水滸伝絵巻-graphies-

第百三十二回
星ノ章〜水のほとりの物語(六)家路・中篇

 その日、二仙山の空は暗かった。
 天にそびえる二つの峰に、嵐が吹き荒れている。
 星もなき暗黒の空に、荒れ狂っているのは、風ばかりではない。
 それは、落雷ではなかった。
 ひとすじの光が、ひとつの峰の頂きより、天空に向かって迸った。
(流星!)
 馬霊は目を見張った。

「星が、天へ……」
 その星は天空で三つに別れ、金色の奇跡を描いて──消え失せた。

 馬霊が峰へ駆けていくと、公孫勝の洞窟の前に喬道清が立っていた。
「いまの光は?」
 喬道清は無言で洞窟を示した。
 洞穴の闇に白い影が浮かび上がり、現れたのは公孫勝だった。
 その手には、梁山泊から携えてきた三巻の天書があった。あの梁山泊炎上のなかでも、燃えることのなかった九天玄女が宋江に与えたという巻物である。
 公孫勝の手から、その巻物がばらばらと落ちた。風にあおられ、地に転がって開いた天書の中は、空白だった。
「文字が消えた?」
 喬道清は天書を拾い、最後まで広げてみた。どこにも、ひとつの文字も書かれていなかった。
「運命は尽きた」
 公孫勝の声が、荒れ狂う風に散った。
 天書を収めた洞窟の奥で、彼は見たのである。
 天書が輝きを発し、炎に包まれ、星となって岩を突き破り、星空へ還っていったのを。
「宿命が、終わる」
 いま夜空には、その足跡もなく──東の空が燃えている。
 太陽が昇った。
 千丈の光を放つ太陽が、地平を黄金に染めている。東雲は、紅蓮に燃えている。
 それは──すばらしい夜明けであった。


「盧俊義は、やはり謀叛をたくらんでいたのです」
 東京、宮中──蔡京の言葉に、天子は驚きを隠さなかった。
「なんと」
「盧俊義は明教徒を集め、反乱をたくらんでいたのです」
 盧俊義の死後、盧州では州兵による山狩りが行われ、隠れ住んでいた明教徒たちの殆どが捕縛、もしくは殺害された。
 童貫が、従臣に合図した。
「武器も発見されました。謀反人たちが集めた武器をご覧ください」
 実際に発見されたのは、農具にするために集められた古道具同然のものである。そこに新しいものを適当に混ぜ、謀叛の証拠をでっちあげた。
「この武器で、明教徒たちは官軍に激しい攻撃を加えてきたのです」
 実際は、鐘相に率いられた少数の男たちが、老人や女子供を逃がす時間を稼ぐために抵抗を試みただけだった。それもすぐに制圧され、逃げられたのは“転山飛”に乗った鐘相だけだった。
 明教徒たちが本当に反乱を企てていたかどうかなど、蔡京たちには、どうでもいいのだ。
 高求が、核心に触れた。
「盧俊義は、宋江の片腕。この陰謀に、宋江が関わっていないはずがありません」
 玉座の天子は沈鬱な表情で、積まれた武器から目をそむけた。
「盧俊義は──朕を欺いたのか」
 天子の不安が怯えとなり、はっきりと蔡京たちに伝わってきた。
「しかし、宋江まで……朕は信じたくない」
 蔡京が、いたましげな息をついた。
「もはやご猶予はなりませぬ。仲間が盧俊義の死を知れば、必ず、お上に怨みを抱きましょう。大事に至らぬうち、楚州の宋江に御酒を下賜し、騒乱を未然に防ぐのが社稷の御ため。余人には知られぬよう、迅速に、内密に処置したいと存じます」
 沈黙は、同意したということだ。
 三人の大臣は微笑を隠し、深々と頭を垂れた。
「──すべて、我々にお任せください」

 戴宗は死に物狂いで走り続け、遅い時刻に登州の呉用の草庵に辿り着いた。
「盧頭領が死んだ──おそらく、殺された」
 戴宗は呉用の命令で盧州へ盧俊義の動向を偵察に行き、その情報をつかんだのである。
 呉用の草庵には、ちょうど朱武と樊瑞も戻ってきていた。
 盧俊義横死の報を聞いて動揺を見せたのは、長く軍師として共に行動していた朱武だった。
 それは、不思議な感覚だった。梁山泊副首領でありながら、どこかみなと隔たりがあった。不死身のように強く、それでいて、常に死と隣り合わせのような危うさを身にまとっていた。
(あの人が死ぬとは)
 死そのものの衝撃より、ありえぬことが起こった不安の方が勝っていた。これは、滅亡の序曲であろうか。
(やはり、呉先生の計画は無謀だったのだ)
 朱武は、不運な英雄──“玉麒麟”盧俊義の死を悼んだ。
 呉用には、そのような感情を抱く余裕はなかった。戴宗の報告を聞く間にも、頭脳は目まぐるしく思考していた。
 盧俊義が殺された。それは、呉用の計画が気取られた可能性を示唆している。
 むろん、盧俊義は明教徒を匿っていたから、その筋もある。だとしても、この好材料を、蔡京たちは見逃しはしないだろう。
(次は──宋江殿だ)
 蔡京、童貫たちが、呉用の計画に気づいていないとしても、盧俊義が明教徒を匿っていたのは事実だ。それを口実に、目障りな宋江を消そうとしてくるに違いない。
 呉用は即座に戴宗に命じた。
 盧俊義は、東京に呼ばれた帰路で、淮水に落ちて死んだという。
(おそらく──慢毒)
 水銀だ。飲まされたことには気づかず、ゆっくりと死に至る。
「すぐに楚州の宋江殿のもとへ行き、伝えてください。東京に召還されても、決して行ってはなりません」
「伝えるのはいいが、理由を聞かれる。言うのか」
「いいえ」
 まだ早い、と呉用は判断した。
 今はまだ、宋江は何も知らず、機が熟すまで動かずにいてほしいのだ。
「私からの伝言、と伝えてください。それだけで、宋江殿は信じてくれる」
 宋江と自分の間には、まだそれだけの絆があると、呉用は疑わなかった。
「それから、“鶏尾”を連れていってください」
「えっ、おれが?」
“鶏尾”はただならぬ空気を感じて、部屋の隅にちぢこまっている。
「あなた宋江殿のところに残り、宋江殿を守るのです」
「で、できるかな」
「なにかあれば、潤州の李逵を呼びなさい」
 李逵ならば、宋江のために命も捨てる。
 戴宗が怪訝そうに尋ねた。
「“鶏尾”を連れて行くのはいいが、俺はどうする。楚州から、またどこかへ行くのか」
「あの胡桃を届けてください」
 密書を封じた胡桃のことだ。
「関勝、呼延灼、朱仝が官軍の兵権を持っている。孫立、黄信には地方の廂軍を、柴進、李応、阮小七たちには民兵を組織して、義兵をあげる準備をしてもらいます」
「本気なのか」
 呉用の冷静な顔が、戴宗の不安ををかき立てた。
「あんたの計画──宋江殿は、本当に望んでいるのか」
 呉用が、盧俊義を殺し、宋江を、みなを危険にさらしているのではないか──戴宗には、そえ見えたのだ。
 もはや逃げ込む梁山泊はない。戦うか、殺されるか。“敵”は、この国──彼らが生きている、この天地なのだ。
 それは呉用にも分かっている。しかし、呉用の決意は揺るがなかった。
「頼みます、私の、言う通りに」
「勝算はあるんだろうな」
「あります」
 呉用の頭脳は刃のように冴えていた。
「“手紙”を書きます──戴院長と“鶏尾”は、先に楚州へ行ってください」

