水滸伝絵巻-graphies-

第一章
中秋望月

それは人生でただ一度の輝く夏
あの夏こそ、私の命
あの夏に流した汗が、涙が、今も私を生かしているのだ
     紹興五年四月 於上京会寧府  大宋栄徳帝姫 趙金奴


第一章 中秋望月

 見上げると、黄昏の空に浮かんだ小さな花は、銀色の星に似ていた。
 涼しい秋風が通り、甘い香りが夕闇の中へ広がっていく。
 少女は、目を閉じた。
 花の名は銀木犀。またの名を“七里香”。美しい名は、母親が教えてくれた。
 広大な花園の片隅に立つ銀色の樹は、幹は華奢だが、梢は軒に届くほど高い。しなやかな枝には、白い花が溢れるように咲いている。
 少女は目を閉じたまま、銀色の樹が放つ香りを、体いっぱいに吸い込んだ。灰色の幹に寄り添い、少女は、ずいぶん長く木の下に佇んでいた。

 彼女の顔だちは美しく、身につけた髪飾りや衣装も贅沢なものだ。それよりも、幼い目元に浮かんだ聡明さの方が際立っていた。
 空はどんどん暗くなり、花園には人影もない。太陽が沈み、星が輝きだしても、誰ひとり彼女を探しにくる者はいなかった。
 やがて、少女は木を離れ、歩き始めた。
 目を閉じたまま、植え込みの小道を進み、池の小橋を渡っていく。彼女の気に入りの“遊び”だった。足に伝わる土の感触、さざなみの音、草花のかすかな匂い。それらが、闇の中に地図を描く。深い山、神秘的な森、大海のほとり、どこまでも続く草原──少女の寂しげな唇に、笑みが浮かんだ。
(わたしは、ひとりで旅をしている──どこまでも、ひとりで行くの)
 しかし、足が石畳を踏んだ瞬間、少女は目を開け、鋭く回廊の彼方を睨んだ。
 回廊にあがる石段では、白黒の小犬が彼女を待っていた。少女を見て小犬は尻尾を振りかけたが、主人の緊張を感じ取り、ぴんと耳をそばだてた。
「おいで!」
 少女は石段を駆け上り、回廊を通り抜けて、母親の部屋の扉を推した。中は暗く、いくつかの灰色の人影が、奥にある寝台を取り巻いていた。

 影のひとつが、柔和な声で彼女を呼んだ。
「──金奴」
 父親だった。しかし、少女は答えるかわりに、威厳に満ちた声で命じた。
「だれか灯を!」
 重苦しい空気が動いて、物陰に隠れていた侍女が小走りで蝋燭に火をともした。
 部屋の中は明るくなった。豪奢な部屋だ。そこに集っている人々の衣装も華麗なものだ。それでも、この部屋に満ちた空気は、寒々と張りつめている。
 少女──金奴は、負けまいと胸を張り、わざと明るくおどけて言った。
「ごきげんよう、お父様。あっ、“陛下”とお呼びするべきかしら。あまりにお久しぶりなのですもの、どうお呼びしていたか、金奴は忘れてしまいましたわ」
「遠慮はいらぬ、“お父様”と呼びなさい」
 父親は鷹揚に頷いた。幼い娘が笑顔に込めた皮肉にも、そこに隠された甘えにも、彼はまるで気づかなかった。父親は、この国で最も高貴な人物“天子”──大宋国の皇帝なのだ。天下の主であり、万民がその意に応じる。人の意を汲む能力は、彼には求められていなかった。
 金奴は少し失望し、今度は母親に目を向けた。
 父親が皇帝ならば、金奴の母である王皇后は、大宋国で最も高貴な女性のはずだ。しかし、彼女は力なく寝台に横たわり、不安げに夫を見つめている。王皇后はもう長いこと病床についているのだ。その病の原因が父親であることが、金奴の心を痛めていた。
 皇帝の傍らには、着飾った貴妃がぴったりと寄り添っている。慕容貴妃は、父親の何十人もいる側室のひとりだ。後宮一の美女と云われており、病弱な皇后に代わって後宮を取り仕切っている。慕容貴妃は金奴に微笑みかけたが、美しく化粧した目は少しも笑っていなかった。
「陛下は、わざわざ皇后様のお見舞いにいらしたのですよ」
 金奴はつんと顔をそむけた。
 皇后は謹厳な官僚の娘であり、皇帝は遊び好きの“風流天子”だ。若い頃は“浪子”──遊び人として浮名を流した。即位後はまじめに政治を行なおうとした時期もあったが、今は専ら大臣たちに国を任せて、絵画や造園など自分の趣味を楽しんでいる。
「お父様にお会いできて、嬉しいわ。ねぇお母様」
 この機会に両親の仲を取り持とうと、金奴は両親のもとへ歩み寄ろうとした。その前に、父親お気に入りの宦官大臣の楊センが割り込んだ。
「さ、帝姫さま。楊センめが、玉兎と蝦蟇の飴ん棒をしんぜましょう。あまい飴でできた、かわいい兎と蛙ですぞ。そうれ、中秋の満月を仰いで踊ってござる」
 宦官とは、後宮に仕える去勢された役人である。小太りの顔に愛想笑いを浮かべ、楊センは飴細工を両手に、おどけて踊った。その横を、金奴は一瞥もしないで擦り抜けた。
「お母様、今宵はお父様とご一緒に宮中の宴へ参りましょうよ。踊りや、お芝居があるんですって」
 慕容貴妃が明らかに不快な顔をした。王皇后はさびしげに微笑んだ。
「それなら、お兄様とおいでなさい。お母様は具合が悪いから……」
 寝台の足元には、兄の桓皇子が柱に隠れるように佇んでいた。金奴より三つ年上で、将来は皇太子になる身分である。しかし、気弱で、真面目なだけが取り柄だった。
「お兄様もほら、お母様をお誘いして。お薬を変えて、この頃は少しご気分がいいの」
「──薬ならば、貧道も月宮よりお持ちいたしましたぞ」
 金奴は、見知らぬ若い道士に目を向けた。道服を着て、仰々しい大きな金色の払子を持っている。立派な口髭をはやし、いかにも厳めしい顔つきだった。
「ああ、おまえが林霊素とかいう方術師……近頃、お父様に取り入った“ぺてんし”か」
 皇帝は趣味が多く、絵画や書道の達人である。珍しい動植物や、奇岩の収集にも没頭した。今はもっぱら“道教”──不老不死や、羽化登仙といった神秘的な術に傾倒している。高祿を与えて道士を集め、中でも今いちばん寵愛しているのが、この道士“通真達霊元妙先生”林霊素なのである。皇帝は娘をたしなめた。
「金奴よ、林先生を今までの道士たちと同じと思ってはいけない。彼は本物の“仙人”で、自在に神仙を降ろすことができるのだ。医術の心得もあるというので、今宵は特に皇后のために伴ったのだよ」
「いかにも。それでは、まずは、祈祷を。それから仙薬を処方いたしましょう」
 金奴は道士の歩みを遮った。
「お母様は観音経がお好みだ。お前、読めるの?」
「仏教と道教はちがいます」
 林道士は鋭い目で、一瞬だけ金奴を睨んだ。ぞっとするような目つきだったが、皇帝は気づかず、思い出したように話題を変えた。
「そういえば、この帝姫は難産で、皇后が信奉する高僧に祈祷を行なってもらったのだ。その高僧が、この子に偈を与えたのだが、今もっても意味が分からぬ」
「偈はなんと?」
「“天に三日あり、満月輝く”と」
 慕容貴妃が眉をひそめた。
「まぁ、陛下。不吉ですこと」
「そうなのか? 長老は、不吉とまでは言わなかったが……どうなのだ、林先生」
「僧は憚って濁したのでしょう。貧道は正直に申し上げますぞ。日輪とは則ち天子、それがおそれ多くも三つとは……」
「では、月とは?」
「月は陰、満月の数は十五……十五才の女子が帝位を害すという暗喩かもしれませんな、いやいやまさか」
 皇帝の金奴を見る目が不穏になった。すかさず王皇后が皇子に勧めた。
「お父様のお見送りを。間もなく、宴が始まりましょう」
 慕容貴妃も婉然と微笑んで、すっかり興ざめした様子の皇帝の腕に手を置いた。
「陛下、御殿へ戻りましょう。高楼から月が登るのを御覧になれば、気も晴れますわ」
 皇帝が席を立ち、慕容貴妃たちもあとに続いた。
 人々が去ると、金奴は小さな手でしっかりと扉を閉めた。



