水滸伝絵巻-graphies-

第百三十回
及時雨(三)道はその樹の下を・前篇

 梁山泊軍は方聖宮に突入した。
 方臘の本拠地、明教の聖地──最後の砦だ。
 関勝、朱仝、孫立、黄信が陣頭にいた。先導するのは、燕青である。彼はこの方聖宮のすべての地理を掌握している。伏兵がいそうな場所も知っていた。
 生き残った金吾兵たちは、最後の突撃を試みては、倒れていった。
 柴進は兵をかき分け、宋江のもとへ急いだ。
「宋江殿、よくぞご無事で」
「よかった、あなたも」
「積もる話は後に──方聖宮にいるのは、金吾兵のほかは、一般の信徒と百華兵、娘たちだけだ」
「方臘は」
「宮殿の謁見の間だろう。あの光明峰に通じている」
 岩山を穿って建設された方聖宮を見下ろすように、高々と掲げられた篝火にも似た孤峰が聳え立っている。
 梁山泊軍が目指してきた峰である。
「方臘に会わなければ」
 宋江は宮殿に向かって前進した。呉用、花栄、李逵が宋江の周囲を守っていた。
 関勝、朱仝らを先鋒に配置したのは、金吾兵を突破したあと、信徒と娘たちを無闇に殺さないためである。清渓県の惨劇を繰り返したくないと、梁山泊の誰もが思っている。
 それでも、花栄は半信半疑だ。
「そうできればいいが」
 明教徒は、すべてが戦士だ。老人も、子供も戦う。それは宋江も知っている。
 それでも、宋江は──やろうというのだ。
『ひとりも、殺してはならない』

 方聖宮の抵抗は激しかった。もう指揮をとるものはいないが、明教徒たちは地の利を生かして、数人ずつ、あるいは一人で、梁山泊軍を奇襲した。
 投降する者はいなかった。
 黄信の喪門剣は、文字どおり死神の剣である。触れれば、どこまでも斬れる。黄信は戸惑った。
「殺さぬなど、無理だ。こちらがやられる」
 同意しようとした孫立の脳裏には、娘の露華の泣き顔が浮かんでは消えていく。
 梁山泊で別れた一人娘は、ヒヨコが食われるのが可哀相だと隠れて育て、大きな鶏を抱いて登州へ旅立った。
“どんなにお腹がすいても、この子は、絶対に食べないわ”
 孫立は、鞭で金吾兵の鳩尾を打ち据えた。
 金吾兵は悶絶し、血を吐いて地面に倒れた。肋骨を折ったが、生きていた。
 孫立の鞭は、竹節虎眼だ。よくしなり、力加減が伝わりやすい。敵の急所を打ちすえて、骨を折ること、麻痺させることが自在なのだ。

 孫立は向かってくる金吾兵の腕を折り、梁山泊兵と鍔競り合っている金吾兵を背後から打って失神させた。
 そうして、目の前の、救える命を、ひとつずつ救いながら、進んだ。
 敵であろうと、味方であろうと。


