水滸伝絵巻-GRAPHIES-

水滸外伝
春牛

 男は種を蒔いていた。
 春だった。陽光がうらうらと乾いた畦道を照らしている。萌えはじめた新緑が、目に痛いほどだった。しかし、男は俯き、地上にわだかまる自分の黒い影のなかへ黙々と種を落としていた。
 いつもなら、彼ほど春を喜ぶ男もいない。冬のあいだに硬く乾いた土を堀り、細かく砕いて、種を蒔く。きまじめな男だった。人が喜ぶ酒や芝居などよりも、彼はそのことを喜びとした。
 ところが、今年ばかりは、その作業が男に苦痛をもたらした。
 彼は、兄の訴訟に巻き込まれていた。正確には、彼の兄が、ある訴訟に巻き込まれていた。街に住む役人をしている兄が、義侠心から──彼はその浮ついた言葉がきらいだったが──人の訴訟に巻き込まれ、牢に入れられて一月になる。助けるためには、金が要った。決して少なくない金額だった。
「畑の半分を売ることになる。その後の生活を、どうします」
 男は老いた父親に尋ねた。父親は兄を溺愛していた。少なくとも、男の目にはそう見えた。
「三郎がどうにかしてくれる」
「その兄さんが、面倒を起こしているんです」
「大丈夫だ。三郎ならば──おい、四郎どこへいく」
 畑へ、と答えて、男は家を後にした。
 乾いた土に、深く鍬を打ち込んだ。
 彼の家には、麦や雑穀を植える畑のほかに、いくらかの野菜と果樹の菜園がある。幾人かの小作も使い、この村では裕福なほうに入った。親子二人が生活し、街の兄にも十分な生活費を送ってきた。
 しかし、もうそれも終わりだ。
 男は兄をうらめしく思った。思うことによって、男は自分を奮い立たせた。
 兄は、人から恨まれたことがない。子供のころから学問もでき、家だけでなく、村全体の期待を一身に集めていた。今もそれは変わらない。
 一方の弟は、まじめなだけで、人から慕われることも憎まれることもない。学問もない。はじめは兄弟ふたりで一緒に塾に通っていたが、千字文を覚えたところで辞めてしまった。畑に出た。
 彼は畑が好きだった──というよりも、好きであるべきだと思っていた。物心つくころから曾祖父とともに畑に出ていたし、遊ぶ仲間も農家の子供たちだった。一方の兄は塾を終えると街へ出て、街の人々とつきあった。書生、役人、顔役やごろつきのような男もいた。兄は、街でも人々の好意と期待を集めた。
 その兄を支えていたのが、弟の畑だということを人は知らない。兄の仕事は、権限はあるが、収入はない。特権を使って儲けることも可能だが、人のよい兄はそうしない。人を助け、金を使ってばかりいる。人から「恵みの雨」などと呼ばれて。
 最後の一粒の種を蒔きおえ、男は鍬を止め、腰を伸ばした。
 畦道をいく三人の男の影が見えた。
 土地を買いにきた隣村の老柳三だ。男は背を向けた。契約は父親がやるだろう。彼は、せめて土地を自分の手で売りたくなかった。
 老柳三は畑を池にして家鴨を飼って、だいぶ儲けているという。あの土地も、池にされてしまうのだろうか。そう思うと胸が痛んだ。
 男はふたたび鍬を握った。振り上げ、振り下ろそうとした鍬を、ゆっくりと地上に置いた。売るのは彼の土地、彼が五年の年月をかけて開墾した土地だ。やはり自分の目で見届けてやらねばならない。そう思いなおした男は、急いで家へと戻っていった。
 しかし、家に戻るとすでに契約は終わり、老柳三の姿はなかった。父親もいなかった。家の中はがらんとして、からっぽだった。



 男はふたたび畑へ出た。
 この損失をどうしようかと考えていた。
 土地が減り、収入か減るのは実際の話だ。これからの生活、そして、あの阿梨のことを考えた。
 阿梨の父親は強欲だ。上の二人の娘は赤ん坊の時に婚約したが、思いのほか美しく育ったので、もっといい家に高く売れるはずだったと後悔した。だから、末の娘が生まれた時は誰とも約束しなかった。父親の思惑どおり、阿梨は姉たちよりも美しい。
 父親は法外な結納を要求している。阿梨自身は、小鳥のような目をした、おとなしいばかりの娘にすぎない。毎日、男の家の裏庭にある井戸に水を汲みにやって来る。彼は桶を上げるのをいつも手伝ってやっていた。話はしない。ただ黙って桶を引き上げるのを手伝ってやる。阿梨もまた、なにも言わずに、こくりと首をかしげるだけで帰っていく。そうやって、五年がたった。