 低い空に、赤い満月が登っていた。

 広い部屋には、皇后と金奴だけが残された。金奴は母を寝かせると、そばの窓枠に登って、ぼんやりと外を眺めた。宮殿は高い塀に囲まれており、月はまだ見えない。耳を澄ますと遠くから音楽や笑い声が聞こえてきた。今夜は中秋の名月を眺めながら、賑やかな宴が催されるのだ。金奴は、まだ一度も宮中の宴に出たことはない。
「賑やかね。でも、うらやましくなんかない。わたし、静かなのが好き」
「金奴や、あなた“ぺてんし”なんて、いったいどこで覚えたの」
「もちろん、伯父様よ」
 皇后の顔に笑みが浮かんだ。彼女の兄は磊落な人物で、皇帝のお気に入りでもある。今は使者として各地を巡察しているが、母子が最も頼りとしている人物だった。皇后に効き目のよい薬を探してきたのも、金奴に小犬をくれたのも伯父なのだ。
「伯父様は、間もなくお帰りになるそうよ。そうしたら、なにもかもよくなる」
 乳母が食事を運んできた。皇后が飲食するものは、部屋の厨房で乳母が作る。外から運ばれてきたものは、必ず犬に毒味をさせた。それも、伯父の指示だった。
 伯父が言うには、大臣たちは皇帝を様々な遊びで“たぶらかし”て好き勝手な政治を行ない、諫言する皇后を邪魔にしている。また、皇帝と皇后の不仲につけこみ、すべての妃が次の皇后の位を狙ってる。
『だから、お前のお母様には、たくさんの危険があるのだ』
 金奴は、きゅっと唇を噛んだ。
(だいじょうぶ。お母様は、金奴がお守りする。わたしは──“不吉な子”なんかじゃない)
 金奴はむりに元気を出して、今夜の膳を覗き込んだ。
「中秋のご馳走はなに?」
 膳にはいつもと同じ質素な精進料理が並んでいた。皇后は熱心な仏教徒で、発病してからはさらに精進を続けているのだ。
「それでも、月餅くらいはあってもいいのに」
 金奴が唇をとがらせると、乳母が手巾で涙をぬぐった。
「ほかの夫人たちには、宴の席で陛下からご下賜があるそうですわ」
「いいわ。ほら、金奴が“ご馳走”をさしあげましょう」
 金奴は両手で母親に抱きついた。寝台の帳の中に、銀木犀の香りが広がった。
「枝を折ったら可哀相だとおっしゃるから、体じゅうに沁みこませたの。今年は、みごとに咲きましたわ。あした、お散歩に行きましょう」
「おまえは、いい子ね」
 皇后は、細い腕で娘の髪を優しく撫でた。
「あの木は、私が皇后となった時に植えたもの……。銀木犀は、べつの名前を“七里香”というのですよ。七里の先まで、徳が香るようにと、亡き父が贈ってくれました」
「七里って、どれくらい?」
「お母様はあまり御殿から出たことがないから、よく分からないわ」
 皇后の目に涙が滲んだ。金奴は気づかないふりで、明るく笑って立ち上がった。
「やっぱり月餅くらいいる。わたしが行って、お父様からいただいてくる!」
 金奴は部屋を抜け出した。乳母は厨房にいるし、侍女たちは宴の手伝いに行っている。門を見張っている小宦官は、金奴のいい遊び相手だ。
 いつか金奴が大切にしている赤い服の人形がなくなって、乳母が小宦官の寝床で見つけたことがあった。乳母は怒って打とうとしたが、金奴はかばった。
「忘れていた。わたしが、あげたの」
 宦官はたいていは貧しい家の子か、孤児だ。金奴がたくさん持っているおもちゃを、眩しそうに見ていたことを知っていた。
 小宦官は、頼むと何も言わずに鍵をあけてくれた。門を走り出た金奴のあとを、小犬が追いかけてきた。
「お部屋にいなさい。お母様を守るの」
 言い聞かせると、小犬はおとなしく帰っていった。
 皇后宮を出ると、あたりは別世界のように賑やで、華やかだった。木には提灯が吊るされ、宮殿は七色の布と造花で飾られている。音楽とごちそうの匂いが流れ、思い切り着飾った人々が楽しげに行き交っていた。
 そのなかに、ひときわ華やかに装った慕容貴妃が、侍女たちを引き連れて歩いていくのが見えた。

 七色の裳裾を引き、宝石をちりばめた黄金の冠をつけている。月の女神“嫦娥”に扮して、今夜の宴の女主人を気取っているのだ。結い上げた髷には、大輪の紅菊を挿していた。植え込みに隠れた金奴の耳に、侍女たちが褒めそやす声が聞こえた。
「紅の菊とは珍しいこと。貴妃様の美貌がさらに映えますわ」
「そうであろう。だが、菊花は金色が最も美しい」
 金奴は得意になって笑った。
(そうよ。金色の菊は、皇后の象徴だもの。金の菊を植えていいのは、お母様のお庭だけなんだから)
 貴妃たちが行ってしまうと、金奴は足どりも軽く父親の御殿に向かった。
(どの妃よりも先にお父様に会って、いちばんいい月餅をいただこう)
 金奴は御殿の石段に足をかけた。すると、背後から誰かに呼ばれた。振り返ると、柱の前に侍女がひとり立っていた。名を“月仙”という、父親付きの優しい侍女だった。近づいてくると、ツンとする強い芳香が漂った。
「帝姫様、こちらを皇后様に」
“月仙”は漆塗りの箱を差し出した。中には、美しい紋様が刻まれた月餅が入っていた。
「皇帝陛下からでございます。特別な月餅でございますゆえ、ぜひ、皇后様に──と」
 金奴の顔が輝いた。
「お父様は?」
「もう宴に。ご一緒に参られますか?」
 御殿の屋根にかかるように、満月が登っていた。金奴は行きたい気もしたが、向こうの石段を上っていく貴妃一行が目に入った。
「いいえ、早くお母様にお届けしたいから、行かない」
 金奴は月餅の箱を受け取ると、しっかりと腕に抱いて、皇后宮へ走って帰った。
「お母様、お父様からいただいた月餅よ」
 皇后は体を起こし、金奴の紅潮した頬を見て微笑んだ。乳母がいなかったので、金奴が小刀を探してきて、おぼつかない手つきで大きな月餅を切り分けた。
「大きなこと。お前もお食べ」
「あとでね。まずお兄様にさしあげて、残りは乳母たちにも食べさせてあげましょう」
 金奴のおしゃべりを聞きながら、皇后はゆっくりと月餅を一きれ食べた。
「おいしい? たくさん、おあがりになって。元気がでるわ」
 金奴はもう一切れを皿に載せた。中身は卵で、床に零れた黄色いかけらに小犬が尻尾を振って飛びついた。
「お茶を淹れましょう。伯父様がくれた桂花茶があるわ」
 しかし、金奴の問いに返事はなかった。
 月餅の皿が床に落ち、皇后は血を吐いて褥に倒れ伏したのだ。



 皇宮では、なにもなかったかのように、月見の宴が続いていた。
 皇后宮だけが厳重に閉鎖され、金奴は後宮の地下室で秘密裏に取り調べを受けていた。
 怖い顔をした役人たちが、金奴を取り巻いていた。帝姫であるから、縛られたり、打たれたりすることはない。しかし、金奴は裙子を握りしめ、かみしめた唇には、赤く血がにじんでいた。
「月餅は、侍女がくれた。月仙が」
 金奴は、懸命に涙をこらえた。
 毒は、月餅に入れられていた。床に零れた餡をなめた小犬も死んだ。
 皇后はすぐに部屋から運び出されて、二度と、会うことはできなかった。
(お母様……!)
 部屋の中は薄暗く、誰の顔もはっきりと見えない。なぜ、父や兄は来てくれないのかと、金奴はうらんだ。ひとりの役人が言った。
「侍女の月仙は、今朝ほど急病になり、届け出をして実家に戻っております」
 取り調べの役人たちは、人形のように口をつぐんだ。
 皇帝は皇后を疎んじていた。慕容貴妃は皇后の位を狙っている。皇帝をまどわす林霊素や大臣たちにも、王皇后は邪魔な存在だった。どのような“真実”をつきとめたとしても、それは“朝廷の醜聞”にほかならない。
 金奴ひとりを犠牲にして、ことをおさめるのが最上──なのだが、幼い帝姫が母親を毒殺するわけがない。
(では、どうするか)
 役人たちは、“犯人”を探すことではなく、そのことに頭を悩ませていた。その時、音もなく地下室の扉が開いた。廊下の灯が、金奴には太陽のように眩しく見えた。その光芒のなかに、ひとりの、背の高い男が立っていた。
「これは──王都尉殿下」

