水滸伝絵巻-graphies-

第四章
地獄羅漢

第四章 地獄羅漢

 洛陽は大都市である。
 代々の王朝の国都を務め、時に戦乱に焼かれながらも、文明の精華はその地で脈々と育成され続けてきた。西の長安の華やかさ、豊かさには及ばぬとしても、清雅なたたずまいは他城市の追随を許さぬものがある。
 洛陽城内一千寺と云われるほど仏教が盛んであったが、いまその城内には、我が物顔の道士たちが満ちていた。
 道観しかり、道観と化した寺院しかり。さらには酒楼、妓院、瓦市と呼ばれる遊楽場まで、道士たちが闊歩している。
 中でも金冠の道士たちの羽振りが良かった。彼らは、“通真達霊元妙先生”林霊素直属の選抜された道士たちである。
 今夜、城市の中心にある大酒楼“大漢楼”にも、金冠たちが集まっていた。その顔は、不満げだった。道士たちは、いちばん年若い道士に迫った。
「おい、郭京。お前は“通真達霊元妙先生”のお気に入りだから、知っているだろう。林教主は、なぜあんな乞食道士を側近くに置いているんだ?」
 しゃれた口髭の若い道士は、首を振った。
「さあ、僕にもさっぱり分かりません」
「お前が知らないというのなら、ますます妙だ。そもそも、なぜ急に洛陽くんだりまでおいでになったのか?」
 道士たちは、奥まった座敷へ目を向けた。
 その閉じられた扉の内では、林霊素がひとりの怪道士と向かい合って座っている。
「これから、どうする」
 林霊素は、苛立ったような、どこか縋るような声で言った。
「せっかく反廃仏の僧侶どもを少林寺に集めたのに、うまくいかぬ」
 林霊素は、少林寺滅亡──すなわち“道教の大勝利”を演出するため、東京からやって来たのである。
 にせの檄文を飛ばして、反対派の僧侶を少林寺に集めたのは、林霊素の智慧である。その上で彼らを、まとめて殲滅する計画だった。
「それで廃仏は完了し、世は道教一色になるはずだったのだ。廃仏成就のあかつきには、宋国唯一の国師ともなる。栄達は思いのままだ」
 しかし、少林寺は初戦で官軍を撃退し、山の防備を厳重にして立て籠もっている。嵩山は要害でもあり、洛陽軍も攻めあぐねて、もう数日も対峙するだけなのだ。
 宇文将軍が戦死したため、正都指揮使が出陣したが、もとより戦意の低い男だ。兵糧攻めと称して静観し、いたずらに日を過ごしている。少林寺はもとより自給自足の山であるし、その間に朝廷内の反廃仏派が勢いを盛り返さぬとも限らない。
「どうにかならぬか」
 林霊素の前に座っているのは、頭から布を被った怪人である。どこからか現れ、青牛の轡を取る下僕となった。それが、あの方術合戦で本当に雨を降らすという怪異を現した。天子はじめ人々は、林霊素が降らしたと思っているが、彼にはそんな法力はない。
 あの時、林霊素は、この醜い下僕が“本物”と知ったのだ。以来、側において丁重に扱っている。
 しかし、怪人は無言であった。
 林霊素は眉根をよせた。
(役には立つが、気味の悪い男だ。目的も知れない……心を許すわけにはいかぬぞ)
 林霊素は、百戦錬磨の法術師である。幼くして寺に入ったが、厳しい修行に馴染めずに出奔した。その後、道観に入り、有名な道士の弟子となったが、教えてもらったのは“手品”──いかにして大衆を騙すかという目くらましの術だった。
(結局は、それが一番、世渡りには役に立ったが)
 床が崩れたのは前もって地面を掘っておいたからだし、血の涙を流す神像には豚の血が仕込んであった。舞い飛ぶ鶴は、檻に閉じ込めておいたものだ。
(本当の“術”などあるものか)
「信じよ」
 ちびちびと酒をなめていた怪人が、くぐもった声で呟いた。

「信じれば──すべての望みが叶う」
 そして、布の下から、扉の方を鋭く睨んだ。
 すると扉が開いて、美しい小間使いが銚子を持って現れた。
「お酒の追加はこちらでしょうか?」
 にっこりと笑ってから、小間使いは異様な空気に顔色を変えた。そして、部屋間違いを謝ると、急いで扉を閉めて逃げていった。


 小柄な影が軽やかに階段を登り、“大漢楼”の最上階の座敷に滑り込んだ。小さいが、もっとも豪奢な座敷である。高官や貴族の師弟が密会に使う部屋で、今日はひとりの美女が玉の酒杯を傾けていた。
「──猫児か」
 小間使いに変装した猫児は、持っていた銚子を主人の慕容貴妃に捧げた。
「間違いございません。林霊素です。あやしい道士を連れています」
「誰か」
「分かりませんが、不穏な目つきをしておりました」
 美酒と美味が並べられた座敷には、慕容貴妃と、数人の侍女が猫児の報告を待っていた。慕容貴妃はこの豪奢を楽しむように、長椅子に敷きつめた絹の布団に身をゆだねている。窓辺に置かれた瑠璃色の香炉には、かおり高い香が焚かれている。
 猫児の鼻は敏感だった。
「貴妃さま、この香は」
「懐かしかろう。紅菊の花から練った香じゃ。ふと、後宮の暮らしを思い出してな」
「あのようなお暮らしに戻るのも、まもなく」
 猫児の言葉を、貴妃は鼻先で受け流した。
「あの小娘──金奴は少林寺を出たか?」
「いえ。戦の前に下山するだろうと思っていたのですが……まだ」
「尼寺にいるうちに、片づけておけばよかった。居所がつかめなかったのだ」
 慕容貴妃は悔しげに酒杯を干した。
「金山大師め、うまく娘を隠したものよ。王皇后、王都尉、太子に帝姫……王一族、よくよく、わらわの邪魔をしてくれる」
「老婆の予言のこともございます。見つけ次第、この猫児が片づけます」
 慕容貴妃は冷たい微笑をたたえた目で、猫児を見つめた。
「お前は、わらわの腹心だった者の一番弟子。その師“白骨猫”はわらわを裏切り逃亡したが、お前は忠義者よな」
「捨て子だった私を育ててくださったのは、貴妃様でございます。その御恩は、命にかえても」
「よろしい──では、その扉を開けてやれ」