 ちかごろ老柳三の甥が媒人をたてて申し込んだが、結納金の額で話はまだ決まらないと聞いている。どこの殿様にお輿入れさせるつもりかと、村人たちは呆れて笑う。しかし、男は笑わない。
 どこかで爆竹が鳴った。
 顔を上げると、空の青が目に痛かった。
 もう一度、爆竹が鳴った。
 やがて、畦道を駆けていく数人の男の姿が見えた。そのうちの一人が、立ち止まり、男に向かって手を振った。
「闘羊だ、行かないか」
 そう声を張り上げたのは、幼なじみの蒋七郎だった。
 人のよい男だ。堅物の友達が行くはずないと分かっているのに、毎年、かならず声をかけてくる。自分がなにより闘羊が好きなので、友達を誘わないのは悪いと思っているのだろう。
「行かないさ」
 男は畑に目を移した。闘羊は春先に行われるこの辺りの風物だ。特別に育てた気の荒い雄羊を闘わせ、その勝敗に金を賭ける。破産した者も、金持ちになった者もいる。
「行くわけがない」
 男は畦道で待っている蒋七郎に言った。しかし、すでに蒋七郎の姿はなかった。



 闘羊は川原で行われる。
 簡単な柵をつくり、おのおのが自慢の羊を連れてやってくる。柵の回りには男たちが群がって、羊の品定めに余念がない。巨大な角、筋骨隆々たる体躯、体毛は鋼のようで、どれもふつうの羊ではない。半月形の眸は早くも会場の熱気に感じて、ぎらぎらと血走っていた。
 最初の試合は、王武の“朱指天王”と丘三叔の“満身肝”。緒戦は若く経験の少ない羊だ。会場もいまひとつ気勢があがらない。しかし、第二戦、去年いい試合を見せた人気の“黒雷霆”が初出場の若手“黄金天香”に数合で敗れるとどっと会場が沸きたった。
「ちえッ」
“黒雷霆”に大きく張っていた蒋七郎は舌打ちをした。
 一年間、それこそ爪に灯をともすようにして銭を五、六貫もため、この日だけを心待ちにしていたのだ。それが一勝負で半分にも減ってしまった。次は本命の“蹂泰山”と“双珠鉄漢子”である。引き出される二頭の大羊は鼻息も荒く、さかんに土を掻いている。蒋七郎は唾を飲み込んだ。“蹂泰山”のほうが体が大きいが、“双珠鉄漢子”の気配には並々ならぬ気迫がある。
(どっちに賭ける)
 武者震いする蒋七郎の肩を、背後からぽんと叩いた者がいた。
 振り向いて、蒋七郎は細い目を見開いた。さっき「行かない」と、いや、十年以上も「行かない」と言い続けていた幼なじみが立っていたからだ。自分で誘っておきながら、蒋七郎はぎょっとした。
「どうした」
「来た」
 男は人ごとのように答えた。そして、蒋七郎はさらに意外な言葉を聞いた。
「いまの勝負、勝った」
「なにが」
 男はちらりと軽蔑するような色を見せ、懐から銭をとり出した。
「賭けたのか、お前が」
 男は軽く頷いた。その視線は、すでに始まっている次の勝負へと注がれていた。角のぶつかる音が空気を震わす。男は、また勝った。
 その日、男はおもしろいように勝ち、少なからぬ銭を得た。淡々と賭け、当然のように勝った。友の快挙に蒋七郎は舞い上がっていた。
「やはりお前には才がある」
 自分の財布がからっぽなのには頓着せず、蒋七郎は友の背中を叩いた。しかし、男はあきらかに不機嫌だった。
「帰る」
「待て、勝負は明日もある」
 俺が明日の勝負のつぼを教えてやるからと、蒋七郎は男を無理やり路傍の居酒屋に連れていった。店は満員だった。客はみな闘羊に来た男たちだ。祝杯をあげるもの、やけ酒を煽るもの、さまざまだが、どの顔も上気して、ふわふわと浮き世離れして見えた。蒋七郎は混雑した卓に割り込み、男を椅子に座らせた。男はこんな店に出入りするのははじめてだったが、蒋七郎は手慣れたふうに酒と肴を注文した。
 蒋七郎は酒を飲みながら、明日の勝負に出るはずの羊について滔々としゃべっていた。曇っていたら“疾風四蹄”はだめだ、“玉閻魔”は粘りが強い、“賽嗤尤”は名前負けだ……。
 男はちびちびと酒を飲みながら聞いていた。
 考えていた。
 闘羊は三日あるという。それで勝ちつづければ、何畝の土地が買い戻せるか?
