水滸伝絵巻-graphies-

第百三十二回
星ノ章〜水のほとりの物語(七)家路/後篇

 二人連れが、街道を南へ向かっていた。若い文人風の二人連れ──楽和と蕭譲だ。
 大勢だと目立つと考え、凌振と金大堅は東京の安宿に残った。東京丐幇が彼らの世話をしてくれることになっていた。
 楽和と蕭譲は、陳安撫の屋敷で落ち合い、故郷へ帰るその一行に混じって東京を出た。どの程度、追及があるかは分からないが、用心に越したことはない。
 旅の文人に身をやつし、偽の通行証をもって、宋江のいる楚州へ急いでいる。通行証は、蕭譲が蔡京の字で書き、金大堅が宿で彫った印鑑を押した。
 この旅人に馬でも船でも自由に使わせろ、という内容だ。
 今度こそ間違いはない──と、金大堅は請け負った。
 彼らは、まず南京応天府に花栄を訪ねて急を知らせ、一緒に宿州へ出て、そこから船で楚州へ行く計画だった。それが一番早いからだ。花栄が同行してくれれば心強いし、いざという時、宋江を力づくで助けることもできるだろう。
 しかし、応天府の手前で彼らは足止めを食った。
 宿場に、軍が集まっていた。花栄がいる南京の軍ではなく、東京の軍だ。
 楽和たちは、自分たちの追手かと思ったが、歌手と書生を捕らえるにしては仰々しい。武装した官軍が千人あまりも待機している。
 楽和が警戒して様子を窺っていると、蕭譲は涼しい顔で通りすがりの兵に声をかけた。
「なにかあったのですか」
「謀叛だ!」
「謀叛?」
「応天府の“小李広”花栄が謀叛した!」
 これから捕らえにいくのだ──と、槍をかついだ兵は殺気だった声で応えた。


 早船が真っ白な波を蹴立てていた。
 帆が翻る。
 波も、雲も、風に乗り、どんどん後方へ流れていった。
 船は海船──指揮をとるのは、“混江竜”李俊である。

 杭州から梁山泊軍を離れた李俊は、龍王幇の費保ら“太湖四獣”と合流し、いましも内乱に見舞われている故郷・暹羅へ帰還する準備を進めていた。暹羅は宋国のはるか南海である。まず泉州沖の琉球島に寄港して、配下を情報収拾に派遣した。
 李俊が待っていた報告は、暹羅に関するものだけではない。
(必ず、宋国に乱が起こる)
 李俊はそう予見し、戴宗にあのように言い残したのだ。
 そして、彼が見抜いたとおり、今朝、蘇州に残した胡俊兄弟の手の者より、龍王廟に戴宗の甲馬が貼られたという知らせがあった。
 宋江の危機──李俊は即座にそう察し、もっとも早い船の舳先を東海へと向けたのである。
「蘇州の沖に錨を下ろし、太湖と連絡をとります。おそらく、戴院長が待っている」
 李俊は、舵をとる上青に言った。
「承知……李幇主」
 上青は、なぜ李俊がいつまでも琉球島でぐずくずしているか、やっと悟った。
 童威と童猛も、張りつめた目で水平線を凝視している。
 李俊は塩辛い風を浴びている。懐かしい風だ。
 その風がふいに冷たさを増し、船が揺れた。
 水平線に、雲が出始めていた。
 烏のような、真っ黒な嵐の雲だった。


 季節はすでに初夏になろうとしていく。
 日差しは濃く、風は汗ばむほど暖かい。
 宋江は、南蓼村の農家に離れを借りて住んでいる。城内の高価な役宅は引き払い、軍の仕事も、前からいる副総管に任せきりになっていた。
「水あそびに行こう!」
 宋江を誘いに行こうと走っていた村の子供たちは、道端に座り込んでいる乞食を見つけた。
「おじさん、どうしたの」
“鶏尾”だった。歩き通して、ようやく楚州に到着したが、城内に宋江の姿はなく、あちこち訪ねて、やっとここまで辿り着いたのだ。
“鶏尾”は子供たちに案内されて、宋江の家を訪ねた。
 宋江は驚くこともなく、再会を喜んだ。農家の女房が、食事を作って運んでくれた。
「呉先生は、お元気ですか」
「う、うん。おれは、先生の言いつけで、来たんだ。その、先生は、朝廷から呼びだしがあっても、決して、行ってはいけないって」
“鶏尾”は箸もとらず、急き込んで宋江に告げた。
 宋江は黙ったまま、鶏尾の必死な顔を見つめている。
 鶏尾は困って、頭を抱え、下を向いた。
「ほんうとだよ……先生が、そう言ったんだ」
「ほかには?」
「ほかに……」
“鶏尾”は泣きたくなった。
「なにかあったら、潤州の鉄牛だんなを呼べって……戴宗のだんなは、太湖へ逃げろって言った」
「そうですか」
 宋江は微笑んだ。
「ありがとう、疲れたでしょう。たくさん食べて、少し休みなさい」

 南京応天府。
 花栄の家は、城内にある。
 その日は仕事は非番で、花栄は朱武と今後について語っていた。
 人払いした部屋に、妻の淑卿が来客を告げた。
「誰だ」
 花栄はもともと社交家で、付き合いがいい。しかし、応天府に来てからは、親しい付き合いは控えていた。
 客は、蕭譲と楽和だった。花栄と朱武は、すぐに東京に変事があったと察した。しかし、なにがあった──と聞く前に、楽和から切り出した。
「兵がくる」
 楽和は、盧俊義が東京に呼ばれて暗殺されたこと、童貫たちが次は宋江を狙って毒酒を送ったこと。そして、街道に兵が集まっていること──を矢継ぎ早に伝えた。
 朱武は顔色を変えた。すぐに手を打たなければならない。
「謀叛の証拠はない。捕らえられても、何も知らないで通すのだ。その間に、宿大尉や王都尉に手を打ってもらえば……」
「いやだね」
 花栄は立ち上がり、壁の武器架から朱雁を取った。
「俺がなぜ“小李広”なのか、知らないわけではあるまい?」
「小役人に取り調べられるより、名誉ある死を選ぶ──ということか」
 花栄は朱雁に一番強い弦を張った。
「聞いたな、淑卿。逢春を呼んでくれ」
 淑卿は黙って頷いた。彼女は賢く、花栄の性格もよく知っている。
「家を出る支度を急いでくれ。宝燕たちもだ」
「分かりました」
 出て行く妻の背中に、花栄は言った。
「……すまん」

