水滸伝絵巻-graphies-

第四章
地獄羅漢

第五章 龍門決戦

 薄明である。
 山が灰色に浮かび上がっている。地を這う朝靄の中、史進たちは敵に囲まれていた。
 般若雷から、血が滴る。官兵たちは、おののき、退いた。
「援軍だ──援軍を呼べ!」
 金山大師の形相は、慈悲でもなく憤怒でもなく、無念無想──その目には悲哀も後悔もない。刃の輝きがあるだけだ。
 官軍が退き、史進を包囲していた輪が広がった。崩れた包囲へ更に石秀が躍り込み、官軍は完全に崩壊した。陳達、楊春、僧兵たちも追いついてきて、弓を張り、槍を並べて防御の堅陣を組んだ。そのまま、一丸になって突き進んでいく。
 ここまで到達した武術僧は百余名。棍棒や拳法の達人揃いだ。
「金山大師をお護りせよ!」
 金山大師が前進する。史進、石秀が左右を支える。人々が続く。が、その耳には街道の彼方から響く馬蹄の轟き、喚声が届いていた。官軍の増援が着いたのだ。刻々と近づく振動、鯨波は数千を下らぬ大軍である。
 石秀は星を睨んだ。
(ここまでか)

 金山大師が敵の中心に向けて突進する。押し寄せる敵の援軍は怒濤のようだ。般若雷が矢を弾き、火花を生んだ。金棒が一閃するたび、官兵たちは折り重なって倒れていく。
「破壊僧め、地獄に堕ちるぞ!」
 官軍の将が罵った。その声が、夜明けの山にこだまする。
『破壊僧め、地獄に堕ちるぞ』
 こだまの声に、返事があった。
「──わしを呼んだか!!」
 同時に、官の援軍の後方で一群の男たちが奇声を上げた。彼らは前を塞ぐ官軍へ武器をかざして襲いかかった。官軍も、史進たちも、“官の援軍”と思っていた一群である。装束も官軍のものだ。その咆哮する群の只中には、一人の巨漢が立っていた。悠然と仁王立ちして、被っていた官兵の笠を投げ捨てた。史進の目が輝いた。
「魯智深!!」

「遅参した!」
“花和尚”魯智深。その一声とともに、六十二斤の禅杖が疾風を巻き起こす。魯智深は茫然とする官軍の兵たちの真ん中に道を拓いた。取り巻く男たちも一斉に軍装を脱いだ。現れたのは“丐幇軍”、いずれも乞食だ。東京、洛陽の丐幇を中心に、北京丐幇からも援軍があり、総勢三千人あまり。丐幇が誇る壮士たちが、官軍に紛れ込んでいたのである。
「どういうことだ!」
 伏兵を指揮する武将の声は、もはや悲鳴と変わりなかった。林霊素直属の道士軍の幹部である。思い当たることはあった。林霊素から道士軍を組織しろと命令され、数合わせに乞食や無頼漢を雇ったのだ。待遇はよく、給金もいい。たちまち人数が集まった。さすが道教の御稜威よ──と得意になっていたのは早計だった。
 丐幇軍は元通りの半裸に戻り、官軍を蹴散らしていく。
「金をもらって、ただ飯を食って、悪人退治だ!」
 彼らの先頭には魯智深がいる。薙ぐごとく、耕すごとく禅杖を振るう。官軍が掲げる篝火を浴び、その姿は燃え上がる阿羅漢である。
 丐幇軍の中には、“活閃婆”王定六の姿もあった。さらに登州莱山の“解の二勇士”、“双頭蛇”解珍と、その弟“双尾蠍”解宝。

 解珍は梁山泊席次第三十四位、解宝は第三十五位。見た者は必ず死ぬという双頭の蛇、猛毒の尾を二本もつ蠍という凶猛な二つ名を持つ兄弟は、山間の険路を縦横無尽に駆けめぐり、叉と弓で獲物を屠る生粋の狩人である。
 官軍は大混乱に陥った。伏兵の中に“敵の伏兵”が紛れていたという異常事態が、彼らを疑心暗鬼に駆り立てたのだ。逃げまどい、打ち倒され、官軍は味方同士で揉み合いながら逃げ場を求めて狂奔した。
 金山大師は自らも戦いながら、魯智深を見た。魯智深の見上げた目にも、金山大師の姿が映った。敵と味方は山腹に激しくぶつかる。登る者と下る者が揉み合って、乱れ、やがて分かれた。
 金山大師と魯智深が、ついに裏参道の口に並び立った。ふたりの阿羅漢の姿は、まさしく嵩山を守る仁王であった。



 凱歌があがった。“万歳”ではなく、“阿弥陀仏”の声である。
 魯智深たち援軍と史進らの奮闘によって、官軍は裏参道から撤退した。無防備の敵を伏兵で叩く──と思っていたのに、却って自分たちが奇襲で返り討ちになった形になり、官軍は体勢を立て直すことができなかったのだ。
 官軍は裏参道から潮が引くように退却し、南方の街道に布陣した。
 史進たちも、丐幇軍とともに“仏掌角”まで撤退した。裏参道の口は、解兄弟の指揮のもと、木を切り倒して封鎖した。二人は、他に官軍が登れる道がないか調べるため、すぐに山中に消えた。
 史進も束の間の休息をとり、魯智深との再会を喜んだ。
「助かったぞ、魯智深。なぜここに?」
 王定六も乞食たちに混じって飄々と立っている。
「骨が折れたヨ」
 解兄弟と魯智深を引き合わせ、各丐幇の壮士たちを道士軍にもぐりこませる手筈を整えるため、“活閃婆”王定六は走りづめだったのである。
「呉軍師は、人とも思えないネ」
 王定六は、魯智深に同行しながら、丐幇や梁山泊との連絡をつけていた。魯智深が少林寺に向ったことも梁山泊に知らせてあった。ほどなく、少林寺が戦場となると予測した呉用によって、山岳に精通した解兄弟が派遣されてきた。丐幇が動員できることも、当然、呉用は予測していた。
「会えたのは、軍師のおかげサ。そうだろ、和尚」
 魯智深は渋い顔で、史進に腰の瓢箪を投げた。
「俺に会いにきてくれたわりには、愛想がないじゃないか」
「ふん」
 魯智深は腰に瓢箪を鈴なりに吊っている。“葷酒、山門を入るを許さず”──に備えたものだ。魯智深は、自分でも瓠をとって、乾いた喉を潤した。その目は、史進ではなく、ひたと金山大師に据えられている。
 金山大師は、突如現れた“丐幇軍”を、いずこかの寺からの援軍と思っているようだ。僧形の魯智深に目礼したきり、軽傷の僧を指揮して負傷者の救護を行なわせている。さらに偵察や見張りを出すなども抜かりなかった。
 石秀も、陳達、楊春とともに周囲の警戒に当たっていた。松明を掲げ、裏参道の口を照らすと、薮が動いた。石秀が刀を掴んで襲いかかると、知った声が聞こえた。
「待て、俺だ」
「“張神剣”、生きていたのか」
 薮の中から這い出したのは、街道を探りに行った傭兵隊長の“張神剣”だった。
「下は兵隊で一杯だ。続々と集まってくる」
 寺の偵察にいった莫志も、ほどなく“仏掌角”に戻ってきた。
「北麓から、林霊素の本隊が登ってきています。寺にも、もう戻れません」
 報告を受けた金山大師は、大岩に座して、無言だった。
 彼らは、この狭い“仏掌角”に閉じ込められたのだ。“張神剣”張大道は元軍人で、官軍のやり口はよく知っている。
「朝になれば、山狩りをしてくるだろう。あるいは、林に火を放つ。龍門へ行こうにも、街道は通れない。ほかに道は?」
 張大道は金山大師に尋ねた。西へ続く山肌は木々に覆われ、薄明の空に浮かぶ稜線は険しくそそり立っている。
「道は」
 大師が言いかけた時、闇の中から別の声が答えた。
「──ない」
 松明の光の中へ、黄金の虎皮が這い出した。解宝だった。背後には、叉を手にした解珍が立っている。
「道はない」
 しかし、と兄弟は言った。彼らは登州莱山に生まれ、山中に獣を追って育った。自らも獣となって、数えきれない道なき峰を越えたのだ。
「人の作った道はなくとも、山は、どこへでも通じている」
 そして、兄弟は大きく胸を膨らますと、腹の奥から獣の咆哮を放った。
 大気を震わせる“葛氏禁気嘯”に、嵩山の峰々の獣が応じた。この峰から、次の峰へ、その彼方へ、咆哮はどこまでも連なっていく。
 山には、人の知らない獣の道が張りめぐらされているのだ。
 兄の解珍が、薛永に尋ねた。薛永は河南の生まれで地理に詳しい。
「薛永、龍門というのは、ここから西か」
 薛永が頷くと、解珍は曙に消え残った星を見上げて、ひとつの峰を指さした。
「西は、あっちだ」
 道はない。
 しかし、莱山の解兄弟は、空に、山に、進むべき“道”を読むのだ。



