水滸伝絵巻-graphies-

第百三十一回
及時雨(三)世界のはじまりの光

 山々は夜に沈んだ。
 疲れ果てた人々の流れは止まり、ひとりまたひとりと、岩陰や、木の根もと、休める場所を見つけて眠り込んだ。
 前軍の呉用も、花栄も、いくつかの山を隔てた後軍の関勝も朱武も、果てしない静寂と闇のなかで、しばしの休息についた。
 星だけが空を巡り、天だけが彼らを見守っている
 同じ険しい道を辿っていた者たちは、あるいは微笑み、あるいは苦悶の表情を浮かべて、眠っていた。彼らは、それぞれの夢を見ているのだ。
 宋江の眠りは深く、めったには夢を見ない。
 その夜明け、珍しく夢を見た。
 霧が流れる──。
 その乳色の霧を追い、宋江は草原を歩いていた。
 早朝か、夕方か──霧の向こうから差し込む光が柔らかい。心地よい風に吹かれて歩いていくと、丸みを帯びた梢が繁る大きな木が一本あって、道はその下に続いていた。
 豊かな枝が、微風に歌う。
 木陰に立つと、足元に、霧ではなく、静かな波が打ち寄せていた。
 静かで、満たされ、心地よかった。
 宋江は微笑み──目を開けると、彼方に、星がひとつ輝いていた。

 真夜中すぎ。
 人々の寝息の中から、宋江はそっと起き上がった。
 すぐ横で眠っている李逵を起こさないように立ち、宋江はひとり、真っ暗な道を歩きはじめた。
 青白く浮かび上がる山、巡る星、崖と老松。枝を走る小さな獣の足音と、夜空を翔ける梟の羽ばたきが、聞こえた。
 天空に、巨大な星が輝いていた。
 他の小さき星々を圧倒する光芒を放っている。
 真っ暗な夜空のなかで、ひとつだけ輝く、巨大な星だ。
 まるで、この世界に唯一の光。暗黒の世界を照らす──たったひとつの星だった。
 あたりは暗く、明け方の風は冷たい。
 宋江は、その星に呼ばれ、歩いた。
 道の彼方に、誰かいた。

 白い馬に乗った、背の高い男だった。
 宋江は清渓県で、方臘の顔をはっきりと見なかった。
 しかし、それは方臘だと思った。
「ああ──よかった」
 宋江は踏み出した。
「あなたに、会いたかったのです」
 馬か飛んだ。
 白い馬が飛んで、宋江の隣に着地した。
 宋江は風圧を浴び、足を踏みしめた。風の中に、馬の体温と、濃い汗の匂いがした。
「早起きですな、宋首領」
 馬から下りたのは、盧俊義だった。

 東の峰の切れ目から、夜明けが始まっていた。
 二日目の朝。
 花栄は、引き上げた吊り橋に新しい綱を結びつけ、それを矢につけて放った。対岸の木に刺さった矢を、盧俊義が引き抜く。
 落とされた吊り橋の修繕が始まっていた。
 そうしている間に、後軍が追いついてきた。朱武が杖を手にして、吊り橋のところまでやってきた。宋江と、盧俊義の姿を見て、朱武は疲れた顔に安堵を浮かべた。
「ご無事で」
 朱武は行軍中、倒れた白衣兵たちの死体を見ていた。彼が、盧俊義につけた兵たちだ。盧俊義が方臘を追っているのは分かったが、いつ、盧俊義の死体を見るかと、朱武は生きた心地がしなかった。
 当の盧俊義は、谷の向こうから平然と言った。
「そこをどけ、軍師」
 朱武が何歩か後ろに下ると、“転山飛”は勢いよく谷を飛び越えた。

