水滸伝絵巻-graphies-

第百三十二回
星ノ章〜水のほとりの物語(五)家路・前篇

 遅い春の雪が舞っていた。
 銭塘江に雪が降り、六和寺の庭に咲く桜の色も、いっそう儚げに見えた。
 その薄紅の桜の枝の下で、母子が待っていた。年若い母親が、乳飲み子を喪服の胸に抱いている。
「──こちらへ」
 武松は階から彼女らを呼ぶと、先に立って、時ならぬ雪に凍えた回廊を歩いていった。
 雪まじりの風が、武行者のからっぽの左袖を翻す。
 それに気づいても、客人はなにも言わなかった。
 広大な六和寺のなかでも、もっとも奥まった一室──その古い木の扉を、武松は右手だけで、押し開けた。

 その日、“豹子頭”林冲の病床に、来客があった。
 彼とともに六和寺に残り、行者となった武松は、寝台の足元に立っている。
 部屋の中は暗かった。
 武松は燭台に火を灯し、静かに枕台に置いた。暖かい色の光が、横たわる林冲と、客人の顔を照らしだした。

 すでに死相となった林冲の蒼白の横顔と、それをじっと見下ろす張清の妻──瓊英の横顔だった。
 武松は、静かに告げた。
「彼は、もう意識がない」
 瓊英は応えなかった。
 しっかりと林冲の顔を見つめ、懐に抱いた息子を林冲の方へと差し出した。
「この子が、節です」
 母の懐から離れて寒いのか、赤ん坊が、火がついたように泣きだした。
「──聞こえている」
 武松は、林冲がかすかに動いたのに気がついた。
「林冲には、聞こえている。顔を見せてやってくれ」
 もう何日も意識がなかった林冲が、うっすらと目をあけた。
 瓊英は、もう一度、言った。
「林教頭。この子が、張清の息子の節です」
 それを告げるため、瓊英は山西からここまでやって来たのだ。
「よい名を、ありがとうございました」
 独松関で死んだ張清が、会うことのなかった我が子──“節”と名付けたのは、林冲だ。瓊英は、それを張清からの最後の手紙で知った。
 張節が泣きやみ、不思議そうに林冲の顔を覗き込んだ。
 林冲の瞳にも、張節が映っていた。
 光を失った林冲の目の奥で、なにかが動いた。
 張節が笑い、林冲へ小さな手を伸ばす。
 張清によく似た赤ん坊は、無垢な笑顔を林冲の瞳に映して、この上なく嬉しそうに笑いつづけた。

 瓊英たちが去り、武松は、林冲の眼を閉じた。
「すこし、眠れ」
 瓊英はこれから息子を背負って独松関へ赴き、張清の柩を探すのだという。
 彼を家に連れ帰ります──と、瓊英は凛として語った。
 苦しげだった林冲の顔が、いまは安らかだった。
 穏やかな呼吸を繰り返す林冲を、武松はじっと見守っていた。
 ゆっくりと、物音もなく、時だけが過ぎていく。
 林冲の呼吸は繰り返すたびに次第に弱まり、それが何度かかすかに乱れ、再び安らぎ──最後に大きな呼吸をひとつして、尽きた。

 林冲は、夢を見ていた。
 呼吸が楽になり、石のように強張っていた体が、暖かく広がっていく。
 痛みも苦しみもなく、そよ風が吹いているのだけを感じた。
 自分のうえに、白いものが降っている。
 雪だろうか。
 いや──これは花びら。
 降り注ぐ薄紅の桜吹雪の彼方から、懐かしい声が、林冲を呼んでいた。
 林冲は急いだ。
 見慣れた門をくぐり、小さな庭を横切り、すり減った石段を踏んで、ようやく辿り着いた家の扉に手をかけた。
──そうだ。
 喜びが溢れ出た。
 私は、いつでも、君に遇える。
 長い長い航海の果てに、荒れ狂う波と、凍りついた風の彼方で──何度でも、君と出会う。
 この扉を押し開けば、君は、いつもそこに佇んでいる。
『ただいま──雪蘭』



(5)家路/前篇

 花吹雪が、暖かい春風に舞い上がる。
 春の朝。
 澄んだ日差しが、運河に、家々の屋根に、行き交う人の顔に明るく照り映えている。
 花吹雪は青空に舞い上がり、波間へ、屋根へ、またどこかへと──飛んで行く。
 桃か桜か、その薄紅のひとひらが、宋江の肩に留まった。
 淮南──楚州。
 柳を植えた運河沿いの土手に立ち止まり、宋江は、空を見上げた。

