水滸伝絵巻-graphies-

第百三十回
聖者の敵(四)祝福の鐘

 水が流れる音がする。
 小川だろうか。
 湖だろうか。
 滔々と、果てしなく流れる大河だろうか。
 それとも、自分の内の、血の流れか。
(いや、あれは)
 あれは、“梁山泊”の波の音──。

 扉が開いた。
 部屋の中は、暗かった。
 強い薬草の匂いが鼻腔を襲い、盧俊義は、顔をしかめた。
 薄暗い部屋の奥に寝台があり、小さな男が眠っていた。卓に灯された蝋燭の弱々しい火が、男の顔に死相を浮かび上がらせている。
『──宋江殿です』

 遠くで、誰かが話していた。
『宋江殿は──毒を服んだのです』
(ああ、これは夢だ)
 眠っているのか、宋江はじっと目を閉じ、胸だけが大きく上下している。
 ふいに、その腕が伸び、盧俊義の手を掴んだ。
 見開いた目が、盧俊義を凝視していた。
 夢なのに、得体の知れない恐怖に襲われ、盧俊義は宋江の手を振りほどいた。
「わしは──わしは、帰らねばならん」
 盧俊義は扉の外へ走り出た。

 扉の外は、真っ暗な闇がどこまでも広がっていた。
 なにかにつまずき、立ち止まる。
 足元に、死体が横たわっていた。
 よく知っている顔だった。

(“及時雨”宋江──)
 血を流して死んでいる宋江を、青白い炎が包んだ。
 炎はめらめらと燃え上がり、盧俊義の体をも包み混んだ。天地を覆い、宇宙を覆い、最も巨大なものとなって、やがて、ひとつの形となった。
 それは、燃えさかる紅蓮の炎に包まれて、剣と宝塔を掲げる神の姿であった。

(“托塔天王”!!)
 その瞬間、炎と闇が消え去って、天から黄金の光が降り注いでいた。
 盧俊義は、空を仰いだ。
 降り注ぐ光──その彼方の遙かな天空に、漆黒の星がひとつ見えた。
 星は輝いているはずなのに、漆黒の光を放っていた。
『お前は滅ぼすさだめ──救わんとして滅ぼす宿命の星』

「──だんなさま」
 はっとして目を開くと、燕青が覗き込んでいた。
「小乙、なぜ、ここにいる」

「燕青は、いつもおそばにおります」
「そうだ、そうだった」
 寝室の窓から差し込む朝日が眩しい。いつもの──朝だ。
 しかし、扉の外が妙に騒がしい。大勢の人間が、怒鳴り、喚き、泣き叫んでいる。
「あの声はなんだ」
「ああ、あれは」
 振り返ると、部屋も寝台もどこにもなく、青空に燕が一羽、飛び去った。
 盧俊義は、見知らぬ街の大路に立っていた。
 いかめしい顔の役人が、大勢の人間を数珠つなぎにして、刑場へと連行していく。真っ黒な顔の首切り人が、ざくざくと彼らを殺していた。
「首を斬れ!!」
 声がするたび、人が倒れる。盧俊義は、ぞろぞろと進む行列の、最後の一人をつかまえた。
「待て、どこへ行く」

 尋ねた相手は、金毛の胡人だった。
「お前は、段景住ではないか。銭塘江に落ちて死んだはずではなかったか」
「はい」
 段景住は頷いた。
「あなた、救うため、わたしたちは、みな死にました」
「なにを言う」
 そんなわけがあるか──と叱ろうとすると、段景住の姿は消えて、足元に小さな犬の死骸が横たわっていた。
 見回すと、盧俊義は折り重なる死体の上に立っていた。
 人間もいれば、魔物もいた。竜がいて、何匹もの虎が死んでいた。異形の神、美麗なる魔、金亀、大鵬、翼あるもの、多肢のもの──あらゆる魔神が死に絶えていた。
「これは──なんだ」
 呆然とする盧俊義の頬に、ぽつりと金色の雨粒が落ちた。
 雨の中で顔をあげると、目の前に燃え落ちたはずの聚議庁の門が聳え、大きな扁額がかかっていた。

『天下太平』
 盧俊義の全身が、燃えさかえる憤怒を発した。
「──ふざけるな!!」


 自分の声で目覚めると、盧俊義はひとり、闇の中を馬で駆けていた。
 清渓県外──深夜。
 冷たい風が、顔を叩く。
(いやな夢を見た)
 盧俊義は、清渓県から方臘を追ってきたのだ。馬に任せて走り通しで、いつのまにか馬の背で眠っていたらしい。
 ほんの一瞬のことのはずなのに、ずいぶんと長い夢を見ていた。
 冷え冷えとした山中を、白馬が駆ける。

 すでに道は登りにさしかかり、満天の星空を切り取って、山影がぐんぐん迫る。
“玉麒麟”盧俊義が駆る駿馬は“転山飛”──方臘軍の尚書・王稟の愛馬であった“転山飛”は、その死後、盧俊義を次の主人と認めた。
“転山飛”は、方聖宮への道を知っているのだ。
 振り返ると、背後には白衣の兵が遅れながらも、必死でついてきていた。
 単騎で方臘を追った盧俊義についてきたのは、白衣の騎兵が三十六騎。病に倒れた“豹子頭”林冲の麾下より離れた、決死の白衣兵であった。朱武の咄嗟の判断により、死を厭わぬ白衣兵の中でも特に馬術に優れた者が選ばれていた。
 星空が後ろへ飛び去る。
 盧俊義の脳裏には、いま見た夢が、澱となってこびりついている。
(わしが、宋江殿を殺す)
 星々が生き物のように瞬いていた。
(救おうとして──梁山泊を滅ぼすだと?)
 盧俊義は笑った。怒りを含んだ笑いだった。
 道の彼方に、白い影が見えた。
 清渓県より逃げた方臘軍の敗残兵だ。
 彼らを打ち破り、盧俊義はさらに方臘を追った。
 夜の月下を駆け、暁の雲の下を駆けた。方臘兵との戦いと、険峻な山に阻まれ、白衣兵はひとり、またひとりと倒れていった。
 そして、夜明け。
 山中を行く方臘の一行を、彼方の峰に捕らえた。
 この時、はじめて盧俊義は声を発した。
「飛べ!“転山飛”!!」
 朝日が、山を染めていた。

