水滸伝絵巻-GRAPHIES-

第一部・最終回
結集百八星
後篇

 二月朔日──夜明け。
梁山泊西岸の林に隠された連環馬基地には、終夜、明かりが灯されていた。この運命の日を前に、“天目将”彭己はまんじりともせず夜を明かした。
夜明け、彭己はうたた寝の中に馬蹄の響きを聞いて、目を開けた。それは、聞き知った馬蹄の音である。夢かと思ったが、目を開いても、なお音は近づいてくる。
彭己は砦から走り出た。すでに物見の兵士たちが騒いでいた。
「おお──」



彭己の目は、落水渡より駆け来る一頭の馬、その鞍上の人の姿に釘付けとなった。
「呼延灼将軍!!」
彭己は躊躇しなかった。連環馬軍五百騎は有事に備え、すでに鉄鎧を装着していた。すぐさま連環の鎖を加え、五十騎ずつ十列の陣形をとった。
呼延灼の声が響いた。
「目標は守衛京帥禁軍三万。速やかに発進し、まず南方の敵軍を撃破すべし」
呼延灼は剔雪烏騅の鞍上に双鞭を掲げ、南方を指した。
こここそ、呼延灼のいるべき場所、戦うべき場所であった。
「連環馬軍、出陣!!」
蹄鉄の音たかく五百騎が進軍していく。陣頭には“双鞭”呼延灼、そして“天目将”彭己。降り注ぐ朝日に、鉄鎧が燦然と輝いた。



連環馬の監視を務めていた“金鎗手”徐寧のもとにも、梁山泊から“病大虫”薛永が伝令として駆けつけていた。
「鈎鎌鎗班も南方へ移動してください」
薛永は徐寧に移動を伝えた。これからは官軍との騎馬戦、および水上での決戦となる。歩兵である鈎鎌鎗班には、鈎鎌鎗班の出番があった。
薛永の愛犬、太白が吠えた。西方に目をやると、荒野の彼方に一軍の騎馬隊が南方へ駆けていくのが見えた。先頭を“豹子頭”林冲が行く。“青面獣”楊志、“百勝将”韓滔が続いていた。
去る年の末、林冲は三千騎の兵を率いて厳寒の中を北京へ向かい、盧俊義を救い出し、さらに曽頭市へ、啄鹿原へと、三月の間、戦い続けた。
そして、今、ついに林冲は梁山泊へ戻って来た。
昨夜、夜を徹して走り続け、疲れ果て、気を失いそうになった時、空に輝く流星を見た。
その光が、梁山泊をはっきりと夜空に浮かび上がらせた。
梁山泊へ帰ってきた。
林冲のすぐ後ろを駆けていた“百勝将”韓滔は、左手の湖岸を連環馬軍が行くのに気づいた。すぐさま韓滔は林冲に離脱を告げ、連環馬軍に合流すべく馬首を転じた。
連環馬軍の陣頭には、呼延灼の姿があった。
「将軍!!」
韓滔は滅多に上げることのない声を上げた。



湖が朝日を受けて輝いている。
人々が出ていき、がらんと静まり返った聚義庁に、呉用がひとり佇んでいた。
かつて聚義庁がこんなに静かだったことはない。しかし、呉用は感じた。
(みながいる)
呉用はふと既視感を覚え、聚義庁の中を見回した。晁蓋の椅子を中心にずらりと沢山の椅子が並んでいる。そこに座る一人一人の顔が呉用には見えた。
白羽扇を手に、呉用は南方の空へ視線を転じた。
朝日が眩しい。
天も地も照覧あれ──
(我々はみな、どこまでも共に行くのだ)
ひたすらに南方へ向かう梁山泊軍の姿が、呉用にははっきりと見えていた。
(ともに行くのですよ──晁蓋殿)



「あれを!!」
梁山泊西岸を進軍していた官軍中から、悲鳴のような声が上がった。
運城県東郊外の荒野である。土地は平坦で、地平までが見渡せる。その地平から、滲むように現れた黄金の波──。
「あれが──連環馬!!」



鋼鉄の波である。怒濤のごとく押し寄せてくる。大地の震えが足から伝わり腹に響いた。蹄鉄の轟き、甲冑の触れ合う音がこだまする。衛京禁軍三万は震撼した。敵はわずか五百に過ぎない。しかし、陣頭に立つは軍神──“双鞭”呼延灼である。両翼には、“百勝将”韓滔、“天目将”彭己。
大将を務める畢勝は、沈着で知られた将である。すぐさま竜騎隊一万を前方に配置した。その背後には一万の歩兵、虎翼隊が控える。悠揚と迫らぬ采配であった。
敵は連環馬といえども少ない。畢勝は両軍が接近するや、騎兵と歩兵を左右に素早く展開させ、連環馬の両脇を突くつもりであった。連環馬の弱点は、各馬が連環していること、および転換の動きが鈍い二点だ。そのため横からの攻撃に弱い。官軍は全速で進軍しつつ、東と西の複縦列に割れた。
ところが、左右に別れた官軍の正面に、連環馬とは異なる二つの騎馬軍が出現した。
「“豹子頭”林冲!!」



左からは“豹子頭”林冲、そして、右からは“青面獣”楊志率いる騎馬隊である。予期せぬ敵の出現に、官軍の先鋒は動揺した。
林冲らは梁山泊の北辺から駆けつけた騎馬軍である。彼らは昨夜より戦い続け、駆け続けている。疲労は極に達している。しかし、なにかが彼らを突き動かしていた。
林冲は、ひどく馬が軽いのを感じた。このまま、どこまでも駆けていけるような気がする。
不思議な力が満ちていく。光が見えた。
ずっと闇と嵐の中を駆けてきた。いつ死んでもいいと思った。
しかし、今、彼には一条の光が見えた。晁蓋の声が聞こえた。
『わしに続け!!』
彼方に、闇の中を駆け抜ける晁蓋の背中が見えた。
その声は、林冲を導くように、はっきりと脳裏に響いた。
弟よ──弟たちよ。

