水滸伝絵巻-graphies-

第百三十回
聖者の敵(四)祝福の鐘





 婁敏中はひとり役所に残り、鐘楼で炎を仰いでいた。
 街のあちこちから、黒煙が上がり始めていた。役所の中からも、火が出ているようだ。
 しかし、婁敏中は、消火を命じることもなかった。
「人と人が、燃え上がる城の中で殺し合う……これが、この世の姿だ」
 婁敏中の手には、丹精を込めた新国家の法律案が握られていた。
 空を、大きな火の粉が飛び交っている。
 早く終りになればいい──と、婁敏中は願った。
 世界が終われば、彼の苦しみも終わるのだから。
 婁敏中の手から、彼が精魂をこめた法案を書き綴った紙が、散った。
「なにも、信じられるものはない──この世界には」
 風に舞い散る白い書き付けが、弔いの紙銭のようだった。
 これは、わしの、弔いだ。
 そうだ。わしには信じられない。この世が“よくなる”ということが。
 自分自身が、いちばん信じていないのだ。どんなによい法をつくっても、それを行使する人間が邪ならば、意味はない。
 祝福の鐘が鳴り響く。この世界を、少しずつ破壊していく音楽だ。
「いまの不幸を生み出すものが、未来の幸福を生み出せるのか?」
 風の中に、むなしい笑みが滲んだ。
「未来の幸福のためには、今日の不幸が必要なのか?」
 誰か、答えをくれないか。
 鐘は──ただ鳴り響くのみ。

「止めてください」
 宋江が、絞り出すように言った。
 宋江の前には、盧俊義が立っている。
 ただならぬものを感じ、盧俊義は馬を下りた。
「なにを」
「この馬鹿げた戦いを、終わらせなさい」
 宋江は、嘆くのではなく、泣くのでもなく、はっきりと、そう命じた。
「こんなことは──天が許しても、わたしは許さない」
 盧俊義は戸惑った。宋江が、怒っているのを初めて見たのだ。
 宋江は、戴宗を呼んだ。
「全軍に伝達しなさい。“住民を一人も殺してはならない”」
「宋江さん、そいつは……」
「わたしの、命令です」
 鐘が鳴る。
 その重々しく、不吉な音が、長い余韻を残して止まった。
 走り出そうとする戴宗を、呉用は呼び止めた。
「戴院長、もうひとつ」
 呉用が戴宗の耳に囁く間にも、敵も味方も、皆が西に向かっていた。
 宋江も歩き始めた。
 西へ──方臘のもとへ、宋江は血の流れる道を進んだ。

 祝福の鐘が止まった。
 婁敏中が振り返ると、阮小五が鐘衝きの小吏を殴り倒したところだった。
 最後の鐘の余韻が、ふるえながら虚空に吸い込まれていく。
 婁敏中は、疲れ果てた顔で、怒りに満ちた阮小五の顔を見た。
 そして、わずかに、微笑んだ。
 空の色が歪んでいる。
 狂気が城に満ちている。
「もう──遅い」

 真っ暗だった。
 真っ暗な狭いところに、蔡慶は倒れていた。蔡慶は、蔡福の指を握っていた。二人の上には、倒れた土壁が覆いかぶさっている。
 蔡福の指は、すでに石のように冷たかった。
 蔡慶の体も、動かなかった。
 そして、自分はもう死んでいるのだから、死ぬのは怖いことではない──と思った。
 蔡福と同じ時に生まれたのだから、死ぬのも同じ時のほうがいい。
 二人は一緒に生まれたから、一緒に死ぬのだ。
 焦げ臭く、熱い風が瓦礫の隙間から吹き込んでいた。近くから火が出ているのだ。
 関鈴の声が聞こえた。
「父上、ここには生きているものは、もういません」
 目を開けると、すぐそばに、真っ赤な花が落ちていた。
 どこかの庭から瓦礫と一緒に落ちてきた、山茶花の花だった。蔡慶は、思わず腕を伸ばした。

 わずかだが、指が動いた。這うように腕を伸ばすと、土壁が崩れ、光が差して、その隙間から少年の顔が覗いた。
「たすけてくれ」
 蔡慶は叫んだ。
 花など、どこにも落ちていなかった。

 城内の戦いは、西門周辺に集中していた。
 すでに“祝福の鐘”は鳴りやみ、戦いを指揮するものもない。
 それでも、方臘ひとりを逃がすため、生き残りの方臘兵と住民たちは西門へ続々と集結していた。彼らは西門を背後に密集し、押し寄せる梁山泊軍に対峙した。
「我々の光を放出して、猊下を魔物よりお護りするのだ!」
 火父、火母らは家々に玉砕せよと告げて回り、兵も民も、自分の足で動けるものは、怪我人でも西門へ集まってきた。
 西門への道は方臘兵と住民で埋めつくされた。鄒淵と鄒潤は、なんとか進もうとしていたが、敵は何千人もいる。方臘を逃がすため、我が命を差し出そうと熱望している“敵”だった。

「きりがねぇぞ!」
 鄒潤は兵は叩きのめし、住民はなるべく峰打ちにした。
“住民を一人も殺してはならない”
 宋江の命令である。
 しかし、力加減をする余裕はなく、何人かは頭を割られて死んでしまった。そのうちに、手加減する気もなくなった。
 やがて、鄒潤の刀が、根本からぼっきり折れた。
「叔父貴!一本くれ」
 鄒淵は背中に何本もの武器を差している。折れれば、投げ捨ててそれを使った。
「てめえの目は節穴か!?」
 筋骨逞しい方臘兵と睨み合ったまま、鄒淵は怒鳴った。
「死人から頂戴しろ!」
「お、なるほど」
 周囲には足の踏み場もないほどの死体が転がっている。鄒潤は手頃な槍を拾った。
 まだ西門ははるか彼方だ。
 鄒淵は目の前の住民を槍で突こうとした。そこへ、戴宗が駆け戻ってきた。
 鄒淵は慌てて槍を返し、柄の方で住民を叩き伏せた。
 戴宗は足を止めることなく、駆け抜けざまに、二人にだけ聞こえるように言った。
「ひとつ言い忘れた。東門へ行ってくれ」
「なんで」
「知るか、呉用先生の命令だ」
“誰でもいいから、東門へ行くように”それが呉用の命令だ。
 しかも、敵には気取られぬように──と厳命された。
 宋江の命令は、伝令兵にも伝えたから、まもなく全軍に広がるだろう。呉用の命令のほうは、戴宗自らが、頭領に内密に伝達しなければならない。
 しかし、敵味方が入り乱れ、混乱し、戴宗はなかなか目ぼしい頭領に出会えなかった。やっと捕まえたのが、鄒淵と鄒潤だった。
「たのんだそ!」
 戴宗は次の頭領を見つけるべく駆け去っていった。
「東だとよ、叔父貴」
「方臘は西門だ」
「行かねえのか」
「軍師の命令を聞いて、無視はできまい。お前が行け」
「叔父貴が行けよ」
「骰子で決めよう。同時に振って、目の小さい方が東門だ!」
 先に振った鄒淵が出したのは、真っ赤な“一の目”だった。
「ちえッ、ついてねえ!」