 振り返り、淑卿は微笑んだ。
「清風鎮を、思い出しますわね」
 間もなく、逢春が駆けつけてきた。
 母からあらましを聞いたのだろう、すでに武装し、弓矢を携えていた。父と一緒に戦う覚悟を固めている息子に、花栄は命じた。
「お前は、母と叔母たちを連れて、裏口から逃げろ」
 そして、楽和たちに引き合わせた。
「家族を頼む。兵は俺が引きつける。俺もなんとか脱出して、宋江のところへ向かう」
 逢春は納得しなかった。
「敵は宋国──どこに逃げ場があるんです」
 答えたのは朱武だった。
「そのこと、この朱武にお任せあれ」
「“神機軍師”、頼んだぞ。いいな、逢春。朱武たちと行け」
「父上は」
「宋江を連れて逃げる」
 逢春の頬が、緊張にわなないていた。
「僕ひとりで……」
「そうだ、花逢春。お前が家族を守るんだ。お前は、この花栄の子だ」
 屋敷の従僕が駆け込んで来た。
「表門に兵が! 旦那様に出てこいと怒鳴っております」
「出て行くさ」
 花栄は不敵に笑った。
 馬を引き出し、弓を手に、花栄は屋敷の門に向かった。
「──いわんや是れ西方無事の日。覇陵、誰か旧将軍を知らん」
 楊林に見せられないのが残念だ。いい講談になっただろう。

「門をあけろ!」
 同時に、花栄は火矢を放った。
「花栄が出てきたぞ!」
 花栄は続けざまに弓を放つと、手勢をつれて門から打ち出した。すでに夕闇が迫っている。火の粉が地面にぱらぱらと散った。
 花栄は屋敷に養っていた手勢をつれて打ち出した。
 その隙に家族は朱武たちに守られ、使用人たちに混じって裏口から出た。裏には手は回っていなかった。逢春は母を守り、淑卿と宝燕は子供をひとりずつ抱いていた。屋敷からは火が出ている。朱武が火を放ったのだ。
 逢春が振り返ると、燃え上がる屋敷の彼方で、人々が叫ぶ声が聞こえた。
「花栄が逃げるぞ、追え!」
 一方の朱武たちは、路地をぬって逃げながら、城内の各所に火を放った。さらに楽和が叫んだ。
「敵軍が攻めて来たぞ!」
 その声は万里に響き、応天府城内は大混乱に陥った。“敵”がなにとも分からぬまま、人々は逃げまどい、先を争って城から逃げ出した。

 同じ頃、登州武勝軍の呉用の草庵にも、捕り手が踏み込んでいた。
 しかし、すでに屋内はきれいに片づけられ、呉用の姿も、どこにもなかった。

 それは、よく晴れた初夏の朝のことであった。
 楚州の宋江のもとに、突然、朝廷からの使者が訪れた。
“鶏尾”は東京から使者が来たことに驚き慌てたが、東京への呼び出しではないと知ると、安堵して、使者を庵に迎え入れた。
「呼び出しなら、すぐに逃げなきゃならないけど……なんだ、酒か」
 使者は御酒一缸を携えており、天子から宋江への労いの品である──と、言葉少なに告げた。
 城内で役所や軍営をめぐり、ようやく辿り着いたらしく、だいぶ日数を無駄にしたと、愚痴のようなことも言った。
 宋江は、使者をもてなそうした。
「いや、もう時刻も遅いので」
「あばら家ですが、お泊まりください。この村は美しいですよ」
「とんでもない」
 使者は終始そわそわとして落ち着かず、従者に御酒の缸を運ばせた。
「恩賜の御酒です。召し上がるのを見届けよ──と、申しつけられております」
「そうですか」
 従者が封を切り、酒杯についで、宋江の前に置いた。

 潤州は楚州の南──運河でわずか三百里の距離だ。
 李逵は、潤州の都統制となったが、軍営で兵士に混じって暮らし、まるでつまらない日々を送っていた。
 命令したり、調練したり、役人どもとの宴会、書類──どれもこれも、まっぴらだ。
 官職など、今日にも放り投げたいが、そうしないのは宋江のためだ。
 別れる前、宋江から、まじめに務めるようにと言われている。たとえ梁山泊軍がなくなり、みんな離ればなれになっても、李逵にとって宋江の“言いつけ”は絶対なのだ。
 この潤州は、かつて方臘軍の最前線だった。
 敵将“明使”呂師嚢は強敵で、焦挺、宋万、陶宗旺の三人が、梁山泊軍はじめての戦死者となった。因縁の土地なのだ。
 彼らの遺体は、城外の野に埋葬されていた。
 李逵は着任すると、まず三人の墓を立派に整備した。以来、墓に参っては、酒を飲んでいた。墓の前にあぐらをかいて、手酌で飲む。ひとりでも、美味い酒だった。
 黙々と飲んでいても、三人が側にいる気がするのだ。
 焦挺はあいかわらず無口で、宋万も、陶宗旺も口数の少ない男だ。だから、李逵はひとりで喋る。
「宋江兄貴は元気でいるかな」
 潤州と楚州は、船ならば半日の距離だ。会おうと思えばいつでも行けるが、李逵は宋江から呼ばれるまでは待っていた。仕事を投げ出して会いに行ったら、宋江に叱られるだろうと我慢していた。
 だから、寂しさを紛らわせるため、毎日、墓で酒を飲んでいる。ここでは生きている人間どもより、死人との方が話がはずむ。
「宋江兄貴に、会いてぇなあ」
 李逵は酒杯を投げ、陶宗旺の墓を枕に寝ころがった。
 亀の甲羅のような墓には、もう青々と草が生えて、野原のようだ。
 李逵はちょっと眠ろうとして、ふいに目を開け、体を起こした。
 初夏の青空を、湿った風が吹き抜けていく。雨が来るのかもしれない。
 李逵は風の匂いをかいで、なぜか急に嬉しくなった。

「──宋江兄貴が、呼んでいる!」
 懐かしい、梁山泊の匂いがしたのだ。

 開け放した戸や窓から、さわやかな風が通り、今年はじめての蝉の鳴く声がした。
 宋江の前に置かれた酒に、風がさざなみを立てて通りすぎた。
 勅使は、やや視線を落とし、酒杯の下あたりを見つめている。
 宋江は、両手で酒杯を取り上げ、ゆっくりと、口元へ運んだ。

 宋江の喉が上下して、空の酒杯が、ことりと音をたて、卓に戻った。
 使者が、聞こえぬほどの息をついた。
 宋江は、穏やかに端座している。
 背後の窓──遠くの空が、蒼かった。
 使者は立ち上がろうとした。
 しかし、なぜか体が動かず、正面に座る宋江と目があった。
 宋江は、微笑んでいた。
 使者は思わず微笑み返し、それから、いいようのない恐怖に震えた。