 松明が、ひとつだけ燃えていた。
 金山大師は目を閉じて、獣の咆哮が消えていくのを感じていた。そして、再び訪れた静寂のなか、かっと目を開くと、眼前に魯智深が立っていた。
 金山大師は、低く唸った。
 松明の光の中で、魯智深の顔はてらてらと輝いていた。頬の返り血こそ拭ったものの、墨染めの衣はまだ赤黒く湿っている。
(毘沙門天か、あるいは羅刹か)
 いずこの天より、なにを伝えんと降臨したのか──と、金山大師は刹那の夢を見た。
「いずこの寺の僧か」
「五台山で得度した、智真長老の一番弟子──“花和尚”魯智深」

「智真の」
「いかにも」
 魯智深は懐に手を突っ込むと、一粒の数珠玉を掴みだした。
「智真長老の数珠玉だ。こいつは、達磨という人だろう」
 魯智深は、東京での法闘の様子を簡単に語ると、金山大師の大きな掌に数珠玉を転がした。大師は、しばらくそれを眺めた。
「この数珠は、若い日に智真と宗論を闘わせた時、決着がつかず、かわりに交換したものだ」
 智真との宗論は、“智”と“武”についてであった。仏は慈悲を説きながら、護法の神将は剣を持つ。智と武は両立できるのか。勝つのは、どちらか。真に平和をもたらすものは、どちらなのか。
 金山は、あらゆる煩悩と戦うことが修行と唱え、智真はすべてに不昧を唱えた。それを悩むことが、すでに煩悩である──と。
 そして、二人は、それぞれの修行を完遂しようと、別の道を選んだ。
 金山は苦行荒行の武の道を、智真は只管打坐の智の道を──。
 しかし、道を分けることもなく、天地の間に果てしなく広がる荒野を、昂然と進んでいく者が、いま、金山の眼前に立っていた。
「魯智深よ──」
 金山大師は合掌した。
「道はなく、道の尽きることもなし──そなたは、その唯一の旅路を往く者か」
「なんの、そんな大したものではない」
 魯智深は、酒に濡れた鬚を拭った。そして、子供のようにニコリと笑った。
「わしは、あんたに会いに来たのだ」
 金山大師も闊達に笑った。
「それで、金山どの。これから、どうする」
 武術僧たち、傷ついた尼たち、信徒や丐幇のものたちも、みなが二人を凝視していた。金山大師は掌の数珠玉に目を落とし、みなの前に立ち上がった。その心は、自然と定まっていた。
「行かん」
 と、言った。
 魯智深は手に酒を満たした瓢箪を握り、目は大師を睨んでいる。
「仏の法とは、苦しみ、悩む者のためのもの。この栄える国の者たちが、悩みもなく利益を求め、苦しみもなく享楽のみを良しとするならば、もはや仏法は必要あるまい。われら、滅びん。だが、ただでは滅びぬ。最後の灯明をともして、西方へ去らん」
 金山大師は顔をあげ、夜明けに染まる西の峰を指さした。道なき嵩山の峰々である。彼方に──龍門。さらに西には天竺国、さらに果ては西方浄土だ。
「よかろう!」
 魯智深の顔に、一条の朝日が射した。
「地獄への道──この魯智深が先鋒をうけたまわろう!!」



 夜が明けるとともに、戦場の悲惨な光景は露わになった。清々しい朝日のなかに、無数の死体が転がっている。僧侶、官軍、尼も傭兵もいた。
 銀樹は震える唇を噛み、その光景を見つめていた。苦悶の目を見開いた死体も、ただ眠っているような死体もあった。
 流れ出た血が、銀樹の靴を濡らしていた。烏が、暗雲のように朝日を覆いはじめた。
 薛永の頬にも、血がこびりついていた。
 銀樹は自分の手巾を出して、その血を拭った。指先が、氷のように冷えていた。
「この世界には、ひどいことが……たくさんあるのだな」
「いいことも、あります。たくさん」
「──そうだな」
 薛永は銀樹と一緒に、横たわる彭尼の傷に膏薬を貼った。薛家伝来の膏薬は、止血と鎮痛の効果がある。彭尼はうっすらと目を開けて、再び、閉じた。
 李忠は灌木を伐り、担架を作っている。負傷者も、みな龍門へ運ぶことになっていた。龍門へは、死出の旅である。それでも、官軍に殺されるよりはいい──と、誰もが思った。
 薛永は、あるだけの膏薬を負傷者に貼って回った。その前に、石秀が立った。
「薛永、お前はあの子と逃げるんだ」
「石秀さん」
「二人で、どこへでも行け。龍門なんぞで死ぬ事はない」
 人々が、解兄弟の先導で動きはじめた。西へ、険しい峰を越えていくのだ。
 銀樹は膏薬の最後の一枚を老僧に与え、立ち上がり、石秀に尋ねた。
「そなたは、どうするのだ」
「俺は付き合いがいいんでね」
「史進も行くのか?」
「師父が龍門にいるらしい。挨拶しないと、弟子として不義理だろう」
 銀樹は、東の空へ目をやった。空は晴れ、朝日が眩しい。
「──そうか」
 銀樹は笑った。髪に挿した野の花が、朝風に散った。