 役人たちが慇懃に頭を下げた。母の兄──唯一の頼りである伯父だった。しかし、その口から出た言葉は、さらに金奴を打ちのめした。
「陛下におかれては、内密に処理せよとのご下命である。帝姫は、まだおいとけないお年頃ゆえ、証言はあてにならぬ。皇后は、病を悲観して……自害されたのだ。喪は佳日をさけて発し、民を不安がらせぬように。また、帝姫は宮廷より出して寺に預けるように」
「伯父様!」
 はじめて、金奴は叫んだ。
「お母様は、殺されたの。毒入りの月餅は、月仙が……」
「金奴よ、宮女の月仙は、夕刻前に実家で死んだ。人をやって、確かめたのだ。今夜、宮城に月仙はいなかった」
 すぐに金奴は輿に乗せられ、宮城を出されることになった。夜は更け、満月は、空のいちばん高いところで輝いていた。
 金奴は真っ暗な輿の中に、茫然と座っていた。伯父が窓格子に顔を寄せ、誰にも聞かれぬように囁いた。
「耐えよ。これは、そなたの身を守るためなのだ」
 彼にも真相は分からない。分かるのは、このまま宮殿にいては、金奴の身にも危険が及ぶだろうということだ。
(今夜、自分が帰ってきたのは天の助けだ)
 皇帝は慕容貴妃が捧げる美酒と、林霊素の幻術に酔い、皇后の急死を聞いても、その処理を彼にまかせただけだった。
 金奴が乗せられた小さな輿は、皇后宮から運び出され、高い壁に囲まれた曲がりくねった小道を進んだ。
 暗闇の中に、銀木犀の甘い香りが漂っていた。涙があふれた。
(おかあさまを殺したのは、だれ?)
 すぐに香りは消えてしまった。もう七里を越えたのだ。
(わたしが見た“月仙”は、だれ?)
 その代わり、別の匂い──あのツンとする香りが輿の中に漂ってきた。
「ここは、どこ? いま、どこを通っている?」
「この塀の向こうは──そう、貴妃宮の花園です」
「それなら、赤い菊が咲いているはず。誰かに頼み、摘んでまいれ」
 間もなく、一輪の紅の菊が窓の隙間から差し入れられた。花は、慕容貴妃が髪に飾っていた紅菊であり、くせのある芳香は、“月仙”の体から匂っていたものだった。
 皇宮の裏門を出ると、急に空が広くなった。しかし、夜空の月を見る事もなく、小さな帝姫は、闇の中へと消えていった。

 その後には、ちぎられた紅の菊の花弁が、血の跡のように点々と零れていた。


 その同じ夜──。
 はるか西の荒野にも、満月は同じように輝いていた。
 月下を黙々と進むのは、一人の痩せた剣客である。若くもなく、老いてもいない。その足どりは、重かったが、迷いはなかった。
 手には、一振りの、非常に使い込んだ剣を握っていた。

 彼は、ひとりの逃亡者である。もう、長い年月を逃げ続けていた。
 青白い月光に照らされた顔には、なんの表情も浮かんでいない。ただ、こうして歩き続けることだけが目的なのだ──と云うような、静かな意志があるだけだ。
 一度だけ、彼は、空を仰いだ。
 白々とした月の光は、空の最も高いところに輝いている。その澄んだ光の彼方に、懐かしい面影を思った時だけ、精悍な頬に、希望のようなものが浮かんだ。
 再び、彼は歩き始めた。
 月影を、何羽かの雁の群れがよぎった。
 熱い血が、ふと、剣客の胸に蘇った。
 あと何度、この中秋の月を見上げればいいのか──と。
 ひとり、孤独で、希望もなく。家も、友も、名前さえない“逃亡者”として。
(ほんとうに、俺は“無罪”なのだろうか)
 罪もなく、権力者に陥れられ、追われる身となった不幸な男なのだろうか。
 この真夜中の荒野にひとり、遠く輝く月を見ている。その姿こそ、私の罪の姿なのではないのか。
(もう終わりにするべきではないか?)

 剣客は足を止め、剣を抜いた。

 刃の上を、銀色の月光が滑っていった。
 そして、次の瞬間、岩陰から飛び出してきた刺客を一太刀で斬り捨てた。刺客はひとりではなかった。剣客ひとりを遠巻きにして、無数の目が男を見ていた。
「案の定、あぶり出されたな」
 ひとりが言った。
 月光と、数えきれない刃の反射が眩しくて、誰の顔も見えなかった。
「華州までの足どりは追っていたのだ。一帯に手配書を撒いたのは、いい策だった」
「誰がやる?」
 声は、どれも殺気を帯びていた。
「この首にかかった懸賞金は、三千貫。さらに“閣下”から、禁軍将校に取り立てるという、おまけがつく」
「教頭だかの首にしては、高値じゃねぇか。東京で何をやらかした? 間男か?」
 剣客の顔には、やはりなんの表情もなかった。
 すると、別の闇から声があがった。
「どけ、下衆ども」
 立ち枯れた雑木林の中から、ひとむれの男たちが駆けだしてきた。抜き身を手に、敏捷な動きで剣客の進路を塞いだ。ひとりが言った。押し殺した、囁くような声だった。
「お前が殺した“追手”は千人以上……ここには、その兄弟、仲間が集まっている。因果応報、逃げられぬぞ」
 ぎらぎらと光る無数の刃が、地上に映った満月のようだった。
「明日はここにお前の墓が立つ──“罪人 王進之墓”と!」
 剣客が手にした鞘が、荒野の砂にぽとりと落ちた。
 それを合図に、月下の死闘が始まった。
 満月の光は、すべてを照らす。青白い光の底に、刺客の群が見渡す限りひしめいている。百人か、二百人か、三百人か。

 殺人の刃の中を、剣客は進んだ。行く手を遮る敵を斬った。左右から襲う敵を倒した。敵は行く手を埋めつくし、進むほどに増えた。男の腕に傷が走り、肩から、額から血が流れたが、剣客の歩みは止まらなかった。
 いつしか、剣客は戦いながら河のほとりに出ていた。
 荒野を、銀色の河がゆるやかに蛇行しながら流れていた。
 静かな河のほとりで、満月の光の下で、男たちは戦い続けた。死んだ者は倒れ、力尽きた者も倒れた。
 荒い息と、鋼の軋み、砂を踏む音が果てなく続く。永遠に終わらぬ戦場だった。
 月光が川面に乱れ、波が銀色に輝いている。
 剣客は敵を倒し、道を拓き──やがて、その痩せた背中は、群がる敵の中へと消えていった。
 そして、本当の静寂が訪れた。
 川岸には死体が連なり、生きている者はいなかった。
 闇のどこかで、誰かが、誰かの名を呼んだようにも聞こえたが、それは、風か、波の音だったかもしれない。

 それから──十年。時は、白馬が隙を過ぎるが如く、瞬く間に過ぎた。
 大宋国は繁栄を続け、国都・東京開封は爛熟の光輝に満ちた。しかし、政治の腐敗、社会の頽廃は止むことなく、国内に民衆の叛乱をかかえ、外からは異国の窺うところとなり、亡国の種は、まさに芽ぶくまでに育まれたのである。
 光と闇が交錯しながら、破滅へと歩んだ、その十年。
 世は騒乱に浮足立ち、人々は我欲に狂奔し──闇に消えた帝姫の行方も、波間に去った剣客の名も、二度と、聞かれることはなかった。