“転山飛”は、この山で生まれ育った馬である。山中を行くこと、飛ぶがごとし。
「それにして、よくここまで」
 登ってきたものだ──と朱武が驚いていると、“転山飛”は尾で朱武の背をしたたかに打った。
 盧俊義は朱武をたしなめた。
「お前は、“転山飛”を怒らせた。これは、自尊心の高い馬だ。これくらいの山は、なんでもないと憤慨している」
“転山飛”の尾は、さらに盧俊義をも打った。
「こいつは、わしにも怒っている。『飛べ』と言えば、飛んだのに、と怒っているのだ」
 方臘軍が吊り橋を落とした時、盧俊義は、追うのを止めた。この谷は、飛び越えられないと思ったからだ。
「しかし、方臘たちが山の彼方に見えなくなると、こいつは暴れて、谷を飛んだのだ。“昔の仲間”に、置いていかれたと思ったのだろう」
「それで、方臘は」
「それほどの時間ではなかったのだが……追っても、どこにも姿はなかった」
 朱武は肩を落とした。
 宋江は懐から、村でもらった干し肉を出して、みなに配った。たいした量はなかったはずだが、大勢が一口の肉を味わうことができた。
 肉の味は、この仙境のような“聖域”の威圧感に押しつぶされそうになっていた人々の心に、力を与えた。
 この山界も、彼らが生きていた世界の一部──そのやや遠い場所にすぎないのだと、我に返った思いがしたのだ。
 盧俊義は宋江のぶんまで干し肉を食った。
「水はあるかね」
 もう誰も水を持っていなかった。
“転山飛”は、濡れた木の葉を貪っている。
「動物は、人間より、よほど物が見えるな」
 盧俊義も、みなも、草に降りた冷たい朝露をすすった。
 まもなく橋が架けなおされ、梁山泊軍は一人ずつ、注意深く谷を渡った。
 その先には、真新しい人が通った痕跡があった。方臘軍が逃げた跡を辿っていくと、ほどなく、両側の岩が張り出している、天然の門のような場所に出た。手前は少し広くなっている。

「わしも、ここまでは来たのだ」
 盧俊義が言った。道は、そこで完全に途切れていた。周囲には岩壁がそそりたち、どこにも人間が抜けられるような場所はない。
「天佑は、ここまでか」
 宋江は少しも諦めていなかった。
「昨夜、あの峰に星が輝いていた。あれは──巨大な篝火だったかもしれない」
 宋江が西の空を指さした。
 そこには、空に突き出た狼煙台のような鋭い孤峰が聳えていた。
「狂信者は高いところに登りたがる」
 盧俊義は峰を眺めた。どことなく人工的な匂いがした。
「あれが“方聖宮”かもしれん」
 朱武と呉用が相談をはじめた。
「八卦陣、青石峪のことを思い起こせば、道は隠されて、どこかにあるはず」
「いくら山が険しくとも、人が登れる場所には限りがある。天に登れるわけではない。なにか、手がかりがあるはずです」
 朱武と呉用は周辺の地形を詳細に調べ始めた。“鶏尾”も真似をして、あちこちと覗き込む。杭州で呉用に“大切な用事”を頼まれてから、“鶏尾”は心の中で呉用を“ご主人”と思っているのだ。
 あたりでは、兵士たちが賑やかに騒ぎだしていた。一晩休んだところに、また休憩だ。元気を取り戻したものたちが、山に入って食い物を探し始めた。
 季節は夏の終り、秋のはじめで、きのこや草の実、食べられるものが何かとある。
“鶏尾”は詳しかった。岩場を調べる呉用たちのそばで、自分も食える野草を探しはじめた。
「こいつは、“コジキイチゴ”だ。食えるけど、中味はスカスカだ」
 朱武は峰との間の尾根の様子から、だいたいの方角を割り出していた。
「あの峰に通じるとすれば、方角的にはこのあたりなのだが」
 大きな岩盤が剥き出しになっており、道はない。
“鶏尾”が岩場にからんでいる野葡萄をみつけ、いくらか摘んで呉用のところに持ってきた。
「食ってみなよ、あまいから」
“鶏尾”が言う通り、野葡萄は甘く、果汁が乾いた喉を潤した。
「宋江殿たちにも、摘んであげてください」
「いいよ。たくさんあるよ。方臘兵も喰ったんだな、食いかすが落ちてる」
 李逵も喜んで後をついていった。
「おいらが登るぞ!」
 李逵は山葡萄の蔓を掴んで、岩盤をよじのぼりはじめた。人の手が届かないあたりに、黒い実がたわわに熟していた。
「いちばんでかいのを、宋江兄貴にとってやる」
「足場に気をつけてな、ほら、揺れてるよ」
“鶏尾”が声をかけた時だった。
 李逵が踏みしめた岩が動いて、隙間から、さっと冷たい風が噴き出した。その奥は、空洞だった。
 巨大な岩盤は、仕掛けが施された薄い石板にすぎなかったのだ。