 どことなく、沈んだ色の空だった。
 青みを帯びた、灰色の薄い雲が、高くもなく、低くもなく、どこまでも平坦に広がっている。
 東京の空は、いつもこうだ。
 そこにあるのに、ないと同じだ。
 その空を切り裂いて、鳥の影が、黒く、飛び去る。
 一瞬で消えた鳥の影を目で追うと、湿った風に、花が香った。
 見上げると、星の形の白い花がいくつか、“鉄叫子”楽和の艶やかな額に零れた。

 そこは、江南の森に模された広大な庭園だった。自然に見せて、周到に計算しつくされた人造の森林である。
 杏の並木、竹の林、季節ごとに様々な花を咲かせる花壇。それらを巡る散策路が敷かれ、岩を積んで潭に作った池があり、草地には小川が流れている。
 池には鯉が泳ぎ、森では小鳥がさえずっている。
 すべてが余りに完璧で、調和しており、人間が入り込む余地がなかった。
 ここは、東京開封──王都尉こと王晋卿の大邸宅のなかに作られた、贅を尽くした庭園なのだ。
 この人工の桃源郷のなかで、ひとつだけ調和からはずれた存在が銀木犀だった。
 あとから植えられたのか、小川にかかる石橋の傍らに、ひどく頼りなく立っている。やや傾いた華奢な姿は、寂しげな少女を思わせた。
 今しも満開の花をつけているのに、香りも淡い。その微香をとらえるためか、橋のほとりには小さな亭が建てられている。
 そのひんやりとした石の腰掛けに、楽和は独り、座っていた。
 うんざりするほど美しい庭園の中で、この木は、遅れて宴席に来た客人のようだ。居心地悪そうに佇んでいる。
(僕もさ)
 楽和は微笑み、強張った胸に銀木犀の香りを吸い込んだ。
 長いこと──梁山泊と別れて東京に残ってから、彼は、息をするのも忘れていたのだ。
 穏やかな呼吸を何度か繰り返すと、かすかな水音が聞こえてきた。
 花が香り、小川が流れる。
 楽和は音符が弾けるのを感じた。音が空気の中で跳ねまわり、花にたわむれ、風にたゆたう。
 そっと目を閉じた楽和の喉から、とぎれとぎれの調べが洩れた。
 小鳥の囀り、せせらぎ、降る花の音──やがてそれらは一つに溶け合い、歌声となった。

 玲瓏と響く、“鉄叫子”楽和の歌声だった。故郷の登州の空、長い旅路、賑やかな人々の笑い声、湖の青──長江のほとりの琵琶の曲。楽和の悽愴として美しい歌声に、鳥も囀りをやめ、小川も声をひそめた。
 歌ううち、楽和はなぜか涙が浮かんだ。そして、急に歌をやめ、また不機嫌にふさぎ込んだ。
 目を開くと、石橋を王都尉が渡ってくるのが見えた。
「もう、おしまいか」
 王都尉は、従者に籠に入れた茶器一式を持たせていた。
 梁山泊を離れた楽和は、今は王都尉の屋敷でお抱え歌手──というよりも、寵姫のごとく厚遇されていた。
「川べりは風が冷たい。喉を痛めてはいかん」
 従者が官窯の茶器に濃厚な芳香を放つ茶を注いだ。
「花梨の蜜茶でございます」
 容貌のいい若い従者で、どことなく燕青を思い出させた。
「どうも」
 楽和は茶を受け取って、一口啜った。甘かった。
 王都尉は、最近には珍しく機嫌が良いようだった。もっとも、この狷介な“天子の親友”は、それを露わにしたりはしない。わずかに、口が軽くなるだけだ。
「東京の暮しも、悪くなかろう。暢気に好きなを歌っていられる」
「籠の鳥と、野の鳥は、同じ歌を歌いますか?」
「わしに皮肉は通じぬ」
 王都尉は楽和の向かいに腰掛けた。
「わしは、籠の中でも、野の歌を忘れない鳥こそ愛しているのだ」
 楽和は、もう一口、茶を飲んだ。今度は、すこし苦みを感じた。
「もう一節、聞かせてはもらえぬかね」
「いやです」
「ただとは言わん」
 王都尉は、石卓に一冊の書物を置いた。表題もない、手書きのものだ。
「これは?」
「聞“探花”が最近、嫁をとったので祝いを送った。返礼に、これを寄越した」
 伸ばした楽和の指先から、王都尉は素早く書物を抜き取った。
「欲しいかね?」
 楽和は、空を見た。
 灰色の雲は、やはり、そこにあるのか、ないのか──漠然と広がっている。
(いっそ、雨でも降ればいいのに)