 春たけなわの青空に、暖かい風が吹き抜ける。
 花びらが風に散る。
 宋江の肩の花びらも、また春風に乗り、晴れ渡る空へと飛び去っていった。

 江南の春は美しい。
 杭州、蘇州、次いで揚州が名高いが、この楚州もひけをとらない。
 歴史ある古都の城壁、城の内外をめぐる小運河──波間には花筏、年季が入った木船の舳先が、岸の柳を分けて行く。
 蕭譲なら、巧みに詞を作るだろう。柴進ならば、ぴったりの詩を暗唱してくれるに違いない。あいにく、宋江はその才を備えていないが、それでも、十二分にこの風景を楽しんでいた。
“淮南”とは、淮水の北を指す。淮水は黄河と長江の間を東西に流れており、楚州の西で洪沢湖に流れ込む。そこから更に東へ進み、海へと注ぎ込むのである。
 城内を貫くように、京杭大運河も南北へ通じておる。東京と杭州をつなぐ宋国の大動脈だ。また東郊は海に接し、高麗や日本の交易船が白い帆をあげて行き来している──。
 ここ楚州は東西南北、異国まで通じる交通の十字路なのだ。古来より、数多の旅人が行き交い、その美しさ、賑わいを讃えてきた。相次ぐ戦で、その繁栄もひととき、途絶えた。しかし、今年の春の訪れとともに、人々の暮らしもまた、息を吹き返したのだ。
「食事をどうぞ、旅の御方!」
 船着場のそばの飯屋は、ちょうど朝飯の書き入れ時だ。
「お酒も上等のがありますよ! お急ぎの方にはお弁当も包みますからね!」
 年配のおかみが、門口で威勢よく客を呼び込んでいる。
 おかみは宋江を見つけると、店先の腰掛けを手拭いでさっと払った。
「“保義の旦那さま”! 朝早くから珍しいこと」
「商売繁盛だね」
「おかげさまで。酒缸を割りに来る明教徒やら、ただ食いしに来る兵隊を怖がることもないし、毎日ご飯がおいしくって」
「それはよかった」
「旦那、朝餉は」
「ありがとう、済んだよ」
 新しい船が桟橋に着き、船着場はいっそう賑やかになった。
「そんなら粽を持っておいきなさい!」
 おかみは宋江の袖に粽を押し込むと、また呼び込みを始め、宋江も笑って店を離れた。
 運河沿いには、船着場、宿屋、店がならび、祭のような賑わいだ。
 茶や果物を売り歩くもの、土産物を高々とかかげるもの。船の呼び込み、宿の客引き、荷物運びとスリと乞食が行き交っている。宿の客引きは争うように声を張り上げ、車夫たちは肩をぶつけて掴み合っている。
 しかし、宋江の道を遮るものはない。荒くれの博労も馬をよけ、置き引きは盗もうとした荷物を放り投げて頭を下げた。
「保義の旦那、この前はどうも」
「またぜひ、一杯。保義の旦那」
 人々の挨拶に、宋江は笑顔で応えていく。
 赴任してまだ一月たらずだが、宋江はすっかり街の人々と顔なじみになっていた。
「不思議な人だよ」
 靴の中敷きを売る老婆が、隣に筵を並べている笠売りの若者に言った。
「えらいお役人だか、将軍さまなんだろう? 見えないねぇ。ご自分でも、“保義の旦那”と名乗っておいでだ。実際、ああやって街をブラブラして、隠居みたいさ。だのに、お顔を見るとありがたい心地がする。ほら、みんなも、あんなににこにこして」
 そういう老婆も、宋江に渡そうと中敷きに吉祥紋を刺繍している。
 宋江は運河を背に、龍興寺の文通塔が見える街中の方へ道を曲がって歩いていく。野良犬が、尾を振って宋江の後をついていった。
「すみません、盧州へ行く船はどれでしょう」
 一組の家族連れが、遠慮がちに宋江に声をかけてきた。粗末な身なりの老人と子供を抱いた若い夫婦で、みなが腕に白い布を巻いていた。
 宋江は船着場の方を指さした。
「盧州なら、船で潤州までお行きなさい。そこで盧州行きの船に乗り換えればいい」
 家族は丁寧に礼を言い、足早に去っていった。
 辻に茶の屋台を出していた老爺が、宋江に茶碗を差し出した。
「驚いた、明教徒かと冷や汗が出ましたよ。白布なんか巻いて」
 宋江は腰掛けに座り、茶で喉を潤した。茶売りの翁は、もとは色街にいたという瀟洒な老爺だ。茶請けの小皿に、青い杏を一粒おいた。
「このあたりでも、たくさん人が死にましたからな。喪中なんでしょう」
 辻の隅には、燃えた建物の廃材や、割れた煉瓦、がらくたが積み上げられたままになっている。しかし、あの戦の名残は、これくらいだ。
「おや、あれは」
 宋江は、辻の先にある屋敷に目を向けた。
 そこは楚州知府の邸宅で、いましも脇前から数人の女が出てくるところだった。
「宋江さん、あれは京口の営妓ですよ」
 茶売りの老爺も着飾った女たちへ目をやった。
「このへんの官妓は明教の乱でいなくなってしまったから、お偉いさんの宴会には京口から営妓を呼ぶんです。昨夜の知府の宴会に呼ばれてきたんだな」
 娘たちは付き添いの老婆たちに囲まれて、船着場の方へ歩いていく。春の日差しに、鮮やかな裳裾や、宝石を嵌めた簪がきらきらと光っていた。
 宴会、酒、妓女、どれも方臘の時代には禁じられていたものだ。贅沢、横暴、賄賂や追従──そういったものが、“宋国の役人”たちとともに戻ってきた。
 老爺は湯気の立つ薬罐を薬罐を置いて、しみじみと呟いた。
「戦が終わって、日々の暮らしは元通り……お役人の好き勝手も、元通りってね」
 宋江は青い杏をつまみ、茶を飲んだ。
 春の日はのどかで、暖かく、足元には野良犬が気持ちよさそうに寝そべっている。
「ああ、ほんとうに美味しいお茶だ」

 その部屋の中は、夜のように薄暗かった。

「──お前はだれだ」
 童貫が問うた。
 答えがあるわけがなかった。
 童貫の前に置かれているのは、ひからびた首──“方臘”のしゃれこうべだった。
 清渓県から塩漬けにされて運ばれてきた“方臘の首”は、東京城内の菜市で晒された。見聞人から石を投げられ、風雨に打たれ、烏やネズミについばまれて、残っているのは骨だけだ。
 東京開封。
 枢密院の奥の間で、童貫は、もうしばらく、沈黙する頭蓋骨と向き合っていた。
 蝋燭がひとつ、燃えている。
 ちらちらと瞬く光が、ものいわぬ骨に不気味な陰影を与えていた。
(これは、本当に“方臘の首”だろうか)
 その解けることのない疑問の針が、童貫の鋼の心臓を執拗に突く。
 運ばれてきた時も、すでに顔の肉は崩れて、容貌はわからなかった。
 薄暗い部屋の斜め向かい、壁際の椅子には、高求が座っている。
 置物のようだと思った。この男は、まるで他人事のような顔をしている。しかし、この“不安”は、ともに担うべきものだ。
「これは本当に方臘の首か」
「方臘だと、証言する者はおりません。方臘軍の幹部はみな死んで、娘も自害しておりますし」
 童貫はまた方臘を睨んだ。
(盧俊義と方臘が、うりふたつだと?)
「困りましたな」
 代弁するように、斜め前に座った蔡京が言った。この優雅な老宰相は、首など見るのがいやなのだろう。半身を背け、なかば闇のなかに隠れている。
「太宗の世に、四川で謀叛した王小波というのがいた。王の死後は、甥の李順が跡を継ぎ、激戦のすえに討伐軍に敗れたが……李順は逃亡し、官軍は似た男の首をとって功績を偽ったのだと、今に到るまで言われておる。今また、そんな疑いを受けてはたまらぬ」
 高求がしたり顔で頷いた。
「いかにも。疑いならまだしも、万が一、方臘が生き延びており、どこかで反乱の狼煙をあげられたら、どうお上に弁明すればよいのか」
「高太尉は、方臘と盧俊義がすり変わっているとでも」
「どうでしょうな。芝居でもあるまいし。しかし、首が偽物では困る」
 そうなれば、宋江から手柄を奪ったのが、却って禍となって降りかかる。
「もうよい」
 童貫は決断した。
「どちらが“本物”か分からぬなら、両方を殺せばよいのだ」
 蝋燭が揺れ、しゃれこうべが、笑ったように見えた。