 戴宗は部屋を出て、“鶏尾”が支度をしてくるのを待った。
 呉用の手紙を待つ朱武が、見送りに出た。朱武はなにも言わないが、言いたいことがあるのは戴宗にも分かった。戴宗も同じ気持ちだからだ。
 梁山泊の“軍師”は、呉用と公孫勝の二人。“神機軍師”朱武は、梁山泊の、たった一人の“参謀”だ。役割は、軍師を補佐する。
「これを持っていてくれ」
 戴宗は、朱武に甲馬の束を手渡した。
「あんたしか、頼めない。“梁山泊”に危険が迫ったら、この札を、太湖の龍王廟に貼るんだ」
「貼ると、どうなる」

「助けがくる」
“鶏尾”が旅支度で駆けてきた。書斎からは、呉用が呼ぶ声がしている。
 朱武はそれ以上は聞かず、札の束を懐にしまった。
「覚えておこう」
 戴宗と“鶏尾”は、そのまま伴行法で呉用の家を後にした。
 書斎では、呉用が二通の手紙を書きあげていた。
「朱武、この手紙を花栄へ。あなたはそのまま花栄の補佐についてください。樊瑞は、こちらの手紙を」
「どこへ」
 無言を保っていた樊瑞が、卓上の手紙にただならぬ視線を当てたまま、尋ねた。
「これを、どこへ届けるのだ」
「──北へ」
 冷やかな自分の声に、呉用は総毛立った。

「高太尉、首尾はいかが」
 その夜、蔡京は童貫、高求らと久しぶりに礬楼に赴いた。盧俊義を片づけ、天子から宋江を誅殺する手筈を整えた、そのささやかな祝宴である。
 蔡京はあくまで慎重だった。
「王都尉らに嗅ぎつけられぬうち、手早く片づけたいものだが」
「ご心配なく。明日にも毒入りの御酒を携えた勅使を楚州へ出発させます。だが、はたして宋江が飲むかどうか……。もし盧俊義が死んだと知っていれば、疑うかもしれません」
 童貫は周到だった。
「むろん、飲むわけがない」
 童貫は控えていた若い将軍を呼んだ。
「折可存、こちらへ参れ」
 彼は山西の名族出身で、西夏や方臘戦線で手柄を立てた。従順で、童貫には使いやすい若者だった。
「よいな。兵を伴って勅使とともに楚州に赴き、待機するのだ。宋江が御酒を飲めばよし。数日で死ぬ。飲まぬようなら不敬罪で捕縛し、盧俊義と共謀して謀叛をくわだてた罪で断罪せよ。東京の裁可を仰ぐ必要はない」
 高求は追従した。
「さすが童枢密、ぬかりない。しかし、各地の仲間が蜂起するのでは」
「我々に逆らう者を殲滅する好機ではないか。あらかじめ兵を配備しておき、あやしい動きがあれば、すぐさま捕らえて処刑する。後顧の憂いを除くために、家族も捕らえよ」
「宋江に身内は?」
「運城県に父親と、弟がいるはず。この弟も、梁山泊の仲間です」
「見張れ。宋江が逃亡してくる可能性もある」
「各地の役所に連絡して、庶民に戻った梁山泊の者どもも監視させます。あいつらは、つまらぬ者でも油断できん」
「そのようにせよ」
 梁山泊を殲滅するといっても、限度がある。童貫は、誰があくまでも宋江に従うか、あるいは宋江を見捨てて自分たちに従うかを、試すつもりだった。
「折可存よ、方臘捕縛の手柄は辛将軍にやったから、お前にはこの仕事をまかせよう。迅速に行い、しくじることのないようにせよ」
「ご期待に沿うよう努力いたします」
「要は、軍師の呉用、軍を持っている呼延灼、関勝、花栄、朱仝の五人だ。各地の衙門と連携して見張りをおこたるな。少しでも疑わしい動きがあれば捕らえよ。梁山泊の仲間と連絡をとっている、それだけでもよい」
「承知いたしました。必ず、そのように」
 折将軍は意気揚々と出ていった。
 扉が閉まると、緊張の糸が切れたような沈黙が訪れた。蔡京も屋敷に戻ろうと席を立った。陰謀は嫌いではないが、この年になると疲れを感じる。
 高求が思い出したように声をかけた。
「あなた様のところにも、一人いましたな。梁山泊が」
「あれは、ただの子供たちの家庭教師だ」
「油断めさるな」
 童貫は狩りを終えた獣のように、密謀の卓から悠然と立った。
「“梁山泊”は密林の蛇蝎──藪に隠れ、我等の踵を狙っている。我々がいかに強大であろうと、その“毒”は、われらを滅ぼす」

 月夜に蝙蝠が飛んでいた。
「──ということだそうだ」
 出張から戻ったばかりの宿元景の屋敷を、王都尉が密かに訪れた。
 王都尉は東京へ呼ばれた盧俊義が帰路で急死したことを知り、すぐに李師師に内偵を頼んだ。李師師が天子から聞き出したその報告は、予想以上の“凶報”であった。
「盧俊義は、おそらく御膳に水銀を盛られたのであろう。蔡京は、盧俊義が盧州で明教徒を集め、反乱を企てていたと密奏したそうだ」
 彼は“瘋子”と呼ばれる天子の寵臣だが、この頃は政争にも倦み、呼ばれぬかぎり朝儀には参列しない。その隙を突かれた形になった。
 宿元景は憤った。
「たてこもる梁山泊もない今、誰が、そのような暴挙を」
 梁山泊軍は解体され、頭領たちは全国に散った。庶民に戻った者も多いと聞く。宋国の政治は腐敗しているとはいえ、社会は成熟し、国家としての機能は失われてはいない。
 王都尉の反応は、宿元景とは、いささか違った。
「だが、彼らにも不満はあろう。燕雲遠征に始まり、山西、淮西──そして、方臘討伐と、あれだけの犠牲を払い、手柄をたて、その結果が地方軍の指揮官程度では」
「それは……宋江が望まなかったのですから」
「童貫らの次の狙いは、その宋江だ」
「なんと。宋江は救国の英雄──救わねば」
 王都尉は沈黙している。視線が、天井の闇のあたりを彷徨っていた。
「まさか、王都尉殿下も宋江にお疑いを」
「……この地図を」
 王都尉は、袖から一枚の地図を取り出した。宋国の地図である。
「さきほど、改めて見返してみた」
 印は、宋江をはじめ、盧俊義、呉用、関勝らが赴任した土地についていた。宿元景の目の色が、変わった。
「これは」
 各地に散った──のは違いないが、すべて東京開封を取り囲む軍事的な要地である。
「“東京開封包囲網”──そうは見えぬか」
 宿元景の脳裏に、遠慮がちに候補地を提出してきた呉用の怜悧な顔が過った。
「そして、盧俊義が明教徒を山中に匿っていたのは事実。あれは盧俊義ではなく、方臘がすり変わったのだという風聞まであるそうだ」
「──まさか」
 宿元景は言葉を失った。
 宋江を信じる──と、言うつもりの決意が、この一枚の地図に吸い込まれるように消えていった。
 梁山泊に感じた“希望”はなんだったのか。
 宋江は、この国を救ってくれるのではないのか。
(わしの“不安”は的中したのか?)
 彼は見たのだ。
 江南に集まった民衆の群れ──軍すら動いた。宋江が立てば、全国で、あれだけの人間が動くのだ。
 宿元景は、卓に置いた拳を握った。指先が、氷のように冷えていた。
 王都尉が音もなく立ち上がり、扉を開けた。
 廊下には、誰もいなかった。