 替天行道の旗が風の中に輝いている。
林冲は信じた。誰を、何を、どう信じているのかは分からない。
ただ、林冲は信じて駆けた。
雪が舞った。花かもしれない。
いつかまた“鬼”に遇うかもしれない。
(しかし──俺はそれを斬るのだ)
林冲は顔を上げた。
蛇矛を握り、林冲は闇ではなく、前方に迫る敵を見据えた。



梁山泊軍の猛攻に官軍の先鋒、竜騎隊が崩れた。果敢に梁山泊軍の鋭鋒へ立ち向かった虎翼歩兵も、官軍の内奥深くまで食い込んだ楊志率いる梁山泊騎馬軍に分断された。
一方、後方に控えていた畢勝の中軍一万は連環馬軍の猛威に晒されることとなった。中軍を一気に蹂躪すべく、連環馬軍は速度を上げた。相手は、彼らがかつて属した禁軍の、天子直属の軍である。しかし、呼延灼の顔に迷いはなかった。
後方からはさらに続々と梁山泊軍が到着していた。先陣を切るのは“霹靂火”秦明である。その足の傷はいまだ癒えておらず、啄鹿原からここまで愛馬・飛熊の鞍から下りることはなかった。



「花栄見参!!」
続いて“小李広”花栄と弓隊が突出し、敵の側面に矢を射かけた。崩れたところへ“摩雲金翅”欧鵬率いる黄門山八百が突入した。さらに“錦毛虎”燕順率いる清風山八百、“火眼俊猊”登飛率いる飲馬川七百が続く。
次々と現れる梁山泊軍に官軍は攪乱された。騎歩ともに部隊は寸断され、将兵は逃げまどった。辛くも戦場を離脱した部隊は湖畔の葦原へと向かったが、そこには徐寧率いる鈎鎌鎗班が待ち構えており、逃亡兵を次々と捕えていった。
「撤退せよ、全軍撤退!!」
畢勝は撤退の合図を発した。衛京軍は精鋭である──名家の師弟を揃え、優秀な師範たちが教練を行っている。彼らが守備する首都開封は百五十年の平和の都だ。それゆえに、実践の経験が皆無であった。畢勝は兵力の温存を急務とした。
しかし、撤退の合図が、却ってさらなる混乱を呼んだ。撤退は、あらゆる軍行動のなかで最も困難なものだ。その演習を、無敵と称する衛京禁軍はしないことを美徳としていた。彼らは闇雲に戦場から離脱しようとした。
「南だ、とにかく南に走れ!!」
軍の混乱を見た畢勝は、それだけを命じた。南には関勝から接収した陣がある。それを目指し、畢勝ら本隊も先頭をきって後退を開始した。童貫率いる水軍もその五丈河の河口へ到着しているはずである。
畢勝、豊美らは必死に南に向かって逃げた。混乱し逃げまどう兵士たちが梁山泊軍の進路を遮り、畢勝らの撤退を助ける結果となった。本隊は運城県を離れ、東渓村の郊外を抜けた。やがて足場の悪い地帯にさしかかった。泥土と石の入り交じった荒れ地である。
呼延灼は全軍に停止を命じた。連結された上、重量のある連環馬軍は悪路に弱い。指呼の間を隔て、殿の豊美が笑うのが見えた。
「鉄屑め、追ってこれまい」
その時、二縦列をとっていた連環馬軍が左右に割れた。その間から、紅の馬に騎乗した一人の将が進み出た。
「“大刀”関勝!!」



現れたのは、梁山泊の兵を率いた“大刀”関勝であった。呼延灼が道を譲った。
「関将軍、この先はお頼み申す」
呼延灼と視線を交わし、関勝は無言で頷いた。
彼らは“大刀”と“双鞭”、ともに武器の名で呼ばれ、戦う神であれと望まれた。
関勝の声が重く響いた。
「われわれは──人だ」
戦うことが、宿命であるのなら。
「わしは、ひとりの人間として、戦いたい」
戦うことの罪も罰も苦しみも、この身ひとつに受ければよい。
関勝は大刀を輝く朝日の中に掲げた。梁山泊全軍の声が空にこだました。
梁山泊軍が関勝の指揮を受けるのは初めてである。しかし、彼らはもとから関勝の兵であったかのようだった。関勝の意のままに動き、恐れることを知らず、衛京禁軍にも勝る一糸乱れぬ統率を見せた。軍それ自体が一個の戦う生き物のようであった。それが、武神──“大刀”関勝の力であった。
畢勝は、叫んだ。
「撤退──撤退!!」
全滅かもしれぬ──畢勝は「撤退」を叫び続けた。



“神火将軍”魏定国は待っていた。
魏定国は豊美とともに、畢勝率いる衛京禁軍の麾下に入っていた。凌州兵に与えられた任務は、やはり伏兵であった。
南に抜ける官軍の撤退路の途上には、三丈ほどの渓谷にかかる吊り橋がある。あたりは開けた荒野である。魏定国はその川の北側一帯に陥穽を設け、自らも橋の北端と罠の間に布陣していた。
「畢将軍の軍が撤退してきます」
物見の声があたりに響いた。魏定国は作業を急がせた。官軍が見るも無残な様子で敗走してきたことには驚かなかった。
(畢勝ごときに勝てるものか)
魏定国は撤退してきた官軍に合図を送り、河原を大きく迂回させて橋へ行かせた。部下たちに守られながら、畢勝は橋へ向かっていく。
「頼んだぞ、魏将軍」
畢勝は関勝率いる追撃軍を殿の豊美に任せ、千ほどの腹心の兵のみ率いてここまで撤退してきた。この橋を渡れば安全だ。畢勝軍はそのまま橋を渡って南方へと去った。その時、橋を落とすことを忘れなかった。
「──なるほど、“智将”だ」
魏定国は渓谷に落ちていく橋を見送り、妙に静かな心で呟いた。橋が落とされたことで、魏定国軍の退路は絶たれた。背水の陣と見て、梁山泊軍は囮とも思わず突撃してくるだろう。
魏定国は、迫る梁山泊軍を泰然と待ち受けた。梁山泊軍を目視するまで長い時間はかからなかった。林冲、楊志の軍である。三千騎もいるだろう。対する魏定国の工兵は二千に満たないが、このまま待っていればいいはずだった。今日の罠は“紅星海”。陣を取り巻くようにして、無数の陥穽と地雷を放射線状に仕掛けてある。
(神でも、この地雷源を突破することはできぬ)
しかし、梁山泊軍があと二、三里まで近づいた時、罠の左手、西の方角から全身に包帯を巻いた一人の男が、裸馬に乗って駆けて来るのに気がついた。魏定国は男を制止しようとした。すでに梁山泊軍はすぐそこまで迫っている。
裸馬の男は、その梁山泊軍へ向かって突っ込んでいこうとするようである。魏定国は思わず目を疑った。包帯を巻いた、馬上の男──。
(まさか)
「“急先鋒”索超!!」
金燦斧が朝日にきらりと輝いた。
「あやつは不死身か!!」