「──史進!!」
 呼ぶ声に、若者が振り向いた。
 太陽が輝いていた。
 青空たかく、火の玉が眩しく燃え上がっている。夏だ。

「おう」
 答えて、若者──“九紋竜”史進は片手を挙げた。背後には、水面を埋める葦原が爽やかな風に揺れていた。
声をかけたのは、鼻先に傷のある若者である。

「行かないか、史進。もう始まっているぜ」
“弃命三郎”石秀は腕組みをして、陽炎のたつ山の方を顎で示した。梁山のふもとにある麦打ち場から、威勢のいい掛け声と、棒を打ち合う音が聞こえてくる。
「林教頭の棒術班か──」
 史進は葦の葉を抜いて草笛を作ると、調子はずれの音をぴぃと鳴らした。
「俺はいい。今更、“授業”でもないからな」
「そうかい?」
「あんたのいつもの相棒、あの顔色の悪い旦那はどうした」
「雄さんは具合が悪いんだ。部屋で寝ている」
 石秀は、湖を渡る心地よい風に吹かれて立っている。
「退屈しのぎになるかと思ったんだがな」
 史進は草笛を波間に投げた。
 カン、カンと、棒がぶつかる小気味のいい音が、山にこだまし、湖を渡る風に乗っていく。
 杭に立てかけていた棒をとり、史進は石秀の肩を小突いた。
「付き合うぜ。退屈なのは、石秀、おまえだろう」
 二人の若者は連れ立って、湖の波打ち際を歩いていった。
“梁山泊”は、今日も平和だ。

 十二世紀初頭──北宋王朝が繁栄を極めていた時代である。
 中国大陸の東部にある山東の地、梁山という孤峰の麓に、茫々たる湖沼が広がっていた。大小の水路は複雑に入り組み、高い葦が生い茂って、あたかも迷路にように他所者をよせつけない。また、あえて近づこうとする者もなかった。
 梁山のふもとの水たまり──“梁山泊”。

 そこには、大宋国の栄華の影から生じた男たちが雲集し、天下の義人と謳われた山東の“及時雨”宋江のもと、無頼の天地を築き上げていたのである。

 若き侠客“九紋竜”史進は、義侠心から中秋の月下に屋敷を焼き、官兵を斬って故郷を飛び出し、冒険の旅路のはてに梁山泊に辿り着いた。
 さらに、六十二斤の禅杖を操る荒法師“花和尚”魯智深。

 八十万禁軍棒術師範“豹子頭”林冲。

 無双の剣客“青面獣”楊志。

 神算鬼謀の軍師“智多星”呉用。

 風雨を操る反骨の道士“入雲龍”公孫一清。

 虎殺しの壮士──“行者”武松。

 宋国一の弓の名手“小李広”花栄。

 二丁斧の暴れん坊“黒旋風”李逵。

 水の申し子“浪裏白跳”張順。

 鉄鎧の連環馬軍を率いる“双鞭”呼延灼。

 いずれも、混濁虚飾の世に容れられぬ綺羅星のごとき豪傑である。
 江州戦、

 祝家荘戦、

 さらに青州、

 華州、

 曽頭市と、絶え間なく挑みかかる強敵たちとの戦いを経て、やがて河北の俊雄“玉麒麟”盧俊義、

 武神“大刀”関勝、

 天下に名を轟かす英傑たちが次々と梁山泊に身を投じる。
 初代頭領・晁蓋は征途なかばで悲命に果てるが、その心は宋江へと受け継がれ、宿命によって結ばれた者たちは、その戦いの中で出会い、戦火を越えて聚まっていく。
『天に替って道を行う』
 義をもって集い、勇をもって混濁の世を切り拓く。

『替天行道』の旗の下、梁山泊に集いし英雄豪傑、あわせて百と八人。
 彼らは広大な湖に守られた梁山に砦を構え、万を数える手下を従えて、兵糧は蔵に満ちていた。
 その存在は、今や朝廷より『宋江ら百八人の賊、山東梁山泊に跋扈す』──と、大宋国を脅かす“四寇”、すなわち“四大悪党”に数えられるまでになっていた。

“九紋竜”史進と“弃命三郎”石秀。彼らもまた、その百八人の一員に数えられる好漢たちである。
 二人は、ぶらぶらと湖畔を歩いていった。
 初夏は、水郷である梁山泊がもっとも美しい季節である。
 空は青く、水は豊かで、湖畔には葦や柳が揺れている。波打ち際で魚が跳ねた。その小魚を捉えて、灰色の水鳥が飛び去っていく。岸辺では、女たちが鍋を洗っていた。腹掛けひとつの子供たちは、浅瀬の小魚を追っている。漁を終えて帰ってきた父親の魚籠は、肥えた魚でいっぱいだった。
 彼らは、もとは近隣の民だ。悪政、重税、天災や不正に追い詰められ、生きるすべなく梁山泊へ逃げてきた。ここには、金で裁判を左右する悪徳役人もおらず、手当たり次第に年貢を取る強欲な地主もいない。
 金沙灘の荷揚げ場では、“仕事帰り”の男たちが、船から戦利品を荷卸していた。船上には、食糧の袋が山積みになり、牛や豚も走り回っている。
 一行は『清風山』の旗を掲げていた。“錦毛虎”燕順が舳先に立って、手下どもを指揮している。
 石秀が声をかけた。
「親分、豊漁だな」

「おう!! 石河鎮の“蒲千石”は強欲で有名だ! ひとひねりして、蔵を開けたら、どうだ!! 出るわ出るわ!! 今夜は大宴会だ!!」
 梁山泊には田畑が作られ、湖にも魚が豊富だ。さらに、こうして物資を蓄えているのである。
 百八人の好漢が集結してまもなく三年。梁山泊は平和で、その独立は保たれていた。たびたび官軍の討伐を退け、このごろは戦もない。民は生活を楽しみ、財貨も兵力も充実している。誰ともなく、“黄金三年”と呼ぶ日々が続いていた。
 衣食満ち足り、気の合う仲間がいて、誰にも、何も強制されない。
 史進は、また誰かに呼ばれた気がして、湖の方を振り向いた。清々しい水平線が、視界の果てまで続いている。美しい、平和な風景だ。
(だが、つまんねぇ)
 史進は長閑な風を浴び、ふと、軽い怒りのようなものを感じた。



 水上を渡ってくる風は気持ちがいい。
 上着を肩脱ぎになると、史進の背中を彩る自慢の竜が初夏の光に輝いた。“九紋竜”のあだ名の由来となった刺青である。物持ちだった父親に有名な彫り物師を呼んでもらい、半年かけて彫ったのは、十五の時だ。母親が死んだ年である。史進が家をかまいつけず、旅の武芸者を招いては武術三昧なのを悲観して、病気になったのだ。父親も、それから数年と生きずに死んだ。
 それでも、たいして寂しさも感じずに生きてきたのは、生来のからりとした性格と、武術があったためかもしれない。
「やってるな」
 史進は木陰の石に腰掛けた。
 眼下では、兵たちが熱心に棒を振っている。
「少しは使える奴もいるじゃないか」
 史進は、何よりも武芸が好きなのだ。それも、大軍を率いて敵を打ち破る──という強さではない。自分がどこまで強くなれるか、誰が一番強いのか、それだけが彼の関心事だった。
 外から梁山泊に逃げてきた男は、みな武芸を身につけなければならない。それは、自分の家を、自分で守る──いつ官軍の討伐を受けるか知れない梁山泊に住む者の宿命なのだ。その中でも、選ばれた若者たちが選抜されて兵になる。彼らに最初の手ほどきをするのが、“豹子頭”林冲──かつて宋国禁軍で槍棒の教頭を務めた男だ。
 その槍棒の技は、宋国随一といわれ、他の追随を許さない。
 梁山泊に来た男たちは、まずは林冲のもとで棒の基本を叩きこれまる。その後はやはり禁軍金鎗班の教頭だった“金鎗手”徐寧に槍を習う。もし若くて、才能があるようなれば、さらに歩兵の訓練を受けて兵になる。弓の才があれば“小李広”花栄の部隊に入る者もいるし、特に選抜された者は騎兵になり、“病遅尉”孫立や“井木干”赫思文が騎馬を教える。それから、各部隊に配属されていくのである。
 練兵を受け持つ頭領は多かったが、すべての兵に“老師”(せんせい)と崇敬されるのは、梁山泊に頭領多しといえども“豹子頭”林冲だけだった。
 林冲の助手は、“病大虫”薛永と、“打虎将”李忠が務めていた。薛永は名門の武家の生まれで、育ちがいい。李忠は武芸者あがりだが、かつて史進の棒の師匠を務めたこともある。林冲配下の白衣兵の姿もあった。白衣兵には特に選ばれた棒の名手が揃っている。彼らは兵たちの間を歩き回って、棒の持ち方や、手足の位置を、ひとりひとり丁寧に直してやっていた。
 百人の兵が一斉に棒を振るう様は壮観で、いつしか史進は熱心に見入っていた。
 林冲は、ごく基本の型を見せていく。どんな簡単な基本の型でも、林冲が行なうと勇壮で、美しく、何手か続ければ流水のごとく軽やかだった。
 兵たちにとって、林冲は神にもひとしい存在である。彼らは夢中で真似をした。それだけでも、上手い下手は分かるものだ。李忠と薛永が兵の肩を叩いていって、彼らは水準別に三つの班に分けられた。
 これは、基本を終えた兵の“選抜試験”なのである。二等と三等の組は、各歩兵部隊に配属され、そこで各隊の頭領たちから実戦込みの“仕上げ”の訓練を受ける。一等の組に選ばれたものは、将来の兵長候補である。その中には、軍人あがりや、武芸の修練を積んだ者が多かった。自分でも、腕に自信のある者たちだ。
 いつの間にか日が傾き、空に黄昏の雲が輝きはじめた。
「それでは──」
 薛永が、みなを林冲の前に整列させた。
「これより、模擬試合を行ないます。一人ずつ前へ」
 屈強な男たちの顔に、驚きが浮かんだ。
「まさか、林教頭がみずから相手を?」
 男たちは興奮し、ざわめいた。
 彼らの前に、あの“豹子頭”林冲が棒を手にして立っているのだ。