 その日、方聖宮では朝から軍議がもたれていた。
 前日夕刻、方臘は方杰に守られて方聖宮に辿り着いた。
 ここまで戻れば──と方杰は安堵して兵を休めた。清渓県は失ったが、方臘を護るという責は果たした。金芝公主にも顔が立つ。
 方臘は光明峰に篝火をたいて瞑想に入り、方杰も自分の居室で疲れ果てた体を休めた。
 そして、早朝、百華からの知らせに起こされたのであ。
「敵軍が隧道の向こうまで来ている」
 百華は、配下の百華兵を偵察に出し、その情報を得たのである。
 知らせを受け、謁見の広間に人々が集まってきた。御簾の奥には、方臘の姿もあった。
 かつてこの広間に集った重臣たちは、すでにいない。
 登元覚も、祖士遠も婁敏中もおらず、蒲文英さえいない。収穫が終わった畑の落ち穂のごとく、何人か中級の聖職者が遠慮がちに佇んでいるだけだ。
 自然と方杰は胸を張った。教団の中では、彼は重んじられてこなかった。
(これからは、俺の時代だ)
 彼の“策”は、清渓県で方臘に進言した時と変わっていない。
「方聖宮に続く山中の洞窟は狭く、大軍が一度に通過することはできない。このまま籠城して、全国の信者の来援を待ち、万一、敵軍が大石門まで攻め寄せれば、石や弓の仕掛けを使って撃退する」
 まず難色を示したのは、百華だった。
「できるのか?」
 彼女は、そもそも方杰が清渓県を失い、方臘を危険にさらしたことに腹立っていた。
「来援のめあては? いつまで籠城しているのか? そもそも、撤退の時に、なぜ隧道を封じておかなかったのだ」
「そんな余裕があるか」
 方杰は苛立った。
 実際、ここまで方臘を連れ戻るだけで精一杯だった。清渓県から脱出した金吾兵も、途中で半分が脱落した。
 そこに、さらに百華兵の報告があった。
「敵軍が隧道を越えました」
 方杰は毅然として言った。
「やるしかあるまい。大石門の仕掛けを使おう。巨岩を落とし、連弩を浴びせてやるのだ。一人でも多くの異教徒を道連れに殺してやる」
「しかし」
 方聖公はどうなる、と百華が迷いを見せた時である。沈着な声が響いた。
「短慮ですな」
 方杰はむっとして、声の主の方を睨んだ。
 広間の一隅に立つ公主の隣に、柴進が、いつもの悠然とした顔を見せていた。背後には、腹心の燕青が用心棒のように控えている。
「付馬殿、なんと言われた?」
「短慮と申し上げた。大石門の仕掛けが使えるのは一度きり。その一度で、敵を全滅させることはできない。信徒の援軍が来るより先に、宋国軍が総力を集めて攻めてきたら如何する。無防備となった大石門を奪われないという補償はない」
 百華も同様の疑問を抱いていた。
「そうだ。方聖公だけでも、お守りせねば。敵が来る前に脱出し、さらに西へ」
「どちらも感心しませんな」
 柴進は淡々と続けた。
「玉砕は下策、蒙塵は中策、上策は……」
 静まりかえった謁見の間に、柴進の自信に満ちた声だけが、響いた。
「梁山泊を、味方に引き入れることです」

