水滸伝絵巻-graphies-

第百三十二回
星の章〜水のほとりの物語(三)黄昏が世界を照らす・前篇

 老人が、杖をつき、ゆっくりと土手道を行く。
 若者たちが、語り、笑いさざめき、足早にすれ違っていく。
 秋の午後。
 花望春は、卞河のほとりに座っていた。
 東京を流れる大河は、街の近くでは橋がかかり、船が行き交い、岸辺も整備されている。しかし、東水門外のこのあたりでは、土手には秋草が繁り、水がのどかに岸辺を洗っている。
 彼は、父親を待っていた。
 今日にも東京に着くはずだ。
 それとも、やはり明日になるだろうか?
 いずれにせよ──彼は家にいたくなかった。
  母親の実家が借りてくれた仮の住まいは、いま、葬式の準備のまっさいちゅうだ。
 彼の大好きな叔母は、両腕に子供を抱えて、泣いている。
(あんな強い人が死ぬなんて)
 強かった秦明の死が、明るかった叔母の涙が、望春には恐ろしかった。
 日が徐々に傾いていく。
 梁山泊軍の姿は見えない。
 代わりに、数人の若者が馬でやってくるのが見えた。いずれも望春と同じ年頃の四人連れだった。先頭の一人が、仲間に言う声が聞こえた。
「あいつに聞きてみよう」
“あいつ”というのが耳に入って、望春はカチンときた。
 立ち上がると、馬も止まって、砂ぼこりが望春の足にかかった。
 若者は馬上から声をかけてきた。
「東京へはこの道でいいのか?」
 望春より少し年上に見え、身なりも良かった。言葉には、西方のなまりがある。
 地方から東京見物に来た田舎者──と思って、望春は答えるかわりに、背伸びをして胸をそらした。
「おい、返事をしろよ」
 すると、その御曹司ふうの友達を軽く制して、落ち着いた顔つきの若者が馬から下りた。

「すまないが、お尋ねしたい。東京へは、この道を行くのが正しいだろうか」
 丁重に尋ねた。
 背が高く、みなりは地味だった。しかし、その容貌、体躯は抜きんでている。年は、望春よりひとつ、ふたつ上なくらいだろうが、もっとずっと年上に見えた。
 望春は毒気を抜かれ、素直に答えた。
「この道を真っ直ぐ行けば、夕方までには城門に着くよ」
「そうか、ありがとう」
 そして、一瞬だけ二人は見つめ合った。
 互いに、もう少し何か言葉を交わしたいような眼差しだったが、すでに走りはじめた仲間たちが、若者を呼んでいた。
「岳兄、急ごう」
 若者はもう一度、望春に礼を言うと、軽やかに馬上に登った。
 そして、午後の日差しの中を、颯爽と馬で駆け抜けていった。

 その年、九月二十日。
 梁山泊軍は宋国の都・東京開封へ帰着した。
 彼らは杭州で遷化した魯智深を荼毘に付し、法要を行った。その遺骨は、禅杖とともに六和寺に納められた。
 林冲も、寺に残った。すでに彼は自らの意志を示せぬほどに衰弱しており、移動には耐えられぬと判断されたのだ。
「俺が、残ろう」
 武松が、林冲の看護を申し出た。
 隻腕となった武松は、東京へ帰還することも、官職を得ることも望まなかった。
「林冲も、もう──死んだことにしてやってくれ」
 楊雄と時遷ら杭州で死んだものは、みな六和寺に葬られた。
 ただ穆弘と張横の柩は、柳絮が潯陽江に葬るために船で江州へ連れて帰った。
 そのための船を手配したのは李俊だったが、彼と童威、童猛の姿は、梁山泊軍が出発する時には陣営から消えていた。
 それらすべてを、宋江は穏やかに受け入れた。
 その姿には、別離の哀しみはなかった。まるで、また会うことが分かっているかのように、穏やかに微笑み、手を取り合い──彼らと、別れた。
 そのように杭州を後にして、梁山泊軍は東京に戻って来たのである。


 東京での“儀式”は形式どおり、粛々と行われた。
 まず宮中にて、宋江と頭領たちは天子に拝謁した。戦勝を報告し、聖恩に謝し、天子からは戦功を褒め、また死傷者を労る御言葉があった。
 実際、天子は梁山泊の頭領たちの数が三分の一にまで減ったのを目の当たりにし、心中いたましく思し召された。
 しかし、龍顔の色が曇りがちだったのは、両側に控えている蔡京、童貫が、先んじて様々に梁山泊を貶める言葉を囁いていたためである。
 曰く、梁山泊軍は張招討を脅して、粉飾した戦勝報告を送り続けた──方聖宮を攻落したのは“官軍”で、方臘を捕らえたのも童貫配下の辛将軍である──梁山泊軍は明教徒に同情的で、戦闘には消極的であった──などである。
 宿元景から間逆の報告を受けていた天子は、童貫たちの言い分を丸々と信じたわけではない。かといって、正誤の決断もできなかった。
 宋江になにか問うても、“皆様のご報告の通り”という答えしかない。
 かくして、報奨として将兵に金銀や緞子など、宋江と盧俊義には加えて錦袍と名馬を与えるに止まった。また、陣没した者には、それぞれ正将は忠武郎、偏将は義節郎の官職を追贈された。
「して──宋先鋒らの官職は」
 拝謁を渋面で見守っていた宿元景が進み出た。
「宋江らの奮闘なくば、こたびの戦勝は不可能でございました。その功績にふさわしい官職を授けられ、聖徳をお示しくださいますよう」
 王都尉も同意した。
 しかし、天子が玉音を響かせる前に、蔡京が耳障りに咳払いをして、神妙な顔で進み出た。
「宋江らは人数も多く、その叙任は功を前例に鑑みて慎重にいたすべきこと──」
 蔡京の神妙で厳粛な態度は、天子の最も苦手とするところである。天子が口ごもったところに、蔡京は畳みかけた。
「宋江らは陳橋に軍を止め、追って沙汰を待つように」

