水滸伝絵巻-GRAPHIES-

水滸外伝
香客

 宋朝の、崇寧年間のこと──と聞いている。
 その年は、冬が長かった。春節を過ぎても空は鉛色に閉ざされ、しばしば雪がちらついた。人々は顔を合わせれば、いつ春が来るのかと溜め息を交えた。
 もっとも、東渓村の若き呉書生には、季節は関心の外にあった。彼は早くに両親を亡くし、村はずれにある小さな屋敷に住んでいる。父親は少しの資産と、膨大な書物を残していった。書物は先祖代々受け継がれてきたものだ。彼の祖先は元は資産家であったが、ことごとく“書呆子”──本がなければ生きられぬ人々であった。
 本が増えるたび土地は減り、屋敷は小さくなっていった。今や屋敷自体が本でできているかのようで、壁には隙間なく書棚がめぐり、机の上、箪笥の中、寝台の下まで、ぎっしりと書物が詰まっている。
 呉書生の暮らしはつましかったが、満足だった。家には一生の時間を費やしても読みきれないほどの書物があり、自分はこの書物を読むために生まれ、読みながら死んでいくのだと、なんら疑うことはなかった。
 足りないものは、時間だけ──命あるうち一冊でも多く読もうと、書生は日がな一日、窓を閉め切って書斎にこもり、村人が姿を見るのも稀だった。
「お若いのに、もう隠者の風格がおありなさる」
 純朴な村人たちは、呉書生を尊敬している。変わり者には違いないが、なにしろ文字が書けるのだ。村の顔役の晁旦那が正月の対聨を頼むほどだから、よほど巧みなのは間違いない。街の親戚へ出す手紙、役所の書類、墓石に刻む文章も、嫌な顔ひとつせず書いてくれる。暦が読めるから婚礼の日取りも決めてくれる。しかし、さすがの呉書生も、季節の移り変わりまでは占えなかった。
 そのうちに元宵節も過ぎたが、水仙は蕾のまま、鳥も鳴かない。畑には雪が溶けずに残り、村人たちは、このままでは飢饉になるぞと青ざめた。
 その朝、嘆く村人たちをよそに、珍しく呉書生が門を出てきた。笠をかぶった遠出の支度に、村人たちは、ほのかな期待を込めて言った。
「おや、先生がお出かけだ。東の方へ行きなさるから、きっと“春の神”のお迎えだろう」
 農民たちは気楽な書生をうらやみ、笑った。
 実際、彼らが予想した通り、呉書生の向かう先は東方の県城である。秋に紙を買いに行った折り、なじみの書肆で、春になれば都から珍しい古書が一荷届くと聞いていたのだ。書生は箱ごと買うつもりで、去年のうちから、代書や揮毫でこつこつと銀を貯めていた。問題は、いつ荷物が届く“春”が来るのか。待っている間に書物が他人の手に渡ってしまうのではないか──心配のあまり、呉書生は春を待ちかねて書斎を出て行ったのである。
 荒野がある。
 村の東に広がる荒野は昔から墓地になっていて、冬が過ぎ、清明節がやってくるまで、村人は誰も近づかない。“鬼”が出るのを恐れているのだ。しかし、県城への近道なので、呉書生はおそれず荒野へ踏み込んだ。読者人は“怪力乱神”を信じないのだ。
 人の踏み込まぬ大地は雪が凍り、悽愴たる風が吹いている。それも呉書生の目には入らない。懐の書物を取り出して、歩きながら読んでいたからだ。昨日、一番古い書棚の奥から出てきた、虫食いだらけの手綴じである。先祖の誰かの日記らしいが、表紙はネズミに喰われてしまい、誰のものかは分からない。地主の日課と、読書録ばかりが丁寧な字で書き込まれている。単調な内容に失望しながら、呉書生は何頁か読んだ。記された書は、すべて今も書斎にあるものだ。
 自分が日記をつけたなら、きっと似たような内容になるだろう──そう思うと味気なく、書物を閉じた。すると、中から一枚の紙切れがひらりと落ちた。
 拾い上げると、薄く黄ばんだ竹扣紙に、一篇の詩が書きつけてあった。
「桐風驚心壯士苦──桐風に心を驚かせ 壯士は苦しむ」
 その文字は、日記と同じく、呉書生の字とそっくりだった。彼は父親から字を習ったので、父も同じ字を書いた。祖父も同じだ。先祖はみな同じ字を書いたのだろうと分かっていても、自分が書いて忘れていた詩箋が出てきたようで、ひどく不思議な感じがした。
  衰燈絡緯啼寒素  衰燈 絡緯は寒素と啼く
  誰看青簡一編書  誰か看ん 青簡一編の書
  思牽今夜腸應直 思いを牽けば 今夜 腸はまさに直なるべし
 博覧強記の呉書生は、それが唐代の詩人、“鬼才”李賀の『秋来』であるとすぐに分かった。鋭い感性、研ぎ澄まされた言葉、凄艶な情景は、人をして“人間の詠む詩ではない”──と評された。真面目一辺倒の先祖の誰が、そんな気鋭の詩を書き写したのだろう。雨冷香魂弔書客──雨が冷ややかに降る夜に、“香魂”すなわち死せる美女の幽霊が書客をおとなう、などと。
 書生は微笑し、再び荒野を歩きはじめた。そして、この光景に似つかわしい、最後の句を口ずさんだ。
  秋墳鬼唱鮑家詩 秋墳に鬼は鮑家の詩を唱う 
  恨血千年土中碧 恨血 千年 土中の碧
「恨血 千年 土中の碧──」
 恨みを残して流れた血は、土中に千年あって碧玉となると云う。ならば、自分の血は何になるのかと、呉書生はふと考えた。科挙に応じて立身する野心もなく、自分の代で呉家が絶えるだろうという後悔もなく、ただ悠々自適に書に埋もれ、無為に死んだ私の血は──。
(誰にも知られず、地中に深く深くしみ込んで、形もなく消えてゆくのだ)
 呉書生は、襟巻きをかきよせた。そして、いつの間にか、自分が真っ白な雪の上についた、誰かの小さな足あとを辿っていたのに気がついた。ぽつぽつとした裸足の跡が、よろめきながら雪野の果てへ続いている。
 見回しても、灰色の空、白い雪、ふたりの足あとの他は、なにもない。呉書生は立ち止まったまま、しばらく、その足跡の消えゆく先を眺めていた。