「わかった。わたしは──東京へ行く」



「金山大師、わたくしは東京へ参ります」
 銀樹は金山大師の前に進み出ると、そう告げた。
「わたしは、父に会う。言いたい事がたくさんあるのだ。こんなことは、許されてはならぬ。誰かを苦しめて、繁栄する国など間違っている。人は、おのれの信ずるものは、自分で決めるべきではないか。わたしは、みながこのまま、まるで存在しなかったように死んで、忘れられていくことが、耐えられない」
 銀樹の姿は堂々として、その声には強い決意が満ちていた。
「だから、わたしは東京へ行く」
 薛永は、すべてを理解した。史進が言った。
「お姫さま、“仇討ち”はいいのかい」
 史進にも、銀樹の気持ちは分かっている。
 銀樹は頷いた。
「もう、そんな事はどうでもよい」
 金山大師は、黙って銀樹の言葉を聞いていた。そして、懐に手を入れると、一粒の数珠玉を取り出した。
 金山大師が智真長老と交換し、智真長老が魯智深に託し、魯智深がまた金山大師に届けた、達磨大師の数珠玉である。数珠玉まで、血が染みていた。大師は太い指先で血を拭い、それを銀樹の掌に置いた。
「……人の命は、数珠玉を繋ぐようなもの。人と人が、環となって連なり、続いていく。帝姫よ、あなたの命も」
 金山大師は、数珠玉ごと銀樹の掌を両手で包んだ。
「ご自分の命も、長い長い数珠の、一粒であることを、いつも忘れてはなりませぬぞ」
 その掌のぬくもりと共に、銀樹には分かった。大師が、“生き延びよ”と伝えているのが。なにがあっても生き続けろ──と。
 銀樹には、ずっと聞きたかったことがあった。
“天に三日あり、望月輝く”
 出生の時の“不吉な預言”の意味を聞けるのは、これが最後かもしれない。
「大師さま」
 言いかけて、やはり銀樹は聞かなかった。代わりに微笑みをたたえ、数珠玉をぎゅっと握りしめた。
「父に願って廃仏を止め、必ず、戻ります」
 史進が、ぐいと薛永の背中を押した。
「薛永、一緒に行け」
 薛永はためらった。史進は背後の負傷者たちの方へ顎を向けた。瀕死の尼たちの中から、彭尼が鉞の柄を杖に立とうとしている。李忠がそれを押し止めていた。
「彭尼に行かせるつもりか? 薛永、お前のほか、誰が命懸けで銀樹を守れる」
「でも、僕は」
「行け!」
 史進は薛永の胸に棒を投げた。



 朝焼けのもと、薛永と銀樹は南の麓へ下って行った。官軍がいる北麓、街道を避け、険しい斜面を、谷川沿いに下りていくのだ。薛永は先に立って薮を切り開き、銀樹を支えた。二人の姿は、すぐに灌木の向こうに見えなくなった。
「世話のかかる男だ」
 李忠が、あくびとも、溜め息ともつかない息を吐いて、腰を伸ばした。
「若いってのは、いいもんだ」
 早朝の空気は、こんな時にも爽やかだ。
「ほかの怪我人を……」
「生きている者のなかでは、あんたより傷の重い者はおらん」
 李忠は急ごしらえの背負子に彭尼を座らせ、担ぎ上げた。
 解珍と解宝が先行し、山へ分け入っていく。暫く行って振り返り、叉を掲げて何度か振った。行けそうだ、という合図だ。
 みなが立ち上がり、朝日を背に歩きはじめる。負傷者を背負い、枝の杖にすがり、互いに肩を貸しあって、西の稜線へ向って進む。
 一歩一歩、ゆっくりと。
 時遷は、王定六と目配せしあった。
 彼らは“伝令”である。動きがあれば、なんとしても梁山泊に伝えるのが役目である。間に合う、間に合わないは、問題ではない。
「どっちが行くかィ」
「わいやな」
「オレの方が速いヨ」
 時遷は肩にとまったネズ公を懐の奥へねじ込んだ。
「身が小さいんは、こないな時に便利や」
 そう言うと、時遷はひとり山を覆う薮の中へと消えていった。
 史進もまた、ちらりと薛永たちの去った南へ振り返り、大きく一歩、地を蹴るように踏み出した。

「──行こう。龍門へ!」



 林霊素が少林寺に着いた時には、太陽はすっかり昇っていた。
 金山大師を捕らえ、勝利を味わうつもりだったが、山はもぬけのからだった。
 林霊素は、もともと節度使軍の到着を待って総攻撃をかけるつもりだった。しかし、僧たちが脱出を始めたため、急遽、伏兵を派遣した。正面からも本隊が攻め込んだが、打ち出してきたのは三人ばかりで、境内には犬一匹残っていなかった。
(かまわん。問題は、金山だ)
 金山大師は、この“謀叛”の首謀者である。金山大師さえ討ち取れば、“謀叛鎮圧”は既成事実だ。
 林霊素は、焼け残った達磨堂に入り、討ち取った金山大師の首実検を行なった。林霊素は大師の顔を知っている。
「これは金山大師ではないぞ!」
 林霊素は、運ばれてきた天窮和尚の首を蹴りつけた。首はごろごろと転がって、達磨像の足に当たって、止まった。虚ろな目が、林霊素を見上げて笑っていた。
 林霊素は苛立った。明日には東京で、郭道士に命じた“奇跡”が起こる。それと同時に、『林元帥、大叛乱ヲ鎮圧ス』の急報が、御前に届くよう仕組んであるのだ。
「金山を探せ」
 林霊素は配下の道士たちに命じた。
「生きていても、死んでいてもよい。捕らえた者には、黄金百斤くれてやる!」
 道士たちは目の色を変え、先を争って出て行った。達磨堂の扉が揺れる。その隙間から、猫児が音もなく滑り込んできた。
「節度使軍は?」
 林霊素は不愉快な顔をしたが、衛兵を呼んだりはしなかった。
「むろん、出陣させる。間もなくだ」
 猫児の油断のない眼差しが、達磨堂の暗がりの中できらりと光った。
「催促ではなく“命令”なさい、と貴妃様よりの御忠告です。あなたは陛下より元帥に任じられているのだから、従わなければ、節度使どもも謀反人です」
「その慕容貴妃はどこにいるのだ?」
「お役目を終えて、お帰りです。私は、もっと大事な用件で来たのです。栄徳帝姫が、東京へ向いました」
「帝姫が?」
 猫児はじれったそうに頷いた。
 慕容貴妃は最後まで抜かりのない人物である。このような不測の事態に対応するため、腹心の猫児を残して行ったのだ。
「帝姫は、父親にあなたの悪行を訴える気でしょう。貴妃の存在も知っている」
「あまり喜ばしいことではないな」
「帝姫は、街道を馬で東へ向っています。護衛はひとり──簡単に殺せます」
「お前、金山大師の行方も知っているのではないか?」
「調べましょう。分かったら、教えます」
 猫児は濁した。
(私の役目は、この騒乱を大きくして、戦を起こさせること)
 戦が長引き、さらに大きくなり、節度使軍が出動するまでにならないと、慕容貴妃の野望は達成できない。
 林霊素は、疑い深い目で猫児の顔を凝視している。
「慕容貴妃の、本当の目的はなんだ」
 猫児は小さく舌打ちした。
「ぐずくずしていると、間に合わなくなりますよ」
 貴妃に似た生意気な口振りが、林霊素の癇に触った。
「お前、あいつの弟子だったな。なんといったか、契丹の女……犬か、狐だったか」

