水滸伝絵巻-graphies-

第百二十九回
ならずもの達の凱歌(二)



「んん、なんやろ?」
 地鳴りか、遠雷か。“鼓上蚤”時遷は耳を澄ませた。
“こそどろ”の耳は、物音には敏感なのだ。相棒のネズ公は、干し肉をかじりかけたまま、スヤスヤと眠っている。
 杭州で捕まえて、“訓練中”の小ネズミである。ネズミは何年も生きないから、何度も代替わりしているが、今回の相棒は今まででいちばん“仕事”の覚えが悪い。
「この、アホネズミ、よだれ垂らして」
 よだれを垂らしているのは、目の前の小僧も同じだ。厨の小さな竈にかかった、小さな鉄鍋を凝視している。山間の小さな寺、小さな行者──小さいづくしだと、時遷は思った。
 もっとも、小行者といっても、もう十一、二にはなるだろう。分別のある年頃だ。小さな厨の奥には、一間のこれまた小さな仏間があり、小柄な老和尚が無言で数珠を揉んでいる。小さいずくしの寺の中で、仏像だけがやけに立派だ。仏間の天上まで届くほどの、美しい千手観音だった。
 鍋には、干し米の粥が煮えつつある。時遷が持ってきた干し米だった。
 老和尚も、小行者もどちらも痩せて、骨ばった肩が食べる苦労を物語っていた。厨には、わずかの野草と野葡萄が、笊に入れてあるだけだ。
 鉄鍋の中で、粥がくつくつと音をたてはじめた。
 その音と、湯気、甘い匂いが、この、枯れはてた寺に少しずつ精気を蘇らせていくようだった。
 また、くぐもった音が聞こえた。
「山鳴りかいな」
「いいえ」
 小行者は、答える間も鍋から目を離さなかった。
「山のどこかで、崖崩れがあったんです」
「どのへんや」
「分かりません。この山は、稜線がくねくねとして、音がまっすく伝わらないから」
「やっかいな山やな!」
 時遷は、もどかしさにうんざりとした。
 梁山泊陣から偵察に出た時遷は、ひとりであの“谷”を越えた。獣道でもあるだろう……と太陽の方角を頼りに進んでいたら、あっという間に迷ってしまった。谷の向こうは、鬱蒼と続く樹海だったのだ。頭上は木が覆い、太陽は見えない。土地には高低差がなく、見通しはまるできかなかった。進んでも進んでも同じような灌木ばかりで、目印をつけたとしても、二度と同じ木を見つけることはできなかった。
 時遷は体力の温存と、獣の襲撃を避けるため、暗くなる前に、できるだけ高い樹に登った。それでもたいして視界は効かず、緑の毛氈のような森がどこまでも続いているのが見えただけだ。

 草原に落ちた、一匹の蚤の気分だった。時遷は、名も知らぬ木の葉っぱのあいだに体を丸めた。そして、真夜中、ハッとして目を覚ました。
 静寂に包まれていた樹海は、暗くなると一変した。森は歩き回る獣の足音と唸り声、飛び交う昆虫の気配、なにものとも分からない生き物の息づかいに満ち満ちた。木々さえ息を吐き出し、なにか話し合っているような精気を発する。
 時遷は枝にしがみついてまんじりともできず、夜中、真っ暗な闇に目を凝らして、星ではない小さな灯を見つけたのである。
 夜明けを待ち、辿り着いたのがこの寺だ。
 時遷は、道に迷った旅人だと名乗った。老和尚は詮索しなかった。終始無言で、小行者が時遷の相手をした。
(慎重にせな)
 時遷は、なんとか山越えの道を探り、梁山泊陣へ戻りたい。しかし、この寺が敵か味方かは分からないし、相手にとっても、時遷が敵か味方か分からないはずだ。
「歙州に親戚に会いに行くんやけど、行けるやろか」
「この樹海を越えたら歙州です。でも、道はないから、迷ったら二度と出られません」
 粥が煮えて、うまそうな匂いがただよいはじめると、小行者の顔も綻んできた。
「久しぶりにお米を見ました。ずっと、山菜とか、松の実とか……檀家の人もみんな逃げてしまったから、外の人に会ったのも、数年ぶりです」
 方臘軍が来る前は、山の中にもいくらかは住んでいる人間がいたという。
「この山から方臘軍は撤退したんやろ、隠れとらんでも」
 時遷は粥を碗にすくって、小行者に手渡した。
「撤退?」
 小行者はまず碗を老和尚に捧げ、老和尚はそれを観音に供えた。小行者は厨に戻ってくると、また行儀よく鍋の前に座った。
「郁嶺関には、まだ方臘軍が残っていますよ。最近も、山のあちこちで何かの作業をしていました」
「なんやて」
 時遷は粥をよそう手を止めた。
「ほな聞くが、この樹海から郁嶺関の東をぬけて、昌化県に出る谷があるやろ?」
「和尚様、谷なんかありましたか」
 いつの間にか、老和尚が厨に来ていた。
「東の山で木を伐っていた。それで、谷のように見えたのだろう。歙州への道は、関所を通るほかはない」
 梁山泊軍は、昌化県にしばらく駐屯し、勅使の到着を待っていた。方臘軍は、その間に防戦の準備をしたに違いない。
「えらいこっちゃ!」
 急いで盧俊義に報告しようと、時遷は杓を投げて立ち上がった。しかし、道が分からない。立ち止まって、そろりと背後を振り返った。
 老和尚が、時遷を見ていた。
「粥の施しの礼をしよう。この子を、道案内に連れていきなさい。近道がある」
 老和尚の目は、深く、厳かで、敵を見る目でもなく、味方を見る目でもなかった。
「南無阿弥陀仏──わしは、この寺を離れられぬでな」



 梁山泊軍の陣営では、騎兵が出発の準備を進めていた。
 山越えなので、人も兵もなるべく軽装である。特に、“豹子頭”林冲は、その身ひとつ──と言っても良かった。
 白い戦袍に身を包み、蛇矛だけを手にしている。