“鶏尾”は部屋の片隅にいて、なにかがおかしいと感じていた。
 従者は、使者に返杯を注がなかった。“鶏尾”は遠慮がちに出て行って、使者にも御酒を注いで、面前に置いた。
「──いや、酒は飲めぬ体質で……」
 しどろもどろに使者は断り、宋江が用意した土地の名産などの礼物も受け取らず、そそくさと帰っていった。
「おかしな使者だ。おれは、ちょっと調べてくる」
“鶏尾”は後をつけていった。
 村はずれの船着場に、小さな茶店がある。使者は店に入ると、一番いい酒を注文し、放心した顔で何杯も酒を呷った。
 その様子を、“鶏尾”は木陰から見届けた。
(おかしいぞ、酒が飲めるじゃないか)
“鶏尾”は驚いて、宋江のもとへ走った。

 やがて、帰りの船がやってきた。
 使者が逃げるように乗り込むと、中で折将軍が待っていた。
「どうだった」
 宋江を包囲する兵は、すでに楚州城で待機している。
「の、飲みました」
 使者は、うわずった声で答えた。
「宋江は、まるで……疑うふうもなく、わたくしの目の前で御酒を飲み干したのでございます」
「まさか。謀叛の様子は?」
「まるで謀反人のようには見えませんでした」
 使者は震えていた。
「しかし、わたしはあれほど恐ろしい思いをしたことがない」
「御酒を拒否したら捕らえよ、との命令なのだが」
 それに続いて、全国の仲間を検挙する。いくつかの騒ぎを起こさせ、梁山泊の残党を一網打尽に殲滅して、天子に“梁山泊の乱鎮圧”を奏上する手筈になっているのだ。
 宋江が飲むとは、誰も予想していなかった。
 あるいは、この使者を殺すこともありえる──とまで考えていたのだ。
 折将軍は腰の剣に手をかけた。
 ここで使者を斬り、宋江が殺したと捏造することは可能だろうか? そして、宋江を捕らえれば、自分の手柄になるのではないか。
 小心者の使者は震え、涙まで浮かべている。船頭が、いぶかしげに二人を見ていた。
「東京に伺いを立てよう。こういう時は、上の命令に従うのが賢明であろう」
 折将軍はまだ若く、自分の手を汚すには、育ちがよすぎた。

“鶏尾”は宋江のもとに駆け込んだ。
「酒を飲んでた、あいつ、酒を飲んでたよ」
“鶏尾”はおろかだ。しかし、よくないことが起こっているのは分かる。
 宋江は、彼が出たときのまま、椅子に腰掛けていた。顔色がひどく悪かった。
“鶏尾”は宋江に駆け寄った。
「どうしよう、宋江さま。おれは、どうしたらいい」
「“鶏尾”や、もう何も言わなくていいよ」
 宋江は微笑んだ。
“鶏尾”は愕然とした。
「分かっていて、飲んだのかい?」
 宋江はなにもかも知っていたのかもしれない、と“鶏尾”は思った。
 呉用が、なぜ自分をここに寄越したのか。なぜ、東京には行くなと言ったのか。
 盧俊義が殺されたことも、呉用の計画も──。
「李逵を呼んでおくれ」
「そうだった。呉先生も鉄牛のだんなを呼べって……いのちがけで宋江さまを守ってくれるって」
「ああ──そうとも」
「待っていておくれ、すぐに呼んでくる」
 小さな家に宋江を残し、“鶏尾”はまた駆けだしていった。

 李逵が着いたのは、夜遅くのことだった。
 宋江は寝台に横たわり、苦しげな息をしていたが、李逵が部屋に入ってきたのを見ると、嬉しそうに体を起こした。
「どうした、宋江兄貴」
「ああ、鉄牛。早かったな」
“鶏尾”はまだ戻ってきていなかった。李逵は昼間のうちに潤州を発ち、“鶏尾”とは入れ違いになったのだ。
「なにか用があったんだな。おいらは宋江兄貴に呼ばれた気がして、早船でやって来たんだ。前に手紙をもらっていたから、南蓼村も見てみたいしな。どうした、具合が悪いのか」
「少し、体がつらいだけだ。お前の顔を見たら、良くなったよ」
「それならよかった」
 李逵は起き上がった宋江を支え、火の気のない居間に連れて行った。灯をともすと、机の上には、酒器が昼間のまま置いてあった。
 宋江は、酒缸から二杯の酒を注ぐと、自分と、李逵の前に置いた。
「李逵──いっしょに飲んでくれるか」
「もちろんだ。ちょうど喉がカラカラだ」
 李逵は酒杯を持ち上げると、一息で飲み干した。
「実は、朝廷から毒酒を届けてきたのだ」
「なんだと!!」
「彼らは、わたしが邪魔なのだ」
「へッ」
 李逵は拳で卓を殴り、椅子を蹴って立ち上がった。
「謀叛だ、宋江兄貴。おいらたちで謀叛を起こすんだ。潤州にも三千からの兵がいる。また梁山泊にたてこもって、みんなも呼んで、愉快に暴れたら気分がいい。いつやる、兄貴」
「わたしは、もう、その酒を飲んでしまった」
「えっ」
「いま、お前が飲んだのが、その酒なのだ」

 呆然とする李逵を、缸を置いた卓の向こうから、宋江が静かに見つめていた。
「呉先生たちは、わたしがいなくなれば謀叛は諦める。しかし、李逵よ、お前だけは、わたしのために一人でも謀叛を起こしてくれる。そして、みなを殺してしまうだろう」
 部屋は暗かった。
 李逵の目には、宋江の顔──その片方の目のほかは、なにも見えない。

「わたしには、それが辛いのだ」
 怒りも哀しみも苦しみもなく、李逵がよく知っている、宋江のやさしい眼差しだった。その目から、涙が溢れた。
「鉄牛よ、許しておくれ」
 闇の中に、宋江の姿が、淡く金色に光って見えた。
 その光は、李逵に届き、李逵の真っ暗な魂の中に、染みわたり──李逵は、自分の体も闇の中で星のように輝いているのを見た。
 李逵は、赤ん坊のように笑った。
「わかった、わかったとも。おいらは、どこまでだって、お供するよ」
 笑いながら、李逵はぽろぽろと涙を落とした。
「では、潤州にお帰り」

「いやだ。おいらもここで死ぬんだ」
「我々がここで一緒に死んだら、きっと謀叛の疑いを受ける」
 宋江の涙が、酒杯に落ちた。
「李逵よ、わたしはもう、誰にも悲しい思いをしてほしくないんだよ」
 李逵は目の前の酒缸を掴んだ。そして両手で抱え上げると、一息に御酒を飲み干した。

「これで兄貴と一緒に死ねる!」
 放り投げた缸が、壁に当たって音をたてて割れた。
 李逵は泣いた。李逵の目から、次から次へと涙がこぼれた。
「鉄牛よ、もう泣くのはおやめ」