 猫児が扉を開けると、そこには林霊素がひとりで立っていた。瀟洒な道服が釣り燈籠の光に照らされ、仙人の降臨かと思わせる。その口許には、薄い笑いが浮いていた。
「あやしい小間使い、と思ったら……おやおや、珍しい方にお会いする」
 林霊素は、後ろ手に扉を閉めた。
 慕容貴妃は瞳に秋波を漂わせ、婉然と微笑んだ。

「霊素よ、わらわとの再会を喜ばぬのか?」
「不審な手紙で、私を洛陽まで呼び寄せたのは、あなたでしたか」
 林霊素の手には、一通の手紙があった。それを、林霊素は蝋燭にかざして焼いた。手紙には、詩が一篇、書かれているだけだった。
「懐かしかろう……その詩は、昔そなたがわらわに贈ってくれたもの」
「若気のいたりですな」
「では、なかなか陛下の子がなせぬわらわに、子作りの秘儀を行なったのも……若気のいたりか」
 林霊素の顔から薄笑いが消え、貴妃の瞳からも秋波が消えた。二人の男女は、ふと仮面を脱いだように、彼らの本来の顔を取り戻した。
 林霊素は椅子に腰掛けると、貴妃が飲んでいた銚子を取って、手酌で呷った。
「それで? 用件は?」
「お前に、よいことを教えてしんぜようと思ってな」
 貴妃が差し出す杯に、林霊素は酒を注いでやる。
「見返りは?」
「わらわは朝廷を追われ、今はひっそりと暮らしておる身。もう、なんの野心もない」
「あなたから野心を取り除いたら、なにも残らぬはずなのだが」
「そなたもな」
 貴妃は目を細め、はじめて本心からホホと笑った。
「霊素よ、そなた、少林寺を攻め落としたいのであろ。では、東京の禁軍に加え、河南節度使の王煥、太原節度使の徐京の軍を呼び寄せ、そなたが総帥となればよい。それだけの軍に攻められれば、少林寺など砂でできた塔も同然じゃ。別の言い方をすれば、あの山は、それほどの大軍でなければ、攻め落とせぬ」
「節度使を動かす? それは難題」
「なぜ」
「節度使は国境を守る重要な軍。洛陽軍を動かすのとはわけが違う。朝廷にも廃仏の反対派がいて、いろいろとうるさいのだ。宰相の蔡京すら廃仏には反対したほどで、仏教うんぬんより、世の混乱を心配している大臣たちが少なくない。陛下とて、特に僧を憎んでいるわけではなし……」
「そこで、“幻術”を使うのじゃ」
「どのような」
「鈍い男じゃ。東京の牢に捕らえられている智真長老と、少林寺の金山大師は莫逆の法友。この金山大師が“謀叛”をたくらんでいる。少林寺に武術僧を集め、全国の百万の仏教徒を煽動して、大宋国転覆のため東京開封を襲う計画を──な」
 林霊素が、考えるそぶりを見せた。慕容貴妃に陰謀の才があることは、林霊素が一番よく知っている。
「なるほど……しかし、陛下が信ずるかな」
「じれったい奴。“神仙のご託宣”は、そなたの得意ではないのか? 天書が降る、地から『金山謀叛』と刻んだ石版が出る……歴史上にいくらでも前例はあろう。この“叛乱”を鎮圧すれば、武勲赫赫──救国の英雄じゃ。国師以上の栄誉を得て、蔡京、童貫をも凌駕できるぞ」
「救国の英雄──救世主か」
  林霊素は口髭を撫でつけた。
「悪くない」
「わらわの恩義、忘れるでないぞ」
 二人は会心の笑みを浮かべで、酒杯を合わせた。
「うまくいけば、次はあなたのための“ご託宣”を考えよう」
「ほほ、たのしみにしておるぞ」
 部屋の片隅に佇んで、猫児は二人の会話に耳を傾けている。
(どちらも、心にもないことを)
 猫児は笑いをこらえ、配膳台で冷めた銚子を暖め直した。
  台に置いた蝋燭の周りには、二匹の蛾が戯れるように舞い飛んでいた。

 夜更け、去っていく女馬車を、林霊素は“大漢楼”の欄干から見送った。
(あの女の、本当の目的はなんだ?)
 去っていく馬車の後を、なにものかが影法師のように追っていく。林霊素に尾行を命じられた隠密である。
(しかし、相変わらず“悪知恵”には長けている)
 林霊素は、腹心の郭道士が控えている座敷に戻った。
「“通真達霊元妙先生”、ご命令はなんでしょう」
「──東京へ行け」
 林霊素は一通の密書とともに、若い弟子の耳になにごとかを囁いた。

 後日、童貫は天子の命を受け、二人の節度使、王煥と徐京に出陣の命を下した。
 天子は林霊素より『少林寺謀叛』の神託を得たとの密書を受け取ったが、一度は節度使軍の出陣要請を拒んだ。大臣たちに、まずは調査をと諫言されたのである。
 しかし、同日、天子が気晴らしのため東京の万歳山に詣でると、神木の幹に『金山叛』の文字が浮かび上がっていたである。人々があっと驚いた瞬間、その文字はかき消えた──しかし、その場にいた者は誰もがその文字を見た。
 そのため、ついに天子は決意して、少林寺追討の宣旨を下したのである。
 幻の託宣が、実は“虫文字”──林霊素に命じられた郭京道士が、あらかじめ木の幹に蜂蜜で文字を書き、それに集まった虫たちがそう見えたのだと、気づく者はいなかったのだ。



