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第百三十一回
星ノ章〜水のほとりの物語(一)我は、我なり・前篇



 星空が、世界を包み込んでいる。
 月が沈み、雨雲が流れさり──そのあとに、星空だけが残されていた。
 東の空には、かすかに曙の兆しがある。
 しかし、山々を抱く空は、依然として漆黒の夜の色をたたえている。
 大きな星は堂々と瞬き、煌き、小さな星は、無邪気に銀河の波間に蕩っている。
 星を載せて天球は廻り、流星がいくつか生まれて、消えた。
 なにひとつ、音はしなかった。
 天は静寂、地上は闇に包まれている。
 その狭間へ突き出た岩の頂きに、ひとりの男が立っていた。
 男は虚空の孤岩から、世界に問うた。
「わしは、だれだ」
 答えはなかった。
 見回しても、天は遠く、地は闇に沈んでいる。
 この世界に、彼に属するものは、なにもなかった。
 名もなく、家もなく、仲間もおらず、進むべき道もない。
 風だけが、彼の周囲に吹き荒れていた。
 その時、盧俊義の眼下の空に、ひとつぶの星が輝きはじめた。
 盧俊義は星を凝視した。
 盧俊義は、立った。そして、虚空へ腕を延ばした。
 その足は、明教徒たちが縋りついていた足である。その腕は、人々を救わんとする宋江を斬った腕である。
 盧俊義は──独り、麒麟の一本角のごとき危うき岩から、星の光に問いかけた。
「わしは、なにものだ。なぜ、ここにいる」
 刹那、星は千条の光芒を放ち、膨れ上がり、盧俊義を、世界を呑み込んだ。

 それは、目も霞むほど眩く、身を焦がすほど熱い、灼熱の太陽であった。
 そのように、この世界に、夜明けは訪れた。

(1)我は、我なり/前篇

 夜空に、明るい光がはじけた。
 つづいて、朗らかな音が響いた。
 光は輝き、星屑となって空に散らばり、円弧を描いて地上に降った。
 次から次へと、花火があがり、光の粒が降り注ぐ。
 光り輝く雨の下で、人々は歌い、踊り、笑っていた。
「戦が終わった!」
 竈が燃え、酒が煮られる。
「方臘の乱が終わった!」
 祭りを楽しむすべての顔が、赤ん坊のような笑顔だった。
「梁山泊のおかげだ」
「宋江さまは救い主だ」
 祭の音楽、人々の歓喜の声、花火の音が入り交じり、ひとつの大きな調べとなった。
「乾杯だ! 宋江さま万歳!!」
 その調べは、ここ数日のうちに西から東へ、長江に沿って江南一帯に広がった解放を喜ぶ曲である。彼らは、長引く戦争の苦しみから、明教の厳しい戒律から、救われたのだ。
「新しい世の中のはじまりだ!」
 踊りさわぐ人々は、村から街道にまで溢れていた。
 彼らを追い散らし、一台の馬車が西に向かって進んでいく。馬車の拵えはいかにも立派で、何人もの護衛に守られた馬車の中には、髯をたくわえた老役人が厳めしく座っていた。
 空で最後のひとつの花火が弾けた。
 放たれた真っ赤な炎が、千粒の金の星となり、夜通しの祭りの空へ消えていく。
 そして、空には再び夜空が戻り、燃え残りの星屑がひとつ、ふわふわと暗い森の方へと落ちていった。
 森の前には、一本の白い街道が続いている。
 馬車は重い轍の音を響かせて、夜の中へと走り去った。
 空には銀河。
 明け烏も、まだ森の梢で眠っている。

 夜明け前。
 空が灰色に変わり始めた。
 その日の空は、薄曇りだった。
 しっとりと湿気を含んだ雲が、朝と夜の狭間に延びる地平線まで続いている。
 もっとも、その空も、森の中からは見ることができない。
 河辺の森は、鬱蒼と繁っていた。何千年も、この場所で繁っていたのだろう。
 その縁ちかく、街道からすこし森に入ったあたりに、男がひとり座っていた。
 森の中はほの暗く、男がもたれた幹も、その下草も夜露をふくんで冷たい。
 いくえにも重なり合って繁る葉は、まだぐっすりと眠っているのか、灰色の陰影の内に身を潜めている。
 その根元に座る男の横顔も、灰色にくすんでいた。
 夜明け前、動くものは、なにもない。
 頭上の枝には烏が一羽、うずくまっている。
 烏は首をすくめたまま、真っ黒な目をさかんに動かしている。あちらを見て、こちらを眺め、上を窺う。下へ視線を向けた時、木陰の男と目が合った。
「いったい、なにを探している?」
 烏が少し頸をかしげ、またキョロキョロと目を動かした。
「どうせ、自分でも分かっていないんだろう」
 男が言うと、頸を伸ばして、くちばしを大きく開いた。

「楊林!」
 明るい声に、木陰の男も顔をもたげた。
 若い男が薄暗い道を駆けてくる。
「いい報せぢゃ、梁山泊は、この先の睦州まで来とるそうぢゃ。もうすぐ、みんなに会えるでぇ」

 白い歯ばかり目立つのは、笑っているからだろう。前歯が一本、欠けているのが妙に目立った。
 その隙間から、穆春は不満そうな息を洩らした。この“いい報せ”を道連れに伝えるために、彼はずいぶん走ってきたのだ。
「なんぢゃ、ちっとは嬉しそうな顔をせえ」
 楊林は首をすくめ、かわりに相棒の“小烏龍”がカアと返事した。
(すっかり“暗い星”ぢゃのう)
 楊林の星は“地暗星”で、“天暗星”は楊志だった。この星は、陽気な楊林には似合わない──と、常々、仲間に不思議がられていたものだ。
 それが、今ではすっかり“暗”が板についている。
「講談師よ。そんな顔で、どうやって客を喜ばすんぢゃ」
 穆春は抱えてきた肉饅頭を、楊林の手に握らせた。その手も、すっかり痩せていて、得意の筆管槍も杖の役に立つだけだ。
 実際、楊林は“墓場”に行く寸前だったのだ。
「まぁ、ええ」
 穆春は笑った。
「みんなの顔を見れば、きっと元気が出るぢゃろう」
 返事はない。
「行くでぇ!」
 穆春は陽気に言って、勢いよく街道のほうへ歩きはじめた。
「“梁山泊”は、すぐそこぢゃ!!」

