水滸伝絵巻-graphies-

第百二十九回
ならずもの達の凱歌(四)

夜空を、たくさんの赤い点が行き来してた。
  慌ただしく動く点もあれば、じっと動かない点もある。
  そのひとつひとつは、郁嶺関をとりまく闇に蠢く篝火であり、梁山泊軍の者たちが掲げる松明だった。
(同じような篝火なのに)
 朱武は訝しく感じた。
 あの時と、同じような篝火に照らし出されているのに、なんという違いだ。
 この、史進の姿は。

 朱武は、ぼんやりと、そんなことを考えている自分が、さらに訝しかった。

 岩陰で、史進が死んでいた。
 右目、胸、脇腹に矢が刺さっている。
 胸の矢を抜こうとしたが、深く刺さっているためか、すでに血肉が硬くなっているせいか、容易に抜けない。
 力を込めて引き抜いたが、もう、血は一滴も流れなかった。
 史進は、本当に、死んでいるのだ。

 門前で、陳達と楊春が、身を重ねるようにして、死んでいた。
 一本の矢が、二人の心臓を貫いていた。
 矢を抜いた時、陳達が動いた──と思ったのは、錯覚だった。
 楊春の声が聞こえたような気がしたのも、空耳だった。

 郁嶺関での、頭領の死者は、六人。
 石秀と李忠の死体は、すでに張青によって清められていた。
 薛永の死体は、丁得孫の遠吠えを辿って、鄒淵と鄒潤が見つけてきた。
 史進たちだけが、死んだままの姿で、焼け焦げた郁嶺関の下に倒れていた。
 先に登ってきた者たちが、彼らの死にざまを、朱武に見せてやろうと、三人をそのままにしていたからだ。

 朱武は見た。
 三人が、死んでいた。
 史進が先に倒れ、陳達と楊春が救おうとしたのだと、朱武には分かった。
 出陣の時、史進は笑った。
『任せておけ』
 史進は、六人で砦を落とそうとした。
 出陣の時、陳達も言った。
『任せておけ』
 陳達と楊春は、先に傷を負った史進を助けようとした。
 最後まで、砦を取ろうとした。
 少華山の朱武の仲間は、兄弟たちは、そのようにして、死んだのだ。
 朱武を、ひとり残して。

 朱武は、三人の遺体を確かめると、あとの処置は兵に任せて、ともしびの下へ矢を運ばせた。
 周囲では、梁山泊軍の兵士たちが、残党を探したり、消火したり、後続の軍を誘導したりと、忙しく行き来している。
 朱武は、篝火の光で矢を調べた。
 史進たちを殺した矢は、二種類あった。
 石秀や李忠を殺したのは、短めの弩の矢だ。闇雲に連射したのだろう、あらゆる角度で乱雑に射込まれている。
 史進に致命傷を与えた矢は、かなりの長さがあるものだ。鏃もまた長く、鋭い。それが、このように深く刺さるには、よほど長大な強弓であり、卓越した射手である。
 その同じ矢が、陳達と楊春を殺していた。
 楊春の蛇甲を貫くなど、常人にはできぬ技である。
(射手は──おそらく、同じ)
 そのひとりが、史進を、陳達を、楊春を殺した。
 矢を返して柄を見ると、背に印らしいものがあった。
 柄の丸い背が、半分、黒く塗られている。
(月?)
 なぜそう思ったのかは、朱武にも分からない。
 月ならば、弦──半月だ。
 半分は光、半分は闇。
 篝火に照らし出された朱武の顔も、半分は暗く翳り、半分は真っ赤に燃えていた。

 朱武は、涙を流さなかった。
 まもなく、盧俊義が山を登ってきた。
「彼らは、独断で砦を攻めたようです。おそらく、史進が言い出した」
 報告しながら、なぜか怒りが湧いてきた。
 史進は、生きていてこそ輝く男だ。大将になれる器だった。それなのに、なにひとつ朱武の言うことを聞かなかった。慎重にと、あれほど戒めたのに。
「いつか、こんなことになるのではと……」
 朱武は言葉に詰まった。
 いつか──こんな死に方をするのではないかと、恐れていた。
 同時に、あの元気で陽気な男が、こんな死に方をするなどとは、少しも信じていなかったことに、朱武は気づいた。
「そうか」
 盧俊義の声が、篝火の光の届かぬ闇の向こうから聞こえた。
「それでこそ、“九紋竜”史進だ」
 史進を称賛するでもなく、朱武を慰めようとするのでもなく、盧俊義は淡々と言った。
 そして、石秀たちのもとへ歩いていった。
 遺体は、ここで荼毘に付されることになった。李雲と湯隆が郁嶺関の瓦礫を集めて壇を組み、その上に、六人の体が並べられた。
 時遷は、ぽろぽろと泣いた。石秀は、ひどい死に方をしたのに、顔はきれいで、眠っているようだった。
「あの元気な男がなぁ……」
 別人のように、穏やな顔をしていた。
「わいが、もちっと早く火をつけてれば……」
 時遷は自分が火砲を打った時、石秀たちがどこで、なにをしていたか知らない。
 張青が、みなの顔を拭ってやっていた。
「よしな」
 時遷はまだ泣いている。
「楊雄はんに、なんて言えばええんやろ」
 張青は瓢箪から、なけなしの酒を一口のみ、残りを六人の上に注いだ。
 魏定国が、壇に火を放った。
 炎に包まれていく男たちを、見続けている者は少なかった。
 朱武は見なかった。時遷も顔を伏せていた。魏定国も、火が燃え上がるのを見ると、去っていった。
「次の作業があるからな……」
 張青だけが、六人が燃え上がり、骨となり、灰になるのを最後まで見届けてやった。
 彼の星は“刑”──罰であり、仕置きである。これが、誰に対する、なんの罰なのかは、どうでもいいし、知る意味もない。
 ただ、勇ましく生きていた元気な男たちが──この世から、このように去っていったというのが唯一の事実で、張青は、熱気とともにそれを受け止めた。
 いつの間にか、孫二娘が隣にいた。
「おまえは……」
 張青は空中に漂う灰を眺めて言った。