 勤労の祝宴もなく、宋江たちは宮中を出た。それを特に不満に思う者もなかった。
 宮門の外の広場には、東京に残っていた安道全、皇甫端、蕭譲、金大堅、楽和たちが待っていた。
 梁山泊が戻ったので、もう“人質”の意味もなくなったからだ。彼らはある程度の戦況を知っていたが、こうして仲間が欠けたことを目の当たりにすると、言葉がなかった。
 それでも、彼らはできるだけ以前通りにふるまった。
 安道全は宋江を診察し、皇甫端は馬たちを診て回った。蕭譲は、楊林から預かっていた講談の資料を返した。
 楽和はしばらく人待ち顔で仲間の間を巡っていたが、李逵を捕まえて尋ねた。
「燕青はどこだい」
「しらねぇ」
 李逵はむっつりと答えた。
 李逵は拝謁のあいだ、“天子どものやり口”にムカムカしていたのだ。しかし、宋江が静かにしていろと言ったので、我慢していた。
「あいつは“浪子”だ。ひとりで、どこかへ行っちまった」
「燕青らしいや」
 楽和は笑った。
「僕はこれから、どうしようかなあ」

 見上げると、秋の空が高かった。
 宿元景と連れ立って宮門を出てきた王都尉が、楽和の言葉を聞きとがめた。
「わしとの約束を忘れたか」
「忘れたのは、あなたの方でしょう」
「なにを言う」
「東京にいた間、僕は“あなたの歌手”になった。ずっと務めるなんて、いつ約束しましたか」
「お前という奴は」
 あきれる王都尉を尻目に、楽和は空に向かって深呼吸した。
青空のもと、石畳が続く広場に、生き残った仲間たちが三々五々、集まっている。爽やかな秋の風がふき、金色の光が降り注ぐ。
 すべてが、新しく、鮮やかに見えた。
「そうか……僕たちは、自由なんだな」
 切ないような、心が奮い立つような、不思議な気持ちだ。
 どんな歌を歌えばいいのか、わからない。
 終わり、そして、始まる。
 梁山泊からも、仲間からも解き放たれて──鳥は、どこへ飛んで行くんだろう。
(そして、宋江様は)
 楽和が目をやると、みなの真ん中で、宋江と宿元景が向き合っていた。
「これから、私の屋敷で祝宴を」
 宿元景の親切を、宋江は謝辞した。
「申し訳ありません。行かねばならないところがあるのです」
「どちらへ」
 宋江の足元の影を、空をゆく小鳥の影が飛び越えていった。
「弔いです──若者の」

 露華が泣いていた。
 孫立のひとり娘の露華は、父親を出迎えるため、母とともに登州から東京へやって来た。
 背も伸び、楽和にもらった螺鈿の腕輪が、ちょうどぴったりになっていた。数年ぶりに、父親や大好きな叔父に会える──と楽しみに来たのである。
 しかし、無事に再会を喜んだのも束の間、梁山泊での友達であった呼延威の戦死を知らされた。
 葬儀は城内の相国寺で行われ、招安の時に別れたきりの懐かしい顔が集まっていた。花望春、徐晟、彭萌、小魚もいた。
 しかし、呼延威だけは、冷たく堅い柩の中に、沈黙して横たわっていた。
 梁山泊にいた頃、望春がいじわるを言うと、いつも“威にいさん”が露華をかばってくれた。一人っ子の露華は、呼延威を本当の兄のように慕っていたのだ。

 望春は、泣けなかった。
 数年ぶりに会った幼なじみは、驚くほど美しい少女に成長していた。
 その名の通り、露にぬれた花のようだった。
 露華があまり哀しげに泣くものだから、逆に泣けなくなってしまった。
 望春も、梁山泊軍が帰還してはじめて、友達の呼延威が戦死したことを知った。勇敢に戦い、流れ矢にあたって死んだという。
 呼延威は、梁山泊の仲間のうちでは年長で、落ち着いていて、武術もいちばん優れていた。
 出陣していく時の、誇らしげな姿を覚えていた。
 だから、呼延威の柩を前に、望春は呆然としているしかできなかった。
 呼延威は、こんなに美しくなった露華を見ることができない。
 もう、なにも、見ることも聞くこともできないのだ。
 こんな冷たく堅い柩の中に横たわり──この世界から、永遠に隔たった。
 戦死なんて“大人”の世界の話で、自分たちにはまだ関係ないと、望春はどこかで思い込んでいた。
 すでに叔父の秦明の葬儀は終えていたが、それはあくまで“おとな”の死であり、一緒に遊んだ友達の死は、より鮮明に、残酷に、望春の胸を抉った。
 柩の上に置かれた呼延威の剣が、なにか、哀しみとは別の感情を、望春に訴えているような気がした。

 露華は、まだ泣いている。
「泣くなよ、露華」

 徐晟が露華を慰めた。父親の徐寧を亡くして否応なく“家長”になってから、呑気者だった晟児は別人のように大人びていた。
 間もなく、東京を離れ、母親の実家に行くという。
 大人たちは、焼香したり、哭したり、喪主の呼延灼の手を取ったりと忙しい。点主は宋江で、位牌に点が打たれると、もう、呼延威は彼岸の人だ。
 僧侶たちの世話、来客の応接など、表立ったことは裴宣が手助けしている。茶菓の支度や灰の掃除など、細々とした裏方は剣娘が受け持ち、小魚がなにかと手伝っていた。
 望春は、徐晟に言った。
「なんだい。小魚のやつ、すっかり“跡継ぎ”気取りじゃないか」
「そんなことを言うのはよせよ」
 徐晟は声を低め、たしなめた。
「呼延老将軍だって、息子がいなけりゃ、心細いよ」
 その言い方が、在りし日の呼延威のようで、望春はまたふさぎこんだ。
 葬式のあいだじゅう、望春はふさぎこんでいた。