“急先鋒”索超は啄鹿原で陥穽に落ち、梁山泊の捕虜となった。しかし、この男は満身創痍にもかかわらず、治療中に見張りを殴り倒して、逃げた。
林冲、楊志の姿を見つけた索超は、夢中で馬の腹を蹴った。名にし負う北京大名府の正牌軍が、今や裸馬と金燦斧のみ。
「白衣の男!! 今日こそ決着をつけてくれる!!」
索超の馬の足が、ふいに地面を踏み抜いた。陥穽を踏んだのである。索超は真っ逆様に落とし穴の中へと転がり落ちていった。
それを見た林冲は手綱を引いた。
「陥穽だ、迂回せよ!!」
林冲軍は東へ迂回した。東方に辛うじて渡れる浅瀬がある。
このままでは、啄鹿原の二の舞となる。魏定国は導火線を握った。
「逃がさぬ!!」
魏定国は河岸に仕込んでおいた火薬に点火しようとした。ありったけの火薬を使った“火焔瀑布”だ。地中に仕込んだ火薬から、壁のように炎を噴き上げる。が、その背後で兵士が叫んだ。
「畢勝将軍が戻って来ます!!」
「戻って来た?」
振り向くと、確かに撤退したはずの畢勝軍が戻って来ていた。彼らは橋を渡ってさらに南下を続けたが、突如現れた賊軍に襲われ引き返してきたのである。
その後方で真っ黒な男が叫んでいた。
「祭りだ、祭りだ!!」



李逵は二丁の板斧を振り回し、官軍を縦横無尽に斬り伏せた。枯樹山の山賊を率いる鮑旭の闊剣は熟練の死神のごとく、必ず一撃で敵を倒した。焦挺は思う存分、禁じ手の“鉄風筝”を使う。梁山泊が“いい所”だというのは本当だった。焦挺は敵の首を掴み、思い切り空へ投げ上げた。
畢勝軍は河原へと追い詰められた。対岸に渡ろうとしたが、橋がない。彼ら自身が落としてしまったのである。
彼らは浅瀬を見つけて渡ろうとしたが、魏定国が点火した“火焔瀑布”が地面から火柱となって噴き上げており、炎の長城のごとく渡河を阻んだ。戦いは河の両岸に展開され、敵と味方、逃げる者、追う者が入り乱れて混乱は凄まじかった。その喧騒のただ中に、ぽつりと置き去りにされた檻車があった。
「関兄だ……!!」
宣贊は檻車の格子を掴んだ。
「関兄が──生きていた!!」
両軍が入り乱れる戦場の彼方に、宣贊は関勝の姿を見た。赫思文もまた、関勝の姿を見ていた。
「──天は、我等に“与え”たもうた」
朝日を浴びたその姿が、今ほど神々しく見えたことはなかった。



梁山泊南端、五丈河。その川面にも、朝日が差した。



童貫は船室から出て、艦橋に立った。大船団の後方よりに位置する童貫の旗艦から見渡すと、艦隊は外輪の大型戦艦を中心に、五丈河の水面を覆うようである。
「間もなく先鋒が湖に到達いたします」
侍臣の報せに、童貫は満足げに頷いた。前方──河口の方角に銅鑼が鳴り響いたのは、まさにその時であった。
「前方に敵影!!」
先鋒軍の船上を見張りの声が揺るがした。
卞河水軍の司令官は劉夢驥。江南は雲夢沢に代々続く、水軍の一族の麒麟児である。船のこと、水戦のことは知り尽くしている。
「ばかな!! 梁山泊にこれほどの艦隊があるわけがない」



劉夢驥は目を疑った。東平府の程太守から、梁山泊には船がないと聞いていた。少なくとも、これほどの数の船はないはずだった。
波間に江州の舟歌が響き渡る。先頭を進むのは、水軍総帥たる“混江竜”李俊の船である。江州以来の僚友である張横、張順、童兄弟、李立が従っていた。漁船を操る石碣村の男たちの先頭を切るのは阮氏三雄、梁山泊のすべての水軍頭領が再び梁山泊の湖上に会したのだ。
それだけではない。右翼には東平府から奪った三百の戦船があった。“九紋竜”史進が三尖両刃を手に、その舳先に立っていた。傍らには“神機軍師”朱武、陳達、楊春が控えている。
左翼には孫立、孫新、顧大嫂ら登州一族が乗り込んだ船が白い波を蹴っていた。