「おまえは、俺がおっ死んだら、泣くか」
「そりゃあ、泣くさ」
「どうかねぇ……」
 振りむくと、孫二娘が眉毛に白い灰を乗せたまま、にっと笑った。張青も、ふっと息を吐き出した。
「ま、ありがてぇや」



 火が収まり、郁嶺関の空が少しまた暗くなった。
 それを最後まで見届けたのは、盧俊義だけだった。
 暗闇の中から、盧俊義は歩きだした。
 その顔には、とくに表情らしいものはなかった。敢えていうなら、いつもの──精悍で、どこか浮世ばなれした“玉麒麟”の顔だった。
 盧俊義は闇の中を歩いていく。その歩みは悠然として、迷わなかった。
 輜重隊の兵卒たちが登ってきていた。
 荷車は山道を登れないので、途中から必要な最低限の物資だけを背負ってきたのだ。
 湯隆が、武器を点検していた。
「矢が少ないな、拾った矢を使えないか」
 郁嶺関の焼け跡から集めた武器は、多くはなかった。しかし、矢と鏃は多かった。湯隆は、ひとつ、気になる鏃を取り上げた。史進たちを殺した鏃と、同じものだ。
 鍛冶屋の目が、鋭く尖った。

「こいつは特注だな。鉄もいい。使い手が射れば、甲冑を着た人間を射抜くことも可能だろう……だが」
 湯隆は鏃を投げた。
「武器を見れば、使う奴の人となりが分かる。武器にも“性格”があるんだ。鉄牛には板斧、“霹靂火”には狼牙棒ってぐあいに。この鏃を使いたがる奴は、自信家で、冷酷だ」
 湯隆は武器の箱を探り回った。
「おい、鈎鎌鎗も運んでこい」
 なぜそう言ったのか、湯隆はこの時は分からなかった。
 鈎鎌鎗を使う男は──彼の従兄弟“金鎗手”徐寧はもういない。しかし、湯隆は、鈎鎌鎗が手元に欲しいと思った。
「あいつは“止める”武器だからな……いざという時、役に立つ」
 なにかを、恐れていたのかもしれない。
 湯隆は地に落ちた“孤”の星だ。
 この暗闇が不安になり、なにか伴侶を、求めたのかもしれなかった。
 盧俊義は無言で歩き続けた。
 兵士たちは疲れ果てて眠りにつき、篝火も燃え尽き始める。
 郁嶺関周辺の狭い平地に、急ごしらえの野営ができている。ほとんどの兵は、まだ山中で待機していた。
 陣営はしだいに暗くなる。
 その闇を伝うように、盧俊義は歩いていった。
 片隅の岩場の陰には、夜気を遮る幕が張られて、林冲が横たわっていた。
 孫立の声が聞こえた。
「後方に戻り、治療をしたほうがよい」
 林冲は無言だった。
 答える気力がないのではなく、必要がないからだ。
 孫立には、そこまでは分からなかった。彼は自分の命を慎重に扱ってきたし、守るべき家族を持っていた。
「もう戦うのは──無理だろう」
 答えたのは、盧俊義だった。
「戦える」
 闇の中で、孫立がぎょっとして振り向いたのが分かった。
 しかし、そこには、もう誰もいなかった。

 朱武は、峰で星を見ていた。
 ぼんやりと霞んだ星空だ。
 湿気のためか、熱気のためか、うるんだように滲んで見えた。
「夜明けまで、待つつもりか」
 背後から聞こえた盧俊義の声に驚いたが、朱武はすぐには振り返らなかった。
 霞んでいても、星明りがある。
 朱武は、顔を見られることを拒んだ。それ以上に、思い出していた少華山でのあれこれ──陳達や楊春と過ごした取り留めのない日々の出来事を、無粋に断ち切られたことが不愉快だった。
 盧俊義は続けた。
「“人に先んずれば敵の志気を奪い、人に後れれば敵の衰えるを待つのみ”──わしでも知っている」
 朱武はむっとした。
 盧俊義とは、なんという冷たい人間かと憎く思った。
「朝になれば、敵に郁嶺関の異変が知られ、歙州攻めは難しくなる。いや、もう敵は気づいているかもしれん」
「そんな事は、分かっております」
「分かっていて、流れ星でも数えていたのか。史進は笑ってくれるだろうが、陳達、楊春には顔向けできんな」
 朱武は腰の剣を引き抜き、盧俊義に斬りつけようとした。柄に手をかけ振り向くと、盧俊義が、すぐ目の前に立っていた。