 梁山泊の全軍は、方聖宮の中心にある大宮殿へ進路を定めていた。
 王宮は、謁見の間がある建物である。
 ここを巡って、梁山泊軍と明教徒たちの死闘となった。残っているのは、特に敬虔な聖職者たちだ。彼らは殉教の覚悟を決めている。それは、敗北ではなく、喜びなのだ。
 人が死ねば体内の光は解放され、死ねば死ぬほど、宇宙は光輝に満ちていく。
 梁山泊軍は密集した陣形をとり、徐々に進んだ。関勝が陣頭にいて、殿は呼延灼だった。凌振と、小魚が呼延灼に従っている。
 凌振は嘆いた。
「まさか、この“轟天雷”が槍を持つことになろうとは」
 火薬を持たない“轟天雷”は、火砲が撃てない。
「世も末だ!!」
 方聖宮の建物は、岩山と一体化している。どこに敵が潜んでいるか分からない。
 乱戦の中、岩場に伏兵が現れた。壮健な白衣の若者たちだ。殉教の意思かたく、武器を手に梁山泊へ突進してきた。建物に隠れていた四、五百の信者は、梁山泊軍の背後から襲いかかった。
 呼延灼は、手にした鞭を振り上げようとして、一瞬、怯んだ。
 敵は──威児と同じ年頃の若者たちだった。
 小魚が呼延灼と敵の間に飛び込んできた。
「ここは、俺が」
 小魚に突きかかった敵の槍が、呼延灼の鞭の一撃で、ふたつに折れた。
 岩山に築かれた王宮は、不思議な場所だった。美しく、不気味だ。人々の叫び声が、音楽のように反響する。
 梁山泊軍の先頭に、李逵をつれた宋江が追いついてきた。
 王宮の入り口には、信者たちがひしめいている。
 兵士は少なく、殆どが王宮に仕えていた老聖職者や少女だった。頼りない武器を手にして門を守っていた。
 宋江のもとに、蒋敬が駆け寄ってきた。
「王宮内に残っているのは、兵士ではない、だだの、信者だ」
 宋江は頷いて、すぐに裴宣に命じた。
「投降させるよう、みなに伝達を。彼らを、殺してはならない」
 宋江は王宮を見据え、王宮へ登る石の階段を進んでいく。
 花栄と李逵が、両脇にぴったりとついていた。
 柴進と燕青も宋江を追いかけ、門へ進んだ。彼らの姿を見つけた信者たちが、驚いて柴進が呼びかけた。
「なぜ、付馬が敵といっしょに?」
「猊下は投降した、みな投降せよ」
「うそだ」
 明教徒たちが武器をふりあげ、柴進と燕青に迫った。
「二人は我々を裏切ったのだ!」
 群衆の足を止めたのは、盧俊義の一喝だった。
「皆のもの、聞け!!」
 盧俊義は、宋江と信者たちの間に進み出た。信者たちは戸惑った。
「猊下は謁見の間では? なぜここに」
 しかし、その顔は確かに方臘に見えた。
「皆、戦いを止め、武器を捨てよ」
 恐慌と絶望、悲壮感が彼らを襲った。
 これは、方臘が宋国に投降したということではないか。
「猊下、なぜです。彼らは、“闇の魔物”です」
「戦いは終わりだ。みなを救うためなのだ」
 明教徒たちは断末魔の悲鳴をあげた。
 自分たちは、負けたのだ。明教は滅び、方臘は犠牲となって殺される。
「なりません、我々も猊下とともに!!」
 信者たちは門から雪崩を打ち、梁山泊軍へ向かって押し寄せた。
 李逵が飛び出し、素手で信者たちを薙ぎ払った。蒋敬が娘たちを縛り上げていく。童兄弟も駆けつけてきて、信者たちを殴り倒した。
 その喧騒の間を擦りぬけ、燕青と柴進は謁見の間へと向かった。
 朱仝は突っ込んでくる兵を、腕や足を斬って倒した。李応と杜興の飛刀も、兵の動きを封じていく。明教徒たちはばたばたと倒れ、大混乱になった。
 明教徒たちは恐れ戦き、狂乱して、盧俊義の周囲に殺到した。
「お助けを、猊下」
「方聖公よ、お救いください!」
「魔物から!!」
 無数の手が、盧俊義にすがりついた。数えきれぬ無辜の目が、盧俊義を仰ぎ、希求していた。
「方聖公よ!! 我等に、救いを!!」

 盧俊義の目から、光が、消えた。
 救いを求めるものたちが、彼の全身にすがりつき、視界を埋める、数えきれない人々の群れが、叫んでいた。その指が腕に食い込み、足を引き裂く。それは、彼を奈落へと引きずり込もうとする亡者の群れだ。

「わしに、さわるな」
 盧俊義は叫んだ。

「わしは方臘ではない!!」
 その声は群衆には届かない。
 人々の哀れな声だけが、盧俊義の耳に、狂ったように反響していた。
 彼らの苦悩と絶望が、蠢く暗黒の雲となって盧俊義に押し寄せてくる。
“たすけて”
 胸にすがりつく女の顔は、妻の賈瀟湘の顔をしていた。
“たすけておくれ”

 足にすがりついている少年の顔は、“小狗”だった。
 陳橋で殺した──あわれな子供。
“たすけておくれ”