 夏の夜は短い。
 月が昇り、星が巡って、虫や蛙がせいいっぱい鳴く声が、田園に満ちていた。
「おいらは生きている時は兄貴の兵隊、死んだら兄貴配下の亡霊だ」

 それから李逵は潤州に帰り、着いた時には、すでに立ち上がれぬようになっていた。
「おいらが死んだら、柩を楚州の蓼児窪へ運んで、宋江兄貴と同じところに葬ってくれ」
 そう言い残し、翌日、息を引き取った。

 夜明け。
 宋江は少し眠った。
 李逵は潤州へ帰り、“鶏尾”はまだ戻ってきていなかった。
 家を借りている農家の人々も、刻を告げる鶏たちも、眠っている。
 宋江はひとり目覚めると、家を出て、歩き慣れた田園の細い道を歩いていった。
 その足取りは、ゆっくりと、穏やかで、いつもの日課の散歩に行くのと変わらなかった。
 空気は澄み渡り、薄紫の空に静寂が満ちていた。
 夜明けの爽やかな風が、宋江を蓼児窪のほとりへ誘った。
 まだ藍色の水面に、漣が寄せる。
 葦がゆれる岸辺には、大きな木が立っていた。梢は、まだまどろんでいる。
 宋江は、木を見上げた。

 堂々とした幹と、豊かに繁る枝。もう数えきれぬほど見上げた、この美しい大樹の名前を、宋江は知らない。
 宋江は、根元の草に腰を下ろした。
 全身に痛みがまわり、息が詰まりはじめていた。もう、立っているのも辛かった。
 風が吹いた。
 梢がそよぐ。
 美しい夜明けが、蓼児窪を彩り始めた。
 宋江の体から感覚が失われていく。視界はかすみ、もう、世界が明るいことしか分からない。
 宋江は、満ち足りていた。
 愛する人々の顔が、彼らとの思い出が、魂のうちに満ちている。
(わたしは、幸せだった)
 彼らと出逢い、同じ道をともに歩んだ。
 その道は、大きな環を描きながら、これからも未知の野へ続いていく。わたしがその道を進めば、みながその道へ踏み出せるのだ。
 その道は、やがて辿りつく。
 天地の間に広がる青い湖、あの“みずのほとり”──へ。
 体の痛みに、宋江は、少し呻いた。
 その熱を帯びた額を、朝焼け空から降り注ぐ冷たい時雨が潤した。
 もう一度、目を開けると──蓼児窪を抱くように、空に大きな虹が出ていた。

「ああ──美しいな」
 最期に見る風景が、この生涯で最も美しかった。

 風に、嵐の名残りの雲が流されていく。
「──間に合わなかったか」
 蘇州の沖に、一隻の船が浮かんでいた。
 李俊は船縁に立ち、彼方の陸地を見ていた。
 海上に嵐が起こり、船は遅れた。ようやく嵐が収まり、胡俊が送った龍王幇の伝令船が伝えてきたのは、宋江の死であった。
 太湖で待っていた戴宗と龍王幇に凶報を伝えたのは、“鶏尾”である。
 彼は楚州に戻って宋江の亡骸を見つけ、村人たちに埋葬を頼んでから、戴宗の言いつけを思い出して太湖まで駆けつけたのだ。
 戴宗と“鶏尾”が伝令船に乗り込んでいた。
 戴宗は、李俊に詫びた。
「すまん、李俊」
「あんたのせいじゃ、ありません」
 李俊はひとり、みなと離れて、また遥かな陸に目をやった。
「旦那……どうしますか」
 童威が、李俊に尋ねた。李俊の物言わぬ背が、怒りか、悲しみが、静かに火を噴いているように感じられた。
 童貫らは“梁山泊”を抹殺しようと、さきに盧俊義を暗殺し、宋江を毒殺したという。
(東京に攻め込む気では?)
 童威が戦慄した時、海上に声が響いた。人とも思えぬ、響きわたる──美しい声だった。
「あれは──楽和!」

 童猛が帆柱に登り、目を凝らした。
 彼方に船が見えた。龍王幇の船だ。船を操るのは胡俊兄弟、楽和と蕭譲、それに女と子供が乗り込んでいる。
「朱軍師もいる!」
 再び楽和の声が響いた。
「“混江竜”!」
 船の背後には、官軍の追手の船が迫っていた。
 花逢春が揺れる船尾で弓を構え、追手へ向けて矢を放つ。
 胡俊たちは必死で櫓を押している。
「このままでは、追いつかれる」
 いかに龍王幇の船といえども、大勢を乗せた船足は上がらない。
「重い荷物を捨ててくれ!」
 花宝燕は、秦明の形見の狼牙坊を持ってきていた。いずれは、子供のどちらかに継がせるつもりだ。
 宝燕はそれを両手で取り上げ、一瞬、柄に頬を寄せると、船縁から海へと落とした。
 そして、ぐずる藍児を背負ったまま、宝燕は逢春の予備の弓を引き絞り、追手の船の舵取りを狙って、見事に射抜いた。
 淑卿も抱いていた紅児を蕭譲に預けると、弓を握った。
 三人が放つ矢を恐れ、官船の速度は落ちたが、李俊の船まではまだ距離がある。

 沖の船では、童威たちが船縁から小船を海面へ下ろしていた。
「もたもたするな!」
“玉旛竿”孟康の設計図をもとに海船に改良された“新海鰍船”である。船足はどんな船より早い。童威は銛を持った水夫とともに甲板へ飛び下りた。
「官軍どもを追い散らせ!」
 もう一艘の船には童猛と許船頭らが乗り込み、二艘の“新海鰍船”は颯爽と漕ぎだした。許船頭が舵をとり、漕ぎ手たちが全力で水車を踏む。船は海上を滑るように進み、官軍の船へ襲いかかった。
「遠慮はいらねえ!」

「沈めちまえッ!!」
 童威たちは銛を手に官軍の船に飛び移ると、兵を蹴散らし、船底に斧で大穴をあけて次々に船を沈めた。それを見た残りの官船が、慌てて舵をきって逃げだしていく。“新海鰍船”の水夫たちは気炎を上げた。
「もうおしまいか! まだまだ暴れ足りねぇぞ!」
 四、五隻も沈めた頃には、童猛の船が楽和や花栄の家族を乗せ、沖の船に着いていた。
 童威の船が帰ってくると、上青が李俊に進言した。
「このまま離岸流に乗りましょう」
“新海鰍船”を収容した船は、龍の背に乗ったように勢いよく岸から離れていく。
「東海龍王の加護だ──このまま琉球、いや暹羅まで」
「待ってくれ」
 止めたのは、楽和だった。
「僕を、どこかの岸に下ろしてくれ」
「どこへ行く、楽和」
「東京──やり残したことがあるんでね」
 戴宗は、楽和の意を察した。
「俺が連れて行こう。“神駒子”馬霊の火輪法を使えば、半日で着く」
 朱武も上陸を望んだ。
「わしも、やるべきことがある」
 朱武の手には、戴宗から預かった甲馬と、楽和から渡された通行証が握られていた。この札を頼りに太湖へ辿りついたおかげで、彼らは逃げ延びることができたのだ。
「全国に散った仲間に、宋江殿の死を伝え、いざという時のため甲馬を渡す。わしの仕事だ」
“鶏尾”も船を下りたいと言った。
「おれは、呉先生の庵に帰りたい」
“鶏尾”は目を泣き腫らしていた。
「僕も──」
 花逢春が進み出た。
「僕も、陸へ戻してください。父上を助けたい」
 思い詰めた顔の少年に、朱武は努めて冷静に言った。
「花栄は無事だ。あの男が、簡単に死ぬわけがない」
 それは、朱武自身の願いだ。
「再会するまで、父の代わりに家族を護れ」