「行くぞ、朱軍師」
 盧俊義の背後に、星がぎらぎらと輝いていた。
 星が告げた。
 朱武よ、お前の宿命は“大いなる地の星の首”──地の妖魔どもの魁なのだ。



 山の影が、星空の裾を大きく切り取っていた。
 西へ、歙州へと、星を頼りにホウ万春はひとり逃げていた。
 両側は木が密集した山が迫っている。藪の中では、獣たちの唸る声がひっきりなしに響いていた。
 郁嶺関の周囲は荒々しい自然が残り、人間は無力で小さな存在なのだ。
 馬が見つからなかったので、ホウ万春は徒歩だった。走り疲れれば、拾った枝にすがって歩いた。
 振り返ると、彼方の郁嶺関が燃えているのが見えた。
 もう一度振り返った時には、すでにその炎も見えなかった。
 空には星が瞬くだけだ。
 途中、小川に降りて顔を洗った。水には虫がいるので、飲むことはできない。すぐ背後で生臭い獣の気配がした。慌てて道に駆け上がると、虚しさがこみあげてきた。
 母も、師匠も、友もいない。この世界に、自分はひとりだ。
 そんな青臭い感傷のあとに、恐れが生まれた。
 歙州の守りたる郁嶺関を失った。梁山泊軍は、夜明けにはこの道を進軍してくるだろう。
 自分の失敗、そして、それを歙州の上官に叱責されることを、ホウ万春は恐れた。
 その時、彼方の闇か動いた。
 鋭く土を蹴る音と、旋風の叫びを聞いた。
 砂塵がホウ万春の顔を叩き、熱い風を浴びて目を塞いだ。あっと叫んでうずくまった彼の背中を、巨大な闇の塊が唸りをあげて跳び越えた。
「魔物だ!」
 悲鳴に続いて、軽い笑い声がした。
「ホウ万春、なにをしている」
 目を開けると、頭上には両眼を爛々を輝かせる駿馬と、その鞍から冷静に彼を見下ろしているひとりの壮年の武人の姿が映った。
「……王尚書」

 茫然とするホウ万春の前で、馬は蹄で道を掻いている。鼻息は炎のようで、目は血走っている。ホウ万春は起き上がると、距離をとって立った。
 壮年の将の、落ち着いた声が聞こえた。
「恐れるな。早駆けしたので、“転山飛”は興奮している。竜渓村から郁嶺関の火を見て降りてきたのだが、お前がここにいるということは、すでに、落ちたな?」
 まもなく、数人の部下が追いついてきた。いずれも駿馬に乗っていたが、“転山飛”には大きく水をあけられていた。部下たちは、松明を持っていた。

 光の輪に、王尚書──歙州の高官である王寅の姿が浮かびあがる。均整のとれた体躯の武人で、同時に知性も備えている。しごく落ち着いた物腰で、もとは近隣の石匠を仕切る長だったと云う。
 ホウ万春は、闇に慣れた目を細めた。
 そして、これまでの動揺を隠すように、王寅に問いかけた。
「王尚書は、なぜここに?」
「昼間から周辺で募兵していた。やや手こずった。聖戦を理解しない信徒がいるのだ」
 王寅はホウ万春ではなく、郁嶺関方向の空を見ている。
「時間がない。すぐに大王にお知らせしよう」
「敵は」
「案ずるな。手は打ってある。まずは城の防備を固めるのが先決……火急とあらば、大王もお前の罪は追及すまい」
 王寅の言葉に、皮肉はなかった。
 ホウ万春は頭を下げ、馬を一頭譲り受けた。
 馬を譲った王寅の部下は、残って“首尾”を確認するよう命じられた。
 王寅は、歙州を治める“皇叔大王”方厚の懐刀だ。大王は方臘の叔父であり、金吾上将軍・方杰の祖父にあたる貴人である。王寅には文武の才があり、もっとも信頼されている。配下の石工たちを使って、郁嶺関の罠をしかけたのも、実際は王寅の策だった。
“手は打ってある”ということは、郁嶺関が落ちることも視野にいれていたということだ。
 どのような手を──と尋ねるほど、ホウ万春は剛腹な男ではなかった。
 一行は夜道を歙州に向って駆けだした。
 しばらく走って、ホウ万春は真っ暗な道を振り返った。
 前も闇。振り返っても、道はどこまでも暗かった。



 真夜中。闇が動き始めていた。
 湯隆が自ら選んだ武器を背負って、郁嶺関に登ってきた。
 鄒淵、鄒潤も麓の陣に残っていた馬を牽いて戻ってきた。
 林冲は立ち上がり、幕から出て行く。
 黄信が兵を点検し、単廷珪と魏定国はあれこれと工具を並べている。
 顧大嫂たちは兵糧の焚き出しに余念がなかった。
 朱武は、呼延灼、孫立、欧鵬らと戦略を語った。郁嶺関から、歙州城は山間の道を四、五里の距離だ。
「まず歩兵から山を越える。工兵が道を整備しながら進み、騎兵が続く。老僧、小行者の情報が正しければ、街道を踏破すれば夜明けには歙州城に着く」
 敵が迎撃の準備を整える前に、夜明けとともに城を攻めるのだ。
「猶予はない」
 孫立が慎重な意見を述べた。
「山中の道は暗い。はぐれたらどうする」
 欧鵬が、自分の肩に巻いた包帯に目をやった。
「恩賜の品の中に、白絹が相当あった。白は闇に目立つ──喪の旗を掲げて行こう」
 真夜中過ぎ、梁山泊軍は星空の下を進発した。
 郁嶺関が燃え落ちた後に現れた道を、梁山泊軍が進んでいく。西側の道をふさいでいた岩は、すでに単廷珪、李雲ら工兵によって取り除かれている。
 松明を掲げて先頭を行くのは、自ら志願した“石将軍”石勇である。
 鄒淵と鄒潤が健脚の歩兵を連れて行く。騎兵が続く。部隊間の連絡には、時遷が立った。
 なにがあるか分からない未知の山道である。
 そのことを、恐れる者は一人もなかった。
「歙州まで、押し通れ!!」



 歙州へ──。
 その地名は、朱武には耳に親しい。端渓とならぶ硯の名品“歙硯”の産地である。
 名高いが、それゆえに石が掘り尽くされて、すでに非常な高価となっていた。蕭譲がひとつ持っていたが、朱武は、ひとつも持っていない。
 ふいに、陳達が宣州城を落した時に、みやげだ──と、宣州紙を懐いっぱい持ち帰ってくれたことを思い出した。
(史進が少華山に来なければ……)
 朱武は、ひとり山上で巡らせた思いを反芻した。
 史進さえ少華山に来なければ、梁山泊に来ることはなく、方臘と戦うこともなく──陳達と楊春が、ここで死ぬこともなかった。
(陳達よ、楊春よ)
 あの夜、史進の屋敷にさえ行かなければ。
『まっぴらごめんだ!』
 陳達たちの声か聞こえた。
 朱武は、はっとして星を見上げた。