 彭萌は裏口から外に滑り出た。
 彭己の末娘は、王都尉がお忍びで義父を訪ねてきたのを知ると、悪い予感を感じて盗み聞きをしたのである。
(悪い知らせだ。急いで誰かに伝えないと)
 彭萌は足早に路地を抜けた。
 しかし、行く先は決まっていない。頼りの剣娘と裴宣は飲馬川だし、呼延灼は御営務めで、簡単には呼び出せない。
(ほかに誰か)
 彭萌は考え、それから走り出した。向かったのは、王都尉の屋敷だった。塀にそって裏庭の方へ回っていくと、歌声が聞こえた。
「──楽和にいさん」
 彭萌は呼んだ。楽和とは梁山泊で顔見知りである。月夜には、よく友達の露華と歌を聞きにいったものだ。
 楽和は耳がいい。すぐに歌声が庭から裏門の方へ移動し、やがて楽和が姿を現した。
「久しぶり、萌児」

 楽和はまだ王都尉の屋敷に寄宿し、食客として自由気ままに暮らしていた。王都尉はうるさいことは言わないし、住み心地は悪くない。
 もちろん、情報を集める──という意味もある。楽和も、今朝から王都尉がなにか動いているのに気づいていた。
「宿太尉の屋敷で、なにかあったね」
 萌児は手短かに説明した。
「盧俊義さまが殺されました。明教徒を集めて、反乱を企てていたと嫌疑を受けて……童貫たちは、次は宋江殿に狙いをつけています。首謀者は宋江殿だと、宋江殿のほか梁山泊の仲間、その家族まで粛清するつもりだそうです」
 いつも冷静な楽和も、さすがに顔色を変えた。
「なんてことだ」
 楽和は、呉用の計画を知らされていない。
「王都尉たちは、なんと言っていた」
「それが……」
 萌児は、王都尉らも疑っていることを付け加えた。
 それを聞いた楽和の顔に、彼らしい冷笑が戻ってきた。
「わかった。それなら、僕たちだけで動こう」
「どうするんです」
「反乱の計画があろうとなかろうと、関係ない。なにかあれば、僕たちで東京にいる仲間を助けるんだ。金大堅たちに連絡をつけよう。問題は、安先生たち宮中にいる仲間だな」
「それは、あたしが。帝姫の遊び相手にという話があります。後宮はいやですが、行きます」
「よし、頼んだ」
 東京の街は、今夜も華やかな喧騒に満ちている。星はもちろん、月さえも霞む明るさだ。
 帰りがけ、彭萌が悔しそうに言った。
「なぜ、こんなことに。あたしたちが、何をしたというんでしょう」
「僕たちのせいじゃない。あいつらが、“悪人”だからさ」

 炉に、火が燃えていた。
 もうすぐ夏になろうというのに、この火はいかにも季節はずれだ。
 呉用はそんなことを思いながら、炉に紙をくべていた。
 小さな家は、呉用のほかには誰もおらず、しんとしていた。
 書斎のなかも、がらんとしている。
 戴宗や鶏尾たちを送り出してから、呉用は身辺の整理を始めた。書物や衣服などを処分し、書き付けや手紙なども焼いている。
 今にも、捕り手が踏み込んでくるような気がした。まだ、そんなことにはならないのは分かっている。まず宋江だ。敵は、宋江を片づけてから、他の者に手をつけるだろう。
 宋江がいなければ、彼らには、なにもできないと分かっているからだ。
 書類をすべて始末すると、残ったのは、わずかな身のまわりの物を纏めた包みだけだった。
 もう、いつでも、ここを出られる。あとは、時間との戦いだ。
 すべてを終えると、呉用は、崩れるように机に手をついた。
 その表紙に、荷物に乗せていた羽扇が落ちた。拾い上げたが、羽扇は呉用の指からすべって、また音をたてて床に落ちた。
 指が冷たく、震えている。
 呉用は息を詰め、指にぐっと力をこめて、ようやく羽扇を拾い上げた。
“希望”は──美しい箱に入った贈り物でも、竹籠に入れた小鳥でもない。
(燃える火のようなものだ。あるいは、瞬く星の光)
 枝をくべ続けなければ消え、目を凝らし続けなければ、見失う。
 希望を抱き続けるのには、強靱な意志の力がいる。しっかりと、手に握りしめておかねばならない。
 金軍侵入の混乱に乗じて、できるだけ穏便に──という筋書きは、なくなった。
 たとえ各地で仲間の軍が蜂起しても、このままでは、勝てない。
 唯一の勝ち目は──計画していた情況と、同じ情況をつくりだすこと。
 多少の筋書きが変わっても、次の幕に、同じ場面があればよいのだ。
(一清──どうか、頼みます)
 時刻は遅い。
 ふと星が見たくなり、呉用は珍しく小窓を開けた。
 外は闇──庭の植え込みが、かすかに動いた。
 風はない。
 呉用は、星ではなく、闇を見つめた。
 眼前の闇が、じっと息を殺して──闇もまた、呉用を見ていた。

「報告がきた」
 童貫は、朝儀のあとで蔡京と高求に謀った。
「折可存はよくやっている。軍師の呉用、宋江の盟友である花栄が、あやしい動きをしているそうだ。古い仲間が多く出入りしている」
「密偵ですな」
 高求は、めずらしく胸がさわいだ。
 憎い“梁山泊”との戦いが、ようやく決着しようとしている。
 招安戦で湖に落とされ、けがらわしい梁山泊の水を飲まされた恥辱も、連中の首が並ぶのを見れば忘れることができるだろう。
「奴らは謀叛を計画をしている。即座に捕縛の命令を発し、叛徒として殺しましょう」