 雨がやんだ。
 どこかで、子供が泣いている。道を死骸が埋めていた。
 大路では、すでにいくつもの戦いが繰り返されていた。地面に倒れ、あるいは塀にすがりつくように、無数の人間がのたうち回って倒れている。
 そこに、後ろから一台の馬車が突っ込んできた。
 方臘の馬車は敵も味方もはね飛ばし、車輪で踏み砕きながら、西門へ向けて疾走していく。
「方臘は、あっちだ!」
 その声に導かれ、ほとんどの梁山泊軍が西へ向かっていた。
 呼延灼を筆頭に、梁山泊軍はひたすら西へ進んだ。城内の各地から集まってきた人々の流れは次第にひとつにまとまって、西に向かって進んでいく。
 彼方に、西側の城壁が見えてきていた。
「急いでくれ!!」
 城門近くの建物の屋根から、蒋敬が叫んだ。彼は屋根だけを伝って、ここまで方臘を追ってきたのだ。
 誰かが蒋敬に向かって矢を放った。蒋敬はあやうく鬼瓦の後ろに伏せ、声だけが響いた。
 城門へ至る西大路は、まっすぐな大路だ。そこを埋めつくすように、武器をかかげた住民がひしめいていた。その只中へ斬り込み、道をひらいているのは、楊雄と武松だ。楊雄は、さまよいながら、ここまで辿りついた。武松は、より激しい戦いを求めるうちに、ここまで来た。
“敵”は、みなが捨て身だった。武器を握りしめ、体ごと突っ込んでくる。しかし、楊雄に斬りかかった者は、刃が触れる前に倒れていた。
 武松に斬りかかった者も、同様だった。
 相手は、武器を持っているとはいえ、民にすぎない。武松は戒刀の柄や峰で住民を殴り倒しながら、楊雄に声をかけた。
「具合はどうだ」
 楊雄は無言で進み続ける。
「顔色が悪いぜ」
 武松はまた一人、明教徒の男を戒刀で殴り倒した。
「こんな奴らでも、殺すと宋江さんが悲しむからな」

 楊雄は相手の手足の腱を巧みに斬っていた。敵は倒れるが、命には別状ない。
「“病関索”、いい腕だ」
「あなたも腕をなくしたような」
 初めて楊雄が口を開いた。話しながら、楊雄はまた一人、敵の腕の腱を斬った。
 武松も住民を殴り倒しながら答えた。
「ああ。腕が一本ないと不自由なものだな。帯を結ぶのも一苦労だ」
「あとで、いい方法を教えよう」
「そいつはありがたい。おっと!」
 武松は峰打ちをしそこねて、若い男を殺してしまった。
「しくじった、許せ」
 西大路に合流する脇道から、新手が押し寄せて来るのが見えた。楊雄が、進路を変えた。
「私が行こう」
「また会おう」
 武松はそのまま西門へと直進していく。
 屋根の上で、蒋敬が叫んでいる。
「方臘が逃げるぞ!」
 鄒潤は何人もの敵を頭突きで倒し、また幾度も敵の棍棒や閂を頭の瘤で受け止めた。しかし、間もなく西門、と思った時、後頭部に激しい衝撃を受けた。後ろから鉄の天秤棒で殴られたのだ。むかし侯健に縫ってもらった古傷が口を開いて、目から火花が飛び散った。鄒潤は、そのまま地面に転がった。瘤が割れて、血がどくどく噴き出していた。
 鄒潤は頭を抱えて転げ回った。棍棒を握った男が、逃げていく。
「ちくしょう、脳味噌が流れて出ちまう! 誰か早く縫ってくれ!!」
 蒋敬が叫んでいる。
「門が閉まるぞ!」
 呼延灼が、李応が、朱武が、樊瑞が、あらゆる道からこの西大路に集結してくる。
 かれらの眼前を、方臘の馬車は城門へ向かって疾走していく。兵も住民も車輪に巻き込み、はね飛ばして、真っ直ぐに開け放たれた城門へと駆けていく。
 武松は全力で駆けた。
「くそ──届かねえッ!」
 武松は右手に握っている雌刀さえ重く感じ始めていた。
 戒刀は、まだ血に飢えている。血まみれの刀身は小刻みに震え、鍔はかたかたと鳴り続けていた。戦っているのは自分なのか、戒刀なのか、武松には、もう分からない。しかし、傷つくのは、武松だけだった。全身に無数の傷を受けていた。左腕が痛んでいた。ずきずきと疼いている。
 誰かが、左側から武松に駆け寄ってきた。武松は、痛む左腕で殴ろうとした。しかし、空振りさえしなかった。左腕は、睦州戦で武松が自ら斬り落としたのだ。
 かつて、その腕に触れた潘金蓮の指の感触ごと、断ち切ったはずの腕だった。
 体当たりしてきたものを、武松は右手の戒刀で、袈裟懸けに斬ろうとした。そして、腕を振り上げた、その瞬間、どこにも当たっていないのに、刀が根本から二つに折れた。
 小さなものが、武松の脇をすり抜けていく。子供だった。二人の幼い兄弟だった。先を行く兄が、振り返って弟を呼んだ。
「もういいよ、行こう、二郎!」
 手をつないで逃げていく子供たちの後ろ姿を、武松はしばらく眺めていた。幼い兄弟は、人が行き交う戦場の中へ消えていった。
 全身から力が抜けた。
 武松は、そのまま寝ころんだ。周囲には、死人や、死にかけた怪我人が倒れている。彼らに混じって横たわり、不思議と休らいだ気持ちになった。
 梁山泊軍の兵たちが、傍らを通りすぎていく。
 目を見開いたまま、武松は大の字になった。力が抜け、急に、世界がはっきりと見えた。

