは面白い目に遇える」
 目を閉じたまま、楊春が呟いた。



「じゃあな。歙州で会おう」
 史進が手を挙げた。朱武は、轅門に立っている。夜明け前。松明がやけに眩しかった。
 史進は兵のような軽装で、兜もかぶらず、磊落に棒を杖にして立っている。
 朱武は、松明が落とす自分の漆黒の影を踏んで、楊春と雑談する史進に寄った。
「笠をかぶって行け」
「雲ひとつないぜ」
 史進は雨粒を探すように、掌を空にかざした。
「日が昇れば、暑くなる」
 そう言って、朱武は兵卒が持ってきた笠を史進に渡した。史進は、世話焼きの母親にするように、苦笑いして、笠の紐を首にひっかけて見せた。
「心配性だな」
「何度も言うが」
 朱武は、自分でも“またか”と思いながら、口を開いた。
「慎重に行くのだ。油断せず、周囲に気を配り……途中で時遷と合流するのも忘れるな」
「まかせておけ」
 史進は請け合った。少華山にいた時分から、史進は朱武の言うことなどに耳を傾けたことがない。朱武は、後ろの楊春へ目を向けた。
「頼むぞ、楊春」

「まかせておけ」
 青白い顔は表情も見せなかったが、それが楊春には珍しいちょっとした“軽口”なのだと、長い付き合いの朱武には分かった。
 千人の兵はすでに山越えの装備を整えて整列している。
 第一隊は、史進を隊長に、道案内の石勇と楊春が率いる。
 第二隊は、石秀と陳達。陳達は途中まで道を知っている。
 第三隊は、欧鵬、李忠、李雲。
 報告を受けた盧俊義は、ただ一言、『虎が多いな』と言った。
 はじめ朱武には何のことか分からなかったが、“跳澗虎”“打虎将”“青眼虎”が揃っていた。盧俊義軍には、あと“中箭虎”と“母大虫”、“病大虫”がいる。
 実際、“虎が多い”のだ。

“跳澗虎”陳達は、“九紋竜”史進と“白花蛇”楊春が去っていくのを見送った。松明の下に朱武と並んで、陳達はなんとなく尋ねた。
「兄貴の星は?」
 空には、夜明けの星が名残惜しげに輝いている。
「“地魁”」
 特になんの意味もこめず、朱武は応えた。
「宋江殿の、“天魁”と対だ」
「そいつは粋だ」
「そうなのか?」
「さあな」
 陳達は文字を知らない。第二隊の出発準備をするために、陳達は陣に帰っていった。
 残された朱武は、第一隊が去っていく方を見つめている。彼らの姿はもう闇に溶け込んでいる。空は瑠璃色に変わりはじめたが、地上はまだ暗く、星明りも頼りない。
 しかし、彼らが山麓に着く頃には、この夜も明けている。
 第二隊が続いて出て行く。目が遇うと、陳達が珍しくニッと歯を見せた。
『まかせておけ』と言っているのだ。
 朱武は黙って見送った。
 実際、“彼ら”にまかせておけば、朱武はずいぶん安心なのだ。
 陳達の星『周』とは、“まんべんなく足りていること”。
 楊春の星『隠』は、“人しれずに有ること”だ。
 乱暴者の陳達は、見かけほど粗野でも愚かでもない。虚無的に見える楊春にも、熱い心意気がある。
 だからこそ──朱武は、ずっとこの二人の“兄弟”を頼りにしてきた。二人が、朱武を頼りにすると同じくらい、二人は頼もしかったのだ。
「頼んだぞ」
 朱武は今回、自分の身代わりとして、陳達と楊春を選んだのだった。



 夜が明けていく。
 第三隊に加わる“青眼虎”李雲は、みなから離れた小さな作業場にいた。湯隆とともに使っている小屋で、陣営の片隅にあり、なにかを作ったり、細々とした修理をしたりする。李雲は自分の使い勝手がよいように作業台を整理していたが、この場所とも今日でお別れだ。道具を片づけ、箱にしまった。
 工兵の頭領である李雲が先遣隊に選ばれた理由は、事前に朱武から説明があった。行軍路の調査である。李雲は優れた建築家であり、陶宗旺亡きあとは土木作業の指揮もとる。騎兵や輜重が無事に山越えできるか、難所があればどのような作業が必要かを見極めるのが、“地察星”李雲の任務だ。
 外に出ると、間近に獣の気配がした。
 作業場のすぐ外は陣を巡る矢来になっている。その向こうの草むらで、ぎらりと二つの目が光った。新鮮な血の匂いがした。
 李雲は、腰の刀に手を置いたが、抜かなかった。
「──丁得孫か」
 獣の目を光らせ、いま狩ったらしい野ネズミを口にくわえている。“中箭虎”丁得孫だった。すでに人間の言葉を失い、理性も失い、獣のように闇をさまよう“虎”となった。
 人は自然の力を失い、それを取り戻そうと、身に刺青をするという。丁得孫の半裸の身には、無数の傷が刻まれていて、いっそう彼を獣に見せていた。
 視線がぶつかった時、李雲は、丁得孫が不思議な目をしてるのに気がついた。
 知性と野生が純然と溶け合った、厳しく、静かで、容赦のない眼差しだった。
 夜と朝がゆっくりと入れ替わる時刻。その闇でもなく光でもない狭間に立って、李雲はしばらく、丁得孫が生肉を食らうのを見つめていた。
「むかし──そう、小魚くらいの少年だった時」
 すでに人の言葉を解さなくなった丁得孫に、李雲はなぜか語りたくなった。
「わしは、不殺の墨家の血をひきながら、武人として名を挙げることを一族から嘱望されて、武術の鍛練に励んでいた。疑問を感じながら、鍛練を続け、ある夜明け──一真っ黒な、一匹の巨大な魚が現れて、その淵のような口に呑まれる夢を見た。わしは、尖った魚の歯の間を通り抜け、喉を下りて、真っ暗な腹の中に包まれ、その魚の声を聞いた」
 丁得孫が顔をもたげ、低く唸った。
「“殺すものは、殺される”」
 丁得孫の目が、李雲を見ていた。