「“白骨猫”」
「そうだ、あれは使える刺客だった。飛刀、毒、変装も達人だったな。侍女の“月仙”に成り済まして、王皇后に毒入りの月餅を食べさせた。お前は、なぜ尼にでも変装して、帝姫を殺しに行かぬのか?」
「師匠は師匠。私は、変装はしない。いいから、早く帝姫を追いなさい」
 そう言い捨てて、猫児は達磨堂からまた音もなく滑り出た。
 そのまま境内の松の梢に隠れて見ていると、ほどなく五十騎ほどの兵が寺を出ていった。それを見届け、猫児は少林寺を後にした。兵の目を避け、ぶらぶらと山を下っていく。
(かわいそうな、金奴姫)
 猫児の手には、赤い服を着た小さな布人形が握られていた。
 猫児も師匠の“白骨猫”から変装術を仕込まれている。幼い頃、小宦官に変装して皇后宮に潜入し、慕容貴妃に情報を流していたのも猫児なのだ。
 一緒に遊んだ金奴のことは、よく覚えていた。
 猫児が盗んだ人形を、あげたと言って、かばってくれた。
(貴妃様には逆らえないけど……私の手では、殺さないであげる)
 それがせめてもの“友情”だと、猫児は信じて疑わなかった。
(さようなら、金奴姫)
 猫児は人形を手に、眩しい日差しの下を歩いていった。そして、ふと風の音を聞いた気がして、後ろを振り返ろうとした。
 その瞳に、空中できらりと光るものが映った。次の瞬間、猫児の首は断ち切られて、毬のように地に転がった。
 手には人形を握り、不思議そうに見開かれた瞳には、晩夏の青空が鮮やかに映り込んでいた。

「やったのか──あの娘を」
 林霊素は、血に染まった湾刀を手に戻ってきた怪道士を見て、眉をひそめた。
「貴妃の目的はまだ知れぬのだから、なにも、そこまでしなくとも」
「“秘密”を知っている者は、少ないほどよい」
 布の下で、怪道士は林霊素の気弱を笑ったようだった。
 林霊素も、それ以上は言わなかった。
 そろそろ“追手”が金奴姫に追いつく頃だろう。
“通真達霊元妙先生”林霊素の成功も、着実に近づいていた。



 薛永と銀樹は、麓の農家で馬を借り、街道を東へ向っていた。
 金山大師が、庭に麻が植えられたその家に、少林寺の馬を預けていると教えたのだ。
 粗末な厩から引き出されたのは、美しい白馬だった。経典を運んだり、老僧の馬車を牽く役目の馬で、世話をしていた片目の老農夫が、名前を教えた。
「“ルパヤティ”、梵語だよ。わしは梵語が分かるんだ。でも呼びにくいから、漢語で“示現”と呼んでいる。“あらわれること”だ」
“示現”はおとなしい馬だったが、脚は非常に速かった。馬は一頭しかいなかったので、薛永が銀樹を鞍の前に乗せていたが、二人を乗せても速度は少しも衰えなかった。

 相乗りで街道を駆ける二人は、兵でもないし僧でもない。追及される恐れはなかった。傍目には、駆け落ちする若い恋人にしか見えないだろう。
 西京洛陽から東京開封までは、距離にして四百里余り。飛ばせば半日もかからない。街道は整備され、平坦で走りやすかった。
 太白もしっかりと後をついてくる。その太白が、急に吠えた。薛永が振り返ると、後方に砂塵が舞い上がっていた。砂塵はどんどん近づいてくる。やがて姿が見えてきた。武装した軽騎兵だった。
「あの娘を捕らえろ!」
「追手だ、なぜ!」
 薛永越しに後方を覗いた銀樹の側を、矢がかすめた。薛永は馬に鞭を当てたが、すでに疲れ始めていた“示現”の脚は却って鈍った。
(このままでは、追いつかれる)
 薛永は、手綱を銀樹に握らせた。
「乗馬の練習をしたことは?」
「宮殿にいた時に、少し」
「良かった」
 薛永は鞍にかけていた棒を取った。そして、速度を落としはじめた馬から滑り下りた。銀樹はすぐにすべてを察し、自分も馬から下りようとした。
「薛永、わたしも戦う!」
「このまま、街道を真っ直ぐに」
 進みなさい──と、薛永は棒で思い切り“示現”の尻を打った。

 銀樹が振り返ると、薛永は、棒を手にして、街道の真ん中に立っていた。
 擦り抜けようとする敵に攻めかかり、棒で馬上から落とした。薛永は、兵士を一歩も先へ通さなかった。兵士たちは剣を抜き、薛永を取り囲んだ。
(薛永──薛永)
“示現”は走る。その名と真逆に、薛永の姿が敵の中へ消えていく。
(死なないで)
 涙をふりしぼり、銀樹は前を向いた。風が唸る。

(もう、誰も、死なないで!)
 風に涙の粒を散らし、銀樹は手綱を握りしめた。
 視界は滲み、行く手には、なにも見えない。見えない道を、“示現”は走る。
 いまわしい東京へ。
 希望もない宮殿へ。
 無情の父親のもとへ。



 伊水の水面を、ひそやかに誦経の声が渡っていく。
 打ちひしがれた心を慰め、死に行く魂を癒す声である。
 龍門に隠れた僧侶たちの顔は、どの顔も安らかだった。ここで最後の法要をして、即身成仏するのである。必ずや、天界に輪廻できるであろう。
 長安・大慈恩寺から逃れてきた高僧が、土檀の上に座して説く。周囲には、迫害から逃れてきた信者たちが集まっていた。
「人の最も重い罪は殺生である。その殺生の中でも、人が人を殺す“断人命”の罪が最も重い。なぜか。魂が人の身に宿るは、大海の底より盲の亀が百年に一度、浮かびあがり、たまたま漂っていた流木の穴に、その首を突き入れるほどの奇跡である。ならば、なぜ人が尊いか。それは法を聞いて悟りを得、輪廻から解脱することができるからである」
 夏の終り。清澄な河のほとりには、心地よい風が吹いている。
 すでにそこは浄土であった。
 すでに死んだ心は、平穏であった。
 絶望は甘美で、このままなにもせず、ただ終りを待てばよい──臨終には、五色の雲が御仏を乗せて彼らを迎えに来るだろう。
 人々は念仏を唱えた。
 その鼻腔を、つんとした血の匂いが刺激した。
 目を上げると、どこからか僧侶が現れた。河原をよろめきながら石窟へ向ってくる。はじめは一人、続いて、何人かで連れ立って来るのが見えた。傷つき、支えあっている者たちもいる。尼もいた。
 亡者の群と見紛うような、疲れ果てた人間の行進だった。僧もいる。在家もいる。乞食も武芸者もいた。
 その姿に、龍門の人々は、誦経も忘れて見入っていた。