「冗談はよせ」
「私は山東に長くいて、梁山泊のことはよく聞いている。替天行道、忠義双全の旗を掲げ、もとは宋国と戦っていた“反逆者”なのだ。その首領の宋江は“及時雨”と呼ばれる天下の義人。梁山泊は、明教と同じく、新たな国を創る理想を持っている」
 柴進は、すでに明教徒たちの心理を把握している。
(彼らは、“夢”を見ている。正しければ、自分の理想は実現すると)
 それが、どんな荒唐無稽な“夢”だろうと、信じたいのだ。
 方杰の顔色が変わった。
「できるのだろうか」
「宋江を虜にし、梁山泊と和議をするのだ。そして、東京開封に攻め込み、宋の天子に退位を迫る。宋国軍はすでに死に体、恐るべきは──“梁山泊”のみ」
 その時、御簾のむこうで方臘が口を開いた。
「星がそう告げるのか」
 公主が進み出て、頷いた。
「星がそのように告げております」
 方臘は思い出していた。
“宋江”は、闇にひそむ得体の知れない魔物である。
(しかし、あの男は)
 盧俊義の姿は、光り輝く光背をともなった“自分”であった。
(あの者こそ、わが“影の兄弟”。宋江を殺し、“彼”とともに再起せよと、星々が我に告げているのだ)
「よろしい、そのようにせよ」
 柴進は御簾に向かって頭を垂れた。
 方臘の声が、頭上に響いた。
「しかし──宋江は、殺せ」

 その先は、道も緩やかになり、梁山泊軍の足は速まった。
 進むにつれて、空気が急激に変わっていく。澄みわたり、濃い。一呼吸で、全身に精気が蘇るような空気だった。

 岩肌には千年の松が梢を伸ばし、白雲が峰の間を流れる。鶴が一羽、頂をかすめて飛んでいった。
 呉用は鶴を目で追った。
 まるで仙境──。
 雲海に浮かぶ方聖宮が、どことなく梁山泊のように見えた。
 蒋敬が野葡萄をたくさんもいで、宋江のところへ持ってきた。
「ありがとう」
 宋江が葡萄を受け取ると、蒋敬は自分もいく粒かつまんだ。
「明教では、葡萄はもっとも神聖な果物なのだと教わりました。そうだ、潤州で明教に潜入していた時、葡萄を育てようとしていた娘がいて……名前はなんといっただろう」
 葡萄がはじけて、蒋敬の布衣に赤紫の染みをつくった。
 その染みのせいなのか、潤州の乱戦の中で死んだ陶宗旺の姿が、なぜか急に蘇った。

「陶宗旺は、あの娘の葡萄作りを手伝ってやっていた。奴は、あの娘を助けようとして、死んだのかもしれない」
 何かを抱くようにして死んでいた陶宗旺。
 しかし、腕の中はからっぽだった。
「あの娘が生きていれば……陶宗旺も喜ぶ」
 それならば、陶宗旺の死も、無駄にはならない。
 彼らが──あの、小さな星屑のように純真な娘たちについた、嘘も。
 蒋敬は、宋江に手にしていた残りの葡萄を差し出した。
「葡萄には光が詰まっているそうな……でたらめだとしても、葡萄は美味いですからな」
 宋江は葡萄を受け取った。
 宋江はひとつぶ、葡萄を食べた。そして、すこし後ろにいた盧俊義に、みずみずしい房を差し出し、言った。
「方臘を、救いたい」
 驚いたのは呉用だった。
 梁山泊軍は満身創痍だ。多くの兄弟、兵を失った。この戦とて、勝てる保証はどこにもない。全滅もありえる──のだ。
 盧俊義が、宋江を凝視していた。
 その眼差しに、呉用は不安を感じた。“殺気”に似たものを感じた。
 呉用が何か言うより早く、盧俊義が答えた。
「──分かった」
 答えるのと、前方のなにもないと見えた崖に、“門”が開いた。
「あれは!!」

 大石門に、方臘軍が集結していた。
 金吾軍の残兵、三千。方杰の不満は拭えなかった。
「宋江を捉えて和議になど、本当にできるのか」
 柴進は、方臘から下賜された黄金の甲冑に身を固めている。
「敵は、こちらには大した戦力がないと侮っている。油断して攻め寄せてくるのを待ち、その出鼻を挫くのだ」
 黄金の甲冑は、かつて方臘が杭州で蜂起した時に身につけていた見事な品だ。方杰は、いつか自分が受け継ぐだろうと夢見ていた。
(それを、こんな文弱の徒に)
 戦への不安より、嫉妬が勝った。
(猊下と公主の前で、いい格好をしようというのだ)
 教団の後継者としての地位を築こうというのだろう。それも方杰が狙っていた地位だ。自分は杭州での旗揚げから戦いを主導し、明教の発展に尽くしてきた。何度も命の危険をくぐりぬけ、酒肉も、現世の楽しみも犠牲にした。
(たとえ、この戦に勝っても、負けても、俺は、なにもかも失う)
 教団での地位も、金芝公主も、奪われた敗残者なのだ。
(それでいいのか?)