 船が帆をあげ、陸へ戻りはじめた。
 李俊は胡俊を呼んだ。
「龍王廟に甲馬が貼られたのを見たら、いつでも、すぐに船の準備を。あんたの──生涯の“仕事”です」
“小白竜”のあだ名を弟に譲った“白竜”胡俊は、いまも太湖一帯に龍王幇の足場を残している。
「お任せください、李幇主。俺が死んだら弟が、弟が死んだら、息子どもがご命令を果たします」
 みなの目が、自然と李俊に集まった。
 天地は広く、境はない。どこにでも、生きられる場所はある。
 船は、船出を待っている。
 李俊は、はるかな陸地に向かって手を合わせた。
「宋江殿の死──無駄には、しません」

“宋江死す”の知らせは、その日のうちに東京にも届いた。
 蔡京たちは、それより先に折将軍から、宋江が御酒を飲んだという報告を受けている。すでに童貫、高求と協議し、梁山泊の残党狩りを進めるつもりだ。
 しかし、天子からの呼び出しがあった。
「宋江は、従容として御酒を飲んだそうではないか──本当に、謀叛などたくらんでおったのか」
 王都尉と宿元景が天子のそばに控えていた。
 宿元景が詰問した。
「宋江は武勲めざましく、護国の英雄といっても過言ではない。それが謀叛とは、由々しきこと。どのような証拠があるのか、ここでお示しいただきたい」
 蔡京たちは口ごもった。
 宋江の死後、楚州の折将軍に宋江の家を調べさせたが、証拠となるようなものはなにもなかった。仲間とやりとりした痕跡もなかったし、甲冑や武器もなく、馬すら持っていなかったのだ。
「無実の者を、讒言して殺したのでは?」
「なにをいう。事実、呉用と花栄は姿を消したではないか。特に花栄は、街に放火までして逃げたそうだ」
「では──、呉用と花栄の独断だったのでは?」
 宿元景は、一通の書状を取り出した。
「呼延灼が提出してきた、呉用からの謀叛を誘う密書です」
 呼延灼は、他のものを救うために、それを提出したのだった。
 あの慎重な呉用が、わざわざこんな署名入りの密書をよこしたのは、万が一の時は、自分だけが罪を負うつもりなのだと、呼延灼は察したのだ。
「呉用が首謀者、花栄はその誘いに応じたものだ。他の軍職にある者たちは、関勝は病死し、朱仝は劉光世の屋敷にいて、外部との接触などないと劉将軍が保証している」
「東京にいる者たちは……」
「安道全と皇甫端は太子宮にいる。凌振と金大堅は酒楼に長逗留しているし、楽和はわが屋敷……蔡太師の家庭教師を務めている蕭譲なる者も、楽和を訪ねてきて滞在している。まさか、太師の雇い人が謀叛の一味でもあるまい。彼らにあやしい行動は、なにひとつない」
 王都尉の眼光が、衆人を射すくめた。
 その気迫と威厳に満ちた姿は、まるで“瘋児”のようではなかった。
 王都尉は、彼の危機多い人生を、飄然とやりすごしてきた。いま、はじめて命をかけたのだ。
 実際は、もう──彼らはいない。
 昨日、楽和が急に王都尉の屋敷に戻ってきた。
 楽和は髪から潮の匂いをさせ、冷やかに言った。
『おめでとう──宋江さまが死んで、あなたがた“清流派”も救われましたね』
 宋江が本当に謀叛を計画していたとなれば、梁山泊に肩入れしてきた王都尉、宿元景の立場も危うくなる。
 宋江の死で、彼らの“心配事”も、なくなった。しかし、楽和は、王都尉に対し、ほかの仲間を助けなければ、自分も謀叛に加わった──と、自首して出ると脅迫したのだ。
 王都尉は、楽和を殺すこともできたが、しなかった。
「いかが、蔡太師」
「なるほど──」
 蔡京たちは、心の中で計算した。
 宋江が死んでは、謀叛もなにもない。ここで話を収めなければ、藪蛇ということもある。盧俊義が消え、宋江が死ねば──まずは、目的のほとんどを達したことにはなる。
「なるほど、宋江は人格者……謀叛は不満を抱く呉用、花栄がたくらみ、盧俊義をかつごうとしたのでしょう」
 天子が、怒りを発しそうになった。
「卿らは、罪のない宋江を」
 三人は、先んじて深々と頭を垂れた。
「惜しいことを──臣らの罪は万死に値します」
 この天子が、自分たちがいなければやっていけないことを、彼らよくは知っていた。

 追及は“首謀者”の呉用と花栄だけに絞られ、梁山泊の他の者の捕縛は保留となった。
 その日の夕べ、東京の街に歌声が響いた。
   長安に男児あり 二十にして、心、已に朽ちたり
 歌声は澄み渡り、人の魂を突き刺すほどに美しかった。
 空には、黄金の夕焼けが広がっている。
 歌声は街を通り抜け──やがて、城門を出ていった。


 宋江は、かねての遺言通り、村人たちによって蓼児窪のほとりに葬られた。
 やがて、潤州で死んだ李逵の柩も運ばれてきて、宋江の墓の隣に葬られた。
 夏──岸辺には草が生い茂り、木が大きな木陰を作っていた。
 ふたつの墓ができてから、遊びに来る子供たちの姿も──絶えた。


 季節は夏から秋へ移ろい、木々は色づき、空の色も更に冴えていく。
 水音がした。
 川が流れている。
 いや、あれは岸に打ち寄せる湖の──波。
 遠くから声が聞こえた。大勢の人が、楽しげに歌い、話している。
 呉用は半ば眠りながら、安堵の息をついた。
 ここは、よく知っている場所だ。
 彼の居場所──彼が守り、みなが平和に暮らしている、懐かしいあの湖だ。
 目を開けると、宋江が岸辺に佇んでいた。
 輝く湖を前に、呉用に背を向けて立っている。
 呼ぼうとすると、宋江は振り返り、両目を細めて微笑んだ。
 それは、王慶戦を最後に、呉用が二度と見ることのなかった、あの宋江の微笑みだった。
「宋江殿」