 地味な街が、死体が、空が、土にしみこんでいく鮮血が、とてつもなく鮮やかな色彩を武松に投げかけている。
 風が吹いている。
 雲が流れていく。
 武松は、声をあげて笑った。
「虎よ来い!」

 武松は叫んだ。
「虎よ! この俺を、がつがつと骨まで喰ってみろ!!」

 残った骨は、きっと清々としているだろう。
 髑髏は、からからと笑うだろう。
 そして、武松は目を閉じた。

 大きく開かれた門を、ついに方臘の馬車が駆け抜けた。
 その前へ、一団の軍勢が南より風のように現れた。
“大刀”関勝──戦死した秦明の部下を糾合し、城外の荒野を迂回して急行してきたのである。呉用の命を受けた伝令として、阮小七が従っていた。
 疾走する馬車の正面へ、関勝が赤兎を躍らせる。護衛の金吾兵は、既にひとりも従っていなかった。
 馬車を牽く白馬は関勝の凄まじい気を浴びて怯え、棹立ちになった。そのまま馬車は道を逸れて路傍の石に乗り上げ、脱輪して音を立てて横倒しになった。
 御者台から投げ出された御者は首を折って死に、鳳輦から白衣の貴人が這い出してきた。
 関勝はその首もとへ青龍偃月刀を振りかざした。
 呼延灼、朱武たちも追いついてきた。
「方臘を捕らえたぞ!」
 すぐに宋江、盧俊義、呉用たちも到着した。倒れた男へ歩み寄ろうとする宋江を、関勝が青龍偃月刀で阻んだ。
「この方臘は、偽物だ」
 朱武が倒れた男の襟を掴んで、引き起こした。その顔は、明らかに方臘ではなく──若い方臘兵だった。
「では、方臘は」
「東へ!」
 呉用の羽扇が、切るように東の空を指し示した。
「方臘は、東門です!」
 みなが再び駆けだしていく。
「叔父貴、賭けは叔父貴の勝ちだ!」
 鄒潤の声が、西門に響いた。

 東門の周辺は、静かだった。
 兵も、住民の姿もない。
 食用の瓜が門前に散乱していて、その割れた瓜の果肉の中に頭をつっこむようにして、たったいま死んだばかりの方臘兵が倒れているだけだ。
 蠅が山のように群がって、甘い汁と血の混じった“ごちそう”を、一心不乱に貪っていた。
 耳元に蠅のぶんぶんいう音を聞きながら、湯隆は待っていた。
 戴宗と出会って“東門へ行け”と言われたが、なんのためかは分からない。
 それでも、篤実な湯隆は、じっと息をひそめて待っている。
 城門の周辺は煉瓦敷きの広場になっていて、身を隠せるような場所はない。煉瓦の地面が途切れたところに、牛くらいの大きさのカラタチの植え込みが並んでいて、湯隆はそのチクチクする茂みの中に、鈎鎌鎗とともに潜んだ。
 いくつか、方臘兵や住民の団体があたりを駆け抜けていったが、彼らも東門には関心がないようだった。
 湯隆は、ひとりだった。
 誰か仲間がいるだろうと思ったが、誰もいない。
 湯隆はひどい孤独を感じ、鈎鎌鎗を握りしめた。これが、最後の一本だ。
 まるで、五台山の山奥に、ひとり隠棲していた時のようだ。あの時、李逵と出会ったばかりに、いま、こんな遠くの辺鄙な街で、鈎鎌鎗を握りしめている。
 その時、湯隆は激しい馬蹄の音を聞いた。一頭や二頭ではない。湯隆はカラタチの刺の間から、こちらに向かって疾走してくる方臘軍──金吾兵を見た。
(まさか)
 先頭には方杰が立ち、背後に一人の貴人を護衛している。
(まさか、方臘か!)

  方臘と方杰は、生き残った金吾兵を連れ、城から逃げるつもりなのだ。
 相手が馬車なら、車輪に鈎鎌鎗を突っ込んで止められる。しかし、相手が騎馬の集団では、一本の鈎鎌鎗では役に立たない。
 騎馬の数は増えていく。その数は三百あまり。
 湯隆は鈎鎌鎗を置き、鉄瓜錘を両手に握った。
 地孤星──“金銭豹子”湯隆。
 地孤星は、“ひとり”の星だ。ひとり五台山に暮らして李逵と出会い、梁山泊の仲間と出会った。
 そして、今。
 湯隆は、ひとりぼっちだ。彼は、ひとりで死ぬことを選んだ。

 湯隆は茂みを飛び出すと、方臘軍めざして突撃していった。

 その時、反対側の灌木の陰からも、もうひとり飛び出した男がいた。
「鄒淵!」

「潤よ、賭けは俺の勝ちだ!」

“出林竜”の名の如く、灌木の茂みから飛び出した鄒淵は、満面の笑みを浮かべて、そのまま方臘軍の先頭へ突っ込んでいった。

 血みどろの死傷者が、清渓県の街路にあふれていた。
 本来は、白壁に灰色の瓦の家が立ち並ぶ、山あいの静かな街だった。古びた家々の、中庭の美しい池の中にも、死体はひとつ、ふたつと倒れていた。
 街路を血腥い風が吹き荒れる。戦う人々の間に、朱仝が割り込んでいく。
「もう、よせ!」
 群衆が朱仝に襲いかかった。その前へ、白馬が牽く黄色い天蓋の鳳輦が乗り入れた。
「戦いをやめよ!」
 鳳輦の紗幕が分けられ、中に座った白衣の偉丈夫が命じた。
「──おお、方聖公!」

 聖職者の資格をもつ老人が、両手を合わせた。
「いかにも、われこそは方臘である」
“方臘”に扮した盧俊義は、明教徒の白衣をはおっている。馬車の隣には、白馬に乗った宋江の姿があった。二人の姿を、人々は呆然と仰ぎ見ている。
 祝福の鐘は、たしかに鳴りやんでいた。
 群衆が見守るなか、盧俊義は高らかに宣言した。
「戦いをやめよ! 明教は梁山泊と和解した!」
 盧俊義と宋江は、孫立と黄信に左右を守られていた。黄信の手は、さりげなく腰の喪門剣に添えられている。
 唖然とする人々のうえに、盧俊義の声が厳かに響いた。
「命令に逆らうものは、破門だ! 方聖公の名のもとに、地獄に落とす!!」
 住民たちが、一斉にひれ伏した。