 その夜、久しぶりに少し雨が降った。
 薛永は見張りに立っていた。官軍は山の出入り口を塞いでいるが、こちらの防備が堅牢なので、攻めてくる様子は見えない。
 雨が強くなってきたので、屋根のある見張り小屋の中に入った。ぼろ布を敷いた上で、太白が丸まっていた。薛永が入っていくと、太白は目だけを上げた。ふさふさの腹にもぐりこむように、銀樹がやはり丸くなって眠っていた。
 戦い以来、銀樹は尼たちに止められても薛永の側を離れなかった。
 山中の夜は冷える。薛永は肩にかけていた布を、銀樹の上にかぶせてやった。
 銀樹が、うっすらと目をあけた。
「起こしてしまいましたね」
「……薛永の話をして」
 布にくるまったまま、銀樹は囁くように言った。
「僕の?」
 銀樹は頷き、眠たげに目を閉じた。伸ばした指が、しっかりと薛永の裾を掴んでいた。
「薛永が、どこで生まれて、どうやって生きてきたのか……話せ」
「僕は……洛陽で生まれて、祖父は、立派な武官でした。しかし、世渡りがへたで、上司にうとまれ、失脚したんです。僕の父は仕官できず、商売を始めましたが、失敗して破産しました。一族は離散して、僕の家は、なくなったんです」
「それで芸人になったのか?」
「その時、借金取りが残していったのは、棒が一本だけでした。僕は途方に暮れて、ずっと洛水のほとりに座っていたんです。そうしたら、とても痩せて、汚れた小犬が膝に寄ってきたんです。僕は小犬を抱いて街に帰り、見よう見まねで演武をして、はじめて自分で銭を稼ぎました」
「それが、太白か」
 銀樹は太白の顔を両手でつつみ、しめった鼻に頬をつけた。ちいさな蝋燭の光の中で、銀樹は幼い子供のように見えた。
「幸せだな──おまえは」
 雨が屋根を叩いている。広い世界で、ここだけが安全な巣のようだ。銀樹はまた静かな寝息をたてはじめた。
(この人を──守らなくては)

 あらゆるものから──。
 できるだろうか、と薛永は不安になった。自分には、史進のような武芸も、石秀のような勇気もない。
(いっそ、梁山泊へ)
 ふいに浮かんだ、その名前に、薛永は自分で驚いた。
 宋国と“叛徒”梁山泊は、不倶戴天の敵同士なのだ。その国の帝姫を、梁山泊へ連れて行けるはずがない。
 薛永は息をひそめて、銀樹の寝顔を見守っていた。
 いつしか雨は止み、差し込む細い月光が、二人を静かに照らしていた。


 雨上がり、史進はぬかるんだ道を辿って、山の中腹にある厨を覗いた。
 久しぶりに、飲みたい気分だったのだ。
「酒はあるか」
 井戸で鍋を洗っていた小坊主に聞くと、建物のなかを指さした。
「水屋に、お客様用のが残っていますよ」
「少しもらおう」
「いいですよ。どうせ、もうお客は来ないから……」
 小僧はまた鍋を洗い始めた。
 史進は酒を手に入れると、茶碗でもないかと棚の奥を覗き込んだ。
「おい、これは?」
 小僧が洗い終わった鍋を持って入ってきた。史進の手には、碗の棚に無造作に置かれていた木彫りの竜が握られていた。
「ああ、竈係の木竜行者が彫ったものですよ。ほら、そこにも……いくつもあります」
 史進が見回すと、たしかに、竈の上や、窓枠の隅などに、守り神のように何匹もの竜が置いてあった。どれも、生きているような見事なできだった。
 史進は、王進の手を思い出した。王進は武人にしては、繊細な指と、しなやかな掌を持っていた。史進は小僧に詰め寄った。
「その行者はどんな人だ、棒の名手か」
「まさか。無口な人で、いつも竈の前に座って、木ばかり彫っていましたよ。年頃は、五十の手前くらい……どこから来たかは知りません」
「今、どこにいる」
「何カ月か前、ふらりと出て行ってしまいました。最近、龍門で“仏”を彫っているのを見たという者がおりましたが……」
「龍門? なにがあるんだ?」
「御存知ないんですか。有名な石窟寺院ですよ。大きな仏様の石像が、崖にたくさん彫られているんです」
 史進は酒のことも忘れて、木彫りの竜を手に厨を出た。
 雨上がりの空に、月が皓々と輝いている。
「龍門か!」

 そして、夜明け──。
“少林寺謀叛”
 東京禁軍、河南節度使“老”王煥軍、太原節度使“薬師”徐京軍、合わせて五万の大軍に出陣命令がくだった──との情報が、間諜として山外で活動していた王定六によって少林寺に伝えられたのは、その朝のことだった。



 夜明け。まだ暗い中に、数個の人影が息をひそませていた。
 荒野を貫く街道脇の宿屋である。裏手には土手があり、その下を茶色い河が流れていた。
 宿屋は二階建てで、離れや厩もあって案外大きい。その離れの一室に、そっと忍び込んできた者がいた。暗闇のなかで、女の声が囁く。
「──来たよ。準備しといておくれ」
「早いな」
 眠そうな声が答えたた。
「夜通しで来たのか、ずいぶんと急いでいるな」
 庭先が騒がしくなった。ここは郊外の街道ぞいにある駅の、役人や軍隊がおもに使用する宿である。門前が騒がしくなったのは、荷を運ぶ部隊が着いたからだった。
「お早いお着きで」
 主人が愛想よく迎えに出て、兵隊たちを一階の食堂に案内した。
「馬は繋いでおきますから、どうぞ食事を」
 食堂には、すでに料理と酒が準備されている。着飾った女主人が、腹をすかせた兵士たちににこやかに酒を勧めた。
「お疲れでしょう。ささ、熱いうちにどうぞ」
 女主人はできたての料理を皿に山もりにして、兵士たちの真ん中に据えた。兵士たちは、我先に酒を飲み、料理をつまんだ。
「たんと召し上がれ、お酒はいかが」
 女主人は給仕しながら、兵士たちの会話に耳を澄ました。
「徹夜で歩かされて、へとへとだ」
「期日までに届けろという急な命令だからな」
「禁軍はもう集まってるんだろう。洛陽軍と、東京の禁軍で数は三万か……たいした数だな。そこに節度使軍が加われば、少林寺はひとたまりもない」
 彼らは官軍の輜重部隊で、任務にあたっているのは地方の雑役兵“廂軍”である。
「武器はいくらでもいる。次の駅で交替だから、頑張ろう」
「それにしても眠いな……」
 そして、ほどなく、兵士たちは次々に昏倒して椅子から落ちた。
 建物の中は、しんとしている。どこかで、扉が開く音がした。太い男の声がした。
「済んだか、“小尉遅”」
「おう、手伝ってくれ」
 宿屋の主人──“小尉遅”孫新は、倒れた兵士をまたいで、外に出た。特製の料理をふるまった妻の顧大嫂が腕まくりして続く。