 その日、天子は東京の宮殿にいて、午睡の夢にうなされていた。
 うなされ、起きると、びっしょりと汗をかいていた。宦官たちに肌を拭かせ、御衣を換えると、義兄であり親友の王都尉がやって来た。
 王皇后の兄である王晋卿は才人で、若い時から天子と気が合い、寝室にも出入りを許されているのである。
「ご不快と聞いて駆けつけました……いかがなされた?」
 淡い蝋燭の光の中で、王都尉は寝台の天子に囁いた。
「なにか、夢でも」
「うむ……よく覚えておらぬのだが、巨大な炎を見たようだ」
「それは、お上」
 王都尉は、はっとしたように口をつぐんだ。
「どうした」
「いや」
「申せ」
 王都尉が連れてきた若い従者が、部屋の隅で香を焚いていた。甘い香りで、眠気をさそう。しかし、天子の胸は妖しく騒ぎ、このまま眠れるようには思えない。
 このごろは、宮中での宴も、お気に入りの街の妓女・李師師のところへ“おしのび”で遊びにいくのも控えている。憂えることが多すぎるのだ。
「太子は廃仏を嘆き悲しみ、病床についてしまった。大臣の中にも反対する者が多く、宿元景太尉などは、道士たちの悪行を告発する分厚い上奏文まであげてきた。蔡京を罷免したが、政のことも滞りがちと聞く。しかし、朝令暮改はよろしくなかろう」
「君子豹変すとも、申します」
 天子は従者が勧める甘い薬湯を口にして、溜め息をついた。
「なぜ智真は反対するのか。林霊素が奇跡を起こして怪異を鎮めたのは事実ではないか。ただ仏教を道教に統合し、もろもろの呼び名も変えるだけ……なんの嫌がることがある」
「智真長老に……お会いになられては?」
「朕が?」
「みずから説得なされたら……きっと」
 王都尉の声が、遠いような、近いようなところから聞こえていた。
 さらに、もっと遠いところから、天人のように美しい声が聞こえた。
「智真長老が参られました」

 扉が開くと、一頭の獅子が飛び込んできた。皇帝はあっと叫んで後ずさった。咆哮する獅子のたてがみは燃え盛り、その中には文殊菩薩が立っている。手には剣と蓮華を持ち、その目は笑っているようなのに、皇帝は恐ろしさに卒倒した。

 目覚めると、皇帝は寝台で眠っていた。
 窓から陽光が斜めに差し込んでいる。しばらく、いまが朝なのか、夕方なのかも分からなかった。すぐに、鄭皇后がやって来た。王皇后のあとに冊立された寵姫のひとりで、皇子を産むことはなかったが、温和な人柄の賢婦だった。
 皇帝は鄭皇后の手を取った。
「皇后よ、いま、ここに王都尉がいなかったか」
「いいえ、きっと夢をご覧になったのでしょう」
 宦官に聞いても、誰も部屋に入った者はいないという。
「おかみは、ぐっすりとお休みでした」
「そういえば……」
 皇后は、ここへ来る時に不思議なものを見たと語った。
「あちらの廊下で、背の高い白衣の老人を見たのです。後ろ姿で、顔はよく分かりません。まるで雲に乗ったように、あっという間に姿を消してしまいました」
 宮廷に、あのような老人がいたでしょうか──と、鄭皇后は気味悪そうに首をかしげた。



 最後まで、非道に抗う。
 その決意を胸に、少林寺を逃れた人々は、龍門に辿り着いた。彼らは解兄弟の先導で、夕刻、剣山、荒野を身を隠しつつ踏破してきた。消耗し、疲れ果てていた。途上に果てた者も多かった。
 それでも、夕日に照らされる石窟を見上げる顔には、安堵と喜びがあった。

 龍門石窟は、伊水の両岸にそびえる岩山に築かれた、巨大な石窟寺院である。
 掘削は北魏に始まり、仏教の栄えた唐代に特に多くの石窟が造られた。大小の仏像が岩窟に鎮座し、壁面には極彩色の極楽図が描かれている。
 その地上の極楽世界が、まもなく、宋国仏法の終焉の地となるのである。
 殉教者たちを率いるは、金山大師。その衣に染みた鮮血は西風に乾き、かさかさと音をたてていた。手にした金棒“般若雷”は、何十人もの兵の頭上に落ちたが、磨き抜かれた鋼は血痕を止めず、夕日に光り輝いている。
 石秀は金山大師を守り、史進は最後尾についていた。
 最後尾は負傷者の集団で、集団から遅れていた。李忠が彭尼を背負っていた。彭尼は苦しげだったが、泣き言は洩らさなかった。
 山を越え、道はしだいになだらかになる。麓の平野が見えてきていた。斜面に秋の花が咲き始めている。史進は、崩れた崖に咲いている赤い花を何本か摘み、彭尼の懐に挿してやった。
「……故郷の山にも、咲いていたわ」
 気まぐれでしたことだったが、彭尼は喜んだ。
「むかしは、髪に挿すのが、好きだった」
「歌でも歌うかい」
 彼方に、銀色に輝く伊水の流れが見えてきていた。
 龍門の周辺には、官軍の姿は、まだ見えない。
 しかし、遠からず知られることになるだろう。

 龍門の石窟寺院には、すでに数百人の僧侶が隠れ住んでいた。法難と戦う者は少林寺へ集まり、経典を守ろうとする者は龍門へ集まったのだ。
 それが、いま合流した。少林寺から逃れた者たちと、合わせて三千余りの人数になった。
 隠れていた僧侶たちは、迷惑げだった。
 彼らは抵抗を放棄し、即身成仏すべく断食と誦経を続けていた。何人かは、すでに餓死して、伊水に葬られたと云う。
 食料の備蓄は少なかったが、先に山を下りていた乞食たちが、どこからか食べ物を調達してきた。もとよりあった鍋釜のほか、灰を捨てた青銅の線香立てまで使い、雑穀や豆の入った粥が大量に煮られた。巨大石仏の足元に、もうもうと湯気が立ち上る。
 金山大師は、湯気の中にみなを集めた。
「釈迦牟尼が身を棄てたのは、飢えた虎を養うため。自ら犠牲に志願したのは、みごもった鹿を救うため──自らの往生のためではない」
 食を拒む僧たちに、金山大師は粥を食わせた。
 史進たちは大きな石窟の前に車座になり、金物の鉢を鍋がわりに雑炊を煮た。乞食たちは、肉や卵のたぐいも調達していた。
 石秀は供物皿に雑炊をたっぷりすくい、魯智深に渡した。
「“最後”の飯だ、豪勢にいこう」
 石秀は勺で鍋底から大きな肉の塊をすくいあげ、史進の皿に足してやった。
 陳達たちは、黙々と食う。薪がわりに、ふるぼけた仏像が焚き火の中で燃えていた。
 火を見つめ、李忠がぽつりと言った。
「勝算は?」
 楊春が答える。
「さてな」
 もう一杯──と、陳達は鍋に手を伸ばした。
 魯智深は最後の瓠の酒を飲みながら、金色の伊水を眺めている。沈みゆく西日を浴びて、溶けた黄金が流れるようだ。
 河原を這うようにして、まだ僧たちがやって来る。少林寺から別の道を逃げたものもいるし、野に隠れていた信者もいる。
 金山大師も、盧遮那仏の前に立って、それを見ていた。
 彼らはみな、死ぬために、ここへ集まってくるのだ。
(いや、生きるためだ)
 最後まで、今この瞬間を、よりよく生きるために。過去もなく、未来もなく、ただ今を生き延びるために。
(強ければ──)
 と、大師は考えた。
 かつて大師は、「強ければ、すべての困難に打ち勝てる」と信じていたのだ。生涯に戦った多くの人の顔、顔も覚えていない人々の姿を、大師は思った。
 なにかを求め、なにかを守ろうと戦ってきたつもりだったが、いまはその手には、なにもない。
 大師の手が、静かに法衣の胸を押さえた。
 魯智深が空の瓢箪を手に、のそりと大師の隣に並んだ。
「酒はありませんかな?」
 金山大師は、黄昏の中に振り返り、笑った。
「酒があれば、楽しかろう」
 夕日が美しい。