 林冲は病んでいる。行軍の間にさらに痩せ、顔色は幽鬼のように青白かった。甲冑も、もはやその身には重すぎ、この陣地に置き捨てた。兵糧も、携えない。どうせ、口にしないのだ。
 太陽は、まもなく正午になることを告げている。
 しかし、林冲の周囲はしんと冷え、冬の匂いが漂っている。降り注ぐ日差しも、地面に反射する熱も、彼のまわりだけには、その光や熱を届けることを諦めているようだった。
「林教頭──これを」
“病大虫”薛永は、いつもの優しい微笑を浮かべて、革袋に詰めた僅かの水を、林冲の鞍に結んだ。
「少しは、いるでしょう。馬が欲しがるかもしれないし」
 薛永は、控えめに言った。彼は、林冲の体を気づかった呼延灼に頼まれて、彼が率いる前軍の副将についたのである。
 騎兵として先頭を行く役は、林冲が自ら志願した。その真意は、薛永には分からない。
 ただ、人の気遣いなど拒むかと思った林冲は、薛永が結んだ水袋へ目をやって、ほんの少し、頷いた。
 そして、どこか遠くを見て言った。その声は、薛永が思っていたより、精気があった。
「──人が死ぬ時、三人の“迎え”が来ると聞く」
 林冲は、馬に寄り掛かるようにして立っている。逆光になった痩せた人影の向こうに、悲しいほど青い空が広がっていた。
 薛永は、なるべく平静に答えようとした。
「そうなんですか。初めて聞きました」
「先に死んだ、親しい者が来るのだそうだ」
「三人か……」
「私は、一人でじゅうぶんだ」
 薛永は、林冲の視線を追って、空の遠いところを眺めた。
「僕も……いや、違った。僕は、一人と一匹です」
 林冲が、かすかに笑ったようだった。
 呼延灼と朱武が連れ立ってやってきた。後軍を率いる呼延灼も、林冲の前軍に続いて出発することになっている。
「史進たちに異変はないようだ。あれば石勇が知らせてくる……準備ができしだい、出発してくれ」
 戦の前、呼延灼は戦場の風を嗅ぐ。そうして、集中力を高め、自分がほどよく緊張していることを把握するのだ。
 呼延灼の戦略眼は、一点に集中している。すなわち、“どこで敵とぶつかるか”である。
 呼延灼と朱武の意見は、方臘軍は歙州に防衛線を張っていると予測している。
(もちろん、歙州への途上で、遭遇戦もありえる)
 方臘軍は民兵を使うので、警戒は怠れない。連環馬を使う呼延灼は、平地の戦いに長けている。山岳戦の経験は、僚友“大刀”関勝に比べれば少なかった。
 そのため、目視した“谷”を無事に越えたら、斥候たち先行して索敵するよう、石勇に命じてあった。山中のどこかで、その情報を受け取ることができるだろう。
「用心して行け」
 呼延灼は、薛永に言った。
「見えぬ敵は、見える敵よりも用心せねばならぬ」
 遠くで山鳴りがしたような気がしたが、風の音かもしれなかった。



 山間の喧騒が納まると、薮の奥から、気配もなく白い兵たちが現れた。
 明教徒は純白を最上とするが、彼らの白い軍服は泥と草木の汁に汚れ、くすんでいた。それゆえに山の景色に半ば溶け込んでいる。彼らがゆっくりと動くさまは、精霊か、亡霊がさまよっているようだった。
 木々が影を落とす斜面に、梁山泊軍の死体が折り重なっている。
 方臘兵たちは二、三十人ほどいた。いずれも無言で、物音ひとつたてなかった。彼らは、まだ呻いている梁山泊兵に歩み寄ると、鋭利な短刀を巧みに使って、ひとりひとり確実に止めを刺していった。
 彼らがその作業を終えると、山は再び──静寂ではなく、蝉時雨に包まれた。地上には動いている者はなく、そのそばに佇んでいる者たちのことも、蝉たちもは生きた人間とは見なしていないのかもしれない。
 しかし、再び蝉たちは息をひそめた。
 ひとりの将が、薄暗い木立の狭間から降りてきたのだ。

「五千対三万」
 呟いたのは、まだ若い将だった。小柄だが、腕が長い。金色の大弓を手にして、目が、泉のように澄んでいた。
「ひとりが、六人殺すだけだから、それほど難しいことではない」
 白い兵たちは黙って将の声を聞いている。将は抑揚のない声で続けた。
「お前たちの手に余るような相手がいれば、心配はいらない、僕が殺す」
「ありがとうございます、“小養由基”」

「古い弓の達人の名──そんなあだ名は、もう無意味だ」
 兵たちは、将が手にした弦月のような長い金の弓を、崇拝の眼差しで見つめた。
「ありがとうございます、“弦月”──ホウ万春将軍!」
 頷いたが、将の顔にはなんの感情もなかった。
 彼は、歙州に所属する方臘軍の将である。わずか五千の手勢を率いて、三万の梁山泊軍の山越えを阻む密命を帯びている。しかし、彼はただ“阻む”つもりはない。
(この山で、三万の敵を葬る)
 歙州に通じる本当の道は、郁嶺関を通る細道である。しかし、脆弱な郁嶺関では、三万の敵を防ぐことはできない。その為に、彼は綿密に計画を練り、罠をしかけた。木を伐採し、薮を整え、通りやすいように偽装した。
 澄んだ眼で、“弦月”ホウ万春は梁山泊軍の死体を見渡した。そして、ひとつの死体──“白花蛇”楊春に目を止めた。その胸には矢が刺さり、顔から首には、べったりと血が流れていた。
「この男は──よかった、弓を持っていないから、“梁山泊の花栄”ではない」
 呟いた時、横顔に微かな情動が浮かんだが、風にさらわれたように、瞬く間に消えた。
「僕の弓は“死芸”だから、どんな相手でも、必ず殺す」
 澄んだ目が、再び山並みを射た。
 敵がやってくる方角を。



 その頃、“石将軍”石勇は、後続の第二隊に到着していた。率いるのは石秀と陳達である。先頭にいた陳達は、妙な顔をした。
「迷い子? そんなものは見なかった」
 しかし、なにか奇妙なものを感じ、陳達は殿についている石秀のところまで、石勇と下っていった。あたりは、鬱蒼と繁る薮である。蒸し暑く、飛び交う羽虫が煩かった。
 報告を聞いた石秀は、薮の間に足を止めた。
「兵が消えたってことか? 何十人も」
「いや、何百かもしれない」
 石勇が答え、石秀は顔にたかった虫を無意識にぱちりと叩いた。その時だ。山の上の方から大勢の悲鳴が聞こえた。
「史進の隊だ!」
 陳達が飛び出した。
 その眼前で、地滑りが起こり、斜面が大きく抉られた。陳達より前を進んでいた兵たちが、百人ほども巻き込まれて、谷底へと滑落していく。崩れた地盤は、細かな砂礫の層が剥き出しになっていた。脆弱な地盤が薮で覆われ、歩きやすく見えていたのだ。何百人もの人間が通ったために、地盤は重みに耐えきれず、崩壊した。
 斜面は川のようになって崩れ続ける。兵士たちは狂奔した。
「落ち着け!」
 石秀は、砂礫とともに流れ落ちていく石勇の腕を掴んだ。その足元も崩れ始める。蟻地獄のような地盤だった。
 陳達の足元も、すでに砂の地層が露出している。陳達の鬚が逆立つ。
「楊春、史進、いま行くぞ!!」

 陳達は、跳んだ。
 崩れゆく地表に足を踏ん張り、“跳澗虎”谷川を跳び越える虎──のごとく、地滑りの巨大な爪痕を跳び越えた。
 石秀の足元はざらざらと崩れ落ちていく。石秀は渾身の力をこめて石勇の体を引き上げ、そのままい勢いよく後方の薮へと放った。
「欧鵬に知らせろ!」
 振り返った石勇の視界に、石秀の姿はなく、声だけが谷底へ滑り落ていくところだった。