 父親の花栄も同様だった。
 望春は、母親の崔淑卿と父親の花栄から、よいところだけを選んで受け継いだような美少年である。しかし、感情をあらわにすると、その顔つきは父親の花栄にそっくりだった。
 いま、二人はそれぞれ、不安と不満を眉のあたりに蟠らせていた。
「呼延将軍は城外に土地を買って、呼延家の墓地にするそうだ」
 花栄は、呉用に言った。
「秦明の墓は、青州に作る。四川は遠いし、青州なら秦明の配下だった兵も多い。黄信が何かと面倒をみてくれるので、助かるよ」
 花栄は、妹の悲嘆を思って、また眉を曇らせた。気丈な妹が、あれほど打撃を受けるとは思わなかった。
「なにか、威勢のいい話はないかね」
 宋江は呼延灼につきそい、家族を慰め、弔問客の挨拶を受けるのに忙しい。
 呉用と花栄は、葬式に列席するには不向きな人間だった。死者よりも、生きている人間へ関心がより強く向いているのだ。
 二人は人気のない控えの別間に移った。
 小魚──呼延玉※が茶を運んできたが、敏感な若者はすぐに部屋を出ていった。
 呉用は雑談のように切り出した。
「これから、我々はどうなると思いますか」
 花栄は、呉用が“雑談”などしないことを知っている。呼吸をはかるように、熱い茶碗を手にとった。
「童貫は、兵数を補うために、我々を遼国への戦に狩りだすのではないか」
 朝廷は新興の金国と同盟し、遼国を挟撃すると約束している。その履行が、方臘の乱のために延期を繰り返しており、金国の不満が高まっていると言われていた。
「童貫は、梁山泊軍をまた便利に使おうとするだろう。今度こそ全滅すれば、好都合だしな」
「そうはならないと思います」
 花栄は飲みかけた茶碗から口を離した。
「なぜ」
「童貫は、好むと好まざるとに関わらず“梁山泊軍”の力を認めている。しかし、軍功を認める気はない。当然、不満を抱いているだろう我々を遼征伐に差し向けるのは、虎を野に放つようなもの」
「今度こそ燕雲に独立するか、遼国と手を組んで──と危惧しているというわけか」
 今回は、首尾よく宋江から手柄を奪った。しかし、このまま梁山泊軍を見逃すとは思えない。
「童貫は、我々に適当な官職を授け、各地へ赴任させるでしょう。宋江殿と盧俊義殿は、おそらく遠隔地へ」
「梁山泊軍を解体する気か」
「それは、避けられぬこと」
 呉用は、茶卓に地図をひろげた。いくつかの地名のそばに、こまごまと何かが書き込まれている。
「呉先生、これは?」
「各地の、空席となっている軍職を調べました」
「それは連中が決めることだ。我々には、どうにもできないぞ」
「そうでしょうか」
 呉用の目が、地図を見ている。

「我々も、戯れに選んでみませんか」
 呉用の言葉に、花栄は背筋がぞくりとした。
 葬式だから、もちろん羽扇は持ってきていない。
 しかし、もしあの羽扇が手元にあったら、間違いなく、涼やかな風を起こしただろう──と花栄は思った。
 それは、“智多星”が起こす、嵐を呼ぶ涼風なのだ。

 宮廷内のいつもの部屋に集まったが、童貫は、疲れていた。
 遠征のあいだは気が張って疲れも忘れていたが、東京に帰還した途端、方臘の乱鎮圧の安堵もあって、疲労が体の芯からにじみ出してくるようである。
 蔡京は、忙しかった。
 方臘の乱を鎮圧したからには、早急に金国との約束を実行しなければならない。連合して遼国を攻めると同盟したが、兵力の不足から出兵がのびのびになっているのだ。金国からは、恫喝にも似た催促が矢継ぎ早にやってくる。
「しかし、兵が足りないのは事実」
 蔡京は童貫に諮った。
「たびたびの乱を鎮圧するため、実に多くの将兵を失ってしまった。今、新たに全国から若者を徴募し、新しい軍を編成するよう進めております」
「それは、妙案」
 童貫は同意した。
「“招安”にはこりごりだ。若く純粋な良家の子弟を集め、忠義の兵となるよう教育すれば、面倒を起こすようなことにはならぬだろう」
「いかにも」
 二人の話が終わるのを待っていた高求は、これを機会に切り出した。
「で、宋江らの官職はどのように?」
「地方に飛ばせ」
 童貫が即座に答えた。
「特に宋江と盧俊義は、東京に近づけてはならぬ」
「本来ならば、節度使相当の功績ですが……」
 蔡京が口をはさんだ。
「高位を与えてはならぬ。天子に容易に拝謁させるべきではないぞ、高太尉」
「では、大夫の位を与え、按撫使程度では如何」
 童貫と蔡京は少し吟味し、頷いた。
「他の者も、ほどほどの官職を与え、各地に分散させましょう。文句が出ても、空きがない、と言えばよろしい」
 高求は懐から書き付けを取り出した。
「私のほうで、いくつか空席を選んでみました。正将は指揮使、偏将は都統制あたりでうまく折り合いを付けたく思いますが」
 童貫と蔡京は、高求の書き付けを一瞥した。候補の役職が書かれていた。
「よかろう」
 童貫は満足した。
 蔡京も、高求の提案に異論はなかった。高求が選んだ官職は、彼らの思惑に沿って、しごく的確に選ばれていた。
 ただ、童貫の背後に控える王稟が、不満げな顔をしていた。
「阮小七という男、方聖宮で反逆者の黄袍を身につけ、得意がっておりました。お上を恐れぬ所業、大逆でございます。おとがめにならぬのですか」
 童貫はややうんざりしたが、態度には出さなかった。
「頃合いを見て、処置すればよい。今後も梁山泊の残党に少しでも不敬な態度があれば、見過ごしにはせぬ」
 王稟もそれ以上は強弁せず、高求がこの会議を締めた。
「では、宋江と盧俊義は遠隔地に。その他の者は、ほどほどの官職を与えて各地に分散──そのように処置いたします」
 童貫と蔡京は席を立った。
「高太尉に任せよう」
「我々は忙しいのでな」