 関勝ら梁山泊軍は西門から東門へ急行したが、その時には、すでに方臘は清渓県から脱出していた。
 住民たちの抵抗も、急速に収束に向かっていた。
 方臘の扮装をした盧俊義が、宋江とともに城内を駆け回って“停戦”を告げたためである。
 住民たちは、それを信じた。
 彼らもまた、方臘が東門から密かに脱出したことを知らなかったのだ。
 生き残った方臘兵の多くも城から逃げ、城内は、少しずつ静けさを取り戻していった。

 しんとした人気のない薄暗い路地に、鮮血が、筋になって落ちていた。
 狭い路地を、男がずるずると這っていく。下半身は剥き出しで、股間から血が流れていた。そこには玉があるばかりで、陽物は根本から切り落とされていた。

「……恐ろしい女だった」
 杜微は塀によりかかって体を起こすと、肩で荒い息をついていた。さっきまで耳障りなほど聞こえていた戦の音が、しだいに遠ざかっていく。
 杜微は塀にもたれるように、体を起こした。
 すでに陽は傾いて、空には茜色が差し、路地は昏い。
 どぶ溝の排水口から、ネズミが痩せた顔を出し、また暗がりへ逃げていった。
 杜微は、あたりを見回した。彼には、天性の戦勘がある。自分が生き延びるために働く、嗅覚のようなものだ。
 痛みに朦朧として、あてもなく這ってきたと思ったが、通りの様子に見覚えがある。
 こぎれいな門、欄干のある洒落た建物……もとは彩色があったのが、石灰で白く塗られていた。
「俺の、“古巣”……」
 ここは、以前は酒楼や妓館が並んでいた歓楽街だ。目の前にそびえる三階建ては、明教がくる前は城内でも一番の大店で、百人ちかい妓女を抱えていた。
 彼も、もちろん得意客だった。その頃は、親から引き継いだ鍛冶屋のダンナで、羽振りがよかった。
 しかし、今はかつての賑わいの影もない。明教の戒律は、“飲酒”と“姦淫”を罪悪として厳しく禁じている。この街は、早々に封鎖されたのだ。
 杜微は塀づたいに通りの奥へ進んでいった。一軒の、荒れ果てた家があった。門も塀も、石灰で塗りたくられている。
 杜微が“出家前”に、入り浸っていた娼家だった。門を叩くと、しばらくして、わずかな隙間から女が覗いた。
「俺だ」
「……まさか、あんたなのかい」
「王嬌嬌、会いたかったぜ」
 女は、杜微が馴染みにしていた妓女だった。
 杜微は扉の隙間から、むりやり中に入り込んだ。
 王嬌嬌は、むかしは清渓県一の美妓だった。それが、いまは化粧気もなく、汚れた着物を身につけている。もと妓女たちは“穢れた存在”として明教では最もさげすまれ、ごみ集めや汚物運びといった、最下層の仕事をさせられている。そうなってからは、杜微もここには近づかず、もっぱら光明乙女たちに手をつけていた。
「ひどいかっこうだな、王嬌嬌」
 王嬌嬌は黙って杜微を寝台に寝かせた。そして、体の股間の傷を一瞥すると、声をあげて笑いはじめた。
「笑うな」
 女はけらけらと笑い続けた。
「あんたは、“役立たず”。さんざん悪さをした自慢の逸物もなし、頼りにしていた明教は負けた。いい気味だこと!」
「この売女!」
 杜微は女に飛び掛かろうとしたが、痛みと貧血で足がもつれた。女は笑いながら後ろに下がり、外の廊下に向かって叫んだ。
「みんな、出ておいで!」
 奥の部屋から、女や遣り手婆たちが、紐をもって駆けだしてきた。
「こいつを捕まえたら、大手柄だ。もう、誰にも笑い物になどされないよ!」

 街のあちこちから、火が出ていた。
 風が唸りをあげている。
 西から、次には東から、または同時に、熱い風が吹き抜けていく。
 阮小五は、鐘楼の下で、ひとりの老人を捕らえていた。
“左丞相”婁敏中──方臘陣営の重鎮であるはずの男は、やせ細り、顔色が悪く、猫背で、阮小五の足元でぶるぶると震えていた。
 高い身分を持ちながら、この男を守ろうとする者は、ひとりもなかった。
「立て」
 阮小五は刀を引いた。
 それでも、婁敏中は鐘楼の柱の根本に両手をついて、俯いたまま、立ち上がる気配はなかった。
 弱々しく背中をまるめ、婁敏中は、鐘楼の柱へ震える指を伸ばした。
 鐘楼の柱に、ちいさな枯れ葉がへばりついていた。
 と思ったら──それは、蝶の蛹だった。
 爪の先ほどの、小さな蛹だ。中には、うっすらと羽を畳んだ蝶の形が透けていた。
 その、緑とも茶色ともつかない影を、生命があるとも、ないともいえないモノを、婁敏中は凝視していた。
 妻は、蝶が好きだった。
 ある時、戯れにつかまえて、妻に渡した。
 すると、妻は礼を言って、すぐに蝶を逃がしてしまった。
“蝶のいのちは儚いもの、それでも、せいいっぱい生きているから”
 ささやかな蝶の命を憐れんだ妻が、無残に飢死した。
 一碗の、粥もなく。
 だれが、彼女の命を憐れんだだろう。
 髪は抜け落ち、目は落ち窪み、骨と皮ばかりになって、その死体は、死んだ蝶のように美しくもなかった。
「殺してくれ」
 婁敏中は哀願するように言った。
「殺してくれ──わしはもう、なにも見たくない」
「立て!」
 阮小五は、声をあげた。
「宋江さんに会え」
 阮小五は婁敏中の襟を掴み、荒々しく引き起した。
「そして、宋江さんがなんと言うか──」
 阮小五は、腹に鋭い痛みを感じた。
 見ると、婁敏中の手に小刀が握られて、それが腹に刺さっていた。

「お、おい……」

 阮小五の体が、地面に崩れた。
 婁敏中は、ふらふらと立ち上がった。使ったのは、彼自身が死ぬための、毒を塗った自害用の小刀だった。
 倒れた阮小五の目が、彼を見ていた。
 婁敏中は、一瞬、救おうとするように手を伸ばしかけた。
 自分が、重大な過失を犯した予感がした。
 しかし、その腕は中空で止まり、力なく、膝に落ちた。