「靴を落した」
 李忠は、諦めの悪い顔で薮を分けた。
「山越えで履き潰すだろうから、予備を腰に吊っていたんだ。どこで落した」
「予備なら、おいらも持っていますよ」
 桃花山以来の手下が言った。顔が丸くて大きな男だった。
「いかん」
 李忠は“丸顔”の好意を断った。
「俺は、踵が人より張っていて、ほかの靴じゃ靴擦れができる。足に合わない靴を履くのは、相性の悪い女房と寝るようなもんだ」
「兄貴に女房がいましたか」
「抜かせ」
 李忠は、三千の歩兵の最後尾を歩いていた。後続がいれば、靴には名前が書いてあるから誰かが拾ってくれるだろうが、もう後ろには誰もいない。欧鵬と李雲は、もうだいぶ先を歩いているはずだった。
 李忠はさらに薮に入っていく。“丸顔”は汗を拭きながら平凡な山の景色を眺めた。
「静かなもんだな……」
 言い終わらぬうちに、李忠の声が静寂を破った。
「死体だ!」
“丸顔”たちが駆けつけると、李忠が薮の奥から梁山泊兵の死体をひっぱり出したところだった。別の兵が声をあげた。
「あっ、こっちにも」
 薮の奥には、第一隊の兵の死体がごろごろと転がっていた。李忠は死体を検めた。どれも、喉を真一文字に切られている。
「声をあげる暇もなかっただろう……敵の伏兵、そうとうな手練だ」
 急いで仲間に知らせろ──と、李忠たちが薮を出た時だった。
 前方から、くぐもった遠雷のような音が聞こえた。なんの音だ──と、そばだてた李忠の耳が、今度はすぐ近くで起こった地鳴りを捉えた。地面が揺れ、悲鳴が聞こえた。急いでもとの場所に戻ると、前に連なっていたはずの千人の兵が消えていた。上の斜面から岩や倒木が転げ落ち、巻き込まれ、押しつぶされたのだ。
「欧鵬、李雲、無事か!」
 李忠の声は、阿鼻叫喚に呑みこまれ、応えはなかった。



 山間に折り重なった梁山泊兵の間からは、もう呻き声も上がらなかった。
 横たわった楊春の顔を、無数の蠅が動き回る。
 ホウ万春の目が、蠢く黒い虫たちから、背後の森へ静かに動いた。青黒い木陰から、やはり音も気配もなく、二人の巨漢が現れた。一人は入道雲のように肥満し、ひとりは岩のように頑健だった。目が細く、そのせいかなのか、人間らしい表情は読み取れなかった。

 彼らは、ホウ万春の副将だった。“阿修羅”雷炯と“迦楼羅”計稷。
 ともに怪力の持ち主で、雷炯は肩にしょった二十人張りの強弩を踏みこなし、計稷は刺を打った大骨朶を使う。その他にも、特技があった。ふたりはともに土地の男で、雷炯は大工で、計稷は猟師だ。雷炯は山を切り拓いて畑を作り、道や橋をかける技術をもち、計稷はこの山の地理を知り尽くしている。
 雷炯が、死体に埋まった窪地を見て言った。
「この残状をみたら、敵の騎兵は引き返すのでは」
「いいや、彼らは必ず進む」
 ホウ万春は淡々と答えた。
「歩兵が襲撃されたと知れば、彼らは、我々が“ここを通したくない”のだ──と読む。そして、歙州へ通じる道があると信じて、突撃してくる」
 雷炯が言った。
「愚かにも?」
「そう、愚かにも。杭州で、方天定太子は仰った。“梁山泊軍は勇敢で、友達思いだ。仲間が惨めに殺されれば、その勇気は百倍になり、心は復讐に煮えたぎる。その炎が──自らを焼滅ぼすのだ”」
「われらの策が知られることは」
「ない」
「なぜなら、嘘はひとつもないのだから」
 石勇が出会った“猟師”は、彼の副将・計稷である。かつて、この山の猟師だったのも本当だし、北方へ商売に行っていたのも本当だ。近隣の方臘軍が殆ど歙州へ撤退し、山中に方臘兵の姿が見えないことも、嘘ではない。
 明教徒として、なにひとつ嘘はついていない。梁山泊軍の密偵が神通力をもっていても、計稷が敵で、嘘をついていると見抜くことは出来なかっただろう。
 与えた獲物は、ホウ万春が射たものだ。明教の聖典は肉食を禁じているが、獣を殺してはいけないとは記していない。異教徒も獣も同じだと、ホウ万春は見なしている。
(命は六道に輪廻して、人となり鬼となり獣となり仏となる)
 抜け出すには、悟り──しかない。
「僕は砦に戻る」
 ホウ万春は黄金の弓を脇に挟んで、薄暗い森へ足を向けた。
「騎兵がやって来る。砦からなら、よく見える」
 方臘兵たちは、出現した時と同様に、気配もなく、その姿を森に隠した。
 それでも、しばらく、蝉たちは鳴くことをしなかった。

 最初の蝉が、ジ……と焦げついたような声を発した。
 次の瞬間、史進はカッと目を開けた。
 体の上には、死体が覆いかぶさっていた。それを推しのけ、体を起こすと、周囲は仲間の死体が山となって連なっていた。そして、史進は、たった今自分が押し退けた死体が、楊春であるのに気づいた。口から流れ出た血が、すでに黒く乾きかけている。
「──楊……」
 声を出しかけた時、楊春の冷たい掌がさっと動いて、史進の口を押さえつけた。
『声をたてるな』
 耳元で囁いた。
『奴らは、まだ近くにいる』



 李忠は、茫然と立っていた。
 声も失い、眼前の惨劇を眺めている。崖が崩れ、岩と倒木が、千人の仲間を呑み込んでいた。折り重なった瓦礫は人間と混じり合ったまま、音を立てて谷底へと崩れ落ちていく。
「欧鵬……李雲……!」
 叫んだつもりだったが、声は喉の奥に貼りついている。李忠は渾身の力を込めて、地面に張りついたような自分の足を、前へ、動かした。
「欧鵬、李雲!!」
 崩れ落ちる瓦礫の動きが止まった。灰色の砂塵が李忠の視界を覆っている。その中に、さっと人影が飛び出すと、李忠に向って突進してきた。
 敵か──と身構えた李忠は、そのまま人影を受け止めた。“石将軍”石勇だった。

「分断された……!」
 石勇の小柄な体は傷だらけだった。
「この山は、伏兵に満ちている」
 石勇らしからぬ恐慌の声が、却って李忠を落ち着かせた。
「どうなっている、上は」
 石勇は絶望の目で、首を振った。
 彼は史進隊から消えた兵を探しに戻り、石秀隊を襲った地滑りから逃れて、ここまで来て、またしても崩落に見舞われたのだ。それは石勇の眼前で起こり、李雲の金色の頭が倒木に呑み込まれるのを見た。その上を乗り越えて、石勇はやって来たのだ。
 李忠は、いまだ砂塵の漂う斜面を仰いだ。欧鵬の姿も、李雲の姿も見つけることはできなかった。傷ついた兵は大木や岩の下敷きになり、助けを求めて叫んでいる。
「今、助けるぞ。石勇、手伝え」
「俺は、行かねば」
 声が、いつもの“石将軍”に戻っていた。
「後続の騎兵が登ってくる」
 騎兵がやられる──。後続の一万の騎兵を失えば、歙州攻略は不可能になる。宋江隊と合流できず、清渓県に進軍できない。方臘討伐は終わらない。
(それが、狙いだ)
 石勇は悟った。
すべては罠だ。彼が届けた情報は──猟師の言葉も、関所が無人だったのも、すべて“敵に届けさせられた”情報だったのだ。
「俺は戻る」
 石勇は麓に向かって駆け出した。陣に戻り、盧俊義に、朱武に知らせて、騎兵の進発を止めるのだ。李忠は負傷した兵の腕を掴んだまま振り返り、弦音を聞いた。
「伏兵だ!!」
 崩れ残った森から、驟雨のように矢が射込まれた。李忠とともに負傷者を助けようとしていた“丸顔”が、矢を浴びて倒れた。生き残った兵へ、矢は容赦なく襲いかかる。
「石勇、走れ!!」
 矢の雨の中に倒れたまま、李忠は叫んだ。
「軍師に知らせろ!!」
 石勇は立ち止まりもせず、速度を緩めもしなかった。弦音を耳元に聞きながら斜面を駆けた。狙われていることを感じながら真っ直ぐに駆けた。その項に、“迦楼羅”計稷は梢から狙いを定めた。“迦楼羅”神鳥のあだ名の通り、計稷は翼を持っている。上方から飛ぶように戻り、梢から梢を伝って石勇を追った。
 一人も逃すな──が゙ホウ万春の命令である。