 二人を見送り、やがて高求も部屋を出た。
 人気のない回廊を渡っていくと、曲がり角の向こうに、扇を手に池を眺める王都尉の優雅な姿が見えた。
 高求が立ち止まると、王都尉も振り向き、二人の男の目が合った。
(わしは“恩知らず”ではありませんからな)
 その顔が、そう言っていた。東京の無頼漢“高毬”がここまで出世できたのは、曲者好みの王都尉の使い走りとして、蹴鞠好きの今上の目に止まったのが始まりだ。
 高求は慇懃に頭を下げ、また回廊を渡っていった。

(飢饉に生き残るのは、雀でもなく鶴でもなく、黒い烏だ)
 高求は、懐の書き付けをぽんと叩いた。
 梁山泊は今でも憎い。
 しかし、自分の身も大切だ。
 利益のありそうなところには、すべからく恩を売っておくのが、賢い男というものだ。
 王都尉は、“同類”だ。黒い烏は──なんでも食らう。

「彼らは納得しましたか」
 呉用の言葉に、宿元景は複雑な顔をした。
「高太尉がうまく運んだようだ。呉先生は、非常に按配よく“配置”された」
 宿元景の屋敷の奥の間である。
 主の人柄そのままに、無駄な装飾のない部屋だった。
 しかし、さすが朝廷の太尉だけあり、二人が向かい合っている卓は、最高級の縞黒檀で作られていた。
 呉用は、礼をいった。
「宿太尉のお力添え、感謝いたします」
 呉用が選んだ“ほどほどの官職”は、宿元景から王都尉へ、そして高求へと流れていった。
 高求は、王都尉の頼みをきいてやったと信じている。
 王都尉と宿元景が、宋江らが塵芥のような官職か、実のない名誉職、東京まで半年もかかるような僻地に飛ばされるのを案じて、“ほどほどのところ”で手打ちにしてほしい──と頼んできた、と思っているのだ。
 よもや、呉用が草案を作ったとは夢にも知らない。
 宿元景は憤慨している。
「童貫たちは、この国の危難にも、自分たちの利益しか考えておらぬ。呉先生の提案がなくば、宋江らをどのような閑職に追いやったか」
 その宿元景も、呉用が自ら動かねば、童貫らの人事を手を拱いて傍観しているしかなかった。
 呉用は全国の空いた官職から、童貫らも納得しそうな、高くもなく、低すぎもしない“手頃”な候補を選び、花栄とともに名簿を作った。
 それは、宿元景にも満足なものだった。
 彼は、きたるべき“政変”のために、“梁山泊軍”を手の届く範囲に温存しておきたかった。宋江と盧俊義は、遠隔地でも仕方ないが、その他のものは東京からあまりに遠くては困る。
「蔡京に牛耳られている今の朝廷、童貫が兵権を独占している官軍では、有事の時に東京を、天子を守れない」
 宿元景の切実な言葉に、呉用は軽く頷いた。
 はっきりと口には出さないが、宿元景は“政変”──政権を蔡京から、兵権を童貫から取り上げる時に備えている。その時に自分たちが動かせる軍として、梁山泊軍を見なしていることを、呉用はとうに知っている。
 そのため、宿元景にも都合のよいよう、官職を選んで提案したのだ。
 童貫たち、宿元景たちに疑われず、呉用の計画を遂行する絶妙の選択は骨が折れたが、うまくいった。
「辞令が出しだい、我々は速やかに赴任しましょう。これが最後かもしれません。どうぞ、宿太尉も──お健やかに」
 呉用は屋敷を辞した。
 外は、もう黄昏だった。
 門番の小屋で、“鶏尾”が待っていた。すっかり従者姿が板につき、すぐに呉用の馬を牽いてきた。
 暮れかけた東京の街を、呉用はゆっくりと抜けていった。
 うまくいったが、心は躍らなかった。
 童貫、蔡京の思惑を読み、高求と取引し、王都尉と宿元景の計画を利用する──。
 すべてが駆け引き、騙し合いだ。
(いつまで、こんな味気ないことをするのだろうか)
 自分ももう、若くはない。
 太陽は容赦なく傾いていくというのに、人の裏をかいたり、騙しあう、こんな“戦い”をいつまで続けねばならぬのだろう。
 公孫勝に、“二仙山に行かないか”と誘われた時のことを、なぜか懐かしく思い出した。
 道士になる──それも、また、いいかもしれない。

(いずれは、終わる)
 この“戦い”も終わる日がくる。
 それは、呉用が諦めた時もでも、死んだ時でもない。
 梁山泊が勝利した時、“智多星”呉用の戦いは──終わるのだ。