 その日、遅く。朱武は馬を乗り継ぎ、南京応天府の花栄の役宅へ駆け込んだ。
「始める気か」
 盧俊義の死、そして呉用の決意を聞いた花栄はわずかに表情を引き締めたが、躊躇はしなかった。
「兵は四千を動かせる。時間の猶予はないな。いつでも対応できるようにしておこう」
 とはいえ、赴任してからまだ日も浅い。子飼いの兵もなく、応天府の兵を掌握しているとはいえない。
「他の者は?」
「東京の呼延灼将軍、北京の関勝将軍には伝えました。保定の朱仝には、樊瑞が途中で届ける手筈。山東河北の者たちには、戴院長が楚州からの戻りで知らせることに」
「呉用は、勝算はあると言ったのだな」
「起死回生の手を打つと」
 朱武は疑わしいようだった。
 朱武は、盧俊義の死すら、まだ信じきれずにいるのだ。
「俺は信じる」
 その時、書斎の扉が開いた。入ってきたのは、息子の花逢春だった。
「逢春、聞いていたのか」
 花栄の声が鋭くなった。しかし、逢春は動じなかった。
「父上、僕も、戦います」
 かつて、招安戦で炎上する間際の梁山泊で、その時が来たら名を変えろ──と、息子に言ったのは花栄である。長い遠征から帰っても、息子はまだ“望春”だった。
 それが、この秋に何があったのか、名を改めた。理由は言わない。名だけでなく、顔つきまで変わり、神経質な少年の面影は消えていた。
 逢春は、熱意に満ちた目で父を見ている。

「国が誤っても、僕は誤りたくない」
「よく言った」
 花栄は息子の肩に手を置いた。
 まだか細い肩だった。
 彼らがこれからしようとしているのは、古い国を倒し、新しい国を建てるということだ。成功すれば“英雄”となり、敗北すれば“反逆者”として、家族まで誅滅される。
 だから呉用は、軍の中にひそみ、外患に乗じて、政権の内側から天子を掌握しようと計画していた。
 しかし、その計画は狂い、情況は悪い。
 咲くばかりに育った花が、蕾のまま嵐に散るのか。
(それでも、俺はやる)
 それでも──やらねばならぬのだ。

 樊瑞が薊州二仙山に到着したのは、その翌日のことだった。
 法を失った樊瑞ではあるが、魔王のごとく不眠不休で荒野を駆け抜け、数日にして辿り着いたのである。
 久しぶりの邂逅である。しかし、樊瑞にとっては、公孫勝は常に会っていた人のようにも感じられた。
 喬道清に案内されて洞窟を尋ねると、挨拶もなく、公孫勝は樊瑞に手を差し出した。
 その手に、樊瑞は呉用からの書簡を託した。
 公孫勝は、すぐに呉用からの手紙を開き、読んだ。終始無言で、読み終わっても、無言であった。

 洞窟のなかに座る公孫勝を、樊瑞のほか、喬道清と馬霊が見守っていた。
 不穏な空気が流れている。
 その気は、公孫勝から発せられる冷気であった。
 やがて、公孫勝は手紙を畳み、深く、息を吐き出した。
(──“智多星”よ)
 その目には、絶望ではく──深い悲哀が満ちていた。
 真昼で、太陽は二つの峰の中央に輝いている。
 ついに、喬道清が、膝を進めた。
「師よ、拝見してよろしいか」
 公孫勝は、投げるように手紙を置いた。風が、それを喬道清の手元へと運んできた。喬道清は、呉用の文字をたどった。
「これは──軍師は……これは、本気か」
 彼が“幻魔君”と呼ばれていた時代の、あの感覚が蘇った。その文字には、それほどの激情が溢れていたのだ。
 呉用は、求めた。
『馬霊を金国に派遣し、“宋国が遼国と密約し、金国と交わした海上の盟を裏切った”という虚報を伝えてほしい』
 馬霊は、かつて田虎配下であった時に、金国へ行っている。梁山泊軍の猛攻に敗色が濃厚と見た“晋王”田虎は、仲間を見捨て、愛妃・白玉夫人と腹心だけを連れて金国への亡命を画策したのだ。それに先んじて、田虎は馬霊を使者として金国と接触した。
 馬霊には、その時の人脈がある。
 それを呉用は覚えているのだ。彼の指示は、さらに具体的だった。
『“国舅”康里定安の密命を受けた漢人右丞相の楮堅が、蔡京に莫大な賄賂を贈り、両国はふたたび和議した。金国が求める燕雲地方への出陣が延期され続けているのも、そのためである』
 寸前で勝利を奪われた苦い遼国戦での経験が、真実味を与えていた。
 あの時も、梁山泊軍の知らぬところで、遼国と宋国は和議し、停戦となったのだ。朝令暮改、二股外交、風見鶏は宋国のお得意だ。
『事実、蔡京らは、かつて燕京まで迫った梁山泊軍を解体し、粛清している。本来ならば、貴国との海上の盟に応じて出陣すべき軍である。宋国には遼国へ出陣する意思はない。もし金軍が南下すれば、各地の梁山泊軍は奸臣を除くため呼応するであろう』
 読み終えた喬道清は、深く息を吐き出した。
「真実を巧みに織りまぜ、しかも、金国が疑い、知りたがっている情報を与えている」
 金国は、なぜ宋国が盟約に応じて遼国へ出陣しないのかと疑っている。衰退した遼国を亡ぼし、燕雲地方を奪還する好機なのに、なぜ動こうとしないのか──精悍で合理的な女真人には、理解できないのである。
 彼らは、成熟した文化と経済を誇り、大軍を擁する宋国が、その国を支配する大臣たちが、これほど愚昧脆弱で、我欲のみに執着しているなどとは、想像してもいないのだ。
「金国は、信じるでしょう。完全には信じなくとも、宋国を疑い……侵攻の口実にする」
 呉用はそれを求めているのだ。
 嘘のはずの書簡に、呉用の本心がにじんでいた。
 怒った金国が宋国に侵入し、その混乱に乗じて、梁山泊を復活させる──と。
 梁山泊の主立った将が、宋国の各地で軍職についていることは、全国を漫遊している“一濁道人”の詳報により二仙山でも掴んでいる。
「だが、危険すぎる」
 喬道清は、蓮華座を組み、瞑目する公孫勝を窺った。
「金国と結び、宋国を滅ぼし……勝っても負けても、裏切りの汚名を千載に残しはすまいか」
 公孫勝が、目を見開いた。
「そんなことは、どうでもよい」
 公孫勝は、洞窟の口の彼方──蒼天を仰いだ。
 宋国が滅びるのなど、自業自得。時間の問題にすぎない。
 梁山泊は、もともとが反逆者──賊である。
(“智多星”よ──お前は、それほど)
 それほどまでに“梁山泊”を求めているのか。
 蒼天で、白昼の星が輝いていた。“入雲龍”公孫勝だけに見える星だ。人は星は夜にしか見えぬと思っているが、昼間も星は天に輝いている。
 あれは──天機星。
 天機星は、天機そのもの。
 不動の宿命、不変の輪廻に囚われて、永遠に同じ軌道を巡り続ける。
 梁山泊の上に輝き、破壊と創造、死と誕生を繰り返す。呉用が求める“梁山泊”は、この地上に、生まれては滅びていく──を繰り返す。
(その宿命が、呉用よ、お前を永劫に苦しめる)
 公孫勝の手が、動いた。
 運命は変えられぬ──変わっていくのだ。
(儂は、そのために、何度も何度も、みなから“離れ”た)
 ならば。
「儂がお前の宿命を断ち切ってやる」
 その声とともに、喬道清の手の中にあった呉用の手紙が燃え上がった。
「あっ」
 樊瑞は咄嗟に手を伸ばしたが、すでに手紙は青白い炎に包まれていた。
「師よ、なぜ」