(足りるわけがない)
 男は苦い液体を喉の奥へ押し込んだ。そして、言い聞かせるように呟いた。
「明日は、この金を全部賭ける。足りなければ、畑を抵当に借りて元手を作る」
「なんだって」
「金がいる」
「おい」
 蒋七郎は茶碗を置いた。
「お前、何を言っている」
「金がいるんだ」
「いけねぇよ、お前は、いけねえ」
 蒋七郎はうろたえた。
「なにがいけない」
「なぜってさ」
 蒋七郎は返事に困った。男の目は底光りして、うろたえる蒋七郎を睨み付けている。蒋七郎は背中を丸めた。
「なぜだかは分からねぇんだけど」
 口ごもって、蒋七郎は酒を飲んだ。男も飲んだ。喧騒の中で、ふたりは黙って酒を飲んだ。その間に、ぬっと顔をさしこんだ男があった。
「見ない顔だ」
 ひどくしゃがれた声だった。蒋七郎がばったのように飛び上がった。
「孟の旦那」
 闘羊の元締めをしている顔役だった。蒋七郎は愛想笑いをして頭をさげたが、とうの旦那は目も移さずに、男の肩に手を置いた。男はちびちびと酒を嘗めている。
「お若いの、ずいぶんと儲けたようだ」
 男の目が苛立った。肩をゆすり、孟旦那の手を振り払った。蒋七郎があわてて言った。
「旦那、差し出口をきくようですが、この男を見くびっちゃいけません。なにしろ、あの“及時雨”の旦那の弟なんだから」
「ほ」
「正真正銘、たった一人の弟だ」
「そいつはいい。あの仁は人物だ。近づきにならなきゃならん」
 今夜は奢らせてもらおう、と旦那は給仕を呼び財布を預けた。男はそれを遮った。
「よしてくれ」
「なんの、形ばかりさ。それでどうこう言うのじゃない」
 日に焼けた狒々のような顔が、妙にひとなつこい笑顔を見せた。
「今日は店じゅう、俺の奢りだ。どいつもこいつも、喰って飲め」
 孟旦那は声を張り上げた。居酒屋がわっと揺れた。
 男は、眉をしかめた。
(偉そうに言う。これしきの飲み食いで、どれだけの金がかかるというんだ。俺に払えない額だとでも思っているのか?)
 男の思惑など知らず、旦那は向かいの席に座った。そして、客たちの挨拶を受けながら、ひとしきり自分も飲んで騒いだ。たびたび男に話しかけたが、男は黙り込んでいた。
「無口な人だ」
 兄貴とはずいぶん違うようだと言った。男はますます不機嫌になった。それに気づいてか気づかずにか、旦那はにっと山犬のような笑みを浮かべた。
「最初の勝負のあとは、誰だって気が荒れる。あんたは筋がいいようだ。が、明日の勝負は、ちと難しい。これは、そうさな、あんたにだけ教えてやる。明日、“五花八門”という新顔の羊が出る。痩せた小汚いやつだ。しかし、こいつに突っ込むと、人生が、ちいと面白いことになるさ」
 男はちらりとも目を動かさなかった。旦那はなにか低く呟いて、わずかに肩を動かした。
 やがて旦那が帰り、男はほっと息を吐き出した。飲みなれない酒を過ごして、したたかに酔いを発していた。頭がかっと暑かった。しかし、今までになく冴えていた。猛然と頭脳が動きだした感じがした。いままでの自分の考えが、ひどく子供じみた女々しいものに思えてきた。
「なにが畑だ。このご時世だ、俺たちだって、金をもうけて、いい暮らしをするべきだ。いつまでもモグラみたいに、土を捏ねているこたぁない」
 酒をあおった。その肩に酔った酌婦がしなだれかかった。酔いが全身を焼いていた。男はさらに酒を注いだ。もういくら飲んでも酔わなかった。
「百姓が、いきがる」
 その耳に、部屋の片隅であがった声が突き刺さった。見ると、二人の男が薄笑いを浮かべて男を見ていた。街の男だ。
「闘羊がおもしろいと聞いて来たが、田舎者のけちな遊びだ。少しばかりの金を儲けて騒ぐ奴らの気が知れない」
 聞こえよがしにそんなことを言って笑った。
 あいつらは街から来たごろつきで、有り金をすったものだからあんなことを言うのだと、蒋七郎が男の耳に囁いた。
「棒やら弩やら持って来ている。相手にするな」
 その言葉にかえって促されるように、男は立った。ふらついた足を、ぐっと土間に踏みしめた。周りの客たちが見守るなかを、男は二人に近づいた。
「闘羊がつまらないか。なら、どうだ、“闘人”は」