 穆春が街道へ下りていっても、楊林はまだ木の下に座っていた。
 烏の黒々と濡れた目が、じっと彼を見下ろしていた。
 楊林は、ようやく重い腰を上げた。
 歩きだすと、背後から、かすかな光が差していた。
 鳥たちが囀りはじめる。
 どこに、こんなに鳥がいたのだろうと驚くほどだ。
 夏の名残の蝉も一匹、混じっていた。高い梢で、シャアシャアと鳴く。
 その声に呼ばれるように、楊林は、振り返った。そして、はじめて、今まで寄り掛かっていた灰色の木が、見上げるほどの梢を支えた大樹であったことを知った。

 夏雲にも似た豊かな梢が、朝日の中で新緑に輝いている。楊林の中に眠っている講談師の心が動いて、その木のうえに、悠然たる老巨人の姿を思い描いた。
 寡黙な巨人に見送られ、楊林はつぶやいた。
「あの巨人、片目だ」
 見上げた頂あたりの枝の影が、そう見えたのだ。

 馬から下りる宋江の目には、丁寧に包帯が巻かれていた。
 方聖宮で盧俊義より受けた刀傷は、深手ではなかったが、宋江の左目を傷つけ、眼球は摘出するよりほかなかった。
 当の盧俊義は行方不明となり、方臘が捕縛されたのち、山中にて倒れているのを燕青が見つけた。
 彼をふくめ、この戦役に生き残った頭領は三十六人。彼らは梁山泊軍の兵馬とともに、清渓県から江沿いに東へ、遠征の中継基地たる杭州を目指して“凱旋”の途上にあった。
 水陸の軍は銭塘江沿いに東へ向かい、杭州を、東京を目指す。行軍の速度は緩やかで、進むこと数日にして、途上の睦州城に到着した。
 睦州城、西門前。
 かつて王英、扈三娘ら多くの犠牲をはらって制圧した城である。
 呉用は、花栄とともに馬から下りて、宋江の方へ歩いていった。
 下馬石の位置が見えずにいる宋江を、弟の宋清が介助していた。
 呉用は声をかけようとして、ふと、ためらった。
 昼過ぎの秋の陽が、彼らのうえに穏やかな光を投げている。
 それが、妙に切なく、美しかったのだ。

 城門の周辺には、多くの人が集まっていた。
『方臘の乱、終結』
 その報せは、風のごとく広がった。人々は、殊勲の“梁山泊軍”を一目見ようと興奮していた。
 さらに、意外な顔が宋江たちを待っていた。
 勅使として派遣された、太尉の宿元景だった。
 朝廷内では、数少ない梁山泊の味方である彼は、宋江の戦勝を言祝ぎ、梁山泊軍の奮闘を労るため、夜通し馬車で駆けてきたのである。
 老人の身には厳しい強行軍であったが、理由があった。
 彼は、すでに途上で童貫の軍と行き合っていた。童貫は方臘の遺体とともに杭州へ華々しく“凱旋”しており、道すがら『方臘を捕らえたのは童貫軍である』と大いに喧伝していた。
 宿元景は、童貫の陰謀を看破している。梁山泊軍の手柄を横取りし、己の数々の失策を隠蔽しようと企てているのだ。
 宿元景は今まで受け取った数々の報告書から、方臘の乱鎮圧の殊勲は宋江のものと知っている。
 童貫の陰謀に、蔡京、高求らが同調するのは目に見えている。梁山泊軍、宋江の功績をうやむやにしようと、なんらかの罠を張ってくるはずだ。
(そうはさせぬ。わしが梁山泊軍を守らねば)
 梁山泊軍は、童貫らに対立する“清流派”の切り札なのだ。

 城門は赤い提灯や花で飾りたてられ、住民たちが賑やかな音楽を奏でていた。
 宿元景が東京から携えてきた数々の恩賜の品も、堆く積み上げられている。そこには梁山泊軍に対する褒美だけでなく、疲弊した住民を慰撫するための品々も多く含まれていた。
 宿元景たちの上奏により、殺人の罪を犯していない信徒は許されて放免されたし、叛乱の被害を受けた江南一帯には三年の税が免除された。
 人々は、宋江こそ、“恵みの雨”──救世主だと喜んでいた。
「宋江さまがご到着だ!」

 宋江は馬から下りると、城門へ、ゆっくりとした足どりで進んだ。
 城門の前には、宿元景が謹厳な面持ちで立っている。
「おお、宋先鋒。この度は見事に賊徒を……」
 宿元景は、宋江の功を労おうと口を開いた。東京からずっと脳裏に温めていた、華々しく、荘厳な言葉の数々である。
 すでに東京は方臘の乱鎮圧の大功に湧き、天子も宋先鋒の忠勤に龍顔うるわしく──。
 しかし、宋江の功績を称揚するそれらの美辞は、風に当たった塵のように消えてしまった。
 宿元景の前に立つ宋江は、片目を失っていた。