 それなのに、盧俊義は、小狗を殺した。
 救うために。
 盧俊義の髪が逆立ち、体内に燃え盛る炎が噴き上げた。
「黙れ!!」
 盧俊義は剣を抜いた。

「救われたければ、自分で救え!!」
 たけり狂う感情のまま、盧俊義は剣を振り下ろした。斬られた明教徒が、棒切れのように倒れた。明教徒たちは逃げた。悲鳴をあげ、逃げまどい、転んでお互いを踏みつけ、泣き叫んだ。
「お前たちは救われぬ、救われぬのなら殺してやる」
 人波の中に倒れた明教徒たちの上へ、盧俊義は剣を振りかざした。
「これが、救いだ!」
「やめなさい」
 刃の前に、宋江が立っていた。
「どけ!!」

 剣が振り下ろされ、宋江の顔から鮮血が飛び散った。
「てめェ、なにを!!」
 李逵が両手の斧をふりかざし、盧俊義に襲いかかった。
「ぶっ殺してやる!」
 その腕を、宋江が掴んだ。
 宋江の顔は、半分が鮮血で真っ赤に染まっていた。

「わたしは大丈夫です」
「そんなわけあるか! アタマがぱっくりと割れてるぞ!!」
 次々と流れ出る血の中から、宋江は盧俊義を見つめていた。その顔は穏やかで、微笑みさえ浮かべ、瞳の奥は──光も届かない深い闇が満ちていた。
 盧俊義は戦慄した。
「お前は……誰だ」
 盧俊義の剣からは、血が、滴り続けている。
 盧俊義は、顔をあげ、呆然と宋江に向き合った。
「わしは……なにを」
 宋江の唇が、答えようと動きかけて、そのまま宋江は血だまりの中へ崩れ落ちた。
 李逵の絶叫が、方聖宮の空を揺るがせた。
「宋江兄貴が──死んだッ!!」

 燕青は謁見の間へ飛び込んだ。
 がらんとした石の広間には、何人かの光明乙女が、片隅に身を寄せているだけだった。「雲おにいさま」
 安堵の喜びを見せる少女たちに顔をそむけ、燕青は、玉座にかかる幕を払った。
 柴進も謁見の間に辿り着いた。
 燕青は乙女たちに尋ねた。
「猊下は?」
「金芝公主様と光明峰に……百華のおねえさまも」
 燕青は岩壁に刻まれた玉座の窪みに飛び込むと、背後に回った。方臘だけが使う、光明峰の瞑想場に通じる道があるのだ。
 いま、その小さな入口は、落石で封じられていた。

 花栄と呉用は、倒れた宋江のもとへ駆け寄った。
「早く手当を!」
 花栄は宋江の体を抱き起こした。呉用が調べると、頭から目にかけて斬られていた。
「致命傷ではありません。どこか、安全な場所へ」
 そこへ、燕青と柴進が王宮から戻ってきた。方臘はいなかった──と告げるより先に、燕青は宋江に駆け寄った。
「一体、なにがあったんです」
 宋江の傷口を袖で抑えたまま、呉用が答えた。
「盧頭領が、宋江殿を斬ったのです」
「なんだって」
「どこか、治療できる場所は」
 一帯では、まだ梁山泊軍による明教徒の制圧が続いている。燕青はあたりを見回した。
「そうだ、薬草園へ運ぼう。あそこなら薬が手に入る。この奥だ」
 燕青は花栄に手を貸し、宋江を李逵の背中に担ぎあげた。花栄の顔は、険しかった。
「花将軍、盧頭領はどこに」
「知るか!」
 宋江の周囲を守っていた兵たちが、口々に言った。
「さっきまで、そこに突っ立っていた」
「すごい顔で、どこかへ走っていったぞ」
 宋江を薬草園の庵に寝かせ、燕青は再び外に出た。
 盧俊義を取り巻いていた明教徒たちは、ほぼ制圧されていた。盧俊義の姿も、どこにもない。
「旦那様……」
 そこに、方聖宮を偵察して回っていた戴宗が駆けてきた。
「方臘は光明峰だ!」
 戴宗は走りながら、その報を全軍に知らせていた。
「残りの金吾兵が、あの峰の登り口に集結している! 方臘は、光明峰だ!!」