 あの夜、史進の屋敷に行かなければ──つまらぬ山賊として、賞金首の日々を過ごし、いつか討伐されるか、捕らえられて首を斬られた。
 朱武は、笑った。
「まっぴらごめんだ!」



 空の北斗が道を示す。
 夜間の行軍は、梁山泊軍には手慣れたものだ。
 両側には山が迫り、樹木が密集して生えている。少し道を逸れれば、笹や藤の藪がびっしりと地面を覆っていた。
 天地を覆う密林の道だった。
 ならば、彼らは闇の軍勢である。
 山賊として人目を忍び、官軍の目を欺いて戦ってきた。
 星明かりが彼らの松明であり、暗闇が援軍だ。
 歩兵の音が、道の両側に連なる山々に響く。それは不揃いで、力強い、野獣たちの声なき咆哮であった。
 半分も走った頃だった。道が湾曲し、山の鼻を回り込んだ時だ。突如、雷鳴が轟いたかと思うと、発破とともに山が崩れた。
「よけろ!」
 誰かの叫びもむなしく、何人かが土砂に呑まれた。石勇はかろうじて逃れた。その前にも岩が落ちてきた。続いて石礫が雨となって降り注ぐ。
 しかし、見回しても敵軍の姿は見えない。石勇はまた駆けだした。もうひとつ山の鼻を回り込むと、礫の雨もぴたりと止んだ。
 敵は、郁嶺関が落ちることも予測して、こちら側にも罠をしかけていたのだ。
(罠だけならば)
 石勇は、ひとり前に出た。軍勢の気配はない。いるのは、おそらく罠を操る小隊だけだ。
(俺が、その罠にかかる)
 彼は石将軍──石敢当である。梁山泊を魔の侵入から守るのが生きる役目だ。
 それなのに、梁山泊を危険にさらした。
 石勇は自分が罠に嵌まることを望んで走った。
 道幅が狭くなり、あたりの森が濃くなった。後ろからは、罠から逃れた梁山泊歩兵が追ってくる。
 その時、石勇の先の闇を、藪から飛び出した異形の獣が駆けはじめた。山道を身を低くして、四つん這いで駆けていくのは、獣と化した丁得孫だった。

 丁得孫が暗闇を走る。彼には見えているのだ。
 彼はすでに人ではなく、一匹の狂える虎である。しかし、獣にも、心はある。
 丁得孫は怒っていた。悲しんでいた。彼が愛する張清を、共旺を殺したものに、純粋な怒りを抱いて、彼は闇を駆けていくのだ。
 丁得孫は、崩れる崖を跳び越え、落ちてきた丸太の間を駆け抜けた。この道にも、方臘軍の罠があったのだ。丁得孫のあとを、梁山泊軍を罠を避けながら進んだ。
 丁得孫はまっすぐに駆けていく。
 その姿が、忽然と消え、絶叫が森を震わせた。
 道が、いつの間にか緩い登りになっていた。
「止まれ!」
 石勇はぎょっとして叫んだ。
 地の底から、恐ろしい絶叫が続いている。
 落とし穴だった。中には、うすい星明りを受けて、なにか無数のものが蠢いていた。
 道幅とほぼ同じ大きさの、深い穴の底には数千匹の蛇がのたうっていた。杜遷が穴に飛び込もうとした。それを李立が止めた。
「毒蛇だ!」

 丁得孫は体中を毒蛇にかまれながら、穴から這い登ろうとした。石勇は縄票を投げた。しかし、届かず、無数の蛇が縄票に絡みつき、石勇の手まで這い上ってきた。
 魏定国が追いついてきて、松明で石勇の腕から蛇を払った。
「“タイ盆”か」
“タイ盆”とは、暴君・紂を惑わした希代の毒婦、妲己が考え出したという残虐な処刑具である。
 穴は深く、すり鉢状になっていて、助けることも、よじ登ることもできなかった。
 丁得孫はからみつく蛇を掴み、引き裂き、その首を噛みちぎった。毒が回り、その顔が、腕が、黒ずんでいく。
「……火をかけろ」
 魏定国が言った。
 丁得孫の苦しみを長引かせないことが、唯一、彼らにできることだった。
「いや、俺がやる」
 魏定国は懐から猛火油の小瓶を出し、松明とともに投げ込んだ。
 青白い火が燃え上がり、丁得孫の長く悲しげな声が響いて──消えた。



 梁山泊軍は山中に停止した。
 朱武と盧俊義も到着し、二万余千の軍勢である。
 敵は本来の道を崖崩れや落石で封じ、梁山泊を山中の密林へ迷い込ませたのだ。
 もう道案内の小行者もおらず、天を覆う梢のため星も見えない。
 道を探しに行った単廷珪が戻ってきた。
「この先は、底無し沼だ。兵が三人、呑まれた」
 下り道らしいものを辿っていくと、枯れ葉で偽装した底無しの沼であったという。
「分かった。みだりに動くな」
 朱武が命じた。
 日が昇れば、方角が分かる。梁山泊軍は罠を避けるため動きを止め、夜営することになった。山中には、まだどんな罠があるか知れない。
「その場しのぎだが、歙州の防備を整える時間をかせぐつもりだろう。丁得孫は、身をもって警告してくれたのだ」
 盧俊義は、悪臭を放つ毒蛇の穴に香華を手向けた。
「敵も、必死だ」
 夜営地の周りには、掲げてきた白旗を立て、敵の夜襲を防ぐために篝火を焚いた。
「焼き払えんのか?」
「魏定国が言うには」
 朱武もそれは考えた。
「この森は南方に産する油の多い木が多く、燃えやすくはありますが、延焼して我々も焼け死ぬ危険があるそうです」
 単廷珪の消火道具も、すでに使い果たしている。
「そうか、ならば……寝るか」
 盧俊義は篝火の下に立ち、光の届かない森の奥を睨んだ。
 朱武が訝しく思うほど、しばらくそのまま立っていた。
 そばの梢から、何枚か木の葉が落ちた。梟でも飛んだのだろう。
 盧俊義は濃厚な夜気を吸い込んだ。
 郁嶺関を越えたとたん、空気が変わったことに盧俊義は気づいていた。
 人間が小さく、自然が、濃いのだ。
 空気が濃い。風が澄んでいる。
 山の気、森の息づかいまで聞こえそうだ。
 やがて、森がしんと静まると、足元の闇で誰かが、おずおずと囁いた。
「──そこに立っておいでになるのは、”方聖公”ではございませんか?」