 この夕日を見るために、自分は生きてきたような気がした。厳しい修行も、戒律も、瞑想も座禅も、真に彼を癒すことはなかった。
 石窟では、法難で死んだ人々のため、ささやかな法要が行なわれていた。残り少ない香をすべて焚き、その香りが静かに流れる。
(どのように強くても、どのように智慧があっても、人は、人の“非道”に負ける)
 教えは、救いだ。
(しかし)
 人は──“生きる”ことでしか、真には癒やされぬのだ。



 節度使“老風流”王煥は思案していた。
「坊主と道士が戦だと? そんなものは、あの世ででもするがいい」
 美しい侍女たちが、王煥を取り巻いている。扇で風を送ったり、茶を注いだり、果物を剥いたりと、かいがいしい。
「白馬寺は打ち壊され、少林寺も火の海だとか……」
「まぁ、おそろしいこと……」
“月李”が耳にした噂を話すと、“百合”が淡く刷いた眉をしかめた。
 王家のものは、主人の王煥からして仏教徒だった。信心はさほどではないが、よく寺参りに出かける。侍女たちも、寺参りは楽しみであった。
「もう放生会などもないのかしら」
“海棠”も僧侶に同情的だ。王煥は控えている部下に尋ねた。
「それで、太原の徐京はなんと言っている」
「“病ゆえ出陣できず”と、先のばしにしているとのこと。しかし、火のような催促が早馬で通っております。いつまで勅命に逆らえるかは」
「徐京も義侠心にあつい男だからな、さぞ困っているであろう。山西の国境には契丹人がうろうろとしている上、徐京の管轄内で田虎とかいう山賊が派手に暴れている。近々、王を僣称するという噂もある。そんな時に、うかつに任地を離れたくはなかろう。道士の権力争いごときのために」
 王煥は“芍薬”に肩を揉ませながら考えている。若年より“風流”で知られた王煥は、無粋なことには手を染めぬ主義なのだ。
 しかも、僧侶が負けるのは、目に見えている。
 王煥は、手に古びた櫛を持っていた。美しいが、そうとうな昔に流行した装飾の女物の櫛である。
「よし、決めた!」
 王煥は櫛を手に勢いよく立ち上がった。“牡丹”が尋ねた。
「どちらへ?」

「もちろん、龍門だ。支度せい!」
 侍女たちは慣れた手つきで王煥に甲冑を着せ、“水仙”と“茶花”が二人がかりで愛用の槍も運んできた。
 準備が整うと、王煥は白髯をたなびかせ、大股で屋敷を出ていった。
 威勢のよい声が、侍女たちの耳に響いた。
「われこそは老王煥、覚悟しておけ!」
 残された侍女たちは、首をかしげた。
「旦那様は、どちらの援軍をされるのかしら?」



 銀樹は東京へと街道を駆け続けた。
 太陽はどんどん傾いていく。午後──街道には人が多かった。まるで、なに事も起こっていないかのように、人々が行き来している。
 必死に馬にしがみついて行く少女に、怪訝な目を向ける者もいたが、それ以上に気にする者もいなかんた。
 銀樹が育った尼寺には、もちろん馬などいなかった。しかし、銀樹は巧みに御した。
 宮廷で暮らしていた頃、兄と一緒に乗馬の稽古をしていた感覚が蘇ったのだ。兄は馬を怖がって泣いたのに、金奴は平気で御苑を走り回った。
 金奴姫は、賢くて、勇敢だった。
(必ず父に会い、慕容貴妃の陰謀を暴き、官軍を止めてみせる)
 銀樹ははじめて、亡き母ではなく、いま生きている人々のために駆けていた。
 白馬“示現”は、よく走った。途中、親切な農家で水と飼い葉を貰い、四百里の道を完走した。

 西日の中に、東京開封の城壁が見えてきた。城門は開かれている。新鄭門から入り、道を尋ねながら州橋を渡って大相国寺の脇を宮城へ向って進んだ。宮城を出る時は深夜だったので、初めて見る東京の街だった。きらびやかで、大勢の人で賑わい、騒がしかった。みな浮かれ、楽しそうで、この世のどこかで戦いがあることなど、想像もしていないように見えた。
 宮城は、開封城の北より、龍台と呼ばれる高台にある。
 銀樹は疲労に気を失いそうになりながら、力を振り絞り宮城まで辿り着いた。その壁や瓦の様子は、かすかに記憶の中にあった。銀樹は、門を見つけて駆け寄った。しかし、衛兵がいて、当然、途中で阻まれた。
「わたしは、永徳帝姫だ。父上に会いたい」
 馬上から告げると、衛兵たちはきょとんとして、やがて顔を見合わせた。
「これはこれは美しい帝姫さま……どちらの父上をお探しですか」
「皇帝陛下に決まっておろう。門を開けよ!」
 衛兵たちは笑いだした。
「おまえのような汚い帝姫がいるものか。可哀相に、頭がおかしいんだな」
 銀樹は打ち水用の水をかけられ、宮門から追い払われた。
 通行人も、みなが笑って銀樹を指さしていた。半日、街道を走り続けて、髪は乱れ、服も埃にまみれていた。耳飾りひとつつけていない。馬具は村人の粗末なものだし、乞食よりもみすぼらしい格好だった。
 銀樹は宮門を離れると、また人に道を聞きながら、城内を西へ向った。大臣たちの邸宅が並ぶ一角である。そのうちの、最も豪奢な屋敷のひとつを目指した。そこでも、門番に棒で打たれて追い払われた。
「物乞いは、裏へ回れ!」
 倒れた銀樹を、門番はさらに打とうとした。
「さっさと、どくんだ!」
 銀樹は門前から追われ、地面に倒れた。その時、門が開いて中から華麗な行列が現れた。美しい衣装の人々が、立派な馬に乗って出てくる。その輝くような行列の中心に、彼女の伯父──“王都尉”王晋卿がいた。
 王晋卿は亡き王皇后の兄であり、皇帝の一番のお気に入りである。護衛が多く、また見物人も集まってきた。
 銀樹は道端に倒れたまま、叫ぼうとした。しかし、銀樹を狂人と思ったのか、門番に棒で体を押さえつけられている。顔は地面に押しつけられ、息をすることもできなかった。
 華やかな東京の街へ、行列はどんどん通りすぎていく。王晋卿は堂々と馬を進めながら、一瞬、地面に倒れた少女へ目を向けたが、馬はそのまま通りすぎた。