 弩が放たれた。短い矢は枝にも葉にも遮られることなく、一直線に石勇へと飛ぶ。脹ら脛に矢を受けた。それでも石勇は走り続けた。次の鏃は心臓の後ろを狙っている。石勇は足を引きずり駆けながら、背後で虎の咆哮を聞いた。
 一瞬だけ振り返ると、森から飛び出した“中箭虎”丁得孫が矢にあたり、斜面を転げ落ちていくところだった。



 梁山泊騎兵一万は、出発の準備をほぼ終えていた。
 まず、林冲と薛永が半分の五千を率いて行く。単廷珪、魏定国、湯隆が工兵部隊とともに続き、次に盧俊義、朱武ら中軍。孫立と黄信が指揮をとる。後軍は呼延灼の騎兵五千。
 最後尾は、鄒淵、鄒潤、杜遷が残りの歩兵を連れ、孫新と張青夫婦、李立の配下である輜重隊を護衛することになっている。
 魏定国たち工兵部隊は準備に手間取っていた。彼らは、必要があれば道を補修し、架橋や渡河のための作業も行なう。
「材木は、山にあるからよいが……」
“聖水将軍”単廷珪は、麓の陣地を引き払うに際して、できるだけ多くの物資を運びたかった。しかし、装備はかさばり、物資も重い。一方の“神火将軍”魏定国は、火薬の類を工兵にも背負わせることにしている。彼らの配下に入った“金銭豹子”湯隆は、愛用の鉄床や鞴をひとつにまとめて、自分で運ぶつもりだった。
「丁得孫は?」
 湯隆は、木陰で寝ころんでいる鄒淵に声をかけた。となりには甥の鄒潤もいるが、珍しく博打をしていなかった。
「薛永から、世話を頼まれたんだが。姿を見なかったか」
「見ねぇな」
 目を閉じたまま、“出林竜”鄒淵は寝返りを打った。
「竜は木陰に、虎は、山に帰ったか……」
「風流だな、叔父貴」
 鄒潤は、掌で骰子を転がしている。
「この山越えが首尾よくいくよう、ひとつ骰子で景気をつけねえか」
「よしな、山越えは体力を使う。少しでも休んでおくのが賢い男だ」
「石秀の奴がいれば、乗ってくるんだが」
 つまらなさそうに呟いて、鄒潤も叔父のとなりに寝ころがった。
 陣営は、いつも通りだ。馬の嘶き、荷物を積む音、荷物を落して怒鳴られる声。鄒潤は目を閉じた。歩兵が出るのは、夕方頃になるだろう。
 轅門のあたりで、ざわめきが高まった。鄒潤は、夢心地で聞いている。
 林冲に代わり、薛永が号令した。
「出発!!」
 みなの声が、夏の空に大きく響いた。
「歙州で──会おう!!」



 崩れていく砂地に着地した陳達は、担いでいた縄を手近な松の幹に縛った。そして片手で縄を握り、自分の体を支えると、片方を滑落していく石秀に向って投げた。
「掴め!」
 半ば土石に埋もれながら、石秀はすんでのところで縄を掴んだ。縄を伝って、石秀と何人かの兵が地滑りから逃れ、陳達のところまで登ってきた。
「後ろの欧鵬たちは無事か?」
 答えのかわりに、石秀は、今しも後方で起こったの地鳴を聞いた。
 見上げた空に、きらりと金の翼が光る。
「欧鵬の鷹だ」
 鷹は、天を切り裂くような雄叫びを放つと、ぐるぐると輪を描きはじめた。
「探している……欧鵬を」
 鷹は主人を見失い、探しているのだ。
 崩落は収まっていた。そこへ、李忠が登ってきた。李忠は、死んだ“丸顔”を背負っていた。“丸顔”の死体は、無数の矢を受けていた。李忠は崩落の前で死体を降ろすと、片手で“丸顔”の死に顔を拝んだ。
「ありがとうよ」
 敵の矢の雨の中を、李忠は“丸顔”の死体をかぶって切り抜けてきたのだ。
 三つの隊は、伏兵の罠にはまり、分断され、石秀、陳達、李忠と数十人の兵が生き残っているだけだった。
「引き返すか」
 李忠の言葉は、石秀の耳には入らなかった。
「李忠の旦那よ、麓の陣には、石勇が知らせに行ったんだな?」
「生きていればな」
「引き返しても、敵の的になるだけだ」

 幸い、この第二隊には“矢の止め”はなかった。石秀の目が、不敵な光を帯びていた。
「おそらく、敵は人手が足りていない。だから、地滑りだの、崖崩れだの、けちくさい罠を張っている──どうする?」
 石秀の眼差しが、陳達の無言の目と合った。
「史進たちと合流するか、引き返すか」
 李忠は頬に流れた“丸顔”の血を拳でぬぐい、麓の方を一瞥した。
「どちらも、賭けだ」
 伏兵が、どこにいるか分からない。止めを刺しに来た“見えぬ敵”は、ある瞬間に気配を消し、攻撃はおさまった。しかし、まだ、この山のどこかにいるのだ。
「史進の奴、無事ならいいが……いや、あれは悪運の強い男だ」
 そして、と李忠は、疲れた息をついた。
「生きていたら、必ず無茶をする」



 史進は、郁嶺関を目指していた。
 その峰は、ぼんやりとした山並みの中で、ひとつだけ際立って、鋭く、高い。天を刺そうとする針のようだ。
 史進は薮を分けて進んでいく。
 道は登りになっていた。史進は振り返り、こっちか?と、目で確かめた。
 無言で頷いた楊春の顔には、乾いた血がこびりついていた。
 史進と楊春が率いていた第一隊は、散り散りになった兵も含めて、ほかに生き残っている者はないようだった。
 楊春の胸に当った矢は、戦袍の下に着ていた蛇甲──蛇皮を重ねて張り合わせた帷子によって食い止められた。蛇皮は、軽くて丈夫だ。楊春が慈しんだ歴代の蛇たちは、そうして今も楊春を守っている。
 蛇甲が方臘軍の矢を鏃半分で食い止めた時、楊春は咄嗟に口の中を噛み切った。血を吐き、死んだように装ったのだ。でなければ、止めを刺されていただろう。
 もしも楊春が失神させていなければ、反撃した史進も殺されていたはずだ。敵の冷酷と徹底を、楊春の青白い肌は感じ取っていた。
 あれだ──と、やがて、楊春が指さした。先日、朱武たちと砦を眺めた場所に立っていた。
 史進の目は、楊春が指さした高峰に据えられている。
 郁嶺関の要塞が、豆粒ほどに小さく見えた。
 史進はじっと見つめている。その袖を、楊春が引いた。二人は、すばやく薮に隠れた。
 彼らと郁嶺関の中間あたり、だいぶ離れた灌木の茂みの中に、なにか動くものがある。獣ではなく、くすんだ灰色の方臘兵だった。まもなく、砦ではない方向へ消えた。
 しばらく、二人は刺のある薮の中で息をひそめた。蒸し暑かった。
 上空から見れば、ここは郁嶺関の峰を中心にした盆地のようになっている。風が通りにくい地形なのだ。
 楊春の首筋を、汗が流れた。
 やがて、二人は薮の中から這い出した。
 再び砦へ目を向けて、史進が、空の一点を指さした。郁嶺関の上空である。
(なんだ?)
 楊春は目を凝らした。銀色に光る何かが、空中をゆらゆらと漂っている。
(鳥……いや、あれは)

