水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第一部・最終回
結集百八星
前篇

 一発の砲声が梁山の夜空に轟いた。



 「合図だ」 “聖水将軍”単廷珪は突撃の指示を下した。氷壁には、すでに点火の準備をした工兵が到着している。このまま氷壁を爆破して水路を開き、一気に梁山泊へ攻め寄せるのだ。
「点火せよ!!」
 単廷珪は松明を大きく振った。
 それは点火の合図であり、同時に、戦いの再開を告げる炎であった。
 呼延灼は、夜空を揺るがす轟音を聞いた。
 梁山泊の命運、尽きたり──。
 戦場、連環馬、子供たち、梁山泊、晁蓋──ざまざまな面影が、刹那のうちに呼延灼の脳裏を駆け抜けた。
(我が事、此処に窮まれり)
 望んだ通り、関勝とともに自分は死ぬ。
 呼延灼と関勝の乗る船は、すでに火砲の射程に入っている。また砲声が轟いた。
 しかし──砲弾は、一つとして舟には落ちてはこなかった。
 夜空を揺るがし、砲声は鳴り響いている。
 見上げると、星空を背景に梁山の漆黒の影が浮かんでいる。その空の一角が、夕焼けのように仄かに赤い。その色は点滅するように輝いていた。



「凌振──」
 呼延灼は、絶句した。
「一体、どこに向かって撃っているのだ」



「“火遊び”は一度で十分」


“轟天雷”凌振の照準は、正確だった。
  照準を定めては、次々と火砲を放つ。狙うのは、呼延灼ではなかった。
  砲撃を続ける凌振の背後には、“智多星”呉用が泰然と佇んでいた。凌振は呉用に命じられるまま、南に向けていた砲口を氷壁に向けたのである。砲は新しい改良を加えた“火龍過湖”、従来のものより射程が長く、梁山泊の北の岬から氷壁まで砲丸を届かせることができた。装填されているのは、これも新兵器の“震天雷”だ。中には火薬が込められており、氷壁に命中すると炸裂する。
  氷城は、もはや水をかけられた砂糖のようである。打ち砕かれ、湖へ消えていく。
「──お見事」
  立ち込める砲煙を払うように、呉用は白羽扇を振った。
「次の標的は、単廷珪の水軍です」




「話が違うではないか!!」
  単廷珪は船縁を掴み、叫んだ。
  風を切る砲弾の音とともに、眼前に聳える氷壁が揺らぎ、氷片が単廷珪の甲冑の肩を打った。船板に氷塊がばらばらと降り注ぐ。単廷珪の目前で、氷壁に巨大な亀裂が走った。
  あたりは凄まじい波である。すでに氷壁近くまで接近していた船団は、飛び散る氷塊が起こす波に弄ばれ、木の葉のように揺れていた。巨大な氷塊や波の直撃を受け、覆る船もある。
  凌振が打ち込んだ砲弾は、単廷珪が仕込んでいた火薬に引火して大爆発を誘発し、瞬く間に氷壁は破壊され、波間に沈んだ。梁山泊と北冥を繋ぐ水路が通じ、水が水庫から湖へ渦を巻いて流れ出ていく。単廷珪率いる船団は、荒波に制御を失ったまま、梁山泊へと押し流された。進めば、火砲の餌食である。
  単廷珪は船縁を握る手に力を込めた。
  今、この時になって、“水”が彼を裏切ろうとしているのか──。
  闇の彼方に光が見えた。梁山泊軍の船団が篝火を掲げて向かってくるのだ。
  単廷珪は船縁を離し、舳先に立った。水こそ彼の僚友である。
「手間がはぶけたというものだ」
  合図の銅鑼を打ち鳴らさせた。
「全速前進!!」
  熟練の操舵手たちは逆巻く水の流れを読み、波に乗った。単廷珪の船が先頭を切って進む。水牛から切り離した軽舟、梁山泊から奪った船が兵隊を満載して後に続いた。
“玉旛竿”孟康は梁山の北岸に連なる岩礁に立ち、手にした松明を大きく振った。
「よし、行け!!」
  岩の間に隠れていた梁山泊の船が次々に漕ぎ出していく。孟康と“神算子”蒋敬が作り上げたばかりの船たちだ。不眠不休の作業であった。それでも完成した船は百隻足らず。対する単廷珪軍は五百隻は下らない。
  梁山泊と単廷珪の船団は、暗い湖上を突き進んだ。頭上には火砲が轟いている。単廷珪の船団は次々と砲弾を浴びた。巨大な水柱があがり、船は大きく傾いた。船縁から水手たちがばらばらと水中に落ちる。この闇、この距離を隔てて、恐るべき砲術の正確さである。
「篝火を消せッ!!」
  単廷珪の号令に応じ、船団は目標となる篝火を消した。湖上に輝くのは敵梁山泊軍の篝火のみである。それを目指し、単廷珪軍は極限まで速度を上げた。梁山泊と接触すれば、もう火砲を撃つことは出来ない。単廷珪の旗艦とともに、足の速い戦船が突出した。どの船も水手の間に、矢兵と槍隊を配備していた。
  単廷珪は梁山泊に船の少ないことを知っている。敵はおそらくこちらの船に乗り移り、船を奪おうとするであろう。それを防ぐための配置である。矢で敵を追い、接近すれば槍で乗船を阻むのだ。やがて敵の船影をはっきりと目視できるまで近づいた。
  梁山泊軍と官軍の間を矢が飛び交い、やがて両軍は接触して激しい水上戦となった。単廷珪の船団は梁山泊軍の攻撃をかわしつつ、波の勢いに乗って梁山へとなお突き進む。最終の目標は梁山への上陸なのだ。その頭上を再び火砲が襲った。単廷珪の左舷の船が砲の直撃を受け、木っ端微塵になって沈んだ。梁山泊は自軍をも道連れにしようとするのか、それとも砲撃術によほどの自信があるのか。
「東平府の水軍はまだか」
“醜郡馬”宣贊の周旋により、東平府が新造の大型戦船三百隻、及び兵五千を援軍に寄越すはずだった。
  その時、単廷珪の傍らの兵が指さした。
「単将軍、あれを!!」