 朝廷という魔界を渡ってきた宿元景は、あらゆる複雑な人間の姿を見てきた。笑裏蔵刀、虚勢、韜晦──それでも、目を見れば“底“が窺えるものだ。
 その宿元景にも、宋江の隻眼がたたえた光とも闇ともわからぬ深淵は、まるで未知のものであった。
 宿元景は、逃れるように、宋江の背後へ視線を向けた。
 梁山泊軍が陸続と到着してくる。
 頭領たちは殆どが負傷し、甲冑は綻び、武器は折れていた。兵卒たちは足をひきずり、槍を杖についていた。連なる輜重車に積まれているのは、兵糧でも戦利品でもなく、柩と、自分では歩けぬ重傷者たちだった。
 宿元景も顔見知りの多くの頭領が、いなかった。
 かつて華州で会った史進をはじめ、手に負えぬ──と案じたほどの男たちの姿が、どこにもなかった。
 いたましい──しかし、“勝利”したのだ。
 宿元景は、感傷には流されなかった。
“勝利”、それは喜ばしい、誇るべきことではないか。
 宿元景は謹厳な顔に力をこめると、考え抜いてきた祝辞を澱みなく述べた。
 宋江の表情は、最後まで、少しも動かなかった。
 呉用と花栄も、その他の者も、関勝、呼延灼すら、さしたる反応を見せなかった。
 しかし、宿元景はくじけなかった。
「宋先鋒に尋ねたい。童枢密は、方臘を捕らえたのは童貫軍である──と吹聴しているが、誠であろうか。世人の噂では……」
 宋江は、丁重に拱手した。
「どうぞ、宿舎へ。遠路はるばる、お疲れでしょう。どうぞ、お休みください」
 宋江は、穏やかに微笑んでいるようにさえ見えた。
 宿元景は言葉を継ぐことができなかった。
 宋江は、ただ、立っている。
 大樹が、炎熱の夏も、風雪の冬も、ただそこに聳えているように。

 呉用と裴宣が、宿元景に付き添って城内へと入っていった。
 城門に残った宋江は、仲間たちの方へ歩いていった。
 城門広場の一角に、頭領たちが集まっていた。
 最後尾を進んでいた数台の馬車が到着したのだ。乗せられているのは、凌振の火砲と、特に重篤の病人だった。
「あんなに立派な男が……」
 凌振は、火砲を点検しようとした手を止めた。
 隣の馬車から、“梁山泊で最も強い男”が、担ぎ下ろされるところだった。
“豹子頭”林冲──宋国一とも讃えられた槍棒の使い手が、いまは朽ち果てた枯れ木のようだった。
 梁山泊軍は城の内外に分散して駐屯することになっている。広場に軒を並べている旅館も兵員の宿舎にあてられていた。
 林冲は意識のないまま、魯智深に抱えられて、割り当てられた宿舎へと運ばれていった。ずっと付き添っていた時遷が、蛇矛を担いであとに続いた。
「顔色が悪いな」
「なんや、ずっと腹がシクシク痛うて」
 蔡慶も廃人同様で、関鈴に手を引かれて、病室に入っていった。
 楊雄は、移動中に激痛により昏倒していた。
 背中にできた腫瘍が爛れているのだ。清渓県から病臥していた楊雄の背にできた傷は、はじめは褥瘡と思われたが、見る間に悪化し、拳大の腫瘍となった。わずかに動かしても全身が痛むので、四人がかりで馬車から下ろした。
 旅館の前には、城内の医者が待機していた。先行して準備をしていた裴宣が探してきた街医者だ。楊雄の傷を診察すると、白髪まじりの眉をひそめた。
「これはひどい」
 武松が傷を覗き込んだ。腫れ上がった出来物が崩れ、肉がいく筋も割れていた。
「こいつは……まるで顔みたいだな」
 武松は背中に触れぬよう、楊雄を抱き上げた。
 旅館の裏手に設けられた病室へ運んでいくと、石段のところで時遷が蛇矛を担いだままうずくまっていた。
「時遷、どうした」
 気づいた宋江が助けようとするのを、花栄が止めた。
「誰か、時遷を寝かしてやれ」
 医者が駆けつけてきて、時遷を林冲の隣の寝台に寝かせ、脈をとりはじめた。
「うむ、これは霍乱だ。夏に無理をすると起こりやすい。まずは安静に……」
 そのあとも、重傷者は続々と運ばれてきた。

 花栄が宋江を連れて外に出ると、裴宣が戻ってきていた。
「宿太尉から、東京へ凱旋する頭領の名簿を提出するようにと」
 論功行賞の準備だろう。宿元景も、梁山泊の立場と利益を守ろうとしているのだ。
 花栄は宋江に切り出した。
「彼らは、このまま残していったほうがいい。あの体では、旅は本人たちも辛いだろう」
 花栄が案じているのは、病人のことだけではない。
 彼らが死んで、宋江が打撃を受けることを心配している。童貫が先行して向かっている杭州、そして、蔡京、高求らが待ち受けている東京で、面倒事が起きるのは間違いないのだ。
 すでに宋江は、功績を童貫に譲ると約束している。
(杭州を落とした功績などは既に上奏されているが、それもどうなるか)
 花栄の側からは、顔に巻いた包帯のために宋江の表情は窺えない。
 そこへ蔡慶を送り届けた関鈴が出てきた。この関勝の義子は、快活さと鋭さを併せた利発な目を持っている。その眼差しを、宋江に向けた。
「宋江さま、世界は狭くなりましたか」
 関鈴はまじめな顔で、人指し指で自分の右目をおさえてみせた。
「片目になると、半分になって見えるのかな」
「いいえ」
 宋江は穏やかに首を振った。
「なにもかも、よく見える」
「なら、よかった」
 関鈴は笑って、城内へ義父の関勝を追いかけていった。
 花栄も宋江を促した。
「我々も行こう。彼らはここに残していく──それでいいな」
 梁山泊の立場はあやうい。
 肝心の宋江が、悲嘆にくれていては困るのだ。
(“戦い”は、これからだ)
 その声が聞こえたように、宋江は、花栄を見上げた。
「睦州は、親睦の地だ」
「だからなんだ」
「花栄、我々は、ここで星祭りを行おう」