 それは、ひとつの風筝──“凧”だった。
 切り立った峰の周辺には、上昇気流があるのだろう。砦から放たれた凧は、かなりの高さまで登っていった。
 楊春は、史進の顔を伺った。
『なんだと思う、史進』
 目顔で尋ねた。史進は、すぐに思いついたようだった。
『森に散った仲間に、あれで指示を出しているんだ。間違いない』
 方臘軍の伏兵は、山の各所で気配を消して隠れている。互いの姿も見えないし、伝令を使えばこちらに気取られる恐れがある。連絡手段がなければ、互いの位置も、梁山泊軍の位置も分からない。
『しかし、あの凧ならば、どこからでも見える』
 楊春にも、もう分かった。
 郁嶺関には、やはり人がいたのだ。そして、あの凧を使って伏兵たちに指示を出している。
 梁山泊の騎兵が山に入れば、おそらく、色を変えるなどして知らせるだろう。それを見て、伏兵たちは動き出す。
 史進は隠れていた薮から出た。楊春が後に続いた。
「砦を潰す」

 付き合え──とは、史進は言わなかった。楊春も、なにも言わなかった。
 敵の注意は、今は梁山泊騎兵に向けられている。砦にいる人数は少ないはずだ。その虚を衝いて砦を落とせば、騎兵を救い、歙州への道も得られる。
 二人は郁嶺関に向って斜面を降りていこうとした。その背後で、薮が割れた。
「──抜け駆けかい? ずいぶんと、つれねぇな」

 振り向くと、石秀が立っていた。額から頬にかけて、血を拭った跡が鮮やかだった。
「一緒に行ってもいいぜ」
「石秀、心強いぜ」
 また薮が分かれた。
「四人だ」

「陳達」
「五人」

「李忠師匠」
 彼らは陳達の案内で、ここまで登ってきたのである。
「石秀が、史進はここだと言うんでな」
 陳達は半信半疑で来たようだが、史進と石秀は驚かなかった。
「石秀、俺は会える気がしていた」
「そうだろう。俺も、同じことを考えるんでね」
 石秀の不敵な眼差しが、初めて見る郁嶺関に注がれている。凧にも気づいた。
「どう攻める。策はあるのか」
 史進は少し笑って石秀を見返し、それから彼方の郁嶺関に視線を向けた。
「いいや」
 風が、史進の首筋を吹き抜けた。



 郁嶺関は、小さい砦だ。
 尖った針の先に突き刺さった、一粒の豆粒のようなものだ。
 しかし、天空に浮かんだ砦は、周辺の山々をぐるりと見渡すことができた。空も大地も、どこまでも見渡すことができる。そこから見れば、地上を這う人間のほうが、豆粒のようだった。
 ホウ万春は要塞の見張り台にいた。この砦のなかでも最も高い場所にある。最も、天に近いのだ。
 風が、急峻な峰を駆け上がるように常に吹き上げている。
 その風に乗り、通信用の白い凧が真っ直ぐに上がっていた。
 床の一片には、赤と、黒い凧が準備されている。梁山泊軍の騎兵が見えたら、赤い凧が上がり、山に隠れた伏兵が、いっせいに動き出す。そして、敵を分断し、一人ずつ殺していく。矢も、落石、倒木も十分に準備してある。
 殺せるものを殺し、逃れた者は、“谷”の向こうに追い落とす。あとは、迷い込めば二度と出られぬ樹海が彼らを始末するだろう。
 凧係の小卒が、足元に饅頭のクズを撒いていた。まだ少年の年頃だった。すぐに黄色い小鳥が飛んできた。ホウ万春の視線に気づいた小卒は、振り返って言った。
「この鳥が、毎日、ここに飛んで来て……」
 饅頭のクズを食べるのです──という前に、ホウ万春の放った矢が小鳥を空中に射落とした。
 息をのんだ小卒の表情は、ホウ万春の目には映らなかった。彼は、もっと大きく、輝かしいものを見ていたので、少年が浮かべた些細な翳りなど見えなかったのだ。
「優しさ、憐れみ、思いやり──すべて“弱さ”だ。強さを損なう」
 ホウ万春は、めくっていた書物に戻った。異国の文字が並んでいる。古ぼけた表紙には、黄金で描いた菩提樹と、黒々とした血の染みが浮きだしていた。
『精武大宝蔵経』──かつて、彼は名刹・白馬寺で出家した僧侶だった。その時、法難が起こり、その混乱の中、奇縁によってこの聖典を手に入れた。
(この書には“秘密”が記されている──この世を、救う秘密が)
 春秋時代の弓の名人──など、はるか昔の話だ。養由起がどれほどの達人で、七重ねの甲冑を貫き、蜻蛉の羽を射落し、弓を持っただけで猿が柱に抱きついて慟哭したとしても、とうに塚の下の屍だ。伝説では、今を救うことはできない。
 この世界を変えられるのは、今を、生きている者だけだ。
(それも、最強の者が)
 しかし、文字は梵語で、彼には読めない。
 そのため、彼は戦いの合間にも解読の努力を惜しまなかった。杭州では、太子・方天定が援助してくれたので、梵語の字典を手に入れることができた。それと首っ引きに、切れ切れだが、いくつかの部分を読み解いた。
『武を極め、命を滅ぼし、永劫に勇敢なれば──最も強し』
 その部分を、ホウ万春は何度も読んだ。
(太子は、僕を重んじてくれた。僕も、あの少年が救世主になるのを助けたいと思っていたが……)
 太子は梁山泊軍に敗れ、死んだ。
(強さが、足りなかったのだ)
 母親や、姉への情を捨てきれなかった。その弱さが、彼の強さを損なったのだ。
(僕は違う)
 彼は殺生を禁じる仏教の教えに背き、僧侶になって殺生の罪を贖ってほしいという母の願いを踏みにじった。
“梁山泊の花栄”は五箭を射るというから、苦心のすえ六箭を射る技も会得した。
 聖典は記す。武を極めれば、無敵となる。
(だから、僕は誰よりも強くならねばならない)
 そして、この乱れた世を救うのだ。
(たとえ地獄に落ちたとしても──僕は、この世を救うために、犠牲になるんだ)
 祝福するように、郁嶺関の空は、青い。



 その峰を見上げ、時遷は呻くようなため息をついた。
 山の西側の、険しい斜面だ。前を行く小行者が振り向き、指さした。薄暗い寺から出て太陽の光を浴びると、痩せた頬も野生の桃のように生き生きとして見えた。
「あの石積みの上が、郁嶺関です。道を大岩で塞いだんです」