「もう一戦!」
 若者たちの明朗な声が、東京の空にこだましていた。
 相国寺の境内は広い。
 賑やかな若者たちの声は、そのどこかから聞こえてくる。
 植え込みのあいだを歩いていた花望春は、立ち止まり、声が聞こえてくる方へ目を向けた。
 その眸が、快活な望春らしくなく曇っているのには、いくつかの理由があった。
 まず、今朝、望春はひとりで朝食をとった後、家から飛び出してきたのである。
 やっと会えた父親は、家には殆どいないで外出している。その顔は険しく、声もかけにくかった。
 いつも相手をしてくれていた叔母の宝燕は、夫を亡くした哀しみで寝ついてしまった。
 そのため、母親は双子の世話で一日じゅう忙しい。
 屋敷には他にも黄信が泊り込んでいるが、彼もまた、秦明の埋葬など家の用を花栄の代理として采配している。
 もちろん、望春の身の回りの世話は、手伝いの楓児がしてくれている。楓児は口がきけないが、いつもにこにこと笑っていた子だ。それが、梁山泊軍が帰ってきてから、少しも笑わなくなってしまった。
 誰ひとり、望春を労り、慰めてくれるものはいなかった。
(いいさ、僕だって、もう“おとな”だ)
 強がって誰にも言わずに家を出て、ぶらぶらと東京の街を歩いた。はじめは、露華か徐晟に会い行こうと思っていたが、だんだん気が乗らなくなってやめにした。
 そして、気がつくと、相国寺の門前に立っていた。
 東京でもいちばんの名刹で、境内には市がたち、多くの人で賑わっている。その人の流れを縫って、望春は寺の奥にある、呼延威の柩を安置した小さな建物の扉を開いた。
 中は誰もおらず、冷えた香の匂いがして、棚には供え物がきれいに並べられていた。
 呼延威の柩の上には、彼の剣が置かれていた。
 呼延威と一緒に出陣し、戻ってきた剣である。赤い房飾りが、この灰色の部屋のなかで、ひとつだけ“命”を感じさせていた。
 望春は,その房に触りたいような気がしたが、足は敷居の前から動かなかった。
 そして、そのままくるりと身を翻し、逃げるように去った。
“おとな”になるとは──戦って、死ぬことだ。
 強烈に、そう感じた。
 その時に、声を聞いたのである。
「もう一戦!」
 望春は声の方へ歩いていった。裏の菜園に、大勢の若者が集まっているようだった。
 そういえば、昨日、黄信が言っていた。
 軍が兵の不足を補うため、全国から武芸にすぐれた子弟を募り、開封府で武比大会を開催する。優秀者は士官候補とし、優勝者は、若年でも将に取り立てる──。
 その応募者たちが、相国寺を宿舎にしているという。
 菜園の垣根のあいだから覗いてみると、数人の若者が槍を弓の稽古をしているところだった。
 声を聞いた時、もしやと思ったが、彼らの中心になっているのが、河原で会った四人組の若者だった。
 あの“生意気な御曹司”が、何人かの若者たちを遮っている。
「もうよせって、岳兄は強い。かなうものか」
 彼らの向こうには的があり、中央に一箭、周囲に十数本が散らばって突きたっていた。的は八十歩ほどの距離に置かれており、かなり遠い。その中央に見事に命中させたのが、“岳兄”だった。
 自慢げに息巻く御曹司に対し、岳兄は弓を手に泰然と佇んでいる。
(弓比べをして、彼が圧勝したんだな)
 望春はもっとよく見ようと背伸びをした。垣根が動いて、誰かが指さし、叫んだ。
「誰か覗いているぞ!」
 若者たちが、ばらばらと集まって、望春を茂みから押し出した。
「あやしいやつ。我われ“河南組”を偵察にきた“河北組”の密偵かもしれないぞ」
 望春が小突かれそうになった時、岳兄がゆったりとした足どりでやって来た。
「ああ、君だったか。みな、彼を離してやってくれ」
 穏やかに言うと、若者たちは素直に従った。
「弓に興味があるんだね」
「ないよ」
 望春は冷淡に言って、乱れた着物の襟を直した。
 父親も、黄信も、若者の武比大会があると知っているのに、誰も彼に参加しろとは言わなかった。それが、なんだか悔しかった。
 御曹司が笑った。
「武芸ができないんだろう」
「できるさ」

 望春は御曹司の弓矢を奪い取ると、さっと狙って的を射抜いた。
 矢は、的の真ん中を勢いよく貫いた。その衝撃で的が割れ、他の連中の矢とともに地面に落ちた。しかし、岳兄の矢は落ちなかった。的を吊っていた柱まで貫いていたからだ。
 若者たちが、わっとさわいだ。
「ちびなのに、すごい腕前だ」
 望春は弓を返した。みなに見直されて胸がすっとした。しかし、ひとり岳兄だけが、嘘をついた望春を鋭い目で見据えていた。
 ただ、それも一瞬だった。
「張弟、槍を」
 仲間の若者が槍を二本運んできて、岳兄と望春に手渡した。
 望春は黙って槍を握り、身構えた。槍も父親から仕込まれている。自信があったが、何合か交えると、とても敵う相手ではないのが分かった。派手さはないが、岩のように揺るぎない槍だ。望春は形勢が悪くなる前に、勝負をかけた。防いだ時に、わざと足を浮かせて隙を作った。そこに相手の槍を誘い込み、上半身への注意をそらすのだ。
 しかし、見抜かれた。岳兄は誘いに乗らず、真っ直ぐに望春の胸を突いてきた。望春は防いだが、今度は本当に足が乱れた。そのまま体勢を立て直せず、脇腹へ容赦なく槍を叩き込まれた。
 倒れる──と絶望したが、岳兄は寸前で槍を止めた。
「正面から堂々と戦えば、互角だったかもしれない」
 残念そうに岳兄が言った。
「奇襲ならば、失敗した時に、すぐに次の手を打つ余裕がなければ」
 望春は槍を投げた。
 悔しかった。あまりに悔しくて、涙が出そうだった。
「威哥なら、勝てた」
「威哥とは」
「死んだ、戦で」
「気の毒に」
 望春は、地面に転がった槍を睨んでいた。
「威哥なら、勝てたんだ」
 こんな“だまし手”は使わずに──正面から堂々と戦った。
「そうか」
 岳兄の声は、穏やかだった。同情でもなく、その場しのぎの慰めでもなく、彼が、心からそう信じてくれているのが分かった。
 望春が顔をあげると、岳兄はやはり穏やかに言った。
「一緒に、武比に参加しよう。官軍に入り、契丹人から燕雲を取り戻すんだ」
「いやだ」
 なにかが、ぽつりと足元に落ちた。
「官軍になんかなったら、ろくな目に遇わない」
「なぜ」
 望春は何か言おうしたが、その前にみなが空を仰いで騒ぎだした。
「あっ、雨だ」
 若者たちが、急に降り出した雨から逃げていく。
 望春も駆けだした。
 背中に岳兄の視線を感じたが、振り向かなかった。
 望春は雨の中を夢中で走った。
 走りながら、父親の言葉を思い出した。
『いつか、自分が“いま”だと思った時に、名を“逢春”と改めよ』

 しかし、いまだ春に出会うこともなく──秋の雨は、雪のように冷たかった。

「辞令がでた」
 秋も終わりかけていた。
 花栄の家──正確には、その妻・崔氏が借りてくれた仮住まいである。そこで、呉用は花栄から叙任の書類を見せられた。宿元景が、ひそかに渡してきたものだ。
 呉用は名簿を丹念に見ていった。
 結果は、いくつかの調整はなされていたが、呉用が打診したとおりだった。