 宋江が見上げた空には、真っ白な仙女の衣が長く、幾重にもたなびいていた。
 初秋の淡い雲だった。

 その夕刻、睦州西郊の野にて、この戦いで命を落としたものたちの魂を弔う星祭りが行われることになった。
 その前に、別れがあった。
 方聖宮包囲網に馳せ参じた者たちは、梅展をふくめ、すでに立ち去っていた。劉光世は童貫とともに杭州へ先行し、楊温と、官軍の中では韓世忠が残っているだけだった。
「ここまで“護衛”すれば、よかろう」
 楊温は睦州で去ることを決めた。
「お前は?」
 楊温は韓世忠に尋ねたが、韓世忠には軍を去る意志はまだなかった。楊温は、その心を見通したように笑った。
「字(あざな)が、重いか」
 韓世忠──字は“良臣”。韓世忠は苦い顔をした。
「その剣は、さらに重い」
 楊温は、わずかに間を置いた。
「忠臣の剣だ。覚悟しておけ」
 そう言い残し、“闌路虎”楊温は、いずこともなく去った。
 方臘の首をもたらした韓世忠が後続の梁山泊軍に入れられたのは、童貫の指示だ。童貫は手柄となる“方臘の首”だけを持って行ったのだ。
 去りぎわの、王稟の得意気な顔と、腰に帯びた吹毛剣の重さが、韓世忠の心を沈ませていた。

“あだ名なき”男、韓存保も、ここから任地の潤州へ帰る。
 呼延灼と小魚が見送った。
「注意せよ、呼延灼。この国難の時も、我が身のみ愛する輩の性根は変わらぬ」
 呼延灼は押し黙っている。秋風が、白髪の鬢を揺らしていた。
 韓存保は、この戦いで呼延灼が一人息子を失ったことを知っている。
「この頑固者を──頼むぞ」
 小魚の肩に手をおいた。
「呼延灼よ。次は、戦場ではない場所で会おう。酒でも」
「いいや」
 無骨な友の精一杯の慰めを、呼延灼も無骨に受けた。

「おそらく、次も戦場であろう」
「さすが“軍神”呼延灼。お前がいるかぎり、“宋”は国の名を保てよう」
 それは韓存保の本心であったが、呼延灼は応えなかった。
 いまや、呼延灼のほうが、“寡黙”の名にふさわしいようだった。
 韓存保は、去った。
 小魚が言った。
「これから、梁山泊はどうなるのでしょう」
 呼延灼は答えなかった。
 それは、誰にも分からない。
 遠ざかる黒柄の画戟に背を向けて、呼延灼は小魚を伴って星祭りの野へ歩いていった。

 清澄な風の吹き抜ける、宵の野原は、どこまでもひらけ、心地よかった。
 空には一番星が輝く。
 その星に向かうようにみなで居並び、祭壇に香華をたむけ、城内で見つけてきた数人の僧侶が誦経した。
 明教が支配している間、僧たちは、ある者は明教徒となり、ある者は乞食となっていた。弾圧を恐れて袈裟を焼いた者もいたが、それでも経文は覚えていた。
 敵も味方も、兵も民も、戦いで傷つけられた動物、植物、水も大地も──すべての“いのち”の成仏と安息を祈る誦経がはじまった。
 僧侶たちが唱和する。戦没した頭領の名前が、裴宣の帳面にしたがって経文のなかに読み上げられていった。
 地悪星“没面目”焦挺、地魔星“雲裏金剛”宋万、地理星“九尾亀”陶宗旺。
 そして、地威星“百勝将”韓滔、地英星“天目将”彭己、地劣星“活閃婆”王定六、地異星“白面郎君”鄭天寿、地稽星“操刀鬼”曹正、地伏星“金眼彪”施恩──。
 延々と、懐かしい名前が続いた。
「あっちのほうが、にぎやかだ」
 李逵が言った。
 宋江の表情は、水に映った月のように、静かだった。
 ひとりの名が読まれるたび、宋江の目が、かすかに微笑む。そこに、その人の姿を見ているように。
 対照的に、盧俊義の双眸はあくまで冷徹──それなのに、涙で濡れていた。
 呉用には、ひどく異様な感じがした。
 亡者が自分の葬式を眺める様は、このようなものかもしれない。
(盧俊義殿が、また、“変わった”)
 その時、後ろの方で賑やかな声が起こった。振り返ると、人垣が割れ、懐かしい顔が覗いた。
「穆春、楊林」
 杭州に残っていた楊林と穆春だった。
 呉用の隣に宋江の顔を見つけた穆春は、急いで駆け寄ってきた。
「宋江様!」
 穆春は満面の笑みを浮かべ、楊林の腕をひっぱった。
「それみい、宋江様は無事じゃ!」
「杭州のみんなは、どうしていますか」
 宋江が尋ねると、穆春は欠けた歯の隙間から、勢いよく息を吐き出した。
「兄ちゃんは、しぶとく生きとるでぇ。朱貴と朱富の兄弟が苦心して、解毒の薬を調合してくれての……安先生も、東京から弟子の“阿虎先生”をよこしてくれたんぢゃ」
「張横さんは」
「ねばっとる。寿命まで、兄ちゃんと張り合うつもりぢゃ」
「それはよかった。楊林さんも、元気になったのですね」
「私ばかりが、申し訳ない」
 楊林は、目を伏せた。
 すぐに毒水を吐いたため、楊林の症状はもともと軽いほうだった。それでも、朱兄弟の薬と、阿虎の治療で回復したのは奇跡的と言ってもよかった。
「朱貴と朱富の兄弟の名も、どうか、お経に読んでもらってやってください」
「あの兄弟が、死んだのですか」