「盧俊義を、殺せ」

「おいしかったよ、ありがとう」
 宋江は茶を飲み終わると、礼を言って立ち上がった。
「またどうぞ、このごろ客が少なくて、暇ですからね」
「そうかい?」
 華やかな妓たちが、眠たげな顔でそばを通りすぎていく。その中でも、ひときわ美しい娘と目が合った。
「ねぇ、みんな。ここで目ざましのお茶を飲んで帰りましょうよ。こちらの旦那が、とても美味しそうに飲んでたわ」
 宋江が笑うと、娘もあでやかに微笑み返した。赤い鶏血石の首飾りをした、目鼻だちのはっきりした江南美人だ。
(おや、誰かに似ている)
 晴れやかな眼差しが、扈三娘を思い出せた。
 付き添いの女が文句を言ったが、娘はやはり勝気なようだ。
「昨夜の宴会は、知府の機嫌が悪くって、ひどい目にあったわ。おばさん、お茶くらい飲ませなきゃ、あたしたちだって“反乱”するわよ」
 娘たちは笑いさざめき、我がちに屋台の腰掛けに座り込んだ。
「おじさん、甘い棗のお茶をちょうだい」
「あたしは菊花茶。昨夜は、ほんとうに疲れた」
 新しい客が大勢ついて、茶売りの翁は喜んで宋江を見送った。
 宋江が立ち寄ると、なぜか店が繁盛する──最近、街ではそう評判だ。
 宋江は茶色い野良犬をお供に、のんびりと知府の屋敷の方へ歩いていった。
 門前につくと、顔見知りの門番が驚いた顔で挨拶してきた。
「おや、だんな。昨夜は、なぜおいでになりませんでした」
「それが、すっかり忘れていたんだ」
「あなたの就任祝いなのに……知府閣下はかんかんにお怒りでしたよ」
「それは悪いことをした。今朝、やっと思い出して、謝りに来たんだ」
「まぁ、主賓なしでも夜通し遊んでいらっしゃいましたがね。今朝は二日酔いでしょう」
「それならよかった、安心したよ」
 門番は肩をすくめて、屋敷の奥に取り次いでくれた。宋江は日溜まりで待っている。足元に雀が寄ってきて、逃げもしないで靴についた草の実をついばんでいる。
 門番は人のよい、おしゃべりな中年男だ。山東の出身で、宋江のことを仲間のように思っている。
「だんなは人がいいや。山東の男は肝が太いからね。着任して一月もたってから招待するような知府とは器が違う。だんながこの頃、街でたいそう人気と聞いて、やっと重い腰をあげたんですよ。それが、挨拶もなしですっぽかされて、いい気味だ」
「ほんとうに忘れていたんだよ」
「だんな、今日はお役所へは?」
「副総管がすべてやってくれているから、行かないでもいいそうだ」
「あれはたいへんな野心家ですよ。昨夜も我がもの顔で、本当なら自分が総管になる順番だっと威張ってたって。うちの家僕たちは、だんなの味方だから、みんな裏で……おっと」
 門番は慌てて口をつぐんだ。取り次ぎ役が現れたのだ。
「申し訳ありません。主人は頭痛がして、まだ休んでおります」
「それはお大事にしてください。またいずれ」
「伝えます」
「ありがとう」
 門が閉まった。
 門番は門に向かって舌を出すと、笑って宋江を見送った。
「会ったって、肩が凝るだけだ。却って運がいいですよ」
 杏の赤い花びらが、屋敷の塀の向こうからはらはらと散っていた。
 宋江は、満開の枝を見上げた。
「今日は暇になったぞ」
 枝の向こうは、晴れ渡った青空だ。
「そうだ──船に乗ろう」
 宋江は足どりも軽く、日差しのなかを運河に向かって歩いていった。

 その書斎には、春の日差しも届かなかった。
 扉も窓も締め切ってあり、ひんやりとした空気には、書物の匂いが染みていた。
 大きな書き物机には、地図や手紙、書籍などが雑然と積み重なっている。
 窓辺に置かれた素焼きの瓶に、紅梅の枝がさしてあるのは、“鶏尾”のささやかな心遣いだ。しかし、その花も主人には顧みられず、咲きすぎて花弁を散らしはじめていた。
 呉用の目には、これから起こる未来の図──“梁山泊の乱”の有り様しか映らないのだ。
「花栄は四千、李逵は三千……」
 呉用は兵力の計算を繰り返している。
「義勇兵の規模は未知数だが、これが重要な鍵になる。山東河北で、何万人が立ち上がるか……」
 今の朝廷の呼びかけには応じなくても、金国の侵入と同時に“梁山泊”の名で旗揚げすれば、多くの壮丁が集まるだろう。そのために、土地勘のある孫立、黄信を山東に戻したのだ。阮小七が帰っていったのは予定外だが、これで漁師や船頭を集めて水軍が組織できる。挙兵に必要な資金は、柴進、李応が頼りになる。
 窓辺の椅子には、報告のために来た戴宗が腰掛けていた。
「宋江殿は、楚州で人望を集めている。いつも通りだ」