「なに」
 問うと同時に、手前にいたごろつきの顔に男の頭がめりこんだ。鼻血と、村人たちの声がどっと上がった。もう一人のごろつきが椅子を蹴った。店じゅうの男が一斉に立った。
「牛どもめ」
 街の男は昏倒した仲間を連れて逃げるように店を出ていった。男は、なにごともなかったように席に戻った。
「お前は立派な男だ」
 蒋七郎が男の肩を叩いた。しかし、もう男は答えなかった。濡れた卓につっぷして、ぐっすりと眠っていたからだ。



 目覚めると、卓の上だった。胸がむかつき、ひどく首が痛かった。隣では、蒋七郎がいびきをかいていた。
 居酒屋の中は静かだが、大勢の人の気配があった。誰も酔いつぶれて眠っていた。椅子を連ねて眠っているのはまだましで、卓の下、床のすみ、酒瓶の間にも人がいる。歌うたいの女まで、胡弓を抱いていぎたなく眠り込んでいた。
 空気は濁って、すえた匂いがした。
 どこにかしこも酒や料理や人の汚物によごれていた。
 彼が眠っていた大きな卓にも、白い飯、肉、卵、山のような野菜がひっくりかえった皿からあふれ、ごみのように散らかっていた。
 こんな騒ぎが三日間もつづくのだ。
 こみあげるものがあり、男は部屋のすみでしたたかに吐いた。
 夜明け前。
 淀んだ空気の中で口をぬぐった。
 男はふらふらと店を出た。飲み代を投げようかと思ったが、やめにした。
 空には、まだ星が残っていた。鋭くかがやくものを見上げると、ぞっとした。
 自分が、芯から薄汚れているような気がした。羊の匂い、酒の匂い、口の中はからからに渇き、べたついていた。記憶はあいまいで、しかし、ところどころだけ鮮明だった。
 男は恥じた。こんな醜態ははじめてだった。こんど蒋七郎に出会ったら、その目撃者たる幼なじみを絞め殺すかもしれないと、凶暴な心で男は思った。
 誰もいない道を、男はふらふらと歩いていった。
 と、ふいに前方にいくつかの人影が立ちふさがった。男も立ち止まった。闇の中に、きらりと光るものがあった。
 追剥だと直観した。四、五人はいるだろうか。しかし、まもなく星明りに顔が判った。街から来たあの男だった。仲間を連れて戻ってきたのだ。ふたたび凶暴な気持ちが頭をもたげた。
 きたない奴らだ。
 男はぎらぎらとした目を剥いて、道の真ん中に仁王立ちした。
 かかってくるなら、皆殺しにしてやると心はすでに定まっていた。
 その気迫に、男たちは一瞬ひるんだようだった。しかし、一人の男がおっと叫んで飛び掛かったのを皮切りに、一斉に襲いかかった。
 男は、力まかせに最初の一人を殴ったが、あてがはずれて空を切った。力と気迫は足りていたが、男は、生まれてこのかた、喧嘩というものをしたことがなかった。
 結句、男はしたたかに殴られ、足蹴にされ、唾をはきかけられた。朦朧としたなかに、懐をさぐられ、銭や銀を掴みだされるのが分かった。
 そのまま、長いこと転がっていた。
 しかし、実際にはそう長い時間でもなかったのだろう。空にはまだ星が二つ三つあり、夜はまだ開けていなかった。天の慈悲かもしれなかった。
 闇のなかに、男は虫のように体を起こした。身体中が痛かった。口の中には血と土の味がした。それを吐き出そうとして、ふと、思い出したことがあった。
(じいちゃん)
 子供の頃、おそらく、五、六歳の時だろう。彼は曾祖父とともに畑にいた。昼飯は饅頭だった。畦道に座り、齧ろうとした時に、手がすべって饅頭が畑に落ちた。急いで拾い上げたが、饅頭は濡れた土で汚れていた。たったひとつの饅頭だった。呆然としていると、曾祖父が言った。
「食え。土は汚くない」
 彼は子供心に躊躇したことを恥じ、饅頭にかぶりついた。
 いままた、男は自分の血と土が混じったものを飲み込んだ。そして、天を仰ぎ、大声をだして笑った。その笑い声は四方の山々にこだまして、繰り返し夜明けの空に響きわたった。
 ひとしきり笑い、男は立ち上がった。見ると、土の上にいささかの銭が落ちていた。盗人たちが取りこぼしたのだろう。男はそれを拾い上げ、おおきく腕を振り上げて路傍に流れる河に捨てた。ちゃぽちゃぽと軽快な音がした。男は今度は声をたてずに笑った。続いて泥で汚れた靴を投げ、血と酒と汗、自分の吐瀉物で汚れた着物も脱ぎ捨てた。男はさっぱりとした下着一本になり、すたすたと夜明けの道を歩いていった。