“小尉遅”孫新、梁山泊の席次は第百位。兄の“病尉遅”孫立より伝受された鉄鞭を使い、もとは闇賭場の主だった男である。

 その妻の顧大嫂は、席次第百一位。“母大虫”すなわち“雌虎”とあだ名される女傑で、ひとたび腕まくりすれば、夫の孫新はもとより、並みの男では太刀打ちできるものではない。
 孫新夫婦は残された荷物を検めた。荷は、すべて矢や槍、甲冑といった品物だ。合図をすると、裏の土手から数人の男たちが現れて、係留してあった漁船に荷物を隠した。
 船を漕ぐのは、“立地太歳”阮小二だ。

 梁山泊第二十七位の好漢で、梁山泊水軍の一翼を担う“阮氏三雄”の長兄である。もとは石碣村の漁師だが、若い頃は“禍いの星”と恐れられていた。阮小二は、渡された荷を手際よく船底の生け簀に詰め込んでいく。
「じゃ、小二さん、あとは頼むよ」
 顧大嫂は、作っておいた弁当を阮小二に手渡した。
「あたしたちは移動して、次の獲物を狙わなきゃならないからね」
 阮小二は櫓を手に取った。茶色い流れはとろりとして、どことなく故郷の石碣村を思い出す。
 後ろの船には、さっき顧大嫂に起こされたばかりの“玉旛竿”孟康が、冴えない顔で乗り込んでいる。

 梁山泊の席次は第七十位、船大工の出身で、高麗拳法の使い手である。交易船に乗り込んで異国へもたびたび渡った。梁山泊一の皮肉屋でもあり、今日は河に悪態づいた。
「泥くせえ河だ、貧乏籤だぜ」
「呉先生の命令だ。従っておけば、いいことがある」
「どうかねぇ」
 船が出て行く。孫新の声が見送る。
「次の船着場で、必ず“店”に寄ってくれ。新しい情報が届いているはずだからな」
 呉用は何か情報を掴むたび、新しい指示を出す。その指示は、伝書鳩、早馬、飛脚とあらゆる手段を使って、仲間たちへ伝達される。実際に動いている者には、何がどうなっているかはまるで分からないのだ。
「“綱渡り”か。俺は芸人じゃねぇぞ」
 孟康は操船を手下に任せ、船縁にもたれかかった。
 夜が明けていく。燃えるような、毒々しい朝焼けだ。
 振り返ると、孫新と顧大嫂が荷物をまとめ、宿を去っていくのが見えた。
 痺れ薬で盛り潰された廂兵たちは、目ざめたら、自分たちが身ぐるみはがされ、荒野のまんなかの廃屋にいることに気づくだろう。
 その頃には、彼らの馬も、荷物も、はるか彼方だ。
(──西へ)
 孟康は目を閉じた。
 幻の宿屋は、ここだけではない。このところ、宋国西部のあちこちで、官軍の武器や装備、馬が消えている。盗まれた物は、商人や役人に変装した梁山泊の者たちによって、ひそかに洛陽方面へ送られているはずだった。
 荒涼と乾いた黄土高原を、黙々と人々が進む。船が黄河を遡る。
 その密やかな動きは、天上から見たら、小さな流れが次第に集まり、大河に合流するように見えただろう。



 少林寺の朝は、読経の声と、嘆きの声に包まれていた。
 少林寺に差し向けられた官軍は、洛陽軍に加えて、東京開封に駐屯する近衛の禁軍、二つの節度使軍を合わせて、最低でも五万になると見込まれている。
「それだけの大軍に攻められては、この山では防げまい」
“謀反人”、“逆賊”の汚名を着せられ、山は悲壮な空気に包まれた。
「我々が、なにをしたというのだ。国に害を及ぼしているのは、奸臣と結託した道士どもではないか」
 その日のうちに、傭兵や僧の中から、ひそかに山から抜け出そうとする者もあった。金山大師は、一切、止めるようなことはしなかった。そして、脱出を試みた者も、やがては戻ってくることになった。
 麓に通じる道は、大小の参道以外もすべて、官軍によって封鎖されていたのである。
 官軍が続々と集まり、ついに林霊素が“元帥”として着陣した。神仙の加護あり──と、八卦や太極を描いた旗が麓を埋めていくさまは、少林寺からもよく見えた。
 史進も偵察に出たが、官軍は数にものを言わせて麓を隙なく包囲している。
 その絶望的な報に接しても、金山大師は動揺を見せなかった。

 林霊素の本陣は、李村の道観に設けられていた。“通真達霊元妙先生”の来臨に、道士たちは下にも置かぬもてなしである。
 林霊素は、悠然と法座に腰掛けていた。
 人払いされた部屋には、あと二人の道士がいた。しゃれた口髭の郭道士と、頭からすっぽりと布をかぶった道士である。郭道士は東京から戻ったばかりだ。ここから東京はそう遠くない。西京洛陽と東京開封の間は街道も整備されており、早馬で走り通せば半日程度の距離である。
 郭道士は東京での“大任”を終え、意気揚々と報告した。
「ご指示通り、首尾よくやって参りました。童枢密の上奏により、ついにお上も王煥、徐京ら二人の節度使に出陣をご命じになりました」
「うむ、よくやった」
 道冠で隠しているが、林霊素の頭頂部には大きな傷跡がある。林霊素は、道士となる前は僧侶だった。家が貧しく、口減らしのため寺に棄てられたのだ。しかし、自堕落な生活に染まり、錫杖で師から激しく殴打されたのである。それを機に寺を脱走し、見返すために道士となった。今も、あの時の痛み、怨みを片時も忘れることはない。
「軍勢が揃いしだい、少林寺へ総攻撃をかける」
 林霊素は金の払子を手に取った。
「坊主どもよ、恐れるがいい。ここからが、本物の“法難”なのだ!」