 左手、東方に篝火を掲げた新たな船団が現れたのだ。
「来たか」
  しかし、船団がさらに近づいた時、単廷珪は目を瞠った。
  ま新しい東平府の戦船三百隻──その船上に翻るのは、紛れもなく梁山泊の旗であったのだ。一瞬、すべての音が単廷珪の耳から消え失せた。
(関将軍──武神よ!!)
  単廷珪は空を仰いだ。
  立ち込める砲煙と篝火のため、夜空の色さえ見えなかった。



  梁山の峯から湧きだした霧が、ゆっくりと湖の上に広がっていった。
  砲煙かと思ったが、それは冷たい夜霧であった。関勝と呼延灼を乗せた船は、霧の中を漂っていた。
(天、これを与う──)
  関勝は、心に重く呟いた。
  天は、関勝にも呼延灼にも“死”を与えなかった。
  天は、彼らのささやかな決意などに動かされはしなかったのだ。もはや両軍は、どちらか滅びるまで戦うしかない。
  あたりは濃い霧に覆われ、すぐそばにいるはずの呼延灼の姿も見えない。
  湖は恐ろしいほど静かだ。風もなく、波の音すら聞こえない。先程まで、あれほど響いていた火砲の音も、いつの間か消えていた。




関勝は、一人きりで霧の中に座っているような錯覚に捕らわれた。ありえないほどの静寂だった。死の世界でも、これほど静かではいだろう。
  しかし、彼は恐れなかった。
  無音の闇、無色の静寂、それは、ずっと関勝の心の風景であった。彼は感情もなく、怒りもなく、悲しみも、喜びもなく、静かな水面のような心を抱いて生きてきたのだ。
  武神──神である関羽として。
  大刀──戦う武器として。
  人々はそれを彼に求め、彼もまた、そう生きることを疑わなかった。彼は生まれながらにして、神であり、大刀であったのだ。そうして、戦い続けてきたのだ。
  関勝は手に馴染んだ大刀を握った。
  その関勝が、ふと心を騒がせた。水面に揺れる波紋のように、ささやかな感情は同心円の波紋を描いて、関勝の心に広がった。
  それは、たとえようのない孤独だった。
  何百年、何千年も、この世界をひとり彷徨っていたような孤独であった。
  関勝は目を閉じた。
  瞼の奥にも、真っ白な霧は広がっていた。霧の彼方に戦場が見えた。砂漠に転がる髑髏、河となって流れる血、泣き叫ぶ兵、刃、猛り狂う馬──。関勝は思わず目を開けた。
  声が聞こえた。
「われら──」
「同年同月同日に生まれることは、かなわずとも」
  誰かが関勝を呼んでいた。
「願わくば、同年同月同日に死なん」
  良く知っている、しかし、初めて聞く人々の声だった。
  関勝は声の主を探した。そして、純白の闇の中に、巨大な人の姿を見た。
  燃え上がる赤き馬に跨がり、手に掲げるは青竜偃月刀。その重さ八十二斤、名付けて“冷艶鋸”と呼ぶ。
  その人は、忿怒の形相で裔たる関勝を睨みつけていた。
  漢寿亭侯関雲長──武神関王。
  関羽は青竜偃月刀を関勝の頭へ振り下ろした。関勝はかつていかなる戦場にも感じたことのない恐怖を感じた。
「待ってくれ」




関羽の刀が関勝の頭を貫いた。



 声が響いた。深い、静かな声だった。
「──春秋に義戦なし」
  気づくと、関勝は青竜偃月刀を手に舟の上に立っていた。
  空が燃えるように赤かった。天空を横切る巨大な流星が見えた。流星は空を真っ赤に染め上げ、南から北へ、彼方に聳える梁山の峯へと落ちていく。あたりは昼間のように明るくなり、霧の彼方に、光芒に包まれた山だけがはっきり見えた。



 ───梁山泊。
  関勝は紅の光に包まれていた。
(この光は──)
  暖かい風が一陣、その長髯を揺らして、去った。
(この風は)
  突然、桃の花びらが舞った。



 紅の花びらが導くように舞い狂う。
  彼は、桃園の幻影の中にいた。
  眩しい光。暖かい風。舞い落ちる薄紅の花を見ていた。
  そして、彼を呼ぶ声を聞いた。
  霧が、ゆっくりと晴れていく。
「──あぁ」
  関勝の目から涙が溢れた。
  彼方で微笑む、懐かしい人の姿を見た。
  霧の彼方から現れた一叟の小舟、その上で静かに彼を呼ぶ人。



それは、関羽が義兄、劉玄徳──蜀漢昭烈帝の姿であった。


  燕青は盧俊義らとともに、東昌府へ向かって駆けていた。呉用から東昌府への援軍になるべく急使を受けたのである。
  真夜中を過ぎ、夜の闇はますます暗い。頼りない星明りのみが道を照らし、横を走る人の姿も定かではない。
  しかし、燕青は走った。
  この先に何があるのか。
  一体、どこへ向かっているのか。
  答えのないまま、燕青は走り続けるほかはなかった。
  その時、燕青は天が叫ぶ声を聞いた。
  空を仰ぎ、流星を見た。北から南へ夜空を切り裂いて駆ける一条の光、その光が彼方の地平に落ちていく。空が燃えるように赤かった。
  そして見た。
「あれは──」
  燕青は、はっきりとその姿を見た。
「……梁山泊」