 楽和は、色街ぎらいの王都尉のために、燕青から教わった思い切り婀娜な艶歌を嫌がらせに一節歌うと、書物を抱いて厩へ向かった。
 かって、梁山泊を窮地に陥れた“今子房”──“探花”聞煥章は、田舎に隠棲していても、全国に耳と目を持っている。書物には、彼が得た方臘戦線の情報が記されていた。
 もともと、楽和が王都尉にねだっていたものだ。
 東京にいる彼らには、梁山泊軍の様子がまるで分からない。
(連戦戦勝──とは聞いているけど、朝廷の情報は嘘ばかりだ)
 厩では、“紫髯伯”皇甫端が馬を診察していた。
 東京に止め置かれた梁山泊の者たちは、自由な行動は制限されている。外出には監視もつく。皇甫端は月に一度、王都尉の自慢の名馬を検診にくる。皇甫端についた監視は、屋敷の中までは入れない。王都尉が許さないからだ。
「それで、戦況は」
 皇甫端は馬の鼻を撫ぜている。
 彼らと馬しかいない厩の中で、楽和は急いで書物をめくった。
「どうやら、僕は、挽歌を歌わなければならないみたいだ」
「見せてみろ」
 皇甫端も書物をめくった。情報は、杭州戦までだ。梁山泊の死者の名も、いくつか書き留めてあった。
「皇甫先生、僕たちに出来ることは、ないんだろうか」
 楽和の声には、すでに挽歌の翳りがあった。
 皇甫端はなにも言わず、書物を楽和に返した。その間から、書き付け落ちた。楽和が拾い上げると、見慣れぬ文字が並んでいた。
 皇甫端は書き付けを覗き込んだ。
「あの秀才め、わしの国の言葉もできるらしいな」
「これは?」
「人に見られるのを憚ったのだろう。わしが見ることまでお見通しとは、やはりおそろしい奴だ」
「だから、これはなんなんです」
 楽和は文字の並ぶ紙を手に、皇甫端の顔を見上げた。
「これはな」
 皇甫端の目が、書き付けの上を素早く走った。
「“名簿”、だ」


「金さんが、おじいさまの新しい印と、先生が注文したって本を届けてきたよ」
“聖手書生”蕭譲の書斎に、蔡京の孫たちが駆け込んできた。
 宰相・蔡京の邸宅は人が多く、賑やかだ。静謐を愛する蕭譲の離れも、例外ではない。多くの子供たちが出入りして、もっとも活気があるかもしれない。
「すごく重いぞ、肩が挫けそうだ!」
 子供たちは争うように書物の入った箱を担ぎ、机に置く間も惜しそうに、蓋を開いた。蓋には、“玉臂匠”金大堅が自らのために彫った封印を押した紙が貼られていたが、元気な御曹司たちは構わずにびりびりと破いてしまった。
「箱いっぱいに本が入ってるよ。おもしろい本はあるかなぁ」
 蕭譲は咎めなかった。
 蔡家の大人たちは政争と蓄財に奔走して、彼らのような生き生きとした活気はない。蕭譲は穏やかに袖を払って、好奇心いっぱいの子供たちを箱の前からどかせた。
「先生に見せてごらん。金大堅おじさんは?」
「帰ったよ」
 蕭譲は箱の本を取り上げた。上の方には、子供向けの簡単な読本が詰めてある。挿絵の多い物語本で、蕭譲が子供たちの勉強のために頼んだものだ。蕭譲は本を子供たちに一冊ずつ渡してやった。
「どうだろう、読めるかな」
「隋唐だ! もちろん読めるさ。“通り賃を払わない奴は、程塞主の斧を喰らえ!”」
「僕のは史記だよ」
「あっ、兄さん、僕の列仙伝と取り替えておくれ」
「だめだめ、僕は荊軻の話が読みたいんだ」
 蕭譲は、窓辺の椅子に座って史記を読み始めた子供に歩み寄った。年長の、蔡家では珍しく胆力のある子供だった。

「おつかいを頼んでいいかな」

 礬楼街にある料亭で、安道全は昼から酒を飲んでいた。
 天子のお気に入りだから、安道全は比較的自由に行動できた。病気がちな蔡京は安道全の機嫌を損ねたくないし、すでに安道全も“天子の寵臣”──同類だと思っているのだ。
 安道全は宮中での診察を終えると、街に出て貧民を診てやり、それからぶらぶらと酒を飲みに行く。料亭でかかる芝居を肴に飲むこともあるし、医薬書を相手に静かに飲むこともある。
 今日は、酒器のそばに、一冊の手綴じの本が置いてあった。さきほど、女将から渡されたものである。
「どこかの坊やが、安道全先生にって届けてきましたの」
 安道全は暫く本をめくっていたが、やがて、大儀そうに立ち上がった。店を出て行く安道全を、美人の女将が名残惜しそうに見送った。
「めずらしいこと……お早いお帰り」
 安道全が去った卓には、酒がほぼ手つかずのまま残されていた。

 料亭を出た安道全は、賑やかな通りを抜け、橋を渡り、呼延灼の家の門を叩いた。
 出てきた門番に、渋い顔をして告げた。
「令嬢の具合はどうだ。薬を処方しに来た」
 そのまま奥へ通されたが、出迎えた“令嬢”──呼延灼の長女である剣娘は、いたって壮健だった。
「梁山泊軍の情況は分かりましたか」
 尋ねる剣娘に、安道全は、聞煥章──王都尉──楽和──皇甫端──金大堅──蕭譲──安道全、と監視をくぐり抜けて届けられた“本”を渡した。
「杭州までの次第は分かった。よろしくない」
 剣娘も本をめくった。そして、まず父親の無事を確かめた。しかし、その安堵より、梁山泊で親しくしていた仲間が多く陣没したことに心を痛め、喜ぶ気持ちは浮かばなかった。
「それで、先生。私たちに出来ることはありますの?」
 もちろん、彼らは東京から梁山泊を助けるために、これらの情報を求めていたのだ。
「杭州以後のことは分からんが、梁山泊軍の兵が不足しているのは確かだ。楽和が王都尉から聞いたところによると、最近も童貫からしつこく増援を求める使者が来ていたそうだ」
「それで、増援は?」
「ない」
「分かりました。それで、この“名簿”なのですね」
 剣娘は、書物にはさんであった書き付けを両手に持った。異国の言葉は、皇甫端が翻訳していた。
「あとは、私たちにお任せを」
「監視はどうする。この本を届けるのも、骨を折った」
 呼延家も監視対象である。呼延灼の人質である、剣娘の逃亡を防ぐためだ。しかし、花家と秦家に比べれば、“建国の功臣の家”に対する監視は緩かった。
「御心配なく……みんな、いらっしゃい」
 呼ぶと、六人の侍女が入ってきた。廊下に控える格好で、立ち聞きを防いでいたのだ。みな若く、派手ではないが聡明な顔だちだった。