「朱貴は毒草を自ら試して解毒薬を調合し、引き継いだ朱富が薬を完成させました。朱富は、自分も毒の水を飲んで、薬の効果を試したのです」
 朱兄弟が作った解毒薬は、水の毒は抜けるが、効果が強すぎて心臓がもたない。その劇薬と、阿虎が調合した中和薬を併用して、楊林は助かったのだ。ほかにも、数百人の兵や民が助かった。しかし、当の朱富は助からなかった。
「孔明も、それより先に……」
 穆春が楊林と宋江の間に割り込んだ。 「もうええ。講談師は、楽しい話をするんが仕事ぢゃろうが」
 穆春はわざと乱暴に楊林を小突き、宋江に笑顔をむけた。
「ずっとこれぢゃ。口を開けば、烏より陰気なことしか言わん。わしは、江州の柳絮嫂ちゃんから手紙が来ての。それ以来、兄ちゃんが、嫂ちゃんを呼べとうるさくてかなわんで、迎えに行くつもりぢゃったが、みんなが睦州にいると聞いたら、居ても立ってもおれんかった。江州には小者を使いにやったでの」
 そして、穆春はあたりを見回した。
「薛永はどこかの。嫂ちゃんの手紙によると、太白がいなくなったそうなんぢゃ」
「薛永さんは、亡くなりました」
 穆春の口が、はじめて止まった。
 史進、石秀、陳達、楊春、李忠に続いて、郁嶺関の山中で死んだ地幽星“病大虫”薛永の名が読み上げられた。
「……そうぢゃったか」
 穆春は、夜空を見上げた。低く昇った細い月に、小さな星が寄り添って輝いていた。
 それが、大小の、ふたつの命のようだった。

 いつも寄り添って走っていた、彼の親友と、その相棒の、幸せそうな姿だった。

 僧侶たちによる誦経は絶え間なく続き、安息を祈る言葉に混じって、秦明の名前が響いた。
 天猛星“霹靂火”秦明。
 その名には、もう、あの戦場を震わせる激しさはない。
 黄信は、やや目を伏せて、秦明の名に耳を傾けていた。
 花栄は、唇を強く結んだ。
 清風山の、あの爽快な風を思い出したのだ。あの時の、“霹靂火”秦明を。
「俺たちは、生き延びた」
 花栄は、自分に言い聞かせた。
 秦明さえいれば──と頼りにしていた“義弟”は、もういない。
「俺たちは、ここまで生き延びた」
 この先も、生き延びる。この手に、弓がある限り。
“弓は苦手だ”──いつか聞いた秦明の声が、はるかに聞こえた。

 名簿はつづき、清渓県で死んだ蔡福の番となった。
 弟の蔡慶は、負傷してから廃人となり、自ら動くことも、話すこともできなくなった。ただ亡霊のように、関鈴に付き添われて、そこにいた。
 その干からびた喉が、兄の名に応えて、動いた。

 蔡慶は、叫び声をあげた。体の奥から絞り出す、誰も聞いたことのないような悲痛な叫び声だった。
 双子の蔡慶と蔡福は、同じ夢しか見ないほど絆が強かった。処刑人という世界から隔たった場所で、二人きりで生きてきた。一心同体であり、自分と彼の区別もなかった。それが、生まれた時からの自然であった。
 その、あるべき半身、もうひとりの自分をなくして、蔡慶自身も消えた。脱け殻であり、亡霊であった。
 兄の名を聞いて、蔡慶は絶叫と涙とともに、“この世”に戻ってきた。
「福兄よ」
 関鈴が驚いて顔をあげた。
「福兄よ……」
「うん」
『地平星“鉄臂膊”蔡福』
 地上に墜ちた“平”の星が、損なわれた弟の魂に、今、静かに平穏をもたらした。
 誦経が続く。
 郁保四、鄒淵、湯隆、孫二娘、阮小五──。
 彼らの名を聞きながら、人々の視線は、香の煙がゆるやかに消えていく天に向かった。そこに、ようやく宋万と再会して喜ぶ杜遷の姿を、孫二娘を出迎える張青の渋い顔を見た。
 仲間を、友を、半身を失った虚無が、一粒の雨粒が壺を満たすように癒されていく。
 鄒潤は、鄒淵の形見の骰子を握った。
(叔父貴よ、もう一勝負やるか)
 きらりと瞬いた星が、鄒淵の星に違いなかった。


 魯智深は宋江を探していた。
 林冲たちに付き添っていた魯智深は、星祭には出ていなかった。しかし、医者から聞き捨てならない話を聞いて、ここまでやって来たのである。
 祭壇の前に宋江を見つけると、魯智深は大股で歩み寄った。
「病人はここに置き去りにすると聞いた。本当か」
 宋江より先に、隣にいた花栄が答えた。
「彼らに無理をさせぬためだ」
「ならん!!」
 魯智深は火のように怒っている。
「林冲は、東京へ帰るのだ。楊雄も、時遷も連れて行く」
 魯智深の一喝に、僧侶たちの読経が途切れた。
 宋江は、魯智深を見ていた。
「できるでしょうか」
「むろん」
 魯智深は力強く頷いた。
「わしが背負ってでも、連れていく。この魯智深の目の黒いうちは──誰ひとり、孤りにはさせぬ」
 再び、すべての死者と、傷ついた命の安寧を願う読経が始まった。
 宋江は微笑んだ。
「わたしは嬉しい、ありがとう」
 魯智深が手にした禅杖に、星なのか、篝火なのか、明るい光が照り映えていた。