 その日も、男は鍬を担いで畑に向かった。
 途上、色鮮やかに塗り上げられた牛の像が輿に担がれて練り歩くのに行き合った。人々がそれを追いかけていく。賑やかな銅鑼の音が春の空に響いていた。
 今日が立春であることに、男はようやく気がついた。
 この牛を春牛という。春を呼び、豊作を祝う儀式だ。その日取りを忘れていたことに、男は驚き、毎年見ているはずのこの牛を、新たな思いで凝視した。
 男は鍬を担いだまま、春牛のあとをついていった。
 村じゅうを練り歩いた牛は、最後は広場に安置される。そして、儀式が始まった。牛は笞ではげしく打たれる。見るまに牛のたくましい体は崩れ、彩色の下の土があらわれた。これは土で作られた牛なのだ。まもなく、牛は形を失い、一山の土塊となった。人々は争ってそれに群がり、一つかみの土を奪いあった。この土が、今年の豊作をもたらすと人々は信じている。疑っているものはいなかった。
 この時、男は、素人の自分に、なぜ闘羊の勝敗が分かったのかを知った。農民たちが豊年を祈り、土くれを掴んで、無心に畑を耕すように、羊たちも、ただ無心に、懸命に闘っていた。だから、彼には分かったのだ。どの羊が、より懸命に闘っているかが。
 人が金を賭けていることなど、かれらになんの関係があろう。
 そう思いいたって、失った土地のことを考えた。
 あの土地は池になるだろうか。しかし、池もいずれは干上がって、畑にもどる。家鴨を飼った土地は、前よりも肥えているだろう。まだ長い時間がある。急ぐことはない。
 男は畑に戻り、大地に鍬を打ち込んだ。
 つんと湿った、柔らかい匂いがした。懐かしい匂いだった。
(蚕をはじめたらどうだろう)
 土の匂いが、そんなことを思いつかせた。なかなか難しいと聞くが、このあたりはもともと絹織物がさかんだから、養蚕に詳しい者が大勢いる。経験のある者を雇い、小作の女房たちを指導させればいいだろう。きっと、数年のうちには絹糸がとれるようになる。現金の収入があれば、畑を買い戻す望みも増える。
 掘り返したばかりの土が、こまやかな光をふくんで、きらきらと輝いていた。

 数日後、男は久しぶりに県城へ出た。桑の苗を買うためだった。
 その時、はからずも役所の前で大勢の人に囲まれている兄を見た。父親が工面した金を使って、牢から救い出したのだ。兄は数えきれないほどの人に囲まれ、にこにこと祝福を受けていた。
 声もかけず、しかし、穏やかな顔で、男は兄を見送った。
 桑の苗を仕入れて帰ると、裏の井戸に阿梨が水を汲みにきていた。その脇を、男は黙って通りすぎた。
 そのまま鍬を担ぎ、畑へ出た。
 桑を植える予定の土地を、丁寧に耕していった。
 畑の中には、古い塚がいくつもある。母、祖父、祖母たち──新しいものも、すっかり畑に同化してしまったものもある。曾祖父の墓は、高さは半分ほどになっていたが、まだそれと見分けることができた。
 子供の代には、ここは桑の林になるだろう。そしてたくさんの蚕を飼い、よい繭をつくり、上等な糸がとれれば、孫の代には失った畑を買い戻すことができるだろう。その頃には、彼の体も畑に埋められ、土にかえっているだろう。
 みなが土にかえるのだ。
 そのために、男は丁寧に土を耕していった。
 思った。
 彼は、あるいは、この大地のために種を蒔き、耕し、花を咲かせているのかもしれない。大地が、彼をして、そうさせているのかもしれない。
 彼も、子も、孫も、そうして生きていくだろう。
 通りすがりの男たちが、蒋七郎が“五花八門”に全財産を賭けて大儲けし、村を出ていったと話していた。
 男の顎から、汗がぽたりと大地におちた。汗はみるみる吸い込まれ、黄土色のなかに消えていった。
 大地と空が接するひとすじの地平線。その上に小さな影をぽつりと落とし、男は、日暮れまで土を耕しつづけた。








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