「さすが、“及時雨”」
「昔みたいに、自分の金をばらまいたり、命をかけたりの無茶はしていないがね。のんびりと隠居みたいに遊んでいる。声は、かけなかったが」
「結構。宋江殿には、暫しの休息を楽しんでもらいましょう」
 始まれば、休む暇もないのだから──と、呉用は呟くように付け加えた。戴宗は、聞き逃さない。
「いつ始まる」
「金軍が東京を目指して南下を始めた──その第一報が東京に届いた時です。その時は、これを、みなに」
 呉用は麻の袋を机に置いた。戴宗が中を覗くと、胡桃がいくつか入っていた。手にとっても、ただの胡桃と変わらない。
「酒のつまみか?」
「実を取り除き、密書を入れて蝋で封をしています。朱武と樊瑞と手分けして、各地の“仲間”に届けてください」
 戴宗は渋い顔をして、胡桃の袋を懐に入れた。
「ひとつ、気になる情報がある。隠れていた明教徒が、盧州に集まっているというんだ」
「明教徒が?」
「盧州には、盧頭領がいる。役人に目をつけられたら、危険じゃないのか」
「いえ──このままで」
 呉用は一瞬だけ考え、そう結論した。
 明教徒は戦力になる。兵力の計算に、一万を付け足すことができるだろう。
「ほかには、なにか? 戴院長」
「たまには部屋の窓を開けて、散歩でもしな。外は、いい陽気だ」
「ありがとう。散歩は、この国の名が変わった時に」
 戴宗は肩をすくめて出て行った。
 わざと扉を開けて行ったが、風が書類を動かすので、呉用は立っていって扉を閉めた。
 廊下の向こうで、“鶏尾”が戴宗に昼飯を食べて行けと勧めている。もう、“外”は昼時らしい。
 書斎の中は、暗く、静かだ。
 ここには、時も、距離もない。
 呉用は過去を見返し、未来を予測し、世界の有り様を思い浮かべることができるのだ。国の運命、人の宿命、それらは、天の星が描く軌道のように定まっている。
 最期は──同じだ。
 そう言ったのは、卞祥だった。

『最期は、同じだ』
 最期は、役人も、農民も、兵も、乞食も、みな同じだ。
 天の下に、大地の上に、結局は、死ぬ。
 だから──と、あの寡黙な“牛相”が語った。
 強い者におもねり、弱者を笑い、不公平から目をそらして、安穏に生きるのが、賢い道なのか。
 賢しい者、富める者、力を持っている者だけでなく、生き延びようとするものが、生き延びることができる国、“理想之郷”を創りたい。
 器用には生きられぬ者が、満ち足りて生きられる──場所。
(我々が、それを実現する)
 これが、運命でも、宿命でもない、我らが道だ。
 梁山泊と、宋江の名において、新しい国を創るのだ。
 もちろん、犠牲は少なくないだろう。呉用は、この国が焦土になることを覚悟している。味方にも、もちろん犠牲が出るだろう。
 それでも、なお、“梁山泊”を取り戻したい。
 梁山泊──それが、唯一の希望なのだ。

 宋江は土手の石段を降りていく。
 土手に掘った穴蔵には、乞食の親子が住んでいる。裸同然の父親が挨拶すると、宋江は上着を脱いで着せてやった。指をくわえた子供には、もらった粽を持たせてやると、歯のない口でにっこり笑った。
 上着も袖の荷物もなく、宋江は身軽になって土手を歩いていく。
「保義の旦那さま!」
 運河を行く荷運び船の甲板で、子供たちが手を振っている。櫂を取る女房が、賑やかな声を張り上げた。
「村に行くなら、お乗りくださいましよ!」
 城外の漁村から街に野菜や魚を卸しにきて、帰りは仕入れた日用品や客を乗せるのだ。宋江には顔なじみの船だ。桟橋で待っていると、船縁を寄せて乗せてくれた。
「南蓼村に帰る船だね」
 宋江が何度か遊びに行った郊外の水郷である。
「相客がいますよ」
 女房は赤ん坊を布で懐に吊ったまま、たくみに櫂を操っている。
 相客は顔色の悪い若い書生で、画板を抱えてぽつんと船尾に座っている。
 船頭の父親が宋江に耳打ちした。
「あれは呉家の息子なんですけど、また試験に落ちたんです」
 宋江は子供たちが持ってきてくれた小さな腰掛けに座ると、にこやかに書生に話しかけた。
「奇遇だ、わたしにも呉書生という知り合いがいる」
 書生は少し顔をあげ、宋江に軽く会釈をしたが、また黙々と絵を描きはじめた。
 子供たちは宋江の膝にまといついている。
「宋だんなさま、遊ぼう」
 宋江が子供たちと羽蹴りをして遊んでいるうちに、船は運河から枝分かれした水路に入った。

 風景は街から農村へ移ろい、風が変わった。しっとりと湿った豊かな空気が船をとりまき鳥が囀る。河は、春の野原をきらきらと輝きながら流れていった。
 父親は櫓を漕ぎながら、船頭歌を口ずさんでいる。宋江が、蹴り羽を水に落としてしまうと、竿で器用にすくいあげた。
「へただねぇ、宋だんな。よくそれで先鋒が務まったもんだ」
「宋先鋒?」
 書生が顔をあげた。
「楚州兵馬都総管の宋将軍ですか。いや、まさか」
「そのまさか、だね」
 宋江が蹴った羽が、また大きくはずれて、今度は書生の画板の上に着地した。
「たいへんだ、だいじな絵が」
 宋江が覗きこむと、紙には丁寧な筆で春の風景が写生されていた。運河を行き来する大小の船、河辺の柳、家々の窓辺の花──。
「なかなか上手い」
「しかし、気に入らないのです」
「こんなに上手いのに」
 書生はため息をついた。
「実は、役人になる勉強より、絵や文章を書くのが好きなんです。試験に落ちてからは画ばかり描いて……そのせいでしょうか、絵に生気がない」
 宋江はもう一度、絵を眺めた。
「ああ、そうか」
 宋江は頷くと、折り畳んであった紙の上部を開いた。
「ほら、空がこんなに広い」
 画中の“空”が、何倍にも広くなっていた。なにもない余白が晴れわたった空となり、そこには水音や櫓のきしみ、子供たちの笑い声、春の風が満ちている。
 書生は、つられて空を見上げた。
 小さな船から見上げると、空は高く、どこまでも広がっていた。
 船はのどかな田園をゆったりと進む。黄色い蝶が船縁にとまり、また飛び立つ。
「楽しいね」
 宋江は豊かな風を吸い込んだ。花や草の匂いがした。
 春たけなわ──土手に咲く野花にも生命があふれ、輝いている。