 佇んでいる──というほうが、その端正な姿にはふさわしい。
 まず、腕に覚えのある若者が進み出た。包拳し、正面から打ちかかったが、一撃で転がった。次の男が突っ込んでいき、軽く当たって、また転がった。次は軍人あがりの壮漢で、これは二、三手を耐えた。それ以上、もちこたえた者は、その後も一人もいなかった。
 林冲はどんな相手とも真剣に戦い、淡々と勝ちを制した。二、三等の組も見学していたが、敗者がどんなに無様に転がっても、笑う者は一人もいなかった。林冲に挑み、敗れた者たちの顔は、誇らしくさえあったのだ。
 棒の音だけが、眩しい夕焼けの中に清々しく響いている。
 やがて、水平線に金色の明星が輝き始めた。
 挑戦者の全員と棒を合わせると、林冲は軽く礼をして、挑戦した小者の中から何人かを自分の部隊に選んだ。林冲が率いる白衣兵は、梁山泊の若者で憧れる者が多い部隊だ。さらに、林冲は、問われれば誰にでも丁寧に技の指南をした。
 そして、立ち去ろうとする林冲の前に、ひとりの男が現れた。
 史進だった。

 薛永が何か言おうとするのを、李忠が止めた。
 史進は棒を構えて立った。
 そして、対峙する林冲と目が合った時、ふいに背中にぞくりとするものを感じた。
 次の瞬間、林冲の棒が胸を襲った。史進は受けたが、二本の棒が当った時、ふわりと体が浮くような感覚にとらわれた。次の突きが来た。史進はかわした。
 本来、史進は多彩な手を使う。それは、梁山泊随一だ。それこそ九匹の竜のような、躍動的で、自由奔放な技の数々をもつ。さまざまな流派を自己流で取り込んだ結果である。
 一方の林冲は、相手がどんな手を繰り出そうと乱れない。史進が動こうとする先へ先へと、林冲は打ち込んでくる。次第に史進は動きを封じられた。得意な技がなにひとつ出せず、防御に回った。
 李忠が唸った。
「さすが、史進」
 薛永は妙な顔をした。
「押されていますよ」
「林教頭の突きを、あれだけかわせる男が、この世に何人いる。いや、まずい。史進め、悪いクセが出てきた」
 史進は勝ちを焦った。棒を上段に振り、力任せに打ち込んだ。
 その渾身の一撃を、林冲は払った。鋭い手だった。打ち込む隙はどこにもなかった。林冲が踏み込み、棒が唸った。次の手でやられる──その刹那、史進は反射的に、無意識に“その技”を放った。

 史進の手を離れた棒が、矢のように林冲の胸を襲った。林冲の棒が回って、史進の棒は僅かに勢いを削がれたが、そのまま斜めに林冲の脇腹を抉った。しかし、林冲はいささかも乱れず、さらに大きく踏み込んで、史進の鳩尾をしたたかに打ち据えた。
 息が詰まった。
 眼前に星が散り、倒れながら見た夕焼け空が、血の色のように赤かった。


 史進が目覚めたのは、“神医”安道全の医務室だった。
 大きな建物ひとつが病院になっている。薬草のにおいが柱にまでしみこんでいた。
 史進はしばらく天井を眺めていた。腹がずきずきと疼いている。まだ少し息が苦しかった。
 隣の椅子では、林冲が治療を受けている。
 安道全が、史進に気づいて、ジロリと睨んだ。
「感謝しろ、若造。林冲でなければ、死んでいたぞ」
 史進が打った林冲の脇腹に膏薬を塗り、安道全は固く包帯を巻いた。
「肋骨にヒビが入っておる。半月は安静だ」
 そう言われても、林冲は平然としていた。わずかに史進の方に顔を向け、呟くように言った。
「──“夕照流星”」
 史進は起き上がり、林冲の顔を見返した。
「あの技を、知っているのか?」
「一度だけ見たことがある──東京の、禁軍の調練場で」
 史進は、ふいに似ていると思った。
 その前にいる林冲と、“あの人”が。姿ではなく、なにかが、とてもよく似ているのだ。
「史進。君は、なぜこの技が使えるのだ?」
 林冲の問に、史進は時が遡るような目眩を感じた。
(もう、十年か)
 夢中で過ごしてきた時の長さに、史進は愕然とした。
(なぜ、忘れていたんだろう)

 あの人を。
 あの、満月の夜を。



 梁山の空に月が出ていた。
「王進教頭は、俺の師父だ。ほんの短い期間だったが、あの人がいなければ、今の“九紋竜”はない」
 それは、史進の本心から出た言葉だった。林冲は静かに頷いた。“王進”の名に、林冲も言葉には言い表せない感慨を覚えていたのだ。
「王教頭が、罪人として追われていることは?」
「知っている。賞金稼ぎに追われていた王師父を、俺が助けて、しばらく屋敷に匿った。もう、十年も昔の話だ」
「──そうか」
 林冲は、安道全が煮た薬湯を口に運んだ。その湯気の向こうに、過ぎた日々が蘇る。訥々と、林冲は語った。
「王進教頭は、ご自分の棒術の伝承者を探しておられた。しかし、意に適う後継者が見つからず、もう断絶するかもしれない──と、一度だけ私に王家棒術の奥義“夕照流星”を見せてくれたのだ。そうか、君が後継者になったのだな」
「いや、俺はただ、技を伝えてもらっただけなんだ」
 その時、思いがけぬ人の声に、林冲と史進は扉の方へ目を向けた。
「なるほど……不思議な縁の話です」
 いつの間にか、宋江がやって来ていた。手には見舞いの品なのか、果物の籠を提げている。
「その“王教頭”とは、どういった方なのです」
 宋江は椅子に腰掛け、林冲に尋ねた。
「私と同じ禁軍の槍棒教頭で、上司の禁軍太尉・高求に疎まれ、命の危険を感じて逃げられました。それを高求はさらに憎み、ありもしない罪状を捏造して、賞金までかけたのです」
 王進は、高求の手下に見張られていた。その逃亡を助けたのは、林冲の師であり、後に舅となる張徹教頭だった。王進の槍棒の才を惜しんだのだ。
「その後は……杳として」
 数年後、林冲自身も同じ境遇に陥るとは、その時は、想像もしていなかった。老母を連れて逃げた王進を哀れ──と、心のどこかで思っていたが、逃げなかった林冲は、なにもかもを失った。
 それでも、林冲は王進の無事を喜んだ。
「史進、王教頭はその後どうされたのだ?」
「俺の屋敷に隠れていたが、手配書が回ってきて、俺の迷惑にならぬようにと旅立った。それきりだ」
 宋江は心を打たれたようだった。
「王進殿を探し出し、梁山泊にお招きしてはどうでしょう」
 宋江は小者に“石将軍”石勇を呼びに行かせた。すぐに、石勇と、軍師の呉用がやってきた。