 凄惨な風景だった。
 草も枯れはてた野に残る雪の中に、ぽつりと朽ちかけた小屋──と呼ぶのもはばかられる、竹と破れ筵で作られた風除けのようなものが埋もれていた。覗くと、その中の暗闇に、ひとりの老女が捨てられていた。
 はじめは餓死者の死体かと思ったが、近づくと、骨の浮いた裸の背中が、ほんのわずかに動いていた。呉書生は小屋のかたわらに膝をつき、静かに尋ねた。
「あなたは、なぜここにいるです」
 しかし、老女は答えなかった。その皮膚は枯れた樹木のように灰色で、凍った大地のようにひび割れていた。書生は懐をさぐったが、書物と財布があるきりで、与えられるものは何もなかった。ただ竹筒に入れた湯がまだ暖かかったので、口元に運んでやると、老女は目を閉じたまま、むさぼるように飲み干した。

 その日、書生は県城へ行き、翌日、大きな荷物を背負って村に戻った。荷物は、書斎ではなく、あの荒野に下ろされた。中身は、待望の古書の山ではなく、暖かな布団と着物、滋養のある食べ物だった。冬が長引いたため物価が上がり、書生の銀は尽きてしまった。しかし、悔やみはしなかった。書生は老女を布団に寝かせ、古着屋で買った綿入れを着せた。新しい筵で小屋を覆い、石を集めて竈を作ると、粥を煮て匙で与えた。老女は少しばかりの粥を飲むと、真っ白に濁った目をわずかに開けて、青白い唇から呻くような声を洩らした。
 それから書生は家に戻ると、書棚からありったけの医薬書を抜き出した。『黄帝内経』『本草』『傷寒』『脈経』『灸労』どれも古今の名著である。それらを抱えて荒野にもどり、書生は老女の脈をとった。舌や爪の色も調べたが、もとより医者でもない書生には、老女の病は分からなかった。それでも書生は諦めなかった。
「面色灰暗、発如枯草……“陰がまさり、虚”。まずは補法を行ってみよう」
 書生は家伝の稀覯本を数冊包み、また街へ出て、解舗の門を初めてくぐった。厳冬で書物の価格は急落していたが、いくばくかの人参、黄耆、甘草、芍薬といった薬草、雑穀と緑豆、棗が買えた。
 書生は毎日荒野に通い、滋養のある食べ物と、血を清め、気の流れを整える薬湯を欠かさず届けた。数日すると、老女はわずかに手足を動かしはじめた。その日は薄く日差しが出ていたので、書生は小屋の覆いをとって、老女を陽に当たらせた。風はまだ冷たかったが、老女は赤子のように布団にくるまり、静かな寝息をたてていた。
 病人は少しずつ精気を取り戻し、呉書生は読書も忘れて看病に夢中になった。
「当帰四逆加呉茱萸生姜湯……いや、それより霊芝を」
 高価な薬草を買うために、書生は父親が愛読しいてた『資治通鑑』二百九十四巻も売り払った。老女は自分で起き上がれるようになり、書生が来ると、うっすらと目を開ける。澄んだ黒い瞳が戻っていた。書生は太陽がある時を選び、湯を沸かして老女を沐浴させることにした。老女が、しきりと肌を掻く仕種をするからだ。介添えに村の女を頼みたかったが、いまだ畝も作れぬ村人たちは飢饉を恐れ、苛立っていて、寄り合いに余念がなかった。
 書生は鍋に湯を沸かし、老女の手足を熱い布で拭いてやった。すると古い皮膚が剥がれ落ち、滑らかな白い肌が現れた。続いて髪を洗うと、長い白髪がごっそりと抜け落ちた。そのあとには、艶やかな黒髪が生えていた。
 老女は──老女ではなかったのだった。
「そうだ、これを」
 書生は、懐に櫛を入れていたのを思い出した。『資治通鑑』の箱の中に紛れ込んでいた櫛である。紅色の漆に、金銀の螺鈿の模様が美しかった。書肆の主人は、一緒に買い取ってもいいと言ったが、呉書生は思い止まった。ふと、まだ十代で死んだと云う母親の形見ではないかと思ったからだ。
「どうぞ、これをお使いなさい」
 櫛を受け取り、女が、はじめてにこりと笑った。
 紅の唇が、花のように美しかった。
 日溜まりに座り、女は心地よさそうに長い黒髪を櫛で梳いた。