 百華は、百華兵とともに、光明峰の方臘を守護することになっていた。百華兵たちは、すでに峰に集結している。
 百華は、武装した雲璧──燕青の姿を初めて見て、やや戸惑っていた。
「雲璧、あなた、戦えるの? 本当に」
「あんたに俺の勇姿を見せたかった」
 燕青は、笑わなかった。二人は目を合わせたが、一瞬だった。
「死ぬなよ、百華」

「猊下が生きているかぎり、私も死なない」
「そうだな」
 柴進が燕青を呼んだ。
 石門を開く仕掛けが動き、道を塞いでいた岩が少しずつ動きはじめた。巨大な岩塊を、人力で動かすようになっているのだ。
「迷うな」
 柴進が言ったのは、それだけだった。
 石門がゆっくりと開いていく。
 柴進は、石がぶつかる遠雷にも似た轟きを聞いていた。
 今日で、この美しい世界も終りだ。
 この、虚構の聖域、幻の光明清浄世界。
(そして、偽りの──)
 柴進が振り返ると、後方に控える金吾兵のあいだから、金芝公主が歩み出た。

 柴進と公主は、距離を隔てて、見つめ合った。
 公主は、かすかに微笑んだようだった。その瞳は美しく、底に秘められた想いは、あまりに深くて、柴進さえ読みとれないほどだった。
(人は、自分の行いに責を負わなければならぬ)
 門が開く。
(人の命を左右する地位についた人間は、ことさらに、その身で責任を果たさねばならぬのだ。あなたの父──そして、私も)

 方杰が、公主に声をかけた。侍女の銀泉と、数人の百華兵が公主を守るために残っていた。
「ここは危険だ、宮へ戻ったほうがよい」
「いいえ、見ていたいの」
 柴進を見つめたまま、公主は答えた。
「ご安心を。いざとなったら、俺が援護に出ましょう」
 柴進が背を向けたまま言った。
「手出しは無用だ」
 燕青は軽く笑った。
「“真人不露相”というだろう。簡単に腕前をひけらかす奴は、本物じゃない」
 方杰の顔色が変わった。
「行くぞ!」
 柴進が門から駆けだした。

 方杰は、柴進を冷やかに見送った。
(できるものなら、やってみよ)
「門は半分しか開けるな」
 方杰はそう命じると、金吾兵に後退を命じ、半分だけを門外に出した。
(万が一、付馬殿下がやられても、門は守れる)

 梁山泊軍が隧道を抜けると、その先は岩場の間に直線の道があり、行き止まりが石門だった。一見、なにもないように見える崖に亀裂が生じ、その隙間から方臘軍が現れた。
 先頭にはひとりの将。
 背後に距離をおいて、門を護るように金吾兵が密集して布陣した。
「あれは!!」
 花栄は目がいい。
「あれは……柴大官人!!」

 先頭を来る男は、甲冑を身につけていたが、兜はかぶっていなかった。
「燕青もいる」

 彼らは、方聖宮の潜入に成功したが、今まで、梁山泊軍に連絡をつける手段がなかった。これが、唯一の方法である。
 柴進と燕青は兜をかぶらず、わざと梁山泊軍に自分たちの顔をさらしていた。
 燕青は不安だった。
 もう、何カ月も梁山泊との間の連絡は途絶えているのだ。
(俺たちと知ったら、驚くだろうな)
 柴進は、躊躇なく馬を進める。
 燕青も進んだ。
 そして、彼は見た。山道を登ってくる梁山泊軍を。人々の声が、姿が、その足音が、容赦なく、鮮明に燕青の五感を刺激した。
(ああ、“梁山泊”だ!)
 久しぶりに梁山泊軍の姿を間近に見て、燕青の心は騒いだ。
 旗はないが、たしかに梁山泊軍だ。懐かしい顔を探した。
(だいぶ、ひどいな!)
 顔は風雨にさらされ、武器も装備も汚れている。過酷な戦いを経てきたのだ。
(それでも──“梁山泊”だ)
 燕青は、高らかに名乗りをあげた。
「方聖公が女婿、柯引付馬であるぞ!」