 高価な花瓶に、豪華な紫の芍薬が生けてあった。
 一抱えもある白磁の壺は、値段もつけられぬほどの品だ。幾枝もある大輪の芍薬は、どれも瑞々しく咲き誇り、ほんのわずかな瑕疵もない。
 殿前太尉・高求は、皮肉の混じった眼差しで、美しい花を眺めていた。
 指を伸ばし、触れてみると、その花弁は固く、冷たい。生花ではなく、精巧に作られた偽物の花なのだった。
(この国も、実際は我等の“作り物”。風流天子には、違いは分からぬ)
「──さて」
 宮中の控えの間で、高求は椅子から立ち上がった。
 今朝、天子の前で盧俊義を讒言することになっているのだ。
 童貫や蔡京との、打ち合わせも済んでいる。面倒な王都尉は普段は朝議には出ないし、目障りな宿元景や張叔夜など清流派大臣たちは、勅使として荒廃した地方の視察に出ている。もちろん、あらかじめ蔡京がそう仕組んでおいたのだ。
 しかし、腹心の従者は不安げな顔をしている。
「盧俊義の身になにかあれば、宋江らが黙っておりますでしょうか」
「いずれは宋江もかたづける。宋江に比べれば、盧俊義はなかなかの英雄だからな。先に片づけた方が安心だ」
 この従者は高求が便利に使っている男で、慎重なところに目をかけていた。
「一応、主立った仲間に見張りをつけておけ」
「官職についた者のほか、故郷に帰った者もおります。もともとが風来の無頼漢……行方しれずの者も少なくありません」
「そのような取るに足りぬ者はよい。宋江と、軍師の呉用を見張っておけ。頭と、その中身の脳味噌がなければ、なにもできぬ。二人に怪しげな行動があれば、どんな些細なことも報告せよ」
 そうやって罪を捏造するのは、手慣れたものだ。新しい武器を買い入れた、身元の不確かな人間を雇った、政治を批判するような詩を書いた──なんでもいい。
 高求は控えの間を出て、回廊を渡り、朝儀が行われる文徳殿まで歩いていった。続いて枢密院から童貫、中書省から蔡京の一行も到着し、やがて鞭音とともに天子が出御して玉座についた。
 百官が拝礼し、形式どおりの儀式が始まる。もうずっと朝儀は形ばかりのもので、あらかじめ宰相の蔡京が書いた“台本”の通りに、恙なく進むのだ。大臣たちも、さっさとこの堅苦しい場から逃れて屋敷に帰り、妻妾と酒食を楽しむことばかり考えている。
 そのため、高求が盧俊義の弾劾を始めると、彼らの間には特別な反応はなく、ただ天子のみが驚愕の色を浮かべた。
「なんと、盧俊義が明教徒を集め朕に謀叛をたくらんでいる──と申したか、高太尉」

「恐れながら……確たる証言もございます」
 阮小七を弾劾した王稟の文がよく書けていたので、高求は罪人の名を盧俊義にすげ替え、盧州知府の証言も大いに誇張して加え、もっともらしい上奏文を拵えていた。
「信じられぬ。方聖宮では、盧俊義がもっとも多くの明教徒を成敗したとも聞いておる。なにかの間違いではないか」
 この天子にしては珍しく、容易に信じようとしなかった。
 童貫が、蔡京に目配せした。長引いて、天子が王都尉や宿元景に相談する──などとと言い出しても困るのだ。
「では──」
 蔡京がおもむろに進み出た。
 彼らとて、天子が素直に盧俊義討伐の兵を出すとは思っていないし、盧俊義を片づけるのに、そんな大仰な騒ぎを起こす気もない。追捕の兵など起こして、盧俊義が逃げてしまえば元も子もなくなるからだ。
 素早く、穏便に、確実に片づける──それが蔡京の今回の“脚本”だった。
「では、盧俊義を東京にお呼び寄せになり、親しくお言葉をかけてみては如何でございましょう」
「朕が、みずから」
「いらぬ疑いを抱かせぬよう、ただ、お会いになりたいからと言葉やさしくお招きになり、京師にのぼらせるのが宜しいでしょう。不満があれば慰撫し、御膳御酒などを賜って聖恩をお施しになりますよう。さすれば、万が一、盧俊義に不遜な心がありましても、自然と正道に立ち返ることでありましょう」
 逆らう天子の気勢が削がれた。柔和だが有無を言わせぬ蔡京の言葉は、年少の頃より天子の大の苦手なのだ。
 蔡京は笏を手に、慇懃に頭を垂れた。
「来れば潔白、来なければ──盧俊義の心に疚しさがある証拠でございます」

 盧州の山中にも、春の日は降り注ぐ。
 深山幽谷──世間から隔絶した、自然のままの場所である。太古から息づく老松、岩、空と雲──その野猿しか住まぬ僻遠の地が、明教徒たちの桃源郷となっていた。
 各地から逃れてきた明教徒たちは、わずかな土地に小屋掛けし、野草を採って暮らしている。もとより粗衣粗食の人々なので、不満をもらす者はない。少ない食料を分け合い、助け合って暮らしていた。それでも、なんとか生きていられるのは、定期的に盧俊義が運んでくる食料や物資があるからだった。
 盧州に赴任した盧俊義は、多くの旧方臘軍兵を密かに軍に収容していた。彼らに物資を背負わせ、私財を投じて求めた物資を山に運ばせているのである。
 盧俊義自身も、しばしば役所に“山へ鹿狩りに行く”と休暇届けを出し、愛馬“転山飛”に乗ってこの隠れ里を訪れる。山中を行くこと平地を行くがごとしと謳われた名馬は、どんな険しい山道も臆することなく、盧俊義を送り届けた。