 手を伸ばし、体を起こすと、視界いっぱいに梁山泊の風景が飛び込んできた。
 美しい、梁山泊の夜明けだった。
「ああ、夢だ。長い長い──夢を見た」
 しかし、なぜ、こんな岸辺の、大きな木の下で寝ていたのだろう。
「──やぁ、先生」
 呉用の目が、岸辺のふたつの墓をとらえた。
 墓のかたわらに、粗末な小屋があり、中から現れたのは、花栄だった。
「ひどい格好だ。俺も、人のことは言えないが」
 呉用はよろめくように立ち上がり、疲れ果てた体を墓の前へ運んだ。
(そうだ。私は、宋江殿の墓を訪ねてきたのだ)
 呉用も花栄も、それぞれ任地を脱出し、役人の目を逃れながら楚州に向かった。そして、すでに宋江が死んだこと、潤州の李逵とともに南蓼村に葬られたことを知ったのだった。
 呉用は、宋江の真新しい墓の前に膝を折った。もう、少しの気力も残っていなかった。それでも、この墓を見るまでは、どこかにまだ──幻影のような希望があったのだ。
「私が、宋江殿を殺したのだ」
 宋江の墓に、名は記されていなかった。木を削っただけの墓標に、誰のものか、穏やかな文字だけが書かれていた。
『好漢不處国 以四海爲家』
 その文字を目で追って、呉用は、悟った。
 宋江が求めていたものが分かった。
 呉用は果てしない天を仰いで、おおきく息を吸い込んだ。
 ここは、まるで梁山泊だ。
 宋江は、ここを自分の眠る場所に選んだ。
 あの湖に帰らなくとも、宋江は知っていたのだ。
「ああ──どこにも“梁山泊”はある」
 自由だ。
 我々は、常に自由だった。
 我等のための国などなくても、真実の意味で自由だったと、呉用は悟った。
「宋江殿に会いたい」
 国中に手配書が回り、捕らえられれば、また童貫たちにどのように利用されるか分からない。各地には、なにも知らない仲間がいる。宋江のために、彼らを守らなければならない──呉用は、ずっとそう思い詰めて、ここまで来た。しかし、今は違った。
 ただ、宋江に会いたかった。
「俺もだよ、呉先生」
 風が大樹の枝を吹き抜けて、はらはらと緑の葉が散った。
「しかし、花栄、あなたには家族が……」
「俺たちは、首謀者として全国に手配されている。家族はなんとか逃げたようだが、俺が死ねば追及も止むだろう。俺は好き勝手に生きてきたから、最後も、好きにさせてくれ」
 花栄は、さっぱりした顔で笑った。
「花は散っても、種を残すさ──それに、俺は付き合いがいい」
 呉用は懐からひとすじの白絹を取り出した。
「我々は、また会えるでしょうか」
「会うさ」
 花栄は笑っていた。花栄らしい、華やかな笑顔だった。
「俺は、今ならあの“石版”を信じる」
 花栄は自刎したかったが、逃避行の間に剣を失っていたので、帯を解いた。
「自分の死に方を選べるというのは、幸せなものだ。不思議だな。いま、俺は、誰も憎んだり、恨んだりしていない。長い旅を終えたような、さわやかな気分だ」
 不思議だった。死ぬというのに、愉快な気分だ。
 大きな木の南北に枝を分けて、呉用と花栄は、白絹と帯を結んだ。
 花栄は呉用に向かって言った。

「笑って死のう」

「ええ」
 梢を見上げた呉用の額へ、時雨か露か──冷たいものが、ぽとりと落ちた。

 蔡京らを中心に、百官が唱えた。
「呉用と花栄が死にました。万歳万歳──万々歳」
 その日、朝儀のあと、天子は気分がふさぎこみ、久しぶりに李師師を訪ねた。
「李師師や、朕を慰めてくれ。天子の身でありながら、無力感にさいなまされることがあるのだ」
 李師師はどことなくよそよそしかった。
「わたくしは貧しい家に生まれ、四つの時に孤児になり、生きるため妓楼に引き取られました。その時のわたくしほどは、無力ではございませんでしょう」
「李師師は、朕を責めているのか」
 李師師はなんとも答えなかった。
 それは彼女の優しさではなく、失望のためだ。
 李師師は妓女の世界では“紅粧季布”と呼ばれ、自分の身を売った金を使って、大勢の娘を助けてきた。救ってやると一言いえば、必ず救う。
(でも、この“天子”ばかりは、救えない)
 李師師が相手にしてくれないので、天子は機嫌をとることにした。今日の李師師は、化粧も衣装も、さっぱりとして清らかだった。
「どことなく尼のような風情があるね。こんな美しい尼は見たことがないが」
「よくご存じですこと。わたくし、三歳まで泣いたことがなかったんですって。それでお寺に連れて行かれ、その時に、はじめて泣いたと聞いていますわ。だから、お坊様が師師という名をつけたんですの。いつか“出家”するさだめだから──と」
「まさか、出家するのではあるまいね」
「まぁ」
 李師師はにっこりと微笑んだ。
「李師師は、いつも陛下のおそばにおりますわ」
 すでに、部屋の箪笥の中はからっぽで、旅支度の包みも整えてある。おかみには、身代金に色をつけて払ってやった。
 あとは、自分で窓を押し開き、飛び立っていくだけなのだ。
「ちょうど、芝居の一座が来ておりますの。おなぐさみに、ご覧あそばせ」
 灯が消えて、部屋の中が真っ暗になった。
 天井から声が響いた。
「控えよ!」
 恐ろしい声だった。続いて、裁判の驚堂木が打ち鳴らされる。
「おまえは、なぜ奸臣どもの讒言を信じ、罪もない我等の命を奪ったのだ。ここで出会ったからには、お前の命をとって恨みを晴らすぞ!」
「李師師よ、なんの芝居だ……」
 天子はやめさせようとしたが、真っ暗で、李師師がどこにいるかも分からない。
 やがて、一隅にぽうと光がともり、閻魔のような男が現れた。
「罪なき宋江が、奸臣の陰謀で毒の酒を飲んで死んだ! 罪人を引き立てよ!」
 暗闇に異形の鬼たちが躍り狂う。
「罪人の名は! 罪人の名は!」
 ばりばりとなにかが壊れる音がして、天子は身をすくめた。
「宋江兄貴を殺したのは、だれだ!」
 真っ黒な人影が、天子に襲いかかってきた。かすかな光に、斧が光った。
「おまえか!」

 天子は悲鳴をあげた。呼んでも来る者はなく、天子は灯のつけ方も知らない。
「李師師──李師師はどこだ」
 真っ暗な部屋に、天子の声だけが、いつまでも虚ろに響いていた。