「彭将軍の娘たちですわ」
 剣娘が紹介した。
 そして、六人に“秘密の任務”を与えると、一番年下の萌児が、しっかりした顔つきで言った。
「あたしたち、うまくできます。孤児の小娘など、朝廷はちっとも警戒していませんから。おつかいに行く小間使いのふりをして、ひとりずつ屋敷を出ます」
「武器はある?」
「父の形見が。韓おじさまのも」
 娘たちは、剣娘から路銀を受け取ると、颯爽と部屋を出て行った。無駄口のひとつも言わないところは、“天目将”彭己の血に間違いなかった。

 娘たちが出て行くと、剣娘は懐から一通の手紙を取り出した。
「杭州から、先生あてに手紙が届いております」
「杭州から。誰からだ、おお、“旱地忽律”朱貴か」
 安道全は手紙を開いた。戦いで混乱する地域を旅してきた手紙は、封筒は汚れ、日付けは、だいぶ前だった。
 剣娘が待ちきれぬ顔で言った。
「杭州からは、なんと?」
 安道全は、手紙から目を上げなかった。
 朱貴の手紙は、梁山泊軍が杭州を落とした直後に書かれたものだ。読みふける安道全の口から、いくつかの薬石の名前が洩れた。
「誰か、病気なのですか」
 やはり安道全には聞こえなかった。
 剣娘は静かに磁州黒絵の急須を持ち上げ、安道全に茶を注いだ。
 窓の外を、鳥が鳴きながら飛んでいく。その黒い影を、目で追った。
「梁山泊軍は、今頃、どこにいるでしょう……威児は、しっかりと働いているかしら」

 呼延威の柩の上には、一本の剣が置かれていた。
 すでに柩の蓋には釘が打たれた。
 その剣に結ばれた赤い房飾りだけが、柩の主である若者の、かすかな生命の名残だった。
 裴宣の剣にも、同じ房飾りが揺れていた。
 若者の名前を、裴宣は自分の帳面に書き入れることができなかった。
 その名は、彼の心に深く刻まれ、血を流し続ける傷跡となったのだ。
 せせらぎの音が聞こえた。
 呼延威の柩は、清渓県郊外を流れる川のほとり、小さな庵に安置されていた。
 この戦が終わった後、いずれ河東にある呼延家代々の墓に埋葬するためである。
 庵は静かで、外を流れる川の音しかしなかった。
 柩の上の剣を取り、裴宣は、深く頭を垂れた。
 庵を出ると、先に出た呼延灼が立っていた。
 その背中は、別人のように痩せて見えた。
 陣営に戻る時も、ただ馬に身を任せ、“軍神”の面影は、どこにもなかった。

「呼延将軍は、休ませたほうがよいだろう」
 朱仝が、独り言のように呟いた。
「“軍神”は、戦場で死ぬとばかり思っていた」
 朱仝に限って皮肉ではないし、驚きというわけでもなかった。
 城門を潜る呼延灼の薄い影を見て、散りゆく花を見るような、寂しさに囚われたのだ。
 朱仝と孫立は連れだって、本営にしている役所から戻ってきたところだった。
 壮健な兵を中心にした宋江軍が先に出発し、残る部隊も休息を終えて、明日には出陣することになっている。本営には童貫らが入り、朱仝たちは残務処理のために官軍との間で不愉快な思いをしてきたところだった。
 結局、増援はなく、補給もなかった。
 孫立は、呼延灼の背中から目をそらした。
「誰だって、戦いたくなどない。安全な家にいて、妻子に囲まれ、平穏な日々を過ごしたい」
 清渓県の街は、まだ戦禍の傷跡が生々しい。建物の多くは焼け、まだ収めきれない死体が辻に倒れていた。
 孫立は、勝てない戦いはしない主義だった。梁山泊に入る契機になった登州牢城襲撃も、梁山泊でした数々の無茶な戦も、ちゃんと“勝ち目”を計算していた。わずかでも、勝算があったのだ。
(しかし、次の戦ばかりは)
 林冲は病が進み、すでに廃人も同然である。起きあがることも、話すこともできない。
 楊雄は高熱にうなされ、眠り続けている。
 彼らの側に、武松が付き添っていた。
 重傷を負った蔡慶は、なんとか命だけは取り留めた。
 鄒潤の瘤からは、まだ血が流れ続けている。鄒淵が残した武器を杖に出陣しようとするのを、孫新が、どうにか止めた。
 宋清と、孫新、顧大嫂夫婦が残って、陣に残る負傷者の世話をすることになっていた。
(呼延灼も戦えないとなれば、損失は大きい)
 しかし、弟夫婦が生き残れば、孫家の血は残るだろう。それも、ひとつの“勝ち目”かもしれない。