 そのたびに、明教徒の数が一人、一家族、と増えていた。教団に属したものだけが知る暗号を使い、信仰を隠して逃げ延びた人々に、この山の情報が伝えられているのである。
 この日も、信徒たちが盧俊義を拝するために集まってきた。
 先頭にいるのは、鼎州から来た鐘相という男だ。彼はもとは商人だが、出家して明教の戦いに加わったという。勇敢で才覚もあり、自然と村では指導的な立場になっていた。
 ひれ伏した鐘相に、盧俊義は今日運んできたものを見せた。
「兵営の武器庫が、古い武器や壊れた武器を廃棄したので持ってきた。鍬や鋤、鎌に作りなおして、山中に畑を作るとよい。種もある」
 信徒の中には鍛冶屋もいたし、農夫だったものも多い。新しい村づくりに必要な物資のために、盧俊義は、朝廷から得た褒美、給与のすべてを投じていた。
 明教徒たちは喜び、鐘相を先頭に盧俊義を伏し拝んだ。
 彼らにとっては、この人が、盧俊義でも、方臘でも、摩尼光仏でも、その“正体”などなんでもよいのだ。
「この山中が、やがて豊かな村になりましょう。光の王よ──みな、あなた様のおかげです」
 盧俊義は、人々を立たせた。
「わしは王などではない」
「いいえ」
 盧俊義を見つめる双眸に、鐘相はさらに強い崇拝の光を灯した。
「王が人を救うのではありません。人を救う者が、王になるのです」
 幼い子供が、落とした果物を追いかけていた。
 足元まで転がってきた小さな天然の果実を、盧俊義は拾い上げた。
 子供は盧俊義を見上げ、微笑んで手を差し出した。
 その掌に、盧俊義は小さな金色の果実を置いた。
 それは、まるで輝く太陽のような実だった。
 満ち足りた希望そのものに見えた。
 盧俊義は、子供に微笑みかけた。
 山に、木々に、人々のうえに、太陽の光が降り注ぐ。
 今、持てるすべてを人に与えて、盧俊義は、初めて心の安息を得た。
 わしは、なにものでもなく──ただ、ここにいる。

 その日、夕刻、盧俊義が役宅に戻ると、従僕が慌てて出迎えた。
「東京から、使者が参っております」

 天子が盧俊義と親しく語りたいと申されている──至急、朝廷に伺候せよ。
 使者の通達を聞いた盧俊義は、少し虚空を仰いだが、承知した。
 しかし、出発にあたり山に登ると、明教徒たちは盧俊義の上京を恐れ、特に世間を知る鐘相は、朝廷に陰謀があることを疑った。
「この頃、“光の王”のお噂を慕って来る信者が増えております。役人に気取られたかもしれません。東京に行ってはなりません。もし討伐があれば、蜂起しましょう」
 それでも盧俊義の決意は変わらなかった。
「疚しいことは、なにもない。行かねば、あらぬ疑いを受けるだけだ」
「では、せめて私がご一緒に」
 鐘相の申し出も、盧俊義は断った。
「あとを頼む」
 東京へは船旅になるため、最後の日、盧俊義は愛馬“転山飛”を残して、山を下りた。
 別れに際して、この神駒は三度はげしく頸を振り、悲しげに、嘶いた。


「──盧俊義は、本当に来るだろうか」
 東京では、蔡京、童貫、高求が疑いを拭いきれずにいた。
 天子や王都尉らに痛い腹を探られぬうちに、盧俊義を速やかに始末したい。しかし、もし本当に方臘と入れ代わっていれば、あるいは入れ代わっていなくても、明教徒を集めて謀叛をたくらんでいるのなら、盧俊義は来るまい。そうなると、ことは大きくなり、面倒になことになる。
 そんな、彼らの不安に反して、盧俊義は、滞りなく東京へやって来た。
 盧俊義が東京に到着すると、“不安の種”は、童貫たちから天子へと移動した。
 天子は朝儀で盧俊義を労い、それから対面して語り合うことになっている。自分から望みながら、いざとなると、天子の優しい心に不安の影が差したのである。
 梁山泊の者たちには好感を抱いているし、期待している。しかし、謀叛の疑いのある人物との対面と思うと、やはり怖くなったのだ。
(朕みずから尋問し、謀叛の虚実を見定めよと、蔡京は言うが……できるだろうか?)
 彼は人の善意を愛し、みずからも好意をもって周囲の人々に対していた。悪意や猜疑心など、醜いものとして嫌悪している。
 朝儀の時刻が近づくと、胃が痛むほど不安になった。
(やはり、蔡京に任せればよかった)
 詩を読み、絵を描いて、安寧に暮らしたいと、心から願っているのに、天子になどなったばかりに、こんな気苦労を強いられる──。
 あらぬ疑いを招いた盧俊義を恨む気持ちさえ芽生えた。
 しかし、朝儀に現れた盧俊義を前にすると、そんな気持ちも消えてしまった。
 盧俊義は威風堂々して、かつ僧侶か修行者のような清雅な風格をまとって殿下に控えていたのだ。
(なんと、まるで天から降りてきた神仙のようではないか)
 すぐさま龍顔が綻んだ。疑いも不安も一掃され、天子は親しく声をかけた。
「久しいの、盧俊義。そなたと語りたくて呼んだのだ。遠路、ご苦労であった」
 盧俊義は拝礼した。

 その英雄然とした風貌、神仙のごとき物腰に、感受性の鋭い天子は瞬く間に魅了された。
 蔡京たちが吹き込んだ“悪口”も忘れ、朝儀が終わり百官が退出すると、機嫌よく盧俊義とともに偏殿へと座を移した。

 二人で静かに話したいから──と、蔡京らは臨席を求められなかった。
 そのため、蔡京、童貫、高求たちは控の間に集まった。盧俊義にまったく恐れる様子のなかったことが、彼らには却って不安であった。
「あの落ち着いた様子、やはり盧俊義本人なのでは」
 蔡京はもともと“入れ代わり”などという芝居じみたことは信じていない。しかし、高求はまだ疑っている。
「いやいや、以前の盧俊義とはまるで別人──態度も言葉も、出家僧のようでしたぞ」
 結論は、またも童貫にゆだねられた。
「どちらでもよい──手は、すでに打ってあるのだ」
 ひそやかに扉が叩かれ、尚膳部の女官が顔を覗かせた。
「蔡太師様、もう御膳をお運びして宜しいでしょうか?」