 三人の弟子に、公孫勝はおごそかに告げた。
「“星の声を聞け”」
 三人は空を仰いだが、星などひとつも見えなかった。
「その星は、あまりに遠くて、まだ人の目には見えぬ。その光は、いまだ地上には届かぬ。天の軌道を離れ、自走に、孤独に、すべての星々の先を、我々の先を、進んでいるのだ。しかし、その星の名を、儂も、貴様らも、もう知っている」
 呉用よ、人よ、星々よ──天魁星の声が、聞こえぬか。
 すべての星の先を行く、“大いなる首”の星。
 やがて、すべての星々が、その軌道から解き放たれ、そのあとをついていくだろう。

 戴宗は伴行法で“鶏尾”を楚州まで連れて行った。
「宋江殿は、城外の南蓼村に住んでいる。ここからは、一人で訪ねて行け。俺は、宋江殿に嘘をつける自信がない」
“鶏尾”は伴行法で一昼夜、走り通して、精根が尽き果てている。そのうえ一人で行けと言われて、驚いて戴宗の袖をつかんだ。
「えっ、旦那は行かないのか」
「俺は、別に行くところがある」
「お、俺にできるかな」
「呉先生が言ったとおりに伝えればいい。覚えてるな。東京へは行くな。使者が来たら、李逵を呼べ。そして──これは、俺からお前への伝言だ。もし、逃げなきゃならんことになっから、太湖に向かえ」
「太湖?」
「蘇州の太湖のほとりに、龍王廟がある。そこへ行くんだ」
 戴宗は東を指さした。
「いいな、忘れるな」
 戴宗は“鶏尾”を楚州城の南門に残し、駆け去った。
 さらに南へ。
 風景を楽しむ余裕などない。
 戴宗は、太湖まで駆け続けると、湖畔にある龍王廟の入り口の柱に甲馬を貼った。朱武に渡した残りの、最後の一枚の札だった。
 貼り終えると、戴宗は柱の根元に座り込んだ。もう何日、走っていたのか、くたくただった。
(呉先生、俺だって、あんたの願いをきいてやりたい。しかし、俺には、勝てる気がしない)
 戴宗は、帯の間から胡桃の入った袋を出した。孫立や柴進たちに渡すはずの、“檄文”だ。呉用は彼らに、山東河北の義勇軍を組織させようと考えている。
 戴宗は、散り散りになった仲間の、その後を調べた。だから、彼らがいま、どんな暮らしをしているかを知っている。
 子供が生まれた李応や宋清。嫁をもらって、老母を引き取った阮小七。
 柴進は、あらゆる手を使って金芝公主を滄州へ送り届けた。
 孫立や、顧大嫂たちは、登州で元どおりの暮らしをしている。
 黄信は、秦明の墓を守って──。
 本当に金軍が南下して、梁山泊軍が旗揚げすれば、みんな、きっと集まるだろう。家族を残し、平穏な暮らしを捨てて。
 呉用の気持ちは痛いほどわかる。
 それでも、彼らの選択に、戴宗は手を貸したくはなかった。

「どう生きるか、みんな──自分で決めてくれ」
 戴宗は太湖に胡桃を投げ捨てた。
(俺だって、集まりたいよ。もう一度、“梁山泊”に)
「李俊よ。早く、来い。みんなが乗れる、でっかい船で」
 波間に浮かんだ胡桃が、ぶつかりながら、風に乗って遠ざかる。
 戴宗の心とうらはらに、波間の胡桃は、かるがると浮かんでいる。互いにぶつかり、また離れて、楽しげだった。
 戴宗は、湖畔に疲れ果てた脚を投げ出し、横になった。
 すこし眠って、後のことはそれから考えよう。目覚める頃には、龍王幇からなにかの動きがあるだろう。
 そうとも。
(この国に、俺たちの居場所はないとしても、呉先生よ──あんたが、なにもかも一人で背負うことはない)
 もう一度“集まる”なら、愉快なことを、したいじゃないか。

 胡桃が転がった。
 それが、なぜか、首に見えた。
 盧俊義の首だ。
 もちろん、盧俊義は斬首されたわけではない。
 呼延灼らしくない、錯覚だった。
 しかし、彼の“幻影”は止まらなかった。胡桃は、転がるたびに、宋江になり、呉用になり、自分になった。
 そんな連想にとらわれたのは、それが“幻影”ではないからだ。
「──見張られているような気がします」
 音もなく部屋に入ってきた呼延玉※が、声を潜めて言った。
 呼延灼は返答せず、ただわずかに頷いた。
 その時がくれば、その時、正しいと信じる道を行く。それが呼延灼の信念だ。ただ、時にその信念は揺らぐ時がある。なにが正しく、正しくないのか──それが、年を経るごとに境界が模糊として、若い時のように即座に断言できぬようになったからだ。
 正しいものは。守るべきものは──なにか。
 なつかしい“梁山泊”か。
 この腐った宋国か。
 国の中心である東京開封、その更に中核たる皇宮の御営にいて、呼延灼は決めかねるのである。
 呼延灼は、息子の顔へ目をやった。
 その目は父を信頼し、少しの迷いも見られない。
 彼を見つめる若者の顔が、告げていた。
 迷った時は、眼前の敵と戦え──と。

 朱仝は部屋にこもり、身辺の整理をした。
 保定府で軍役についた朱仝は、郊外の軍営で仮住まいしている。私物はほぼない。
 整えたのは、運城県に残した妻への離縁状と、息子を絶縁して元滄州知府の正式な養子にするという書類である。
 外は風が吹きすさぶ黄土の野だ。その風音に、馬の嘶きと、歩いてくる軍靴の音が混じり、ほどなく、劉光世が顔をのぞかせた。
「ご無沙汰だな、ちょっと飲もうと思って寄った」
 劉光世は、また酔っているらしい。父親の命令で国境近辺の偵察に行く途中──というようなことを、要領を得ない口調で述べた。酒は、彼の従者が上等なのを携えていた。朱仝が挨拶をする間にも、手早く卓の砂塵が払われ、酒器が並んだ。
「では、乾杯」
 劉光世が、先に飲んだ。朱仝も、戸惑いを感じつつ、一杯、飲んだ。
「うまい酒だろう」