“石将軍”石勇──梁山泊九十九位。もとは凄腕の賞金稼ぎである。彼は今も、全国のお尋ね者の名簿を持っていた。
「王進の名は、賞金稼ぎの間では有名だ」
 石勇は無口で陰気な男だが、その情報は詳細で多岐にわたっている。史進は石勇の手元の手配書の束を覗き込んだ。何枚かには、“捕縛済み”もしくは“死亡”の文字が書き込まれている。
「あんたも師父を狙ったのか? 」
「俺は“罪なき首”は狙わない」
「どういう意味だい」
「誰も、何も知らないからだ。彼が、なぜこれほど高求に憎まれることになったのか。その、本当の“罪”を」
「師父は」
 史進は、言いかけて口ごもった。どう言葉にすれば、伝わるのかが分からなかった。
 ひとり荒野へ去っていった、王進の痩せた後ろ姿。その背中に、彼がなにを背負っていたのか。
 だから、史進は今まで、誰にも王進の話をしたことはない。
 しかし、梁山泊でなら、宋江、林冲なら、分かってくれるような気がした。
  史進は、別れた時の王進の顔を思い出していた。
 賞金稼ぎに追われていた王進が、どんな罪を犯したのか、史進はいちども尋ねなかった。王進も、語ろうとはしなかった。史進が、屋敷を去る王進とともに行こうとした時、初めて、その“秘密”を明かしてくれたのだ。
「俺は、手配書の罪状など、まったく信じていなかった。その俺に、師父は言った。では、お前は俺がなにをしたのか知っているか──」
 みなが、史進の次の言葉を待っていた。
「そして、師父は教えてくれた。“ひとりのならず者を、打ったのだ”、と」
 林冲が、わずかに目を伏せたのが、宋江には分かった。
「その“ならず者”とは……」
「今をときめく皇帝の寵臣、禁軍太尉の“高求閣下”さ。奴が、もとは東京の無頼漢だってことは、宋江殿も知っているだろう。得意の蹴毬で、風流天子に取り入ったんだ。俺の師父は、ごろつき時代の“高毬”が手下を引き連れ、往来で年老いためしいの胡弓弾きをいたぶっているのを見た。師父は見かねて止めに入り、喧嘩になって、棒で“高毬”を打った。高求は、それをずっと根に持っていて、禁軍太尉──師父の“上司”になった時、報復した。自分の着任祝いに病欠したのを、職務怠慢として棒打ちにして、殺そうと企んだんだ」
「それだけで」
 宋江は驚いた。
 史進は、ふと息をつき、窓の外の虫の声に耳を傾けた。
「そう、それだけ──さ」



 窓の外で、夜の蝉が鳴いていた。
 しばらく鳴いて、その声が途絶えると、湖の岸に寄せる波の音が聞こえてきた。
 石勇は官の手配書だけでなく、長年に渡ってさまざまな市井の“情報”も収集している。
「王進の消息は、十年前に途絶えている。賞金稼ぎの間では、中秋の夜に百人の刺客と戦って、相討ちになったという噂もある」
 史進は納得しなかった。
「俺は信じない。師父ほどの腕前だ。必ず、どこかで生きている」
 石勇は手配書の束を置き、掌ほどの冊子を開いた。未解決の事件や、不思議な出来事、全国を往来する“不審人物”などにまつわる情報の聞き書きである。
 名前や人相などは変えられるが、小さな情報を集めていくと、本質が現れてくることがある。石勇は、膨大な情報の中から一人の男に目をつけた。
「数年前から、少林寺の僧たちに棒術を教えている男がいる。来歴不明で、お尋ね者ではないかという噂があるが、賞金稼ぎたちも梁山泊と少林寺には手を出さない」
「少林寺──河南か。華州と近いな」
 少林寺は、古来より武術で名高い名刹である。その僧に教えるとは、ただ者ではない。
「それだ、それに違いない」
 史進は寝台から飛び下り、そばにあった棒を握った。そして、今にも出ていこうとするのを、呉用が止めた。
「お待ちなさい。自分も“お尋ね者”であることを忘れましたか。まずは準備をしなければ。同行者を決め、行く先々で“店”の援助を受けるための割符も必要です」
「めんどくせぇな」
 その声が、空ではじけた花火の音にかき消された。
 梁山泊の頂上で、凌振が花火を打ち上げたのだ。最近、改良に改良を重ねた新型の花火の試し打ちである。

 宋江たちは窓辺に寄った。呉用は、空に咲く大輪の花の色を数えた。
「凌振は“七色の花火”を作ると息巻いていましたが、まだ、三……四色しかないようですね」
 それでも続けて十発あまりも打ち上がり、梁山の夜空は眩い光で埋めつくされた。
 花火が終り、呉用が振り向くと、部屋に史進の姿はなかった。
 林冲が、扉の方へ目を向けた。
 開け放たれたままの扉を、夜風が、ゆっくりと揺らしていた。



 史進は自分で小舟を操り、星空のもと湖を渡った。
 岸辺には、小さな居酒屋がある。軒先の提灯の下で、顔色の悪い男が団扇を使っていた。
「張青の兄貴、和尚はいるかい?」
 男は団扇で奥を示した。
「気をつけな、ご機嫌ななめだ」
 この湖畔の居酒屋は、“菜園子”張青と“母夜叉”孫二娘夫婦が切り盛りする梁山泊の店である。涼しい風の抜ける庭にも卓が出ていて、史進の親友である破戒僧“花和尚”魯智深が腰を据えていた。
 傍らの卓には、愛用の六十二斤の禅杖が立てかけてある。足元では、張青の愛兎がつまみの青菜が落ちてこないかと、鼻をしきりに動かしていた。
「和尚が自棄酒とは珍しい」

 史進が声をかけると、魯智深は空になった酒壺を卓に置いた。
「自棄酒? ふん」
 張青が新しい酒壺を運んできたが、魯智深は史進に勧めもしない。史進は、椅子を引いて勝手に座った。
「一人酒はたいくつだろう。どうだい、今から俺は旅に出る。お目付役は御免被るが、あんたとなら面白い旅ができる」
 聞いているのかいないのか、魯智深の目は卓上の手紙に注がれている。妙に汚い紙の、しわくちゃの手紙だった。
「へぇ、和尚は字が読めたのか」
「書いた字を誉められたこともある」
「そいつは敬服」
 魯智深は、ぼりぼりと項を掻くと、卓上に置いてあった手紙を懐にねじ込んだ。
「あいにく、わしも行くところがある」
「西の方なら、途中までご一緒するぜ」
「悪いが、わしは急ぐ。船で行く」
 どこへ──と聞きかけた史進は、梁山の方から一隻の船が居酒屋に向ってくるのに気がついた。呉用か朱武が“追手”を差し向けてきたのだろう。
「そうかい。和尚、あんたの旅の無事を祈る」
 史進は厩から勝手に馬を引き出すと、ひらりと飛び乗り西に向かって駆け出した。空は広く、道はどこまでも続いている。
 史進の体に青春が蘇った。十代の時に吹いていた風を感じた。
 かたくるしい家から飛び出した時の、もっと広い世界を求めて少華山から飛び出した時の──あの風だ。
「待っててくれ、師父!」
 史進の声が、星に響いた。

「ああ……行っちまったよ」
 張青は財布を手に追いかけたが、史進の姿はもう夜道の彼方に消えていた。
「路銀も持たずに行きやがった」
 しまいかけた張青の財布を、魯智深の大きな手が掴み取った。財布を懐にねじこみ、魯智深は残った酒を干して、立った。
「花和尚は、どちらへ?」
 魯智深は禅杖を担ぎ、店を出た。星空が湖を染めている。
「騒ぎになる──いずれ、知れよう!」