 その頃には、城内はほぼ鎮圧され、消火も始まっていた。
 武松は、街路に倒れたままだった。立ち上がる力も、気力もない。すでに自分の体がなくなり、死んでいるような気さえした。
 兄が死に、金蓮が死に、施恩も楊志もみな死んだ。このうえ、自分が死んでも、それほどたいした意味はない。
 足音が近づいてくる。
 目を開けると、宋江が立っていた。
「──宋江兄貴」
 武松は思わず手を伸ばした。
 右腕は──ちゃんとあった。

 西門周辺の光景は、凄惨だった。敵と味方の死傷者で溢れている。
 死傷者は、方臘軍の兵よりも住民の方が多かった。
 関勝とともに後から東門に急行した戴宗が帰ってきて、手遅れだったことを告げた。
「奴らは、馬車と住民をおとりにして俺たちを西門に集め、まんまと東から脱出した。生き残った金吾兵の殆ども、東門から逃げたようだ」
 戴宗が、悔しそうに言った。

 負傷者の救護を蒋敬にまかせ、宋江と盧俊義は、西門から、街の中央にある役所の方に向かった。
 途上には、明教徒たちが集まっていた。彼らの白衣は土に汚れるか、血にまみれるかして、いずれも異様な風体だった。人々は、盧俊義を遠巻きにした。
「あなた様は、ほんとうに方聖公様ですか」
 盧俊義は、人々の真剣な顔を見渡した。
 そして、やはり真剣な顔で首を振った。彼は豪放な性格だ。しかし、溺れる者が、今しもなんとか掴もうとしている縄を平気で断つほど、薄情な人間ではない。
「わしは明教徒ではないが、嘘は好かん。残念ながら、わしは方臘ではない」
「ええっ」
「本物の方臘は、お前たちを見捨てて逃げた」
「うそだ!」
「証拠を見せよう」
 盧俊義は懐の小袋から兵糧の残りの干し肉を出し、ばりばりと齧った。
「うまいぞ、食うか」
 人々から悲鳴と、どよめきが洩れた。口々に、聖句を唱える。
「我々の光明清浄世界はどうなるのだ」
 盧俊義は、干し肉をすっかり食べ、袋をしまった。
「安心しろ。死んだら、みな、そんなような所へ行く」
 呆然とする人々を残し、また盧俊義と宋江は歩き始めた。

 蠅と烏が、うるさかった。
 燃える建物は、消火のために凌振が投石機で打ち壊している。その音も、そうとう騒がしい。
 やがて、二人は役所の前に着いた。
 半分焦げた鐘楼の前に、水軍の人だかりがあった。
 宋江たちが近づくと、童威と童猛が道をあけた。人々の輪の中央に、片膝をついた阮小七と、横たわる阮小五の姿があった。
 宋江の足が止まった。
「──見てくれよ、宋江さん」
 阮小七が言った。

「兄貴の顔をさ。たいして、血も出てやしねぇ。まるで、寝ているみたいじゃないか。うっかり、頬っぺたを叩いちまった」
 阮小七は、乾いた声ですこし笑って、立ち上がった。
「おふくろには、内緒だ。兄貴は、賭場だ。賭場にいる……あの世にいるよりマシだろう」
 そして、阮小七は、棺桶を探してくる──と行って、騒々しい街の方へ歩いていった。
 火は次第に衰えつつあり、焦げくさい風が収まると、腐臭が目立った。
 梁山泊軍は城内の鎮圧と消火、負傷者の救護に務める一方、例のように食料や衣服の配給を始めた。
 城内のほぼ半分が焼け落ちて、焦土となっていた。
 朱仝、宋清、孫新が中心となって、城内の何カ所かに配給所が設けられたが、しばらく待っても、集まる住民は一人もなかった。
 清渓県は明教徒の“首都”であり、住民の教化はどこよりも進んでいた。彼らは何年も信じてきた“理想世界”の夢を断たれ、絶望し、呆然としていたのである。
 盧俊義は、宋江とともに役所前に設けられた救護所にいた。
 呉用は接収した役所を本営にして、戦後処理に忙しい。盧俊義はかえって暇になり、救護所の様子を見に来たのだが、ここにも住民の姿はなかった。
「梁山泊軍お得意の炊き出しも、狂信者には効かんか」
 住民たちは生き残ったことを喜ぶことなく、城内は絶望の静寂に包まれていた。
 それでも、炊煙だけはさかんに上がり、解体した建物を薪にした竈は、威勢よく燃えていた。
 露天の厨房では、孫新が炊事兵に率先して料理している。
 孫新はまな板の音も高らかに、すばらしい早業で野菜だの豆腐だのを刻んでいた。彼は、兄の孫立とは別の種類の冷静さをそなえた男である。地“数”の星を持つ男──妻の顧大嫂がなんでも豪快に刻むのに対し、順序よく並んだものを、ひとつ、ふたつと数える如く、野菜は同じ大きさに刻み、豆腐の角を崩さぬよう丁寧に切る。
 手早く切っては鍋に放り込むのは、孫新らしくない、やり方だった。
「なんだなんだ、俺の“おかず”が気に入らねぇのか?」
 そんな独り言も、らしくなかった。
「肉も海鮮もないが、山東の味も悪くないと知らないのか?」
 この戦いで、張青が死んだ。
「干し茸と豆腐の醤油炒めだ。うまいぞ!“梁山泊の料理人”が、腕によりをかけて作ってやる」
 曹正も王定六も死に、朱貴は杭州で死の床についている。
「一軒一軒、出前でもしろって言うのか?」
 孫新は、鉄の杓でガンガンと鍋を叩いた。
「生きている奴は、食いに来い!!」