  宋江──楚州安撫使兼兵馬都総管
  盧俊義──盧州安撫使兼兵馬副総管
  呉用──武勝軍承宣使
  関勝──北京大名府正兵馬総管
  呼延灼──御営兵馬指揮使
  花栄──南京応天府兵馬都統制
  柴進──横海郡滄州都統制
  李応──中山府運州都統制
  朱仝──保定府都統制
  戴宗──エン州府都統制
  李逵──鎮江府潤州都統制
  阮小七──蓋天軍都統制

 以下の者も、それぞれ各地の軍の都統領に任じられていた。
「誰も、我々の計画には気づいていない」
 花栄は、呉用の横顔を窺った。
 そこには、なんの表情も浮かんでいないのに、花栄は戦場にいるような緊張を感じていた。
 童貫たちは、梁山泊を各地に分散し、勢力の自然消滅をもくろんでいる。だから、この“地方軍の司令官”程度の地位が、高くもなく、低すぎもせず、ちょうどよいのだ。
 宿元景たちは、ひとまず梁山泊軍を解体して童貫たちの目をくらませつつ、勢力を温存して、いざという時に使いたい。地方軍といえども、数千から数百の兵がある。糾合すれば、それなりの戦力になると目論んでいるのだ。
(ならば、我々は)
 花栄が明言を憚った、その答えを、呉用はついに口にした。
「この国は、いずれ滅びる。内部からではなく──必ず、外から」
「童貫らの専横や、内紛では滅びぬと? 外とは、遼国、金国か」
「遼国には、もはやかつての勢いはない。おそらく、金国でしょう。いま宋と金は同盟の関係にありますが、女真人は剽悍で疑り深く、宋のことを信用しているわけではない。南方の豊かな財も欲している。いずれ彼らは南下を始める。そうなれば、宋の天子は江東……杭州、揚州へ蒙塵するでしょう。その時、天子を保護し、推戴すれば──」
「天下に号令──“黄袍加身”で建ったこの国が、“黄袍加身”で滅びる、か」
 周の将だった趙匡胤は、酔っている間に部下によって黄袍──天子の御衣を着せ掛けられた。そして、主である幼帝を廃し、宋を建国したのである。
 花栄は、任官表へ目を走らせた。
 宋江の楚州。
 盧俊義の盧州。
 そして、李逵の鎮江府潤州。
 この三点を結べば、蘇州、揚州、杭州ら江東を、北方から遮蔽することができる。
 すべて、呉用が“そしらぬ顔”で選んだ土地だ。
「呉先生。やはり、おそろしいね、あんたは」
「種は、古い土の中で育つものです。磐石たる新政権も、つねに古い権力の中から生まれる。それは、数々の歴史が証明しています」
 羽扇が風を起こさなくても、風は、北から吹いてくるだろう。
(あとは)
 呉用の懸念はひとつ。
(宋江殿に、いかに黄袍を着せるか──のみ)

 数日後、宮中で叙任の儀式があり、宋江たちは天子より辞令を受け取った。
 臨席の天子より宋江らの忠義を褒めるお言葉があり、それから宋江が差し上げた上奏文が宿元景により代読された。
「──臣宋某等、謹んで表をたてまつる」
 聖恩を謝し、続いて賞に浴する在没の人員の名簿が読み上げられた。

陣亡せる正偏の将領五十九名
 正将十四名
  秦明 徐寧 董平 張清 劉唐 史進
  索超 張順 阮小二 阮小五 雷横 石秀
  解珍 解宝
 偏将四十五名
  宋万 焦挺 陶宗旺 韓滔 彭己 鄭天寿
  曹正 王定六 宣贊 孔亮 施恩 赫思文
  登飛 周通 共旺 鮑旭 段景住 侯健
  孟康 王英 扈三娘 項充 李袞 燕順
  馬麟 単廷珪 魏定国 呂方 郭盛 欧鵬
  陳達 楊春 郁保四 李忠 薛永 李雲
  石勇 杜遷 丁得孫 鄒淵 李立 湯隆
  蔡福 張青 孫二娘

路に於いて病没せる正偏の将領十名
 正将五名
  林冲 楊志 張横 穆弘 楊雄
 偏将五名
  孔明 朱貴 朱富 白勝 時遷

杭州六和寺にて坐化せる正将一名
  魯智深

臂を折って恩賜を願わず六和寺に出家せる正将一名
  武松

京師より薊州に帰って出家せる正将一名
  公孫勝

恩賜を願わず路上に於いて去れる正偏の将四名
 正将二名
  燕青 李俊
 偏将二名
  童威 童猛

はじめより京師に残留せるもの及び召還されし医師ら、在京の偏将五名
  安道全 皇甫端 金大堅 蕭譲 楽和

現に拝謁を受けし正偏の将二十七名
 正将十二名
  宋江 盧俊義 呉用 関勝 呼延灼 花栄
  柴進 李応 朱仝 戴宗 李逵 阮小七
 偏将十五名
  朱武 黄信 孫立 樊瑞 凌振 裴宣
  蒋敬 杜興 宋清 鄒潤 蔡慶 楊林
  穆春 孫新 顧大嫂