 李師師はとうに家を出て、旅装束で東京の街角に立っていた。
 雇われた丐幇の芸人たちが、楊林から銭をもらって帰っていく。
「おもしろいお芝居でしたわ」
「お力添え、感謝。いささか溜飲がさがりました」
 楊林は烏を肩に、頭をさげた。
「“水のほとりの物語”──生き残った我々が、語り継ぎます」
 それきり、天下第一名妓とうたわれた“傾城”李師師は東京から姿を消した。
 その行く先は誰も知らず、商人の妻となったとか、後に杭州で見たという風聞があるきりである。あるいは、ひとり山西の荒野を旅する、李師師そっくりの女道士を見た──という者もいた。
 純白の衣を翻すその姿は天女のごとく、荒涼山河に咲いた一輪の白牡丹のようであったと云う。

 関勝の葬儀が終わると、関鈴と蔡慶は連れ立って北京城をあとにした。
「家に帰ろう。“父さんたち”は、みんな死んでしまったんだから、母さんだって、家に入れてくれるさ」
 二人は赤兎馬と茉莉花を牽き、冬枯れの道を歩いていった。
 路傍の葉の落ちた立ち木の枝で、烏が長閑に鳴いている。
 その根元に笠をかぶって休んでいる男には、二人はどちらも気づかなかった。
 やがて男は立ち上がり、烏を肩に、筆管槍を杖に旅を続けた。
 街道を行き、船に乗り、全国を巡って、最後に辿り着いたのは、楚州蓼児窪──宋江の墓の前だった。
 美しい水のほとりに、塚が四つ並んでいた。
「宋江殿、ごぶさたしております」
 楊林は、かぶっていた笠を取ると、墓の前にぬかずいた。
 四つの墓は、“鶏尾”が墓守となり、草を抜き、香華を手向けている。
 楊林は墓に酒を供え、別れて以来の出来事を、ぽつぽつと宋江に語り始めた。

「あれから、いろいろな事がありました。私はというと、裴鉄面と飲馬川で書肆やら芝居小屋やら始め、なかなか繁盛しております。そうそう、裴宣には子供が生まれました」
 楊林は日に焼けた顔で笑った。
「かく言う私は、風来坊の気が抜けず、みなの消息を辿りがてら、こうして宋江殿に会いに来ました。みな無事です。どうぞ、ご安心ください」
 楊林は、大きな木の下に座り、ほっと長い息をついた。
「ああ、なるほど。ここは梁山泊にそっくりだ」
 楊林は、夕暮れまで蓼児窪のほとりに座っていた。そして、やがて星が輝きだす頃、楊林は腰を上げ、去っていった。
「また来ましょう。続きを、語りに」
 しかし、それきり──楊林が訪れることは、二度となかった。
 ほどなく、宋国と金国のあいだで戦が始まり、国境を超えた金軍の侵攻により、中原は激しい戦火に見舞われたのである。
  訪れる者もなく、墓守の“鶏尾”も流行り病で死んで、宋江たちの墓には草が繁り、墓標の文字も雨に消えた。
 梁山泊の人々の消息も、天地のあいだに消えていった。

“錦豹子”楊林は、相棒の小烏龍とともに講談師として全国を回り、“水のほとりの物語”は大いに評判をとったが、やがて消息を絶った。

“活閻羅”阮小七は石碣村の漁師として、老母に孝養をつくして暮らした。季節ごとに梁山泊に渡り、杓児とともに九天玄廟を守って、六十に達して死ぬと梁山に葬られた。

“小旋風”柴進は病を理由に辞令を受けず、滄州横海群の富豪として静かな余生を過ごし、ある日、ふいに病むこともなく世を去った。後には、美しい妻と優れた公子が遺されたと云う。

“撲天雕”李応は柴進にならって辞令を返上し、独竜崗で“鬼臉児”杜興とともに大富豪となり、ともに天寿を全うした。

“鉄扇子”宋清は故郷で農民となり、生涯、田畑を離れることはなかった。

“小遮闌”穆春は掲陽鎮でまた闇塩の商いを始め、兄の跡を継いで顔役となり、江州の“没遮闌”と一目置かれるまでになった。

“神機軍師”朱武と“混世魔王”樊瑞は、二人で全国の仲間を尋ねた後、ともに二仙山に赴き、“入雲龍”公孫勝のもとで道士となった。

“神算子”蒋敬は故郷の譚州にもどって庶民となった。その後の行方は杳として知れないが、後に失脚して流罪となった朱面を斬った白衣の使者が、蒋敬ではないかと言う者もあった。

“鉄叫子”楽和は王都尉の屋敷で悠々自適に暮らしていることになっていたが、江州の江娘のもとや、登州の姉のもとにも姿を現し、その行動は神出鬼没であった。

“聖手書生”蕭譲は長く姿を消していたが、蔡京が失脚し子弟が海南島へ流罪になると、配流先に現れて、また家塾の師となった。

“鎮三山”黄信は青州で元通りの官についた。

“病尉遅”孫立も登州で復職し、やがて金軍が国境を越えて戦が始まると、黄信とともに山東河北の義兵を率いて奮戦した。

“小尉遅”孫新、“母大虫”顧大嫂はまた賭場と宿屋を営み、後には孫立に従って民兵の一軍を率いた。

“独角竜”鄒潤も登雲山の山塞を畳んで従軍したが、宋国が和議に転じ、やがて淮水以北の領土を失う頃には、彼らの姿は一族とともにいずこともなく消えた。

“双鞭”呼延灼は御営の将として、韓存保と共に南下する金軍と激しく戦い、兀朮四太子を打ち破ったが、淮西まで軍を進めたところで、ついに討ち死にした。老将軍は最後まで手から双鞭を放すことなく、その形見は義子の呼延玉※に引き継がれた。

“轟天雷”凌振は火薬局御営で火砲の研究を続けていたが、金国との戦いが起こると呼延灼とともに火砲部隊を率いて大いに金軍を悩ませた。しかし、呼延灼が戦死し、その後、和議派が実権を握るようになると、火砲とともに姿を消した。

“美髯公”朱仝は劉光世の参謀として武勲をあげ、やがて太平軍節度使となった。

“没羽箭”張清と“瓊矢鏃”瓊英の息子の張節は両親の優れた素質を受け継ぎ、若くして金国軍を相手に数々の武功を立てた。

“神医”安道全は太医院の侍医となり、“紫髯伯”皇甫端も天子の馬を司る御馬監大使となったが、金軍によって開封が陥落する寸前に、宮中から姿を消した。

“玉臂匠”金大堅は御宝監に務めていたが、彼もまたいつの間にか東京を立ち去った。

“神行太保”戴宗は、今度こそ本当に泰山で出家し、熱心に香華をたむけていたが、数カ月たった星の夜、笑いながら大往生を遂げた。その後もしばしば霊験を現し、人々は、戴宗は死んだのではなく、仙人になったのだろうと噂した。実際、幾度か太湖の龍王廟に戴宗の甲馬が貼れていることがあり、そのたびに、沖に白い帆を張った不思議な異国船が現れた──と云う。