 李俊が来て、盧俊義に言った。
「鐘衝きの小吏が見ていました、阮小五を殺したのは、婁敏中です」
 宋江は、鐘楼の石段に腰掛けている。歩き疲れた旅人がするように、浅く腰掛け、閑散とした広場を見ていた。
 李俊は、ちらりと宋江を見て、やはり盧俊義に言った。
「婁敏中の死体は、ありません」
「逃げたのか」
「小吏は、憔悴して死人のようになり、街へ彷徨い出て行ったと……おそらく」
「井戸にでも、飛び込んだか」
 婁敏中ならずとも、生き残ったもののなかに自殺者が相次いでいた。助けようとして、かえって殺された梁山泊の兵もいた。
 盧俊義は死体を探すように命じ、宋江の隣に座った。
「同じだな。宋国も、方臘の光明世界とやらも。“国”は、国を愛するものを、真っ先に殺す」
「なぜでしょう」
「国には、心がないからだろう」
 盧俊義は、ふっと息をついた。
「心も、命も、涙もない──孤独だな、人間は」
 自分でも、なぜそんなことを言ったのか不思議だった。
 顧大嫂がやってきて、孫新から食事の入った籠を受取った。
「重湯もおくれ……重湯なら口に入るかもしれないよ」
 顧大嫂らしくない、湿った声だった。顧大嫂は、重傷者の世話をしていた。顧大嫂が籠を提げて帰っていくと、盧俊義も立ち上がった。
「そうだ、朱武を見舞ってやろう。発奮しすぎて、倒れたらしい」
 星空のもとへ、盧俊義はぶらぶらと歩いていった。

 北門では、宋清が救護所の指揮をとっていた。
 門は開け放たれていたが、ここも閑古鳥が鳴いている。宋清は繃帯にする布を切りながら、しきりに門外へ目をやっていた。
 城門の周囲に置かれている篝火の光も届かぬあたりに、人影が倒れていた。
 死んだように横たわっているのは──楊雄だった。
 宋清は遠慮がちに声をかけた。
「だいじょうぶかい、旦那」
「……ああ」
「盧俊義隊は、とっくに全員が入城しましたよ。もう、だれも……帰ってくる人はいないんです」
 空に星が出て、露が降りても、楊雄は起き上がろうとはしなかった。

 いつまでも──夜空を見上げて、そこに横たわっていた。


 暗い通りを、顧大嫂は重い足取りで進んでいった。
 役所裏の燃え残った一角で、負傷者が寝かされている建物が並んでいる。ちいさな廟には、棺桶がずらりと並べられていた。
 顧大嫂はちょっと足を止め、蝋燭がともった中を覗いた。
 ならんでいる柩の中のいくつかには、顧大嫂がよく知っている男たちが冷たくなって眠っていた。
“摸着天”杜遷は、馬に踏まれて背骨が折れ、即死だった。
“鉄臂膊”蔡福は、住民との戦いのなかで死んだ。
“金銭豹子”湯隆の死体は、東門で見つかった。カラタチの茂みのそばで、胸に画戟をうけて息絶えていた。
“出林竜”鄒淵も東門で見つかった。何十頭もの馬に踏まれ、体じゅうの骨が砕けていた。
“催命判官”李立の死体は、南門ちかくの路地裏に倒れていた。たいした傷もなかったが、顔は冥府の鬼のように黒くなっていた。どんなふうに死んだのかは、ついに誰にも分からなかった。
“霹靂火”秦明の柩には、ぼろぼろの軍旗がかけられていた。
 踏みにじられた、南北六星旗。布は破れ、泥にまみれて、糸は色を失っている。しかし、それは、いまだ命の星──南斗の形を止めていた。
“鎮三山”黄信が、柩の前に立っていた。
 彼は二度と翻えらぬ、秦明の軍旗を見つめていた。

 黄信は、今は亡き自分の姉のことではなく、いまの秦明の妻である花宝燕と、二人の幼子のことばかり、考えていた。
 これから、彼女らが、どうやって生きていくのか──と。

 夜になると、山間は冷え、軒下の虫の声が寂しさを募らせた。
 顧大嫂は籠を置いて手を合わせると、またのろのろと歩きだした。隣の屋敷は、重傷の頭領たちが収容されていた。
 顧大嫂は重傷者に重湯を配っていったが、ひとつの小部屋の前で足を止めた。敷居に背中をつけるように、小魚が膝を抱えて座っている。顧大嫂は、扉の隙間からそっと部屋の中を窺った。
 小さな蝋燭が一本だけ灯されたその部屋では、呼延威が死にかけていた。
 枕元には呼延灼がつきそっている。
 椅子に座る呼延灼の両手の中には、冷めた湯の碗が、ずっと握られたままになっていた。
 一人息子が生まれた時も、呼延灼は戦場だった。これほど長く、父と子が一緒にいたことは、梁山泊でもなかったことだ。
 死にゆく若者は、静かに横たわっている。

 その顔は蝋燭の光を浴びて、すでに苦しみの影もなく、内側から穏やかな光を放っているようだった。
 この光が消え去った時、この子は死ぬのだ。
 この子は死ぬ。
 助からない。
 絶望が、呼延灼を打ちのめした。気が狂うほどの絶望だった。
 軍神と呼ばれ、敵に打ち勝ち、あらゆる困難を克服してきた。
 しかし、国を滅ぼすほどの兵力、天をも動かすほどの軍略をもってしても、この、たったひとりの我が子の命を救うことができぬのだ。
 その現実が、呼延灼を打ちのめしていた。
 自分が死ぬより、耐えがたい苦しみだった。
 自分が死ぬほうがましだ──という絶望を、呼延灼は初めて味わったのだ。
 蝋燭が揺れた。
 顔をあげると、呼延威がうっすらと目を開けていた。
 その潤んだ眼差しが、自分を呼んでいるのが分かった。
 呼延灼は、息子を見つめた。言葉は、なにも出なかった。
 数えきれぬ敵を殺し、部下を死なせてきた呼延灼が、たったひとりの息子の死を目前にして、虫けら以下の、無力だった。
 命を投げ出し、敵に勝つことはあっても、我が命を捨てても、この子は死ぬ。
“威”──力で屈伏させることができぬもの。それが、命だ。
 呼延威のまなざしが、ゆっくりと、呼延灼の背後へ動いた。
 蝋燭の光の届かぬところに、裴宣が立っていた。呼延威の眼差しが、寝台に掛けられた自分の剣へ動いた。
「これを……姉に……」
 それが、呼延威の最後の言葉だった。
 夜明けを待たずに、若者は死んだ。
 二十にもならぬ、若さだった。