「梁山泊軍は進軍をやめ、竜渓村近くの山中で夜営しております」
 頭に木の葉をつけた密偵が、歙州へ戻って報告した。
「罠を恐れて、夜明けに進軍を再開すると話していました」
 ホウ万春に馬を譲った兵士である。
 歙州城内の大王府に、“皇叔大王”方厚と、その配下の大将である尚書の王寅、侍郎の高玉が集まっていた。
 彼らは一万四千の軍をもって、ここ歙州を守っている。城に拠った有利があるから、梁山泊軍とほぼ互角の兵力といっていいだろう。
 王寅は石匠の出身で鋼鎗の使い手であり、愛馬の“転山飛”は山を越え、河を渡る平地をいくが如しという駿馬である。良石を探して山間を渉猟するうち、その敏捷さ、脚力を身につけたという。
 高玉は地元の士人の家柄で、鞭鎗を使う壮士だ。二人はともに詩文にも通じ、やはり文人気質の皇叔のお気に入りであった。
 ホウ万春は、必ずしもそうではない。
 郁嶺関を失った罪を譴責されなかったのは、王寅のとりなしのおかげであった。
「砦を失ったとはいえ、決戦に先立ち敵の数千の将兵を討ち取ったのは、手柄には相違ございません。火急の時でもありますゆえ、まずはホウ万春の功と罪を相殺し、早急に迎撃に備えるのが上策と存じます」

“皇叔大王”方厚は、すでに七十を越える老人である。方一族は、方臘が杭州郊外の大漆園主であったように、この老人も前身は手広く売買を行う大商人であった。朱面らが花石綱にかこつけて彼らを弾圧したのも、その保有する膨大な財を没収することが目的のひとつだったのだ。
 商才豊かで知られた方厚は、軍事にはうといが、状況の利害得失を見抜く目はいまだ鋭い。
「よかろう」
 王寅の進言をいれ、ホウ万春の罪を赦した。しかし、その心中の帳簿に、ホウ万春の“負債”をしっかりと書き込んだことは、彼を見据えている鋭い眼光から明らかだった。
 方厚の机には、硯がいくつも並んでいる。背後の違い棚にも、丁寧に箱に収められた硯が陳列されていた。
「迎撃を命ずる。敵をこの歙州に一歩も近づけてはならん。さらに」
 方厚は皺はあるが滑らかな皮膚をもつ掌で、気に入りの硯の墨丘を撫でた。
「幇源洞に急使を送り、援軍を請え。孫の杰が来てくれれば、安心できる」
 方厚は、心を落ち着けようとするのか、傍らの硯に手をやった。凝脂ような石肌は青みがかり、繊細な水紋が浮かび出ている。澄んだ水を切り取ったような、非常に美しい硯だった。その隣には、舞い散る金色の花が浮かび出た硯もある。
 歙州硯──端渓と並ぶこの国で、つまり世界でも最高峰の名品である。日本、高麗、遼、金、南越、硯を使う国ならば、いくらでも金を出す者がいる。方厚はこれを国内外に取引して富を築き、今も叛乱の資金としている。
 石は歙州近隣の山中に産し、作業する石工たちは、代々石匠の長であった王寅が支配している。名馬“転山飛”も、王寅が石脈を探して山中をさまよううちに鍛えられたものである。交易の方は、各国の文人に顔の広い高玉が担当していた。
 高玉は知恵のある男である。軍議に移ると、細い目を、さらに細めた。
「敵は、郁嶺関を落したことで奢りたかぶっておりましょう。疲れをおして、夜道を行軍してきたのがその証拠。まんまと王尚書の罠にはまり、山中に夜営しております。地の利は我が軍にありますゆえ、敵が泥のように寝入ったところに」
「奇襲か」
 方厚は、硯を置いた。
「よし、疾く行け。ぬかるな──“商機”は、一度しかないと心得よ」