 その頃、天子は盧俊義と偏殿で対座していた。
「盧州では、どのように過ごしているか」
「民の平安のみを願って暮らしております。なにひとつ、陛下の憂いとなるようなことはございませぬ」
「安堵した。盧州に戻っても、くれぐれも、社稷を損なおうとするような者共と交わってはならぬぞ。軍民を慈しみ、疑いを抱かれるような行いは慎むよう」
 盧俊義は静かに頭を垂れた。
「救いを求めるものあれば──必ずや、救います」
 その表情があまりに崇高なものだったので、天子は感動の色を浮かべた。
「そなたはなにか……誰か高名な師について修行しておるのではないか? どうも凡俗とは気配が違うようだが」
 盧俊義の双眸が、光を発したように天子には見えた。
「お人払いを」
 天子はいまも変わらず神仙の熱心な信奉者である。なにか秘術でも見せてくれるのかと、すぐに宦官や宮女を下がらせた。
 二人きりになると、盧俊義はおもむろに天子の足元に膝をついた。
「わたくしは、陛下にお願いあって参ったのです」
 訝る天子に二の句を継がせず、盧俊義は語りはじめた。
「奸人の讒言に聖慮を惑わされてはなりませぬ。盧俊義が明教徒をかばっていると讒言した者がおりましょう。明教徒たちは、朱面の暴政に追い詰められ、生きるに術なく方臘に従ったもの。いま方臘は滅び、残された信徒たちは静かな暮らしを求めております。彼らとて、陛下の民草。なにとぞ聖恩を垂れたまい、お救いください」
「朕は、どうすればよいのだ」
「尊い御方は、指先ひとつで簡単に人を救うことができまする。平穏な暮らしを求める者であれば、その信仰にかかわらず赦免する──と、宸筆を頂ければ、この命を差し上げても悔いはございません」
 このために、盧俊義はやって来たのだ。
「どうか」
 盧俊義は顔をあげた。脳裏には、陳橋で死んだ小狗の声、その最後の言葉が響いていた。
“たすけておくれ”

「どうか──明教徒に恩赦を」
 天子は見入られたように盧俊義を凝視していた。
 盧俊義の双眸が光を放ち、全身が金の炎に包まれているように見えた。その熱と光に操られるように、天子は手近にあった筆をとると、盧俊義が差し出した紙に赦免状を認めた。
 盧俊義は宸筆を額に押しいただき、懐に収めて、天子を拝した。
「万歳──このことは、他の俗人には悟られませぬよう」
 天子が呪縛を解かれたように筆を置いた時、扉がひそやかに叩かれ、昼の御膳が運ばれてきた。

 天子と昼餉をともにした盧俊義は聖恩を謝して退出し、その日のうちに船で盧州へと戻っていった。
 船は東京から運河を南下し、数日で淮水に到る。
 帰途、盧俊義は腹痛を感じた。はじめはかすかなものだったが、しだいに痛みが増していく。苦しげな様子に、従卒が尋ねた。
「宮中で、なにか悪いものでも召し上がったのでしょうか」
「まさか。陛下と同じ御膳をいただいたのだ」
 しかし、悪寒はおさまらず、盧俊義は船室で横になった。
 夜も泊まらずに船旅を続け、やがて淮水に至ったが、その頃には痛みが全身を侵し、食事もとれずに眠るばかりになっていた。
 従卒は船を止めて医者を探すように勧めたが、盧俊義は許さなかった。
「一刻も早く盧州に帰りたい」
 盧俊義の懐には、宸筆が肌身離さず大切に保管されている。
 万が一を考えて、従卒は明教徒ではない者たちを連れてきていた。この赦免状は、必ず、自分の手で鐘相たちに届けなければならない。
 これがあれば、山の明教徒たちは──救われるのだ。

 明日には盧州に着くという夜だった。
 その夜も、盧俊義は温めた酒を少し飲んで眠った。
 真夜中、盧俊義は目をさました。
 夢を見ていたようだったが、よく覚えていなかった。
 季節は春たけなわの頃で、船室には熱気がこもり、蒸し暑いほどだ。
 盧俊義は床のなかで纏綿としていたが、腹痛は少し楽になっていた。
 夜半、盧俊義は小用に立った。つききりで看病していた従卒は眠っていたので、起こさずに一人で甲板に出た。
 淮水の流れは漆黒で、空には星が瞬いている。
 甲板を、夜風がごうごうと吹き抜けていた。
 空を雲が走っていく。
 盧俊義は、風に運ばれるように船縁へ近づいていった。もうすぐ、盧州の山々が見えるはずだった。

(わしは、救うのだ)
 盧俊義は、手さぐりで懐に宸筆があることを確かめた。
(こんどこそ、わしは、救える)
 甲板には、常夜灯がともされている。
 しかし、目がぼやけ、自分がどこに立っているのか分からない。まっすぐに歩くことができず、盧俊義はよろめいた。
 ふいに盧俊義は巨大な光に包まれた。月か星か、常夜灯なのか、あまりの眩しさに目を閉じた。船が揺れ、耳元が風が唸り声をあげている。
「小乙──どこにいる」
 盧俊義は腕を伸ばした。