 憔悴した呼延灼一行と入れ代わりに、秦明の柩が数人の古参の兵に付き添われ、城門を出て行った。東京の家族のもとに送るのである。
 黄信と李応が、葬列を見送っていた。
 李応は、黄信に声をかけた。
「秦明までいなくなるとは……寂しかろう」
 李応は、黄信の姉が秦明の先妻であり、黄信には、秦明のほかに身寄りはないと知っていた。
 それには答えず、黄信は秦明の柩を送り出した。
「李応殿」
「なにかね」
「梁山泊の石版を覚えていますか。流星が落ちた跡から掘り起こされ、われわれ百八人の名前が記されていた」
 ああ──と、李応は遠い目をした。
「仙人にしか読めぬ奇妙な文字で書かれた板か。あったな」
「我々が運命によって集ったのなら、私は──また百八人が揃って梁山泊に帰れると……心のどこかで、そう思っていたのです」
「そうか……そうだな」
 葬列が遠ざかっていく。
 黄信は見えなくなるまで、それを見ていた。
 百八人で生きて帰れぬのなら、百八人で死ぬのかもしれない。
(ならば、最後まで、戦うだけだ)
 義兄の替わりに──ずっと、その存在を越えれらず、追いかけ続けた人の、替わりに。
 手にした喪門剣に、初秋の風が吹いていた。

 翌日、未明。わずか一日の休養を終え、梁山泊軍後軍は清渓県を後にした。負傷した兵も、歩ける者は加わっていた。

 率いるのは“大刀”関勝である。
 関勝が赤兎馬を駆って出陣していく。黄信が続く。
 朱仝、孫立、裴宣が清渓県を後にして、最後に──呼延灼が、小魚に馬の口を取られて、城門を出て行った。
 いや、“最後”は朱武だった。
 すべての事務を終え、残留する者たちを見舞い、朱武は城門を出て行く戦列の最後尾に加わった。先の戦闘で受けた矢傷が痛んだ。伴う兵も、負傷兵たちである。武器を杖に、それでも共に戦おうとする歩兵たちだ。
 朱武もまた、徒歩であった。
 負傷者と老弱の兵からなる八千ほどの軍は、しめやかに進んだ。歩みは遅く、その流れは干上がりかけた川のように頼りない。
 しかし、前をゆく宋江軍が残した目印があり、迷うことはなかった。
 目印があると、朱武は宋江の無事を確認し、安堵する。
(盧頭領は、無事か)
 朱武は、“玉麒麟”盧俊義のことを思った。
(彼は、どこまで駆けていっただろうか)
 曙の空には、まだ夏の気配が残っていた。

 その日、昼過ぎ、宋江一行は山裾の村を通り掛かった。
 村からは、楽しげな音楽が聞こえていた。喇叭と太鼓の素朴な楽だ。長く、聖句しかなかった世界に、粗削りの賑やかな音楽が、初めて見た虹のように鮮やかだった。
「梁山泊だ!」
 村の門に塗った石灰を洗い流していた人々が声をあげた。
 彼らは梁山泊を待っていたのだ。清渓県が陥落した報は、あっという間に一帯に広がった。“清らかな生活”から解放された村人たちの顔は、疲れていたが、明るかった。
「もう瓜もお祈りも、たくさんだ」
 女たちが焼き餅と肉を盛った笊を、男たちは果実酒の瓶を担いできた。もちろん、量はさほどない。しかし、兵たちはみな、一かけらの肉、一口の酒をありがたく味わった。
 老村長が宋江の前に進み出て、竹皮で包んだ干し肉を捧げた。
「猪を射止めました、わずかですが、“及時雨”の宋江様に」
「ありがとう」
 宋江は、馬上に登った。
 髪を結い上げ花を飾ったり娘たちが、伝統の歌と踊りを始めた。色とりどりの刺繍をした帯や裳が翻る。
「おいらも踊るぞ!」
 李逵が踊りの輪に飛び込んだ。娘たちが笑いさざめいた。
 ここで、一行に追いついてきた者があった。
 乞食の“鶏尾”だ。
 杭州で梁山泊軍と別れた彼は、呉用に頼まれて白勝の柩を南竹寺へ運んだ。そして、阿姜の墓の隣に葬られるのを見届けてから、杭州に戻り、また急いで梁山泊軍を追ってきたのである。
「清渓県についたら、もうお出かけだって言うから、急いで走った」
 呉用が苦労を労うと、“鶏尾”ははきはきと答えた。以前はぼんやりとしていた顔つきが、ずいぶんとしっかりしていた。
「先生の言いつけは、ちゃんとできた。あちこちで、丐幇が助けてくれた。尼寺では、ちいさなお坊さんが、熱心にお経を読んだ」

 歌声に見送られ、人馬の列が動き出す。
「無事にお帰りを」
「お帰りを待っておりますぞ」
 農具や粗末な武器を手に、戦列の最後に加わる若者も何人かいた。
 たった今、燻炉から出されたばかりの干し肉は、宋江の懐で、まだ暖かい。
 歌声は、村が見えなくなるまで続いていた。
「もしも……」
 呉用は花栄と馬を並べ、もう見えぬ村を振り返った。
「もしも、方臘が杭州で叛乱を起こした時、助けることができたら……彼を助け、梁山泊に迎え入れていたら、なにもかも変わっていたでしょう」
「呉先生らしくないことを」
 花栄は首を振った。
「時は、越えることはできん。今は、あの山を越えるだけだ」
 目をあげると、青白い山々が、すぐ近くに見えた。
 梁山泊軍は、進んだ。
 道はしだいに登りとなり、木々に囲まれ、狭くなる。
 やがて、人家は絶え、視界の限りの山となった。
 鋭く聳え立つ峰々は壁となり、この先は“聖地”だ──と、人と山の世界を隔てる。
 李応の馬の口をとり、杜興が進む。
「杜興よ」
「なんでございましょう、旦那様」
「死ぬなよ」
 前を見たまま、杜興は答えた。
「ありがたいお言葉なれど、人は、いつかは死ぬものでございます」
「そんなことは、分かっておる」
 たてがみに、蜂が舞い降り、また飛んでいく。
 空には、白い雲が流れていた。
「それでも、お前は死んではならぬ」