 史進を追ってきたのは、薛永と李忠だった。彼らは林冲と史進の見舞いに行き、そこで呉用から史進を連れ戻すよう命じられたのだ。しかし、彼らが張青の店に着いた時には、史進はおらず、加えて魯智深まで出奔していた。
 薛永は、道の彼方を眺め、今日、ずっと考えていたことを李忠に尋ねた。
「李忠さん、よい師とは、どんな師でしょう」
「なぜ、そんなことを俺に聞く」
 無愛想に言ったが、李忠にも、なんとなく薛永の気持ちが分かる。彼も、かつては自分の道場を持とうとした。しかし、今日、林冲の助手を務めて、とてもそんな器ではなかったことを思い知らされた。
「いい師匠ってのは、そいつの“限界を越えさせる”んだ。当人もできると思っていないことを、できるようにしてしまう」
 李忠は一日じゅう働いて疲れた腰をさすった。
 梁山の上に、無数の星が輝いている。
「だが、時々、その限界だと思った先へ、がむしゃらに突っ込んでいく奴がいる。そういう奴は、師匠を越えて、どこまでも伸びる」
 ただ──と、李忠は岸辺の船へ戻っていった。
「本人もまわりも、苦労するがな」



 目を開けると、見知らぬ天井が見えた。
(ここは?)
 史進は寝ぼけ眼をこすった。すすけた天井、きしむ寝台──起き上がると、旅路の安宿ということを思い出した。
(そうだった)
 史進は住み慣れた梁山泊を離れ、ひとり西方──少林寺へと旅立ったのだ。旅路にあることを忘れるとは、おそらく、梁山泊の夢でも見ていたせいだろう。
 史進は窓をあけ、早朝の空気を吸い込んだ。
 街道ばたの宿屋は朝が早い。朝もやの流れる店の前には、早立ちする旅人の姿や、出発を待つ馬や輿が賑やかだ。部屋のすぐ下にある厨房からは、香ばしい油のにおいが漂ってくる。麺を打つ音も賑やかだ。
「この風のにおいも、久しぶりだな」
 宋国の行政区分は、まず“路”である。史進は顔を知られている地元“京東西路”を馬で早々に駆け抜けた。その西は、警備の厳しい国都・東京開封を擁する“京畿路”だから、避けて北回りの“西北西路”を通ることにしたのである。
 ここまで来ると、梁山泊のある山東とは景色が違う。
 山東は岩山が多く、水も緑も豊かである。それが西へ進むほど、大地は渇き、黄土色の風が吹くようになる。
 畑は川沿いの高原に作られた段々畑が多くなり、人々の顔も、素朴で厳しい。家畜を追う村人も多かった。
 気ままな一人旅である。史進は好きな時に飯を食い、時には朝から見知らぬ男たちと酒を飲み、筋の悪い宿屋に泊まって喧嘩をすることもあった。そのすべてが楽しかったが、目指す“京西北路”に入るころには、そろそろ様子が違ってきた。
“京西北路”は、西京河南府──古都・洛陽がある府である。
 史進の故郷はさらに西、京兆府・長安を中心とする“永興軍路”に属するが、すでに風土は似通っている。言葉のなまり、料理の味付け、吹き抜ける乾いた風さえ懐かしい。
(だが、ひとつだけ困ったことがある)
 懐が寂しいのである。とりあえず有り金を持って梁山泊を出て来たが、もともと史進は宵越しの金を持たない型の男である。路銀は道中の飲み食いに消えていき、さらに昨夜は同宿の旅商人に誘われて、酒と博打で散財した。
 しかし、梁山泊で飲むほどは楽しくもなかったし、安酒で頭が痛かった。
 史進は顔を洗うと、軽く麺でも食おうと食堂に下りた。
「お発ちで。宿代のご精算をお願いします」
「いくらだ」
 史進は運ばれてきた麺を勢いよく食べ始めた。
「実は金がない」
「なんと」
「ないんだ」
 給仕に呼ばれて、宿の主人が渋い顔でやってきた。
「金がないのに、うまそうに食いますな」
「いい料理人を雇っているな。商売繁盛、結構なことだ」
「最近、“食い逃げ”が多くて、商売あがったりですわ」
「ひどい奴がいるもんだ」
「お支払いを。金がなければ、厩の痩せ馬をいただきましょう」
「あれはいい馬で値が張るが、釣りはあるのか?」
「あんな痩せ馬、引き取り賃が欲しいくらいですわ。宿代に、昨夜の飲み食い、博打の喧嘩で、食器や窓も壊しましたな」
「そうかい。それなら、可愛がってやってくれ」
 史進は麺を喰い終わると、小さな荷物を背負って宿を出た。厩を覗くと、宿の小僧が馬に飼い葉をやっていた。
「ごくろうだったな」
 相棒だった馬に別れを告げて、史進は街道を西へ向った。
「歩くのも悪くない」

 外の風景は、黄色い砂ぼこりの立つ街道である。路傍には、背の高い木が植えられて日陰を作り、旅人を太陽から守っていた。
 手には棒、背中には小さな荷物を背負って、史進はひとり街道を歩いていく。
 旅路は乾季の黄土である。
 陽炎のたつ炎天下に、道がくねくねと続いている。
 太陽は今日もまぶしく、いくらも行かぬうちに、もう喉が乾いてきた。店はあったが、金がない。井戸や飲めそうな川もなかった。しなびた酸葉の茎を噛みながら、史進は我慢して歩いていった。
(なんとか、なるさ)
 そう思うのも限界に達した昼下がり、史進は遠目に茶店を見つけた。
 緑の小旗が、風に揺れて手招きしている。

 店は意外に大きな作りで、二階の宿屋まで吹き抜けになった酒場の卓は、半分ほど埋まっていた。どれも地元民らしかったが、異様だったのは、その殆どが道士か、道士風の格好をしていることだ。
(なるほど、ここでも“道教ばやり”か)
 道教は中国発生の神仙思想をもとにした神秘的な宗教で、修行すれば不老長寿の仙人になれると謳って人心を掴んでいる。近年、皇帝も神仙修行に耽溺し、道士・林霊素の弟子にまでなった。そのため、全国で道士が優遇されており、役人や権力者たちも出世のためにこぞって出家しているのである。
(うちの公孫先生が知ったら、カンカンになってお怒りだ)
 史進は離れた窓縁の席に座った。
 皇帝から始まった道教狂いは、大臣、役人、金持ちを巻き込んで、今や庶民、乞食にまで広がっている。その様は、史進も道中で目の当たりにしていた。道士になれば衣食には困らないし、乞食も道士風に拵えておけば貰いが多い。黒い頭巾をかぶって法会に行けば、誰でも銭と飯がもらえるのだ。酒も飲めるし、戒律も仏教ほど厳しくはない。
 実際、店にたむろしている道士たちも、卓には豪勢に酒だの肉だのを並べていた。
 史進は、自分も肉と酒を注文した。道士たちは、声高にいかに道教が素晴らしいかを語っている。
「とにかく利益は生きているうちに受けるものだ。死んで極楽に行って、なんになる。極楽に酒があるか、美女がいるのか」
 史進は窓の外を眺めて、冷やした酒を飲んだ。
(こう道教ばやりじゃあ、魯智深は苦労しているだろう)
 史進が何杯か飲むあいだにも、道士たちの自慢はやまない。
「すでに、七人の高僧が改宗を拒んで捕らえられ、杖打ちになってお陀仏だそうだ。めでたく極楽へ行ったことだろうよ」
 下品に笑う声に、史進の目が鋭く尖った。
 思わず杯を置いたところへ、ひとりの若い尼が店に入っていた。二十歳をいくつか越えたくらいの、すらりとした美しい尼だった。灰色の僧衣の上からでも、豊かな胸が窺える。
 さっそく、酔った道士が尼にからんだ。