 さらに注ごうとする劉光世の姿が、ぐらりと揺れた。そうとう酔っているな、と思ったが、揺れたのは朱仝のほうだった。そのまま、朱仝は卓につっぷした。
 劉光世の声が、遠くに聞こえた。
「心配するなよ。その杯に、ちょっぴり眠り薬をな──よし、俺の屋敷へ運べ」
 劉光世は席を立った。
 その足に、どこから転がってきたのか一粒の胡桃がぶつかった。劉光世はなにも考えず、開いた扉から胡桃を思い切り蹴りだした。
 外では、馬車が待っている。劉光世は、朱仝を馬車に運ばせると、自分で扉に鍵をかけた。
「目が覚めたら怒るだろうが、あたら“美髯公”を謀反人にするのは惜しいんだよ。関王も、怒るだろうしな」

 北京大名府──夜。
 関勝は北京で兵馬都監軍となり、赴任するや将兵の信望を一身に集めた。
 かつては索超も北京軍に属し、もともと尚武の風ある土地である。その日の調練でも、仕官から兵卒まで、情熱をもって関勝の指揮に応えた。
「“武神”をお迎えし光栄です。関将軍とご一緒に戦える日が待ち遠しい」
 それが全軍の偽りない総意であった。
 夕刻、調練を終えた関勝は、ひとり関鈴のみを連れて、街に出た。
 この頃、関鈴は妙に静かだった。いつもの茶化すような言動もなく、無口で、それでいていつにも増して関勝から離れなかった。
 関鈴は見たのだ。
 数日前の深夜、誰かが密かに父親を訪ねてきた。関勝の部屋に誰かが出入りするかすかな物音がして、目がさめたのだ。関鈴は厠に行くついでに確かめようとして、庭に面した廊下に出た。そして、月明かりのもと、関勝の部屋から忍び出ていく人影と、その様子を塀の陰から窺う別の人影を見た。
 翌朝、関鈴は関勝に、昨夜、誰か来たかと訪ねた。しかし、関勝は、誰も来なかった──と言ったのだ。
 それ以来、関勝の様子がおかしい。
 他人には分からないだろうが、関鈴には、関勝がひどく悩んでいることが分かるのだ。
 夕刻の北京の街を、関勝と関鈴は馬を前後に並べて歩いた。関羽のごとき英雄と、利発な少年の二人連れは、本当の親子のようだった。
 ほどなく、関勝は落ち着いた酒楼を選んで馬をおり、関鈴とともに店に入った。座敷は奥まった個室をとり、関勝は酒と、いくつかの肴、関鈴のための暖かい食事を注文した。
 名乗らなくても、いまや誰でも、その容貌で関勝と分かる。店主はこの有名な英雄が来店してくれたことを喜び、みずから接待についた。
「関将軍にご来臨いただき、光栄でございます。こちらはご令息ですか。立派な坊っちゃま、将来が楽しみですな」
 店主は愛想よく皿を並べ、関勝に酒を注ぐと、ごゆっくり──と笑って扉を閉めた。
 関鈴は神妙な顔で座っている。
「食べなさい」
 関勝は関鈴の皿に、料理を取り分けてやった。
 そして、自分は静かに酒杯を干した。
 宣贊、赫思文を失ってから、ずっと断っていた酒である。
 関鈴は、もそもそと飯を食べた。何が起きているかは分からないが、何かが起ころうとしているのを、敏感に感じ取っていた。
 やがて、関鈴は我慢しきれなくなって箸を置いた。
「義父上、言いたいたとがあれば、言ってくださいよ。こんなんじゃ、料理の味も分からないや」
「明日、家に帰りなさい」
「なんですって?」
「お前は正式な武官ではないから、届け出は必要ない」
「僕の家はここ──あなたのいるところです」
「わしが帰れと言うのだ。母も叱るまい」
「母さんに叱られたって、僕は、最後までついていきます」
 関勝は、なんともいえぬ顔で、関鈴の顔を見た。
「血は繋がっていないというのに、お前は、赫思文と同じことを言う」
 少年はなんの疑いもなく、まっすぐに関勝を見返している。
「義父上が言ったんだ──決断する時がきたら、それを、誇れって」
「そうだったか」
「そうですよ」
 関鈴は口をとがらすと、また箸をとった。そして、こんどは勢いよく飯をかきこんだ。
「僕は、義父上より、ずいぶん後に生まれましたけど、死ぬ時は、一緒です」
 それきり、もう関勝はなにも言わなかった。
 店主が、店からだといって新しい酒を運んできて、その夜は、珍しく酒を過ごした。
「帰ろう。少し、頭痛がするようだ」
「飲み過ぎですね」
 店を出ると、もうだいぶ遅かった。
 空には、細い月が出ていた。
 関勝は赤兎にまたがり、夜更けの北京の街を歩いていった。
 宣贊、赫思文と、同年同月同日に死のうと近いながら、彼はひとり生き残った。いま、自分は、いつ死んでもいいと思っている。
 二人と同じく、梁山泊のために、この命を投げ出したいとさえ願っていた。
 しかし、関鈴だけは、巻き込みたくないと思っていたのだ。
 数日前、突然、朱武が現れて、呉用の密書を届けてきた。金国を動かし、その混乱に乗じて梁山泊が天子を奪取、政権を奪う──という。その時には、北京の軍を率いて呼応してほしいと。
 この企ては、“起義”か、“謀叛”か。

 漢室の再興に命をかけた──“義の人”関羽の裔として、どうするのが正義なのか。
 ずっと、関勝は悩み続けた。
 魂が引きちぎられるほど、悩んでいたのだ。
 関勝は細い月の下に馬を進めた。赤兎は首を垂れ、ゆっくりと進んでいく。
 美しい夜だった。
 通りは静かで誰もいない。酔いのせいなのか、やや頭が模糊としていた。
 赤兎の足音、関鈴が乗る赫思文の形見“茉莉花”の足音、そこにもうひとつ、よく知っている宣贊の馬の足音が重なって聞こえるようだ。
(関王よ、わしの行くべき道を示されよ)
 関勝は月を仰いだ。細い月は、刃のようだ。
 その鋭い光が、ふいに視界いっぱいに閃光となって広がった。

「む!」
 同時に、関勝は頭を殴られたような衝撃と、頭蓋骨が割れるほどの激痛に襲われた。
「あっ、義父上」
 関勝は馬から落ちた。
 関鈴が叫んで駆け寄った時には、関勝は両目を見開いたまま、意識を失っていた。
「義父上──義父上ッ!」
 関勝の意識は、そのまま二度と戻らなかった。
 三日後、関鈴と蔡慶に見守られ、“大刀”関勝は静かにその生涯を終えた。