 山は一歩ごとに険しくなる。
 人の歩みを遮ろうと、無情に聳える。
 その山々の狭間の僅かな道を、梁山泊軍は静かに流れる川のように、進んでいった。

 同じ山を、方臘たちは方聖宮へ急いでいた。
 地を這い、岩を攀じ登って、険しい峰を越えていく。
 彼の乗り物である鳳輦は、馬車とともに清渓県に乗り捨ててきた。そこに乗っていた影武者が敵に見抜かれたことは、背後に追手が迫っていることで分かる。
 いくつも山を隔てているが、猛烈な勢いだ。
 それとも、屏風のように連なる峰が生み出す谺が、彼らの咆哮を何倍にも増幅させているのだろうか?
「急げ」
 清渓県を脱出した兵が、金吾軍を中心に三千ほど集まっていた。
 方臘は、彼らの先頭に立っていた。
「急げ。幇源洞に入れば、奴らには何もできない」
 その強靱な体力と気力、執念は、方臘軍一の武力を自負する“大将軍”方杰をして、舌を巻くほどのものだった。
(あの時と同じだ)
 彼の叔父──杭州の大地主、豪商であった方臘は、豪胆で、気前がよく、融通のきかないところはあったが、基本的に愉快な人間だった。しかし、花石綱の禍で全財産を失い、朝廷に強訴しようとして、方一族は“官の敵”となった。
 一族は捕縛を逃れて山に隠れ、“樵”に身をやつして民衆に明教を広めたが、弾圧は更に激しくなり──あの“受難と蜂起の月”がやってきた。
 大弾圧により数千の信徒が殺戮され、方一族も殆どが刑死した。
 そして、杭州の起義。明教徒は武器をとって杭州城を攻め落とし、その勢いで江南一帯を席巻した。
 この一連の戦いの中で、方臘は常に陣頭にいた。
 方杰、百華、登元覚や呂師嚢、石宝を従えて、常に先頭をきって血風の中へ飛び込んだ。
 方臘の背中を追って険しい崖を登りながら、方杰は寒気を感じた。
 あの時は、進んでいた。光に向かって。
 今は、退いている。やはり──光に向かって。
 やがて、一行は吊り橋を渡った。明教徒たちが渡した、深い谷にかかる吊り橋である。ここまでくれば、方聖宮まであと少しだ。
 橋を渡った方杰は、方臘に進言した。
「しばし、ご休憩を。後から追いついてくる兵も待ちたく存じます」
 兵たちは疲れ果てていたし、飢えも耐えがたかった。あたりに木の実が多いのに気づいたのだ。みな楊梅や桑の実を探し集めた。方臘にも捧げたが、方臘は口にしなかった。
 方杰は藪苺の茂みを見つけ、急な斜面を登っていった。手当たり次第に口の中に詰め込むと、汁で顔が血を飲んだようで赤くなった。なお奥へ進むと、枝葉の向こうに雉が見えた。
 明教徒は、人間以外の殺生を禁じられている。方杰は少し雉を見ていたが、すばやく腕を伸ばし、鳥を捉えた。首を折り、懐に入れると、下の方から兵士たちが騒ぐ声がした。
「あれは、仲間か?」
 急いで斜面を滑り降りると、橋の向こうから数人の兵が来るのが見えた。驚くべきことに、先頭の一人は騎馬だった。遅れてついて来る兵は、いずれも白衣だ。
「仲間か」
 方杰は安堵した。岩に座っていた方臘が立ち上がり、吊り橋へ歩み寄った。
「猊下」
 兵たちを迎えるのか──と思ったが、同時に違和感も感じた。その正体を確かめる暇もなく、騎兵たちはどんどん近づいてくる。
「あれは……」
 方臘兵ではない。
 方杰が気づいた時には、盧俊義は吊り橋まで、あと数馬身まで突進していた。
“転山飛”が、橋に向かって岩場を蹴る。
 その一瞬、盧俊義と方臘は、はっきりとお互いの顔を見た。
 盧俊義は、鏡に映った自分を見たような衝撃を受けた。
 方臘もまた、言葉にならない声をあげた。
(お前を待っていた)

 方臘は震えた。
(我が“影の兄弟”──)
“影の兄弟”は、彼と同じ顔をして──炎を噴く麒麟に乗り、悪魔の血で輝く武器を掲げて、炯々と輝く眼差しで──彼を見ている。
「来たれ……!」

 方臘は両手を差し伸べた。
 盧俊義は、槍を手にした。
「お前か!」
 盧俊義は、そこに自分と同じ顔を──“宋江を殺す男”の顔を見たのだ。

「お前が──!!」
 方臘の体を、方杰が背後から抱き留めた。盧俊義が放った槍が足元に突き刺さり、方杰には、盧俊義の顔を見る余裕はなかった。方臘をかばいながら、兵に命じた。
「橋を落とせっ!!」
 すでに準備していた兵が、吊り橋の綱に斧を振り下ろした。
 橋が谷底へ落ちていく。転山飛が後退し、方杰が方臘を引き戻す。
 遠くで、川が流れる音がしていた。
 深い谷底を流れる急流の水音は、崖に反響し、地底から洩れ聞こえる亡者の呻吟のように聞こえた。

 彼方の稜線に、小さく人の姿が見えた。
 しかし、すぐに見えなくなった。
「方臘の一行だろうか」
 遠目のきく花栄が言った。彼さえ、息が切れていた。
「装束が白かったようだ。光ったのは、武器だろう」
 険しい山腹に、花栄は徒歩で立っている。槍を杖に、弓矢を背負い、さらに食料など装備一式を携帯していた。