「では、東京へ送る名簿は三十六名……」
 裴宣は帳面を取り出した。
 戦塵に洗われて、帳面の表紙は色あせ、擦り切れている。
 そこには、二仙山へ帰った公孫勝の名、東京に留め置かれた安道全や楽和、杭州に残っている穆弘、張横らの名も記されている。
 裴宣は筆を取り出し、杭州の欄から、孔明、朱貴、朱富の名に印をつけた。
 あと、何人が生き残っているのか──裴宣は、数えなかった。
 魯智深が言うとおり、杭州へ、東京へと集っていけば、分かることだ。
 星祭りが終わり、人々がそれぞれ散っていく。
 裴宣は、何気なく目を向けた先に、盧俊義の姿を見つけた。
 人々に囲まれる宋江や、連れ立つ仲間たちから離れ、篝火のもとに立っている。数人の布衣の者たちに囲まれていた。近隣の住民や兵卒のようだったが、彼らのひどく恭しい様子が、裴宣の目を引きつけたのだ。
 盧俊義の手の中で、なにかがきらりと光ったようだった。
(あれは?)
 気になったが、確かめる前に人々は散り、盧俊義もまた去っていった。
 篝火が燃え尽きかけ、あたりの夜の闇がしだいに濃くなっていく。
 裴宣はしばらくそこに立っていたが、城内へ戻る人々の向こうに楊林を見つけ、そちらの方へ歩いていった。
 楊林は帰っていく人の流れから離れ、祭壇のそばに佇んでいる。香炉には、まだ淡い匂いが残っていた。
「元気になって、よかった」
 裴宣は声をかけた。
 楊林は、困ったような顔をした。
「元気とまでは」
「では、言いなおそう。また会えてよかった」
 楊林は応えたかったが、背中に重いものがのしかかっているように、うなだれた。病のせいなのか、光がまぶしい。目を開けているのも辛いのだ。
 落ちた視線が、裴宣が見慣れぬ剣を持っているのに気がついた。裴宣愛用の双剣ではなかったし、楊林の知っている誰かの形見の剣でもない。
 真新しい赤い房飾りが、柄で寂しげに揺れていた。
「その剣は?」
「これは、威児の……預かりものなので、東京の家族に届けなければ」
 楊林は、呼延灼の息子の威児が死んだことを初めて知った。
「あんな前途ある若者が……それなのに」
「これは、あなたに」
 裴宣は懐からもう一冊の帳面を取り出した。
「今回の戦いの記録だ。簡単にしか、書けなかったのだが……特に別行動だった盧俊義隊の詳細は、どこで誰が死んだかくらいしか記せなかった。疎漏もあるので、詳細なところは、あなたが聞き取って補ってくれ」
「私に、それをやらせるのか」
 楊林は、裴宣が差し出す帳面を凝視した。
「私が、ただ寝ているあいだに、みなが、どのように死んでいったのかを、書けと」
「そうだ」

 裴宣の顔は厳しかった。不自由な肩を動かして、帳面を楊林につきつけた。
「あなたも戦った。あなたの敵が、病だったというだけだ。彼らとて、雄々しく戦っただけではない。華々しく死んでいった者ばかりではない。しかし、誰一人、勇敢でない者はいなかった。講談では、受けぬ話かもしれないが……。いつか、我々の物語に力づけられる人々がいる。あなたが書き残す、我々の“水のほとりの物語”──を」
「できるだろうか」
「我々は戦い、強くなった。望めば、できぬことはない」
 楊林は、手を伸ばし、帳面を受け取った。
 表紙には、血の汚れが幾筋もついていた。方聖宮で斬られた時、裴宣の体から流れた血だった。
 かつて──みなが、楊林の“暗”い星を不思議がった。人々を笑顔にする講談師が、なぜ“暗”なのか。
“暗”は、言葉にならぬ声、日の差さぬ場所。語るべき言葉もなく、忘れられていく人々の──遺言だ。
 今は亡き人々の、呻吟の声が聞こえた。笑う声が、泣く声が、叫びが。
(それを、綴り、伝えるために、私は生き延びたのだ)
 病の暗い淵より。
 肩の烏が、クルルと泣いた。
 小烏龍は、楊林が病気のあいだは、どこかに姿を消していたが、床払いした日に戻ってきた。
 掌で真っ黒な羽を撫でると、ふわふわとして、温かかった。
 脆く、かよわく見えるのに、小さな心臓はたしかに脈打ち、翼は風を待っている。
(生きている)
 命は、たしかに、ここにある。
 裴宣が、言った。
「あなたが生きていて、嬉しい」
 楊林は、勇気を出して、その言葉を、生き延びた罪悪感から、ずっと言うことができなかった言葉を口にした。
「わたしも──嬉しい」
 篝火がついに燃え尽き、暗黒となった地の上に、星が激しく輝いていた。

 宋江と宿元景が連れ立って城に戻ると、朝廷からの慰安の物資をもらった人々が散っていくところだった。
 人々は、物資を運んできた宿元景ではなく、宋江を拝んで、去っていった。
 宋江が人々の挨拶を受けるのを、宿元景も足を止めてしばらく見ていた。しかし、人の列は尽きることなく、宿元景は韓世忠に護衛され、輿で先に宿舎へと戻った。
 宿元景は、道すがら、傍らを馬で進む韓世忠に確かめた。
「今回の決戦に、我々が雇った楊温ら傭兵だけでなく、数十万の民衆が、全国から集ったと云う噂は、まことか」
「はい」
 韓世忠は慎重に返答した。あの時の壮観を思い出したが、淡々と事実を述べた。
「少林寺の僧や、華山の道士、山西や淮西の義勇軍など、“梁山泊を救うため”と称して自発的に参戦しました」
 宿元景は、髯を撫でた。
(やはり、宋国を救うのは宋江である)
 方臘の乱が終わっても、彼は何も楽観していない。心配がひとつ減ったというだけだ。その慶事も、今後の政局にとっては、悪化の呼び水になるかもしれない。
 江南の大乱が猖獗を極めていた時、天子は「罪己詔」を発し、その原因となった“花石綱”を中止した。栄華を極めていた朱面は罷免され、花石綱をとりしきって“東南小朝廷”と呼ばれていた蘇杭応奉局も廃止された。朱面の蘇杭応奉局こそ、民間からほしいままに財産を収奪し、膏血まで搾り取っていた諸悪の根源だった。
 しかし、今、早くも再び朱面に人が取り入り始め、蘇杭応奉局も復活の兆しを見せている。一方で、金国の出兵要請は厳しく、財政は逼迫している。それなのに、蔡京、童貫らは私欲に目が眩み、朝廷は無策だ。
 梁山泊軍の勢力を背景に、政治を刷新する。そして、宋国を磐石にし、かつての栄光を取り戻す──それが、王都尉、宿元景、張叔夜ら清流派の変わらぬ理想である。
 もちろん、簡単なことではない。
 それでも、もし勅令があれば、“政変”を起こして、童貫らを武力で排除することも可能だ。
(そのためには、宋江に対する天子の信頼を、より強固にせねばならない)
 宿元景は空想家ではなかったが、梁山泊軍を動かして童貫たちを排除する日を夢想せずにはいられなかった。
(童貫の好きにはさせまいぞ)
 このように民に慕われ、これほどの傷を負ってなお、梁山泊の心はひとつだ。
(宋江は、我らの唯一の“切り札”なのだ)
 宿元景は、老いた心を奮い立たせた。
「しかし、宋江の次の敵は手ごわい。あるいは、方臘よりも」
 思わず口に出した言葉を、韓世忠は聞き逃さなかった。
「“次の敵”とは?」
 老大臣の眉間に刻まれた皺が、より深まった。