まだ遙かに遠いと思っていた梁山泊、本当にあったのかさえ朧げになっていた梁山泊が、手を延ばせば届きそうに見えた。
「梁山泊だ!!」
  盧俊義も、欧鵬、燕順も──皆が闇の中に足を止め、真紅の空に浮かび上がった漆黒の峯を見ていた。




                
  空が真っ赤に燃えていた。
“醜郡馬”宣贊は護送車の格子に寄り、空を見上げた。隣では赫思文も空を見ていた。
  関勝に命じられ五丈河の陣に残った二人は、新たに勅令を受けた童貫麾下の官軍に捕らえられ、東京へ護送されていく途上である。護送役の兵士たちが、赤く染まった空を指さし、騒いでいた。
  流星が消えても、夜空の色は変わらなかった。
(──関兄!!)
  その色は、二人には関勝の血そのもののように思われた。




かつてそれほど赤く染まった世界を、三人は見なかったか。
  関勝が軍職から去る契機となった、最後の戦いの日の朝やけ、そして、夥しい血によって紅に染まった世界。あの時、関勝は世を捨てた。いま再び、今度こそ、関勝はこの世から去ろうとしている──二人は鮮明な予感に戦慄した。
「関兄!!」
  二人は梁山泊の方へ声にならない声を放った。





「空が真っ赤だ!! 天帝様のお祭りだ!!」
“黒旋風”李逵は斧を振り上げた。“喪門神”鮑旭、“没面目”焦挺と枯樹山の山賊たちが、一斉に護送軍に襲いかかった。枯樹山を後にした李逵たちは、関勝陣を目指してやって来た。そして、偶然、宣贊らを都へ護送していく官軍に出くわしたのてある。
  応戦しようと剣に手をやった隊長を、鮑旭が一刀のもと袈裟懸けに斬った。焦挺は兵士を次々と投げ飛ばしていく。
  李逵は役人を片っ端から斬り伏せると、護送車の中に二人の将がいるのを見つけた。李逵は斧を振り上げた。
「官軍どもは皆殺しだ!!」

「──ならねぇ」



「なんでだ!!」
  李逵が睨むと、鮑旭は顔に浴びた返り血を拭って、言った。
「昨日、しゃれこうべが俺に言った。もうすぐ黒い大男がやって来て、お前をいい所に連れて行ってくれる。その男は、誰でも彼でも、手当たり次第に人を殺す──」
  李逵は目を丸くした。
「おめぇ!! しゃれこうべと話ができるのか!!」
「“死神”だからな」
  鮑旭は背後から襲う兵を、振り向きざまに斬った。
「死人を選ぶのが、“死神”の仕事だ」
  そして、檻車の中の宣贊と赫思文へ目をやった。
「この二人は、殺しちゃならねぇ──俺には分かる」
  その時、北の方角に落雷に似た音が轟いた。
  空はまだ夕焼けのように赤い。その光に、はっきりと梁山が浮かび上がっていた。流星は梁山に落ちたのだ。
「ああ──宋江兄貴だ」
  李逵は空を仰いだ。山が燃え上がるように輝いている。
「宋江兄貴が呼んでいる!!」
  李逵は叫んだ。
「帰ろう!! 帰ろう!!」
  李逵は両手の斧を風車のように振り回し、梁山へ向かって駆けだした。まるで赤子のように笑いながら駆けていく。遮ろうとする官軍の槍も刀も李逵の目には映っていなかった。鮑旭は李逵に襲いかかろうとする官兵を斬り拓き、道を作った。その後を焦挺が護送車を引いて追いかけていく。
  赫思文が格子の間から巨漢を呼んだ。
「一体、どこへ連れて行くのだ」
  いつの間にか横に来ていた鮑旭が、凄味のある笑みを浮かべた。
「いい所だ」
  見上げると、梁山の上に一条の流星痕が鮮やかに輝いていた。




  呼延灼は船上に佇んでいた。
  その頬を、涙が伝った。そのことにも、彼は気づいていなかった。
  呼延灼は見た。
  忽然と霧の彼方から現れた小舟──舳先に掲げられた小さな篝火の下に佇むのは、紛れもなく“及時雨”宋江──死の淵にあった梁山泊副首領の姿であった。
  伴うのは、“智多星”呉用。



二人の姿は、まるで軍師・諸葛孔明を伴った劉玄徳のように見えた。
  そして、彼の隣には、“関羽”がいた。
「なぜ……」
  なぜ瀕死であったはずの宋江がここにいるのか。
  呼延灼には、まるでわけが分からなかった。
「これは──夢か」
  いや、ここは黄泉なのだ。凌振は約束通り舟を撃ち、我々は死んだのだ。
  死んで、魂魄の宋江に会っているのだ。
  二叟の小舟は舳先を接するまで近づいた。
  宋江がゆっくりと腕を上げ、二人に向かって拱手した。
「ここに来るまで、ずいぶんと、時間がかかってしまいました」
  ここがどこであろうとも、呼延灼にはどうでもよかった。
  懐かしい、宋江の声が聞こえた。
「──晁蓋殿は、死んでしまった。晁蓋殿こそ、誰よりも生きたかったはずなのです。いつまでも、どこまでも、皆とともに、行きたいと願っていたのに」
  関勝は、初めて会うはずの男の顔を見つめていた。
  彼には分かった。
  この男が何者なのか、晁蓋とは誰なのか。彼らがなにを感じ、何を見たのか。どこから来て、どこへ行くのか。関勝は、なにも知らない。しかし、分かった。最初の記憶の遙か前から、関勝は彼らのことを知っていたのだ。
  宋江の言葉が湖面の上を流れていく。
「わたしはずっと死の床にいた。死を待ちながら、生きることを考えていた。死にたくない、まだやらねばならぬことが沢山ある。皆と話したいことが、沢山ある……死のすぐそばにいて、生きることばかりを考えていたのです」
  その発する言葉さえ、関勝はすでに知っていた。
「──わたしは生きたい。わたしは、いま生きていて、あなたに会えたことが、とても嬉しい」
  宋江は、手を差し出した。
「さぁ──ともに、いきましょう」
  湖に雪片が舞う。
  今年最後の名残の雪だ。
  関勝は手を伸べて、そのひとひらを掌に受けた。
  関家に、ひとつの伝説がある。
  関勝の祖である関羽が麦城にて非命に斃れた時、やはり、季節はずれの花びらが舞うのを見たという。
  それもまた──雪であったと。
  戦いと希望、裏切りと絶望のはてに、どこに辿り着いたのか。
  春爛漫の桃華の園──常に、そこへ還るのだ。
  夜明け、“大刀”関勝は戦火の中で、その大刀を下ろした。
  そして、やがて再び、爛漫たる春の中に掲げるであろう。