降り注ぐ朝日の中で、梁山泊水軍と官軍の先鋒がぶつかった。一番槍は“跳間虎”陳達であった。



彼我の船縁の間は一丈。“谷を跳ぶ虎”陳達は船縁を蹴り、敵船へと跳躍した。着地するや一刀で官兵を水に落とした。他の者は熊手をもって船を寄せ、次々と敵船上に乗り移る。叫喚の響く波間に、さらに火砲が轟いた。
“轟天雷”凌振が乗る船は名付けて“火竜”。金輪の砲が轟き、官軍の大型船を一撃をもって粉砕した。
「船に火砲を積んでいるぞ!!」
官軍は射程から逃れ出ようと回頭した。その前方に、巨大な船が現れた。水に板を浮かべたような、見たこともない型の船である。この船こそ、“神算子”蒋敬が設計し、“玉旛竿”孟康が造船術の限りをつくして造った、水上に騎馬を運ぶ巨艦“蓬莱”である。官兵たちは震撼した。その船上にあり得ぬものを見たのである。
「あれは──!!」
“小遮闌”穆春は巨船の舳先で槍を握った。
「積んでいるのは砲だけではないのぢゃ」
「馬だ!!」
船上に居並ぶのは、水兵ではなく騎兵であった。率いるのは“没遮闌”穆弘。水と陸の狭間で生まれ育った男である。
江州掲陽鎮の闇塩商人は馬で荷を運び、官憲に追われればそのまま船上へ逃げる。船で運ぶ時は馬を乗せ、官憲の船に追われればそのまま馬で岸へと逃れる。“塩船賊馬”──船と馬を同時に乗りこなすのが、穆弘ら掲陽鎮の塩賊なのだ。
穆弘は、この塩賊の船馬を戦闘に使えないかと考えた。そして、訓練と工夫を重ね、百五十騎の水上騎馬軍を編成するに至った。実戦に使うのは初めてである。
兵は水練に優れる騎兵、馬も選別された体高の低い軽量馬である。足が短ければ重心が低い。船上で均衡を保つのに適しているのだ。
しかし、揺れる水上で船から船へ、確実に飛べる幅は一丈二尺。
「一丈まで寄せろ!!」
穆春が怒鳴った。
“小遮闌”穆春は、ずっと兄のもとで練兵の先頭に立っていた。馬とともに何度も湖に落ち、溺れかけては、船へ這い上がった。初め怯えていた兵も馬も、やがて穆春に続いた。
“蓬莱”は巨大なだけでなく、船足も早かった。舷側に備えられた外輪が高速で転回し水を掻く。杜遷、宋万、郁保四ら屈強な巨漢が外輪の回し板を踏んでいた。すぐさま“蓬莱”と先頭の官船が舷を接した。



「行くでや!!」
穆弘が先頭をきり、船縁を飛んだ。水上騎馬軍団は一斉に馬腹を蹴った。
「遮るものなし!!」



穆弘の槍が官兵を水へ切って落とした。着地すると船が大きく傾き、水飛沫が散った。
梁山泊水上騎兵は次々と船縁を越えていく。わずかに届かず、船縁から後脚を落として一騎を、敵兵の槍に突かれて二騎を失った。
すぐに甲板上は戦場となった。梁山泊の騎馬軍は足場の悪さをものともせず、まるで野を駆けるがごとく甲板上を縦横無尽に駆け回った。“蓬莱”はさらに次の船へと向かう。
形勢不利と見た卞河水軍司令官・劉夢驥は、ただちに号砲を放たせた。
「南へ向かえ、まず南岸を制圧するのだ!!」
梁山泊の南岸は水深が深く、梁山泊自身が築いた障壁がある。官軍はすぐさま回頭し、南へ向かった。
その前方に、突如として霧が流れはじめた。空は白い霧に閉ざされ、風が渺々と吹きすさぶ。凄まじい陰風に船が軋んだ。
五丈河の両岸に、鋭く切り立った岩がある。その上に、一人ずつ──二人の男が立っていた。



“入雲龍”公孫勝と“混世魔王”樊瑞である。
公孫勝は霧と暴風の中で瞑目している。
樊瑞はその対岸にいて、世界に満ちる万物の気が、二人に向かって押し寄せ、身の内に満ちていくのを感じていた。凄まじい気が二人を中心に渦巻いて、霧となって天空へ湧き上がっていく。
公孫勝が閉じていた目を見開いた。
「吾奉太上老君勅!!」
公孫勝は龍訣を結び呪言を放った。樊瑞は剣を手に北斗を踏んだ。
「告馮伯昌降臨諸龍王急々如律令──」
二人の声が荒天に和した。
「疾!!」



一条の稲妻が閃いた。
その時、官軍の兵士たちは、前方の濃霧から大艦隊が現れるのを見た。たった今、振り切ってきたはずの梁山泊軍にも劣らない数である。船上に蠢く兵士、燃え上がる篝火、たなびく旌旗──しかし、彼らが凍りついたのは、そんなもののためではなかった。
「竜だ──」



水飛沫を蹴立てて進む船団を率いるのは、一匹の巨大な白龍であった。
「惑わされるな──竜など幻だ!!」
劉夢驥の胸を一すじの矢が貫いた。いつの間にか前にも後ろにも梁山泊の大水軍が迫っていた。雨のごとく火矢が降り、突撃を受けた官軍の船が覆る。背後からは火砲が轟き、船から船へと馬が駆ける。白竜が波間に躍った。
卞河水軍は完全に統制を失って逃げまどい、多くの船が互いに衝突して湖へと消えていった。



その時、童貫の旗艦は五丈河口から上流十里に停泊していた。
苦戦を告げる伝令艇が次々とやって来ている。しかし、童貫は異様なほど落ちついていた。その頭脳は、危機において衰えるどころか、ますます鋭敏に働くのだ。
決断は、早かった。
「──退く」
童貫は一言命じた。
「しかし」
腹心の部将が確かめるように童貫を見た。童貫は蟄居を解かれたばかりである。無理してもここで手柄を立て、汚名を濯ぐべきではないのか。
その意を察し、童貫は言った。
「すべて、関勝の奸計である」
関勝までが裏切った今、首都を守る卞河水軍を外に出しておくわけにはいかぬ──それが、撤退の“大義名分”であった。
「首都防衛こそが急務である。全軍、東京へ帰投せよ」
危険を冒して勝利を求める必要は、今はない。
軍功のみによって栄達を遂げた童貫は、人とは異なる軍事的才覚を備えていた。
彼の本能は、感じ取っていた。
梁山泊はただの賊ではない。そのことを、この日、童貫は初めて明確に意識したのだった。



湖から聞こえる凱歌が、空をどよもしていた。
その声に応えるように、西岸にも凱歌が上がった。梁山泊の猛攻の前に、衛京禁軍は壊滅し、多くが戦死し、または捕虜となり、辛くも逃れた者は後ろを見ることもなく敗走していった。
しかし、官軍中に、ただ一人残った男がいた。“神火将軍”魏定国である。彼は橋のたもとに、関勝軍によって包囲されていた。魏定国の陣の周囲には、複数の罠が仕掛けられている。うかつに近づくことはできない。
魏定国は関勝の旗を睨んだ。関勝が梁山泊軍に投じたというのは本当だったのだ。魏定国は叫んだ。
「関勝、出てこい!!」
梁山泊軍の中から関勝と宣贊と赫思文、そして単廷珪が進み出た。