 戦死した者たちにも、それぞれ位が追贈され、遺族には褒美が下賜された。
 生き残った者が任じられた官職については、特に誰からも不満はなかった。特に関心もなかったからだ。
 ただひとり宋江だけが、深く頭を垂れて申し出た。
「わたくしは官職を辞し、故郷へ戻って庶民となることのみ望んでおります。再び小吏を務め、ただ“保義”と呼ばれて、老父に孝養を尽くし、静かに余生を過ごすにまさる喜びはございません。なにとぞ、お聞き届けくださいますよう」
 その言葉には、宿元景はもちろん、居並ぶ蔡京からも驚きの声が洩れた。
「それは、この官職では不服というのか?」
「そのようなことは」
「ならば、聖恩に背くような不忠はならぬ。謹んで辞令を受けるよう」
 そう言われては、宋江も辞令を受けるほかはなかった。
 続いて正将たちも辞令を受け、偏将では、黄信が青州の、孫立が登州の元の役職に復した。ほかの者は、あらかじめ軍に入ることを望まず、そのように申し出て受理されていた。
 梁山泊の者たちは、それぞれに支度を整え、順次、任地あるいは故郷へ出発することになった。
 送別の宴があり、まず黄信が、秦明の柩を伴って青州へ旅だっていった。
 途中まで、登州へ戻る孫立と道連れだ。孫立には、庶民に戻った孫新、顧大嫂夫婦と、ひとり登雲山へ帰る鄒潤が一緒だった。鄒潤は、辞令を受け取らなかった。
 瘤の傷もだいぶ癒え、懐には、東京で買った新しい象牙の骰がある。
「役人になぞなったら、博打ができなくなるからな」
 顧大嫂は、一族と連れ立ち、東京の城壁を見上げた。
「なんだろうね、まるで……」
 呟いて、居並ぶ一族を見回した。
「まるで、“あの日”のままみたい」
 牢破りをして、一族で登州から逃げ出した日──しかし、赤ん坊だった露華は少女になり、解珍と解宝は死に、鄒淵もいない。
 楽和は登州には戻らず、もうしばらく王都尉の屋敷で“ぶらぶらしている”そうだ。
「なんだか、みんな夢だったみたいだよ」
 解珍たちは、先に帰っているだけで、あの山に行けば、また会えるような気がする。
「そんなことは、ないんだろうねぇ」
 晩秋の日差しが、露華の薄紅色の頬を斜めに照らしていた。
「泣くんじゃないよ」
 顧大嫂は露華の頬を撫でた。
「また店を建てて、賭場も開くんだ。賑やかにするよ」
 冷たい風を、顧大嫂は胸いっぱいに吸い込んだ。

「さあ──行くよ。出発だ!」
 孫立の馬が先頭を行く。
 女たちの馬車が続く。
 そうして、登州の一族は、かつて来た道を還っていったのだ。

 花栄と望春が、出発する黄信を見送った。
 早朝。まだ星が残る空の下で、花栄は黄信に別れを告げた。
「しばしの別れと思うが……この先、俺に何かあれば、家族を頼む」

「何があるというのだ」
 黄信は冷静に言った。
「俺たちには、もう、なにも起こらない」
 また、以前のように職を務め、日々を暮らしていくだけだ。
 その職務も、今の黄信にとっては、秦明の埋葬ほど重要でもない。
「墓が出来たら、みなで一度、青州へ来てくれ」
 黄信は秦明の柩を馬車に乗せ、東京を後にした。
 それからも、別れが続いた。
 蒋敬が故郷の譚州へ、穆春も掲陽鎮に帰っていった。
 朱武は樊瑞と連れ立ち、公孫勝に道術を学ぶため、二仙山へと去っていった。
 楽和のほかにも、東京に残る者たちがいた。
 凌振は火薬局御営に入り、今後も火砲の研究に勤しめることになった。
 安道全は太医院の医官となり、皇甫端は御馬大使に任じられた。
 金大堅は内府御宝監に務め、蕭譲は蔡京の家の門館先生を続けることになった。
「自由に出歩けるなら、東京も悪くないからね」
 王都尉の豪邸も、楽和にとっては便利な宿屋くらいのものだ。それでも、王都尉は喜んだ。宿代がわりに、時々は歌が聞けるからだ。

 関勝は、養子の関鈴を連れて、北京大名府に赴任する。
 関鈴の本当の両親も東京までやってきて、関勝に会い、さまざまな礼を述べた。赫思文の妻であった関鈴の母は、聰明な目をした美しい夫人だった。
 蔡慶も、関勝について北京へ帰ることになっていた。庶民にもどり、なにか商売でもするという。
「床屋でもやればいいよ」
 関鈴が、無邪気に提案した。
 呼延灼は御営なので、東京に残る。
 小魚──今は呼延玉※が、関鈴の見送りに来た。
「しばらくは、会えないね」
 関鈴は、赫思文の愛馬であった“茉莉花”を牽いていた。
「赫おじさんは、いい人だった」
 呼延玉※は、関鈴の母親に聞こえるように言った。何か、言ってあげたかったのだ。
「絶対に怒らないけど、諦めない人だった。俺が何度も落馬して、諦めそうになっても、できるまで教えてくれた。できた時は、褒めてくれた」
「うちの“義父さん”は、褒めないな」
「そうかい?」
「口ではね」
 関鈴は笑った。
「僕たち、また会えるかなぁ」
「ああ、会える気がする」
 再会を約して、二人は別れた。
 なぜか、本当にまた会えると確信していた。
 それは、ほかの者も同様だった。
 招安の時、彼らはいちど“別れた”。あの時の、焦燥感はまるでなく、ごく自然に、淡々と、穏やかに──彼らは別れていったのだった。

 李逵は不満だった。
「なぜ、おいらは兄貴と一緒に行ねぇんだ!」
 見送りの宋江に文句を言う李逵を、呉用が慰めた。
「李逵は潤州──宋江殿の楚州に、最も近い。なにかあれば、宋江殿を頼みます」
 呉用は河南、花栄の赴任先は南京だ。
 確かに、李逵の潤州と、宋江の楚州は、運河が通じており距離も近い。
「宋江兄貴は、まだ発たねぇのか。一緒に行けば安心じゃねぇか」
「わたしは皆を見送ってから、宋清と一緒に故郷に戻って父に会います。楚州にいくのは、それからですよ」
「なら、しかたねぇ」
 李逵はさっぱりと言って、旅路についた。
「潤州に着いたら、まずは焦挺の墓まいりだ」

 そして、李逵も東京を後にした。
 盧俊義は、すでにひとり盧州へと旅立っていた。盧州は淮南にあり、長江を渡れば江南、方臘のかつての支配地域だ。
 盧俊義ならば、うまくやるだろう──と、呉用は考えている。