 梁山泊に戴宗が戻ってきた。

 梁山泊席次第二十位、“神行太保”の異名を持つ韋駄天である。足に甲馬と呼ばれる札を縛れば、日に八百里を駆けることができるのだ。その脚力を発揮して、戴宗は東京を中心に情報収拾を行なっていた。
 聚議庁には、常に呉用が待機している。知らせを受けて、宋江、朱武らも集まってきた。
「節度使軍に出陣命令が出た。少林寺は風前の灯火も同然だ」
 戴宗の急報に、宋江が珍しく顔を曇らせた。
「官軍はどうにかなるとしても、“節度使”は厄介です。奴らは山賊出身で、相当に腕がたつと聞いています。呉用先生、早急に手を打たないと」
 しばらく呉用は黙っていた。聚議庁に吹き込む風は熱かったが、白羽扇は動かない。
「林霊素、法難、慕容貴妃、節度使……これだけの役者が揃うとは、これは思った以上の大陰謀かもしれません」
 すでに呉用は、慕容貴妃が遼国の手先となって動いているという情報を掴んでいる。
 呉用の羽扇が動きはじめた。
 そして、控えている“鉄扇子”宋清に伝書鳩の準備を命じた。
「鳩は何羽、必要ですか」
「すべて、お願いします」
 呉用の手には、すでに筆が握られていた。

 聚議庁から、黄昏の空へ無数の白い鳩が飛び立っていく。
「そうだ、もう一手、打っておきましょう」
 呉用は思いつくと、すぐに“鉄叫子”楽和を呼んだ。

 梁山泊の席次は第七十七位、歌えば天下第一の名手、天人のごとき美声で知られる若者である。
 指示を受けた楽和は、ため息をついた。
「東京へ行くのはいいですが……僕がやるんですか。どうやって?」
「任せます」
 続いて、“錦豹子”楊林が聚議庁に呼ばれて来た。

 楊林は席次、第五十一位。もとは講談師を生業とし、相棒の烏“小烏龍”とともに筆管槍を手に全国を渡り歩いた。そのため宋国はもちろん異国の地理、風俗にまで通じている。記憶力がずば抜けており、一度見聞きしたものは、眼前に見るがごとく語れるのである。
 その楊林に、呉用は一枚の地図を示した。
「洛陽周辺で、少数で大軍と戦えるような場所はありますか」
「洛陽は古都で、あのあたりは昔から戦の多い土地柄……古戦場は多くありますが、土地が平坦で見通しがよく、城に依らないのは不利ですな」
「死を覚悟した僧侶たちが、最後に籠城するとしたら」
「そいつは、売れる芝居になりますぞ」
 楊林は少し考え、地図の一点に指を置いた。
「伊水のほとり──龍門石窟」
 河のほとりに、優美な大仏の姿が描かれていた。



 少林寺、夕刻。
 闇が深まるとともに、少林寺に立て籠もる人々の絶望と嘆きも濃くなった。
 人々は、達磨堂の金山大師のもとに救いを求めて集まっていた。悠揚迫らざる大師の姿に、活路を見いださんとしたのである。
 智真長老が捕らえられ、龍門大禅師が遷化した今、金山大師しか護法を導く師はいない。今夜にも何か言葉があるだろう──と、人々は篝火の下で待っていた。
 史進も、その片隅に混じっていた。
 薛永は銀樹につきそっており、石秀、李忠らの顔も揃っていた。
“張神剣”ら傭兵たちは別の場所に集まって、善後策を相談している。
 史進も誘われたが、断った。
(金山大師は、どうするか?)
 その方が気になったのだ。
 史進の目は、じっと大師に注がれている。
 座禅した大師は、長いこと微動だにしなかった。傍らには、天窮和尚が棍棒を手に脇仕仏のごとく佇立している。
「──みなに問う」
 ついに金山大師が口を開いた。
 外にまで人があふれているのに、達磨堂は静まり返った。
「わしが問うのではない、仏が問うのだ。我等の前には、三つの道がある。ひとつ、官軍と戦い、不殺生戒を犯して地獄の輪廻に堕ちる道。ふたつ、降伏して、道教に転じる道。みっつ、戦わず、降伏もせず、この伽藍とともに滅びる道。おのおの、望む道を選ぶ時がきた」
 人々はざわめいた。
「降伏は官軍が受け入れぬ」
「殉教がよい。往生できる」
 諦念が濃い達磨堂の中へ、憤然と史進の声が響いた。
「そいつは、林霊素の思うつぼだ。あんたたちが死んだって、腐れ道士どもが祝杯をあげるだけだ。悔しくないのか」
「では、どうしろと?」
 史進は言葉に詰まった。進み出たのは、銀樹だった。
「道は、もうひとつある──“逃げる”のだ」
 僧たちの中をざわめきが広がっていく。
「なるほどな」
 史進の目が不敵に笑って、石秀を見た。
「どうだ、石秀」
「逃げるってのは気にくわねぇが、座して死ぬのは、もっと気に食わねえ」
「時遷」
 時遷は偵察から戻ったところだ。
「せやな。南西の麓には、官軍の姿は見えん。険しくて、道がないからやな」
 達磨堂に詰めた無数の目が、揺らめく灯明のなかで史進を見ていた。
「そういうことだ。じゃあな──俺たちは、逃げる」
 外に出ると、星空の下に“張神剣”ら傭兵たちが集まっていた。“張神剣”が、開け放たれた扉越しに金山大師に抱拳した。
「俺たちもお暇する。いつまでも、ただ働きはできぬ」
 それから史進に向って策を諮った。
「夜陰に紛れ、別々の道を選んで行こう。運があれば、甘粛へ来い。隊長待遇で傭わせてもらいたい」
「考えておく。満天星、あんたはどうする」
 満天星は達磨堂から出るでもなく、残るでもなく框のそばに立っている。尼たちが数珠をもみながら泣いていた。
「私は……この人たちを見捨てるわけには」
 逃げても、死ぬことになるかもしれない。しかし、このまま、ただ死にたい者はいなかった。無数の目が、それを訴えていた。
 その目は、やがて金山大師に集まった。大師は、それを待っていたように見えた。
「天窮、あれを」
 命じると、天窮和尚が達磨像の中より一抱えもある櫃を取り出した。一人では運べぬほどの重みがある。蓋を取ると、黄金や銀が溢れ出た。
「これは、このような危急の際に役立てるべく、寺に受け継がれてきた財貨である。そなたらを、雇おう」
 金山大師は黄金の箱を“張神剣”らの前に運ばせた。
「この山の人間を、一人残らず、逃れさせてほしい」
 みなが生き延びるには、敵がすべて揃う前に脱出するほかはない。
 傭兵たちは顔を見合せ、やがて“張神剣”を皮切り、一人がひと掴みずつ黄金を取った。史進と石秀、満天星は、取らなかった。
「俺たちは、“仕事”じゃなく、“酔狂”ですることなんでね」
 そう言って、史進は“張神剣”が差し出す金を辞退した。
 そして、金山大師に尋ねた。
「どこか、これだけの人間が身を寄せて、しかも官軍を防げる場所があるのか?」
「ひとつだけある」
「どこだ」
「“龍門”」
 史進の目が輝いた。懐には、木竜道人が彫った竜の像がしのばせてある。
「石窟があるという、龍門か」
 金山大師は頷いた。
「あれは北魏の代に開削された石窟寺院だ。山を背に、河を前に堅牢な岩山に築かれている。その正体は、古来より都であった長安、洛陽に変事があった際、僧侶たちが立てこもる要塞なのだ!」