 梁山泊軍は体勢を整え、すでに光明峰へと集まっていた。
 光明峰に到る細い登り道の入り口を、最後の金吾兵が固めていた。数百人が、整然と鉄壁を築いている。
 方臘が瞑想の場に入るのを確かめ、ここを命懸けで封鎖しているのである。方臘の最後の時を守り、あるいは、奇跡が起こる時間を作るためである。
 彼らの向こうに、峰に登っていく道がある。
 燕青が着いた時には、戦闘は始まっていた。
 断崖の間の道を進もうとする者達と、阻もうとする者たちが、激しくぶつかる。燕青は盧俊義を探したが、両軍が入り乱れて、その姿を見つけることはできなかった。
 決死の金吾兵と、勇敢な梁山泊軍の戦いは、壮烈だった。金吾兵には統率するものはない。隊列は崩れ、ばらばらだった。
 岩場は狭く、槍がぶつかる。みな剣や刀を抜いて戦っていた。
 小魚は槍を手に苦戦していた。連環馬軍で育った小魚は、刀剣には習熟していない。みな、自分の戦いに必死で、小魚を顧みるものはない。
 小魚は夢中で槍をふるっていた。相手も必死だ。敵の刀で槍が折れると、残った柄で敵を打った。敵兵は、打たれてもそのまま斬り込んできた。
「剣を使え」

 二本の鞭が、彼我の二人の若者を、左右に分けた。
 呼延灼の鞭が、続けざまに左右の金吾兵の槍をへし折り、剣を砕き、兜ごと殴って昏倒させた。
 そして、道は拓かれた。
 梁山泊軍は関勝に率いられて、岩場に穿たれた急勾配の道を登っていった。
 先頭には、軽弩を手にした燕青がいた。彼は、この道をなんども通った。石像へ行く小道が目に入った。
(この先、“官軍”にあの石像を見られたら、厄介なことになる)
「関将軍、あとはここを真っ直ぐだ。俺は大事な用がある」
 燕青は関勝にそう告げると、石像に到る小道へ向かった。
(待っててくれ、百華!)

 柴進は梁山泊軍とともに道を登っていった。
 視界が急速に高くなる。左手の眼下にひろがる台地には、金木犀の森が広がっている。 呉用と隊列のなかほどにいた柴進の目に、森は海のように見えた。
 深緑の梢の奥に、かすかに星の宮の屋根が透けている。
 森は、静かだ。
 柴進は梁山泊とともに進みながら、峰のふもとに拡がる森へ目をやった。彼が暮らした星の宮は、深緑の木々に隠れて、見えない。
「──逃げ道は?」
 呉用が、光明峰を見上げたまま、柴進に尋ねた。
「……ない。ないはずだ」
 あの峰は、どこにも通じていないと言っていた。
 そう言っていた──金芝公主が。彼の、妻が。
 柴進は、仲間とともに、道を進んだ。
 光明峰へ。
 ほんとうに──これが、最後の戦いなのだ。
 声が響く。みんなの声が。
「この道を──登れ!」

 明教の象徴たる篝火が、洞窟の前に燃えていた。
 それが次第に弱まり、消えて、ひとすじの白煙がたちのぼる。
 洞窟の入り口は、人ひとりがようやく立って入れるほど、狭い。その奥のことは、誰も知らない。
 明教徒が方聖宮に入ってから、誰も見たことがないからだ。方臘のみが入ることのできる、大地の胎内──聖なる洞窟なのである。
 その入り口を、百華兵たちが守っていた。百人ほどの少女たちである。
 彼女たちの美しい瞳は、いずれも静かな覚悟をたたえ、澄んでいる。
 ふもとの方から、毒々しい騒ぎ声が伝わってくると、その透明度は極に達した。
「ごきげんよう、百華のおねえさま。我々は先にまいります」
 乙女たちは、百華に別れを告げ、峰の小道を下っていった。
「清浄な身のまま光となって、またごいっしょに──いつまでも!」
 小道を去っていく百華兵の掲げる武器が、きらきらと光を反射していた。
 洞窟のそばに立つ大樹の下に、百華と金芝公主だけが残った。
 背後に黒い口を開いている洞窟の奥では、ひとり方臘が瞑想していた。
 しかし、その心の中は、嵐のように乱れていた。
(なにも見えぬ!)
 焦り、もがき、苦しんでいた。
(私は摩尼の後を継ぐ預言者だ。それなのに、どれほど瞑想しようとも、なにも見えぬのはなぜだ)
 方臘はさらにかたく目を閉じた。呼吸を静め、自我を消し去り、無となって──摩尼の予言を、星の声を捉えようと足掻いた。
 ただ、無音の闇が広がっているばかりである。
(ああ──だめだ!)
 その時、忽然と、闇に光が閃いた。
 見上げると、額のあたりに、なにかかすかなものが落ちてきた。
(雨?)
 ひとつぶの光を額にうけて、方臘は目覚めた。
 同時に、峰の下から怒濤の声が近づいてくるのを聞いた。
 突如響いた方臘の声に、百華と金芝公主は顔をあげた。
「ここへ来るのだ」
 二人が洞窟に入っていくと、ちいさな灯火だけが燃え、その赤金の光の中に方臘が立っていた。
「──逃げるぞ。私がいれば、明教は何度でも蘇る。方聖宮を脱出し、後日を期す」
 百華が戸惑いを見せた。
「みなを、おいて逃げるのですか」
「そうだ」
 公主が微笑み、昂然と立つ父親のもとへ歩み寄った。
「そのお言葉を待っていましたわ」