「わしを、支えてくれ!」
 伸ばした手が、闇を掴んだ。

 そのまま、盧俊義の体は船縁を越え、真っ暗な淮水に向かって落ちていった。

「保義の宋だんな様が来たよ!」
 人々の明るい声が、春の田園に響いた。
 楚州の南郊外にある水郷・南蓼村は、美しい桃源郷のような村だった。草原を縫って流れる川、畑と、森。白い杏の木の下には、素朴な家々。庭先では、小犬と鶏が遊んでいる。
 今日は、祭だ。
 宋江は年季の入った荷運び船から、小さな桟橋に下りた。いつもの隠居風のなりで、従僕も連れずに一人だ。
「あ、どうしよう。船賃がない」
 宋江が懐を探ると、なじみの船頭は大笑いした。
「そりゃ、ないでしょうな!」
 船着場には、村人たちがおおぜい出迎えている。
「村塾の費用も、用水路の浚渫費用も、王じいさんの薬代も、梅娘の花嫁衣装も、みんな宋だんなが払ったんだ。いくらお給金をもらったって、足りやしないよ」
 戦で荒廃していた南蓼村の水路や寺院、学校は、役所からの援助もなく廃れるままになっていた。偶然、船遊びに来た宋江は、この長閑な村がすっかり気に入っていた。
 船から下りた宋江を、あの絵描きの書生が出迎えた。
「おかげさまで、村で塾を開くことができました。もう試験はやめにします」
「それはよかった」
 今日は塾の開塾式で、宋江は招待されたのだ。塾長は、あの落第書生だ。塾では学問のほか、絵や文章も教えるという。
「塾に掛ける額のために、なにか宋江様から言葉をいただけますか」
「考えておきましょう」
 式が終わり、庭で老人たちと歓談していると、すっかり仲よくなった村の子供たちが宋江の腕を引っ張った。
「宋江さま、蒲菜を採りに行こう」
「あたしたちの、ひみつの場所をおしえてあげる!」
 みんなで連れ立って、草原のなかを川沿いにどこまでも歩いていった。人家もなく、鳥が盛んに囀っている。うっそうと繁る松や柏の森を抜けると、やがて、美しい水のほとりに出た。遠浅の入り江が広がり、大きな木が立っていた。
 水辺には、きれいな蒲の原が揺れている。蒲の柔らかい新芽は春の味覚、農村の素朴なごちそうだ。

「ここは蓼児窪というんだよ。むかし、継母にいじめられた子が、真夜中に蒲菜を採るように言いつけられて、溺れ死んだんだって。そして、きれいな蛍になったんだって」
 宋江は岸辺に立って、その風景を眺めていた。
 風が吹きぬけ、梢がさやさやと揺れている。水平線の彼方には、やさしい稜線の山が春霞の中に浮かんでいた。
 水辺まで歩いていくと、蒲のあいだの澄んだ水が、足先を濡らした。宋江は靴を脱いで、素足のまま水際に佇んだ。
「ああ、ここは、なつかしい場所だ」
 子供たちが不思議そうに尋ねた。
「はじめて来たのに?」
「うん。よく知っている、大好きな場所にそっくりだ」
 一緒に来た書生が、なにか言いたそうな顔をして、宋江のうしろに立っていた。
「方臘討伐の殊勲者は、宋江さまだと、世間では噂しています。童枢密が手柄を横取りしたのだと……本当ですか。本当ならば、なぜ、そのように楽しげでいらっしゃるのです」
 宋江は蓼児窪の景色を眺め、満ち足りた顔で微笑んだ。
「ほんとうに楽しいからです」
 子供たちは裸になって水に飛び込み、幼い子は水遊び、年長の子は鎌で蒲を刈りはじめた。刈り取った蒲の茎はきれいに洗い、手で皮を剥く。
「ほら!」
 ひとりの子供が、真っ白な茎を宋江たちに持ってきた。
 かじると、みずみずしく、ほんのりと甘かった。
「ああ、おいしい。こんな美味しいものを、はじめて食べた」
 宋江は大きな木の幹にもたれ、きらきらと光る蓼児窪を眺めた。
 子供たちが歓声をあげて水に飛び込む。木の枝から飛び込んだ子が、大きな水しぶきを上げて笑った。
 飛び散った水滴が、星のように輝いている。
「人は、望んだように生きている──あなたも、わたしも」
 謳うように、宋江は呟いた。
 暖かい水、豊かな梢。
 美しい──水のほとりに、わたしはいる。
  蒲の浅瀬に、取り残された一匹の小魚がいた。身の丈ぎりぎりの水に浸って、しずかに鰭を動かしている。
 宋江は、両手の掌でそっと魚をすくい、湖の水へ帰した。
「わたしが死んだら、ここで眠ろう」
 この、一株の繁る木の下で。小魚がたわむれる波うちぎわで眠ったら、きっと、幸せな夢がみられる。
 夕方まで、宋江と子供たちは水辺で遊んだ。
「帰りましょう、宋江さま」
 黄昏、人々が家路につく。子供たちは手をつなぎ、歌う。
 星が輝き、蛍が舞う。水の彼方に見えるのは、灯り始めた家々のあかり──あのすべてに、人が暮らし、誰かの命が息づいている。
 宋江には、彼らの暮らし、彼らの望み、彼らの命が見える。その光を見つめていると、ひとつひとつの灯の中へ、自分が溶け込んでいくようだ。
 世界のすべては繋がっている。
 わたしは──すべてと繋がっている。
 なにも失ったものはなく、失われるものもない。
 世界は、いつも満ち足りている。

「ああ──わたしは幸せだ」

「盧俊義が死にました」
 高求が報告した。
 いつもの薄暗い部屋に、蔡京と童貫が集まっていた。作り物の芍薬が、冷たい光を放っている。
「では、次は──宋江」
 蔡京が事務的に言った。
「高太尉、梁山泊では何人が生き残っている?」
「死んだのは盧俊義と……杭州からの報告では、林冲も死んだそうです」
 高求は宋江が奏上した名簿から、死んだ者の名前を墨で塗りつぶしていった。
 この世で、自分を最も憎んでいるであろう男の名を消すときも、高求はもう特に何も感じなかった。
「出家した者、行方が分からない者も含めて、梁山泊頭領の生き残りは……そう、宋江と三十六人ですな」
 蔡京が名簿を覗いた。
 宋江以下、呉用、関勝、呼延灼、花栄、柴進、李応、朱仝、戴宗、李逵、阮小七、朱武、黄信、孫立、樊瑞、凌振、裴宣、蒋敬、杜興、宋清、鄒潤、蔡慶、楊林、穆春、孫新、顧大嫂、武松、公孫勝、燕青、李俊、童威、童猛、安道全、皇甫端、金大堅、蕭譲、楽和──三十六の名が残っていた。
「宋江と三十六人の仲間が結託し、再び反乱を計画──なかなか字面がよいではないか」
 童貫は無言で頷いた。
 薄暗い部屋で、ひっそりと次の芝居の幕が開いた。
 宋江──謀叛。



※文中の「高求」は、正しくは高求です。
※文中の「朱面」は、正しくは朱面です。
※文中の「蓼児窪」は、正しくは蓼児窪です。




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