「きれいな尼だな。髪を伸ばして道服を着れば似合うぞ。おい、みんなで着替えさせてやろうじゃないか」
 尼の目が鋭く光った。手を伸ばした道士たちと尼の間に、史進はさっと棒を突き出した。
「よせよ、見苦しいぜ」
 案の定、すぐに喧嘩になった。相手は数を頼み、酒も入っている。威勢よく史進に殴りかかったが、勝負は一瞬でついた。史進は十数人の道士たちを棒で殴って昏倒させた。最後のひとりは、腕を尼の肩に伸ばしたまま、ぽかんとして仲間が倒れていくのを眺めている。史進と尼の目が合った──と思った次の瞬間には、不良道士は正面から尼の数珠で額を割られて引っくり返った。
「おみごと」
「ご親切に、どうも」
 尼は倒れた道士の服で、鉄数珠についた血を拭った。
「面倒なことにならなきゃいいけど」
「俺は面倒事には目がなくてね。尼さんなら、寺のことは詳しいだろう。少林寺は、この街道でいいのかい」
「他の人に聞いて。急ぐの、悪いわね」
 店は今の騒ぎで無人だった。店主も避難したらしい。尼は勝手に帳場に入り、手頃な瓢箪に酒を詰め、自分も杓で一杯、飲むと、そのまま出ていこうとする。
 史進は声をかけた。
「尼さん、お代は?」
「ご馳走になるわ、ありがとう」
 振り向きもせず、尼は飄然と出て行った。
「いかした尼さんだ」
 史進も尼にならって瓢箪に酒を詰めた。道士の料理は、あいにくすべて引っくり返っている。そのまま出ていこうとすると、棚の中から声がした。
「お客さん、お代を……」
 棚を開けると、店の主人が銭函を抱いて隠れていた。
「二十人分の酒代と、割れた皿と、店の修繕ぶんと……」
「つけといてくれ」
 史進はぱたりと棚を閉めると、閂をかけた。そして、店の中で倒れている道士の懐を探ってみたが、誰も財布を持っていなかった。
「なるほど、確かに“食い逃げ”が多いようだ」
 史進は棒を手に取ると、銭函を抱いた主人が入った棚へ目をやった。
「少し借りるぜ」
 史進が棚の扉に手をかけた時、すっと店に入ってきた男がいた。
「だめですよ、史進さん。追剥は御法度です」
 知った声に振り返ると、門口にひとりの若者と、一匹の犬が立っていた。
「薛永」

“病大虫”薛永は、主人を棚から出してやり、史進の代わりに支払いを済ませた。薛永が二十人分の請求を値切る間に、史進はさっさと店を出た。太白が後をついていく。薛永も急いで追うと、前を行く史進に謝った。
「すみません。史進は意地っ張りだから気づかれないようについて行けと、朱軍師から言われたんです。“京西北路”に入ったくらいで路銀が尽きるだろうから、その時に手を貸してやれと……」
「さすが“神機軍師”、お見通しだ。急いで帰って、史進が誉めていたと伝えてくれ」
「……僕は洛陽の生まれですので、道案内もできます。この道は、遠回りですよ」
 史進は振り返りもせず歩いていく。
「ほら、割符もあります。店で、路銀がもらえます」
“仕事”の時なら、梁山泊の拠点である『店』で金でも馬でも都合してもらえる。しかし、手形のない“好漢”には何も融通してくれない。この頃、“梁山泊の好漢”を騙る武芸者が多く横行しており、統括する“撲天雕”李応の統制がいっそう厳しくなっているのである。たとえ本当の“梁山泊の好漢”でも、手形がなければ一切の例外はない。
「史進さん、路銀がもうないでしょう」
 薛永は重みのある包みを差し出した。史進は立ち止まり、包みを取ると、そのまま近くにあった井戸に投げ込んだ。
 薛永が慌てて手を伸ばしたが、間に合わず、包みは深い井戸の底に沈んでいった。
「金はない。だが、店には行かない」
「なぜです」
「自分の力で、師匠を探し出したいからさ」
「でも、今日の昼飯代もありませんよ。夜は野宿を?」
「それくらい、お前の財布にあるだろう?」
 薛永は後ろの井戸を指さした。
「財布も、あの底です」
 それきり黙って、二人は並んで荒野の街道を歩いて行った。薛永が、史進の顔を窺った。
「怒ったんですか?」
「いいや」
「あ、ではこれを売ります」
 薛永は首から翡翠の守り札をたぐり出した。子供の時から身につけている護符である。薛永の家は没落し、形見といえばこれだけだった。
「しまっておけよ」
 史進は薛永に言って、また歩き始めた。太陽はじりじりと照りつけている。
 薛永は気まずい沈黙を紛らわそうと、前を行く史進に話しかけた。
「史進さんの行方はすぐ分かりましたよ……宿帳に名前があったし。まさか、“本名”で旅しているとは思いませんでした」
“梁山泊の好漢”は、宋国から見れば“お尋ね者の山賊”だ。仕事で山の外に出る時は、偽名を使うのが通例なのだ。
「史進さん、“梁山泊”の名前は出していませんよね」
「俺はバカじゃねぇ」
 確かに、宿帳には『“華陰県 史進”』と書いてあった。
(嘘がつけない人だなぁ)
 道は、すでに河南に入っている。“史家荘の史大郎”、“少華山の九紋竜”を知る者がいないとは限らないのだ。
(やはり、僕がついていないと)
 薛永は置いていかれまいと足を速めた。その時、ふいに史進が振り向いた。
「おい、“悪人”ならいいのか?」
「え?」
「悪い奴から頂戴するのはいいんだろ」
 そう言うと、史進は駆けだした。
「人助けをして路銀を稼ぐ、一石二鳥だ!」


 荒野に、一台の二輪馬車が止まっていた。
 高価そうな彩色の女物で、白馬をつなぎ、座席の前には青紫の紗幕が垂れている。砂と枯れ木ばかりの荒涼とした景色の中で、それは一塊の鮮花が咲いているようだった。さらに、馬車の周りを、十人ほどの青衣の侍女が取り巻いていた。
「無礼者、おさがり!」

 みな剣を手にしていたが、どれも若く美しい娘たちだった。彼女たちの瞳は、二人の暴漢に据えられている。覆面で顔を隠し、一人は大柄で鉞を使い、小柄な方は鋭い剣を獲物にしていた。二人は相当な使い手のようだった。じりじりと馬車との距離を詰めていく。
 そこに飛び込んだのが、史進だった。助け手と見て、侍女たちが救いを求めた。
「どうかお助けを! 悪者ですわ!」
「任せておけ」
 女馬車の中は、裕福な貴婦人だろう。どんな事情かは知らないが、女所帯で荒野を旅するとは不用心だ。追剥から助ければ、礼金も期待できるだろう。
 一方の“悪者”は、小柄な方がすぐさま史進に斬りかかった。身軽だったし、かなりの鍛練も積んでいる。
(まだ若いな、“初仕事”か?)
 よく訓練されているが、余裕がないのだ。しかし、それを補っているのが、その気の荒さ──執念すら感じる殺気に満ちた太刀筋だった。それでも、史進の敵ではない。小手を叩いて剣を落とすと、体勢を崩した腹にもう一撃くらわそうと棒を返した。その棒を、横手から素早くもう一人の暴漢が飛び出してきて、鉞の一撃で断ち落とした。棒とはいえ、最も堅い樫である。それを一閃で断ち、さらに胸の奥まで衝撃があった。ものすごい膂力を持っているのだ。
「これを!」
 特に若い小間使いの侍女が、さっと自分の剣を投げた。史進は空中でそれを受取り、身がえまた。その時には、薛永も追いついていた。
 史進は薛永に向って言った。
「ちいさい方は任せるぞ!」
 史進は女物の剣を手に、暴漢の鉞に対峙した。剣は女物の華奢な造りかと思ったが、繊細なのは装飾だけで、重みのある本格的な剣だった。
 小柄な方の暴漢も、落とした剣を拾い上げ、再び馬車に迫ろうとする。その前を、薛永が遮った。
 史進たちが暴漢と戦っている間に、女たちは馬車を守って逃げ出した。史進に剣を投げた小間使いが御者席に飛び上がり、白馬に鋭く鞭を入れた。馬が猛然と走りだす。馬車を追おうとする追剥を、薛永は遮った。太白も主人に加勢して、暴漢の上着を噛んで離さない。
「相手は女じゃないですか。弱い者いじめはよしなさい」
「弱い者いじめだと!?」
“追剥”は甲高い声で叫ぶと、覆面をはぎとった。

 現れたのは、人形かと思うほど整った顔だちの、十五才ほどの少女だった。
 その時、史進も大柄の方の追剥の胸に斬りつけたところだった。鉞の柄で防いでそれたが、上着が切れて、白い胸元があらわになった。
「おんな?」
 史進の驚きに答えたのは、“小柄な方の追剥”だった。
「ひかえよ!」
 少女は眉を逆立てて、薛永に人指し指をつきつけた。
「そなたらのせいで、我が大事をしくじった! あやつらは、極悪人だ!」



※文中の「高求」は、正しくは高求です。
※文中の「楊セン」は、正しくは楊センです。
※文中の「弃命三郎」は、正しくは弃命三郎です。
※文中の「井木干」は、正しくは井木干です。
※文中の「赫思文」は、正しくは赫思文です。
※文中の「撲天雕」は、正しくは撲天雕です。




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