 山中の隘路を進み、もう半日。山は見渡す限り続いて、視界の果てでは、空と稜線が粥のように融けている。
 その天然の絶景のかたすみに、小さな光が反射した。
 花栄の隣へ、宋江が登ってきた。
「盧俊義殿ならばいいのだが」
 彼らはここまで来る途中で、何人もの方臘兵と梁山泊の白衣兵の死体を見ていた。盧俊義は、今も方臘を追っているのだ。
「追いつけるだろうか」
 宋江の問いに答えたのは、樊瑞だった。
「山間では、隣の尾根が近くに見える。実際の道は、遠い」
 花栄が見たのが、清渓県から脱出した方臘兵だとしても、先行しているはずの盧俊義だとしても、追いつくのは難しい──樊瑞はそう言っていた。
 宋江軍が城を出たのは、彼らよりも半日、遅い。死傷者が多く、兵は疲労し、住民の救恤もあった。その遅れを取り戻すことは不可能だった。
 道も不案内である。
 清渓県で人を探したが、方聖宮には特別な人間しか入れないという。道をよく知る者はおらず、やっと婁敏中の輿担ぎだという無学な人夫をひとり見つけた。
「いつも、道は婁丞相さまが教えてくれる。こっちだ、あっちだ、と。だから、よく覚えてないが、たぶん、こっちだ」
 それでも、途中までは先行する方臘軍の馬の跡や、人が通った形跡があり、ここまで辿り着くことができた。
 ただ、山道があまりに険しく、途中で馬は捨てねばならなかった。
 宋江の顔にも、花栄の額にも大粒の汗が浮いていた。
「呉用先生、大丈夫ですか」
 宋江が呉用を労った。
「馬は、賢い。自分たちで山を下りていくでしょう」
 呉用は、自分より馬の心配をした。宋江の照夜玉獅子、呉用の小獅子は、別れる時に、ひどく啼いた。
 その近くの谷底には、方臘軍の馬たちが落ちて死んでいた。
「かわいそうなことを」
 呉用は立った。
「急ぎましょう。方臘も、必死で逃げている」
 靴には、血がにじんでいた。
 その先、山道はさらに、“道”というのも憚られるほど険峻さを増した。森や岩場の狭間に急勾配の登りと下りを繰り返し、時には、崖に背を擦るようにして進んだ。
 その道も、明教徒たちが拓り開いたものなのか、粗削りな鑿の跡が残っていた。
 足を踏み外して崖から落ちる者、落石に当たる者も多く、兵たちは、気息奄々だった。ただでさえ、装備を背負っての山越えは厳しい。イラクサや草木の刺に苦しめられたし、山蛭が群れている場所もあった。食料は最低限しかなかった。なにより、飲み水が乏しかった。
 夏の終りといえども、日中は暑さが募る。二人にひとつ瓜があったが、あっと言う間に食ってしまった。山中で水を補充する予定だったが、途中にいくつあった湧き水には、いずれも汚物が投げ込まれていた。先を行く方臘軍が、追手を苦しめるためにやった仕業であろう。
 山道を進むのは全身を酷使し、いくらでも汗が出る。
 呉用の水筒も、からだった。
「先生、梅を」
 阮小七が竹皮に包んだ干し梅を差し出した。
 呉用は、自分がまだ、あの灼熱の黄土崗にいるように錯覚した。
 あれほどの若さはなく、晁蓋もいない。“北斗の党”も、公孫勝が去り、劉唐、白勝、阮小二、阮小五が死んで、二人きりだ。
 梁山泊軍の隊列は、山に長く続いている。
 後方で、落石の音がした。
 また、誰かが死んだのだろう。
「先生、梅を食うんだ」
 阮小七は、呉用に最後の一粒の梅を持たせた。
 甲冑も、たいした武器も持たない阮小七は、干し梅を一包み持って来ていた。しかし、それも多く仲間に分けて、これが最後の一粒だった。
 呉用は梅の半分を齧り、我に返った。
「ありがとう、あとは宋江殿に」
 しかし、宋江は、穏やかに断った。
「呉用先生が持っていなさい。あなたは、ひどくお疲れだ」
 宋江は疲れを見せなかった。
 宋江は、自ら先行することを望んだ。みなが、盧俊義本人も含めて、宋江は後発隊に──と求めるなか、頑として譲らなかった。
 何度が足を踏み外しそうになったが、そのたびに李逵が腕を掴んだ。李逵は、宋江から一歩も離れなかった。宋江に越えられないような岩場があれば、背負って登った。
 その李逵も、半日も水を口にしていなかった。
 樊瑞は案内人に水場を尋ねた。
「谷川はないのか。あるいは、滝は」
「そうさな。確か、この先に谷まで下りられるとこが」
 案内人が先に行って、断崖の岩のでっぱりに足をかけた。
「この下に、川が」
 言うなり足元の岩が崩れ、案内人は谷底へ落ちていった。
「ここにも方臘軍の“しかけ”か」
 樊瑞は断崖を見下ろしたが、他に下りられそうな場所はなかった。
 かすかに、水の流れる音だけ聞こえる。
(山に詳しい解珍や解宝がいれば、あるいは身軽な項充や李袞がいれば──)
 彼らは、もういない。
 宋江は、黙ってまた、進み始めた。
 道は急勾配の登り、あるいは絶壁を下る崖を越えて、ゆっくりと、着々と、梁山泊軍は深山へ入っていった。絶壁に掛け渡された吊り橋や、崖に穿たれた杣道があり、綱にすがらなければ歩けないような斜面もあった。
 それらは、道が間違っていないことを教えたが、多くの兵が、滑落や落石により、命を落とした。
 それでも、梁山泊軍は進んだ。
 先を急ごうとする宋江を守り、樊瑞が先頭に立った。
 日は傾きかけていた。
 黄金の光の矢を放つ太陽のもと、山々は威容をもって侵入者を拒んでいる。
 方臘が、この山々の奥に身を隠せば、捉えることは不可能だ。そして、彼はまた信徒を集め、再起する。何度でも──人の心を、滅ぼすまで。
 足を励まし進んでいくと、やがて、落とされた吊り橋に出た。
 呉用は谷を覗き込んだ。幅は、一丈と少しあるだろうか。
「雷横や、陳達なら飛び越えたでしょうに」
 深い谷底は闇に沈み、滔々と流れる水音だけが聞こえてくる。
 その音が、さらに人々の乾きを募らせた。
 呉用が、かすれる息で言った。
「休みましょう。これほど疲れては、方聖宮に辿り着いても、戦えない」
 戴宗が命令を後方へ伝え、山中に繋がる人の流れが、ゆっくりと止まっていく。
 樊瑞は、天を仰いだ。
 山は、人を拒む牙だ。
 意に沿わぬ者の侵入を拒んでいる。
 その天空に夕日は燦然と黄金の光を放ち、後方には、疲れ、渇ききった人々の群が、長く列を作っている。
 樊瑞は、無情の風を吸い込んだ。
「恵みの雨でも──降らないか」