 その声は、はっきりと梁山泊軍まで届いた。
「方臘の女婿?」
 呉用は訝った。朱仝が言った。
「劉光世によると、方臘には娘がいるそうだ」
 呉用と花栄が、同時に宋江に振り向いた。
 無事でいたのは喜ばしいが、彼らからは一度も連絡が来なかった。それが、敵の本拠地で方臘の一族となっていたのだ。
(まさか、本当に寝返ったのでは?)
 二人の疑念は、宋江の顔を見た瞬間に、霧消した。
「花栄、頼みます」
 その顔には、一点の曇りもなかった。
「彼らは、我々が来るのを待っていたのだ」
 宋江の声には、喜びさえ滲んでいた。
「任せろ、宋江」
 花栄は弓矢をとった。

「うまくやったな、“小旋風”。祝いの挨拶だ」
 花栄は開戦を告げる鏑矢をつがえ、弦音高く、柴進に向かって放った。
 燕青は、焦った。
 花栄は容赦なく、いつも通り急所──喉を狙った。“小李広”花栄の矢をかわすなど、通常の者にはできない。
 燕青は飛び出そうした。
 その眼前で、柴進は飛来した矢を槍で横様に打ち落とした。方臘軍から歓声があがった。
「これしきの矢が当たると思うか!」
 柴進の声が響いた。
 花栄が急所を狙ってくるのは、梁山泊の者なら誰でも承知だ。柴進は花栄が朱雁を使わず、李応から借りた弓を持っているの見て、いつも通り急所を狙うと看破したのだ。朱雁ならば、いかな柴進でも防ぎきれない。
「そこな賊将、弓矢を捨て、勝負せよ!」
「たいした役者だ」
 花栄は弓をしまい、槍を手にした。
「これに乗れ」
 盧俊義が“転山飛”を下りて、花栄に渡した。
 柴進は、方臘から下賜された“竜馬”に乗っていた。
 方臘軍の馬は、みな麓の牧場で養っている。その中から、特にすぐれた小馬を選び、山上まで運んで育てる。この“竜馬”、そして“転山飛”もそのうちの一頭なのだ。
 断崖を駆け、谷を跳んで育った馬は、竜の名にふさわしい駿馬である。
 花栄は“転山飛”に飛び乗ると、颯爽と柴進に挑みかかった。
 柴進は黄金の甲冑をつけ、槍を携えている。それは英雄であった彼の祖先、後周世宗・柴栄を髣髴とさせる勇姿である。
 花栄は馬を寄せながら、目顔で久闊を叙した。
(首尾よくいったな、柴大官人)
 戦うふりをして、馬をぶつければ、言葉をかわすことができるだろう。
 幸い、方臘軍とは距離がある。さらに呉用が梁山泊軍に鯨波をあげさせた。方臘軍に聞かれないためである。  花栄は手加減して槍で突き込んだ。戦うふりをして、接近し、言葉をかわすつもりだった。
(怪我をさせてはいかんが、疑われてもまずい)
 梁山泊でも、柴進が武芸の稽古をしているのなどは見たことがない。
 が、花栄の突きは、柴進の槍で鋭くいなされた。一瞬の素早い動きで、花栄は思わず体勢を崩した。続いて、柴進が正面から槍を入れてきた。
(まさか、本気か?)
 柴進の後方に控えた方臘軍から喚声があがる。
 方杰は驚いた。
「いや、敵が弱すぎるのだ」
 花栄は槍を払った。馬が鞍をぶつけるように馳せ違う。柴進が短く言った。
「関勝を出せ」
 花栄は馬首を返して帰陣した。
「“大刀”を呼んでいる」
 すでに関勝が待っていた。関鈴が渡す青龍偃月刀を受取り、転山飛に乗った。
 驚いたのは燕青だった。
(関勝が相手では)
 後方では、方杰も成り行きを見守っている。いいかげんな手合わせをしては、疑われる。
(しかし)
 と、燕青は思った。
 柴進がこれほどの腕を持っているのは、燕青も知らなかった。
 本当に梁山泊のためだろうか。迷いはないのか。
(方臘が負ければ──金芝公主の命も)
 そして、百華も。娘たちも。
 燕青の胸は痛んだ。彼女たちを救うことなど、できるのだろうか。
 関勝と柴進がぶつかった。
 柴進は、はじめから覚悟している。
(これは、梁山泊を救うためだ)
 絶望の淵から彼を救った“梁山泊”──その梁山泊を救うために、自分はすべてを犠牲にするのだ。でなければ、彼のために死んだ数多の“鶏狗”に、名も残さず死んだものたちに、なんの顔向けができるだろう。
 関勝は、これが“武神”と知らない方臘軍から見ても、明らかに手練と分かるだろう。中途半端な戦いをしては、八百長と気づかれる。
 柴進は“鶏狗”を使って戦うことを選び、自らの武芸は、あくまでも心身の鍛練であり、身につけるべき教養の一つだった。稽古をしている姿などを、人に見せたことはない。