「──“政治”だ」

 童貫は、すでに杭州に入城していた。
 西湖に面した壮麗な邸宅は、だれかの別荘だったものだろう。方臘の支配中は精舎になっていたものを、接収して宿舎にあてた。
 蘇州に駐屯していた張招討も駆けつけ、童貫の戦勝を言祝いだ。
「祝着至極。千載にのこる武勲をあげられましたこと、お喜び申し上げます」
「うむ」
 宴の席で、童貫は鷹揚に祝辞を受けた。
 張招討も、大いに肩の荷を下ろしたようだった。彼は平凡な官僚で、引退前に軽く手柄を立てて、故郷に錦を飾ろうとしていたにすぎない。一時は梁山泊軍の苦戦に気を揉んだが、戦勝となれば、めでたく念願かなったことになる。
 あとは、その功績に少しでも“高値”がつけば、ありがたい。
「梁山泊軍も、ずいぶんと苦労いたしました。宋江も帰京のあかつきには、だいぶ称揚されましょうな」
 梁山泊軍の軍功が高ければ、招討たる彼の点数になるのである。
 凡庸で人のよい張招討は、方聖宮でなにがあったかも知らなかったし、宋江と童貫の間に方臘討伐の功績についての“密約”があることなど想像もしていない。
 童貫は上席に座し、美妓の酌で杭州の名酒を飲んでいる。
 傍らの王稟が、横柄に答えた。
「すべての沙汰は、東京に帰ってからのこと。梁山泊にも、相応の賞はあろう」
 それ以上、なにも言えぬ威圧を感じ、張招討は口を閉じた。
 政界を渡っていくだけの敏感さは、張招討も持ち合わせていた。
 大勢の客を詰めた戦勝の宴は、終始、童貫を褒めたたえ、なごやかに果てた。

 散会後、場所を奥座敷に移して、内輪の席が設けられた。
 宴の客は、童貫のほかに三人。酒にも手をつけず、異様に張りつめた雰囲気があった。
 もっとも異様なのが、酒菜が並ぶ卓の中央に、ひとつの黒塗りの瓶が置かれていることである。厳重に封がされていたが、客はみな、その中に納められているものの正体を知っていた。
 腐敗しないよう油と松脂で処理された、方臘の首である。
 たとえ東京へ運ばれ、天子と対面することになっても、彼が天子に投げつけたかった言葉は、もう、永遠に発せられることはない。
『終わりなく花石綱の憂いに苦しめられ──堪えがたし』
 いまやその首は、出世のための“宝”となった。
 実際に方臘を捕らえたのは梁山泊軍の魯智深だが、それを下士官の韓世忠が譲り受けた。それを、さらに韓世忠の上官である王淵将軍を通じて、童貫が取り上げた。
 今、この首級を上げた“殊勲者”を誰にするかは、童貫の心ひとつにかかっている。
 候補は三人──童貫自身の功績は、首があろうとなかろうと不動である。腹心に高値で恩を売り、また出世させておいて、今後も便利に使うのが賢いやり方だ。
 童貫は卓を見渡した。
 並んでいるのは、王稟のほか、童貫の要請で方聖宮に駆けつけてきた辛興宗、折可存という腹心の武将だった。
 いずれも忠実な腹心である。童貫は、公平を期すために、“入札”をすることにしたのである。
「方臘を本当に捕らえたのは、魯智深という梁山泊軍の僧だそうだな」
 辛興宗は無骨な顔に冷笑を浮かべた。
「五台山の破戒僧と聞いております。そもそも、梁山泊軍は草賊が恩赦を受けたもの。方臘を捕らえた功でも贖えぬほど、往年の罪科は重い」
 童貫は頷いた。
「その草賊が、韓世忠に手柄を譲ったと」
 今度は王稟が負けじと発言した。
「韓世忠は低級の武官で、枢密に対して反抗的な言動もございます」
 そして、貧しい家の出身だから、政治的な後ろ楯もない。どうにでもなる──と、言外に言っていた。
「韓世忠は、少しばかり出世させてやれば感謝こそすれ、文句を言う立場にはございません」
 童貫は、また頷いた。
「では、今宵、“この宝”の持ち主を決める」
 童貫の言葉に従い、三人はそれぞれ封筒を童貫の前に捧げた。
 それをひとつひとつ開いて、中の紙片を見ては、傍らの燭台で焼いていく。紙片には、この“宝”の値段が書いてある。
 王稟は固唾をのんで、その手元を凝視していた。
(かならず、俺に)
 王稟には自信があった。
 童貫の一番の腹心であるし、一族の財力を結集した金額を書き込んだ。
(辛興宗も腹心だが、名門の出身ではないから、それほどの値はつけられないだろう。折可存は財産家だが、若造なので大胆な数字は書けまい)
 相棒の趙譚は貪欲で、手柄より財を惜しんで勝負から下りた。方聖宮で得た収穫で満足し、先に東京へ戻っていった。
(愚かな奴。俺は、もっと出世するぞ。財など、あとからついてくる)
 やがて、童貫は三枚の紙片を燃やし終わった。
 そして、手元にあった箸を取ると、辛興宗の前へ放った。
 王稟は目を疑った。
 童貫は気づいたが、無視した。はじめから、金額など問題ではない。腹心たちのあいだで、文句が出るのを防ぐための茶番にすぎない。
(王稟は今後もわしのために働くし、折可存は今後も出世させる機会はある。辛興宗は武辺者、喉から手が出るほど功名を欲している。ここで恩を着せてやれば、命を捨ててもわしに忠義を尽くすだろう)
 空には月、湖を渡る風は心地よい。
「まもなく中秋。杭州は、秋が最も美しい」
 童貫にも土地勘のある場所である。まだ不遇の頃、蘇州や杭州で書画骨董、奇岩珍木を集め、天子に献上して、多いに寵愛を得たのが出世街道の入り口だ。
 今また、方臘の乱を鎮圧して、不朽の大功績を我が物とした。
 江南は童貫にとって縁起のよい土地なのだ。
 離れがたい──と、童貫は珍しく未練を感じた。
 憂いは消えた。老体には、長びいた遠征の疲れもこたえている。
 東京に戻っても、金国との面倒な折衝が待っているだけだ。
「西湖に船を浮かべて名月を愉しみ、それから、ゆるりと“凱旋”すればよい」