 梁山泊軍は、山中に陣地を連ねるようにして夜営していた。
 平地の少ない斜面なので、防備は手薄だ。夜半すぎ、篝火は燃え尽き、山は闇に包まれた。
「敵は油断して、見張りも眠り込んでおります」
 山中の村に住む明教徒の若者が、王寅たちに報告した。
 体は引き締まり、額には白い布を巻いている。彼は近くの竜渓村の石工である。石工たちは壮健な男揃いで、普段は石の切り出しや、硯の加工を行っている。梁山泊軍の侵攻を受け、彼らは明朝には村を焼き払い、村をあげて歙州城の防備に赴くことになっていた。
 梁山泊軍の野営地へ歙州軍を案内したのも、この若者だった。
「お聞きください。刻を告げる太鼓も、あのように」
 高玉は耳を澄ました。梁山泊の野営地があるという斜面の方から、刻太鼓が聞こえているが、曖昧模糊とした音だった。
 高玉は訝しんだ。
「数も、おかしい」
「太鼓を打つ兵士も寝ぼけているのでしょう」
 ホウ万春は、名誉を挽回したかった。
「僕が、先陣を承ります」
「闇夜では、弓矢は使えぬぞ」
「まもなく月が昇りましょう」
 ホウ万春は歙州で与えられた三千人の部隊で、梁山泊軍を斜面から急襲した。まず矢を射かけて動揺させ、それから一気に攻め下りるつもりだった。
 矢を雨のように闇に向って射ながら、斜面を駆け下りた。
 が、反応はなかった。陣内はしんとしていた。誰かが蹴倒した篝火が、その拍子にぱっと燃え上がり、無人の陣営と、木に吊り下げた太鼓の撥、撥を吊っている綱を足に縛られ、のんびりと草を食べている山羊の白い姿が目に入った。
「はかられた!」
 その声に答えるように、反対側の斜面から“摩雲金翅”欧鵬が鉄棒を掲げて舞い降りた。続いて、林間から鄒淵、鄒潤、李雲、李立、杜遷、石勇が飛び出した。
 王寅は咄嗟に転山飛を反対側の斜面へ走らせた。人間でも登るのに難儀する急斜面だが、転山飛は翼でもあるかのように、よじ登った。
「待ってくれ、尚書」
 高玉は馬首を返し、歙州へ逃げようとした。同時に歙州軍の背後に火の手が上がった。 炎に浮かびあがるのは、闇から躍り出た剔雪烏騅、“双鞭”呼延灼。
 その鞭の一振りで、高玉の頭が半分が、砕け散った。
 林冲が、うろたえる敵の中へ駆け降りていく。

 その白衣に、一瞬、味方と思った歙州軍の混乱は倍増した。
 幽鬼のごとき林冲は、梁山泊軍中でもっとも軽捷であった。すでに彼の片腕はほぼ麻痺し、半身には力が入らない。すでに肉体を失った存在であるかのように、捉えどころなく馬上にいるだけに見えるのに、それでいて最も強かった。
 その理由を、呼延灼は見抜いた。
 林冲は自分の力ではなく、一心同体となった白馬の動きと、攻めかかる敵の勢いを利用して戦っていた。
 林冲は馬に身を任せ、その身には、殆ど力が入っていない。馬が敵にあたり、身をよじるその動きにつれて蛇矛を構えれば、力を損なうことなく敵が倒れた。人馬一体となり、なめらかに、空中を浮遊するように、敵を倒す。
 東京で穏やかに過ぎるはずだった林冲の生涯は、実際は、戦い以外に残されたもののない生涯となった。
 いまは、その“戦い”すら、林冲は手放していた。
 彼が求めるものは、平穏でも、安寧でも、ささやかな幸福ですらない。
 勝とうとも、生きようとも、思っていない。
 敵とともに、深い山中へ駆けていく白い後ろ姿が、“軍神”呼延灼をして、光るがごとく神々しかった。



 明教徒の少女が、盧俊義の傷に布と薬草を当てていた。
 礫が当たって頬が切れ、首まで血が流れていた。
 ここは山中の村──竜渓村だと教えたのは、数日前、陣営に瓜を届けに来た白髯の老人たちだった。
「我等は渓谷の石を切り出し、硯にして、歙州の大王に納めております」
 そのため、道なき山中を行き、樹海を横断することに慣れていると云う。
 言葉は、商人の出だという者が通訳した。各地で石を交易していたため、北方の方言にも通じていた。
「それにしても、本当に、よく似ておいでだ」
 老人たちは、遠い過去を追憶する目で、盧俊義を見つめている。まなざしには、懐かしさと、苦悩が入り交じっていた。
 彼らは、盧俊義の容姿が、方臘とよく似ているという。盧俊義には愉快な話ではないが、老人たちは感動している。
「あの御方も、困窮する民に施しをされる“ローシュン”──“光”であられた。杭州を逃れてこの山中にお隠れになり、渓谷のほとりで摩尼光仏の託宣を受けて予言者になられたのです。山を出られた方聖公は、やがて戦いに身を投じられました」
「お前たちは、ついていかなかったのか」
「我々は、“平和”を求めて方聖公に従い、この山中に隠れたもの。武器を取ることを望みません。しかし、せめてお助けしようと、石を細工し、納めておりました」
「我々を襲ったではないか。この傷を見よ、なかなか痛い」
 盧俊義は手当を終えた頬の傷を見せた。
「歙州の兵に迫られたのです……兵が足りず、ついに我々も徴兵されました。明朝には村を焼き、全員が歙州城に入ることになっておりました。村には見張りもついていて、命令を拒むことは出来なかったのです」
 傍らで耳を傾けていた朱武が口をはさんだ。朱武の脳裏には、疑問が渦巻いている。
「それが、盧頭領の“顔”を見て、同士討ちかと驚いたのか」
 攻撃をやめた村人たちは、盧俊義をこの村に連れ帰り、梁山泊軍を山中に隠した。石を掘り出した洞窟がたくさんあり、そこに隠れて、歙州軍の夜襲を待ち受けたのである。
 朱武の背後の闇の中からは、彼が始末した歙州軍の見張りの足が二本、突き出していた。
「歙州の皇叔大王と、方臘は伯父甥の関係なのだろうに」
「それが」
 老人たちのあいだに、不穏な空気が流れたのが盧俊義にも分かった。
「言ってみよ」
 答えたのは、もとは商人だという男だった。実直そうな顔をしていた。
「皇叔大王は、我々が作った歙硯の中でも特に出来のよいものを、密かに遼や金の貴族に商っております。金銭糧食、武器と交換するのです」
 朱武にも、盧俊義にも、それは意外な話ではなかった。朱武には納得する部分さえあった。
「方臘の乱が短期間に江南を席巻し、今も抵抗を続けていられるのは、その後援があったからか。外国にとっては、宋国の力も弱められる」
「しかし、方聖公は異国の支援を拒んでおります。宋国を滅ぼしたあと、我々は傀儡にされるか、滅ぼされるだろうと……皇叔大王が外国と密かに交渉を進めていることも、御存知ないのです」
「交渉?」
「異国の軍と南北から東京を挟撃し、宋国滅亡のあかつきには、淮水以北を割譲すると……金国から返答はありませんが、遼国は」
「色気を見せたか」
「金と宋が連合して遼を攻める同盟を結んでおります。そのために童貫が集めた兵十万を、明教軍が足止めしております。遼国は、江南の兵乱が収まっては困るのです」
「なんと、そこまで」
「我々は、平和を求めるもの」
 老人が繰り返した。
 だから、このまま戦いに巻き込まれるのは──それが、明教と宋国の戦いでも、方厚と方臘の戦いでも、いやなのだと、老人は言った。
「我々には石があるので、戦いさえなければ、平和に暮らせる」
 村人たちは、すでに村を棄てる準備を済ませていた。その中には、青い滑らかな石が大量にあった。
 彼らはこの石とともに、歙州城ではなく、もっと深い山に分け入るという。
「暮らしは厳しくとも、日々の仕事と、家族や仲間との穏やかな日常は、なにものにも代えがたい。我々は、いちど、それを失ったので、分かるのです」
 老人は星に祈り──今夜、盧俊義が現れたことを感謝した。