  宋江の舟の後ろに、もう一隻の小舟が浮かんでいた。
  その船上から、“神医”安道全は薬嚢を膝に、呆れた顔で宋江を眺めていた。
「十日前には殆ど死んでいたとは思えんな」
  安道全が李俊らに伴われ蘇州から戻ったのは、呼延灼出奔から間もなくのことであった。すぐに摩娑石による治療を始めた。その効果は劇的なものではあったが、意識が戻ったのがようやく昨日、衰弱は甚だしく、とても立って歩けるような状態ではなかった。
  その宋江が、こうして此処までやって来たとは、奇跡というほかはない。
「いかにわしが“神医”だとて、あれが摩娑石の治療のためだけとは──どうしても思えんわい」
  安道全は気難しい顔で呟いた。




  夜明けが近い。
  瑠璃色の空に、明け方の星が輝いていた。
  湖の北では、梁山泊水軍と単廷珪軍の水上戦が、ついに終幕を迎えようとしていた。湖上には両軍の船が入り乱れている。
  梁山泊軍の先頭を行く船上には、梁山泊水軍総帥、蘇州から戻ったばかりの“混江竜”李俊の姿があった。両脇には、“出洞蛟”童威、“翻江蜃”童猛が従っている。舳先に立つ、いつもと変わらぬ李俊の姿が、童兄弟にはかつてないほど嬉しかった。
  張順、阮小二、阮小五も手下を連れて、それぞれの舟に乗り込んでいた。彼らの兄弟──張横、阮小七はいまだ北冥に捕らわれている。
  李俊、張順、阮兄弟らの船に加え、“轟天雷”凌振の火砲、そして奪取した東平府水軍の参戦により、梁山泊軍の勝利は決定的なものとなった。
  敗戦を悟った単廷珪は、追撃を振り切り、北冥の水寨へ撤退を始めた。
「このまま一気に水庫まで戻れ」
  単廷珪は梁山泊軍との距離を計りつつ漕ぎ手に命じた。振り向けば、追ってくる梁山泊の船、その彼方に戦闘中の船が見える。次々と拿捕され、また沈んでいく官軍の船が薄明の中に遠望できた。
  単廷珪は視線を前方に転じた。
  砲撃が再び激しくなっていた。単廷珪の船を狙って次々と砲弾が放たれる。舷側に水柱が立ち、船が大きく水を被った。すでに氷壁があった狭窄地帯を越えていた。目前は水庫である。砲撃の間をつき、単廷珪は兵に銅鑼を打たせた。ゆっくりと三度。また間をおいて三度。夜明けを告げる銅鑼のように聞こえた。
「将軍、この合図は」
  船尾にいた副官が駆けつけてきた。
  その銅鑼は、水庫にある水門を開け、という合図だった。単廷珪はもう一度、水庫の水を抜き、北冥を泥土に戻そうとしているのだ。副官は驚愕した。
「それでは我等の船も沈みます」
「そうだな」
  夜明けの風が悽愴と単廷珪に吹きつけていた。
「梁山泊の船を道連れに沈むのだ」
  すでに梁山泊軍は単廷珪を追って北冥に侵入している。北冥の水位は下がり始め、梁山泊軍もそれに気づいた。このままでは座礁する。李俊は波立つ湖面を一瞥した。
「同じ手が二度通じると思うか」
  李俊は合図の軍鼓を打ち鳴らさせた。
「帆を上げろ!!」




梁山泊の船が一斉に帆を上げた。夜明け、梁山泊の湖上には北から南へ強い風が吹く。帆はその風を受けて満々と張り、船が水煙を上げ一瞬、水面に浮かび上がった。
  そして、止まった。
  単廷珪の船と水だけが、水庫に向かって流されていく。
  単廷珪は、もはや驚愕も絶望も感じなかった。その横顔は、薄く笑っているようにも見えた。
“聖水将軍”単廷珪は、津波、怒濤を操ることを得意としながら、生来、碗の中の水のような男であった。怒るということがない。その握りしめた拳が、震えていた。
  単廷珪は抑えがたい怒りを感じていた。
(戦いは終わらぬ!!)
  北冥の奥、泥海の上に築かれた水寨には、まだ工兵と水牛船が残っている。捕虜もいる。
「梁山泊は湧水ではない。何年かかろうが水路を変え、梁山泊の水を一滴残らず干上がらせてやる」
  叫ぶと同時に、単廷珪は何者かに足をとられて水中に落ちた。水中から飛び出したのは、“浪裏白跳”張順と水軍の男たちであった。
  水面に浮かび上がった単廷珪は、旗艦の船底から噴水のように水が迸るのを見た。張順たちがいつの間に船底に穴を穿っていたのだ。
  ゆっくりと沈没していく船の上に、明けていく空が広がっていた。
  張順は単廷珪を水中から引き上げ、李俊の船に放り込んだ。再び水に飛び込んだ張順は、水庫の奥へ向かった。目指すは単廷珪の水寨である。水軍の男たちが後に続いた。やがて水寨が見えてきた。撤退しようとする工兵たちの間に、水牛船に乗せられて運ばれて行く檻車があった。
「兄さん!!」
  その声を聞いた“船火児”張横は、檻の格子を掴んだ。
  薄明の中、遠くの波間に張順の体が白く浮かび上がっていた。別れてもう半年近くにもなる。梁山泊へ帰る道のりは、彼にとって余りにも長かった。懐かしい弟の顔に、張横は格子を握った。
「順よ!!」