 嵩山の上に、銀河が輝いていた。
 深夜、嵩山の星空を背に、六人の男が並んで立った。

「しょぼいツラが集まったな」
 史進はひとりひとりの顔を眺めた。石秀、薛永、李忠、陳達、楊春──いずれも、いつも通りの面構えだ。

 陳達が言う。
「豪勢じゃねえか」
 李忠は棒を地面について、渋い顔で境内を眺めている。
 静かに、息をひそめて、脱出の準備が進んでいるのだ。
 麓の官軍の様子を調べに行っていた、満天星が戻ってきた。
「気づいている気配はありません。ほとんどの兵士が眠っています」
 人々は夜陰に乗じて、山を出ることになった。
 塔林は歴代の僧侶の墓で、無数の塔が林のごとく立ち並んでいる。そこを通り抜け、少渓河ぞいに裏参道を降り、少室山を越えれば街道に出る。
 僧尼たちはいくつかの隊に分けられ、“張神剣”ら傭兵たちに付き添われて順次、寺をあとにした。彭尼は、尼たちの護衛についた。
 銀樹は金山大師とともに行くことを選んだ。彭尼は愛用の鉞を手に、見送る銀樹に頭を下げた。
「帝姫様──お先に」
「うむ」
 銀樹は、ふと彭尼の顔を見つめた。
「彭尼よ、今まで、ありがとう」
 彭尼は驚いて銀樹を見返した。銀樹は笑った。
「すぐまた、龍門で会えるんだったな」


 月が、わずかに彼らの行く手を照らしている。
 境内には、金山大師が最後まで残った。官軍を欺くため、時の鐘をつく者が必要だったからである。最初は、九十を越える寺男が、最後のご奉公に──と志願したが、大師はその老寺男を一番に寺から去らせた。負傷者も、周囲のものが助けて出て行く。
 秘蔵の経典や運べる仏像は、天窮和尚ら少林寺の高弟たちが背負って行くことになっていた。白馬寺の僧が聖典『四十二章経』を龍門に運んだように、秘匿するためである。
 ほぼ無人となった少林寺の境内に、篝火が燃えている。火が絶えぬよう、二人の男が薪をつぎ足していた。
 金山大師が残ることを許したのは、僧ではなく在家だった。
 逃げ込んできた僧の中にあって、“心色清”、“神霊静”と呼ばれて僧たちから蔑視されていた二人である。かつては一寺を与る高僧でありながら、“心色清”は邪淫戒を犯し、“神霊静”は偸盗戒を犯した。彼らは破門され、放逐されたが、なお仏を求める心やまず、この法難に恥を忍んで馳せ参じてきたのである。
「金山大師よ、我々にこの因果を断つ縁をお与えください」
“心色清”は右手首から先がなく、“心霊静”の片目は白く濁っていた。自ら罪深い身を損なったのだ。
 それでも、罪は消えず、法のため死ぬよりないと決めていた。

 真夜中の鐘が、金山大師によって打ち鳴らされた。
 すべての者が去り、残るは史進たちと、天窮和尚の隊だけとなった。天窮和尚は大師とともに最後まで残るつもりだったが、命令に逆らえなかったのである。
「──では龍門で」
 金山大師を拝み、天窮和尚は高弟たちとともに去って行った。莫志も、史進たちに挨拶して、後に続いた。
 この部隊には、傭兵の中で最後まで残っていた満天星が護衛についた。 
「大師は寺とともに死ぬおつもりでは?」
 満天星は背後の寺を振り返る。寡黙な天窮和尚は、答えなかった。道は険しく、暗い。もはや背後を振り返ることはならず、この経典、仏像を龍門で保護することが、自分の修行と定めていた。
 険しい山を越えていくと、南麓へ下りる斜面に地元の民が“仏掌角”と呼ぶやや開けた峠がある。無事に山を越えられた者はそこに集まり、龍門へ向うことになっている。
 先頭を行く天窮和尚に、護衛の満天星が尋ねた。
「貴重な経典はこれですべてでしょうか」
「いかにも」
 その時、目のよい莫志が闇の彼方に火を認めた。
「あれは!」
“仏掌角”の方角に、火が見えた。
「もしや、官軍の」 
 刹那、天窮和尚は背後から肩に斬りつけられ、背負い櫃が地面に落ちた。
「なにをする、満天星!」
 斬りつけたのは満天星だった。天窮に従っていた高僧たちは、すぐさま迎撃の型をとった。しかし、その時にはすでに満天星は櫃を拾い、大きく飛んで距離をとった。
「まさか、お前が?」

「『精武大宝蔵経』さえ手に入れば、少林寺に用はない。さらば!」
 そのまま櫃を背負って姿を消した。武術僧たちは追おうととした。が、その時には、すでに眼下の“仏掌角”にて、官の伏兵による虐殺が始まっていたのである。