魏定国は、関勝が梁山泊に降ったと知った時以上の衝撃を受けた。
(単廷珪までが)
魏定国と単廷珪は、火と水を操り、凌州の二奇将と並び称された。
気質の違いから決して意気投合していた仲ではないが、敵中にいる姿を目の当たりにすると、やはり裏切られた思いが強かった。
啄鹿原から戻ってから、常に炎のようであった心が、まるで水のように平らかであった。
関勝の命によって出陣し、戻れば、その関勝が謀叛人だという。その時、魏定国はまだ関勝を信じていた。少なくとも賊と通じたなど信じてはいなかった。しかし、仕方なく畢勝の指揮下に入れば、今度は関勝が梁山泊軍として現れた。今、彼は畢勝に捨て石にされ、関勝らに包囲されている。
何の命に従い、何のために戦うのか。そんな問いさえ、意味はなかった。
(俺の運命は炎に問え)
「関勝!!」
魏定国は立ち上がり、怒鳴った。
「話がある!! お前がここまで一人で来い!!」
その声を聞いた関勝は、馬を下りて進み出た。林冲が止めた。
「あなた方の間には、なんら恩愛はないのでしょう。行かれぬほうがよい」
“神火将軍”魏定国は、その性、炎のごとし──関勝を相討ちにして果てる覚悟ということも考えられた。しかし、関勝は大刀も持たず、ゆっくりと魏定国の陣へ向かった。魏定国が関勝に呼びかけた。
「気をつけろ、関将軍。地雷があるぞ」
陣の周囲の地面には夥しい地雷が埋められている。その中を、関勝は足元を見ることもなく進んでくる。
魏定国は思わず叫んだ。
「もういい、止まれ」
関勝は止まることなく歩き続けた。
「奴は──神か」
関勝が陣の柵にたどり着くまで、地雷は、ひとつとして爆発しなかった。
関勝と魏定国は、柵を挟み、朝日の中に対峙した。



魏定国は無言で関勝の前に膝を折った。




 これ以降、神火と聖水の二将軍は梁山泊の要害、南冥、北冥の守護将となる。すなわち単廷珪は北冥を守る水神・河伯。魏定国は南冥を守る火神・祝融──梁山泊の守りを磐石たらしめる、北の黒龍、南の朱雀である。



長い夜が明け、静かな朝が訪れたのだ。
湖の彼方に梁山が見えた。林冲は全軍に帰還を命じた。その横へ楊志が馬を寄せた。
「あの男はどうする」
楊志は地面にぽっかりと口をあけている陥穽を指さした。
「放っておくわけにもいくまい」

(……いい天気だ)
索超は落とし穴で空を見上げた。気持ちのよい青空に、楊志の顔が覗いた。
「観念しろ。お前も今更、軍には戻れまい」
索超はむっつりと押し黙り、楊志を睨みつけた。続けて林冲の姿が見えた。林冲は何も言わなかった。
二人の顔を見ていると、索超はなぜか無性に可笑しくなった。
腹の底から笑いがこみ上げ、索超は声をあげて笑った。笑うと、体じゅうの火傷や、打撲や、わけのわからない傷が痛んだ。
「おかしな奴だ」
楊志がつられて笑った。
索超は穴の底に大の字に寝ころがったまま、空に向かって笑い続けた。

 戦いは終わった。
呉用は湖を見渡す聚義庁の階段に立っていた。
夜とともに晁蓋の喪もあけ、梁山泊のあちこちに立てられていた喪章の白幡が下ろされていく。船が人々を乗せ、金沙灘や鴨嘴灘に戻ってくるのが小さく見えた。
「長い一日だった……」
呉用は呟いた。そして、ようやく、風に春の気配が含まれていることに気がついた。






空はよく晴れていた。
梁山の峯から下りてくる風は爽やかだ。湖には、山の緑が映えていた。



静かな空に、忽然と銅鑼の音が響きわたった。
水寨から、山塞から、山腹のあちこちにある建物から人々が飛び出してきた。先を争うように、続々と聚義庁に登って行く。
四月吉日。
この日、宋江の病が“神医”安道全の治療によって本復したことを祝い、聚義庁で祝宴が行われることになったのである。
聚義庁に集まった人々の顔は、晴れやだった。宋江を中心に、呉用や盧俊義らが上座に座り、珍しく公孫勝も峯にある洞窟から下りて来ていた。
祝杯は尽きることなく応酬され、誰もが心地よく酔った。
盧俊義がふと思い出したように切り出したのは、座が微醺を帯びはじめた頃だった。



「次の首領を決めねばなりませんな」
燕青は、はっとして盧俊義を見た。
史文恭を殺したのが盧俊義であることは、公孫勝が見ているし、兵士にも目撃した者がいた。晁蓋は、自分の仇を討ったものを次の首領に──と言い残している。
聚義庁は水を打ったように静まり返った。誰も何も言わない。張り詰めた空気の中、立ち上がろうとする李逵を、戴宗が素早く抑えた。
盧俊義は、そんな空気にはまるで気づかぬ様子で言葉を続けた。
「呉用先生、わしは、晁蓋殿のことをよく知っている」
呉用が驚いた顔で盧俊義を見た。
「会ったことはないが、知っているのだ。晁蓋殿は、自分の仇討ちなどを望まれる人ではなかった──そうではないか」
盧俊義の顔は穏やかで、夜明けの啄鹿原に赤裸で現れた時の、不思議な威厳に満ちていた。
呉用が立ち上がり、宋江を振り返った。
「宋江殿──もう、宜しいでしょう」
呉用は聚義庁の外を示した。扉は大きく開け放たれている。全員が一斉に外を見た。
「晁蓋殿の遺言は──これです」
開け放たれた扉のむこうに、初夏の青空が広がっている。
その空に、新しい旗が掲げられていた。夏の風に翻る、杏黄の大旗──そこに縫い取られた雄渾な文字。皆がその四つの文字を見た。