 公主の純白の袖がひるがえり、隠し持っていた宝刀が方臘の胸を襲った。
 百華がさえぎり、宝剣を取り上げた。公主は倒れ、方臘は、身じろぎもせず、娘の顔を見据えていた。白い聖衣の胸が裂けて、血が滲んでいた。
「まだ、人の血が流れておいででしたのね」
 公主は虚ろな笑みを浮かべたまま、父親の顔を見上げた。
「世界を救うためと仰って、お母様を見殺しにし、わたくしの弟ひとり、お救いにならなかった。とうに人の血は流れていないものと思っておりました」
「犠牲は必要なのだ。戦わずに、血を流さずに、世界を変えることなどできない」
「犠牲ではなく、わたくしの、家族です」
 公主の声は震えた。
「国にすべてを奪われたと──と、いつも仰っていましたわね。ならば、わたくしも、母も弟も、一族を──すべてを、あなたに奪われました。それでも、わたくしは待っていたのです。もしかしたら、本当に、世界が変わるかもしれないと。でも、いま、はっきりと分かりました。あなたには、新しい世を、光明清浄世界を創ることなどできない。ひとりの家族さえ幸せにできず、自分を信じるものたちを捨てて逃げようとする、あなたには」
「お前は、私を騙していたのか」
「あなたが、わたくしたちを騙したように」
「星の予言は──」
「すべて、嘘です。星の声など、聞こえない」
 公主は、とうに死を覚悟したものの笑みを浮かべた。
 方臘は汚れた聖衣を脱ぎ、瞑想用の白衣に着替えた。
 長く苦行していたはずなのに、方臘の肉体は、鍛え上げられた戦士のように壮健だった。
 敵の声が近づいてくる。
「逃げ道はありません。みな死んで、あなたを助けに来る者たちもおりません」
 哀れみが、涙となって、公主の青白い頬を伝った。
「ご一緒に死にましょう。お母様たちも、きっと許してくださいます。光明清浄世界は、魂のなかにこそ、あるのですわ」
「わしは、諦めぬ」
 方臘は娘に背を向けた。
「百華よ、お前はどうする」
 戦いの声が聞こえた。娘たちの悲鳴が聞こえる。
「私は……行けません。みなと一緒に戦います」
 方臘は、杭州で捕らえられ、朝廷に献上されようとした、自分を救った。
 だから、自分も──同じように虐げられる少女たちを、救おうと思った。
 百華は剣を抜き、方臘を拝して──背を向けた。
「あなたは、私を助けてくれた。だから、私も、あの娘たちを助けることができたのです。あなたが、それを教えてくれた。いま、自分だけ逃げることはできない」
「わしに死ねというのだな?」
 百華は足を止め、洞窟の入り口の木の下に立ちすくんだ。
「わしと共に行け。世界を救うのだ」
「いったい、どこへ、どうやって行くのです」
「道は──ある」
 百華は顔をもたげ、なにか言おうとして、息をのんだ。
 大石門──方聖宮の入り口の方に、新たな喧騒が起こったのを感じ取ったのだ。
「あれは……!」