 その日、安道全はふさいでいた。
 宮中の庵である。薬草園では、日差しを浴びて草花が生き生きと繁っている。しかし、安道全の顔も、杭州から戻ってきた阿虎の顔も翳っていた。
「どういうことだろう、先生」
 阿虎は今朝、いつものように街に施薬に出ようとして、門衛に阻まれたのだ。理由も言わず、宮中から出ないようにとの一点張りだ。安道全が行っても同様だった。
「どうもこうもあるか」
 安道全は、薬嚢と杖をとった。
 同じく宮中で務めている皇甫端に連絡しようとしても、それもできぬという。
「出て行くぞ、わしは。善意でいてやっているというのに、こんな無礼な扱いをうける筋合いはない」
「待っておくれよ、先生」
 安道全は大股で庵を出て行く。阿虎も急いで後を追った。薬草園から外に通じる小門には武器をもった衛兵が立っているのだ。安道全は声を荒らげた。
「通せ!」
 小競り合いになりかけた時、ひとりの宮女が割ってはいった。
「安先生をお連れせよとの、ご命令です」
 宮女が衛兵に割符を見せると、衛兵たちは引き下がった。
 安道全は宮女に案内され、阿虎とともに、いつも向かう天子の寝殿とは別の宮殿へと導かれた。いくつもの門をくぐり、皇宮の奥へ奥へと入っていく。
「どこへ行くのか」
「行けば、お分かりになります」
(この宮女、どこかで見たことがあるような)
 着いたのは、後宮の一隅にある、庭園に囲まれた美しい宮殿だった。
 天子の妻子や、一族の貴婦人たちが住む後宮は、通常なら男は宦官でもなければ立ち入れない。唯一、立ち入りできるのが、医者であった。
 宮女は、安道全を、その宮殿の女主人に引き合わせた。凛然とした面差しの、若く美しい帝姫だった。

「栄徳帝姫 金奴姫さまです。姫様、安先生をお連れしました」
 宮女が紹介した。同時に、安道全は思い出した。
「あっ、あんたは、萌児だな。彭己の娘の……大きくなった」
 彭萌はかすかに頷き、椅子にかけた金奴姫の背後に回った。
「姫様は、少し頭痛がなさいます。診察を」
 安道全は、なにか事情があろうと察し、金奴姫に近づいた。この姫の名前を、だいぶ昔に、梁山泊で聞いたことがあるような気がする。
 思い出そうとしながら、脈を診るため手首を取ると、姫が言った。
「安先生、“梁山泊”に、薛永という者がおるか。黒い大きな犬を連れている」
 美しい公主の真摯なまなざしを間近に見て、安道全はすぐに悟った。
(そうだ。あの法難の時の)
 梁山泊の黄金三年──詳細はよく知らないが、国を揺るがした“法難事件”で、史進や石秀、薛永たちが皇室の姫と関わった。
(では、この姫が)
「おりましたが、こたびの戦で」
「死んだのか」
「はい」

 公主の脈が、はげしく乱れた。
「……そうか」
 安道全も驚嘆するほどの精神力で、金奴は脈の乱れを抑えた。深く息をつき、静かに、安道全をさがらせた。
「楚州に」
 萌児は扉を警戒している。部屋には、金奴と萌児、安道全と阿虎しかいなかった。
 それでも、なお公主は声をひそめた。
「昨日、楚州へ勅使が発った。携えていったのは、御酒ひと缸。そして、薬蔵からは水銀が減っていたそうだ」
“水銀”は、不老不死の仙薬をつくる錬丹術や、顔料などとして使われる。そのため、宮中には少なからず保存されている。しかし、それら表向きの使い道のほか、密通した宮女の堕胎薬や、“慢薬”──ゆっくりと効いていく暗殺用の毒として使われることの方が多かった。
 水銀を飲むと、全身の痛みからはじまり、歩行困難、視覚や聴覚の麻痺があらわれ、やがて死に至るのである。
 金奴姫は、宮中の毒物に関しては、厳重に警戒と監視をしていた。彼女の母であった皇后は後宮の争いから毒殺され、兄の皇太子も多くの異母兄弟から地位を狙われているからだ。
 御酒と水銀──その意味は、医師である安道全でなくても分かる。
「楚州……宋江殿に、毒入りの酒が送られたと仰るか」
 金奴姫は頷いた。
「宮廷から出てはならぬ。そなたたちも、すでに監視されている」
 そこに、宮女姿のフレシュタ──皇甫端の妻が、皇甫端を連れてやったきた。
「ここにいれば、わたしが守ってやる。兄上の太子宮に匿ってもよい。“梁山泊”には、恩がある」
 この年若い帝姫は、父親の皇帝よりも、兄の皇太子よりも、強い意志を備えていた。
「我々より、宋江殿を助けねば」
「それは、私が」
 案ずる安道全の前に、彭萌が名乗り出た。
「外の仲間と連絡をとり、なんとしても宋江様に知らせます」
 彭萌はいまは宿元景の養女であり、梁山泊の仲間とは知られていない。自由に皇宮の外に出られる。
 皇甫端は重いため息をついた。
 水たばこをやりたいが、帝姫の部屋ではそうもいかない。
「頼んだぞ──奴らは、よほど“梁山泊”をこの世から消したいらしい」
 そうはいくか、と、皇甫端の青い目が語っていた。

「生き物は、死ぬ時、声をあげる。ふだんは鳴かないような動物も、全身で叫ぶ。抵抗しているのか、苦しいのか、別れを告げているのか……それはわからん。しかし、必ず──力を振り絞って、いちど鳴くのだ」

 東京開封府──夜。
 火薬局御営に務める凌振と、御宝監の金大堅は、それぞれの役所を出て、裏通りの宿屋に身を寄せていた。
 萌児がやってきて、彼らに身を隠すように言ったのだ。童貫らが梁山泊の抹殺を画策し、盧俊義が殺された。さらに宋江へ毒酒が送られ、ほかの仲間にも監視の目が光っている──と。
 二人は取るものも取りあえず宿舎を忍び出たのである。
 幸い、兵をもたない“技術者”である彼らへの監視は緩かった。そのことに、凌振は憤慨していた。
「“轟天雷”を見くびりおって。いざとなれば、火薬庫をふっとばしてやる」
 凌振は火薬、金大堅は彫刻刀の類を忘れなかった。
「あと、東京にいるのはだれだ? 金大堅」

「楽和と……蕭譲だな」
 金大堅は、黙々と印鑑を彫っている。

 その夜、楽和は荷物をまとめ、堂々と王都尉の屋敷を出た。
 萌児が待っている門に向かって歩いていくと、庭に王都尉が立っていた。楽和は王都尉と目が合うと、残酷にも見える冷笑を浮かべた。
「僕は自由だ」
 それは、王都尉には痛烈な皮肉だった。
 王都尉を見据える目が、彼を責めていた。清流派──などとうそぶきながら、彼らは宋江を疑い、梁山泊を見捨てたのだ。
「どうします、僕も殺しますか。これから、“謀叛”をするかもしれない」
 王都尉は、道をあけた。
「飛んでいけ。他人の鳥でも、きれいな鳥が殺されるのは見たくない」
 楽和は顔をあげ、王都尉の眼前を颯爽と通り抜けた。
「あなたは、まったく“瘋子”とは言えないな」
「なんだと」