(乞食娘か)
 彼は、裏口に回れば誰にでも施しをするよう命じている。あの娘は、その決まりをまだ知らないのだろう。
 行列が離れると、門番はやっと銀樹を離した。
「ほら、裏口に行って、飯でももらいな」
 銀樹は、よろよろと立ち上がった。途方にくれた。伯父すら、彼女を覚えていないのだ。実際に、この十年、一度も会ったことはなく、手紙もなかった。執事の名義で、季節ごとの贈り物は届いたが、それだけだ。尼寺にいると分かっているのに、この法難にもなんの処置もしてくれなかった。
 十年という歳月は、ひとりの不幸な姪を忘れるには、十分な年月だったのだ。
 銀樹は、無力を思い知った。帝姫ですらなく、家族もない。東京には百万もの人がいるのに、“趙金奴”を愛する者は、ただの一人もいないのだ。
(おかあさま……)
 泣きかけた銀樹は、ふと、誰かを探すように顔を上げた。邸宅の塀の向こうから、懐かしい香りがした。七里香──銀木犀の香りだった。
 銀樹は歯を食いしばり、もう一度、立った。行列はすでに、はるか彼方だ。
 行列の見物を終えた人々が、噂している。
「王都尉は艮獄に行かれるんだな。今日、林教主が奇跡が起きると予言したんだ」
「天子も御幸なされるらしいぞ」



 艮獄は、宮城の東北にある大庭園である。
 皇帝が道士の予言に従って造園した。園林の周囲は六里。内部には、築山、山林、湖沼などを人工的に配している。それを全国から取り寄せた奇石や珍奇な植物で飾り、稀少な動物を放し飼いにして、地上の楽園を出現させしめているのである。花石綱の禍も、この庭園の造営のために起こったといっていいほどである。普段は皇族と貴族官僚の遊楽の場だが、祭日には庶民にも開放されることがある。
 今日も、“天仙の奇跡”を民衆にも見せてやろうという皇帝の思し召しにより、特別に門が開かれていた。
 園内の寿山では、すでに郭京が道士を引き連れて皇帝の到着を待っていた。
 今日、皇帝の面前で寿山に据えた巨大な太湖石が粉々になり、中から青華帝君の玉像が現れるのである。空にたなびく五色の雲を演出するための、色をつけた米粉、まい飛ぶ鶴も準備してある。皇帝が驚愕したところへ、しめしあわせた“使者”が、早馬で林霊素の『謀叛鎮圧』の報を届ける手筈なのだ。
(玉像の顔は、林教主そっくりに作ったからな。効果的だ)
 さらに中は空洞にして、鏡と蝋燭をしこんであるから、双眸は爛々と輝いて見えるはずである。そういう“演出”が郭道士は得意だった。
(林教主についていると、本当に勉強になる)
 その林霊素が、いつ“実際の勝利”を得るかは分からないが、多少“奇跡”と前後しても、なんとでも屁理屈はこねられる。
(陛下はまだかな)
 御門の方が、すこし賑やかになってきたようだった。

 宮城を出て、艮獄に入った皇帝の輿には、寵臣の王都尉と、護衛の金吾軍が従っていた。護衛を率いる金吾将軍は曹晟という、これもお気に入りの青年将校である。彼の祖父は、“宋良将第一”と讃えられた名将・曹彬で、城を攻め落とすのに、ひとりの人も殺すことがなかったという仁愛の人として尊敬を集めている。その薫陶を受けた曹晟も、名門の子弟には珍しい気骨のある若者だった。部下もみな、精悍な若者たちだ。彼らに守られ、天子の輿はゆるゆると寿山に向って進んだ。
 小道は掃き清められ、蘭が咲き乱れるなかを孔雀の群が餌をついばんでいる。
 まさに神仙世界の趣だが、輿の中の皇帝の顔色は優れなかった。
 従う王都尉が、皇帝の気を紛らわすように話しかけた。
「いったい、どのような“奇跡”でしょうな。あの智真長老にも、今日の奇跡を見せたら、考えが変わるかもしれませんぞ」
「長老は飲食を断ち、一心に文殊菩薩を念じておる。もう、起き上がることもできぬのだ」
「では、遠からず……」
 皇帝がみずから説得しても、智真長老は改宗を受け入れなかった。その憔悴した姿は、感受性の鋭い皇帝に、強い衝撃を与えたのである。
 以来、天子は悪夢に悩まされている。
 横たわる智真長老の背後に、天を衝く文殊菩薩が立ち上がり、雷のごとく炯々と輝く目で、ひたと天子を見据えるのである。
(朕は、なにか間違っているのだろうか?)
 しかし、今日、“奇跡”を目の当たりにすれば、この迷いも晴れるだろう。

 輿が、向こうの小道を進んでいく。
 銀樹は薮の中を這っていた。なんとしても、皇帝の輿に近づくつもりだ。
(殺されてもよい)
 銀樹は枝に肌を刺されながら進んだ。
 そして、薮から飛び出すと、護衛を押し退け、輿の前へ飛び出した。
「ただちに廃仏を止めよ! みなを助けよ!」

 すぐに護衛隊が銀樹を捉えた。押さえつけられ、銀樹は暴れた。異様なものを感じ、曹晟は剣を抜いた。銀樹につきつけ、輿を通過させようとした。
「お行きください、陛下」
 皇帝が、御簾の中から顔を覗かせた。
「なにごとか、その娘は何者」
「頭のおかしい、乞食娘が……」
 皇帝は、押さえつけられた娘の顔を一瞥した。王都尉が不審げな顔をしたが、輿は、そのまま銀樹の脇を通り抜けていく。
 銀樹は叫ぼうとした。しかし、喉が詰まったように、声がでなかった。銀樹は泣いた。泣きながら声もなく叫んだ。
 輿は遠ざかっていく。
 その動きが、ふいに止まった。
 皇帝が再び顔をのぞかせ、いぶかしげに銀樹を見た。

 そして、言った。 
「──金奴か」

 いちばん驚いたのは、銀樹──金奴自身だった。
 凍りついた十年の時が、一瞬で飛び散ったように感じた。皇后宮、母親の微笑む顔、髪をなでる大きな父の手──。
 晴れ渡った空に、声が響いた。
「……おとうさま!!」
 頬を濡らす涙を御衣で拭うと、亡き皇后にそっくりな顔が現れた。
 泣きじゃくる娘を胸に抱いて、皇帝は空を仰いだ。
「奇跡とは、これだったか」