 柴進と金芝公主が住む星の宮に、侍女の銀泉が駆け込んできた。
「猊下がお戻りになりました、いま露払いの使者が大石門に着いたそうです」
 窓辺で小鳥と戯れていた公主が、怯えた瞳で顔を上げた。
「清渓県は?」
 答えのないのが、忠実な光明乙女、銀泉の返答だった。
 柴進が代わりに答えた。
「落ちたのだな。猊下は、撤退してこられたのだ」
 公主は小鳥を空に放つと、柴進の袖にすがった。
「敵は、もう近くに来ているの?」
「私が行って見てこよう。あなたは、銀泉と宮にいなさい」
 柴進は、すぐに雲璧──ともに方聖宮に潜入している燕青を伴い、大石門に向かった。
 山中に隠された秘宮である方聖宮の“正門”である。普段は巨岩で塞がれている。
 すでに百華と、配下の百華兵たちが集まっていた。取り囲まれている傷だらけの金吾兵が使者であろう。公主の夫である柴進を見つけ、恭しく膝を折った。
「猊下は間もなくお着きになります」
 すでに大石門は半分が開かれていた。燕青が百華に尋ねた。
「敵の姿は?」
「後方の山に、追手の気配が」
 百華は冷静に答えたが、美しい眉がいつにも増して険しかった。
「しかし、まだ敵は遠い。猊下が入られたら、大石門を閉ざし、迎撃する」
「分かった、任せよう」
 燕青は油断なく門周辺の様子を窺い、頭に入れると、柴進とともに、大石門を遠くに見渡せる場所まで下った。
 燕青は、あたりに人がいないのを確かめ、切り出した。
「いま門を奪って、方臘を締め出してしまえば……」
「できるのかね?」
 柴進の表情は変わらない。
 それは、燕青も何度も悩んだことだ。浮草が波間に漂うように、繰り返し考えた。
 門を護るのは、百華と光明乙女たち──彼女たちと、戦えるのか。
 百華と戦い、乙女たちを傷つけ、殺すことができるのか?
 柴進の結論は、とうに出ている。
 嵐に慣れた“小旋風”は、何度も同じ問いを繰り返さない。
「我々の利点を思い出せ。それは、“ここ”にいることだ」
 百華の声が響いた。
「猊下のご帰還!!」
 燕青は、息をついた。
 自分の心を落ち着かせ、大石門を遥かに、眺めた。
「考えていることがあるんです」
「なんだね」

「方臘だけを捕らえ、ほかの皆は助けたい」
 ほかの皆──という言葉の中に、柴進は、ひどく切ないものを感じた。
 燕青も、娘たちも、寄る辺ない孤児──運命が、“主”を与えた。
「どうやって助ける、小乙」
「分からないが……きっと、宋江殿もそう思っている」
「そうだな」
 関門に、白い姿が見えた。
“方聖公”──方臘。
 すぐ後に方杰がいて、金吾兵たちが続いている。
 乙女たちが歌っていた。
 太陽への明るい讃歌だ。
 方臘が無事に帰還したことを、天の光に感謝している。
 清らかな歌声を聞きながら、柴進は確認した。
「ほかに脱出する道は?」
 燕青は淡々と答えた。
「調べ尽くしましたが、ありません」
 燕青はあらゆる場所を調べた。方杰や光明乙女たち、百華からも巧みに情報を得た。
 結論は、方聖宮から出入りする道は、この“大石門”だけだ。
 外敵の侵入を防ぐために、方聖宮はそのように建造されたのだ。
「では──彼を、迎えに行こう」
 柴進は門に向かって踏み出した。
「私に、策がある」
 その言葉は、燕青が聞き取れぬほど、ひそやかだった。
 空には、まだ太陽がある。
 不動の峰々の上を、太陽は悠然と航行している。
 目には、はっきりと映らない。しかし、気づけば、その位置を変えて一日を動かし、季節を変える。
 燕青は、光明峰に沈みゆく夕日を仰いだ。

 この光は、今日という日の、最後を彩る輝きだ。
(おかえり、方聖公)
 ここは明教の安住の地だ。
 あなたの聖地だ。理想の世界だ。
 この門を閉じているかぎり──逃げる場所は、どこにも、ない。



※文中の「彭己」は、正しくは彭己です。
※文中の「幇源洞」は、正しくは幇源洞です。
※文中の「登元覚」は、正しくは登元覚です。




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