 村の一角では、張青と孫二娘が野菜を刻んで鍋をふるい、孫新と顧大嫂が大釜で飯を炊いていた。顧大嫂は腕まくりして、額には玉の汗が吹き出している。
「戦に行った連中が、腹をすかせて戻ってくるよ! どんどん炊くんだ」
 村の女たちも手伝っている。
「あんたたちも、たんと“お弁当”を持っておゆき」
 張青は炒めた野菜を、子供の口に入れてやった。
「うまいか」
 子供はうなずき、飯炊きを手伝う母親のところへ、兎のように跳んでいった。
 孫二娘が包丁を手に笑った。
「いい気なもんさね」
「なにが」
「戦になれば、軍に守ってもらい、戦をしろと言われれば逃げ出すとは、ちと勝手な言いぐさじゃないかえ」
 孫二娘は盧俊義たちの話を聞いていたのだ。張青はまた野菜を刻みはじめる。
「この世には、刀が握れる人間と、包丁しか握れない人間がいるんだ。獣だってそう……牙のあるやつと、牙のあるやつに喰われるやつがいる」
「なるほどね。兎は耳がよくって、逃げ足が速いよ」
 張青がなにか言い返そうとした時、闇の彼方で喚声が湧きあがった。
 盧俊義と朱武が立ち上がる。
「始まった」
 村に残っていた中軍の兵たちも盧俊義のもとに集まった。
「手筈どおりに歙州への道筋に伏せ、敗走する敵を攪乱する。気づかれぬように注意せよ」
 盧俊義、朱武たちが出陣していく。率いるのは、負傷した歩兵が主だ。あとは、飯炊きを終えた孫新と顧大嫂、鈎鎌鎗を抱えた湯隆の姿もあった。
 孫二娘も包丁を投げ出し、刀をとった。
「あたしも行くよ!」
「よせよ」

「ちょっと一汗かきたくってね」
「汗なら、料理場でかけ」
「あんたにまかせた」
 孫二娘は生き生きとした顔で笑った。
 梁山泊軍が村を出て行く。残ったのは、村人と、炊事を続ける張青と数人の炊事兵だけだ。
 村人たちは、戦の手伝いに出ていた男たちが戻り次第、ここを出て行く。その時に、張青たちも焚き出しの準備を終え、食べ物を担いで梁山泊軍に合流する。
「腹ごしらえをして、いよいよ歙州だ」
 張青は鍋に塩を入れた。
 間もなく、すべての料理が終り、あとは運ぶばかりとなった。張青は包丁を置き、額に流れる汗をぬぐおうとした。
 その時だった。背後で突然、子供たちの悲鳴が響いた。
 振り向くと、老人や女子供がばたばたと倒れるのが見えた。
「やはり、お前たちが裏切ったのだな」
 王寅は鋼鎗で次々と老人たちを刺した。石を抱いた老人が哀願した。
「お許しを、石なら返す」
「お前たちは“秘密”を知っている。知ってしまったことは、返せぬ」
 老人は石を抱いたまま王寅に胸を突かれて息絶えた。王寅には三十人ほどの兵士が従っている。彼らは非常に手際が良かった。たったそれだけの人数で、一瞬の間に数十人の村人が殺された。慣れているのだ。躊躇もなかった。
「ならねぇ!」
 張青は殺人者たちの前へ湯の煮え立つ鍋を蹴り倒した。
 真っ白な蒸気が沸き上がる。
 その中へ、張青は包丁を掴み、突っ込んでいった。




 歙州軍による梁山泊軍への夜襲は、失敗した。
 動揺する歙州軍に、呼延灼、林冲、単廷珪と魏定国率いる部隊が四方から襲いかかった。鄒淵、鄒潤、李雲、李立、杜遷、石勇らも乱戦の中で方臘兵を討ち取っていく。
 歙州軍は高玉も討ち取られ、大混乱に陥った。頭蓋骨を割られて倒れた高玉の死体を踏みつけ、我がちに歙州に向って逃げていく。斜面をよじ登って山中に逃げ込む者も多かった。
 ホウ万春は矢を放ち退路を開くと、歙州にむかって逃げ出した。放れ馬を見つけ、飛び乗った。その前に、欧鵬が立ちふさがった。愛用の鉄棒に、槍の穂先が装着されていた。欧鵬は鉄鎗を鋭く突き出し、また頭上から振り下ろしてホウ万春を追い詰めた。ホウ万春は黄金の大弓と特製の矢の他には、剣を帯びているだけだ。なんとか五合までかわしたが、敵わずと見て馬を離した。
 欧鵬は追った。鷹の目を持つ男は、用心を怠らなかった。相手が弓の名手と見抜いている。
 ホウ万春は欧鵬が追ってくるのを察すると、鞍上で振り返りざまに一矢を射た。欧鵬は駆けながら、飛んできた矢を掴み取った。