 その時、梁山泊軍は光明峰の登り道のあちこちで、百華兵たちを相手に戦っていた。
 梁山泊軍は、相手が若い娘ばかりなのに驚いていた。
「さぁ、お嬢さん、刀を捨てるんだ」
「可愛い顔に傷をつけるなよ」
 梁山泊軍は宋江の命令通り、戦うというよりも、敵の動きを封じ、武器を取り上げ、取り押さえていく。娘たちをなるべく傷つけたくなかったが、百華兵たちは、かなりの訓練を積んでいる。
「飛刀を使うぞ、気をつけろ」
 戴宗と時遷は駿足を駆使して、娘たちを翻弄しては、武器を奪った。李応と杜興も加わって、娘たちを縛り上げていく。
 百華兵のひとりが、杜興の手に噛みついた。
 杜興は歯を剥いて笑った。百華兵は悲鳴をあげたが、その声は途中でかき消された。
 それは、おそろしい轟きだった。
 悲鳴と怒号と、嵐か、なにか──獣の声か。あらゆる魔物が解き放たれた咆哮なのか。
 その声は唸りをあげ、こだましながら、方聖宮の入り口から、奥へ、そして光明峰へと近づいてくる。
 やがて、麓に旗が見えた。

『宋』の旗だ。宋江ではない。“梁山泊”に、旗はない。続いて、錦繍に彩られた“枢密使”童貫の旗が見えた。
 杜興は百華兵を抱えたまま、愕然と李応の方を見た。
「旦那様……!!」
「あの“敵”は、厄介だぞ」
 李応の顔が、険しかった。
“官軍”は、清渓県にいたはずの八百よりも数倍に増えていた。それが、濁色の怒濤となって押し寄せてくる。
「二千……いや、それ以上いる!」

 官軍は、梁山泊が苦労して切り開いた道をたどり、すぐ後ろまで来ていた。
 先鋒は王稟と趙譚が率いていた。
 彼らは、梁山泊が“ほぼ勝利”する、この時をじっと待っていたのだ。
 童貫は、兵に担がせた山輿の上に悠然と座っている。方聖宮の空を覆う砂塵を眺め、喧騒を聞きながら、童貫は二人の腹心を間近に呼んだ。
「よいか、よく聞け」
 そして、何事か耳打ちすると、王稟が得意気に相槌を打った。
「さすが枢密。“漁夫の利”とは、最上の利益ですからな」
 趙譚も負けまいと胡麻をすった。
「まさに一石二鳥。目障りな梁山泊軍は気息奄々、方臘討伐の手柄はいただける」
 そう言いつつ、強欲な趙譚の目は、ぬかりなくあたりの建物を吟味していた。石造りの建物は粗末だが、仮にも“王宮”である。
(方臘の財宝があるはずだ、取りはぐれまいぞ)
 実際、攻め込むなり、官軍の兵士による略奪が始まっていた。
 彼らは、方臘の乱鎮圧を確実とみて、近隣の諸城に駐屯していた官軍をかき集めたのである。その中には、劉光世も加わっていた。
「おい、女は」
 止めようとした目の前で、若い明教徒の娘が殺された。王稟が冷笑を浮かべて言った。
「こいつらは、反逆者だ」
 殺した“反逆者”の数が多ければ多いほど、天子は喜び、武功は輝き、史書には華々しく功績が書き残されて、栄光は千載に及ぶのだ。
「明教徒は皆殺しにせよ!」

 方聖宮は、梁山泊軍が突入した時以上の混乱にみまわれた。官軍はあらゆる建物に乱入し、降伏して武装解除されていた明教徒たちに襲いかかった。
 裴宣と蒋敬が止めに入った。
「彼らはもう投降したのだ、無益な殺戮はやめよ」
 王稟の目は、血走っていた。
「反逆者をかばうのか!」
 王稟は剣を引き抜くや、裴宣を袈裟がけに斬った。