『替天行道』
晁蓋が遺した旗そのままに、新たに作られた旗であった。
“迷った時は、これを開けよ”
晁蓋が呉用に託した守袋──そこに収められた手紙は、遺言などではなかった。紙片には、ただ『替天行道』の四文字が記されていたのである。
なによりも重く、確かな言葉であった。
劉唐らが持ちかえった晁蓋直筆の旗は、頂の九天玄女廟に収められた。これからは、この旗が梁山泊の行方を見守り、導いていくのだ。
「さぁ、宋江殿」
呉用は宋江を椅子から立たせた。
宋江も旗を見上げた。
「晁蓋殿──」
宋江は半年以上の間、藍蛇の毒で深い眠りに落ちていた。その混沌とした夢の中で、晁蓋に出会った。
きらきらと輝きながら流れていく風の中に、晁蓋は以前と変わらぬ姿で立っていた。以前よりも強く、輝かしく見えた。
晁蓋は宋江の背後を指さした。



振り向くと、梁山に流星が落ちていくのが見えた。
晁蓋は去っていく。
どこへ──と、宋江は尋ねた。
晁蓋は振り返り、笑った。もう晁蓋は語らなかった。
宋江は、呟いた。
「帰るのです──我々は、常に同じ所に還るのですよ」
そして、宋江は長い夢から目覚めたのである。
「宋江殿」
呉用に呼ばれ、宋江は我に返った。
「宋江殿、こちらへ」
呉用は宋江の手を取り、中央に据えられた椅子へと導いた。
ずっと空席だった晁蓋の椅子である。
皆は、そこに座る晁蓋の姿を見た。
彼らを見回し、快活に笑う晁蓋の顔を見た。
(我々は、常に同じ所に還るのです)
宋江は、笑った。そして、ゆっくりとその椅子に座った。






宋江が新しい首領に定まると、李逵が皆で義兄弟の契りを結ぼうと言いだした。反対する者はなかった。
祭壇には晁蓋の位牌が安置され、その前に置かれた鼎に酒を満たした。全員が指を切って一滴ずつ血を垂らし、それを一人一人の杯に注ぎ分けた。男たちが祭壇の前に跪く。一番後ろの列には、段景住、時遷、白勝、郁保四らが並んでいた。時遷は、隣の段景住が青ざめているのに気がついた。
「どうしたんや“金毛犬”」
「わたし、いけない。真主、酒を飲むこと、禁じている」
回回には数多くの戒めがある。偶像の崇拝、飲酒、姦淫──段景住は生まれた時から、それを厳しく守ってきたのである。時遷は肩をすくめた。
「面倒くさい神様やな」
「私──飲む」
(真主よ、お許しください)
段景住は目を閉じ、杯を呷った。しかし、杯の中はからだった。隣で時遷が口を拭った。
「こんなんは、形やからな」
時遷は晁蓋の位牌を見上げた。
「酒なんぞ飲まんでも、晁蓋兄貴かて、わいら全員の長兄や」
注ぎ終わっても、大杯の酒は一杯分だけ余っていた。呉用が人々の数を数えた。
「百七人」
「いいえ──百八人です」
答えたのは、“没羽箭”張清だった。
梁山泊の捕虜となった張清は、戻る所もなく、また東昌府太守が自害したと知って、梁山泊の一員となったのである。共旺、丁得孫はもともと山賊であり、崇拝する張清に従うことに異存は無かった。
張清は扉へ向かうと、今しも階段を登ってきた異国の男を招き入れた。
「なんだ、犬医者ではないか」
安道全が驚いて言った。
「お前、奢羅(しゃむ)の王様はどうした」
「当然、治してやった。しかし、王の病が治った途端、わしをぞんざいに扱いおった。言葉も通じんし、やはり、天使が恋しくなってな」
皇甫端の隣には、美しい異国の女が連れ添っていた。



「“天使(フレシュタ)”だ、どうだ美しいだろう」
二十年前、皇甫端は波斯王の後宮に仕え、美姫の飼う純白の孔雀を治療した。“天使”の名で呼ばれる美姫は、波斯王が最も寵愛する西方国の女であった。皇甫端は、この美女に心を奪われ、盗んで逃げた。女とともに東の果て宋国に隠れ、さらに奢羅まで逃げたのだが、奢羅に嫌気がさした皇甫端は、蘇州に戻って尼寺に隠していた美姫を連れ出し、山東へやって来たのである。
「以前に、そこにいる張将軍の“二匹の虎”を治療してやったことがあってな」
皇甫端は共旺と丁得孫を顎で示した。
「とりあえず匿ってもらおうと、東昌府へ行ったのだ」
そこで、張清が梁山泊の“賊”となったと聞いたのだった。皇甫端は聚義庁に居並ぶ面々を、渋い顔で見回した。女がそっと皇甫端の耳に囁いた。皇甫端は頷いた。
「“天使”に導かれて、ここまで来たのだ。仕方あるまい」
皇甫端は最後の一杯の酒を飲みほした。
「そうだ、わしと一緒に舟に乗って来た男がいたぞ。何玄通とかいう、高徳の道士だと言っておった」
呉用は晁蓋の法要を営むため、高徳の道士を求めるよう小者たちに命じていた。それが見つかったのだろう。道士を探しに行かせようとすると、梁山の頂から一団の小者たちが下りてきて、聚義庁の前で騒ぎ始めた。
彼らは晁蓋の廟を建てるため、煉瓦を焼こうと裏山の土を掘っていた。その穴から一枚の大きな石版が掘り出されたというのである。
「土が焦げたようだったから、おかしいと思ってどんどん掘った」
「あれは、この前、流れ星が落ちた場所に違いねぇ」
呉用は石版を聚義庁の中に運び込ませた。
滑らかに磨き上げられた、方形の石である。
表面には、びっしりと不思議な文字で百余行の文字が書いてあった。その文字を見た呉用と公孫勝は顔を見合わせた。
「これは、竜章鳳篆蝌蚪文字」
石版の上と下には、横に四つずつの文字が書かれている。公孫勝は石版の文字に指を添え、上の四文字を読み解いた。
「“替天行道”」
自分が発した言葉に驚愕し、公孫勝は言葉を切った。
「上の文字は『替天行道』、下の文字は──『忠義双全』」
呉用は百余行の解読を促した。と、扉の外から耳元に響くような声が聞こえた。
「一清よ、お前にはまだ全部は読めまい」
道士が内功を使って発する、距離を隔てて近くに響く声である。皇甫端が声の主を指さした。
「おお、あの道士だ」