(次が来る)
 予想通り、またホウ万春が弓矢を構え、間髪を入れずに射た。欧鵬は、掴み取ろうとした。しかし、矢は同時に二本、放たれた。

 欧鵬は咄嗟に鉄棒で防いだ。一本目が鉄棒をかすった。二本目が欧鵬の肩に突き立った。続けてホウ万春は今度は三本の矢を、同時に放った。そのうちの二本が、欧鵬の体を貫いた。

「不覚!」
 空のどこかで、鷹が叫ぶ声が聞こえた。
 摩雲金翅は、地上に落ちた。そして、二度と、羽ばたくことはなかった。

 ホウ万春は逃げた。西へ。歙州へ。
 相変わらず暗い道に、星が瞬いている。
 夜明けは、近いはずだった。

 湯隆は藪の後ろにひそみ、待っていた。歙州に通じる道沿いである。
 あたりは暗く、見上げると、星がやけに鋭く光る。
 朱武が小声で確認した。
「敗走する敵が来たら、将だけ倒せ。兵は敗走させるのだ」
「将だけか……藪のこっちからは見えねぇ」
「そこの梢で、時遷が見張っている」
 しくじるな──と朱武は重ねて念を押した。
 湯隆は自分が造った鈎鎌鎗を握っていた。
(従兄弟よ、俺に力を貸してくれ)
 湯隆は文字通り、手に汗を握っていた。彼は鍛冶屋だ。武器を作りはするが、実際に振るうことは少なかった。
 彼の武器は自ら鍛えた鉄瓜錘で、鈎鎌鎗のような長柄武器は使わない。しかし、従兄弟の徐寧が死んだ後、鈎鎌鎗手は花栄の下に配属され、ここにはいない。武器だけは数本もってきていたが、使い方を知っている兵もいないので、湯隆が使うしかない。
「使い方は、突く、払うだ。いや、先に払うだったか?」
 使い方がふいに分からなくなった。落ち着こうと汗をぬぐうと、道を走ってくる敗走兵の足音が聞こえてきた。みるみる近づいてくる。
 傍らの木の梢で、時遷が梟の鳴きまねをした。
「ホウ!」

 湯隆は夢中で鈎鎌鎗を突き出し、横に払った。
 それは、まるで“金鎗手”が乗り移ったかのような見事な鎗さばきだった──と、あとで時遷が人に語った。
 湯隆の掌に衝撃が伝わり、馬と人間が一塊になって転がった。
「やった……!」
 潜んでいた梁山泊兵が飛び出して、落馬して朦朧としている将を藪の中へ引っ張り込んだ。間もなく、徒歩で敗走してくる歙州兵が大勢やってきた。梁山泊兵は藪から銅鑼や太鼓を叩き、矢を放って威嚇した。歙州の兵士たちは更なる混乱に陥って、一目散に歙州城へ駆けていく。
 統率する将もなく、我がちに逃げていく。
 朱武は湯隆と時遷に命じた。
「将が来れば倒し、兵は脅して逃げさせよ」
 そして、朱武は藪に引き込んだ敵将を一瞥した。その目は、その顔ではなく、箙からこぼれた矢に引きつけられていた。
「……この矢は」
 朱武は箙から矢を引き抜いた。矢柄が長く、鏃は鋭い。
「史進たちを殺した矢だ」

 湯隆が捕らえたのは、ホウ万春だった。
 ホウ万春は縄をかけられ、山中に控えていた盧俊義の前に連れて行かれた。鈎鎌鎗で足を斬られ、靴の中まで血が溢れていた。
 盧俊義は、憔悴しきったホウ万春を一瞥した。
「史進たちを殺したのは、お前か?」
 ホウ万春は、茫然として盧俊義の顔を見つめていた。
「方聖公……」
 あまりに多くの血を失い、朦朧としていた。ホウ万春は、盧俊義の前に膝をついた。
「方聖公よ、予言者よ──僕は、救われるでしょうか。僕の罪を、償うことができるでしょうか」
 ホウ万春は、目の前で、彼を冷やかに見据えている人に──救いを求めた。

「どうする? 朱武」
 盧俊義の問いに、朱武は顔をそむけた。
 盧俊義は剣を抜いて、ホウ万春の前に立った。
「案じるな。いいことを教えてやろう。昔、屋敷に出入りしていた坊主が言った。わしが、ひどい“おいた”をした時にな。坊主は言った──“この世で人を苦しめたものは、来世で人から同じ苦しみを受ける”」
 ホウ万春が、すがるように盧俊義を見た。
 子は殺人者となり、弟子は裏切り、最後は“友”に殺される──。
「いやだ、そんなのは」

「うまくいかんな、人生は」
 盧俊義の剣が閃き、ホウ万春の首が地に落ちた。



※文中の「郁嶺関」は、正しくは郁嶺関です。
※文中の「ホウ万春」は、正しくはホウ万春です。
※文中の「方厚」は、正しくは方厚です。
※文中の「共旺」は、正しくは共旺です。
※文中の「タイ盆」は、正しくはタイ盆です。
※文中の「縄票」は、正しくは縄票です。
※文中の「朱面」は、正しくは朱面です。
※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。
※文中の「剔雪烏騅」は、正しくは剔雪烏騅です。




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