 檻の中には阮小七も捕らえれていた。張順の後ろから阮小二、阮小五が叫んだ。
「七郎ッ!!」
「兄貴!!」
  明けゆく空に、兄弟たちの声が響いた。




  董平は、次第に明るくなる空を睨んだ。
  東平府へ向かう馬の鞍上に、董平は後ろ手に縛られて座っていた。“風流”“英雄”の名からは遠い姿である。前後には、東平府の兵がひしめいていた。彼は謀叛人として東平府に護送されていくのである。
  程麗芝が童貫の甥と婚約しており、すでに結納まで交わされたとは、董平にとってはまさに青天の霹靂であった。彼は程太守に利用されていた。程万里は、董平の純情を物陰であざ笑っていたのだ。董平は乱れた髪の下で笑った。
  笑うがいい。
  天も地も、風も花も笑うがいい。
  やがて前方に東平府の城門が見えてきた。門楼の見張りが東平府の旗を認めた。
「それは兵馬都監董平か。捕らえたか」
  問い掛けに董平を護送してきた将が手を掲げて応え、一行は真っ直ぐに城門に向かった。ゆっくりと扉が開く。董平を護送してきたおよそ一千の兵が陸続と城内に駆け込んで行く。守備隊長が、出迎えるべく詰所から走り出てきた。
「謀叛人の董平を捕らえたとはお手柄」
  言いかけて、隊長は将の顔に目を止めた。
「お前は」
  将と思ったのは、美しい娘──“一丈青”扈三娘であった。驚いた表情のまま、守備隊長は背後から孫二娘の刀で両断された。
「行くよ!!」
  兵に扮した顧大嫂が、被っていた兜を放り投げた。東平府軍と思われたのは、すべて女兵──捕虜にした東平府兵の甲冑を身につけ、奪った旗を掲げた扈三娘ら娘子軍だったのだ。扈三娘は董平を縛めていた縄を断ち切った。
「あとは好きにするがいい」
  董平の馬の鞍には、彼の双槍が吊ってあった。
  女兵たちは群がる守備部隊を切り開き、城内へと突入した。たちまち東平府は阿鼻叫喚の巷となった。空には急を知らせる太鼓や銅鑼の連打の響きがこだましている。朝の生業に出ようとしていた人々が慌てて家の中へ逃げ込んでいった。
「梁山泊軍だ!!」
  警鐘も人々の悲鳴も、董平には祭りの音楽のように聞こえた。賑やかな祝祭の音だ。群がる敵は祭見物の賑やかな野次馬だ。彼らを蹴散らし、董平は府の役所へ向かった。役所は程万里の屋敷に隣接している。そこに、彼の欲するものが全てあった。その場所こそ、この祭を締めくくる聖なる場所だ。
  董平は梁山泊軍が破った門から程太守の屋敷に乱入した。兵士たちが入り乱れ、使用人たちが逃げまどう。董平は家族の住まいである奥へ向かった。手には双鎗、歌を口ずさんでいた。
    求めても得られねば 思いの明け暮れ
「董平──何をしている」
  聞き慣れた声に、董平は振り向いた。騒ぎに慌てて飛び出してきたのだろう、起き抜けの、冠もかぶらぬ程万里の姿があった。
  董平は笑った。
  その顔を見た瞬間、程万里は凄まじい殺気を感じて逃げだした。しかし、二歩と進まぬうちに、その背を鎗が貫いた。程万里は、悲鳴をあげる暇もなかった。
  血に汚れた鎗を息絶えた男から引き抜き、董平は歌った。
    求めても得られねば 思いの明け暮れ
  董平は衛兵に取り囲まれた。
    悠なり 悠なり 夜もすがら寝返りする
「董都監、乱心!!」
  歌いながら、董平は衛兵たちを斬り伏せた。
  その間にも、梁山泊軍は役所や官の蔵を襲い、火を放ってく。屋敷にも火が燃え移っていた。董平は衛兵を殺しつくすと、降り注ぐ火の粉の中を、屋敷の奥へ向かった。部屋から飛びだし、逃げまどう人々がいた。
  董平は血の海となった回廊を抜け、董平はもっとも奥の庭に出た。
  麗芝と董平が初めて出会った庭であった。しかし、その場所も血に汚れ、炎が降り注いでいた。
  ふと董平の動きが止まった。
  彼は庭の一隅に、一枝の初梅を見つけた。人間たちの愚かな騒ぎなど知らぬげに、汚れなき白い花が綻んでいた。
  その花を見つめたまま、董平は背後から忍び寄る衛士を振り向きもせず斬った。
  廊下の向こうから声がした。
「──お嬢様、こちらです」
  朱児の声だった。
  董平は白梅の一枝を折り取ると、花を手に麗芝を求めて声の方へと歩いていった。
  二人の娘は、董平が今しも惨劇を演じてきた方へ逃げようとしていた。
  程麗芝にとって、今日という日の朝は絶望の朝であった。昨夜、継母から今日には童貫から使者が来るので、ともに東京へ向かうようにと告げられた。彼女はすでに、自分が父親のため生贄でされるであろうという運命を悟っていた。深閨に生きた程麗芝にとって、運命に対しては、諦める以外の選択はなかった。
  麗芝はただ眠れぬ一夜を過ごし、最後に董平に一目会いたいとも、その怒りと絶望を思えば、もう永遠に会えぬとも思って泣いた。
  そして、いつの間にか眠り、董平との婚礼の夢を見た。董平は穏やかに微笑み、父も母も心から二人を祝福してくれた。その夢は、突如起こった喧騒に壊された。
「いったい、何が起こったの」
  麗芝は小間使いの腕に縋った。
「お父様、お義母様は……弟たちはどこにいるの」
「いけません、見てはいけません」
  あたりは血の海である。おびただしい死体が転がる中を抜け、二人は両親の部屋がある方へ回廊の角を曲がった。
  その時、朱児が悲鳴を上げた。
  回廊の向こうから、血まみれの鎗を下げた董平がやって来る。
  麗芝は目を見開いた。その瞳は、一瞬だけ喜びに輝き、それから、絶望と恐怖に閉ざされた。
  大きく見開いた瞳には、何も映っていないようでも、すべてが映り込んでいるようでもあった。
  全身を血に染めた董平。
  血の海の中に横たわっている父と継母、幼い弟たちの死体。
  麗芝は悲鳴を上げることもできず、ただ呆然と男が近づくのを見つめていた。
  董平の声が遠く響いた。
「麗芝」
  董平は額に落ちた一筋の髪をかき上げると、ゆっくりと令嬢に向かって歩いていった。そして、震える佳人へ、手にした一輪の白梅を差し出した。