 見上げると、大きな岩が石垣のように積まれている。その先は屹立する岩山で、頂上の砦は見えない。
「険しいな」
 時遷は言った。その時には、小行者はすでにかなり先へ進んでいた。そこもまた、険しい岩場だ。角の鋭い岩が連なり、少しでも足を踏み外せば転がり落ちる。その上を、小行者は小猿のように進んでいく。
 山に捨てられ、山で育ち、この山しか知らないが、この山のことはなんでも知っていると云う。
「おじさん、ここを降ります」
 小行者が立ち止まり、こともなげに言った。足元は、刃物で切られたような垂直の断崖である。二、三丈はあるだろう。
「ここを?」
「近道です。あそこと、あそこに」
 小行者は、拳ほどの薮と、小指ほどの石の出っ張りを指さした。
「足場があります」
 言うなり、小行者は飛び出した。薮に足をかけ、次の出っ張りに飛び、三歩めで地上に立っていた。はるか眼下で、笑って手を振っている。
「風の子か。わいの舎弟にしたるわ」
 時遷も続いて飛び下りた。
 小行者が案内した“道”は難所ばかりで、軒を飛び壁を走る“鼓上蚤”時遷でなければ、到底ついては行けなかっただろう。そして、実際、早かった。

 正午頃、時遷は梁山泊陣に戻ってきた。郁嶺関の西側から、まっすぐに山を突っ切ってきたのである。
「軍師はどこや、盧頭領は」
 時遷は汗だくのまま小行者をつれ、盧俊義と朱武のもとへ走った。
「あかん、あかん。方臘軍は撤退してへん。きっと、山に隠れとる」
「ばかな」
 時遷の報告を聞いた朱武は、小行者を疑った。
「史進たちから急報はない。間もなく騎兵が出るところだ」
 老和尚が、方臘軍の一味でないという確証はない。でなければなぜ、この山に残っているのか。
 呼延灼が、小行者の前に立った。
「老和尚はよくしてくれるか」
「はい」
 桃のような産毛の生えた顔が、ほこらしげに頷いた。
「捨て子の僕を育てて、ほんとうのおじいさまのように可愛がってくださいます。古い僧衣を裂いておむつにしたと、いつも言うんです。食べ物のない時も、自分はお腹がすいていないと、僕に多く食べさせてくれます」
 小行者は呼延灼を恐れもせず、真っ直ぐに見上げて答えた。
「そうか、よい和尚だ」
 呼延灼の無骨な手が、小行者の頭を撫ぜた。
「朱軍師、老和尚は、この子を“人質”として寄越したのだ」
 だから、嘘ではなかろう──と、呼延灼は判じた。そして、この情報から二つのことが分かると続けた。
「歙州に通じる西側の道を、簡単には除けられぬ大岩で封じたのは、歙州からの援軍はないということだ。郁嶺関の兵は少数で、この東側で我々を殲滅する覚悟を決めている」
 疑いが晴れれば、朱武の見解も同じだった。
「それで、伏兵か」
 どうするか──と、朱武と呼延灼は、同じ方へ視線を向けた。盧俊義が、真昼の太陽の下に立っていた。
「攻める」
 盧俊義の顔は、真上にある太陽が落とす影に隠れている。
「このまま郁嶺関を攻め落とせ」
 朱武と呼延灼は、二、三言のみ言葉を交わした。考えていることは同じだった。危機は好機──朱武の脳裏には稲光のごとく策がひらめき、呼延灼の指示が落雷のごとく轟いた。
 朱武は、水瓶に頭を突っ込んでいる時遷を呼んだ。
「来た道を戻り、西側から砦に忍び寄って、火を放て」
 呼延灼は騎兵将校を招集した。
「敵が動揺した隙に、騎兵全軍で山の東側を突破する」
“鎮三山”黄信は慎重だった。
「伏兵は? 陥穽もあるやもしれぬ」
「われらにお任せを」
 単廷珪と魏定国が進み出た。すでに、あらゆる工具を携えている。
 朱武の心配は、あとひとつだ。
「史進たちを止めねば。間に合えばいいが」
 石勇は、足に受けた矢の治療中だ。時遷には砦に放火する役目がある。
「僕が行きます」
 すでに出発するばかりになっていた薛永が名乗り出た。
「行けるところまで、馬で行きます」
「急げ。無事なら、我々に合流させよ」
 薛永が駆けだしていく。弾けるばかりに緊迫した全員の目が、一点へ集中した。
「──よし」
 盧俊義の号令が、この日はじめて轟いた。

「全軍、行動せよ!!」



 凧が風に揺れている。郁嶺関の小卒は、膝を抱えて座っていた。
 かたわらには、『進撃』を命じる赤い凧と、もうひとつ、黒い凧が準備されている。
 ぼんやりと空を眺めている小卒の足元に、また小鳥が飛んできた。
「その小鳥を、射てごらん」
 ホウ万春の声に、小卒は怯えた目をあげた。小鳥は嬉しげに饅頭のクズをついばんでいる。
「うまく射れたら、僕の隊の正規の兵にしてあげよう。いつまでも凧係でいたくないだろう」
「でも」
「弓は、清浄な武器だ。人を殺しても、返り血を浴びない。死者の悲鳴や呻き声を聞くこともない。心が平穏なまま、人を殺せる。“最強”への近道だ」
「最強とは、なんですか」
「なにものにも負けないことだ。自分にも」
「最強になると、どうなるのですか」
「世を救う」
 小卒は、恐る恐る自分の弓を手に取った。小鳥は満腹し、可愛い目で小卒を見上げている。
 欄干の柱に結んだ凧糸が、すれてキシキシと音を立てていた。
「やってごらん。できるから」
 ホウ万春の声が、穏やかに命じた。
 そこに、別の従卒が上がってきた。
「老師を連れてきました」
 飛び去った小鳥と入れ替わりに、ひとりの和尚が上がってきた。時遷が出会った、小さな寺の老和尚だった。
 ホウ万春は立ち上がり、僧を出迎えた。
「こんな時にも、律儀な方だ」
 ホウ万春はこの砦に赴任してから、この老僧について梵字の学習をしていた。たまたま発見した隠れ寺で、この老僧を捕らえたのだ。棄教しなければ殺してしまうつもりだったが、尋問するうち梵字に詳しいと知り、見逃している。
 そのかわり、毎日、この時刻に砦まで上がって梵字を教えることを義務としていた。和尚のため、大岩でふさいだ西の道にも、人ひとりがどうにか通れる隙間を残してある。
(この“授業”も、今日で最後だ)
 梁山泊軍三万を滅ぼせば、歙州に撤退することになっている。
「今日は、見せたいものがある。どうしても解読したいのだが、もう、あまり時がないのだ」
「なんなりと……将軍には、寺を見逃していただいた御恩がありますので」
 ホウ万春は老和尚に席を与えると、懐から一巻の経典を取り出した。そして、それを卓に置こうとして、動きを止めた。
「今日は、小行者は一緒ではないのか?」



 薛永は途中で馬を捨て、山をさまよっていた。道は知らない。しかし、道しるべは、すぐに見つかった。
 梁山泊軍の、兵士たちの死体だ。薛永は崖崩れを越え、崩落を越えて進んだ。
(ひどい)
 戦が続き、たくさんの死体を見てきた。しかし、今回はひときわ心にこたえた。進むごとに、真っ黒な雲が湧きあがる。焦げたような音をたて、水に落した墨のように蠢くそれは、膨大な数の蠅なのだ。