 蒋敬の悲鳴が響いた。
「おお、裴宣!!」
 その声は、むなしく戦場の狂乱に呑まれた。
 すでに、方聖宮は大混乱となっていた。
 岩山の宮殿は破壊され、人々は蹂躙された。奪えるものは奪い尽くされ、幾筋もの黒煙が上がっていた。
“方臘を探す”という大義名分のもとに、あらゆる暴虐が許されたのだ。
 梁山泊軍は、投降した明教徒たちの保護に全力を注いだ。
 彼らが身につけている金や玉の聖具や摩尼像は、官兵の格好の獲物だった。それらを守ろうとして、殺された信徒が少なくなかった。
「よせ、手だしするな」
 黄信は朱仝とともに方聖宮をまわり、信徒たちを保護していった。
 趙譚が、率先して略奪を行っていた。
「童枢密の許可がある! 反逆者どもに肩入れする気か」
 神殿の前に、老いた聖職者たちが何人も倒れていた。趙譚の前へ、玉の像や、黄金の祭器、絹の幕などが運ばれてくる。
「抵抗する信者どもは、どんどん殺せ」
 わざと黄信たちの方を見て言った。
「どうせ、死刑になるのだからな。東京まで連れていくのも面倒だ」
 そこに孫立が駆けてきて、叫んだ。
「方臘がいたぞ! あっちだ。王稟将軍が追っている!」
 趙譚の欲深な目が光った。
「方臘! 王稟にひとりじめはさせまいぞ」
 趙譚は部下を引き連れて、孫立が教えた方へ走っていった。
 朱仝が、孫立に尋ねた。
「本当にいたのか?」
「いいや」
 孫立は鞭を振るって、財宝の見張りに残った官兵を殴り倒した。
「今のうちに信徒たちを逃がせ!」

「方臘はどこだ!」
 方聖宮のはずれでも、官軍の罵声が響いていた。童貫が糾合した官軍のうち、辛将軍が率いる軍は精鋭だった。方臘を捕らえ、手柄にしようと逸っている。
「どうする」
 阮小七と童兄弟は、倉庫になっていた建物に、降伏した信者を匿っていた。官軍の虐殺から助け出した人々だ。外では、官軍はしらみ潰しに建物を調べ、信者を殺し、金目のものを奪っている。
「いいものがあったぜ」
 阮小七は棚にあった櫃から、天子の礼服である金色の竜袍を取り出した。黄金に宝石を飾った冕冠もある。
 方臘は呉国を立て、天子を名乗っていた男である。これは、その時にしつらえたか、信者が献上した装束だろう。
「どうだ、にあうか」
 阮小七は方臘の衣装を身につけると、建物から飛び出した。童威と童猛が、四方に叫んだ。
「方臘がいたぞ!!」
 王稟たちが聞きつけたのは、その声であった。
 方臘を捕らえれば、大出世だ。一生、安楽に生活できる。王稟は蒋敬たちを相手にするのをやめ、方臘を血眼で追いかけた。
 阮小七は身軽である。
 建物の間、岩場を、ツバメのように縦横無尽に駆け回り、強欲な官軍どもを翻弄した。
「こっちだ、こっちだ!」
 童兄弟や梁山泊水軍の者たちも、官軍を盛んに煽る。その間に、李応や李俊が信者たちを避難させていく。
 阮小七は宮殿の屋根まで登り、群がる官軍を見下ろした。

「さぁ、拝め! 天子様のおなり!!」

 光明峰の戦いは、終りに近づいていた。
 関勝たちが金吾兵や百家兵を制圧している間に、盧俊義はひとり、光明峰に辿り着いた。
 洞窟の口には木が一本だけ立っている。
 盧俊義は宋江の血に濡れたままの剣を手に、洞窟へ走った。
「わしが方臘を殺す」
 宋江が死ぬ運命ならば、梁山泊が滅びる運命ならば──。
“運命”を、変えてやる。
 宋江を、梁山泊を、救うのだ。
 盧俊義は洞窟に踏み込んだ。人の気配がないのは感じ取っている。壁に穿たれた棚に蝋燭が灯され、そのまわりだけがほのかに見える。
 闇に、地面に座る白衣の人影が浮かんでいた。
 頭から白い布をかぶり、こちらに背を向けて瞑想している。盧俊義の気配にも、身じろぎひとつしなかった。覚悟を決めた人間の静けさに満ち、超然として、闇の中で白銀に輝いていた。
 盧俊義は、無言のまま剣を振り上げた。
 振り下ろすと──確かな手応えがあった。
 盧俊義が剣を引き抜くと、方臘は悲鳴もあげず、前のめりに倒れ、少し、もがいた。
 白布がはだけ、隠れていた人の姿があらわになった。
 盧俊義の眉が、険しく曇った。そこへ、燕青が駆け込んできた。
「百華!」
 燕青は盧俊義を押し退けて、百華を抱き上げた。
「……猊下?」
 百華は盧俊義を見上げ、そのまま燕青の胸に崩れ落ちた。