 白い花弁に、点々と血が飛び散っていた。
  令嬢は、震える指を花へ伸ばそうとした。
  しかし、それに触れることもなく、程麗芝は血の海の中へ失神した。
  明け方の空は、ぼんやりと白く輝き、もうひとつの星も見えなかった。




“花和尚”魯智深は、禅杖を担ぎ夜明けの空の下を走っていた。


 南へ。走るほど、風は暖かくなるようである。
  魯智深の傍らには“行者”武松が駆けている。その後ろには扠を担いだ“両頭蛇”解珍、“双尾蠍”解宝が続く。“出林竜”鄒淵、“独角竜”鄒潤、“鉄臂膊”蔡福、“一枝花”蔡慶──彼らは林冲ら騎馬軍と啄鹿原で別れた歩兵である。先行する騎兵軍を追い、冬の荒野をひたすら南へ向かって走った。
  啄鹿原を後にしてから、もう何日も走り続けていた。彼らの足を動かしているのは、ただひとつの風景である。
  懐かしい梁山泊。彼らの砦。
  梁山泊は、すぐそこまで近づいているはずである。疲労は限界に達している。草履は擦り切れ、脚からは血が滴っていた。しかし、彼らは走ることをやめなかった。
  皆が口々に叫んだ。
「騎兵軍に遅れるな!!」
「走れ!!」
「梁山泊はもうすぐだ!!」
  叫べば、疲れも、足の痛みも忘れた。魯智深が先頭を駆けていく。彼は四海を家となし、一所に長く止まるということがなかった。渭州、雁門、五台山、開封、滄州、孟州、そして二竜山と、絶えることなく流離ってきた。
  今、魯智深は梁山泊へ向かって、仲間とともに走っていく。ずっと梁山泊に向かって走ってきたようでもあった。
「アニキ!! アニキ!!」



耳で唸る風に混じって、ふいに懐かしい声が聞こえた。驚いて傍らを見ると、いつの間にか肩を並べて走る男がいる。目が合うと、男は剣呑な目でにやりと笑った。
「久しいナ、魯智深アニキ」
「おお、“活閃婆”ではないか」
「覚えていてくれたのかィ。嬉しいねェ。しかし、話は後サ」
“活閃婆”王定六は、もとは五台山あたりを縄張りにしていた掏摸である。魯智深とは東京で別れて以来であった。それが張順の安道全探しが縁となり、李俊らとともに蘇州から梁山泊へやって来た。早速、その駿足を生かし、梁山泊の伝令を買って出たのである。
「呉用先生からの命令サ」
  王定六は走りながら左手、東の方を示した。
「歩兵軍は、すぐ東昌府を攻めよ──とネ」
「東昌府?」
  武松が妙な顔をしたが、魯智深は躊躇わなかった。
「よし、わしが懲らしめてやろう」
  魯智深は禅杖を担ぎなおすと、すぐさま足を東に向けた。
  日の出が近い。荒野を駆ける魯智深たちの前途に、地平は明るくなり始めていた。