 夕刻。東京の郭道士は、いそいで林霊素に報せを送った。
 結局、天子は林霊素が仕込んだ“奇跡”を見なかった。十年ぶりに会う娘を宮城に連れ帰り、その後のことは、分からない。
 王都尉、宿元景という“反廃仏派”の官僚が集められているのは確かだ。廃仏に反対して罷免された蔡京も呼び戻された。
(“法難”は終了か?)
 郭道士は夕日を睨んだ。
(いや、間に合わぬ)
 戦いは、おそらくもう始まっているだろう。あるいは、すでに終わっている。
 少数の僧侶たちに、勝ち目はない。
(坊主どもが全滅すれば、結局は“廃仏”だ)


 同じ夕日が、金色に伊水を染めていた。夏枯れで、水量は少ない。
 それが、かえってきらきらと太陽を反射して、美しかった。
 しかし、一帯の空気は、殺伐とした戦塵に包まれている。
 龍門の僧侶たちが最後の食事を終えてほどなく、林霊素率いる官軍も続々と伊水のほとりに到着した。
 官軍は、広々とした南岸に布陣した。龍門石窟は伊水の両岸に造られているが、盧遮那仏のある北岸に主要な石窟が集まっている。僧侶たちが立てこもったのも、この北岸である。
 僧侶たちが、龍門への行脚をはじめたという情報は、もっと早く林霊素にも伝わっていた。彼は、僧侶たちが龍門へ集まるまで待っていたのだ。“反乱軍”の数が少ないと、殲滅しても効果的ではないからだ。
 林霊素は、伊水を渡って北岸に攻め込むつもりだ。
 龍門石窟は有名な仏教の聖地である。仏法滅亡の舞台として申し分ない。そして、この戦の後には、“林霊素の奇跡の聖地”として、歴史に残ることになるだろう。
「節度使など、もうあてにせん」
 林霊素は得意だった。一万五千の官軍に加え、腕に覚えのある道士を糾合し、“六甲神兵”と名付けた親衛隊を編成したのだ。みな道服をつけ、銅剣、羅盤を武器にしている。乞食の混入を警戒して、道観の度牒を持つ身元確かな道士だけを集めていた。
「こちらも、しめて一万五千」
 一方の僧侶たちは、助っ人の“ならずもの”を含めても、三千程度と聞いている。
 集まった道士たちを前に、林霊素は誇らしげに宣言した。
「明日が、大宋国仏教最後の日だ」
 そして、自分がこの国の“神”となる日だ。



 夜が静かに更けていく。
 夜空の星が、戦の気配におののいてか、人々の不安を感じとってか、いつにも増して不穏にきらめく。
 その星のもと、史進は指折り数えた。
「敵は三万、こちらは三千……いや」
 ちいさな灯明が照らす、石窟の中である。
「使いものになるのは、まぁ二千ってとこか」
 石秀は供物として残っていた果物をかじっている。李忠が史進にも果物を投げた。
「坊さんたちも、みな戦うとは限らねぇ。負傷者も多いからな」
「僕は戦います」
 莫志がきっぱりと言った。
「吐蕃の仏僧、ラキンパルマドルジェは、廃仏を敢行した王を弓矢で殺し、仏法を救いました。彼は、仏罰など受けなかった。聖人として讃えられている。僕は、戦います」
 灯明の油は尽きかけ、炎がゆらゆらと揺れている。移ろう影が、仏像たちに不思議な表情を与えていた。
 それから、金山大師を中心に短い軍議があり、ありったけの武器が配られた。戦いの準備が整うと、史進は最後に彭尼を見舞った。
 星空の下、石窟は短い眠りについている。
 岩山の上方にある石窟に、彭尼はほかの負傷者とともに運び込まれていた。僧尼たちが、途中で手に入れた僅かな薬草を使って、できる限りの手当てをしている。
 史進は地面に横たわる彭尼の傍らに膝を折った。
 彭尼の状態は落ち着いていたが、多くの血を失った顔は蒼白だった。石窟の壁に描かれた阿弥陀如来に、赤い曼珠沙華が供えられていた。
 彭尼は、史進と気づくと、目を開けて起きようとした。
「戦えなくて、わるいわね」
 史進は尼の体を助け起こした。

「あんたが男だったら、親友になれた」
「私も、そう思う」
「まだ男が嫌いなのかい」
 彭尼は、史進の顔を見上げて、うっすらと笑った。
「私は、木こりの娘なの。十三の時、山で、父を襲った虎を無我夢中で殺し、孝女として表彰された……。村には記念の牌門が立ち、知府は列女伝に載るように朝廷に上奏までしたわ。でも、結果は、いけすかない中年の役人から“有名な孝女を妾に”と求められただけ」
「それで尼か」
 彭尼は紅の花へ目を移した。花びらが夜露に濡れていた。
「救いは……現世と、来世と、いったいどちらにあるのかしら」
「さぁね。確かなのは、俺は、生きている人間しか助けられない」
 色のない石窟の中で、花の紅だけが鮮やかだった。二人は少しの間、だまって花の色を眺めた。
 彭尼が目を閉じ、呟いた。
「……金奴姫には、幸せになってほしい」
「なるさ、あんたも」
 彭尼は、眠ったようだった。尼たちが、静かに念仏を唱えはじめた。
 史進は石窟を出た。星が鋭く輝いている。
 どこかの石窟から、仏像を彫る鑿の音が聞こえる。史進は、まだ王進を見つけられないでいる。しかし、すぐそばにいると、感じるのだ。
 東の空が明けていく。
 夜明けとともに、最後の戦いが始まるだろう。



 東雲に紫が差し、夜が明けていく。

 黎明──あらゆる命が待ち焦がれる、喜びに満ちた時である。
 この戦場にいるすべての者に、太陽は平等に汚れない光を降り注ぐ。南岸では官軍が兵糧を使い、対岸の石窟では、僧侶たちが朝の勤行を始めていた。
 やがて、南の河岸を埋めつくし、官軍が伊水に向って動きはじめた。穏やかな波の上を、僧たちの誦経する声が流れていく。
 荘厳な合唱も、林霊素には、耳障りな雑音に過ぎない。
「謀叛僧どもは、覚悟を決めたぞ。すみやかに往生させてやれ」
 官軍は、自分たちが三万の大軍であり、敵が三千ばかりと知っている。悠然と、水際へ押し寄せた。伊水は夏枯れで水量が減り、ところどころ底が露になっている。
「一気に渡れ!」
 鯨波が誦経を掻き消した。
 先鋒は五千の洛陽軍、その背後には一万の禁軍が続いている。
 林霊素は落ち着いていた。“初陣”である。兵法の心得はないが、多くの将軍が従っているし、我が身は一万五千の“六甲神兵”に守られている。
 これは、栄光への黎明なのだ。
(都では、すでに“奇跡”が起こっているはず)
 昨日のうちに、東京の皇帝の御前で“林霊素そっくり”の青華帝君像が現れ、同時に“謀叛鎮圧”の戦勝報告がされているはずだ。間もなく、“通真達霊元妙先生”の栄誉を讃える勅使が到着することだろう。
(勅使が到着する前に、この戦いを終わらせておかねば)
 林霊素は本陣の櫓に立ち、手にした払子を高々と振り上げた。

「石窟を占拠せよ、太極旗を立て、盧遮那仏を破壊するのだ!」




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