 顧大嫂は前掛けで涙をぬぐい、そのまま足音もなく扉を離れた。
 呼延威には特に小部屋があたえられたが、ほかのものは大部屋だ。床に布団や筵を敷いて寝かされている。顧大嫂は籠を提げて怪我人のあいだを回り、粥や汁物を配って歩いた。
“一枝花”蔡慶は、瓦礫の下から救いだされた。繃帯を巻かれて横たわり、関鈴が世話をしてやっていた。
“独角竜”鄒潤は、瘤は裂けたが命には別状なかった。瘤の傷は、顧大嫂が針を焼いて塗ってやった。
「さぁ、飯だよ。たくさんお食べ」
 頭に繃帯を巻かれ、鄒潤はうんうんと唸っていた。その半開きになった口へ、顧大嫂は匙で飯を押し込んだ。
「顧ばば……いてぇ、くえねぇよ」
「食べるんだよ!」
 鄒潤の額に、ぽたぽたと涙が落ちた。
「お食べ。あんたの叔父さんも、みんなも、どんなに食べたくても、もう一口も食べられないんだ」
 顧大嫂は鄒潤の汗をふいてやり、おでこをなぜた。その皮膚は、子供のように熱く、しっとりと湿っていた。
「……叔父貴は、なんで見舞いにこないんだ」
「鄒淵は、死んじまったよ。かあいそうに」
 鄒潤は黙って飯を呑み込んだ。その口へ、顧大嫂はまた飯を運んだ。
「でもね、あんたの叔父さんは、最後まで立派に戦った。武器は全部、折れたり、潰れたりして、道端に落ちていた。最後の斧を一本もって、東門で三十人も方臘兵をやっつけたんだ。あの子は、極道者だったけど、最後まで、立派に、戦って死んだ。それだけは、覚えておおき」
「顧ばば……分かった」
「食べたら、行くよ。孫二娘に、重湯を飲ませてやらなくちゃ」
「孫二娘は、生きてるのか」
「ああ」
 顧大嫂は蓋物を手に、隣の部屋へ入っていった。
 孫二娘は、顔全体に繃帯を巻かれ、横たわっていた。繃帯には、まだ赤く血が染みだしている。
 城内の裏路地で発見された時、孫二娘は着物をはがされ、全裸で、その全身を切り刻まれていた。顔には、飛刀が刺さったままになっていた──という。
 顧大嫂は枕元にすわり、匙でゆっくりと重湯をすくった。そして、赤ん坊にするように、孫二娘の唇を湿らせてやった。
「……あたしもね、若い頃に、いちど赤ん坊を生んだんだよ」
 孫二娘の唇はかわき、胸もほとんど動いていなかった。
「ちっちゃな子でねぇ……掌に乗るくらいだった。泣き声もあげられなくてね。あたしはお乳が張るのに、その子は、吸う力がないんだよ。たった三日で、死んじまった」
 顧大嫂は孫二娘の唇に重湯をたらした。重湯は、そのまま、だらだらと孫二娘の顎に流れた。
「あの子は、どこから来て、どこに行ったんだろうねぇ……」

 孫二娘の頬に、ぽとりと熱い涙が流れた。
 そして、孫二娘は、長く長く──体内に残った最期の息を吐き出した。
 眠るように死んでいく孫二娘を、顧大嫂はしっかりと胸に抱きしめた。

 しずかに夜明けが始まった。
 清渓県城内の、おくまった通りには、幸い戦いも火事の傷跡もなく、家々は静まりかえっていた。
 火影もなく、人の気配もない。
 あけっばなしになった扉が、風に揺れているだけだ。
 いや──狭い路地の一番奥、つきあたりの一軒に、かすかに人の気配があった。ここにも常夜灯ひとつともっていないが、寝台には若い母親が赤ん坊をしっかりと胸に抱いて眠っていた。
 やはり若い父親は、寝台のふちに腰掛けている。ぼんやりと、部屋の闇に向き合っている。
 この家の、もともとの仕事は細工師だ。こまごまとした“おもちゃ”を作る。布人形、かざぐるま、でんでん太鼓、こまや凧──人気だったのは、虎や馬の木彫に小さな車輪をつけた玩具で、子供が紐を引いて遊ぶ。子供たちはみな喜んだが、明教徒はおもちゃを禁じた。
 妻は、静かな寝息をたてている。
 昼間、隣の馮おばさんが鬼のような形相で“戦い”に誘いに来たが、妻は扉に閂をかけ、子供を抱えて竈に隠れた。夫にも、出て行くことを許さなかった。
 しずかな夜明けだ──。
(そうだ、礼拝の声がない)
 太陽を讃える、夜明け前の礼拝の声が聞こえない。
 だから──こんなに、静かなのだ。
 馮おばさんも、向かいの金爺さんも、帰ってきた気配はない。
 若い父親は寝つけずに、埃をかぶった作業机の前に座った。竹ひごや、色紙、固くなった糊の間から、作りかけの赤い風車を手に取った。
 ヒナギクのような風車は、まだ羽は半分しかなかったが、息を吹くと、からからと楽しそうに回転した。

 夜が明けた。
 宋江は一晩中、鐘楼の石段に座っていた。夜露を浴びて、袖がしっとりと湿っている。
 竈には、煮詰まった粥が満ちている。
 孫新が、鍋の蓋をあけて、眠そうな顔で水を足した。
「これじゃ、鍋が焦げついちまう。今朝の朝飯に兵隊どもに食わせるか……」
 鍋からゆらゆらと湯気が漂い、暖かく、いい匂いがした。
 呉用がやってきた。彼もまた、ほとんど眠っていなかった。
「──呉用先生」
 宋江は立ち上がり、呉用とともに竈のそばへ歩いていった。
 屋根で、鳥が鳴き始めた。
 どこかで鶏が夜明けを告げる。
 宋江の足に、なにか柔らかいものが触れた。
 見ると、怪我をした野良犬だった。
 野良犬は子犬を連れていた。
 宋江が碗に粥をいれて置いてやると、子犬は宋江を見上げて、黒く濡れた鼻を鳴らした。
 それから、痩せたトラ猫がきた。
 肋骨の浮きでた腹を、宋江の足にすりよせた。一匹に粥をやると、黒やら白やら猫は何匹もやってきた。
 それから、人間の子供が現れた。親にはぐれた子供たちだった。一晩、飢えをがまんしていた孤児たちは、貪るようにおかずを添えた粥を食べた。こぼれた米は、鳩や雀がついばんだ。
 その後で、虐げられた人々が集まってきた。罪人、乞食、売春婦──“光明清浄世界”には行けない者と、蔑まれてきた人々だった。
 最後に、赤ん坊を抱いた母親たち、老父母を背負った息子たちがやってきた。彼らは、まず子供や老人に食べさせ、それから、おずおずと碗を受け取った。
 捕虜の金吾兵が罵った。
「敵の施しを受けるのか、地獄に堕ちるぞ」
 老婆が負けずに罵り返した。
「戦こそ、地獄じゃないか」
 そして、なぜか、一人また一人と笑いだした。まるで祭りのように、人々は大きな声をあげて、笑いはじめた。
 竈に再び火が燃え上がり、鍋が煮え立つ。