“混江竜”李俊は、“出洞蛟”童威、“翻江蜃”童猛とともに暹羅国に渡ると、内乱を収めて王国を統一し、暹羅王となった。


 時は流れる。
 空には雲が浮かび、鳥が水面に影を映して飛び過ぎていく。
 蓼児窪に、雨が降り、空が晴れ、梢が──しずかに歌っていた。
 墓標は朽ち、土盛りも大地に帰り、あの大きな木がなければ、場所も分からないようになっていた。
 宋江の死から五年後──遼国を打ち破った金国は、度重なる宋国の裏切りに業を煮やし、侵攻を開始。ほどなく東京開封は陥落した。
 全国に二十数万と称する兵力を擁しながら、朝廷には、なんら防衛の策も、外交の術もなく、手をこまねいて六万の金軍に敗れたのである。
 すでに、高求は病死し、弾劾された蔡京は海南島へ配流される途上で客死、童貫も罪人となって斬首されていた。その首は鉄のように固く、門の敷居を台に使って、ようやく切り落とすことが出来たと云う。
 金軍に対する抵抗は、山西、河北、山東の民衆が最も熾烈であった。
 江南では、盧州の山から逃げた明教徒の鐘相が洞庭湖に潜んで再び明教徒を集め、金軍にも激しく抵抗した。その時、鐘相は純白の神駒に乗っていた──という。
 しかし、朝廷は、最後までなんら有益な策をとらなかった。
 亡国の時は至り、宋国は滅びた。
 金軍が東京開封になだれ込み、繁栄を極めた東京の街は財貨も人も略奪されつくし、廃墟となったのである。
 すでに天子は太子趙桓に譲位していたが、ともに金軍の捕虜となり、北方へと連行された。鄭皇后、金奴姫をはじめ皇族や宮女、官僚たちも、宮中の美術品、財宝とともに拉致された。
 靖康の変──である。

 連れ去られた人々の中には、王都尉と宿元景も含まれていた。
 風雪の吹きすさぶ北の荒野を、宿元景は裸足の足を引きずり、粗末な車に付き添って歩いた。家畜が乗るような馬車に、二人の天子が身を寄せていた。
 彼らの旅は過酷を極め、人々は荒野に倒れていった。病死するもの、抵抗して殺される者、赤子を抱いて入水する宮女たちは数知れず、年若い妃や帝姫たちは金将の妾として次々に奪われていった。
 梁山泊招安に功績があった張叔夜も、旅上で食を断ち、国に殉じた。
 栄華を極めた人々の屍は荒野を覆い、故国を失った人々の泣き声が曇天を震わせた。
(地獄だ)
 宿元景は凍土に伏し、我が身を呪った。
 梁山泊がいれば、あの男たちがいてくれたら──この日は、なかったかもしれない。
 宋江を信じきることができなかった自分を、宿元景は噛み殺したいほど怨んだ。

 北宋は滅び、南宋が起こり、さらに戦いは続いた。
 淮水の南へ逃げた者たちは、杭州を臨安と名を変え都にし、宋国の命脈を保った。しかし、豊かな江南の土地を求め、金軍の南下は止まらなかった。

 抗金の戦いは激しく、宋軍の驍将となっていた“万人敵”韓世忠は、吹毛剣を手に、妻の梁紅玉とともに楚州を守って奮戦した。

 岳飛もまた若くして頭角を現し、金軍を猛攻して東京奪回の寸前まで迫ったが、和議派の秦檜によって讒言され、“抗金英雄”は罪なくして処刑された。
 宋国は莫大な財貨で和議を買おうと図り、命懸けで戦った者たちが報われることはなかった。国どころか岳飛ひとり救えなかった韓世忠は、官を辞し、二度と軍事を語ることはなかったという。

 亡国の天子となった趙佶は、寒冷の異国で衣食にも事欠きながら十年の歳月を過ごし、ついに二度と故郷の土を踏むことなく、五十四年の数奇な人生を終えた。
 南宋を建てた彼の息子は、帝位を奪われることを恐れ、父と兄が戻ることを望まなかったのである。
 過酷な運命を生き延び、金帝の妃となっていた栄徳帝姫・金奴が、父の柩を帰国させるために奔走し、やがて趙佶の柩は故国へと送られた。
 柩となって、ようやく故国に帰ることができた天子の廟号を『徽宗』と云う。
“徽”とは、美しい──という意味である。

 その南宋国も、金国も──やがて、滅びた。


 時を越えて、歌が聞こえる。
 風の音だ。
 波の音だ。
“保義の宋だんな様”の墓は跡形なく、蓼児窪も干上がった。
 ただ、あの木だけが立ちつづけていた。
 子供たちが遊び疲れて、夕暮れの道を、我が家に帰る。
 歌声が遠ざかり、黄昏が梢を照らす。
 鳥たちもねぐらへ帰り、夕焼け空に星がまたたく。
 月が出て──世界を照らす。
 風の声を、子供たちの歌を聞きながら、天魁星は眠り続けた。
 竜虎山で千年眠り、こたびもまた、同じほど、長い長い、眠りだった。
 夢を見ていた。
 ゆったりと流れる大河のほとり、星空をつらぬく大樹の下で、遥か未来の夢を見ていた。

(ああ──みながいる)
 星々は再び生まれる。
 名が変わり、姿が変わり、言葉さえ変わっても、我々は出会う。
 時が移り、国が変わり、空の色さえ変わっても、わたしには分かる。
 たとえ、集まることはなくとも──ともに同じ河のほとりを、大きな木の下の道を、歩いている。
 今夜の星に向かって、今朝の太陽に向かって進む。
 そして、次こそ、辿り着く。
 百年後に生まれる人となって。
 千年後に生まれる命となって。
 未だ来ぬ──あなたとなって。
 我らが故郷、我等が家──なつかしい、あの“みずのほとり”へ。
 
 あなたは、わたしだ。

 ほら、聞こえるだろう。
 あの声が──。



『扉を──開けよ!』



※文中の「登州」は、正しくは登州です。
※文中の「蓼児窪」は、正しくは蓼児窪です。
※文中の「高求」は、正しくは高求です。
※文中の「撲天雕」は、正しくは撲天雕です。
※文中の「小遮闌」は、正しくは小遮闌です。
※文中の「朱面」は、正しくは朱面です。
※文中の「呼延玉※」は、正しくは呼延呼延玉です。




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