「僕には、あなたの足首に、鉄の足枷が見えるよ」
 そのまま振り返ることなく、楽和は屋敷を出た。

 屋敷の外では、萌児が待っていた。侍女の格好で、手には袋をかぶせた箒のようなものを持っている。父親の形見の、三尖両刃刀だろう。
「勇ましいな、萌児」
「蕭譲おじさんと連絡がつきません」
 蕭譲は蔡京の屋敷の奥深くにいる。もはやフレシュタや書肆を使うこともできず、萌児にも連絡のつけようがなかった。

 同じく、夜。
 蔡京の屋敷では、高楼で酒宴が催されていた。
 どこか陰鬱な楽の音に詩情を刺激され、蕭譲は庭に出ようとした。
 そして、扉に鍵がかかっているのに気がついた。窓も開かない。梁山泊が戻ってきてからは自由に行動できたのに、呼んでも、誰も来なかった。
(梁山泊に、なにか起こった)
 蕭譲は危険を察した。閉じ込められたということは、彼が外に出ると、誰かが──おそらく蔡京が困るということだ。ならば、ここを出なければならない。
 蕭譲は窓に身を寄せ、隙間から外を窺った。蔡京の屋敷は人が多く、門の見張りも厳重だ。蕭譲は、腕には余り自信がない。建物から出て、広い庭を抜け、一丈もある塀をどう越えるか──。
 耳を澄ましていると、庭を横切って帰っていく客の話し声が聞こえてきた。
「もう七十になりましたから、引退して故郷に帰ります。最後に蔡太師に御挨拶できてよかった。図々しく宴にまで混ざり、杯をいただけたのは恐悦至極」
 酔っているのか、声高にしゃべっている。
「あとは、若く志ある者にまかせ──老人は隠居ですわい」
(この声は)
 蕭譲が思い出せずにいると、客人が朗誦した。
   兩人對酌 山花開く
   一杯一杯 復一杯
   我、醉うて眠らんと欲す 卿、且く去れ
   明朝、意有らば 琴を抱いて來たれ
(陳安撫!)
 田虎戦に従軍した老官僚だ。蕭譲とともに『空城之計』を行って、窮地を脱した。頑固だが、志のある老人だった。
 明朝──意有らば 琴を抱いて來たれ
 ともに戦ったあいだには、年齢も境遇をも超えた絆がある。
 老人は、蕭譲になにかの危険を伝えるためにこの屋敷を訪れ、耄碌を装って、わざと大きな声で歌ったのだ。蕭譲に聞こえるように──。
 蕭譲はすぐに身軽に着替え、荷物を作った。必要なものは、わずかの筆記具──その中には、蕭嘉穂の筆があった。
(本当に必要なものは、これだけだ)
 いよいよ窓を破ろうとした時、前触れもなく、扉が開いた。
 現れたのは、いつも蕭譲が教えている子供たちだった。
「へへっ、執事から鍵を盗んでやった。狐白裘を盗むより、簡単さ」
 子供たちは得意気に部屋に滑り込んできた。
「いけないぜ、先生。宋首領があぶない」
「おじいさまは、先生はまだ字を書く役に立つし、なにかあって責任を追及されると困るから、“ことがすむまで”、仲間と連絡をしないよう閉じ込めると言ってる」
「どうする? 助けに行くなら、手を貸すぜ」
「酒宴はたけなわ、今が好機だ。梁山泊を片づける、前祝いだってさ」
 彼らは幼く、無知で、なに不自由なく育ち、米は鍋から出てくるものと思っていた子供たちである。しかし、蔡一族の利益よりも、自分たちの感情を優先する純粋さを失っていなかった。
 蕭譲は子供たちに助けられ、部屋を出て裏庭へ行った。木立のあいだの暗がりに、梯子が立てかけられている。少年たちは、誇らしげだった。
 蕭譲が本を読ませ、梁山泊の物語を聞かせてきた少年たちだ。どの顔も、自分が物語の侠客や将軍になったように、輝いていた。
「先生、宋首領によろしく。僕たちも、いつか“好漢”に会いたいよ」
「伝えよう、きっと会える」
 蕭譲は梯子に手をかけた。
 宴会の喧騒が庭まで響き、高楼には赤々と光がともっている。
(あの人たちは、本当に信じているのだ。自分たちは、なにも悪いことはしていない──賢く、有能で、それゆえに特別なのだと)
 かつての宋の宰相、范仲淹は名相だった。飢饉が宋国を襲い、朝廷がなんら救済の手を伸ばさなかった時に、民が食べている野草や土、樹皮を宮中に持ち込んで、天子はじめ妃、皇子たちに見せた。その惨めな“食料”を目の当たりにしなければ、恵まれた人々は、他人の苦しみを想像も、理解もできなかったのだ。
 蕭譲は、子供たちに伝えた。
「先生がいなくなっても、毎日、本を読みなさい」
この国は、滅びるかもしれない。蔡京は、失脚すべきであろう。
 しかし、悪いのはこの子たちではなく、この国に、家に、范仲淹のいないことだ。

「家が滅び、国が滅びるようなことがあっても、知識と教養は失われない。それだけは、誰にも奪うことはできない。これが、先生の、最後の授業だ」

 朝。
運河を勅使の船が進んでいた。
 小さな、目立たない船だ。黄色い小旗も立っていない。
 平凡な顔の使者は、さほどの身分ある役人ではない。従者も一人だけ連れていた。
 その従者が、船室の中に鎮座する酒缸をながめて言った。
「御酒というのは、美味いものなんでしょうな」
 缸には、厳重に封がされている。使者も、ちらりと缸に目をやった。
 この旅のあいだ中、従者に運ばせるだけで、自分は触るどころか、なるべく近づかないよう距離をとっていた。
「盗み飲みをしようなど、夢にも思うな」
 使者は、陰気な顔で釘を刺した。
 彼は、自分の本当の役目を知っているのだ。
 楚州では、すでに折将軍の命令を受けた軍が準備を整えているだろう。宋江は転任してから殆ど軍務には携わらず、野心家の副総管が軍を掌握している。
 宋江が毒入りの御酒を飲めば、そのまま帰る。
 飲まなければ軍に通報し、宋江は捕縛され、反逆罪で処刑されることになる。
 そして、飲んでも、飲まなくても、その報告は早船と早馬で東京に伝えられ、全国で梁山泊の残党がひとり残らず捕らえられるのだ。
 船は南へ進む。
 使者は、むかし東京の裏町で聞いた、梁山泊の痛快な講談を脳裏の片隅に思い出した。
  山東の“及時雨”宋江は天下の義人──もろびと、これを愛さぬ者なし。
「ああ……なんと、いやな役目だ」



※文中の「高求」は、正しくは高求です。
※文中の「登州」は、正しくは登州州です。
※文中の「運城県」は、正しくは運州城県です。
※文中の「彭己」は、正しくは彭彭己です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「呼延玉※」は、正しくは呼延呼延玉です。
※文中の「楮堅」は、正しくは楮堅堅です。




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