 鐘の余韻が消えるとともに、史進は耳をそばだてた。
 なにか聞こえた気がしたのだが、嵩山の空は無言である。
 香炉の陰で目を閉じていた李忠が立った。
「さて──行くか」
 僧たちが去ったのを見届けたら、彼らも頃合いを計って出発する予定になっている。最後の時の鐘を打ち、発覚するまで時間を稼ぐ。
 その最後の鐘を、大師が撞いたところだった。
 男たちが動き始める。
 見守る史進たちのもとへ、金山大師が鐘楼から下りてきた。
「行きなさい」
 それは史進も予想していた言葉だった。
「大師、あんたも一緒に行くんだ」
「わしは残る」
 金山大師は両手の般若雷を地についた。
「そなたらが去れば、火を放つ。道観にはさせぬ。この首も、やらぬ」
 火を放ち、そこに身を投じる──と、大師は初めから覚悟していたのだ。
 寺が燃えれば、官軍は僧侶たちが自害したと思い、追跡が遅れるとも考えているのだろう。
 史進は同意しなかった。
 金山大師と銀樹を無事に逃がすため、彼らも最後まで残っていたのだ。しかし、大師は篝火から松明を一本とると、無言で達磨堂へ歩いていった。
 石秀は、史進を促した。
「死にたい者は、死なせてやれ」
「そうはいかん」
 史進は大師を追おうとした。その腕を、楊春が掴んだ。楊春の目は、北麓の方を睨んでいる。
「官軍が来る」
 大参道を官軍の篝火が登ってくる。初めは星のごとくまばらに、次第にその数は増え、一条の火の河となった。
「夜襲か?」
 史進の言葉に、陳達は首を振った。
「ねぇな。包囲している山上の寡兵を、夜襲する意味はねえ」
「では、なぜ」
 彼らは不穏な気配を感じ取り、南側の道へ視線を集めた。声が聞こえた。
「──大師」
 莫志に支えられた、天窮和尚の声だった。
「“仏掌角”に伏兵が……満天星が、裏切りを!」



「ない……」
 阿鼻叫喚の声を聞きながら、満天星は呻いた。火口を手に、林の中で櫃の経典をひとつひとつ検めている。さいごの櫃を投げ捨てて、その表情は阿修羅の形相となった。
「ない!!」
 満天星は地面に散った経典を蹴りつけた。
「『精武大宝蔵経』がない!!」
『精武大宝蔵経』は、少林寺が秘蔵するとされる、伝説の武術書である。それを持つ者は、最高の武術を得ると江湖には伝わっている。禁断の書で、何人もの武芸者が、『精武大宝蔵経』を見るために少林寺に入門し、あるいは忍び込み、そのまま消息を断った──と。
 満天星は、この戦を好機として少林寺にやって来たのである。官軍とも通じて情報を流し、脱出の道も確保してある。内通して、僧たちの脱出を密告したのだ。
(『精武大宝蔵経』はいったい、どこに?)
 貴重な経典ならば、持ち出しているはずだ。
(もしや)
 満天星の目が、山腹に灯った少林寺の篝火を睨んだ。
 折しも、真夜中を告げる鐘が鳴る。
 打ち鳴らすのは、金山大師、その人である。
「そうか、大師め。貴様が持っているのだな。自分が最高の武人であるために」
 そうはいかぬ──と、歯噛みした満天星の顔が、もとの端正さを取り戻した。
 そして、再び、“一塊雲”満天星は、闇の中へと消えていった。



 肩を切られた天窮和尚は、袈裟から血が滴るほどの傷を負っていた。
 間もなく、夜明けだ。
 しかし、山は最も暗い。
「──来たぜ」
 石秀の声が、低く響いた。
 陳達と楊春は、武器を手に山門に向って立っている。
 闇のなかに、燃える河のごとくやって来るのは、天魔の群──林霊素率いる禁軍の精鋭一万の隊列であった。目標は、金山大師、そして少林寺の制圧である。
 陥穽を恐れて緩やかだった官軍の進軍速度が上がっていた。甲冑の音が迫り、飛び散る火の粉が見えそうだ。鯨波が聞こえた。
「“謀反人”金山の首を獲れ!」
 少林寺の屋根から夜鴉が群れをなして飛び去っていく。
 さらに、南西麓からも喚声が伝わってくる。戦いの声と、悲鳴、かすかに誦経が聞こえ、すぐ消えた。
 退路には伏兵、正面には大軍──人々の目は金山大師に集中した。
 大師は袈裟を脱ぎ、出血のため震える天窮和尚に着せかけた。
「──脱出する。犠牲は、覚悟せよ」
 そして、鐘楼の柱に立てかけていた般若雷を取ろうとした時、天窮和尚がその一本を握り、立った。そして、猛然と今しも破られた山門へ向って馳せた。
「さらば、大師。いずれまた浄土にて」
 破戒僧“心色清”と“神霊静”の二人も合掌して駆けだした。天窮和尚は残る力を振り絞り、般若雷で官兵の脳天を叩き割った。
 天窮和尚はそのまま官軍の中へ突進した。出会い頭の迎撃に、官軍は一瞬、怯んだ。しかし、すぐに反撃し、“心色清”と“神霊静”は正面から斬られ、倒れた。
「金山を捕らえろ!!」
 天窮和尚は、燃え上がる少林寺を背後に、参道にすっくと立った。

「我こそは金山である!!」

 燃え上がる火に、星の光があやうく滲む。
 金山大師は鐘楼や手近の建物に火を放つと、山門とは反対の南方へ急いだ。僧侶たちが脱出していった、“仏掌角”へ通じる道である。
 すでに背後には、境内に乱入する官軍の喧騒が迫っている。
 薛永は銀樹の手を引いた。その手は子供のように細かったが、握り返した銀樹の力は強かった。
 薛永も銀樹の手をしっかりと握りしめた。

 裏参道に抜ける“仏掌角”は、寺から峰ひとつを越えたところにある。その間は、道なき山林である。山に入れば、追撃される心配はない。
 金山大師を先頭に、一行は星を頼りに飛ぶほどの速さで進んだ。
 頭上には松籟がざわめき、足元は薮が密集する斜面である。しかし、長く少林寺で修行した大師には、目に見えぬ道が見えるのだ。
 ただ一瞬だけ峠で立ち止まり、少林寺を焼く炎を拝した。