  その頃、“没羽箭”張清は項充、李袞ら梁山泊軍の追撃を振り切り、東昌府へ急いでいた。
  東昌府が梁山泊軍に襲われたとの報を受けたためである。東昌府の兵力は三千余り、その殆どを張清が率いて来ていた。
  城市を空けることに不安がなかったわけではない。梁山泊に東昌府に割ける兵力はないと思っていたのだ。
  張清は軍を急がせた。と、殿にいた丁得孫が後方に一軍の歩兵を発見したと馳せつけてきた。
「将軍、あれを」
  振り返ると、朝焼けの光の中に梁山泊の旗がたなびいているのが見えた。さきほど交戦した梁山泊騎馬軍とは別の部隊のようだ。
(あれも東昌府へ向かっているのか)
  張清は東昌府が襲われたという伝令を受けたが、その後はなんの連絡もない。慎重な張清は、すでに東昌府が落ちたことも視野に入れていた。
  しかし、もしこの歩兵が梁山泊軍の援軍だとすれば、それはまだ東昌府が落ちていないということだ。張清は三千の兵のうち五百騎を残すと、あとは襲う共旺と丁得孫に与えて東昌府へ向かわせた。
「私はあれを片づけてから後を追う。先に行け」
  張清は新手の敵を阻止すべく、五百騎を率いて待った。
  張清に従う兵は五百余り。対する梁山泊の歩兵部隊は千余人。彼らの先頭には、ひとりの太った和尚がいた。とうに張清たちに気づいているはずなのに、禅杖を肩に担いで真っ直ぐに向かってくる。
(あの僧が大将か)
  張清は相手が射程に入ったと見るや、やにわに飛び出し、さっと礫を投擲した。



和尚は頭から鮮血を噴いて引っ繰り返った。
  魯智深が倒れると、従っていた兵たちは、わっと叫んで逃げ出した。張清は追った。従う虎騎兵が先行した。梁山泊の歩兵は前方の雑木林へ逃げ込んでいく。
「気をつけろ」
  張清が叫んだ時には、今度は背後に鬨の声が上がった。見れば、二振りの戒刀を握った行者を頭に千余りの兵が枯れ野の中から現れた。彼らは初めから挟み打ちにするつもりで、張清が魯智深に気を取られている隙に背後に回り込んだのだ。
  張清の手が礫を握った。武松は一発目を右手の雄刀で弾き飛ばした。間髪入れず二投目が飛ぶ。“独角竜”鄒潤が飛び出した。
「あぶねぇ!!」




 鄒潤は二発目を頭のこぶで受け止めた。鄒潤の“独角”は、固きこと松の木に勝る。礫を弾き飛ばしたが、皮が裂け、鄒潤は血まみれになって卒倒した。
  しかし、張清とその軍は包囲され、次第に雑木林の中へ押されていった。
  解珍、解宝は藪にひそみ、その時を待っていた。
「──来たぞ」
  解兄弟と手下の歩兵は藪から飛び出し、東昌府の兵を襲った。解珍たちは敵を襲っては逃げ、林の中を獣のように駆けた。
「足を止めるな!!」
  歩兵たちも駆け続け、襲っては退くことを続けた。張清の礫を避けることは難しい。しかし、木々が彼らを助けてくれた。
  張清は礫の袋が軽くなっていくのを感じていた。張清は敵を防ぎつつ、見晴らしのよい場所へと向かった。
  と、前方に忽然と一軍が現れた。その数千。率いる男の顔に見覚えがあった。
「董都監、よい所に」




男は東平府の兵馬都監“風流双槍将”董平であった。しかし、董平は張清に思いもよらぬ言葉を放った。
「降伏しろ、東昌府は落ちた」
  風流の名にそぐわぬ、冷やかな響きであった。
  張清軍に動揺が走った。董平が諸手に双槍を握った。二本の槍がきらめき、殺気が燦然と立ちのぼる。輝かしいまでの殺気と、人を圧倒する光輝、それこそが“風流双槍将”“英雄万戸侯”の姿であった。
  この男が敵となったことを、張清はなぜだか不思議とも思わなかった。この男とは、いつか戦うことになるかもしれない──そう、どこかで感じていたからかもしれない。一陣の清風のごとき張清──董平と彼は相いれぬ、あまりにも異なる人間であった。
  董平が馬を躍らせた。
  董平は、張清が礫を放つのを見た。



“没羽箭”張清の投石術のことは聞いている。しかし、実際にその技を見るのは初めてだった。董平は右の槍を払って防いだ。その時には、すでに張清は左手で次の礫を投げていた。
  張清の礫の恐ろしさは、この二投目にある。
  一投目をかわす者はいても、二投目をかわした者はかつてなかった。左右の手から間髪を入れずに投擲された礫を防ぐには、体勢を立て直す暇がないのだ。張清の利き腕は実はこの左手である。二投目のほうが捷く、鋭い。董平の顔面へ礫が迫った。
  董平は右槍を払った体勢のまま、左手の槍を振るった。董平もまた左右の腕を自在に操ることができるのだ。



礫が弾き飛ばされた。
  張清は驚愕した。自分の礫が無敵ではなかったことと、董平が双槍将と呼ばれる意味を、初めて悟った。張清は鞍に吊っていた槍をとると、馬首を返した。董平が追うのを振り切り、張清は敵の重囲を駆け抜けた。梁山泊軍が追ってくるのが分かったが、振り返る余裕はなかった。
  張清はひたすら東昌府へ向かって駆けた。朝の空が洗い上げたように清々しい。その輝かしい一角を汚すように、東昌府を焼く黒煙がたなびいていた。
  やがて東昌府が見えてきた。破られた城門の前に、梁山泊軍の旗が林のごとく翻っている。東平府から移動した宋清率いる“宋江軍”である。城門前には、紅白の装束をつけた二人の将軍がいた。すなわち呂方と郭盛である。張清は彼らの背後に、捕虜となった虎騎隊と二虎──共旺、丁得孫の姿を見た。
(東昌府は本当に落ちたのだ)
  張清の姿を認めると、門前から盧俊義、燕青率いる騎馬部隊が飛び出した。彼らは東昌府を包囲するため、負傷兵や疲労した者を連れて“宋江軍”の援軍となったのである。
  盧俊義は槍を手に張清へ向かっていった。燕青が追った。
「旦那様、礫にご注意を」
  燕青が言うとともに、張清の礫が盧俊義を襲った。盧俊義は槍を振るって礫を弾いた。張清は袋を探った。もう礫は残っていなかった。張清は馬首を回した。
「──追うな」
  盧俊義が、追いかけようとする燕青を止めた。
  東昌府を後に、張清は逃げた。“没羽箭”張清の、生涯はじめての敗戦であった。
  もう方向は定めなかった。ただ馬の走るにまかせて進んだ。逃げているのか、進んでいるのかも分からなかった。
  張清は走り続けた。ただ自分の心臓の音だけが静寂の中に響いている。やがて張清はどことも知らない場所に出た。広々とした草原で、爽やかな朝の風が吹いていた。
  この草原の彼方に誰が待っているような気がして、張清は、どこまでも走っていこうと思った。
  馬腹を蹴った、次の瞬間、張清は馬の足をすくわれ、水中に放り出された。草原と思ったのは葦原で、地面は土ではなく水だったのだ。立ち上がろうとする張清の前に、ぬっと大柄な坊主が現れた。
「さっきの礼に、“説法”を聞かせてやろう」
  魯智深は張清の顔を思い切り拳で殴りつけた。
「阿弥陀仏」
  魯智深は気絶した張清を担ぎ上げると、呵々と笑いながら、また梁山泊へ向かって歩いていった。