「ひどいな、太白」
 薛永は、死体と岩を乗り越えながら、呟いた。太白がいないことは分かっている。しかし、誰かに、話しかけずにはいられなかった。そして、時たま立ちどまり、木陰に吐いた。
「もう、無理かもしれないよ」
 汗となにかが混じったものを頬から拭い、薛永は呟いた。
(僕が、偉い将軍になるなんて、無理かもしれない)
 武勇で知られた河南の薛家──薛永はその最後の一人だ。家門の再興、密やかな彼の願い──。
(みんな、この山の中に消えていくのかもしれない)
 薛永の星は“幽”。深い山の中に落ちた一筋の糸を意味する文字だ。あまりに小さく、かすかで、物事がはっきりと見えない様子だ。いま、薛永の目には、死体と蠅の群れしか見えない。
「太白、どこだ」
 無意識に手さぐりした時、声が聞こえた。
「──薛永か?」
 見回すと、土砂の中から、また声がした。
「ここだ……!」
 かすれた声は、欧鵬だった。薛永は声を頼りに、土砂の隙間に手をかけた。岩の間に巨木が横倒しになっていて、その幹にあいた洞から、二つの顔が覗いていた。どちらも、泥と血で汚れていた。
「欧鵬さん、李雲さん」

 第三隊で崖崩れに襲われた二人は、欧鵬の機転で咄嗟にこの洞に逃れて助かったのだ。しかし、折り重なる岩と大木の奥に閉じ込められ、自力での脱出は不可能だった。
 薛永は岩を手でどかそうとしたが、巨大な岩はびくともしない。李雲が言った。
「梃子を使え、なにか丈夫な棒を」
 薛永は自分の槍を岩の隙間に突っ込んだ。しかし、槍はもろく折れた。薛永は土砂の中から倒木を引き抜き、それを梃子にして、渾身の力を奮った。岩が動いた。また李雲が言った。
「次は、右手の岩を」
 李雲の指示通りに、薛永は岩を転がし、ついに二人を助け出した。
 二人とも負傷していたが、命には別状はない。
「史進さんたちは?」
 薛永の問いに、欧鵬は頭を振った。
「分からない」
 薛永は二人に朱武の計画を伝え、後から騎兵が来ることを教えた。
「お二人は、騎兵に合流を。僕は、先へ進みます」
「行くのか」
「史進さんには──借りがあるから」
「ならば、止めぬ」
 薛永は二人に別れを告げると、崖崩れを越えて、さらに先へ進んでいった。
 そこからは、もう生きている者はいなかった。史進たちも、同じように伏兵に遇い、全滅したかもしれない。薛永は、自分を励まし、登り続けた。
「がんばろう、太白」
 太白は、ただひとりの薛永の“家族”だ。その名を呼べば、黒く濡れた目、柔らかい毛の感触が、すぐそばにいるかのように蘇るのだ。
(迎えに行くよ、もうすぐだ。この戦が終わったら)
 しかし、辿りついたのは、史進が率いていた第一隊の折り重なった死体だった。薛永は、史進の死体を探した。しかし、史進も楊春もいなかった。
 薛永は、天を仰いだ。
(史進さん!)
 その時、最後に聞いた、悲しげな遠吠えが聞こえた。空耳だと分かっていたが、声がした方へ薮を分けて降りていった。



「三千の兵を失い、どの面をさげて帰る」
 陳達は瓢箪を振った。持って来た水は空になっていた。
「潤いのねぇ山だ」
 陳達はぼやいて、楊春から水を分けてもらった。
「すまねぇな。それで、石勇の報告では、砦に登る道は険しく、くねくね曲がった細道で、とても騎馬では攻められぬということだ」
「その石勇だが」
 李忠は酸葉を見つけて噛んでいる。
「無事に着けば、朱軍師も策を立てるだろう。連絡を待った方がよくないか」
「そいつは、どうかな」
 石秀だ。
「石勇が、生きている保証はない。騎兵が出て、伏兵が動き始めれば、一網打尽だ。俺たちが砦を取る好機も失う。そうだろう、史進」
 史進は、彼方の郁嶺関を眺めている。
「なんだって?」
「だから、俺たちがやるしかない──と言ったのさ」
 敵の目が騎兵に向いているうちに、正面から砦に攻め込む。砦を落とせば、騎兵を待ち受ける伏兵たちに指示は出せない。
 李忠は酸葉のカスを吐き出した。すっぱいためばかりでなく、渋い顔だった。
「史進よ、軍師は、“慎重に”と言わなかったか」
「俺ほど慎重な男はいないぜ」
 史進が妙に真面目な顔で言ったので、李忠はため息まじりに黙り込んだ。
 史進を見る石秀の目は、あくまで鋭い。
「俺は無茶は嫌いじゃないが、負けるのは何より嫌いでね。やるかぎりは、勝つ」
「いいぜ、策は?」
「砦まで偵察に行った石勇の報告によれば、門の前はちょっとした広場になっているという。姿を隠すような場所はないだろう。できるだけ近づいて、あとは藪に隠れて好機を待つ」
「合図は」
「奇襲は、凧の色が変わった時だ。梁山泊軍の騎兵が来て、敵の伏兵が動き出す。砦の目は、そっちに釘付けになる。その隙に砦に突撃をかけるんだ」
「騎兵がやられるぜ」
「奴らは奴らで、なんとかする。林冲、呼延灼、ただでやられる連中か? 俺たちは砦をとる。奴らは進む──生き延びた男が、歙州を見るだろうさ」
「よし!」
 その時、石秀の目が背後の薮を射た。五人が一斉に武器を構える。陳達は薮に飛び込むと、一人の男を羽交い締めにして捩じ伏せた。
「待て、そいつは」

 首の骨を折ろうとした陳達を、史進が止めた。
「薛永! なぜここにいる」
 薛永は咳き込みながら、朱武からの伝言を伝えた。時遷が、砦まで登って薪小屋に放火する。その混乱に乗じて、呼延灼たちが伏兵を突破するのだ。
「欧鵬さん、李雲さんも騎兵に合流するはずです。史進さんたちも」
 そう聞いても、史進たちの顔色は変わらなかった。
「俺たちは俺たちで、あの砦を取りにいく」
 史進の言葉に、石秀も不敵に頷く。
 薛永は、一同の顔を見回した。陳達は鬚をねじり、楊春が空のどこかを眺め、李忠は憮然と口をへの字に曲げている。
 薛永は、覚悟を決めた。
「分かりました。僕も、一緒に行きます」
「それでこそ“好漢”だ」
 史進が、座っていた岩から立ち上がった。
「敵に見つからないよう、ばらけて行こう」
 薮に隠れて行こうとする史進を、楊春が呼び止めた。
「あんたは、変わらんな」
「なにが」
「俺たちが初めて史家村で会った時から、少しも変わらん」
 史進の顔を、一匹の蝶が横切った。刺のある薮に小さな花が咲いていて、蝶は蜜を求めて飛んできたのだ。史進は無心に蜜を吸う蝶を眺めて、微かに笑った。
「しょぼいツラが集まったな」
 史進は、みなの顔を見回した。

「だが、最強のメンツだ」

 薛永が、はっとしたように顔をもたげた。視線の彼方へ、蝶が飛び去っていく。
「──行こう」
 郁嶺関下。孟夏、晴天。
 史進、石秀を先頭に、六人の男たちは薮に消えた。