いつ現れたのか、入り口に中年の道士が立っていた。李逵が声を上げた。
「なんだ、蚯蚓道士じゃないか」
それは、すっかり清潔になった一濁道人──真の道号“一澄”道人であった。
かつて李逵と戴宗が公孫勝を探すため、薊州へ行った時のことだ。うどん屋で李逵のうどんを蚯蚓に変えてみせ、まんまとうどんをせしめた道士がいた。それが一濁道人、公孫勝の兄弟子である。
何玄通とは、その俗名であった。
一濁道人は飄然と人々の間を抜け、公孫勝の前に立った。
「羅師父の命で、お前に会いにわざわざ来たのだ。後でたっぷり酒を飲ませてもらうぞ」
呉用は一濁道人に尋ねた。
「あなたは、これを読むことができるのですか」
「──どうやら、わしがここに来たのは、この石碑を読むためだったようだな。羅師父には、すべてお見通しだったというわけだ」
一濁道人が石版の前に立つと、聚義庁は静まり返った。一濁道人の声が静かに流れた。
「“天魁星 呼保義 宋江”」
聚義庁がざわめいた。道士は続ける。
「“天晃星 玉麒麟 盧俊義”──“天機星 智多星 呉用”──“天間星 入雲龍 公孫勝”──」
皆は驚いて顔を見合わせた。
「俺たちの名だ!!」
宋江は石版に記された名を、“聖手書生”蕭譲に書き写すように命じた。そして、一濁道人に向かい直った。
「どうぞ、道長。お続けください。何が書いてあろうと、お隠しなく、ありのままを」
一濁道人は石版に向かい、もう一度、初めから読み上げた。
その声は歌うように朗々と聚義庁に響き渡った。聚義庁から梁山の峯へ、湖へ、そして集まった人々の心へと、静かに広がり、皆の心を揺るがした。
誰もが、その声に耳を傾けた。
静寂の中で、彼らは見た。
暗黒の空、闇を染めて飛び散る光。黄金の雲、流れる水のような雲をかいま見た。燃え上がる灼熱の神と晁蓋──蒼天に白き衣をたなびかせる美貌の女神。
『女神よ──加護を』
胎児のまどろみのなかで、はっきりと何者かの祈りを聞いた。
彼らの脳裏を、一瞬の夢が駆け抜けた。長く、そして刹那の夢──皆が同じ風景を見、同じ声を聞いていた。宿命の風景、魂の声、それは一瞬の幻影となって消えた。
石版を読み上げる声が続く。
聚義庁にいる全員が、次に読み上げられる名を知っていた。
もう不思議とも思わなかった。
彼らはみな、どこか遠い所から、果てし無く長い道程を経て、今、ここに集まった。
誰もが、ここに辿りつくまでの、あるいは辛く、あるいは哀しく、あるいは楽しかったことを思った。
友と出会い、愛する者を失い、戦い、追われ──ここに集った。
それは、宿命であり、それよりも、やはり奇跡であった。
宋江は微笑み、兄弟たちを見回した。
「われわれは──ようやく、ここに集まったのだ」
石版に刻まれた宿命の星の名は、壱百零八。
この日、梁山泊に集まった人々もまた、壱百と八人であった。


















































































































































































































































































































燕青は独り聚義庁を抜け出し、静かな前庭に立った。
降り注ぐ、光がまぶしい。
透き通るように明るく晴れ上がった空が、湖の上にどこまでも広がっている。
「──“天巧星 浪子 燕青”」
たった今聞いた名前を、燕青はちいさく呟いた。
不思議だった。思えば呉用が北京にやって来たあの日から、不思議なことばかりだった。
“天巧星 浪子 燕青”
自分のことのようでも、他人のことのようでもある。
(どちらでもいい)
もう燕青は恐れなかった。
『人はみな、この空の下のどこかで生まれ、大地の上のどこかで死んでいく』
呉用に言われた言葉が、胸に響いた。
「人はみな、この空の下のどこかで生まれ、大地の上のどこかで死んでいくんだ」
たった一人で──。



董平は聚義庁を出、自分に与えられた宿舎に向かった。
彼には、天も宿命も関心のないことだった。
家に戻ると、扉の向こうから麗芝の楽しげな声が聞こえた。
「朱児や、いらしたのではなくて」
董平は、静かに声をかけた。
「──麗芝」
「董平さま」
振り返り、麗芝は微笑んだ。佳人は以前となに一つ変わらず、美しかった。
「いま、朱児と話していましたの。お父様とお義母様は、いつおいでになりますの」
「もうすぐだ」
「嬉しい。弟たちのために、お菓子を用意しておきましょう」
「そうだな」
麗芝は微笑み、窓辺に立った。小鳥が枝で鳴いていた。
「──董平さま、歌を唱ってさしあげましょう」
虚ろな瞳を空に向け、麗芝は淡くつぶやいた。
一曲、新しき詞(うた) 酒(ささ)一杯
去年の天気(ふうけい) 旧き池台(あずまや)
夕陽は西に下ち 幾つの時か回(かえ)る
なすすべなく 花は散り
燕は顔見知りのごとく 帰り来たりて
われひとり 花の小径をさすらう
やっと訪れた遅い春は瞬く間に過ぎ、夏は、無情なほど明るく、花々は庭に狂ったように咲き乱れている。



麗芝の髪に飾られた紅梅の釵。血のように鮮やかな赤は、董平の罪の色であった。
董平は、済水のほとりで宣贊に言われた言葉を思った。
『愛情に奢ってはならぬ──健闘を、祈る』
麗芝は静かに唱い続ける。
燕は顔見知りのごとく 帰り来たりて
われひとり──花の小径をさすらう