「身代わりか……」
 盧俊義は茫然と叫んだ。
「では、方臘はどこだ!!」

 燕青は百華を抱いて、峰を離れた。
 血は流れ続けている。
 入り乱れる人のあいだを、あてもなく下りていく燕青に、百華がちいさな声で言った。
「あんたは……どっちの味方なの」
「俺は、あんたの味方だ」
 峰の下に、捕らえられた百華兵たちが集められていた。李応たちは、燕青を見ても、何も見ないふりをした。
 燕青は、百華を路傍におろして、傷の手当をしようとした。血は止まるようすがなかった。
「方臘に命じられたのか」
「私の意思よ」
「くそくらえ」
 百華は笑おうとして、苦しげな息をついた。
「よい世界を作ると、約束してくれた……それを、最後まで、信じたい」
 杭州で蜂起した時の、あの勇ましさ、神々しさ。人々を不正から解放し、腐敗した世を作り替えようとした情熱を──信じたい。
「なぜ、理想の世界のために血が流れる。誰かの幸せのために、なぜ、ほかの誰かが死ななければならないんだ」
 百華が、はじめて、燕青に向かって微笑んだ。

「闇は光……光は、闇よ」
 光と闇、希望と絶望、喜びと悲しみは、鏡に映った自分のように、そっくりな姿をしている。
 彼らのまわりに、百華兵が集まってきた。
「おねえさま、我々は敵に屈する前に、みんな一緒に死にます」
 彼女たちは、武器を持っていた。敵を倒すためでなく、互いに刺し違えて死ぬ覚悟をかためていた。
 気丈に起き上がろうとする百華を、燕青は腕で支えた。
 娘たちに、百華は命じた。
「生き延びなさい……私は、お前たちを死なせるために助けたのではない」
 みな身寄りなく行き倒れたり、家族に売られたりした境遇の娘たちだった。
「雲校尉が、助けてくれる」
 それを確かめるように、百華の手が、強く燕青の腕を掴んでいた。
「雲おにいさま!」
 燕青に駆け寄ってきたのは、金芝公主の侍女の銀泉だった。
「旦那様は、付馬様はどこです。公主さまを、お助けください」
 銀泉は泣きながら燕青にすがりついた。
「公主さまは、おひとりで星の宮へ戻られました。きっと自害されるおつもりです。どうしよう、公主さまに口止めされていたんです。公主さまには、付馬様の御子が」
「なんだって」
 燕青は顔色を変え、問い返した。柴進は梁山泊軍を案内して、洞窟の中だ。
 百華が苦しげに呻いて、燕青の腕を掴んだ。
「星の宮へ──」

 光明峰のふもとに広がる方聖宮の全域体で、官軍の暴虐は激しさを増していた。
 その喧騒も、森の奥では、まだ遠く聞こえていた。
 公主はひとり、星の宮の部屋に座っていた。
 甲高い声、荒々しい物音が、少しずつ近づいてくる。
 やがて、公主は立ち上がり、衣装櫃から白絹の帯を手にとった。
「あの方は、わたくしを救いにいらした」
 それだけは確かで、その“正体”を知ることに、意味はない。
 寝台の枠に、帯をかけた。
「こんどは、わたくしが、お助けしなければ」
 方臘の娘、そして“公主”を僣称したものに、宋国の恩赦はない。捕らえられ、最も残酷な方法で処刑されるのだ。
 自分が生きていれば、柴進は“反逆者の女婿”として罪に問われる。それだけではない、命懸けで助けようとするだろう。

「さようなら──お元気で」
 金芝公主の瞳からひとつぶの涙がこぼれ、星の宮の扉は閉じられた。



※文中の「付馬」は、正しくは付馬です。




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