「小行者は一緒ではないのか」
 老和尚は、少しうろたえた。
「あの子は、食べ物を探しに行きました」
 その動揺が、却ってホウ万春を安心させた。この和尚は、小心者なのだ。そう思った。
「砦に来れば、やるものを」
「こちらも、兵糧は不足しておいででしょうから」
「この書物を読んでいるのだか、よく意味が通じぬところがある」
 ホウ万春は、すぐに話題を変え、机の上の書物を老和尚の方へ押しやった。老和尚と軍事を語る必要はないし、時間がないことも分かっている。
「経典ですな」
 ホウ万春は頷いた。
「天竺の、貴重なものだ。読み解いたものは、まだ誰もいない」
 龍門で金山大師の懐から密かに抜き取り、以来、杭州の太子以外には誰にも見せたことがない。
(梁山泊軍を殲滅すれば、歙州へ撤退だ。この老僧は殺していくから、見せてもいい)
「これは『精武大宝蔵経』といい、武を極める道を記してある。単語は解読できたのだが、文法が分からないので、意味がはっきりしないのだ」
 そう言って、ホウ万春は最後の一行を指さした。
「『武を極め、命を滅ぼし、永劫に勇敢なれば──最も強し』、そう書いてあるのではないか?」
「どれ。いや、これは……」
 経文を取り上げた老和尚の言葉に、見張り台の屋根から緊迫した声が重なった。
「東の道に、梁山泊騎兵が現れました!」
「ただちに赤い凧をあげよ。伏兵たちに……」
「突破してきます」
「なに」
「敵はすでに伏兵を突破しています!」
 ホウ万春は和尚を残し、見張り台に駆け登った。天に突き出した高台からは、砦を取り巻く、すべての方向が見通せる。その一方──梁山泊軍の進軍路の空に、黒煙が湧き上がっていた。

「森を……焼き払っている!?」

 梁山泊軍騎兵の先頭は、魏定国と配下の火兵部隊が固めていた。彼らは防火布の装束を身につけ、手にはあらゆる引火物を携えている。彼らは、目隠しの薮を焼き払いながら進んでいた。
「山を丸裸にしてやれ!!」
 道案内に同行している石勇の報告と、途中で合流した欧鵬と李雲の証言で、敵の手の内は予想できた。敵はどこに隠れているか分からない──罠もある。そう知った魏定国は、一瞬も躊躇しなかった。

「燃やしてしまえ!」
 魏定国は火薬を仕込んだ火箭を駆使し、山に火を放った。山裾の木々は、味方の方へ火が来ないよう、先に単廷珪が伐採した。雨のごとく火箭を放ち、湯隆お手製の巨大な鞴で風を送れば、炎はたちまち山上に向って燃え登っていく。
 魏定国の双眸に、火の粉がきらきらと燃えていた。
「こんな森、梁山泊の南冥鵬森に比べれば、草むらも同然!!」
 夏の乾季、伏兵の潜んだ藪も、隠し矢や馬の足を絡め捕る罠を仕込んだ林も、火箭が爆発したところから、見る間に炎に包まれていく。
 その後を、単廷珪と工兵部隊が残り火を消し、道を補修しながら進む。崩れた崖には、李雲と湯隆が馬でも渡れる丈夫な鎖橋をかけた。
 焼き払われた焦土の道を、呼延灼が軽量化した連環馬装備で突進していく。生き残った敵兵が放ったの矢も、傷ひとつつけることはできない。発見された伏兵は、もう隠れる場所もなく、討ち取られていった。
 呼延灼の鉄鞭が、視界を覆う黒煙を払う。その両翼に韓滔、彭己の姿はない。小魚が従い、その前鞍には案内の小行者が鎧に包まれて乗せられていた。
 呼延灼の鞭が道を示す。

「進め!」
 このまま“谷”を越え、樹海の迷路をも焼き払い、寺から歙州への道を突き進むのだ。
「進める者が、進め!!」


「ならずものどもめ、やるじゃないか」
 黒煙が前進していくのを見ても、ホウ万春は動じなかった。仰いだ空には、赤い凧が漂っている。
 小卒の怯えた目が、ホウ万春に注がれている。
「うろたえるな」
 ホウ万春は自分に言い聞かせた。
「最強になるには、恐れはいらない」
 なにかが、心の奥に広がっていた。黒くて、熱く、不快なものだ。真っ白な布についた染み、澄んだ水に浮かんだ塵のように目障りなものだ。
(あいつらは、ならずものだ。気高い理想、高邁な思想もなく、ただ自分のために宋国の招安をゆすりとり、侵略の走狗となって、この世界を救いたいという僕の努力の邪魔をする)
「黒い凧をあげろ」
 小卒に向って命じた。
「全員、命を棄てるのだ。敵を見たら、どんな手を使ってもいい、必ず殺せ。撤退は許さない。敵を全滅させるまで、相討ちで戦い続けろ。全員殺せば、僕らの勝ちだ」
(そうだ)
 ホウ万春は、豁然と悟った。
 それが、“最強”だ。
 命を捨てて、あらゆる敵を滅ぼしつくす。そうして、正しいもののみが残れば──もう、武は必要ない。
 それが、“武を極める”ということだ。
「僕も出る。この弓は一度で六人を殺す。たった五千射で、三万殺せる」
 見張り役の声が響いた。
「東の門前に、敵です!!」



 藪から飛び出し、葛折りの道を走っていた。
 石秀の声が響いた。
「分散していけ!」
 史進が先頭を駆けていた。
「あいつらは弓を使うぞ、史進、ぬかるな!!」
 史進は、振り返らなかった。
 石秀の背後には、陳達、楊春、薛永、李忠がいる。砦を目指し、足が絶え間なく砂を蹴る。
 彼ら六人は、砦を見上げる薮に隠れ、突撃の時を待っていた。赤い凧があがり、すぐさま藪から飛び出した。
 葛折りの道を駆け抜けて、正門に突撃をしかけるつもりだ。みな武器は刀である。長柄の武器は、隠れるにも走るにも邪魔になる。
 門に至る道は急峻で、曲がりくねり、砦の門までは見通せない。しかし、聳え立つ郁嶺関、その上空の赤い凧ははっきり見えた。
 その凧の糸が切れ、風にさらわれ飛び去っていく。続いて、黒い凧が蒼天に滑り出た。 命令は──“玉砕”。
『命ヲ棄て、全敵ヲ、殲滅セヨ』

「なんの合図だ?」
 石秀は眉をひそめた。黒い凧は見る間に空に高みに登る。
 史進は気づいていなかった。足は史進が一番、早い。道を駆け抜け、門が見えた。小さな門だ。見張りもいない。門楼があり、よじ登れそうだった。
 登れる、と史進は疑わなかった。
 門楼に人影が現れたのも、気づかなかった。

 冷静なホウ万春の目が、門へ向ってくる人影を数えていた。
「一、二、三……六人。天啓だ」
 ホウ万春は箙から六本を抜き、矢をつがえた。巨大な黄金の弓で一度に六箭を射放つことは、古の養由起も、梁山泊の花栄もできない。
 華奢に見えたホウ万春の背中に筋肉が盛り上がる。押手と引手が滑らかに空を滑って、黄金の弓が、満々と引き絞られた。

(この“弦月”が“満月”となる時、悪は滅びる)
 引き分けて、会に至り、今まさに放たんとした。その時、百歩先の蜻蛉の羽を見分ける目が、先頭を駆けてくる男の顔を捉えた。
「あれは」
 同時に石秀も門楼の人影を見た。
「史進、止まれ!!」
 ふたつの声が、蒼天に重なった。
「あれは──史進さん!」

刹那、矢は放たれた。




※文中の「郁嶺関」は、正しくは郁嶺関です。
※文中の「ホウ万春」は、正しくはホウ万春です。
※文中の「彭己」は、正しくは彭己です。




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