「あの男は手強いぞ」
 方杰は勝負の行方を見逃すまいと凝視している。
「“仕掛け”の準備はおこたるな」
 兵士に命じる方杰を、公主が見ていた。
「あなたは行かないの」
「“手出し無用”と言われましたから」
 兵士たちが、投石と連弩の準備を始めてた。
「懐かしくありませんか。初めて我々がこの方聖宮に入った時、ご一緒にこの仕掛けを作るのを見たでしょう」
「あなたが説明してくれたわ。どのように石を落とし、連弩を放つか……」
「俺は、最後までこの門を守ります。門と、あなたを」
 方杰は甲冑の懐から焼いた鳥の腿肉を出すと、戦いを眺めながら悠然と喰らった。
 金吾兵は温存している。
 負ければ、すぐに門を閉めて籠城する。
 方杰は、明教の行く末よりも、ここで柴進が死ぬことを願った。
(安心して死ね、公主は俺が護ってやる)

 戦いは白熱した。

 柴進が関勝に突き込んでいく。
 関勝は青龍偃月刀を大きく回し、柴進の槍の穂先を落とした。すかさず、柴進は剣を抜いた。これにより、二人の距離がぐっと縮んだ。戦いながら、柴進は関勝に告げた。
「方聖宮への入り口は、あの大石門だけだ。門が完全に開き、方臘軍が出るのを待て。いちど開けば、閉じるのに時間がかかる」
 関勝には、それだけで十分だった。
 青龍偃月刀が空を切り、柴進の槍が関勝の胸を突いた。関勝は陣営に戻ると、呉用に言った。
「わざと負け、敗走せよ」
 誰をやるか──見回した時、朱仝が自ら名乗り出た。
「わしが行こう」
 入れ代わりに朱仝が挑み、二人は伯仲した技を矢継ぎ早に交えた。
 見守る両軍も熱気を帯びた。
 見事な戦いぶりだった。朱仝の技は重厚で、柴進の技は華麗である。息もつかせぬ技の応酬が続いた。
 方杰は嫉妬を感じた。
 武は、彼の最後の──唯一の拠り所だった。明教の指導者となる教養もなく、公主も得られず、それでも、武においては方臘軍一と自負していた。
 柴進への歓声が、方杰を絶望へ追い落とした。
(あの男は、あれだけの腕前を持ちながら、それを隠し、陰で自分を笑っていたのだ!) その機を見計らい、朱仝はわざと槍を受けて落馬した。
 逃げていく朱仝を柴進は追った。燕青が続く。
「追撃するぞ!」
 梁山泊軍が後退していく。
「手柄を独り占めにはさせん」
 方杰はあくまで単純な男だった。
 本当に撃退できるかもしれない。もし宋江を捉えることができれば、軍功は一番である。
「全軍で出るぞ!」
 方杰は馬を飛ばした。彼の馬も竜馬である。荒い山道には慣れている。騎馬は、柴進より優れていた。方杰は柴進を追い抜くと、敵を追い、先頭をきって角を曲がった。
「あっ!」
 目に飛び込んできたのは、曲がり角の向こうに密集してひそんでいた敵軍だった。
 梁山泊軍は撤退していなかったのだ。
 すぐ後ろにいた燕青は、心の中で快哉を叫んだ。
(さすが“梁山泊”)
 あれだけの接触で、互いのすべての意思が通じる。
(“梁山泊”以外、誰がこんな芸当ができるだろう)
 梁山泊軍の陣頭には、関勝が立っている。
 関勝が柴進ではなく、すぐ後ろの方杰に向かってきた。
 金吾兵も追いついてきて、乱戦になった。
 方杰は関勝に挑んだ。すぐに花栄が加勢に入った。乱戦なので、矢は使えない。花栄の銀槍が唸りをあげた。青龍偃月刀が舞う。
 方杰は勇戦した。関勝と花栄を相手に、ひるまなかった。しかし、二人の腕前はさきほど、柴進と戦った時とはまるで違う。おかしい──と疑う間もなく、さらに李応と朱仝が方杰に攻めかかった。
 背後からは、梁山泊軍が押し寄せてくる。阮小七と樊瑞が兵たちを先導している。
「押し通れ!!」
 道を埋めつくす梁山泊軍の圧力が、方杰の槍を鈍らせた。
「無理だ、退け!」
 方杰は門に向かって逃げ出した。振り向くと、柴進と燕青が続いて駆けて来るのが見えた。そのすぐ後を、関勝らが追撃してくる。
 方杰は門まで駆け戻ると、兵に命じた。
「石を落とせ!!」
 兵たちは浮足立っている。
「ですが、付馬殿下が」
「かまわん!」
 柴進、燕青を先頭に梁山泊軍が迫る。金吾軍が捨て身の防戦を試みている。
 柴進ごと敵を圧殺し、門を閉じれば、もう暫くは持ち堪えることができる。その間に、公主を連れて、なんとか方聖宮から脱出するのだ。
「石を全部、落とせ!!」
 しかし、動かなかった。
「早く落とせッ」
「仕掛けが動きませ!」
 鉄の車輪を回せば、巨岩が転がり落ちるようになっていた。その車輪を動かす取っ手が壊れ、動かしようがないのだ。
「連弩を!」
 装置を動かそうとした兵が、花栄の矢を浴びて倒れた。
「公主は……!」
 方杰は金芝公主を探したが、その姿はどこにもなかった。壊れた車輪に、黄金の花簪が絡まっているだけだった。
 逃げようとする方杰を、柴進の槍が一突きにした。