 梁山泊軍が睦州を発つ日は、朝から賑やかだった。
「林冲たちは馬車に乗せろ。ありったけの布団を積んで、体を楽にしてやれ」
「薛永の膏薬が残っていた。楊雄にやってくれ」
「同行したい負傷者は、みな馬車か船に乗れ!」
 魯智深は病人たちを馬車に分乗させ、李俊は船に負傷者と物資を積みこんだ。
「どうだ、苦しくないか」
 魯智深は馬車に乗せた林冲の下にもう一枚、分厚い布団を重ねてやった。
 時遷はなんとか自分で乗り込もうとして、荷台に足をかけられず、地面に倒れた。魯智深が馬車から飛び下り、時遷をかかえた。蚤のように、軽かった。
「すまん、和尚。情けなぁ……」
「病のせいだ。あたり前ではないか」
 馬車がゆっくり動き出す。
 魯智深は時遷と並んで座り、退屈しのぎに懐から五台山でもらった度牒を取り出した。
(この後は、山に戻るか、またフラリと旅に出るか)
 五台山で出会った王定六、石勇は、もういない。ともに愉快な旅をした、史進もいない。
 がたがたと揺れる馬車の中で、魯智深は心のうちに亡き同胞に合掌した。
 そして、何気なく錦で裏打ちした度牒を開いた。色あせた紙片が挟んであった。
  開いてみると、智真長老の偈だった。遼国戦の後で贈られたが意味がわからず、そのまま忘れていたものだ。

   夏に逢って擒にし
   臘に遇ってとらえ
   潮を聴いて円し
   信を見て寂す
「ふむ。“夏”とは夏侯成、“方”とは方臘のことだったか。“潮”だの“信”だのは、いまだ解せぬ。分かるか、時遷」
 時遷は布団にくるまり、青い顔を横に振った。

 孫立と黄信が先行し、宋江ら中軍も轅門を出て行く。
 別れを惜しんで集まってきた民も多かった。
 星祭りで読経した老禅僧が送別に来て、呟いた。
「平歩青宵──」
 宋江の姿を、そう評した。
 広々とした青空を、悠々と歩いていく人──なにものにも、とらわれずに。どこまでも。
「貴い御姿でございます」
 燕青は禅僧と並んで、宋江を見送った。
 秋風が、涼しく、なぜか寂しい。
(ずっと、いっしょ──か)
 燕青はなにかを探すように、みなが行く道の彼方を眺めた。
 空は晴れ、鳥影もない。
 みなが順次、門を出て行く。
 呉用が宋江に続き、花栄がその横に並んだ。
 関勝が、呼延灼が行く。
 燕青は盧俊義の姿を探した。
 盧俊義は、まだ出発していなかった。みなから離れ、のろまな兵卒が馬を牽いてくるのを待っていた。
(だめだな、やはり俺がいないと)
 燕青は盧俊義の方へ歩いていった。そして、その背に声をかけようとして、燕青は足を止めた。
 盧俊義は、手にした何かを見つめている。
 掌に隠れるほどの大きさの、金色に輝くものだ。秋の日に、きらりと光った。
 燕青の顔色が、変わった。
(あの“星”は──)
 方臘の冠に飾られていた、黄金の星飾りだった。

 梁山泊軍は東へ向かう。
 呼延灼は馬を進めながら、後ろに従う小魚に尋ねた。
「杭州に着いたら、お前はどうする」
「帰る所はありません」
 曽頭市の家はもうない。母親は江南で死んで、墓もない。
「将軍についていってもいいでしょうか」
 小魚は、呼延灼にとって一兵卒にすぎない。
 韓滔、彭己のような股肱でもなく、威児のように血を分けた息子でもない。
 呼延灼が今まで率いた何千、何万という兵のひとりだ。
「だめですか」
 小魚の頑なな目は、まっすぐ前を見つめていた。
「ならば、呼延の姓を名乗れ」
 呼延灼もまた、まっすぐ道の彼方を見据えていた。
「名が“魚”では、柔らかすぎる。これからは、そう、玉※と名乗るがいい」
 玉※とは、鋼のように硬い玉のことだ。
「弱った。親子となった証として、お前に贈るものがない」
「では、なにか言葉を」
 若者と老将は、馬を並べた。
 秋空の下に伸びる街道は、杭州へと続いている。
 そこで待っているものは、懐かしい仲間たちだけではない。
 やがて、老呼延灼は若き後継者に、はなむけとなる言葉を告げた。

「迷う時あらば──まず“眼前の敵”と戦え」




※文中の「高求」は、正しくは高高求です。
※文中の「闌路虎」は、正しくは闌路虎です。
※文中の「彭己」は、正しくは彭彭己です。
※文中の「郁嶺関」は、正しくは郁嶺関です。
※文中の「朱面」は、正しくは朱朱面です。
※文中の「玉※」は、正しくは玉※です。




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