 太陽が昇りきるころ、楊雄がひとり、帰ってきた。

 昼ちかくになっても行列は途絶えず、人数はますます増えた。
 清渓県の城内には、たいした食料の備蓄はなく、李俊が運んできた“献上米”が、次々に鍋に消えていった。
 梁山泊軍の今後の兵糧になるはずの米だったが、呉用も口出しはしなかった。
 にぎやかな人々の輪から離れて、ひとりのみすぼらしい老人が立っていた。
 宋江はみずから碗を運んで、放心した老人に手渡した。
「おあがりなさい、暖かい」
 焼け焦げたボロをまとった老人は、驚いたように宋江を見返し、碗を受け取って、足をひきずりながら去っていった。
 赤い風車を握った赤ん坊を連れた夫婦が、晴れやかな顔ですれ違っていく。白い着物を脱ぎ捨て、しまっておいた柄物の晴れ着に着替えていた。
 歩きながら、老人の頬に、いつしか涙が流れていた。
 一碗の粥を手に──こうして、“左丞相”婁敏中は清渓県を出ていった。

 西の城門を、おぼつかない足取りで出て行く。
 だれひとり、そのみじめな老人が婁敏中だと気づくものはいなかった。
 突風に、城壁に立てられていた白旗が、バタバタと倒れた。
 朝日を背に、婁敏中はひとり西郊外の山を登っていった。
 振り返ると、城から炊煙が上がっていた。
 城は、生きていた。
 息づいて、勢いよく湯気を吐き、生命を謳歌していた。
 婁敏中の掌には、鐘楼からとってきた蝶の蛹が、そっと握られていた。
 指先でつまめば潰れてしまう小さな蛹に、婁敏中は、自分が殺した男を重ねた。
 背中を丸め、蛹のようになって死んだ男。兄を殺されたと怒り、罵っていた、あの男の姿こそ──その怒り、悲しみこそ、彼自身の姿ではなかったか。
 婁敏中は、また道を辿っていった。
 疲れ果てたころ、路傍に一本の木が立っていた。高く聳え、立ち枯れた哀れな木だった。
 その木の枝に、婁敏中は蛹をおいた。
 青虫は蛹になり、蛹はやがて蝶になる。
 青虫は死んだように動かなくなって蛹になり、蛹は、その色も黒ずみ、もう死んだものと思ったら、次の日はきれいな蝶になっているのだ。
 虫も人も国も世界も、生まれ変わる前には、いちど姿を失い、死んだように見えるのだろうか。
(ならば、この世界にも、まだ──希望はある)
 婁敏中は、ひとつの大仕事を終えたように、息をつき、肩を落とした。
 枯れ木の梢に朝日があたり、明かりがともったように輝いている。
(ああ、絶望を知るものだけが、希望のすがたを見ることができる)
 方聖公よ──あなたは、それを見るだろうか。
 城に立ちのぼる炊煙を望み、婁敏中は願った。
 人よ、勇気ある人々よ。
 生き延びて、革命を起こしてくれ。
 支配者の姓を変えるのではなく、名もなき我々の名に、この国の名を書き換えてくれ。
 名もなき国土こそ、われらの故郷。百姓の名こそ、われらの国の名。
(その国の姿を、わしは、見ることはできないが……)
 婁敏中は、体温を確かめるように、枯れ木の幹に手を置いた。
 梁山泊──お前たちは、見るだろうか?

 枯れ木で首を吊った婁敏中の遺体が見つかったのは、翌日の午後のことだった。
 その足元に、一輪の花が手向けられている──と見えたのは、生まれたばかりの、小さな白い蝶だった。

 梁山泊軍はわずかな休息のみで、また出陣することになった。
 方臘を追って、このまま幇源洞まで進軍するのである。清渓県の失陥の混乱に乗じて、方臘が帰還して迎撃の体勢を整える前に攻めるのだ。
 無理な作戦であることは、呉用にも分かっている。
「武器、兵糧も乏しい。死傷者が多く、進軍できるものは一万三千余り……しかし、敵もこの戦いで数万の金吾兵を失っている。幇源洞には、おそらく同程度の兵しかいないでしょう。長引けば長引くほど、梁山泊軍にとって不利になります」
 呉用は、そう判断したのである。
 翌日、早暁。元気な者から進軍を開始した。篝火を掲げた兵たちが整列し、宋江も陣頭に立った。
 兵は疲れ、数も少なく、帥字旗も、替天行道旗も、南斗六星旗もない。
 しかし、宋江には見えた。
 そこに、『替天行道』の旗が、百八本の頭領たちの旗が、雄渾に翻っている姿が見えた。
(わたしの身は、血にまみれ、この先になにがあるかも分からない。求めずに、望まずに、ただ、願い、祈り……進もう)
 西門を通り抜ける時、宋江は馬を止めた。
 そして、腰に帯びていた剣をはずして、門にかけた。
 かつて招安を受けた時、天子より下賜された黄金づくりの剣だった。
 その剣を、宋江は清渓県に、すべての死者に、捧げた。
 花栄が、やりきれないような顔をして、宋江を見ていた。
「わたしは行くよ」
 宋江は丸腰のまま、まだ暗い西への道へ踏み出した。
 花栄は追った。少年の日、ともに過ごした、夏と秋──。花栄の人生で、最も眩しい真昼の光。そして、宋江と別れて訪れた冬の寒さを、花栄は襟元に感じて、足を速めた。
「俺をおいていくな」
 旗もなく、剣もなく、宋江はまだ暗い道を進んでいく。
 ひとり行く宋江を、花が太陽を追うように、花栄はどこまでも追いかけるのだ。
 宋江が振り返り、城へ続く道を指さした。
「ほら、花栄──みなが掲げる篝火が、生まれたての星々のようだ」




※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。




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