「……なぜ」
 方杰の問いに答える者はなく、燕青が刀で止めを刺した。
 門を守ろうとする金吾兵に梁山泊軍が突撃する。
「門を閉めろ」
 誰かが叫んだが、遅かった。

 門を閉じる間もなく、方臘軍は総崩れとなった。
 梁山泊軍が大石門を駆け抜ける。
 道案内には燕青が立っていた。
 その目は、天空に聳え立つ孤峰に据えられている。
 峰に、火が燃えている。
 方臘が瞑想していることを示す、明教徒にとって最も神聖な火だ。
 穢れを浄化し、未来を照らす。
 燕青は戦場を駆け抜け、峰を目指した。
 梁山泊軍の喚声が方聖宮に轟き渡る。
「方臘を捉えろ」
 狂ったような声が渦巻く。
 通い慣れた崖の小道を、燕青は走った。
 あの火が消えれば──新しい、世界が始まる。
 その世界には、彼が愛する人が、人々が、いないのだ。

 百華は光明峰に燃える炎を見上げた。
 山々におそろしい声が谺している。
 方聖宮の清浄は、静寂は破られた。大石門が、奪われたのだ。
「全員、武器をとれ」
 百華は落ち着いた声で、百華兵たちに命じた。
「方聖公をお護りするのだ──命に替えて」

 篝火が燃えている。
 花の散った金木犀の森からも、光明峰の炎が見えた。
 それは洞窟の前に灯された、瞑想のしるしの篝火だ。
 深緑の森の奥には、一株だけ、まだ花をつけている木があった。
 かすかな風に、花が黄金の雨にように降る。
 枝の下には、長く人の歩かぬ小道が、闇の中へと続いていた。
 宝刀を手に、金芝公主はその道を辿っていった。
 彼方の峰に、明々と、白昼の星のごとくに炎が燃える。
 あれは、世界の──最後の光。




※文中の「登元党」は、正しくは登元党です。
※文中の「付馬」は、正しくは付馬です。




back