 その夜、村に久しぶりの雨が降った。
 翌朝は、抜けるような青空だった。しかし、村人たちは相変わらず、種蒔きはいつ、蚕はどうする──と道端に寄り集まっていた。その村人のあいだでも、この頃は“呉先生の質屋通い”が噂の的になっている。
「先生はどうなしすった。暮らし向きがご不自由か」
 わずかの地代と、代書で暮らしている書生である。それでも書を読むだけの暮らしなら十分なはずだったのだが、その大切な書物を質に入れているという。
「それは、わしらに春が来ないと同じくらい殺生なことではないか。それとも、“鬼”でも憑きなすったか」
 村人たちが書生の身を案じていると、驢馬を連れた老人が口を開いた。
「昨日も、あの東の荒野へ行くのをお見かけしたぞ」
「それで」
 老人は魔除けのまじない念じて、首をすくめた。
「先生は、とても楽しそうじゃった。あんな楽しげな先生は、見たことがない」
 村人たちは、いよいよ書生に“鬼”がついたと心配した。そこへ、当の呉書生が朝日の中をやって来た。
「すみませんが、その驢馬を貸してください」
「先生、どちらへ」
「“春の神”のお迎えです」
 書生は驢馬の手綱を牽いて、荒野に向かった。昨夜の雨が名残の雪も洗い流し、濡れた土から新しい芽が顔を出していた。水仙が咲き、菜の花の蕾も綻んでいる。若草を踏む書生の頭巾に、今年最初の蝶が戯れた。
 書生は、今日は女を家に迎えようと、昨日のうちに部屋を整え、新しい服や履も揃えた。しかし、いつもの道を辿っても、見えるものは──ただ春ばかり。荒野は一夜にして花野となり、女の姿は、どこにもなかった。
「どこですか」
 問うても答えるものはなく、吹き過ぎる風だけが優しく香った。その香に誘われ、書生は無人の野に顔をもたげ、それを見つけた。
 根元を古筵に覆われた、年へた白梅──春の女王のごとく四方へゆったりと枝を広げ、どの枝にも、零れるばかりに白い花が咲いていた。
「いつのまに」
 見上げると、ひときわ咲き誇る一枝の花のあいだに、紅色の櫛が挟まっていた。
 白梅の中に迷い込んだ、一輪の紅梅のようだった。

 書生はひとり家路を辿り、書斎に戻ると、長いこと閉じたままだった窓を開いた。春風が、書物がごっそりと抜けた書棚の隙間を、軽やかに吹き過ぎていく。
 窓の向こうの畦道を、子供たちが走っていく。
「春だ! 春だ!」
 村人たちは牛を小屋から引き出し、大急ぎで鋤をつけていた。女たちは蚕の準備に忙しい。
 呉書生の足元に、風が、あの詩箋を落とした。
  雨は冷やかにして、香魂は書客をあわれむ
 しかし、この日、若き呉書生を訪れたのは、一陣の薫風と──爛漫たる春であった。








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