 李雲を見つめる双眸は、深く、鋭く──“人に語るべきことは、もう何もない”と、宣告していた。



「朱武の言う通りだな!」
 朝になると、日差しが肌を鋭く刺してきた。
 史進は背中に投げていた笠をかぶり、青空に浮かぶ山並みを仰いだ。
「日が昇れば、うだる暑さだ。森に入れば涼しいだろう。朝のうちに距離を稼ごう」
 それまで、歩きながら飯を食ったり、路傍で用を足したりと、のろのろと進んでいた隊列が、先頭の史進につられて速度をあげた。
 まもなく、一行は石勇の案内で山に分け入った。傾斜はさほど急ではないが、木や薮が多かった。武器と軍糧を携えた千人の歩兵は、長い縦列をとり、岩場や民衆する森の間を抜けて進んだ。登るうちに隊列は崩れ、兵たちは次第に分散して、おのおのが登りやすい斜面を登っていった。
 森の中は湿気が多く、予想外に蒸し暑かった。汗が流れる。史進たちは、黙々と進んだ。時たま見晴らしのよい岩場に出ると、吹き抜ける乾いた風が心地よかった。
 はぐれぬように、先頭を行く石勇は腰に鈴を吊っている。その音を前方に聞きながら、史進は楊春とともに登り続けた。
 山は長閑で、今日も蝉が鳴いていた。
 そして──“それ”は、ひそやかに始まった。

 まず、最後尾を登っていた兵が消えた。ひっそりと、音もなく、誰にも気づかれることはなかった。続いて、分散した兵達がひとり、ふたりと姿を消した。
 ある兵は茂みに、ある兵は木陰へ引き込まれ、二度と現れることはなかった。そうして、あくまで静かに、百人以上の兵が消えていった。
 最初に異変に気づいたのは、楊春だった。
「……後続が、遅い」
 楊春は石勇と史進を呼び止めた。暫く待ったが、そこまで登ってきたのは半分の五百人ほどだった。後尾の兵が遅れていたが、後から合流してきた兵たちも、特に異変はないという。
「やつらは道に迷っているんだろう、見通しが悪いから」
 石勇と史進は見通しのいい斜面に出て、下の方を窺った。斜面は木に覆われて、様子は見えない。崖から身を乗り出す石勇に、史進が尋ねた。
「どうだ、石秀の第二隊は見えるか?」
 石秀が率いる第二隊は、史進たちが出発して間もなく陣を出たはずだから、もう山に入っているだろう。しかし、石勇は首を振った。
「尾根が入り組んでいて、麓まで見通せない」
 結局、石勇が下って様子を見に行くことになった。
「はぐれた兵を集めてくる。ここで、待っていてくれ」
 石勇の腰の鈴の音が、素早く山道を下って、消えていった。

 楊春の顔色が悪かった。
「どうした」
 史進が元気づけの酒を差し出したが、楊春は無言だった。蛇がなにかの気配を感じて、じっと地面に蟠っているように、全身が張りつめている。
 実際、楊春はなにかを感じ取ったのだ。
「──史進」
 楊春が呼んだ時だった。周囲の森から蝉が一斉に飛び立った。乱れ飛ぶ何百という蝉の羽音が、嵐のようだ。その喧騒が、羽音が、“それ”の気配を掻き消したのだろう。
 はっとして顔を上げた史進の眼前で、休んでいた兵たちがばたばたと倒れた。
「矢だ!」
 立って談笑していた兵も、座って水を呑んでいた兵も、急所を射られて即死だった。さらに第二陣の矢が夕立のように史進たちに襲いかかった。

「気をつけろ、四方にいるぞ!!」
 史進は棒で矢を払った。棒に突き立った矢は矢柄が短く、鋭い鏃がついていた。暗殺者の矢だ。いつの間にか薮や梢に忍び寄り、襲撃の時を狙っていたのだ。山の斜面は逃げ場もなく、瞬く間に半分以上の兵が倒れた。“敵”は一矢も無駄にすることがなく、その姿も亡霊のように見えない。
 しかし、史進は突っ込んだ。
「そこだ!!」
 今しも矢が発せられた薮に向って走ろうとした。その後頭部を、楊春が殴った。倒れた史進の上を十数本の矢がかすめていく。暗殺者は、何十人、何百人も隠れているのだ。
 史進をかすめた矢は、そのまま背後にいた楊春の胸へ襲いかかった。楊春は胸に矢を受け、史進に覆いかぶさるように倒れた。

 その噛みしめた唇からは鮮血が溢れ、気を失った史進の背へ、一条の赤い蛇のように流れていった。



※文中の「郁嶺関」「イク嶺関」は、正しくは郁嶺関です。
※文中の「縄票」は、正しくは郁嶺関です。




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