盧俊義は聚義庁の入り口に立ち、たなびく替天行道の旗を見ていた。
空、水、緑、旗の色が、目にしみるほど鮮やかだった。
彼の心は、北京で捕らえられた時から、ずっと薄い膜で覆われていたようであった。すべてが模糊として、実感がなく、他人事のようであった。
今、盧俊義は、ようやく自分に戻ったようにも、別の人間に生まれ変わったようにも感じる。北京での暮らしも、妻も、牢獄も、啄鹿原で史文恭を斬ったことさえ、みな遠い夢のようだ。
盧俊義は、すべてが始まったあの日、呉用が北京の屋敷の白壁に書いた詩を思い出した。
あれは、やはりわしを“救う”詩だったのか。
(しかし、“救う”とはなんだ)
蘆花叢の裏、一扁の舟──それは、彼を何処へ連れていくのか。
(救おうとして、滅ぼすさだめ──)
天の言葉が、重く胸に響いた。
「燕青」
盧俊義は燕青がいるのに気づき、名を呼んで、聚義庁の階段を下りていった。
燕青はどことなくよそよそしい顔をしている。そんな燕青が、懐かしかった。
「お前は、なつかない子供だった」
盧俊義は燕青の隣に立って、湖の上に広がる夏の空を見上げた。
「牢の中で、思い出したことがある。お前を拾ったのは、夏の朝──空が、ひどく青かった」
燕青は頷いた。
「そして、その日、燕が門の巣に戻って来たのでしょう」
「では、兄がいたことも覚えているのか」
「兄?」
「私が門前で見つけた時、お前は十歳ほどの兄と一緒だった。その時、初老の軍人が通りがかり、自分には跡継ぎがいないので、どちらか一人が欲しいと言う。わしは、お前がまだ幼いので、兄を連れて行かせたのだ」
「兄はどこへ行ったのです。名は?」
「兄は自分を大甲、お前を小乙と呼んでいた」
燕青は、なぜか許貫忠のことを思い出した。
「すまぬ、燕青」
「いいえ、燕青は嬉しいのです」
燕青は笑った。
「私には、兄がいた。ならば、父も母もいたのでしょう。家もどこかにあったのです。私は、天から落ちて来たのでも、地から涌き出たのでもない」
燕青は空を見上げた。



空も風も違って見えた。
「梁山泊に来て良かった」
燕青と盧俊義は、同じ夏の空を見上げた。
「あなたに会えて──良かった」
翼を休めることもできぬ大海を流浪っていた一羽の燕は、ようやく小さな枝にふわりと舞い降りた。
梁山泊に百八人が集まった日──それは、“浪子”燕青にとって彷徨える宿命の終わりの日であり、同時に、新たなる流浪の旅の始まりの日となったのであった。

 替天行道旗を遙かに見下ろす高い峯に、公孫勝が一濁道人とともに立っていた。
「一清よ、星は集まるさだめだ」
常にない真摯な顔で、一濁道人は告げた。公孫勝は、抗うように師兄を睨んだ。
「その後は?」
「それは」
一濁道人は言葉を切った。
「それは──天に問え」
二人の間を、風が吹き抜けていった。公孫勝の白髪が、揺れた。
「師父の伝言だ。“宿命”は変えられぬ。変えられるのならば、宿命ではない。お前は“天間星”、隔たるさだめ──ただ離れていく宿命だ。その時が来たら、戻れ」
「それでも、儂は──」
公孫勝の言葉は途切れた。
「儂は──」
一濁は、悼むような一瞥を投げ、公孫勝に背を向けた。
ひとり残され、公孫勝は自問した。遙か下界、聚義庁から出てくる呉用の姿がぽつりと見えた。
「宿命とはなんだ。我々は、なんのために集まったのだ」
答える者は、誰もなかった。
「天よ。我々は──何処へ行くのだ」

 燕青は、人々の気配に振り向いた。皆が連れ立って聚義庁から出てくる。
風が吹いた。
花が舞う。
どこからか、誰かの歌う声が聞こえた。




   万姓熙熙化育中 三登之世楽無窮
万姓、熙熙たり化育の中 三登の世、楽しみ窮まること無し



豈知礼楽笙庸治 変作兵戈剣戟叢
豈に知らんや礼楽笙庸の治 変じて作す兵戈剣戟の叢



水滸塞中屯節侠 梁山泊内聚英雄
水滸塞中、節侠屯し 梁山泊内、英雄聚う



細推治乱興亡数 尽属陰陽造化中
細かに治乱興亡の数を推れば 尽く陰陽造化の中に属す




 まるで遠い日の記憶──幼い日に見た、午睡の夢のような風景だ。
ずっとずっと昔にも、やはり、此処にいたような気がする。
湖が眩しいほど輝いている。
こんな明るい世界を見たことがない。
こんな、青い空を見たことがなかった。
燕青は顔を上げ、空と湖に向かって踏み出した。
新たな一歩。
乾いた土を、自分の足でしっかりと踏みしめた。






風が薫る。
溢れる光。
空と水が接する彼方──未来という名の、運命へ。
燕青はゆっくりと踏み出していった。



※文中の『彭己』は、正しくはです。
※文中の『剔雪烏騅』は、正しくはです。
※文中の『啄鹿原』は、正しくはです。
※文中の『運城県』は、正しくはこうきゅうです。
※文中の『火眼俊猊』は、正しくはです。
※文中の『登飛』は、正しくはです。
※文中の『豊美』は、正しくはです。
※文中の『赫思文』は、正しくはです。
※文中の『共旺』は、正しくは 共旺 です。
※文中の『下河』は、正しくはです。
※文中の『小遮闌』は、正しくは 小遮闌 です。
※文中の『没遮闌』は、正しくは 没遮闌 です。
※文中の『金燦斧』は、正しくはです。
※文中の『天晃星』は、正しくはてんこうせいです。
※文中の『跳間虎』は、正しくは ちょうかんこ です。
※文中の『奢羅』は、正しくはです。
※文中の『楽笙庸治』は、正しくは楽笙庸治です。





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