 同じ日に発つ呉用は、お供に“鶏尾”ひとりを連れていた。
 簡素な身なりの呉用を眺め、花栄が言った。
「書生のようだな」
「私の赴任先は“南陽”ですから、ふさわしいでしょう」
 有名な越国の軍師、范蠡の出身地といわれ、また“臥竜”諸葛孔明が隠棲した場所でもある。古来から、文化の中心地なのだ。
「承宣使など、名ばかりの職で、することはありません。本でも読んで、退屈をしのぎます」
 宋江は“鶏尾”に目を向けた。こちらは小ざっぱりした家僕の身なりだ。
「あなたは、軍に入らなかったのですね」
 梁山泊軍の兵卒は銭一百貫と絹十疋の褒美をもらい、望んだ者は“竜猛”“虎威”といった近衛軍に取り立てられた。
「えへへ、兜をかぶって、槍をもって……そりゃ、いいけど」
“鶏尾”は照れて、ぽりぽりと頭を掻いた。
「先生に“お付き”がいないと、困るだろ」

 呉用を送り出すと、花栄は宋江と別れて、家に帰った。
 彼は家族を伴って赴任するので、旅支度に時間がかかる。しかし、間もなく出発することになるだろう。
 仮住まいの門を入ると、荷物が積まれた庭先の、南天のしげみの陰に望春が立っていた。望春は父親を見ると、すぐに呼延威のことを聞いてきた。
 花栄はいつも外出していて、ずっと父親と話す時間がなかった。望春には、どうしても聞きたいことがあったのだ。
「威哥は、なんの位をもらいましたか」
「なんだって?」
「戦死したんだ。なにか、官位の追贈があるはずでしょう」
「なかった」
 花栄はなにも考えずに、ありのままに答えた。
 父親の呼延灼も求めなかったし、呉用もそこまでは手を回さない。若者が死んだのは痛ましいが、追贈はさして重要なこととは思われていなかった。
 しかし、望春にとっては、そうではなかった。
「それなら、威哥は無駄死にですね」
「おい」
 父親が呼ぶのを振り切って、望春は家を出た。
 秋は短く、あっという間に冬がくる。
 風の冷たさに逆らって、望春は相国寺へ走っていった。
 呼延威の柩を安置していた建物の扉は閉じられ、鍵がかかっていた。
 柩は、もう埋葬されたのだ。
 望春はやりきれない思いをかかえて、菜園の方へ歩いていった。そこでも、旅支度の真っ最中だった。武比大会が終わり、若者たちが宿舎を引き払う準備をしているのだ。
 望春は、岳兄を見つけて声をかけた。
「試合、どうなった? もちろん、優勝しただろう」
「いいや」
 恬淡に答えた。王という姓の、あの御曹司が代わりに憤懣やるかたないという顔で続けた。
「聞いてくれよ、岳兄が弓も槍も一番だったのに、別の奴が優勝になったんだ。妙な屁理屈をつけてさ。あいつは大臣の息子だから、試験官が忖度したんだ」
「いや、私に劣るところがあったんだろう」
 生真面目な岳兄に、望春は逆らった。
「そんなことあるわけない」
 激しい怒りが、望春の声を硬くした。
 今も夢に見る、梁山泊炎上の日の恐怖。宝燕に子供が生まれるのに医者もいなくて、戦場をひとりで彷徨った。
 そして、次々と戦いにかり出された梁山泊軍は、大勢の仲間を失ったあげく、ろくな官職も与えられず、言いなりに地方へ飛ばされていく。
 あんなに誇らしげに出陣していった呼延威は、天子からほめ言葉のひとつも、官位ひとつも、もらえなかった。
「あいつらには、血も涙もない。信用しないほうがいい」
 言い放った望春を、岳兄が驚いたように見ていた。それは、否定でも疑いでもなく、純粋に、目の前の少年がそんなことを断言したのを驚いている顔だった。
 望春の心を見つめるように、岳兄は視線をそらさず尋ねた。
「国が誤ることが、あるだろうか」
 その眼差しを、望春は強く見返した。
「──あるかもしれない」
「ならば」
 岳兄は望春の強張った肩に、手を置いた。
「我々は、誤らぬようにしよう」
 大きな手が、重く、熱かった。
 望春は、肩の力が抜けていくのを感じた。なにか、大きな──秦明や呼延威に対して抱いていた、真っ直ぐで揺るぎない気力を感じた。
 その気が、肩に置かれた掌を通じて、自分のうちに流れ込んでくる。
 この立派な若者が、自分を信じ、受け入れ、対等に扱ってくれているのを、感じたからだ。
「家に、帰るのかい」
「ああ。しかし、誤解しないでほしい。もし優勝しなければ、戻れと周師父に言われているのだ。まだ、“その時”ではないから──と。師父の教えには、従わねば」
 岳兄は荷物を鞍に結び、仲間とともに相国寺の門を出た。
「また会おう。いつか」
 馬で去る岳兄に、望春は呼びかけた。
「岳兄、名前を教えておいてくれ。僕は──」
 とっさに、叫んだ。

「僕は、花逢春だ」
 冬に向かう空は灰色で、風は冷たい。
 春はまだ遠いのに、いま、彼は、“その時”だと直感したのだ。
 新しい自分になる時──これからの自分は、あたらしい、別の自分だ。
 馬は西へ駆け去っていく。
 もう声は届かない。
 しかし、岳兄は振り返り、高く腕を差し上げて、真上の空を指さした。

 見上げると──大きな鳥が、翼をひろげて悠然と飛んでいくところだった。

「岳──“飛”」
 暮れていく相国寺の雑踏の中に、花逢春は暫く佇んでいた。
 人が行き過ぎ、雲が流れる。
 その狭間にひとり立ち、逢春は顔をあげ、その眸は、真っ直ぐに夕日の彼方を見つめていた。



※文中の「卞」は、正しくは卞です。
※文中の「玉※」は、正しくは玉※です。
※文中の「高求」は、正しくは高高求です。
※文中の「運州」は、正しくは運州州です。
※文中の「エン州」は、正しくはエン州州です。
※文中の「彭己」は、正しくは彭彭己です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「登飛」は、正しくは登飛です。
※文中の「共旺」は、正しくは共旺です。




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