  次第に明けていく空の下、“小旋風”柴進は、鶏狗とともに東昌府の役所へ向かっていた。
  これに先んじて、東昌府を見張っていた鶏狗“走無常”が童貫の使者を捕らえ、その懐から、東昌府太守・陳文昭に宛てた書状を奪っていた。
  陳文昭が謀叛人である関勝に味方し、勝手に軍を動かしたことを糾弾する内容である。東昌府の動きも、程万里は逐一童貫に報告していたのである。
  柴進は宋江、呉用の命令を受け、清廉の人と誉れの高い陳文昭を梁山泊に招くためにやって来たのだ。
  東昌府の城門、街の要所は梁山泊軍が制圧しているが、宋江は略奪や住民を傷つけることは厳禁していた。何箇所かから火の手は上がっていたが、人々は家にこもり、ひどい混乱は生じていなかった。
  しかし、失火か、誰かが火をつけたのか、役所は激しく燃え上がっていた。官吏や仕丁たちが炎の中から逃げ出していく。柴進は鶏狗に守られ、火の気のない裏から役所に入った。役所内は炎と逃げまどう人々の喧騒に満ちていたが、奥まった一角だけは、しんと静まっていた。太守である陳文昭の執務室である。柴進は扉を押した。
「太守閣下」
  ともに梁山泊へ──言いかけて、柴進は踏み出した足を止めた。
  薄暗い部屋に、外の炎が仄かに差し込む。その危うげな光の中に、動かぬ影が浮かび上がっていた。



柴進は、わずかに目を見開き、そして、瞑目した。
  執務机の上に、老人が上半身を預けて倒れている。僅かに苦悶するように伸ばした手の先に、小さな毒杯が転がっていた。
「──遅かりし」
“影法師”が呟いた。



  梁山泊、聚義庁に、次々と戦勝の報告が届いていた。
  しかし、夜明けとともに、さらなる緊張が山塞に走った。急使である。偵察に出ていた“鼓上蚤”時遷と“錦豹子”楊林が、相次いで戻って来た。すぐさま呉用とともに梁山泊防衛を担う、“神機軍師”朱武、“鎮三山”黄信、“病尉遅”孫立が聚義庁に招集された。
「禁軍さまのご到着や」
  時遷は子鼠を肩に、南方を顎で示した。
「五丈河を官の軍艦が下ってくるで。ありゃ、東京開封を守る卞河水軍──ものすごい数や。兵数は五万を下らんやろ。大将は、なんと童貫じきじきのお出ましや」
  続いて、楊林が西岸にも禁軍の陸軍が到着したことを報告した。
「参りましたのは、禁衛武官の畢勝率いる三万の衛京禁軍。黄金の鎧を連ね、潮の満ちるごとく整然と進軍してまいります」
  衛京禁軍──正式名を守衛京帥禁軍と云う。天子のおわす首都開封および宮城を守護する禁軍中の精鋭である。討伐軍には、その中から騎兵である竜騎隊、歩兵である虎翼隊が投入されていた。彼らの威名は全国に轟いている。
  呉用は立ち上がり、ゆっくりと聚義庁を横切って、扉を開いた。
  空と湖が見渡せる。
  湖上の船、階段を駆け登ってくる戴宗の姿が小さく見えた。
  呉用は、静かな感動を覚えた。
  梁山泊──この水のほとりに、なんと多くの人々か集まってきたことだろう。青州から、江州から、華州から、名もなき地から。
  呉用が初めて湖を渡った時は、仲間はわずか八人だった。長い時、戦いのはてに聚まった人々。一体、なにが彼ら導いてきたのだろう。
  その答えを、呉用は知っているような気がした。
  呉用は聚義庁へ振り返り、梁山に残るすべての者に出陣を命じた。孫立が懸念を示した。
「それでは、この山ががらあきではないか」
「いいえ」
  静かなる微笑──それが“智多星”呉用の答えであった。
「ここは私ひとりで大丈夫です」
  朱武には分かっていた。
  戦う者、伝令として走る者、船を漕ぐ者、すべての力を適所に配置し、最大限に用いるのが、軍師呉用の戦いである。
「私が聚義庁に残ります」
  その横顔に、朝日が差した。
  今しも、東の水平線に太陽が一条の光を現したところであった。



※文中の『赫思文』は、正しくはです。
※文中の『共旺』の表記は、正しくは 共旺 です。
※文中の『下河』は、正しくはです。
※文中の『啄鹿原』は、正しくはです。



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