 青白い月光に照らされ峰を越えると、ふいに、眼下に戦場が一望できた。
 戦っている者たちがいる。しかし、その数よりも死体の方が多かった。傭兵たち、武術僧、護国禅僧たちの無残な死体が、戦場を埋めるように倒れている。
 大師は月光で戦況を読みとった。
「敵の数は、およそ三倍。ここは死地。勝つには、全滅させるしかない」
 史進たちは斜面から戦場へ降り立った。
 その場所は少渓河が削り出した谷になっており、わずかな平地に僧と兵がひしめいていた。官軍は街道に下りていく谷の出口をふさいで、そくぞくと攻め込んでくる。ただ仏掌角の名のごとく、道側は手首にあたって、口が狭い。一度には進めない。
 武術僧たちは迎撃をその一点に集中していた。傭兵隊長の“張神剣”が布陣したのだ。防衛の主力は武術僧と“白光尊師”ら白衣の護国禅僧である。指にあたる後方の狭窄地には、尼や負傷者が身を寄せている。
 尼たちを護衛していた彭尼は、鉞を手に敵兵を食い止めていた。すでに全身に傷を追っている。また足に槍を受け、ついに倒れた。
「彭尼!」
 銀樹が叫んだ。
 薛永は、銀樹とともに彭尼のもとへ駆けつけた。李忠は、どちらへ行くか迷った。尼たちを守るか、僧たちと戦うか。薛永が言った。
「李忠さん、ここは僕が守ります」
「厳しいな、だが、頼まにゃならん」
 李忠は戦場を見渡した。史進が防衛の最前線へと駆けていく。もっとも激しい戦いが繰り広げられている。そこは──阿鼻叫喚地獄である。官軍は数にまかせて押し寄せてくる。南北少林寺の武術僧たちは官軍に突撃を繰り返し、彼らの棒も拳も、血にまみれていた。梵浄寺の護国禅僧たちは羂索を捨て、錫杖で官兵を突き伏せている。“白光尊師”は幽鬼のように飛翔して、錫杖で敵の脳天を叩き割った。一撃で、一人。一薙ぎで三人。巨体の“天三奇”本覚上人の姿は異様であった。尼たちを守って動かず、攻めかかる官兵の首を素手で掴みとっては、骨を砕き、肉を引き裂く。ぽたぽたと両手から滴る血が、上人の笑顔に落ちている。
 薛永は、掌で銀樹の目を覆った。
「見てはいけない」
 修羅、餓鬼、畜生の世界であった。
 清廉な護国禅僧たちこそ、かつて漠北の監獄から集団で逃げた死刑囚たちである。笑顔の本覚上人は、江湖で伝説となった往年の殺し屋である。彼らの、悔悟して出家した姿である。しかし、修行は夢の如くであった。
 官軍は続々と街道から上がってくる。龍門に通じる街道から、山腹の葛折りの裏参道までを埋めつくしている。
 大師が看破した通り、狭い“仏掌角”には逃げ場がない。武術僧、傭兵たちは官軍と相討ちになって次々、倒れた。戦う術のない僧尼たちも、追い詰められ、殺されていく。
 無抵抗の者をわざわざ狙う者も多い。薛永はそれを防ごうと槍をふるった。棒などでは役に立たないのだ。敵を、二度と立ち上がれないようにしなくては、意味がなかった。銀樹も剣を抜いていた。しかし、薛永は銀樹を後ろへ下らせた。
 銀樹には、人を殺させたくなかったのだ。
 そのために、薛永は鬼神のように戦った。いつもの優しい青年の面影は消え、その目には──“病の虎”などではなく、野生の虎の魂が現れ出ていた。


 史進は、街道へ下りていく細い道に自分の意識を集中していた。
(街道に下りれば、活路がある)
 この死地を抜け出れば、どこにでも逃げ道はあるはずだ。
 気づいた者が、史進に続き、援護した。道を拓いた護国禅僧の白い衣は、真っ赤に染まった。“白光尊師”は髪も肌も真紅に染まり、死体の山の頂点に倒れた。
 本覚上人は敵兵を二つに裂きかけたまま、全身を槍を突かれて死んでいた。その顔は、弥勒仏の笑いのままだ。
 その横を、前を、史進は進んだ。敵がびっしりと連なって視界を埋めつくしている。そのすべてが、史進ひとりへ殺到してくる。
「史進さん!」
 史進をかすめ、矢が飛んだ。莫志だった。放つたびに敵が倒れた。母が禁じたほどの弓の腕を、彼はいま解き放ったのだ。人を射るのは、初めてだった。
 母の悲しげな顔が浮かんだ時、悲鳴を聞いて、振り返りざまに背後を射た。なお戦おうとする彭尼に斬りかかった兵が倒れた。銀樹は、敵を殺せなかった。彭尼と銀樹が抱き合って、莫志を見ていた。
 莫志は次の矢をつがえた。

「そうだ、僕は殺したんじゃない。助けたんだ……助けたんだ!!」
 その間にも、史進は戦い、進むことをやめなかった。
 石秀が史進のすぐ横を駆けていた。しかし、史進には敵しか見えない。ぶつかる体の衝撃が、飛び散る火花が、史進を駆り立て、走らせる。
 果てしない敵に立ち向い、さらに先へ、先へと駆けた。棒が折れると、槍を奪った。
 史進の一撃は、すべて止めの一撃だ。駆けながら左右に五、六十人も倒し、進む道を切り開いた。
 王進が、すぐそばで一緒に戦っているような気がした。
「師父!」
 敵を倒し、史進は叫んだ。
「史進、止まれ!」
 陳達が呼んでいた。その声は史進の耳には届かない。
「止まるわけねぇな」
 陳達と楊春は史進を追った。
 夜明けが近い。戦いの終りは見えない。
 史進は方向を定め、何度も突破しようと試みた。背後には、楊春、陳達、少林寺の武術僧たちも加わっていた。彼らは一丸になり、官軍を麓へ押し返していく。
 やがて、彼方に裏参道の口が見えた。
 官軍の篝火が、赤々と燃えているのが見えたのだ。
 史進は最後の力を振り絞った。
「飛び出すな、的にされるぞ!」
 石秀の声も聞かず、史進は敵に突っ込んだ。もう夜が明け始めている。視界を官軍が埋めている。その先にも、また官軍がいる。どこまでもいた。
 史進はひとり突出して、そのただ中に飛び込んだ。陳達も、楊春も、誰も史進の勢いに追いつけない。
 官軍の怒号が渦巻く。
「きたぞ、討ち取れ!」
 史進は一瞬で囲まれた。包囲が縮まり、槍が史進を取り囲む。
 その時、史進の周囲で、敵兵の頭が音をたてて砕けた。大きな手で薙がれたように、続けざまに五、六人が倒れた。
(師父!)
 血の雨でかすむ史進の目に、巨大な僧形の姿が映った。

 低い空に、月が沈みかけている。
 その白色の光の中に、金山大師が血に濡れた般若雷を掲げて立っていた。




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